檜山 廣(ひやま ひろ、1909年(明治42年)12月18日… 檜山 廣(ひやま ひろ、1909年(明治42年)12月18日 - 2000年(平成12年)12月25日)は、日本の実業家である。丸紅の社長や会長を歴任し、同社中興の祖と言われる。国際派の論客でもあったが、ロッキード事件における中心人物のひとりとして有罪となった。 茨城県那珂郡那珂町(現在の那珂市)生まれ。旧制水戸中学校を経て、東京商科大学(現在の一橋大学)卒業。大学在学中は柔道部のエースであった。 大学を卒業した1932年(昭和7年)に大同貿易入社、1952年(昭和27年)に丸紅飯田(現在の丸紅)取締役、1957年(昭和32年)常務、専務、副社長を経て、1964年(昭和39年)に同社長、1975年(昭和50年)に丸紅会長、1976年(昭和51年)に同取締役相談役。
大石 良世(おおいし よしつぐ、1909年 <明治42年> … 大石 良世(おおいし よしつぐ、1909年 <明治42年> 12月17日 - 1976年 <昭和51年> 2月2日)は、日本の経営者。日産火災海上保険社長を務めた。 島根県松江市出身。1932年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に日産火災海上保険に入社。 1953年に取締役に就任し、1956年に常務、1960年6月に専務を経て、1963年11月に副社長に就任し、1966年6月には社長に就任。1974年3月には会長に就任。 1972年9月に藍綬褒章を受章。 1976年2月2日、胃癌のために死去。66歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
初世宮下 秀冽(みやした しゅうれつ、1909年〈明治42年… 初世宮下 秀冽(みやした しゅうれつ、1909年〈明治42年〉12月15日 - 1993年〈平成5年〉12月24日)は日本の作曲家・箏曲家。本名は宮下 哲郎(みやした てつろう)。三十絃箏の開発者。 群馬県高崎市(当時の群馬郡倉渕村)生まれ。旧制高崎中学を卒業後、熱病が原因で失明。箏曲家をこころざして、東京盲学校師範部音楽科に入学。古曲を初代萩岡松韻、新曲を宮城道雄、作曲を田辺尚雄から学んだ。1948年の「双調の曲」で三曲新作コンクール1位入賞。1953年の「箏主奏組曲『平家物語による幻想』」で 第8回音楽部門芸術祭奨励賞を受賞した。その後も芸術祭で受賞を繰り返した(大賞2回、入賞8回)ことから、「芸術祭男」とのあだ名で呼ばれた。
宮坂 完孝(みやさか さだたか、1909年 <明治42年> … 宮坂 完孝(みやさか さだたか、1909年 <明治42年> 12月15日 - 1996年 <平成8年> 11月13日)は、日本の朝鮮総督府官僚、国会職員。参議院事務総長、国立国会図書館長を歴任した。位階は正三位。 長野県埴科郡埴生村(現千曲市)出身。旧制長野中学(現、長野県長野高等学校)を経て早稲田大学法学部卒業。朝鮮総督府、貴族院事務局、文部省を経て参議院事務局に奉職。1965年第5代参議院事務総長に就任。1972年に退任し、同年国立国会図書館長に就任。1980年勲一等瑞宝章を受勲した。1996年死去。死没日付をもって従六位から正三位に進階した。
田中 覚(たなか さとる、1909年(明治42年)12月15… 田中 覚(たなか さとる、1909年(明治42年)12月15日 - 2002年(平成14年)8月10日)は、日本の政治家で、三重県知事(5期)、衆議院議員(1期)を務めた。三重県四日市市塩浜地区出身。学歴は東京帝国大学卒業である。元四日市市長の加藤寛嗣は従兄弟である。1944年(昭和19年)佐藤喜代子と結婚して、2女をもうける。喜代子と死別後の1975年(昭和50年)には元総理大臣三木武夫の妻睦子の妹である三重子と再婚した。元衆議院議員の松崎哲久は義理の息子、映画監督として人気のあった藤田敏八は甥(姉の子)である。 1909年(明治42年)12月15日、三重県四日市市蔵町の母の実家で生まれる。塩浜尋常小学校、塩浜高等小学校、三重県立第二中学校(現・四日市高校)から東京府立第五中学校(現・小石川高校)へ転校して、第八高等学校 (旧制)を経て東京帝国大学農学部農業経済学科を卒業した。
三木 忠直(みき ただなお、1909年〈明治42年〉12月1… 三木 忠直(みき ただなお、1909年〈明治42年〉12月15日 - 2005年〈平成17年〉4月20日)は、日本の海軍軍人、工学者。最終階級は海軍技術少佐。爆撃機「銀河」、特攻機「桜花」特攻機、新幹線の開発者。 1909年12月15日、香川県高松市生まれ。香川県立高松中学校、第六高等学校を経て、1938年、東京帝国大学工学部船舶工学科を卒業。海軍造船官となって海軍造船中尉に任官し、海軍航空技術廠に配属された。 アジア・太平洋戦争中に陸上爆撃機「銀河」、特攻兵器「桜花」などの機体設計を担当した。 1944年(昭和19年)6月前後、大田正一少尉が航空技術廠長和田操中将に特攻兵器桜花を提案した。三木によれば、和田はもう決めた様子で、大田は「自分が乗っていく」と言うため、研究に協力したという。
清水 重道(しみず しげみち、1909年〈明治42年〉12月… 清水 重道(しみず しげみち、1909年〈明治42年〉12月14日 - 1958年〈昭和33年〉4月23日)は、日本の国文学者・詩人・作家・歌人。 東京生まれ。東京高等学校を経て、1932年(昭和7年)東京帝國大學文學部國文學科卒業。“非常に秀才だった”という。 1935年(昭和10年)『沙羅』を作詞。1936年(昭和11年)信時潔が独唱曲として歌曲集『沙羅』を発表。(発表時、清水27歳、信時49歳) 大學卒業後、岡崎師範学校、東京高等学校教授をへて、1943年(昭和18年) 東京音楽學校教授・文部省嘱託 となる。(昭和20年まで) 1945年(昭和20年)北海道第三師範学校(学芸大学)・旭川分校着任。
槇田 久生(まきた ひさお、1909年12月13日 - 19… 槇田 久生(まきた ひさお、1909年12月13日 - 1989年4月24日)は、日本の実業家。元日本鋼管社長・会長。
五代目 上村 吉彌(ごだいめ かみむら きちや、新字体:吉弥… 五代目 上村 吉彌(ごだいめ かみむら きちや、新字体:吉弥、明治42年 (1909年) 12月13日 - 平成4年 (1992年) 1月1日)は、歌舞伎役者。屋号は美吉屋。定紋は折敷型世の字。本名は遠島 直(とおじま すなお)。 小芝居から大歌舞伎に入り、上方歌舞伎の伝統を受継いだ女形や花車形を得意とした。 明治42年(1909年)大分県杵築市生まれ。3歳のころから当地の歌舞伎に子役で出演し、大正8年(1919年)には中村桂車一座に入り中村桂之助を名乗って福岡大博劇場に出る。各地の小芝居を勤めたのち、昭和8年(1933年)に二代目市川右團次に入門、市川右升を名乗る。昭和19年(1944年)以降は松竹専属となり、美貌の女形として知られるようになる。
湯浅 年子(ゆあさ としこ、1909年12月11日 - 19… 湯浅 年子(ゆあさ としこ、1909年12月11日 - 1980年2月1日)は、日本出身の物理学者である。パリのコレージュ・ド・フランス原子核化学研究所、CNRS(フランス国立中央化学研究所)などで研究した。日本国外で活動した初の日本人女性物理学者といわれる。 東京都上野に生まれる。7人兄弟の6番目で、生家には両親や兄弟の他に、乳母や数名の女中、書生がおり、多人数で暮らしていた。年子の父は福井県出身で、帝国大学工科大学(現在の東京大学工学部)機械工学科を卒業し、農商務省の特許局に勤務していた湯浅藤市郎で、退職後に自宅で自動製糸機の発明に没頭し、世界で初めて「完全自動製糸機」を完成させたことで知られる。
平岡 武夫(ひらおか たけお、1909年12月10日 - 1… 平岡 武夫(ひらおか たけお、1909年12月10日 - 1995年5月31日)は、中国哲学者、専攻は儒教経典の成立史的研究など。京都大学名誉教授。
森口 華弘(もりぐち かこう、明治42年(1909年)12月… 森口 華弘(もりぐち かこう、明治42年(1909年)12月10日 - 平成20年(2008年)2月20日)は、日本の染織家で友禅染めの重要無形文化財保持者(人間国宝)。蒔糊技法を用いた友禅染め作品で知られる。 森口華弘は、明治42年(1909年)12月10日に滋賀県野洲郡守山町字岡(現滋賀県守山市岡町)の森口周治郎・とめ夫妻の子として生まれ、平七郎と名付けられた。森口家は農業と米屋を営み、華弘は5人兄弟の3番目3男で偏食、病弱小柄で大変大人しく、誰彼構わず喧嘩をするガキ大将ですら平七郎とは一度も喧嘩をしなかったと伝えられる。12歳で小学校を卒業すると、遠縁が営む京都の薬店に奉公に出、夜は薬剤師を目指し薬学校夜学部に通ったが、制度変更から薬剤師になるためには専門学校卒業が義務付けられ、金銭的にゆとりがなく専門学校に進学できない平七郎は薬剤師になることを断念せざるを得なかった。
青木 英五郎(あおき えいごろう、1909年12月9日 - … 青木 英五郎(あおき えいごろう、1909年12月9日 - 1981年1月3日)は、神奈川県横須賀市出身の日本の裁判官。弁護士。
生江 哲太郎(なまえ てつたろう、1909年(明治42年)1… 生江 哲太郎(なまえ てつたろう、1909年(明治42年)12月9日 - 没年不明)は、日本の飛込競技選手・実業家。1932年ロサンゼルスオリンピックに出場した。 1909年(明治42年)12月9日、東京府(現在の東京都)に、慶應義塾大学教授の生江惣太郎の息子として生まれる。叔父は青山学院理事を務めた生江孝之。青山学院を卒業後、明治大学法学部に入学した。大学ではラグビーフットボールを行う傍ら、玉川プールで飛込の練習を行い、短期間で上達したために他人を驚かせた。1932年にはロサンゼルスオリンピックで飛板飛込に出場し、8位となった。同年に行われた全国学生飛込大会では高逆飛込で32.70点、飛板飛込で124.54点を獲得しいずれも優勝した。
今 官一(こん かんいち、1909年(明治42年)12月8日… 今 官一(こん かんいち、1909年(明治42年)12月8日 - 1983年(昭和58年)3月1日)は、日本の小説家。 青森県弘前市西茂森町に藤田三次郎(藤田匡の一族)の孫、今宮吾の三男として生まれる。東奥義塾の学生時代、1926年(昭和2年)に中田重治より洗礼を受ける。 早稲田大学露文科中退。同郷の太宰治と親しく、桜桃忌の名は今によって名付けられた。 1956年(昭和31年)、『壁の花』で第三十五回直木賞を受賞。
児玉 幸多(こだま こうた、1909年〈明治42年〉12月8… 児玉 幸多(こだま こうた、1909年〈明治42年〉12月8日 - 2007年〈平成19年〉7月4日)は、日本の歴史学者。学位は、文学博士。学習院大学名誉教授。学習院大学学長・学習院女子短期大学学長を歴任。品川区立品川歴史館名誉館長、千曲市名誉市民。「日本近世農村・交通史の泰斗」と呼ばれた。 1909年、長野県更級郡稲荷山町(現在の千曲市稲荷山)生まれ。 旧制東京府立第二中学、旧制成蹊高等学校を経て、東京帝国大学国史学科に入学。児玉が少年期を過ごした故郷の稲荷山町は、江戸時代の善光寺街道最大の宿場町として栄え、明治期までは商都としても栄えた街であった。その最大の理由は、善光寺街道として知られる北国街道と北国西街道の事実上の合流点であり、善光寺街道から谷街道が分岐する交通の要衝であったためである。
山中 要作(やまなか ようさく、1909年 <明治42年> … 山中 要作(やまなか ようさく、1909年 <明治42年> 12月6日 - 2003年 <平成15年> 12月13日)は、日本の地方公務員、経営者。埼玉県副知事、テレビ埼玉初代社長を歴任。埼玉県出身。 1943年に中央大学法学部を卒業。 山形県地方課長を経て、埼玉県庁で商工部長、企業部長、総務部長を歴任し、1969年には副知事に就任。1973年に埼玉県住宅供給公社理事長を経て、1978年から1983年までにテレビ埼玉初代社長を務めた。 1980年に勲三等旭日中綬章を受章。 2003年12月13日老衰のために死去。94歳没。
太田 俊穂(おおた としほ、1909年12月5日 - 198… 太田 俊穂(おおた としほ、1909年12月5日 - 1988年1月15日)は、日本の経営者・評論家。 岩手県盛岡市出身。岩手縣立盛岡中學校(現在の岩手県立盛岡第一高等学校)を経て、東京外国語学校中退。東京日日新聞盛岡支局を経て、1944年岩手日報に入り、編集局長。岩手放送の開局に参与、1961年社長となる。日本現代詩歌文学館初代館長であり、郷土史家としても知られ、多くの著作を書いた。
嶋田 啓一郎(しまだ けいいちろう、1909年12月5日 -… 嶋田 啓一郎(しまだ けいいちろう、1909年12月5日 - 2003年9月24日)は、日本の社会福祉学者。石川県出身。 岡村重夫、孝橋正一らとともに日本を代表する社会福祉学者と言われている。[要出典]同志社大学教授。社会福祉の価値論(哲学)を軸に人権を重視した社会福祉力動論をとなえる。賀川豊彦の後継者として灘生活協同組合理事として理論と実践の両面から協同組合の運営にたずさわる。竹内愛二とともに日本キリスト教社会福祉学会の創設に尽力した。 主著(編集)に『社会福祉体系論』『社会福祉の思想と人間観』など多数。 キリスト者として社会福祉学の研究に尽力したことで1994年にキリスト教功労者を受賞。
原島 宏治(はらしま こうじ、1909年〈明治42年〉12月… 原島 宏治(はらしま こうじ、1909年〈明治42年〉12月4日 - 1964年〈昭和39年〉12月9日)は、日本の政治家、宗教家、小学校教員。 東京都大田区議会議員(1期)、参議院議員(1期)、創価学会理事長(第3代)、公明党中央執行委員会委員長(初代)などを歴任した。 東京都西多摩郡奥多摩町生まれ。幼名は鯉之助。 1929年(昭和4年)、東京府青山師範学校を卒業。以降26年間、東京各地の小学校教員に就いた。 1940年(昭和15年)、創価教育学会(現:創価学会)の設立と同時に入会する。 1943年(昭和18年)の創価学会弾圧により、治安維持法違反と不敬罪の容疑で牧口常三郎、戸田城聖らが逮捕・投獄された後、留守番役として苦闘した。
阿武 巌夫(あんの いずお、1909年12月2日 - 193… 阿武 巌夫(あんの いずお、1909年12月2日 - 1939年12月18日)は、日本の男子陸上競技選手。専門は短距離走。山口県出身。 1909年12月22日、山口県阿武郡大井村字市場(現・萩市大井)に、大井八幡宮宮司の阿武四郎の長男として生まれる。 生家の大井八幡宮は阿武郡18郷の総社で参道が100メートル (m)を超える長さだったため、幼少期から参道をトラックに見立てて走り込んでいた。母校、大井尋常高等小学校(現 • 萩市立大井小・中学校)の運動会では俊足過ぎてトラックのカーブを曲がりきれなかったという 1922年(大正13年)4月、旧制山口県立萩中学校(現・山口県立萩高等学校)に進学。萩中時代では従兄弟のいる萩市椿町の金谷天満宮に下宿し、当地から学校まで毎日走って登校していた。
樋口 和博(ひぐち かずひろ、1909年12月1日 - 20… 樋口 和博(ひぐち かずひろ、1909年12月1日 - 2009年2月7日)は、日本の裁判官、弁護士。 長野県上伊那郡川島村(現辰野町)生まれ。旧制松本第二中学(現長野県松本県ヶ丘高等学校)、旧制松本高校文科甲類、京都帝国大学法学部卒業。昭和11年司法官試補、以後、大阪、青森、高松、長野、東京の各地裁で約38年間裁判官生活を送る。昭和49年定年退官。昭和50年1月、弁護士登録(東京弁護士会)。
伊関 佑二郎(いぜき ゆうじろう、1909年12月1日 - … 伊関 佑二郎(いぜき ゆうじろう、1909年12月1日 - 1999年1月17日)は、日本の外交官。外務省アジア局長、駐オランダ兼アイルランド特命全権大使、駐インド兼ネパール特命全権大使。 東京出身。日本統治時代の朝鮮の大田中学校(のちの大田高等学校)を経て、1929年第三高等学校文科甲類卒業。1932年東京帝国大学法学部政治学科卒業、外務省入省。1949年公職資格訴願審査委員会事務局長。1950年警察予備隊総隊副総監(警視監)。1951年外務省連絡局長。同年外務省国際協力局長。1952年に日米合同委員会でいわゆる米軍基地を決定する協定に署名した。その後MSA協定の交渉に関わった。1954年香港総領事。
八村 信三(はちむら のぶぞう、1908年〈明治41年〉12… 八村 信三(はちむら のぶぞう、1908年〈明治41年〉12月29日 - 1990年〈平成2年〉6月2日)は、日本の実業家。鳥取銀行元頭取。鳥取ガス元監査役。鳥取商工会議所元会頭。鳥取県経済同友会元代表幹事(東部)。旧姓・山田。位階は正五位。 大阪府布施市(現:東大阪市)の素封家・山田勝太郎の次男として生まれる。大阪府立天王寺中学校 、静岡高等学校を経て、1934年(昭和9年)東京帝国大学経済学部を卒業。 1934年(昭和9年)7月、鳥取市の素封家・八村八太郎の養嗣子となる。 1936年(昭和11年)鳥取市収入役となり、同市助役を経て、1944年(昭和19年)退任。1949年(昭和24年)鳥取銀行常務、1959年(昭和34年)専務、1961年(昭和36年)副頭取を経て、同年11月頭取に就任。
淡中 忠郎 (たんなか ただお、1908年12月27日 - … 淡中 忠郎 (たんなか ただお、1908年12月27日 - 1986年10月25日)は、日本の数学者。専門は代数学。 愛媛県松山市生まれ。東北帝国大学卒。1945年東北帝国大学教授、後に東北学院大学教授を務めた。ポントリャーギン双対性をコンパクト群へ拡張した淡中-クラインの双対定理で著名。 この定理はグロタンディークによる淡中圏の概念へと発展した。 東京出版の月刊誌『大学への数学』で、「数学雑談」という連載記事の執筆を1960年(昭和35年)から晩年まで担当していた。 この項目は、数学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
斎藤 秀一(さいとう ひでかつ、1908年12月24日 - … 斎藤 秀一(さいとう ひでかつ、1908年12月24日 - 1940年9月5日)は、日本の言語学者、僧侶。エスペランティスト、ローマ字論者。別名に森馥、鳥海昇、北島三郎、野沢愛蘭。 明治41年、山形県東田川郡山添村(現:鶴岡市櫛引地区)泉流寺の長男として生まれる。鶴岡中学(現・山形県立鶴岡南高等学校)、1931年駒澤大学文学部東洋文学科卒業。大学在学中、日本エスペラント学会、カナ文字会、秋田雨雀らのソビエトの会の会員となる。 大学卒業後、朝日村大泉小学校教員となり、大平や八久和などの分校に勤めていたが、軍国主義教育に批判的であり、児童にローマ字を教えていたことが問題視され、赤化教員の疑いで鶴岡警察署に1度目の逮捕。
永井 行蔵(ながい こうぞう、1908年〈明治41年〉12月… 永井 行蔵(ながい こうぞう、1908年〈明治41年〉12月22日 - 1988年〈昭和63年〉8月23日)は、日本の国文学者。新潟大学名誉教授。 新潟県南蒲原郡長沢村大字中野原新田(現 三条市中野原)の教育者・永井長祥の三男として出生。 1926年(大正15年)3月に新潟中学校を卒業、1929年(昭和4年)3月に新潟高等学校を卒業、1932年(昭和7年)3月に東京帝国大学文学部国文学科を卒業。池田亀鑑のもとで『神皇正統記』の研究や『校異源氏物語』の作成に従事。 1933年(昭和8年)1月に岩波書店から出版の『岩波講座 日本文學』の付録の雑誌『文學』第19号に「神皇正統記阿刀氏本に就いて」という題名の論文を発表し、その中で『神皇正統記』の阿刀本を紹介して草稿もしくは初稿本と推定した。
稲村 耕雄(いなむら やすお、1908年12月21日 - 1… 稲村 耕雄(いなむら やすお、1908年12月21日 - 1967年4月24日)は、日本の無機化学者、色彩学者。元東京工業大学教授。インターカラー共同設立者。 父は中型ゆかた本舗の染色会社社長で、経営者になるため当初は東京高等商業学校(現一橋大学)を志望していたが、戦後恐慌のため家業が倒産し、1930年に東京高等工業学校染料科を卒業。1933年東京工業大学染料化学科卒業。1938年から日仏交換留学生としてコレージュ・ド・フランス、モンペリエ大学科学研究所に留学。 東京工業大学講師、東京工業大学助教授を経て、東京工業大学教授。1949年大阪大学理学博士。 1953年日本流行色協会発起人。1963年インターカラー設立。
山田 坂仁(やまだ さかじ、1908年12月20日 - 19… 山田 坂仁(やまだ さかじ、1908年12月20日 - 1987年6月3日)は、日本の哲学者。 長野県諏訪郡豊田村(現・諏訪市)出身。旧制長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)、旧制松本高等学校を経て、1929年東京帝国大学文学部哲学科卒業、報知新聞社入社。プロレタリア科学研究所、唯物論研究会に所属し、「哲学のレーニン的段階」に関する論争に参加、山岸辰蔵・薬袋俊二・鵜飼隆夫などの筆名で機関誌『唯物論研究』などを執筆。1937年東京府立第九中学校(現・東京都立北園高等学校)英語教師。1940年読売新聞社外報部嘱託。1943年北隆館出版部長。1946年千葉工業大学予科教授。1957年明治大学経営学部教授。
長谷川 鉱平(長谷川鑛平、はせがわ こうへい、1908年12… 長谷川 鉱平(長谷川鑛平、はせがわ こうへい、1908年12月20日 - 1995年7月16日)は、日本の編集者、文筆家。 岐阜県出身、名古屋市生まれ。1924年、私立目白中学校3年編入学、埴谷雄高が同期。1926年、目白中学校4年修了で第一高等学校 (旧制)に入ったが1928年に病気のため退学。1929年、法政大学予科第二部入学。法政大学文学部哲学科卒。岩波書店、1946年中央公論社勤務、『思想の科学』などの編集に当たる。63年中央公論社を定年退職。本州大学教授、改称で長野大学教授、1984年退職。文学、哲学などについて執筆した。
田村 しげる(たむら しげる、本名:田村 茂、1908年(明… 田村 しげる(たむら しげる、本名:田村 茂、1908年(明治41年)12月20日 - 1980年(昭和55年)10月14日)は、昭和期の作曲家。妻は作詞家の寺尾智沙、娘は女優の田村奈巳。 京都府中郡峰山町(現京丹後市)出身。家は、現在の田村写真館(京丹後市峰山町白銀)1925年(大正14年)地元の宮津中学校を卒業し上京。武蔵野音楽学校に入学。1927年(昭和2年)3月7日に発生した北丹後地震で故郷の家が被災し、財産を喪失。苦学する。 1931年(昭和6年)武蔵野音楽大学を卒業。ビクターレコードから「酔って笑って」を作曲し作曲家デビュー。翌年キングレコードの専属となって松島詩子らの曲を作曲し、さらにポリドールレコードの東海林太郎などにも曲を提供した。
横山 林二(よこやま りんじ、1908年(明治41年)12月… 横山 林二(よこやま りんじ、1908年(明治41年)12月20日-1973年(昭和48年)2月25日)は、日本の自由律俳句の俳人。層雲の荻原井泉水に師事、のちプロレタリア俳句運動に転じ、新興俳句弾圧事件により投獄された。戦後は新俳句人連盟常任委員、現代俳句協会会員。東京都生まれ、本名は吉太郎。 東京都港区に生まれ、芝新網町に育つ。父は露天商、母は日雇労働者、二人の姉は芸者と女工という貧しい家庭だった。新網の特殊小学校、専修商業学校を経て早稲田大学政経学部を卒業。14歳の時に関東大震災を経験。関東大震災朝鮮人虐殺事件や甘粕事件を契機に社会性俳句に目覚め、その年の1923年、荻原井泉水が選者をしていた朝日新聞の自由律俳句欄に投句、翌年にはその井泉水が主宰する層雲に入会、同じ層雲の栗林一石路や橋本夢道らとプロレタリア俳句運動を展開する。
大村 武彦(おおむら たけひこ、1908年12月19日 - … 大村 武彦(おおむら たけひこ、1908年12月19日 - 1994年8月23日)は、日本の銀行家。西日本相互銀行社長、会長を務めた。福岡県出身。位階は正五位。 1936年に九州帝国大学法科を卒業し、同年に朝鮮銀行に入行。 1947年3月に福岡税務署で勤務し、1948年3月に熊本財務局理財局長を経て、1952年2月に西日本相互銀行に転じ、1964年5月に取締役に就任し、1968年5月に常務、1971年5月に専務を経て、1973年7月に社長に就任。1982年10月に会長に就任し、1984年6月に名誉会長を経て、1986年6月に常任相談役に就任。 1975年9月に藍綬褒章を受章し、1981年4月に勲三等瑞宝章を受章。
夏目 伸六(なつめ しんろく、1908年(明治41年)12月… 夏目 伸六(なつめ しんろく、1908年(明治41年)12月17日 - 1975年(昭和50年)2月11日)は、日本の随筆家。 夏目漱石と夏目鏡子の二男として東京市牛込区(現在の東京都新宿区)早稲田南町に生まれる。伸六の上に姉4名と兄がいた。漱石は、名前を「申年に生まれた6番目の子ども」ということで「申六」とする予定だったが、「先生、いくらなんでも人間の子供ですから、ニンベンをつけて『伸』にしましょう」と漱石の弟子である小宮豊隆から言われ、「伸六」となった。 父の死去時には数えで9歳(小学校2年生)であった。暁星小学校および同中学校を経て慶應義塾大学文学部予科に進み、その後、日本フィルハーモニー交響楽団からチェリストとして声がかかり、同独文科を中退した。
上林 貞治郎(かんばやし ていじろう、1908年(明治41年… 上林 貞治郎(かんばやし ていじろう、1908年(明治41年)12月16日 - 2001年(平成13年)4月14日)は、日本の経済学者。半世紀を超える大学での教育活動や多くの著書を通じ、一貫して科学的社会主義の立場を貫徹し、学生や労働者に大きな影響を与えた。経済学博士。 1908年、大阪府堺市熊野の由緒ある商家に父・栄吉と母・コウの長男として生まれる。 堺市立熊野小学校、大阪市立第一商業学校(のちの天王寺商業)、大阪高等商業学校(のちの大阪商科大学高商部)を経て、1932年、大阪商科大学第一期生として、首席で同大学を卒業。 1932年、大阪商科大学大学院に入学。1933年に同大学副手となり、助手、講師嘱託を経て、 1939年に高商部教授、 1941年に助教授へと昇進した。
山田 申吾(やまだ しんご、1908年(明治41年)12月1… 山田 申吾(やまだ しんご、1908年(明治41年)12月15日 - 1977年(昭和52年)7月7日)は日本画家。父は日本画家山田敬中。 父 敬中、母 はな の次男として東京府滝野川村(現・東京都北区)田端に生まれる。1926年(大正15年) 東京美術学校日本画科へ入学。同学年に東山魁夷、橋本明治、加藤栄三らがいる。1930年(昭和5年)第11回帝展で《水辺初夏》が初入選。1931年(昭和6年)東京美術学校を卒業。卒業制作は《武蔵野》。その後、結城素明に師事する。 1944年(昭和19年) 私立麻布中学教諭となる。後に日本画家となる野田修一郎は麻布中学校時代に山田に師事している。 1950年(昭和25年) 第6回日展へ出品した《馬」》で特選、白寿賞を受賞する。
向井 久万(むかい くま、1908年(明治41年)12月14… 向井 久万(むかい くま、1908年(明治41年)12月14日 - 1987年(昭和62年)1月20日)は、日本画家。創画会会員。 大阪府泉南郡上之郷(現・泉佐野市)生まれ。1929年(昭和4年)、京都高等工芸学校図案科卒業。妻も同じく日本画家の広田多津。 1941年(昭和16年)、「男子生まる」を文展に出品して特選を受賞。 1948年(昭和23年)、創造美術を結成。この後、西山翠嶂に師事、裸婦像と花鳥画に才能を発揮した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
吉川 逸治(よしかわ いつじ、1908年12月14日 - 2… 吉川 逸治(よしかわ いつじ、1908年12月14日 - 2002年12月5日)は、日本の美術史学者。西洋美術史専攻。東京大学名誉教授。従兄は中国文学者の吉川幸次郎。 神奈川県横浜市生まれ。旧制神奈川県立横浜第一中学校、旧制浦和高等学校、東京帝国大学文学部美学美術史学科卒業。矢代幸雄に師事。1933年から1939年までフランスに留学、アンリ・フォシヨンに師事。「サン・サヴァン教会堂のヨハネ黙示録画の研究」でパリ大学より博士号取得。ロマネスク建築・壁画研究を専門とした。 1947年東京芸術大学教授を経て1953年東京大学文学部助教授、1955年教授、1969年定年退官後、大和文華館館長。後に名古屋大学教授、東海大学教授。
出雲路 敬和(いずもじ よしかず、1908年12月13日 -… 出雲路 敬和(いずもじ よしかず、1908年12月13日 - 1978年4月19日)は、神職、京都評論家。 京都市出身。出雲路信直の子孫。國學院大學文学部卒、立命館大学教授、成安女子短期大学学長。
森田 正義(もりた まさよし、1908年12月13日 - 2… 森田 正義(もりた まさよし、1908年12月13日 - 2004年12月2日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。栃木県岩舟町名誉町民。 栃木県下都賀郡寒川村(間々田町を経て現小山市)出身。1932年、東京帝国大学経済学部卒業。生家は地元の名家であった。寒川村長などを務めた。応召して日中戦争に従軍し陸軍主計曹長となる。 1942年の第21回衆議院議員総選挙において帝国議会当時の旧衆議院栃木2区から翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬して当選、1期活動した。在任中は内務省委員などを務めた。1945年(昭和20年)12月1日に衆議院議員を辞職。戦後は公職追放を経て、追放解除後は岩舟町長となり、1964年から1980年までの4期在職した。
神田 坤六(かんだ こんろく、1908年〈明治41年〉12月… 神田 坤六(かんだ こんろく、1908年〈明治41年〉12月10日 - 2005年〈平成17年〉5月20日)は、元群馬県知事。海軍司政官。 1908年(明治41年)12月10日、新潟県中蒲原郡横越村(現・新潟市)出身。新潟県立新潟中学校、官立新潟高等学校を経て東京帝国大学法学部に進み、在学中に高等試験行政科に合格。卒業後は静岡県庁勤務を皮切りに内務省官僚として地方行政に携わった。戦後は鹿児島県経済部長を勤めた後、群馬県教育民生部長に就いたことから群馬県との関わりを持つこととなった。その後総務部長等を経て竹腰俊蔵知事のもとで群馬県副知事就任。竹腰知事の後任として1960年(昭和35年)の群馬県知事選挙に出馬し当選。
板東 依彦(ばんどう よりひこ、1908年12月10日 - … 板東 依彦(ばんどう よりひこ、1908年12月10日 - 1987年10月6日)は、日本の経営者。関西ペイント社長を務めた。 徳島県出身。1931年に東京帝国大学工学部応用化学科を卒業し、同年に関西ペイントに入社。1958年11月に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1972年5月に社長に就任。1978年5月には取締役相談役に就任し、同年6月から相談役に専任。 1973年11月に藍綬褒章を受章し、1980年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1987年10月6日に脳梗塞のために死去。78歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
松下 忠(まつした ただし、1908年12月10日 - 19… 松下 忠(まつした ただし、1908年12月10日 - 1994年8月9日)は、日本の漢文学者。 熊本県出身。1938年東京文理科大学漢文学科卒。諸橋轍次に師事。1962年「江戸時代の詩風及び詩論の研究」で東京教育大学文学博士。和歌山大学教授、72年定年退官、名誉教授、日本大学教授。1972年「江戸時代の詩風詩論―明清の詩論とその摂取」で日本学士院賞・恩賜賞受賞。同年和歌山県文化賞、1980年勲二等瑞宝章受章。和歌山大学名誉教授の生駒道弘は女婿
大塚 徹(おおつか とおる、1908年(明治41年)12月8… 大塚 徹(おおつか とおる、1908年(明治41年)12月8日 - 1976年(昭和51年)12月2日)は、日本の詩人。 脊椎カリエスを患いながらも、叙情詩の発表を続け、播磨地域を中心とする多くの文学人に影響を与えた。また、ハーモニカ演奏や民謡、歌謡、学校歌の作詞等に多芸に活躍した。 兵庫県姫路市堺町で質屋を営む大塚捨次の三男として生まれる。母・まさは芸に秀で、若い頃の桂米朝、坂東大蔵らが出入りしていた。長兄が出奔し、次兄が早逝したため、時計古物商を営んで父母を養ったという。 旧制姫路中学3年在学時、飾磨港で水泳中に飛び込みをし、脊髄を損傷、3年間闘病する。その後脊髄カリエスも患い、一生疼痛と闘うこととなる。
林 泰(はやし やすし、1908年 <明治41> 12月8日… 林 泰(はやし やすし、1908年 <明治41> 12月8日 - 1988年 <昭和63年> 7月1日)は、日本の経営者。山陽特殊製鋼社長を務めた。東京都出身。位階は正五位。 1932年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業。髙島屋での勤務を経て、1942年に日本製鉄を経て、、1950年4月に富士製鐵に転じ、1957年5月に取締役に就任し、1960年6月に常務、1967年2月に専務・日鉄セメント社長を経て、1973年7月には山陽特殊製鋼社長に就任。1980年6月に会長に就任し、1984年6月には相談役に就任。 1979年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1988年7月1日大腸がんのために死去。79歳没。
前田 利民(まえだ としたみ、1908年(明治41年)12月… 前田 利民(まえだ としたみ、1908年(明治41年)12月8日 - 1983年(昭和58年)3月2日)は、昭和期の華族(子爵)。 七日市前田家第13代当主前田利定子爵の子として生まれる。1944年11月1日、父の死去に伴い子爵を襲爵した。 日本大学経済学部を卒業後、安田銀行、高崎板紙などに勤務した。1983年死去、家督は従甥の史貞が継いだ。
別技 篤彦(べっき あつひこ、1908年12月7日 - 19… 別技 篤彦(べっき あつひこ、1908年12月7日 - 1997年4月17日)は、日本の地理学者。 陸軍少将・別技嘉助の長男として東京に生まれる。東京府立第五中学校(現東京都立小石川高等学校)卒。1928年静岡高等学校文科甲類卒業。1932年京都帝国大学文学部史学科卒。1938年大阪商科大学予科教授、戦時中地理調査のためジャワ派遣軍に所属、南方文化研究室長。1946年帰国。1949年大阪商科大学を退職し、福井大学教授となり、1952年からは神戸商科大学教授を兼任。1954年立教大学教授、74年定年退任、名誉教授。 1962年「東南アジア諸島の居住と開発史」により京都大学から文学博士の学位を授与される。
吉原 慎一郎(よしはら しんいちろう、1908年12月7日 … 吉原 慎一郎(よしはら しんいちろう、1908年12月7日 - 2009年8月2日)は、日本の建築家。株式会社創和建築設計事務所(現 株式会社創和三幸設計)創業者。 横浜市長であった飛鳥田一雄とは神奈川県立第一中学校(現 神奈川県立希望ヶ丘高等学校)の同窓であり、その縁で横浜市内を中心とした建築物の設計を数多く手がけたことで知られている。
廣 慶太郎(ひろ けいたろう、1908年12月7日 - 19… 廣 慶太郎(ひろ けいたろう、1908年12月7日 - 1998年10月20日 )は、日本の経済人・経営者。
友永 英夫(ともなが ひでお、1908年(明治41年)12月… 友永 英夫(ともなが ひでお、1908年(明治41年)12月6日 - 1945年(昭和20年)5月14日)は、日本の海軍軍人。潜水艦を専門とする技術士官として、自動懸吊装置、重油漏洩防止装置を開発し、2度にわたり海軍技術有功章を受章した。第二次世界大戦中にドイツへ赴き、その帰途でドイツの降伏を迎え、乗艦していた「Uボート」艦内で庄司元三とともに自決。最終階級は海軍技術大佐。 現在の釜山広域市に土木技術者の父の三男として生まれた。本籍は山口県。日本に帰国後も父の仕事の関係で住居を転々とした。旧制鳥取県立鳥取第一中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)、旧制第一高等学校理科を経て1929年(昭和4年)に東京帝国大学工学部船舶工学科に進んだ。