長戸 寛美(ながと ひろみ、1910年〈明治43年〉10月2… 長戸 寛美(ながと ひろみ、1910年〈明治43年〉10月24日 - 2002年〈平成14年〉4月2日)は日本の法曹。元最高検察庁次長検事。のち弁護士。東京都出身。 父は寺の住職。漢学者の母方の家を継いだ。祖父が検事であった。1923年(大正12年)、静岡市立城内尋常高等小学校卒業。静岡県立静岡中学校入学。静岡中学時代の親しい友人に三宅静雄。1927年(昭和2年)、中学4年1学期を終了し、広島の中学に転校した。旧制広島高等学校を経て、東京帝国大学法学部卒業。1935年(昭和10年)12月、検事任官。 東京地方検察庁検事、法務省刑事・総務課長などを経て、甲府地方検察庁・長野地方検察庁検事正、法務総合研究所長となり、高松高等検察庁・広島高等検察庁検事長を歴任、最高検察庁次長検事を最後に1973年(昭和48年)10月定年退官した。
小沢 三千雄(おざわ みちお、1910年10月23日 - 2… 小沢 三千雄(おざわ みちお、1910年10月23日 - 2006年2月6日)は、日本の元松川事件特別弁護人、元松川事件対策協議会事務局長。 秋田県平鹿郡雄物川町(現・横手市)の医師の次男。妻、尊子との間に二男一女を儲ける。長男は元千葉県松戸市議会議員の小沢暁民。 横手中学時代に文学サークル「幌馬車」を通じて社会主義に目ざめ、戦前は小作争議の指導者として知られた。 第二次世界大戦前から農民運動や社会運動などに関わり、戦後は秋田県の日本共産党幹部として労働運動に関わった。1949年(昭和24年)8月に福島県の東北本線松川駅付近で発生した列車転覆事故、いわゆる松川事件では、国鉄労働組合や東芝労組組合員の日本共産党員20名が逮捕。
常田 健(つねだ けん、1910年10月21日 - 2000… 常田 健(つねだ けん、1910年10月21日 - 2000年4月26日)は、日本の画家。 青森県生まれ。1928年、川端画学校入学。1930年からプロレタリア美術家同盟研究所で学ぶ。1933年、青森県に帰郷。農民運動の関係者として検挙、拘留される。1936年、第26回二科展に≪ひるね≫≪飲む男≫を出品し、前者は入選。1944年、出征。1950年、青森県美術会の創立に参加。1955年、日本美術会会員。1991年、第12回青森県文芸協会賞受賞。1997年、第39回青森県文化賞受賞。 青森市浪岡北中野には「常田健 土蔵のアトリエ美術館」がある。しかし、新型コロナウイルス禍の影響を受け、2022年5月23日から休館となる(再開時期未定)。
山木戸 克己(やまきど こっき / こくき、1910年(明治… 山木戸 克己(やまきど こっき / こくき、1910年(明治43年)10月21日 - 2003年(平成15年)4月16日)は、日本の法学者。専門は、民事訴訟法・民事執行法・民事保全法・破産法・人事訴訟法・家事審判法・非訟事件手続法。学位は、法学博士(京都大学・論文博士・1962年)。神戸大学名誉教授。日本民事訴訟法学会名誉会員。日本学術会議会員、日本民事訴訟法学会理事長を歴任。 専門は、民事訴訟法・民事執行法・民事保全法・破産法・人事訴訟法・家事審判法・非訟事件手続法等。神戸大学名誉教授。元日本民事訴訟法学会理事長。元日本民事訴訟法学会名誉会員。元日本学術会議会員(第八期・第九期)。 訴訟法の領域だけではなく実体法にも造詣の深い訴訟法学者であり、訴訟法と実体法の架橋を常に念頭に置いた上で独自の訴訟法体系の樹立を試みていた。
羽生田 進(はにゅうだ/はにうだ すすむ、1910年〈明治4… 羽生田 進(はにゅうだ/はにうだ すすむ、1910年〈明治43年〉10月19日 - 1999年〈平成11年〉7月27日)は日本の政治家(衆議院議員、科学技術庁政務次官)、眼科医(医学博士、羽生田眼科医院院長、群馬県医師会名誉会長、日本眼科医会会長)。勲二等瑞宝章、藍綬褒章受章。陸軍軍医少尉。元参議院議員・羽生田俊の父。 羽生田家の先祖は長野県上高井郡豊丘村(現・須坂市大字豊丘)の旧家で、祖父・仁作が分家して群馬県勢多郡富士見村箕輪(現・前橋市富士見町赤城山)で牧場を経営した。進の父・俊次は長野県北安曇郡美麻村(現・大町市)の農家・田中常太郎・みす夫婦の次男として生まれ、医術開業試験に合格して眼科医となった。
浜田 駿吉(はまだ しゅんきち、1910年(明治43年)10… 浜田 駿吉(はまだ しゅんきち、1910年(明治43年)10月19日 - 2009年(平成21年)12月7日)は、兵庫県神戸市生まれのフィールドホッケー選手、実業家。出身は同県の西淡町(現南あわじ市)。オーエム製作所の会長や大和紡績(現在のダイワボウホールディングス)の常務などを務めた。1933年慶應義塾大学経済学部卒業。。 中学校3年時より慶應義塾普通部へと転入、その後ホッケーを始め慶應義塾大学在籍時には日本代表へと選出された。1932年にはロサンゼルスオリンピックに代表選出されゴールキーパーとして出場、出場した3チーム中2位で銀メダルを獲得した。社会人となった1936年ベルリンオリンピックにも出場したが、予選リーグで敗退している。
甲斐 弦(かい ゆずる、1910年 <明治43年> 10月1… 甲斐 弦(かい ゆずる、1910年 <明治43年> 10月18日 - 2000年 <平成12年> 8月21日)は、英文学者、作家、熊本学園大学名誉教授。位階は従五位。 東京帝国大学文学部卒。占領期にGHQで、検閲官を務める。熊本短期大学助教授、熊本商科大学(1994年に熊本学園大学に改称)教授、1981年定年退任。1983年勲四等瑞宝章受章。2000年8月21日、心不全のため死去。死没日付をもって従五位に叙された。 森川譲の筆名でも小説作品がある。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
杉山 吉良(すぎやま きら、本名すぎやま よしろう(漢字同じ… 杉山 吉良(すぎやま きら、本名すぎやま よしろう(漢字同じ)、1910年10月17日-1988年12月12日)は、日本の写真家。報道写真およびヌード写真に長ける。 1923年、早稲田中学在学中に関東大震災にあい、その後中学を中退。 映画のカメラマンとして出発し、1934年に写真家に転身。 1934年に創刊された雑誌『NIPPON (グラフ誌)』にも作品が掲載された(日本工房に所属していたわけではない)。 1938年7月に、土門拳、藤本四八、濱谷浩、田村茂、林忠彦、光墨弘、加藤恭平 (写真家)、梅本忠男らとともに青年報道写真研究会を設立し、活躍した。例えば、1939年4月30日から10月31日まで開催されたニューヨーク万国博覧会(前期)の国際館カヴァードスペース日本部に展示された写真壁画4つのうちの1つ「躍進日本」には、同会の土門拳、若松不二夫、山川益男、溝口宗博とともに杉山吉良の写真作品も使用された。
木野 二郎(きの じろう、1910年10月17日 - 197… 木野 二郎(きの じろう、1910年10月17日 - 1976年12月19日)は、日本の経営者、工学博士。藤倉電線(現在のフジクラ)社長を務めた。 福島県会津若松市出身。1933年に東京帝国大学工学部電気工学科を卒業し、同年に藤倉電線に入社。 1957年11月に取締役に就任し、1962年に常務、1965年11月に副社長を経て、1973年11月に社長に就任。 1976年12月19日、くも膜下出血のために死去。66歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
作江 伊之助(さくえ いのすけ、1910年〈明治43年〉10… 作江 伊之助(さくえ いのすけ、1910年〈明治43年〉10月17日 - 1932年〈昭和7年〉2月22日)は、大日本帝国陸軍の軍人で爆弾三勇士の一人。最終階級は工兵伍長。勲八等功六級。長崎県北松浦郡平戸村大字平戸田助浦183番地(現・平戸市田助町)出身。 家族は父・音次郎と、兄が大工をしながら生計をたてていた。運送業に従事していたが、間もなく徴兵され、久留米独立工兵第十八大隊に配属される。1932年(昭和7年)1月18日、第1次上海事変が勃発。2月2日、独立工兵第十八大隊は上海派遣混成第二十四旅団(下元熊弥少将)の工兵部隊に抽出され、5日、佐世保港を出発。7日上海に上陸、ただちに第九師団植田謙吉中将の隷下となった。
永岡 茂之(ながおか しげゆき、1910年(明治43年)10… 永岡 茂之(ながおか しげゆき、1910年(明治43年)10月16日 - 1992年(平成4年)9月28日)は、日本の政治家。三重県名張市長(4期) 。位階は正五位。 三重県那賀郡国津村(現・名張市)出身。1929年、三重県立名賀農学校(のち三重県立名張高等学校、三重県立上野農業高等学校を経て、現・三重県立伊賀白鳳高等学校)卒。1950年、国津村議会議員となり、2期務め、1954年、合併による名張市発足により、名張市議会議員となる。名張市議を5期務め、議長も務めた。1970年、名張市助役となり、1974年、名張市長に就任した。市長を4期務め、1990年に退任。翌1991年、勲三等瑞宝章を受章。1992年に死去。
倉 信雄(くら のぶお、1910年10月14日 - 1945… 倉 信雄(くら のぶお、1910年10月14日 - 1945年)は、昭和時代前期に活躍したプロ野球選手。
榊原 仟(さかきばら しげる、1910年(明治43年)10月… 榊原 仟(さかきばら しげる、1910年(明治43年)10月13日 - 1979年(昭和54年)9月28日)は、日本の医学者。心臓外科の世界的権威として知られた。 福井県福井市宝永上町に開業医の四男として生まれ、兄に榊原亨がいる。幕臣・榊原職直の後裔である。 旧制福井中学(現福井県立藤島高等学校)を経て、第六高等学校時代の1930年(昭和5年)、帝大生であった次兄・周と上京中の母が和田倉門辺りでタクシー乗車中に交通事故に遭い、母は頸髄損傷が元で、周も間もなく亡くなった。その後東京帝国大学に進み医学部を卒業。都築正男教授の医学部第二外科講座に入局。大学同期に、若月俊一、津川武一、近藤宏二など。 第二次世界大戦中は軍医としてフィリピン戦線に従軍し、1943年(昭和18年)には東京帝大医学部の支援で同仁会が設立した上海同仁大学の教授として赴任するが、日本の降伏後に同大は接収されたため、46年に帰国し東京帝大医学部第二外科講座で医局長を担う。
岸井 明(きしい あきら、1910年10月13日 - 196… 岸井 明(きしい あきら、1910年10月13日 - 1965年7月3日)は日本のコメディアン、俳優、歌手。
大西 正男(おおにし まさお、1910年〈明治43年〉10月… 大西 正男(おおにし まさお、1910年〈明治43年〉10月12日 - 1987年〈昭和62年〉9月18日)は、日本の政治家。郵政大臣(第40代)、衆議院議員(9期)。 高知県高知市升形出身。弁護士、衆議院議員の大西正幹の長男。旧制高知高等学校、東京帝国大学法学部卒業後、検事を経て弁護士となる。1949年の総選挙に高知県全県区から立候補し、初当選。1952年の総選挙では公職追放から解除されたばかりの宇田耕一に地盤を譲り、同年の参院選に高知県地方区から出馬するが、落選。 政界から一旦は退いていたが、1963年の総選挙で宇田の後継だった浜田正信の地盤を引き継ぐ格好で、11年振りに出馬して当選し、国政に返り咲く。
徳光 寿雄(とくみつ としお、旧字体:德光 壽雄、1910年… 徳光 寿雄(とくみつ としお、旧字体:德光 壽雄、1910年〈明治43年〉10月11日 – 2014年〈平成26年〉9月12日)は、日本の映画監督、実業家。 徳光和夫(フリーアナウンサー)、徳光次郎(英国伊勢丹初代社長)兄弟の父。徳光正行(キャスター)・ミッツ・マングローブ(女装家)の祖父。 徳光賢五郎の長男として生まれる。1907年、父は北海道から神戸市に移住。神戸でつねと結婚し、1910年に寿雄が誕生した。ほどなく両親が離婚し、寿雄は父に引き取られた。 賢五郎は再婚し、東京電燈へ転職。1930年、徳光家は東京市西巣鴨で暮らし始めた。寿雄は度重なる引っ越しであまり友達をつくる事もできずよく一人で過ごしていた。
本山 政雄(もとやま まさお、1910年(明治43年)10月… 本山 政雄(もとやま まさお、1910年(明治43年)10月10日 - 2009年(平成21年)5月11日)は、日本の教育学者、政治家。元名古屋市長(3期)。名古屋大学名誉教授。 東京都出身。東京府立第二中学校(現・東京都立立川高等学校)、府立高等学校(東京都立大学 (1949-2011)の前身)卒業。東京帝国大学文学部に入学。読書や勉学ではヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチやジャン=ジャック・ルソーに親しんだが、教育学を学ぼうという意思は特別なかったという。友人のすすめで教育学科を専攻することとなり、教育学者の阿部重孝から直接指導を受けた。1935年に大学を卒業し、大学院に進んだ。 1937年に召集。
奥田 教朝(おくだ のりとも、1910年10月10日 - 1… 奥田 教朝(おくだ のりとも、1910年10月10日 - 1994年8月7日)は、日本の都市計画家。都市計画官僚、土木技師。日本都市計画学会会長(1973年-1974年)等を歴任。 父の奥田武二郎、母の愛子(男爵関義臣の庶子)の長男として東京で生まれる。弟は4人おり、二男教広はのち、奥田秀三郎の養子、教幸(1915年生)は東大医科卒の医師。教久(1919年生)は東大工科卒の技師、他に教望(1921年生)がいる。 父親の武二郎(1883年生)は農商務省の鉱山監督局技師、仙台鉱山監督局鉱業課長を歴任し、のち日鉄鉱業顧問。正四位勲四等。叔父広瀬孝六郎は、広瀬次郎の養子、東京帝大助教授兼厚生技師。祖父奥田教佶は、旧越後村松藩士で西蒲原郡立実科高等女学校初代校長、大分や兵庫、秋田師範学校校長を歴任し、伯父には旧村松藩主・奥田直賀(堀直賀)がいる。
双葉 十三郎(ふたば じゅうざぶろう、1910年10月9日 … 双葉 十三郎(ふたば じゅうざぶろう、1910年10月9日 - 2009年12月12日)は、日本の映画評論家、翻訳家である。本名は小川 一彦(おがわ かずひこ)。ペンネームはトム・ソーヤーに由来する(双葉は「Sauyer」、十三は「Tom」をもじったもの)。 東京府東京市出身。父は化学者の小川若三郎。幼少時から映画に熱中、映画館に入り浸り、映画三昧の日々を送っていた。 東京府立第八中学校(現在の東京都立小山台高等学校)時代から埼玉県立浦和中学校(現在の埼玉県立浦和高等学校)、東京帝国大学(現在の東京大学)に至る学生生活のあいだ書き留めた「映画ノオト」は数十冊に及んだ。 自身は辰野隆に傾倒し、仏文科へ進みたかったのだが、父・若三郎から「仏文に行ったら勘当する」と強硬に申し渡されたため、泣く泣く経済学部に入学した。
天利長三(あまり ちょうぞう、1910年(明治43年)10月… 天利長三(あまり ちょうぞう、1910年(明治43年)10月9日 - 2000年(平成12年)7月10日)は、日本の経済学者。専門は金融論。 滋賀県長浜市出身。1936年東京商科大学卒、1961年「貨幣経済と実物経済」で一橋大学より経済学博士の学位を取得。彦根高等商業学校教授、東京商科大学経済研究所参事、小樽商科大学教授、東京女子大学教授、東京都立大学教授、青山学院大学経済学部教授を務め、1980年定年、名誉教授となり、東海大学教授を務めた。
森 昌也(もり まさや、1910年〈明治43年〉10月8日 … 森 昌也(もり まさや、1910年〈明治43年〉10月8日 - 2013年〈平成25年〉5月7日)は、日本の政治家。島田市名誉市民。 静岡県議会議員(3期)、静岡県島田市長(5期)、島田市議会議員(2期)などを歴任した。 1910年(明治43年)10月8日、静岡県志太郡島田町大津小路で出生。1937年(昭和12年)、東京帝国大学文学部社会学科卒業。国民精神文化研究所研究生指導科修了。 1947年(昭和22年)、島田町議会議員に初当選。在任中、議長を務めた他、近代的な市議会運営の視察のために渡米し、リッチモンド市を訪れた。島田町議会議員・島田市議会議員を2期6年務めた後、1953年(昭和28年)、島田市長に初当選し、5期20年務めた。
安村 和雄(やすむら かずお、1910年 <明治43年> 1… 安村 和雄(やすむら かずお、1910年 <明治43年> 10月7日 - 1995年 <平成7年> 9月15日)は、日本の裁判官。位階は正三位。 神奈川県立横浜第三中学校、東京帝国大学法学部卒業。1935年に司法官試補となり、東京地裁判事、宇都宮地・家裁所長、最高裁首席調査官を経て、1971年10月から東京地裁所長、1973年2月に最高裁事務総長、1974年12月に東京高裁長官に就任。1975年10月に定年退官。 1976年4月に法制審議会監獄法改正部会部会長を務め、代用監獄制度について1979年11月に運用を改善する事で存続するという結論を出した。1979年3月に日本プロ野球選手会初代理事長に就任。
牧野 直隆(まきの なおたか、1910年10月6日 - 20… 牧野 直隆(まきの なおたか、1910年10月6日 - 2006年7月18日)は、鹿児島県出身の野球選手、指導者、日本高等学校野球連盟会長。 慶應義塾商工学校から慶應義塾大学経済学部卒業。慶大野球部では主将・遊撃手として活躍。水原茂と三遊間コンビを組んだ。水原リンゴ事件の際には主将として混乱の収拾にあたり、早慶戦、大学野球の灯りを死守した。 1934年に鐘淵紡績に入社した後もアマチュア野球選手としてプレーを続け、同年の第8回全日本都市対抗野球大会では三原脩と共に全大阪チームのメンバーとして出場して優勝したほか、アメリカ・大リーグ選抜が2度目の来日をした際には全日本チームのメンバーに選ばれた経験も持つ。
土屋 清(つちや きよし、1910年10月5日 - 1987… 土屋 清(つちや きよし、1910年10月5日 - 1987年3月22日)は、日本のジャーナリスト、経済評論家。
平木 信二(ひらき しんじ、1910年10月5日 - 197… 平木 信二(ひらき しんじ、1910年10月5日 - 1971年12月30日)は、日本の実業家。元リッカーミシン社長。 現在の京都府長岡京市出身。 高等小学校卒業後、故郷を離れて日本紡績(後のユニチカ)に就職し、関西大学商学部夜間部を卒業。 1929年、8ヶ月間で祖父母、母を続けざまに喪った。あまりに短期間過ぎて平木家は墓地に埋葬する場所が無くて困ったと伝わる。 1934年に京都帝国大学経済学部を卒業後、計理士事務所を開設した。当時日中戦争の軍需景気でインフレが発生し、税法も新しくなったため税金の取り立てが厳しく、計理士の需要は非常に高かった。おかげで29歳の頃に平木はすでに結婚していたが、一家が一生生活に困らないほどの財産を築き上げた。
鈴木 義雄(すずき よしお、1910年(明治43年)10月3… 鈴木 義雄(すずき よしお、1910年(明治43年)10月3日 - 1999年(平成11年)7月23日)は、日本の実業家、通産省官僚。通産省重工業局長、日揮社長・会長、日本輸出入銀行理事などを歴任した。
小川 環樹(おがわ たまき、1910年(明治43年)10月3… 小川 環樹(おがわ たまき、1910年(明治43年)10月3日 - 1993年(平成5年)8月31日)は、日本の中国文学者。京都大学名誉教授。字は「士解」。主著に「唐詩概説」「蘇軾」など初学者向けの啓蒙書や訳書も多数著している。角川書店『新字源』編者の一人。 1910年、京都府京都市で地質学者・小川琢治の子として生まれた。 第三高等学校で学び、1928年に卒業。京都帝国大学文学部に入学し、1932年年に卒業。その後は同大学大学院に進学した。1934年から1936年にかけて中国に留学。魯迅と周作人兄弟、章太炎、劉半農、郁達夫、銭鍾書ら同時代の文学者らと面識を得た。1938年に大学院を退学した。 1938年、東北帝国大学文学部講師に就いた。
鈴木 義雄(すずき よしお、1910年(明治43年)10月3… 鈴木 義雄(すずき よしお、1910年(明治43年)10月3日 - 1999年(平成11年)7月23日)は、日本の実業家、通産省官僚。通産省重工業局長、日揮社長・会長、日本輸出入銀行理事などを歴任した。位階は正四位。 神奈川県三浦郡葉山町生まれ。昭和8年(1933年)に東京帝国大学法学部を卒業し、同年商工省に入省。大阪通産局総務部長や横浜通商事務所所長、在英国日本国大使館商務参事官、札幌鉱山監督局局長を経て、昭和29年(1954年)通商産業省重工業局長に就任した。通産省を退官後は、昭和32年(1957年)に日本輸出入銀行理事、昭和41年(1966年)に日本揮発油(現・日揮)社長に就任。昭和55年(1980年)からは日揮会長を務めた。
立石 芳枝(たていし よしえ 1910年(明治43年)10月… 立石 芳枝(たていし よしえ 1910年(明治43年)10月3日 – 1983年(昭和58年)12月21日)は、日本の法学者。専門は、親族法・相続法。女性として日本で最初に法学博士の学位を取得した。学位論文は、「イギリスの無遺言者遺産の管理」。 1910年 東京都にて出生。父は京都地方裁判所所長。 1932年 明治大学専門部女子部法科を卒業し、明治大学法学部(旧制)に進学、1935年に卒業。 1935年 女性ではじめて 東京帝国大学大学院(法学)に進学する。 1944年 明大女子部教授となり、民法を担当。後に明治大学短期大学長に就任。 1962年 「イギリスの無遺言者遺産の管理」で 女性初の法学博士 となる。
塚原 俊郎(つかはら としお、1910年10月2日 - 19… 塚原 俊郎(つかはら としお、1910年10月2日 - 1975年12月7日)は、日本の政治家。総理府総務長官・労働大臣。正三位勲一等。通商産業大臣を務めた塚原俊平は長男。 現在の茨城県常陸太田市に、下妻中学校(現在の茨城県立下妻第一高等学校)や太田中学校(現在の茨城県立太田第一高等学校)などの校長を歴任し、茨城教育界で名校長として知られた教育者・塚原末吉の二男として生まれる。水戸中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)、水戸高等学校を経て、1935年東京帝国大学文学部社会学科を卒業後、同盟通信社に入社し10年間の記者生活を送る。 戦後は官界に転じ、情報局情報官、内務省地方局世論調査課長を務めた後、1947年増田甲子七運輸大臣秘書官となる。
小倉 武一(おぐら たけかず、1910年〈明治43年〉10月… 小倉 武一(おぐら たけかず、1910年〈明治43年〉10月2日 - 2002年〈平成14年〉2月14日)は、日本の農林官僚、経済学者。 農林事務次官、政府税制調査会会長などを歴任した。特に、政府税制調査会会長は16年間を務め,「ミスター税調」と呼ばれた。旧姓は大井。著作に『土地立法の史的考察』など。 長男は元国際交流基金理事長で外交官の小倉和夫。三男は社会学者で津田塾大学名誉教授の小倉充夫。
竹内 好(たけうち よしみ、1910年(明治43年)10月2… 竹内 好(たけうち よしみ、1910年(明治43年)10月2日 - 1977年(昭和52年)3月3日)は、日本の中国文学者。文芸評論家。魯迅の研究・翻訳や、日中関係論、日本文化などの問題をめぐり言論界で、多くの評論発言を行った。
広津 雲仙(ひろつ うんせん、1910年〈明治43年〉10月… 広津 雲仙(ひろつ うんせん、1910年〈明治43年〉10月1日 - 1989年〈平成元年〉9月19日)は、昭和期に活躍し、日展内閣総理大臣賞や日本芸術院賞を受賞した書家。日展の要職を歴任し常務理事を務めたほか、日本書芸院の設立、読売書法会の創立に尽力した。また、書道雑誌『墨滴』を刊行すると同時に、墨滴会を主宰し、後進の育成に力を注いだ。長崎県北高来郡高来町出身(現、諫早市高来町)で、本名は廣津 四郎(ひろつ しろう)。雅号の「雲仙」は、長崎県の雲仙岳に由来する。 雲仙の作品は、堅実な古典的基礎の骨格を、穏和な肉付きで包んでいて、厳しい格調の高さや内的精神の強さが、気取りや誇張のない、やさしい品の良さで仕上げられている。
横川 義雄(よこかわ よしお、1910年10月~1995年6… 横川 義雄(よこかわ よしお、1910年10月~1995年6月12日)は、日本の経営学者・教育者・地方公務員だった人物。札幌大学名誉教授。北海道函館市出身 1928年北海道庁立小樽中学校卒業。1931年小樽高等商業学校卒業。北海道庁立小樽商業学校(現北海道小樽商業高等学校)教諭。1940年北海道函館商業学校(現北海道函館商業高等学校)教諭。1953年函館短期大学商科助教授(経営管理論・教職担当)。1958年北海道教育委員会指導主事。1959年札幌短期大学商業科客員助教授(経営管理論担当、~1968年)。1963年北海道札幌東商業高等学校校長。1968年北海道旭川商業高等学校校長。1970年北海道立の高等学校の教員として定年退職。
高橋 喜一郎(たかはし きいちろう、1909年(明治42年)… 高橋 喜一郎(たかはし きいちろう、1909年(明治42年)10月31日 - 2001年(平成13年)9月16日)は、日本の政治家。山形県新庄市長(5期) 。位階は正五位。 山形県最上郡新庄町(現・新庄市)出身。1927年、山形県立新荘中学校(現・山形県立新庄北高等学校)卒。1947年、新庄町議会議員に当選。1949年、新庄町の市制施行により、新庄市議会議員となる。市議会議長を2期務めた。1965年、新庄市長に当選する。3期務めた後、1977年に落選。4年後の1981年に市長に返り咲き、2期務め、1989年に退任した。ほか、新庄体育協会、新庄市社会福祉協議会各会長、山形県体育協会理事を歴任した。
土州灘 浪五郎(としゅうなだ なみごろう、1909年10月3… 土州灘 浪五郎(としゅうなだ なみごろう、1909年10月31日 - 没年不明)は、昭和時代の大相撲力士。二子山部屋→二所ノ関部屋所属。本名は石川 久治(いしかわ ひさじ)。高知県香美郡香我美町(現香美市)出身。最高位は西十両14枚目。得意技は左四つ、下手投げ。 同郷の前頭・土州山役太郎の二子山部屋に入門。1928年1月場所に初土俵を踏む。1936年5月場所に十両に昇進。この場所は1勝10敗と大きく負け越し、1場所で幕下に落ちた。幕下から三段目に落ち、1942年5月場所で廃業した。
油井 一二(ゆい いちじ、1909年10月30日 - 199… 油井 一二(ゆい いちじ、1909年10月30日 - 1992年7月21日)は日本の実業家(美術商)。 長野県北佐久郡三井村香坂(現佐久市香坂)出身。小学校高等科卒業後に上京し、昭和6年(1931年)東亜美術協会の絵画出張販売員となる。同9年(1934年)共同出資により日東美術協会を創立するが、同12年(1937年)から14年(1939年)まで、日中戦争に従軍した。同16年(1941年)、上野広小路に美術店を開いたが、東京大空襲で焼失した。戦後は武者小路実篤の知遇を経て、その作品を扱った。同40年(1965年)「美術年鑑」の権利を創刊者の山田正道から買い取り、「美術年鑑社」として株式会社を設立し、代表取締役社長となった。
白井 庄次郎(しらい しょうじろう、1909年〈明治42年〉… 白井 庄次郎(しらい しょうじろう、1909年〈明治42年〉10月29日 - 2020年〈令和2年〉8月11日)は、日本のスーパーセンテナリアン。滋賀県高島市在住の長寿の男性。2020年4月14日以降死去するまで男性長寿日本一となっていた。 1909年生まれ。滋賀県高島市に暮らす。2016年に県内最高齢男性となる。 2016年9月時点では耳が遠いが身の回りのことは自分ででき食事の好き嫌いもない。2016年に初めて要介護認定を受けデイサービスに通い始めた。2018年時点では次男夫婦と同居し、身の回りのことは自分ででき、知事選の期日前投票にも行っている。趣味は新聞や歴史に関する本を読むことだった。 2020年4月、巴一作の死去に伴い、110歳169日で国内最高齢男性となる(厚生労働省発表、2020年4月15日)。
番場 嘉一郎(ばんば かいちろう、1909年(明治42年)1… 番場 嘉一郎(ばんば かいちろう、1909年(明治42年)10月28日 - 1989年(平成元年)5月30日)は、日本の会計学者。一橋大学名誉教授、千葉商科大学名誉教授。元青山学院大学教授。第4代千葉商科大学学長(1975年4月 - 1987年3月)。太田哲三門下。中村忠(一橋大学名誉教授)、山浦久司(第29代会計検査院長)は門下生。従三位。 1909年10月28日、東京都渋谷区初台に生まれる。生涯にわたりこの地で暮らした。 東京府立第一商業学校、東京商科大学(現在の一橋大学)附属商学専門部を経て、1931年4月、同大学本科に入学。 太田哲三のゼミナールに所属し、1934年3月に卒業する。卒業論文は『経営分析研究』。
野田 宇太郎(のだ うたろう、1909年(明治42年)10月… 野田 宇太郎(のだ うたろう、1909年(明治42年)10月28日 - 1984年(昭和59年)7月20日)は、日本の詩人、文芸評論家、文芸誌編集長。三島由紀夫や幸田文を世に送り出した人物である。 福岡県三井郡立石村(現小郡市)出身。朝倉中学卒業後、第一早稲田高等学院英文科に入学するが、病気により中退。1930年(昭和5年)、久留米市で同人誌『街路樹』に参加して詩作を開始する。1933年(昭和8年)、詩集『北の部屋』を出版。1936年(昭和11年)、安西均や丸山豊らと同人誌『糧』を創刊。1940年(昭和15年)に上京し、小山書店に入社。その後第一書房、河出書房を経て、1944年(昭和19年)文芸誌『文藝』の編集長を務めた後、東京出版に入社。
櫻井 勝之進(さくらい かつのしん、1909年〈明治42年〉… 櫻井 勝之進(さくらい かつのしん、1909年〈明治42年〉10月28日 - 2005年〈平成17年〉12月25日)は、日本の神職。 1909年、島根県那賀郡今福村(現浜田市)に社家の長男として生まれる。1931年(昭和6年)に神宮皇學館(皇學館大学の前身)を卒業し、熊本県菊池市の菊池神社の宮司など官国幣社4社の神職を経て、1955年に神宮教化局教導司、1957年より神宮禰宜として奉職。祭祀のかたわらで皇學館大学で祭祀概説の非常勤講師を兼務。1975年に芦屋大学で日本文化研究の教授に就任(1995年まで)。多賀大社宮司、神社本庁総長を務めたのちに皇學館大学理事長に就任。1990年に神社本庁から「長老」の称号をうける。
高島 満兎(たかしま まと 、1909年10月28日 - 1… 高島 満兎(たかしま まと 、1909年10月28日 - 1934年7月13日)は、日本の社会運動家。 福岡県三井郡合川村(現久留米市)で、造り酒屋の二女に生まれた。福岡県立久留米高等女学校(現福岡県立明善高等学校)を経て、1926年日本女子大学に入学。労働農民党の活動に参加していた長兄・日郎(じつろう)の影響で、在学中の1929年頃から学生社会科学連合会(学連)目白班の運動に参加し、卒業前に日本共産青年同盟(共青)に加盟。同大学国文科を卒業、1930年4月より機関紙『無産青年』編集局で働くかたわら、各地でオルグ活動を行なった。結核のため1931年暮れから1932年にかけて入院したが、途中で病院を抜け出し活動に復帰。
豊岡 益人(とよおか ますと、1909年〈明治42年〉10月… 豊岡 益人(とよおか ますと、1909年〈明治42年〉10月27日 - 1988年〈昭和63年〉10月29日)は、昭和時代の政治家。三重県上野市長。 三重県出身。市田真道の三男として生まれ、豊岡博道の養子となる。1934年(昭和9年)東京帝国大学文学部を卒業し、帝国美術院付属美術研究所嘱託となり、翌年念佛寺住職に就任。三重県国宝重要美術調査員、上野市公安委員を経て、1950年(昭和25年)三重大学講師を経て、1953年(昭和28年)5月、上野市長に就任した。 市長就任後間もなく東近畿大水害に見舞われ災害復旧に奔走。また、周辺村との合併問題をまとめた上野基本調査は統計界の大賞である大内賞を受賞した。
三田 博雄(みた ひろお、1909年10月26日 - 198… 三田 博雄(みた ひろお、1909年10月26日 - 1989年7月17日)は、日本の科学史家。神戸大学名誉教授。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
土門 拳(どもん けん、1909年〈明治42年〉10月25日… 土門 拳(どもん けん、1909年〈明治42年〉10月25日 - 1990年〈平成2年〉9月15日)は昭和時代に活躍した日本の写真家。 リアリズムに立脚する報道写真、日本の著名人や庶民などのポートレートやスナップ写真、寺院、仏像などの伝統文化財を撮影し、第二次世界大戦後の日本を代表する写真家の一人とされる。また、日本の写真界屈指の名文家としても知られた。 土門は、1950年代の前半頃から「社会的リアリズム」を標榜(後年本人が告白したところでは、実質的には社会主義リアリズムであったという)、「絶対非演出の絶対スナップ」を主張し、日本の写真界に一時期を画した。当時、リアリズム系の写真家としては、木村伊兵衛と双璧をなした。
石井 孝(いしい たかし、1909年10月25日 - 199… 石井 孝(いしい たかし、1909年10月25日 - 1996年5月6日)は、日本史学者。幕末維新期対外関係が専門。
磯部 忠正(いそべ ただまさ、1909年10月22日 - 1… 磯部 忠正(いそべ ただまさ、1909年10月22日 - 1995年7月13日)は、日本の哲学者。 兵庫県生まれ。1933年東京帝国大学文学部哲学科卒。学習院大学教授、学習院院長、名誉院長・教授。 磯部俶は弟。1987年、勲二等旭日重光章受章。1995年7月13日、腹膜炎のため死去。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
宮沢 次郎(みやざわ じろう、1909年(明治42年)10月… 宮沢 次郎(みやざわ じろう、1909年(明治42年)10月22日 - 1999年(平成11年)7月3日)は、日本の実業家。満洲国官吏、大蔵官僚を経て、トッパン・ムーア会長。静岡県出身。 静岡県立静岡中学校に学ぶ。1933年(昭和8年)、東京帝国大学法学部卒業。満洲国政府に入り、1941年(昭和16年)、日本政府に派遣され、内閣総力戦研究所に入所。1942年(昭和17年)、満洲国に帰任、役職を歴任。終戦後、大蔵省国有財産局総務課勤務を経て、1949年(昭和24年)、高松財務局国有財産部長。高松財務部次長を経て、本省理財局管理課長、印刷局業務課長を歴任。1953年(昭和28年)5月、凸版印刷に転じ、取締役総務部長。
西村 力弥(にしむら りきや、1909年(明治42年)10月… 西村 力弥(にしむら りきや、1909年(明治42年)10月22日 - 1985年(昭和60年)5月6日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。衆議院議員。 山形市出身。1929年(昭和4年)山形県師範学校を卒業した。小学校訓導となり、農業、自由労働者、役場書記などを経て、再び小学校教員に就任。全教協最高闘争委員、全官公共闘委員会渉外部長、山形県教員組合執行委員長、山形県官公労働組合会議議長などを務めた。 1952年(昭和27年)10月、第25回衆議院議員総選挙で山形県第1区から社会党左派公認で立候補して初当選し、以後、第29回総選挙まで連続して再選され、衆議院議員に連続5期在任した。この間、日本社会党出版部副部長、同軍事基地委員会事務局長、同軍事基地対策特別委員長、同社会主義理論委員会副委員長、同党両院議員総会副会長、原水爆禁止日本協議会顧問、日本平和委員会常任理事、山形県労農会議議長、山形日中貿易社長などを務めた。
杉山 寧(すぎやま やすし、1909年10月20日 - 19… 杉山 寧(すぎやま やすし、1909年10月20日 - 1993年10月20日)は、日本画家、日本芸術院会員、文化勲章受章者。三島由紀夫の岳父。 東京府東京市浅草区浅草西三筋町(現在の東京都台東区三筋一丁目、二丁目西側辺り)に文房具店を営む杉山卯吉の長男として生まれる。本籍・神奈川県。父親が早くに他界したため母親に育てられる。浅草育英小学校、東京府立第三中学校を経て、1928年(昭和3年)、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)に入学、松岡映丘に師事する。山本丘人、髙山辰雄らと「瑠爽画社」(るそうがしゃ)を結成、日本画の革新をめざす運動に携わる。1929年(昭和4年)、帝展に出品、1931年(昭和6年)、美校日本画科卒、結城素明に師事。