馬場 愿治(ばば げんじ、1860年10月8日(万延1年8月… 馬場 愿治(ばば げんじ、1860年10月8日(万延1年8月24日) - 1940年(昭和15年)11月13日)は、日本の裁判官。大審院部長で退官後、中央大学学長を務めた法学博士である。 会津藩に士籍を有し、のち福島県議を5期務めた馬場庄平の次男である。会津若松英語学校などで修学したのちに上京し、中村正直の私塾、東京英語学校(官立)を経て東京大学予備門に進む。 1885年(明治18年)7月、東京大学法学部を次席で卒業。 馬場は司法省御用掛となり、東京始審裁判所詰として裁判官のキャリアを開始する。横浜地裁、東京地裁、東京控訴院での勤務を経て1896年(明治29年)に浦和地裁裁判長、翌々年に大審院判事となる。
野口 能毅(のぐち のうき、万延元年8月17日(1860年1… 野口 能毅(のぐち のうき、万延元年8月17日(1860年10月1日) - 昭和15年(1940年)5月22日)は、日本の内務官僚、政治家。秋田市長や佐賀市長を務めた。 肥前国小城郡小城町(現在の佐賀県小城市)に小城藩剣道師範波多野信倚の子として生まれ、家老野口雲斎の養子となった。1880年(明治13年)に任官して、佐賀県警部、同警察署長、三重県警察署長などを務めた。さらに1899年(明治32年)から小城郡長、大分県警察部長、佐賀県警察部長、秋田県警察部長を歴任した。 1905年(明治38年)から1906年(明治39年)にかけて秋田市長を務め、その後、1912年(明治45年)から1931年(昭和6年)まで佐賀市長を5期務めた。
高杉 金作(たかすぎ きんさく、1860年(萬延元年)10月… 高杉 金作(たかすぎ きんさく、1860年(萬延元年)10月 - 1931年(昭和6年)4月22日)は、日本の政治家、実業家。 陸奥国津軽郡高杉村(青森県中津軽郡高杉村を経て現弘前市)出身。明治法律学校(明治大学)卒業。青森県会議員、弘前商工会議所会頭などを務め、1915年には第12回衆議院議員総選挙に立憲政友会から出馬し、当選した。第五十九国立銀行(現青森銀行)の第5代頭取や、青森貯蓄銀行(現みちのく銀行)取締役なども務めた。勲四等。
近藤 慶一(こんどう けいいち、1859年10月26日(安政… 近藤 慶一(こんどう けいいち、1859年10月26日(安政6年10月1日) - 1937年(昭和12年)3月21日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 山口県大島郡志佐出身。近藤清吉の子として生まれる。近藤家は庄屋を務めていた。1864年(元治元年)に寺子屋(永寿庵等悟和尚)へ入門。漢学などを学ぶ。1881年家督を相続する。 大島海員学校創設(1897年)および県立学校移行(1901年)に尽力する。沖浦区長、小松志佐村村会議員、山口県会議員、第6代同副議長(1903年から1904年)、第8代同議長(1904年から1907年)を務める。大島銀行頭取。朝鮮勧農株式会社、大島汽船(株)各取締役。
柚木 慶二(ゆのき けいじ、安政6年9月28日(1859年1… 柚木 慶二(ゆのき けいじ、安政6年9月28日(1859年10月23日) - 大正5年(1916年)2月11日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。 大隅国姶良郡加治木町(現在の鹿児島県姶良市)に、郷士柚木新十郎の長男として生まれる。西南戦争の際には西郷軍に投じ、左手を負傷した。1879年(明治12年)、三州社という政社を結成して自由民権運動に取り組むようになった。また子弟の教育を志して1883年(明治16年)に育英黌という学校を創設したが、政府側の政社の迫害により閉鎖に追い込まれた。その後は興商会を組織し、後に商業倶楽部と改めた。1889年(明治22年)、新たに同志会という政社を結成し、翌年には県会議員に選出された。
李家 裕二(りのいえ ゆうじ、1859年10月20日(安政6… 李家 裕二(りのいえ ゆうじ、1859年10月20日(安政6年9月25日)- 1901年(明治34年)4月29日)は、日本の内務官僚。三重県知事(官選第7代)、徳島県知事(官選第15代)、内務省神社局長(初代)。旧名・左馬之助。 長門国阿武郡萩江向村(現山口県萩市)で、長州藩士の家に生まれる。 東京英語学校、東京大学予備門を経て、1884年7月、東京大学文学部政治学及理財学科を卒業した。 1884年7月17日、内務省に入省し同省御用掛に就任。1886年3月、内務属となり、県治局郡区課勤務となる。1887年11月、内務書記官に昇格。長野県書記官を経て、1898年7月、三重県知事に就任。1899年2月、徳島県知事に転任。
川原 茂輔(かわはら もすけ、1859年10月10日〈安政6… 川原 茂輔(かわはら もすけ、1859年10月10日〈安政6年9月15日〉- 1929年〈昭和4年〉5月19日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議長、佐賀県会議長。位階は従四位。勲等は勲二等。 肥前国西松浦郡大川内村(現:佐賀県伊万里市)生まれ。草場船山の塾で漢学を学ぶ。佐賀県参事会員、佐賀日日新聞社長などを歴任。 1884年(明治17年)4月から1892年(明治25年)9月まで佐賀県会議員を務めた。同年2月、第2回衆議院議員総選挙に佐賀県第2区で中央交渉部から出馬し初当選。次の第3回衆議院議員総選挙では国民協会から出馬するも落選。1899年(明治32年)9月に佐賀県会議員選挙に西松浦郡選挙区から自由派(憲政党派)所属で立候補して、当選した。
尾形 月耕(おがた げっこう、OGATA Gekko、安政6… 尾形 月耕(おがた げっこう、OGATA Gekko、安政6年9月15日〈1859年10月10日〉 - 大正9年〈1920年〉10月1日)は、日本の明治から大正期の浮世絵師、日本画家。 安政6年9月15日(1859年10月10日)、名鏡清次郎の子として江戸京橋弥左衛門町(現在の銀座4丁目3番地)に生まれる。本名・正之助。別号・桜斎、名鏡斎、華暁楼。名鏡家は葛飾の地主で、祖父長兵衛は大名家や江戸屋敷、豪商に人材を斡旋する口入屋と、塵芥蒐集の利権を握り、「江戸の三長兵衛」のひとりと謳われるほど羽振りが良かった。しかし、明治9年(1876年)数え17歳で父を病で失うと、利権も他家に移り家は没落、京橋弓町に移り住む。
斎藤 三郎右衛門(さいとう さぶろうえもん、安政6年9月9日… 斎藤 三郎右衛門(さいとう さぶろうえもん、安政6年9月9日(1859年10月4日) - 大正2年(1913年)12月3日)は、日本の政治家、資産家、衆議院議員(2期)立憲国民党所属、山形県会議員、東田川郡会議員。名は鉄之助、福周、千里とも。 先祖代々「三郎右衛門」を名乗る田川郡渡前村の大地主素封家に生まれ幼名は鉄之助という。幼少より勉学に励み慶應義塾入学を目指し上京するが、母の死を期に郷里に戻る。以後、地元で子供たちの指導育成に努めた。 1887年(明治20年)には、山形県会議員選挙に27歳で出馬し初当選する。以来、議員を務める傍ら地元の教育振興に尽力して小学校の増改築、敷地購入などの為に莫大な私財を寄付し続ける。
高橋 安爾(たかはし あんじ、1859年〈安政6年〉10月 … 高橋 安爾(たかはし あんじ、1859年〈安政6年〉10月 - 1923年〈大正12年〉7月3日)は、日本の政治家、弁護士。 宮城県桃生郡出身。明治法律学校(明治大学)卒業。代言人試験に合格し、法律事務に従事。以後、埼玉県議会議員などを経て、埼玉県より立憲政友会所属で国政に出馬。第4回衆議院議員総選挙で当選し、第9回衆議院議員総選挙でも再選を果たす。衆議院懲罰委員長などを務めた。 勲四等を追贈されている。
島村 速雄(しまむら はやお、1858年10月26日〈安政5… 島村 速雄(しまむら はやお、1858年10月26日〈安政5年9月20日〉- 1923年〈大正12年〉1月8日)は、日本の海軍軍人。元帥海軍大将正二位勲一等功二級男爵。高知県出身。海兵7期首席。「非常な秀才で智謀は底が知れない、軍人には珍しいほど功名主義的な所が無い、生涯はつねに他者に功を譲ることを貫いた、天性のひろやかな度量のある人物」などと評される。 安政5年(1858年)、土佐藩の郷士・島村左五平と妻・鹿子の間に生まれる。幼名は午吉で、四人兄弟の次男であった。海南学校に学ぶ。幼い頃から秀才ぶりを発揮していたが、9歳の時に父を亡くし、家計が厳しかったため、学費が不要な海軍兵学寮への進学を希望し、勉学に励んだ。
太田 實(おおた みのる、1858年10月26日(安政5年9… 太田 實(おおた みのる、1858年10月26日(安政5年9月20日)- 1918年(大正7年)11月20日)は、明治の内務官僚、第2代本所区長、第一回、二回衆議院議員、実業家、浅草公園水族館の設立者。 幕末の安政5年(1858年)、淡路国津名郡久留麻村(町村制後:来馬村、現:兵庫県淡路市久留麻)に生まれる。祖父・利右衛門の時、徳島藩主蜂須賀家に功があり士族に取り立てられ太田氏を賜った。旧姓は山田氏であった。傍ら、酒造を業とし柿屋と号した。10歳で藩校に入ったが、藩府内の俊秀少年5人を選び修学を命ずるにあたり、その一人に選ばれた。わずか12歳で洲本の学問所に入った。13歳のとき、徳島城内の藩校舎に入り蘭人ドングルに就きドイツ語を学んだ。
吉田 亀太郎(よしだ かめたろう、1858年10月26日(安… 吉田 亀太郎(よしだ かめたろう、1858年10月26日(安政5年9月20日) - 1931年(昭和6年)12月26日)は、明治時代に東北地方で活動した伝道者・牧師。祖父は仙台藩亘理伊達氏に仕えた新妻興左衛門、父はその四男吉田雄吉。 1858年(安政5年)、陸奥国稗貫郡花巻(現岩手県花巻市)で生まれ、現在の宮城県石巻で育った。新潟に赴任した時に、T・A・パームと押川方義らの説教を聞いてキリスト教に回心し、1878年(明治11年)に洗礼を受けた。それから、パーム、押川と共に伝道に従事した。 1880年(明治23年)、吉田は押川と共に、宮城県の伝道を始める。仙台についた吉田と押川は、北三番町木町通り角屋敷に「基督教講義所」の看板を掲げて伝道を開始した。
江木 衷(えぎ まこと/ちゅう、1858年10月25日(安政… 江木 衷(えぎ まこと/ちゅう、1858年10月25日(安政5年9月19日) - 1925年(大正14年)4月8日)は、日本の法学者。弁護士。
白川 福儀(しらかわ とみよし、安政5年9月10日(1858… 白川 福儀(しらかわ とみよし、安政5年9月10日(1858年10月16日) - 1916年(大正5年)1月4日)は、明治から大正時代の政治家、実業家、教育者。愛媛県松山市長。愛媛県会議員。海南新聞社長。旧姓は門田。 伊予松山藩士・門田正業の長男として松山城下に生まれ、白川福明の養子となる。松山藩校の明教館、石鉄県校や大原観山の漢学塾にて学んだ後、1875年(明治8年)上京して漢学者・三島中州の私塾に入る。甲斐や近江の学校教師を務めたのち、1879年(明治12年)に帰郷して県官となるが、間もなく辞職して自由民権運動に傾倒し、長屋忠明や藤野政高らの率いる民権系政治結社・公共社で機関紙「海南新聞」の編集を弟の門田正経と共に担当。
富井 政章(とみい まさあきら、1858年10月16日(安政… 富井 政章(とみい まさあきら、1858年10月16日(安政5年9月10日)- 1935年9月14日)は、日本の法学者、教育者。法学博士。帝国大学法科大学(現東京大学法学部)教授、帝国大学法科大学長、貴族院勅選議員、枢密顧問官等を歴任。法典調査会民法起草委員。和仏法律学校(現法政大学)校長。京都法政学校(現立命館大学)初代校長、立命館大学初代学長。男爵。
丹尾 頼馬(にお たのま、1858年10月15日(安政5年9… 丹尾 頼馬(にお たのま、1858年10月15日(安政5年9月9日)- 1928年(昭和3年)7月8日)は、明治から昭和初期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、福井県丹生郡岡山村長。 越前国丹生郡下野田村(福井県岡山村、豊村を経て現鯖江市)で、丹尾兵馬の長男として生まれた。その後、大地主、農業、村役、馬売買を営む本家・丹尾清左衛門の養子となる。同郡家久村の木村塾で学び、1866年(慶応2年)福井藩立・立教館に入り漢学、数学、習字を修めた。1869年(明治2年)中學明新館(現福井県立藤島高等学校)に入学。その後上京し、築地のカロゾルス(クリストファー・カロザース)に師事し英語を修めた。1877年(明治10年)慶應義塾に入った。
石谷 源蔵(いしたに げんぞう、1858年10月14日〈安政… 石谷 源蔵(いしたに げんぞう、1858年10月14日〈安政5年9月8日〉 - 1932年〈昭和7年〉1月31日)は、日本の林業家、政治家、実業家。因幡木材合資会社代表社員。鳥取電燈常務取締役。族籍は鳥取県平民。智頭杉で知られる「智頭林業育ての親」とされる。 1858年10月14日(安政5年9月8日)、因幡国智頭郡智頭宿(現・鳥取県八頭郡智頭町)に生まれた。庄屋を務めた石谷槌五郎の長男である。 文化文政期頃、祖父の代から石谷家は植林を進めていた。源蔵は後に石谷家の家督を相続し、林業近代化と地域振興に尽くした。大和国吉野地方(現・奈良県)を訪れて実生苗の生産や造林技術の研究を行い、スギの実生苗の大量生産に成功した。
飯島 省三郎(いいじま しょうざぶろう、1858年10月11… 飯島 省三郎(いいじま しょうざぶろう、1858年10月11日(安政5年9月5日) - 1910年(明治43年)3月24日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 常陸国筑波郡新戸村(茨城県筑波郡小張村、伊奈村、伊奈町を経て現つくばみらい市)出身。漢学と英語と数学を学ぶ。農業と養蚕、製糸業を営む。茨城県会議員となる。 1904年の第9回衆議院議員総選挙において茨城県郡部から憲政本党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1908年の第10回衆議院議員総選挙には不出馬。1910年死去。
安藝 喜代香(あき きよか、安政5年8月30日(1858年1… 安藝 喜代香(あき きよか、安政5年8月30日(1858年10月6日) - 大正10年(1921年)12月10日)は、日本の社会教育家、政治家、自由民権運動家、日本基督教団高知教会長老、板垣伯銅像記念碑建設同志会・初代理事長。板垣退助の遊説に同行し、岐阜遭難事件に際して「板垣死すとも自由は死せず」の言葉を直接聞いた人物の一人。坂本龍馬の親族。「愛山」と号した。 安藝家の遠祖は、長宗我部氏に滅ぼされた安藝國虎の次男・安藝三郎左衛門家友で、土佐郡十六村成山(現・伊野町)に居をかまえ、土佐和紙を創始した。山内一豊の土佐入領に際し、自製の七色紙を献上。その功により給田一町歩と幡多郡代官役、並に御用紙方役に任命され、製紙の技法向上に務めた。
岡本 貫一(おかもと かんいち、1858年(安政23年)10… 岡本 貫一(おかもと かんいち、1858年(安政23年)10月 - 没年不明)は日本の実業家。戦前の三井財閥の幹部。 千葉県山辺郡大網宿生まれ。岡本知忠の養子となり、岡本姓を名乗る。明治法律学校(現・明治大学)に学んだ後、第二次大戦前の当時、三井物産、三井銀行と共に、三井財閥御三家の一角を占めていた、三井鉱山合名会社に入社。 三井鉱山合名会社で主事となった後、三井財閥の本社組織となる三井合名会社が設立されたのに伴い同社に移り、鉱山部理事に就任。更に1909年に株式会社化により、三井鉱山株式会社が設立された際には、三井家出身者の指定席である社長に次ぐポストとして、團琢磨(後の三井財閥総帥)らと共に取締役に任ぜられ、「三井財閥御三家」の経営の中枢を担った。
山下 千代雄(やました ちよお、1857年10月27日〈安政… 山下 千代雄(やました ちよお、1857年10月27日〈安政4年9月10日〉 - 1929年〈昭和4年〉2月4日)は、衆議院議員(自由党→立憲政友会)、弁護士。 出羽国米沢出身。藩校興譲館で学んだ後、司法省法学校(現・東京大学法学部)を卒業。明道館を創立し、自由民権を主張した。1890年(明治23年)の第1回衆議院議員総選挙は大同倶楽部から、1892年(明治25年)の第2回総選挙は立憲自由党から山形県第2区で立候補したが、いずれも落選している。 1894年(明治27年)、第3回総選挙に出馬し、当選。同年9月の第4回総選挙でも再選された。1898年(明治31年)、第1次大隈内閣が成立すると内務省地方局長に任命されたが、内閣の崩壊とともに野に下り弁護士業務に従事した。
伊東 重(いとう しげる、1857年10月26日(安政4年9… 伊東 重(いとう しげる、1857年10月26日(安政4年9月9日) - 1926年(大正15年)8月5日)は、日本の明治より大正期にかけての医師・政治家・思想家。現在の青森県出身で、青森県医師会会長や弘前市長、衆議院議員を歴任した。今東光の母方の伯父にあたる。 1857年(安政4年)旧暦9月9日の重陽節句の日に、現在の弘前市元長町において、津軽藩典医伊東家久・もと夫妻の次男として生まれる。幼名は滝次郎と称した。 1865年(慶応元年)、原子塾に入塾。後に黒滝学校に転じ、1868年(明治元年)藩校稽古館に入学。1871年(明治4年)藩命により英学修行を命じられ、英学塾(翌年東奥義塾と改名)に入塾。
寺田 利吉(てらだ りきち、1857年10月20日〈安政4年… 寺田 利吉(てらだ りきち、1857年10月20日〈安政4年9月3日〉 - 1918年〈大正7年〉12月10日)は、日本の実業家。寺田銀行頭取。寺田紡績工廠社長。高野登山鉄道、岸和田紡績、和泉水力電気各取締役。族籍は大阪府平民。 大阪府岸和田市、寺田甚与茂の異父弟。1880年、分家して一家を創立する。住所は大阪府泉南郡岸和田浜町(現・岸和田市) この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
榊 俶(さかき はじめ、安政4年8月28日(1857年10月… 榊 俶(さかき はじめ、安政4年8月28日(1857年10月15日) - 明治30年(1897年)2月6日)は、明治期の医師、医学博士。幼名は善太郎。父は蘭学者の榊令輔。弟の榊順次郎と榊保三郎も医学者である。 はじめ駿府において堀越愛国のもとで英学を学んだとされる。明治13年(1880年)に東京大学を卒業後、明治15年(1882年)にベルリン大学に留学し精神病学を専攻した。明治19年(1886年)に帰国、帝国大学医科大学教授に就任し、精神病学教室を開設、帝国大学医科大学草創期において精神病、精神衛生、小児精神論、看護法を講じ、剖検、司法精神鑑定相馬事件など幅の広い活動を行なった。墓所は染井霊園(1イ-5-8)。
阪田 貞一(さかた ていいち、1857年10月14日(安政4… 阪田 貞一(さかた ていいち、1857年10月14日(安政4年8月27日) - 1920年(大正9年)12月1日)は、明治-大正期の日本の工学者。 江戸(後の東京府東京市、現・東京都区部)生まれ。阪田長十郎の二男、阪田貞明の叔父。工部大学校(東京大学工学部の前身の1つ)卒業。1890年、欧米に留学し機械工学を研究。帰国後、東京工業学校教授。のち同校の校長や後身の東京高等工業学校(現: 東京工業大学)校長などを務めた。 日本機械学会の第3、15、18、20、23期幹事長を務めた。 1920年12月1日、胃潰瘍の療養中に心臓麻痺で死去、享年63歳。
立川 雲平(たつかわ うんぺい、1857年10月14日〈安政… 立川 雲平(たつかわ うんぺい、1857年10月14日〈安政4年8月27日〉 - 1936年〈昭和11年〉1月24日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(3期)。『破戒』(島崎藤村)に登場する市村代議士のモデルといわれる。 1857年(安政4年)、淡路国三原郡立川瀬村(後賀集村、現兵庫県南あわじ市賀集立川瀬)で、立川伝平の長男として生まれる。伝平は百姓出身だが足軽の株を買って洲本に移った。雲平は洲本の藩校を経て、1871年、徳島師範学校入学。1876年、京都へ遊学。岸田俊子、小室信介など民権派の人々と交遊関係を深める。1881年、明治法律学校入学。1882年、代言人試験合格。翌年、郷里で弁護士事務所を開業。
武政 藤太郎(たけまさ とうたろう、1857年10月12日(… 武政 藤太郎(たけまさ とうたろう、1857年10月12日(安政4年8月25日) - 没年不明)は、日本の政治家、銀行家。埼玉県大里郡榛沢村長。深谷銀行取締役。族籍は埼玉県平民。 埼玉県大里郡榛沢村(のち岡部町、現・深谷市)出身。兵助の嫡男。寺子屋に学び、私塾等にて漢学を研修する。農業を営む。戸長連合村副戸長を歴任する。 榛沢村助役に推され、10数年に亘り勤続して村長を補佐する。1894年4月に榛沢村長に就任し、1902年10月に退職する。榛沢村会議員を4期つとめる。 村政の元老で、多年自治開発に努力精進して名望が高かった。 武政家は旧幕時代、組頭をつとめた。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
岩垂 邦彦(いわだれ くにひこ、安政4年8月15日(1857… 岩垂 邦彦(いわだれ くにひこ、安政4年8月15日(1857年10月2日) - 昭和16年(1941年)12月20日)は技術者、日本の実業家。日本で最初の外資との合弁企業である日本電気(NEC)の創業者。勲五等。 豊前国豊津(現在の福岡県京都郡みやこ町、旧・豊津町)に小倉藩士・喜田村修蔵の次男として生まれる。兄・寛治(娘婿・喜田村朔治の養父)は豊津中学校(現:福岡県立育徳館中学校・高等学校)教師であった。 父・修蔵は岩垂家から喜田村家に婿養子として入ったが、岩垂家の後嗣がなかったため、邦彦が岩垂家を継ぐこととなった。1868年(明治元年)[要検証 – ノート]に修蔵が東京で暗殺されたため、仇討ちを志して兄とともに上京した。
巌谷 立太郎(いわや りゅうたろう、1857年10月2日(安… 巌谷 立太郎(いわや りゅうたろう、1857年10月2日(安政4年8月15日) - 1891年(明治24年)1月24日)は、明治期の鉱山学者、日本新聞社創立発起人。東京大学理学部教授・農商務省鉱山局技師として採鉱冶金術の改良に貢献した。滋賀県出身者で初の工学博士(博士登録番号10番)。 旧暦安政4年8月15日(1857年10月2日)、近江国水口で生まれる。巌谷家は代々水口藩典医を務め、祖父は巌谷玄通、父は明治維新後太政官一等書記・貴族院議員を務めた漢学者の巖谷一六(本名は修、明治の三筆の一人)。立太郎は長男として誕生した。 6歳より水口にて藩儒中村栗園に学び神童と称され、明治元年(1868年)京都で神山鳳陽に師事して漢学を学んだ。
神藤 才一(かんどう さいいち / しんどう さいいち、安政… 神藤 才一(かんどう さいいち / しんどう さいいち、安政4年8月15日(1857年10月2日) – 昭和9年(1934年)1月5日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→猶興会→立憲同志会)。大日本帝国陸軍軍人、最終階級は陸軍歩兵大尉。 相模国高座郡相原村(現在の神奈川県相模原市)出身。1879年(明治12年)、陸軍士官学校(旧3期)を卒業し、同年12月22日、陸軍歩兵少尉に任官。1884年(明治17年)に甲申政変に出征し、帰国後は山地元治将軍の幕僚を務めた。1886年(明治19年)にフランスに留学して軍事学を学ぶが、やがて法学に転じ、1895年(明治28年)にリヨン大学を卒業し、法学博士の称号を得た。
金森 通倫(かなもり みちとも / つうりん、安政4年8月1… 金森 通倫(かなもり みちとも / つうりん、安政4年8月15日〈1857年10月2日〉 - 昭和20年〈1945年〉3月4日)は、日本の牧師、伝道者、宗教家。別名はポール・カナモリ。明治初期の日本のプロテスタント派の3つの源流の1つである熊本バンドの中心メンバーの一人であった。晩年は湘南の嶺山に隠居し、原始的な洞窟生活をして「今仙人」といわれた。 第102代内閣総理大臣・石破茂の母方の曾祖父である。 肥後国玉名郡小天村(現・玉名市天水町小天)に郷士・金森繁蔵の次男として生まれた。その後、理由は分からないが一家は託麻郡本山村(現・熊本市中央区本山)に移り住んでいる。 明治4年(1871年)、日新堂に入塾。
吉田 定之助(よしだ さだのすけ、1857年10月1日(安政… 吉田 定之助(よしだ さだのすけ、1857年10月1日(安政4年8月14日)- 1918年(大正7年)9月20日)は、明治から大正前期の実業家、政治家。衆議院議員、福島県会議長。 陸奥国岩瀬郡、のちの福島県岩瀬郡須賀川町(現須賀川市)で、吉田勝太郎の長男として生まれる。私塾で学んだ。 1889年(明治22年)2月、家督を相続し、以降、須賀川町会議員に8期在任。岩瀬郡会議員、福島県会議員、同議長、破産管財人、所得税調査委員なども務めた。1912年(明治45年)5月、第11回衆議院議員総選挙(福島県郡部、立憲政友会)で当選し、1915年(大正4年)3月の第12回総選挙(福島県郡部、立憲政友会)では次点で落選し、衆議院議員に1期在任した。
世良田 亮(せらた たすく、安政3年10月3日〈1856年1… 世良田 亮(せらた たすく、安政3年10月3日〈1856年10月31日〉- 明治33年〈1900年〉8月1日)は、日本の海軍軍人。アナポリス海軍兵学校 1881年次卒業。最終階級は海軍少将。 海軍省主事、海軍省軍務局軍事課長、戦艦「富士」艦長、戦艦「三笠」回航委員長などの要職を歴任したが、現役の海軍少将のまま、満43歳の若さで病死した。 ※ 本節の出典は、特記ない限り、秦 2005, p. 222, 第1部 主要陸海軍人の履歴:海軍:世良田亮。 信濃国・上田藩の上田城下に出生。父は、上田藩士で弓術師範を務めた山本義隆。幼名は山本源之丞で、廃藩の際に本姓に復し、世良田亮と名乗った。 世良田は神童の評判が高く、9歳の時から上田藩の藩校に学んだ。
寺田 徳三郎(てらだ とくさぶろう、1856年10月21日〈… 寺田 徳三郎(てらだ とくさぶろう、1856年10月21日〈安政3年9月3日〉 - 没年不明)は、日本の醸造家、実業家、政治家。貝塚銀行取締役。和泉水力電気監査役。貝塚町会議員。族籍は大阪府平民。 大阪府岸和田市の人・寺田甚与茂、寺田元吉の弟。寺田甚右衛門の三男。1881年の分家の際は岸和田本町に居を構え、綿糸商を営む。1882年に現住邸宅を買収し住所を変え、酒造業を営む。 家業の傍ら会社銀行等の営利事業に関与する。貝塚銀行については創立当時監査役だったが、数年ならず取締役に転じた。1892年より10年余町会議員をつとめた。郡会開設の当時、議員に挙げられ、1期間就任した。 分家して一家を創立する。
長谷川 宗治(はせがわ そうじ / むねはる、1856年10… 長谷川 宗治(はせがわ そうじ / むねはる、1856年10月19日(安政3年9月21日)- 1936年(昭和11年)11月21日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、埼玉県大里郡御正村長。旧姓・多田。 武蔵国大里郡原島村(のち埼玉県大里郡大幡村、現:熊谷市)で、多田貞助の長男として生まれ、大里郡三ッ本村(のち御正村、現:熊谷市)の長谷川貴重の養子となる。普通学を修めた。熊谷商業銀行取締役を務めた。 三ッ本村戸長、御正村会議員、同助役、同村長を歴任。1894年から埼玉県会議員に25年間在任し、この間、同参事会員、同議長(2回)を務めた。1920年5月、第14回衆議院議員総選挙で埼玉県第三区から立憲政友会所属で出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。
清水 宜輝(しみず よしてる、安政3年9月13日〈1856年… 清水 宜輝(しみず よしてる、安政3年9月13日〈1856年10月11日〉 - 1934年〈昭和9年〉9月7日)は、明治から昭和初頭にかけて活動した日本の銀行経営者・実業家である。十五銀行支配人・取締役や中央電気第2代社長などを務めた。新潟県出身。 清水宜輝は、安政3年9月13日(新暦:1856年10月11日)、越後高田藩士・清水宜義の長男として生まれた。生家は高田。1873年(明治6年)上京し中村正直(敬宇)の「同人社」に学ぶ。1874年(明治7年)には大蔵省銀行局の官費生に選ばれ、4年間ヨーロッパで経済学を学んだ。 1877年(明治10年)、華族に交付された金禄公債を原資として第十五国立銀行が設立された。
大隈 英麿(おおくま ひでまろ、安政3年9月11日(1856… 大隈 英麿(おおくま ひでまろ、安政3年9月11日(1856年10月9日) - 1910年(明治43年)5月14日)は、明治時代の教育者、政治家。東京専門学校(早稲田大学の前身)初代校長(1882年 - 1886年)や衆議院議員を務めた。陸奥盛岡藩主南部家に生まれ、一時期は大隈重信の婿養子になったが、後に離縁した。 1856年10月9日(安政3年9月11日)、第14代盛岡藩主南部利剛の次男として盛岡城内に生まれる。幼名(初名)は剛建。1870年(明治3年)、14歳のときに姉・郁子の夫である華頂宮博経親王に従って渡米する(従者に五十川基)。現地の小・中学校を経てダートマス大学へ入学して天文学を専攻、のち指導教授の転任に伴いプリンストン大学に移り、数学を修めた。
安念 次左衛門(あんねん じざえもん、1855年10月31日… 安念 次左衛門(あんねん じざえもん、1855年10月31日(安政2年9月21日) - 1934年(昭和9年)1月23日)は、日本の実業家。政治家、衆議院議員(2期)。子に安念精一。 越中国礪波郡、のちの富山県東礪波郡太田村(砺波町を経て現砺波市)出身。安念次郎左衛門の次男として生まれ、先代の安念次左衛門の養子となる。1876年、石川県師範学校卒。町村連合会議員、石川県会議員、富山県会議員、中越鉄道(株)、中越銀行、富山日報を創立し、重役となる。 1903年の第8回衆議院議員総選挙において富山県郡部から憲政本党公認で立候補して初当選する。1904年の第9回衆議院議員総選挙で再選した。衆議院議員を2期務め、1908年の第10回衆議院議員総選挙は不出馬。
高橋 健三(たかはし けんぞう、1855年10月27日(安政… 高橋 健三(たかはし けんぞう、1855年10月27日(安政2年9月17日) - 1898年(明治31年)7月22日)は、明治期のジャーナリスト・官僚・政治家。英吉利法律学校(中央大学の前身)創立者の一人。岡倉天心とともに『国華』を創刊のほか、『官報』の創刊(1883年)にも尽力した。別称に自恃居士(じじこじ)。 江戸で元尾張藩士、書道家になった高橋石斎の子として生まれる。後に父が戸田氏に仕官して下総国曾我野藩士となる。明治3年(1870年)曾我野藩の貢進生に選ばれて大学南校(東京大学の前身の一つ)に入学し、法律を学ぶ。明治11年(1878年)、東京大学を中退し、翌年官途につく。以後、駅逓局・文部省を経て、明治16年(1883年)に太政官官報報告掛に任じられて官報の創刊に参画する。
小西 甚之助(こにし じんのすけ、1855年10月27日(安… 小西 甚之助(こにし じんのすけ、1855年10月27日(安政2年9月17日)- 1928年(昭和3年)6月28日)は、明治期の政治家。衆議院議員、香川県会議長。旧姓・中原、佐々木。号・渓香。 讃岐国寒川郡志度村(香川県寒川郡志度町 、大川郡志度町を経て現さぬき市志度)で、仮大庄屋・中原七郎の息子として生れ、同村の伯父・佐々木数平の養嗣子となる。1867年(慶応3年)高松藩洋式練兵場で兵学を学び、小隊司令士、教官を務めた。18歳で寒川郡長尾名村(長尾村、長尾町を経て現:さぬき市長尾名)の庄屋・小西平蔵の養嗣子となる。 1876年(明治9年)8月、有志と翼賛社を設立し自由民権運動を推進。1880年(明治13年)8月、讃岐の総代として元老院に国会開設建白書を提出した。
小村 寿太郎(こむら じゅたろう、旧字体: 小村 壽太郞、1… 小村 寿太郎(こむら じゅたろう、旧字体: 小村 壽太郞、1855年10月26日〈安政2年9月16日〉- 1911年〈明治44年〉11月26日)は、日本の外交官、政治家。外務大臣、貴族院議員(侯爵終身)などを務めた。イギリス・アメリカ・ロシア・清国・朝鮮(韓国)の公使・大使を務め、特に2度の外相時代には日英同盟の締結、日露戦争後のポーツマス条約の締結、条約改正の完成(関税自主権の完全回復。治外法権は陸奥宗光が改正)などの業績をのこし、近代日本外交を体現した人物として知られる。特に外相在任は通算7年4カ月と、史上二番目に長い(史上最長は内田康哉で通算7年5カ月)。爵位は侯爵。 小村寿太郎は、安政2年(1855年)9月16日、日向国飫肥藩の藩士・小村寛(寛平)(1830 - 1900)と梅(梅子)(? - 1901)の長男として生まれた。
南部 球吾(なんぶ きゅうご、1855年10月15日〈安政2… 南部 球吾(なんぶ きゅうご、1855年10月15日〈安政2年9月5日〉 - 1928年〈昭和3年〉11月4日)は、明治から大正に活動した日本の鉱山技術者。 越前国福井藩士で、維新後官吏となった南部広矛の次男として生まれる。 慶応2年(1866年)、藩の英学者の瓜生寅のもとで英学を修めた。1869年(明治2年)、開成学校に入学する。1870年(明治3年)、大学南校に移り化学を専攻した。 1875年(明治8年)、文部省の第1回アメリカ合衆国への留学生となり、長谷川芳之助とともにコロンビア大学で鉱山学を学んだ。1880年(明治13年)10月に帰国後、三菱に入社し、高島炭鉱の坑長を務め、工学博士となった。
宮崎 道三郎(みやざき みちさぶろう、1855年10月14日… 宮崎 道三郎(みやざき みちさぶろう、1855年10月14日(安政2年9月4日) - 1928年(昭和3年)4月18日)は、三重県津市出身の法学者。法学博士。東京帝国大学教授(法制史)。日本法律学校(現・日本大学)創立者(総代)。 1855年(安政2年)9月に、伊勢国安濃郡津新道(現在の三重県津市)にて出生。藩校有造館で漢籍や国史などを学んで、1872年(明治5年)に上京。日本法律学校(現日本大学の前身)の創立時には、設立評議員の一人である司法大臣山田顕義らによって、宮崎は若手の法律学者11名とともに設立者の代表として創立に深く関与している。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
須永 武義(すなが たけよし、1855年10月2日(安政2年… 須永 武義(すなが たけよし、1855年10月2日(安政2年8月22日) - 1925年(大正14年)10月28日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。位階勲等功級は正四位勲二等功三級。 武蔵国幡羅郡飯塚村(埼玉県幡羅郡太田村、大里郡太田村、妻沼町を経て現熊谷市)出身。士族・須永宗司の長男。陸軍兵学寮に入り、1877年(明治10年)4月、陸軍歩兵少尉に任じ、参謀本部第2局員、近衛歩兵第2連隊長、陸軍教導団長、第9師団参謀長を経て、1899年(明治32年)8月、大佐に進んだ。この間、日清戦争に従軍した。日露戦争が勃発すると西島助義に代わり、1904年(明治37年)9月、陸軍少将に進級と同時に歩兵第7旅団長に補され、遼陽会戦から参戦。
稲田 秀太郎(いなだ ひでたろう、安政元年9月9日〈1854… 稲田 秀太郎(いなだ ひでたろう、安政元年9月9日〈1854年10月30日〉 - 昭和15年8月31日〈1940年8月31日〉)は、日本の政治家、実業家。地主。 伯耆国米子(現、鳥取県米子市紺屋町)出身。元米子町会議員。酒・醤油醸造業合名会社稲田本店代表社員。稲田家の六代目。鳥取県平民。米子銀行監査役。元衆議院議員、稲田家の七代目稲田藤治郎の兄。 当時、商工業の有力者は同時に地主でもあった。この年度における米子町の地価1000円以上の地主名を挙げると次の通りである。10000円〜15000円の部に稲田秀太郎の名前がみえる。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
黒瀬 與重郎(くろせ よじゅうろう、旧姓・高田、1854年1… 黒瀬 與重郎(くろせ よじゅうろう、旧姓・高田、1854年10月24日〈安政元年9月3日〉 - 没年不明)は、香川県多額納税者、香川県の大地主・家主、資産家。族籍は香川県平民。 香川県仲多度郡生野村(後の麻野村、善通寺町、現・善通寺市)、平民・高田恵八郎の四男。黒瀬與吉郎の養子となり、家督を相続する。商業を営む。1926年、退隠する。 諱は憲直、柳渚と号して書を好み、終生これを楽しむ。貝原益軒に私淑し、常にその著書を愛読する。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。同地方屈指の大地主、資産家で、香川県下の多額納税者である。 與重郎の人柄は「社交界に出ることを好まず、政治を談ずることを欲せず、只詩文に親しんだ」という。
辰野 金吾 (たつの きんご、1854年10月13日〈嘉永7… 辰野 金吾 (たつの きんご、1854年10月13日〈嘉永7年8月22日〉- 1919年3月25日) は、日本の建築家である。
11代 森川 六右衛門(もりかわ ろくうえもん、1854年1… 11代 森川 六右衛門(もりかわ ろくうえもん、1854年10月12日(安政元年8月21日)- 1905年(明治38年)10月15日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。幼名・卯之助、六太郎。号・顕堂。 伊賀国阿拝郡上野福居町(三重県阿拝郡上野町福居町、阿山郡上野町、上野市を経て現伊賀市)で、商業、10代・森川六右衛門(顕斎)、欽子の息子として生まれる。熊田二爻に学び、さらに猪飼箕山(猪飼敬所の子)、富士林東峡、速水謙堂、山中房之助などにつき和漢学を修めた。津藩武術指南役・太田小源太、橋本佐源太らにつき剣術砲術を修めた。 1869年(明治2年)津藩から米問屋役を命じられた。1873年(明治6年)私塾を開いて漢学、数学を伝授した。
団野 記平治(團野、だんの きへいじ、1854年10月8日(… 団野 記平治(團野、だんの きへいじ、1854年10月8日(安政元年8月17日)- 1923年(大正12年)12月3日)は、明治期の農業経営者、醸造家、政治家。衆議院議員、兵庫県多紀郡城南村長。 丹波国多紀郡八上内村(兵庫県多紀郡八上内村、八上村、篠山町、篠山市を経て現丹波篠山市八上内)で、中川儀十郎の二男として生まれた。漢学、数学を修めた。1879年(明治12年)同郡小枕村(城南村、丹南町、篠山市を経て現:丹波篠山市小枕)の素封家・団野仲右衛門の養子となり、農業・酒造業を営む。 酒造組合長、城南村農会長を務め、村落の共有林の松を杉檜に植替えるなど造林の振興に貢献した。 政界では学務委員、城南村会議員、学区組合会議員、郡組合会議員、多紀郡会議員、同副議長などを務めた。