佐藤 昌介(さとう しょうすけ、1856年12月21日(安政… 佐藤 昌介(さとう しょうすけ、1856年12月21日(安政3年11月24日) - 1939年(昭和14年)6月5日)は、日本の教育者。北海道帝国大学初代総長。日本初の農学博士のひとり。 現在の岩手県花巻市出身。父は南部藩士の佐藤昌蔵。1870年(明治3年)1月には藩校の作人館に入り漢学を学ぶ(同窓生に原敬らがいる)。1871年に上京。私塾や大学南校などで英学を修業。また、この頃に横浜でキリスト教に接した。1872年(明治5年)5月に一時帰郷。その後、1874年3月に東京外国語学校に入学(英語科は同年12月27日に東京英語学校に改組、東京開成学校の「予科」と統合されて東京大学予備門となり、現東京大学)。
福羽 逸人(ふくば はやと/いつじん、1856年12月13日… 福羽 逸人(ふくば はやと/いつじん、1856年12月13日〈安政3年11月16日〉- 1921年〈大正10年〉5月19日)は、日本の造園家、園芸家、官僚、農学者。位階・勲等は正三位勲一等。爵位は子爵。宮内省で長く宮廷園芸技師として活躍、小豆島のオリーブや「福羽いちご」として知られるイチゴなど植物栽培、花弁果樹野菜等の品種改良など園芸分野で多く貢献をしたほか、新宿御苑をはじめとする宮内省管轄の庭園等の整備、武庫離宮(須磨離宮)の庭園設計、栗林公園北庭および日比谷公園西洋花壇の設計に当たった。 石見国津和野藩にて津和野藩士、佐々布利厚の三男として生まれる。父とは3歳のときに死別した。1872年(明治5年)、16歳のとき、国学者の同藩士・福羽美静の養子となる。
12代 渡辺 甚吉(渡邊、わたなべ じんきち、1856年12… 12代 渡辺 甚吉(渡邊、わたなべ じんきち、1856年12月12日(安政3年11月15日) - 1925年(大正14年)11月10日)は、明治から大正時代の政治家。実業家。銀行家。衆議院議員。貴族院多額納税者議員。 渡辺浄意の長男として、岐阜城下松屋町(現岐阜市松屋町)に生まれる。生家は絹織物製造業を営む。大蔵省の銀行学講習所で学ぶ。 1877年(明治10年)第十六国立銀行(後の十六銀行)を創立し頭取に就任。1878年(明治11年)清に渡り帰朝後に廻瀾社を創立し対清貿易に従事した。1879年(明治12年)岐阜町会議員に当選し、同議長、連合町村会議員、水利土工会議員などを歴任した。 1882年(明治15年)商法会議所を設立し議長を務め、1887年(明治20年)に岐阜商工会と改称し会頭となる。
山崎 良純(やまさき よしずみ、1856年12月7日(安政3… 山崎 良純(やまさき よしずみ、1856年12月7日(安政3年11月10日)- 1918年(大正7年)10月4日)は、明治期の政治家、実業家。衆議院議員、鹿児島県会議長。旧姓・平川。 薩摩国高城郡水引郷宮内村(鹿児島県高城郡水引郷水引村、東水引村、薩摩郡東水引村、川内町、川内市宮内町を経て現薩摩川内市宮内町)で、鹿児島県会議員を務めた山崎良尚の息子として生まれた。兄・良弼と共に西南戦争で薩摩軍として従軍したが、戦後に父の勧めで上京した。その後、帰郷して平川家の養嗣子となるが、兄が病死したため山崎家に復籍した。 1885年(明治18年)1月、鹿児島県会議員に選出され、1894年(明治27年)4月、第9代県会議長に就任した。
正木 直太郎(まさき なおたろう、安政3年11月9日(185… 正木 直太郎(まさき なおたろう、安政3年11月9日(1856年12月6日) - 昭和9年(1934年)4月20日)は日本の教育者。 信濃国上田藩士、正木六郎左衛門の長男として上田城下(長野県上田市)に生まれる。1864年藩校明倫堂に学ぶ。1874年上京して同人社で英学を学び、1882年東京師範学校中等科を卒業。1884年旧制郡立小県中学校(長野県上田高等学校)校長に就任、1886年長野師範学校教諭となり、1893年同校長に就任し、信濃教育会長も務める。1899年埼玉師範学校長、1901年香川師範学校長を歴任するが、教科書裁判に連座し休職となった(のちに無罪)。 1904年弘文学院教授、のち清国安慶高等師範学堂に招かれ、1913年帰国。
上原 勇作(うえはら ゆうさく、1856年12月6日〈安政3… 上原 勇作(うえはら ゆうさく、1856年12月6日〈安政3年11月9日〉- 1933年〈昭和8年〉11月8日)は、日本の陸軍軍人。元帥陸軍大将従一位大勲位功二級子爵。 陸軍大臣、教育総監、参謀総長。この「陸軍三長官」を歴任した上で元帥府に列せられたのは、帝国陸軍史上、上原、杉山元の2名のみである。兵科は工兵科。 薩摩藩領であった日向国都城(現:宮崎県都城市)出身。妻は野津道貫の娘、槙子。山縣有朋、桂太郎ら長州閥の元老凋落の後に陸軍に君臨し、強力な軍閥(上原閥)を築き上げた。上原閥に属する者に荒木貞夫、真崎甚三郎、柳川平助、小畑敏四郎らがいた。 聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・グランド・クロス(GCMG)。
千頭 清臣(ちかみ きよおみ、1856年12月5日(安政3年… 千頭 清臣(ちかみ きよおみ、1856年12月5日(安政3年11月8日) - 1916年(大正5年)9月9日)は、日本の教育者、内務官僚、政治家。官選県知事、貴族院議員、錦鶏間祗候。幼名・徳馬。 土佐藩士・千頭清雄の二男として生まれる。1880年、東京大学文学部を卒業。1881年7月、東京大学予備門教諭に就任。1886年、イギリスに留学。帰国後、第一高等中学校教諭となり、さらに、鹿児島高等中学造士館教授、高知県尋常中学校長、第二高等学校教授を歴任。 1896年8月、内務省に転じ、内務書記官兼内務省参事官に就任。1897年11月、栃木県知事(「栃木県知事一覧」参照)に就任。以後、宮城県・新潟県・鹿児島県の各知事を歴任。
富田 仙助(冨田、とみた せんすけ、1855年12月31日(… 富田 仙助(冨田、とみた せんすけ、1855年12月31日(安政2年11月23日) - 1913年(大正2年)9月27日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 但馬国城崎郡豊岡内小井田町(のち兵庫県城崎郡豊岡町、現・豊岡市)に生まれる。漢学を学ぶ。酒造業と貿易業を営む。豊岡町戸長、豊岡町長を経て、城崎郡会議員となる。また、日本赤十字社終身社員に推薦された。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において兵庫9区から進歩党公認で立候補して初当選。同年8月の第6回衆議院議員総選挙では憲政本党から出馬して再選を果たした。1902年の第7回衆議院議員総選挙では兵庫県郡部で憲政本党から立候補したが落選した。
稲田 邦植(いなだ くにたね、1855年12月26日(安政2… 稲田 邦植(いなだ くにたね、1855年12月26日(安政2年11月18日) - 1931年(昭和6年)5月28日)は稲田家16代当主。稲田家は代々徳島藩の筆頭家老であり、かつ淡路国洲本城主(現在の兵庫県洲本市)だった。維新後は男爵。 安政2年(1855年)11月18日、14代当主稲田植乗の長男として生まれた。母は禎寿院。幼名は小八郎。 父が早く亡くなり、15代当主稲田植誠の養子となった。1865年(慶応元年)12月、11歳で家督を継ぎ、九郎兵衛を名乗った。徳島藩は佐幕であったのに対して、尊皇攘夷派であったため早々に新政府軍に帰順した。1868年(慶応4年)、鳥羽・伏見の戦いでは日の御門を守衛し、摂津国西宮への出兵や高松藩の征討、有栖川宮熾仁親王の護衛などの任を務めた。
福留 清四郎(ふくとめ せいしろう、1855年12月26日(… 福留 清四郎(ふくとめ せいしろう、1855年12月26日(安政2年11月18日) - 1921年(大正10年)2月8日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。勲等は勲四等。 伯耆国生まれ(現・鳥取県西伯郡大山町)。農業を営む。1895年(明治28年)2月から同年5月まで、同年6月8日から1897年(明治30年)4月まで、1899年(明治32年)9月21日から1903年(明治36年)9月20日まで、同月21日から1904年(明治37年)3月3日までの4期に渡って帝国党所属鳥取県会議員を務めた。 同年の第9回衆議院議員総選挙において鳥取県郡部から帝国党公認で立候補して初当選。続く1908年(明治41年)の第10回衆議院議員総選挙では大同倶楽部公認で立候補して再選。
田中 穂積(たなか ほづみ、1855年12月22日(安政2年… 田中 穂積(たなか ほづみ、1855年12月22日(安政2年 旧暦11月14日) - 1904年(明治37年)12月31日)は、現在の山口県岩国市出身の作曲家、海軍軍人。 代表作である『美しき天然』(1902年(明治35年))は日本初のワルツとされている。大正、昭和期にはサーカスやチンドン屋などが客の呼び込みで演奏する曲として全国に広まった。同曲は長崎県立佐世保北高等学校と長崎県立佐世保南高等学校の前身の1つである私立佐世保女学校(佐世保市立成徳高等女学校)で田中が音楽指導する際に、教材として作曲したものと伝えられている。『美しき天然』の歌碑が佐世保市の烏帽子岳に、田中穂積の銅像が佐世保市の展海峰に建立されており、佐世保市民の愛唱歌として親しまれている。
佐々木 政吉(ささき まさきち、安政2年11月11日(185… 佐々木 政吉(ささき まさきち、安政2年11月11日(1855年12月19日) - 昭和14年(1939年7月11日))は、日本の医学者。 1855年(安政2年)、江戸・本所で生まれた。1865年(慶応元年)、蘭方医・佐々木東洋の養嗣子となった。 1871年、大学東校予備門に入学。1879年に大学東校(現・東京大学医科)を卒業。1880年、内科学研鑽のために自費でドイツに留学。 1884年に帰国し、大学東校講師に就いた。1885年、33歳で帝国大学医科教授に就任。これは日本人として初めての大学東校教授であった。1888年、医学博士号を取得。これは日本人として第2号であった。1891年4月、コッホのツベルクリン療法調査研究のためドイツに出張。
鈴木 仙太郎(すずき せんたろう、1855年12月18日(安… 鈴木 仙太郎(すずき せんたろう、1855年12月18日(安政2年11月10日) - 1936年(昭和11年)10月28日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(立憲改進党→憲政本党→立憲国民党)、愛知県会議員などを務めた。 尾張国海東郡佐屋村(現在の愛知県愛西市)出身。1883年(明治16年)、代言人となる。1894年(明治27年)、第4回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。1903年(明治36年)、愛知県会議員に選ばれ、議長を務めた。その後、1908年(明治41年)の第10回衆議院議員総選挙で再選された。
桐原 捨三(きりはら すてぞう、1855年12月17日(安政… 桐原 捨三(きりはら すてぞう、1855年12月17日(安政2年11月9日) - 1926年(大正15年)8月25日)は、明治期の教育者、ジャーナリスト。大阪商業講習所所長。旧姓・河野(こうの)。桐原式と呼ばれる新聞販売法で業績を残した。 武蔵国足立郡糠田村(現・埼玉県鴻巣市)に河野家の四男として生まれ、桐原家に養子に入る。浦和中学に学び、1874年(明治7年)慶應義塾に入り、1878年(明治11年)の卒業後に駅逓局に入る。 1880年(明治13年)三菱商業学校を卒業し、福澤諭吉の紹介で大阪商業会議所の五代友厚に聘せられ大阪商業講習所所長となる。府立になると共に大阪高等商業学校に改編。次いで大阪新報に入り、神戸新報、改進新聞を経る。
平田 箴(ひらた ただし、1855年12月17日(安政2年1… 平田 箴(ひらた ただし、1855年12月17日(安政2年11月9日)- 1925年(大正14年)8月15日)は、明治から大正期の弁護士、政治家。衆議院議員、岩手県会議長。 陸奥国磐井郡、のちの岩手県西磐井郡一関町(現一関市)で、一関藩士の家に生まれた。藩校教成館で文武の課程を修めた。 警察官を志願し、盛岡警察署(現盛岡東警察署)詰巡査となる。その後退職して自由党に加わり、代言人(弁護士)の業務に従事。その清潔公平な働きで信頼を得て、村会議員、一関町会議員に選出された。その後、岩手県会議員となり、同副議長、同議長を務めた。その他、所得税調査委員、郡徴兵参事員、破産管財人なども務めた。 1894年(明治27年)3月、第3回衆議院議員総選挙(岩手県第5区、自由党)で初当選し、第4回総選挙でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
西郷 吉義(さいごう よしみち、1855年12月15日(安政… 西郷 吉義(さいごう よしみち、1855年12月15日(安政2年11月7日) - 1927年(昭和2年)9月3日)は、明治期から大正期の医師、医学博士、陸軍軍医学校長、宮内省侍医・宮中顧問官を歴任する。正三位勲一等功四級。 信濃国松本城下に松本藩士・西郷眞諒の次男として生まれ幼名を早苗と称し、後に叔父の西郷元善の養子となる。祖先は松平康長に仕えた三河西郷氏。1882年(明治15年)東京大学医学部を卒業し、同期には青山胤通・猪子止戈之助・田代正等がいる。 卒業後、医学部准助教授(内科学)となった後、日本陸軍軍医となり陸軍一等軍医に任官し軍医学校教官(内科学担当)となった。1896年(明治29年)12月16日『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』編纂委員に任命され、また陸軍衛生会議議員に選ばれた。
住田 善平(安政2年11月7日(1855年12月15日) -… 住田 善平(安政2年11月7日(1855年12月15日) - 明治39年(1906年)9月8日)は、日本の実業家、政治家。住田呉服店の主人。旧姓・瀬尾。元米子銀行監査役。初代米子町名誉助役。第四代米子町長。 元米子町会議員住田寅次郎の父。娘は境町(現境港市)の回船問屋武良(むら)家に嫁いだ。漫画家水木しげる(本名:武良茂)は善平の曾孫にあたる。 鳥取県西伯郡成実村大字美吉・瀬尾家に生まれた。與喜蔵の二男。幼名を光太郎と称す。米子東倉吉町住田善吉の養嗣となり家督を継承し四代の主となる。住田氏は近世期中ごろから東倉吉町に居住し、“住田屋”を号した。衣料、雑貨を営業し、近代に入って呉服類を中心に営業を継続拡張した。
佐々田 懋(ささだ すすむ / すすみ、安政2年11月6日(… 佐々田 懋(ささだ すすむ / すすみ、安政2年11月6日(1855年12月14日) - 昭和15年(1940年)3月27日)は、日本の実業家、政治家。島根県多額納税者。佐々田合名会社社長。衆議院議員、貴族院議員。 孫・百合子は元中国電力会長櫻内乾雄の妻。 石見国那賀郡木田村(現・島根県浜田市)の豪農である佐々田家に生まれる。佐々田家は尼子義久の子佐々田宗久が、尼子氏の先祖である佐々木氏と妻の実家の名である田中氏の名を取って創始した。和漢学を修めた。 浜田県会議員、浜田県十五等出仕、那賀郡会議員、島根県会議員、島根県会議長を務めた。1890年(明治23年)7月、第1回衆議院議員総選挙に島根県第5区から出馬し衆議院議員に初当選。
沢山 精八郎(澤山、さわやま せいはちろう、1855年12月… 沢山 精八郎(澤山、さわやま せいはちろう、1855年12月11日(安政2年11月3日) - 1934年(昭和9年)3月21日)は、明治から昭和時代初期の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。 肥前大村藩士・沢山熊右衛門の長男として生まれる。長崎広運館にて英学を修める。1899年(明治32年)家督を相続した。島原水電、沢山汽船、沢山兄弟商会、遠洋漁業、九州汽船各社長、長崎銀行頭取、長崎製鉄所取締役などを歴任した。ほか、長崎市名誉参事会員、同市会議員、長崎商業会議所副会頭などを務めた。 1925年(大正14年)長崎県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1932年(昭和7年)9月28日まで在任した。
中村 弥六(なかむら やろく、安政元年12月8日〔1855年… 中村 弥六(なかむら やろく、安政元年12月8日〔1855年1月25日〕 - 昭和4年〔1929年〕7月7日)は日本の林学者・農商務官僚・政治家(代議士)。号は「背水」または「背山」で、通称「背水将軍」。 日本初の林学博士の一人で、原敬首相暗殺犯中岡艮一の大叔父(中岡の父・精の叔父)にあたる。歴史学者の中山久四郎元東京文理科大学教授は養子で、その長女二三子は、南洋拓殖社長を務めた下田文一の妻。 信濃国伊那郡高遠城下(現在の長野県伊那市)に儒学者・中村元起(黒水と号す)の二男として生まれる。中村家は代々高遠藩の藩儒の家柄。明治2年(1869年)上京し安井息軒に学んだのち、翌年貢進生として開成学校に入学する。
小池 正直(こいけ まさなお、1854年12月23日(嘉永7… 小池 正直(こいけ まさなお、1854年12月23日(嘉永7年11月4日) - 1914年1月1日)は、日本の陸軍軍人。貴族院議員。陸軍軍医総監・正四位・勲一等・功二級・医学博士・男爵。山形県鶴岡市出身。 鶴岡藩医・小池正敏の長男として生まれる。大学東校に入り、陸軍軍医生徒となり、1881年3月、東京大学医学部を卒業。同期は三浦守治、高橋順太郎、中濱東一郎、森林太郎、佐藤佐、賀古鶴所であった。 同年6月、陸軍軍医副に任官し、東京陸軍病院に配属。大阪陸軍病院、軍医本部付(釜山駐在)、近衛付、軍医学舎教官、兼陸軍省医務局副課員、医務局第1課長心得などをへて、1888年3月からドイツに官費留学し、ミュンヘン大学で学んだ。
広海 二三郎(廣海、ひろうみ にさぶろう、1854年12月2… 広海 二三郎(廣海、ひろうみ にさぶろう、1854年12月22日(安政元年11月3日)- 1929年(昭和4年)1月29日)は、明治時代の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。5代二三郎。北前船主。 広海常信(4代二三郎)の長男として、加賀国江沼郡瀬越村(石川県江沼郡大聖寺町瀬越を経て、加賀市大聖寺瀬越町)に生まれる。生家は加賀大聖寺藩の海運界の旧家。家訓により16歳から5年間手船に乗って船乗りと商売の基礎を学んだ。1887年(明治20年)1月、常信の死亡により家督を相続する。 1884年(明治17年)大阪に進出し、広海商店と屋号を掲げ、船舶業および海産物業を経営し、1889年(明治22年)には北海道小樽に「広海倉庫」を設立した。
高峰 譲吉(たかみね じょうきち、嘉永7年11月3日(185… 高峰 譲吉(たかみね じょうきち、嘉永7年11月3日(1854年12月22日) - 大正11年(1922年)7月22日)は、日本の化学者、実業家。工学博士号と薬学博士号を受ける。タカジアスターゼ、アドレナリンを発見し、アメリカ合衆国で巨万の財を成した。日本人による開発型ベンチャー企業やスタートアップの先駆者とされる。理化学研究所の設立者の一人。1912年帝国学士院賞受賞、1913年帝国学士院会員。 現在の東京大学工学部の前身の一つである工部大学校卒、応用化学を専攻し、社会人となってから3年間、官費で留学。 1854年に越中国高岡(現:富山県高岡市)の山町筋と呼ばれる御馬出町(おんまだしまち)の漢方医高峰精一の長男として生まれる。
遠藤 秀景(えんどう ひでかげ、1854年12月20日(安政… 遠藤 秀景(えんどう ひでかげ、1854年12月20日(安政元年11月1日)- 1911年(明治44年)5月16日)は、明治時代の政治家、漁業家。自由民権運動家。衆議院議員(1期)。幼名は岩太郎。 加賀藩士で素封家の父、遠藤柳の長男として加賀国河北郡浅野村(石川県河北郡中口村、小坂村を経て現金沢市小橋町および昌永町)に生まれる。幼くして関兵次郎、矢野三内、太田清蔵、秦秀植、南部虎之助などに付き剣術や槍術を学んだ。ついで島田定静の門に入り文学を修め、同門の塾長となった。18歳の時、仏学校に入るが退学し、県立中学に転じた。 1877年(明治10年)西南戦争が勃発すると島田一郎らが西郷隆盛を援けることを主張したが、これに反対した。
浜野 昇(はまの のぼる、1854年12月17日(安政元年1… 浜野 昇(はまの のぼる、1854年12月17日(安政元年10月28日) - 1920年(大正9年)2月11日)は、日本の医師、政治家。
小野木 源次郎(おのぎ げんじろう、安政元年10月28日〈1… 小野木 源次郎(おのぎ げんじろう、安政元年10月28日〈1854年12月17日〉 - 1925年〈大正14年〉9月11日)は、幕末・戊辰戦争期の武士、明治から大正にかけての警察官・実業家・政治家である。 会津藩藩士として生まれ、戊辰戦争に従軍。その後は警察官に転じ、各地の警察署長や県警察部長などを歴任した。1907年(明治40年)より実業界に転じて長野県の電力会社信濃電気の社長に就任し、1912年(大正元年)には郷里の福島県若松市(現・会津若松市)に戻って若松市長(第5代)を務めた。 小野木源次郎は、安政元年10月28日(新暦:1854年12月17日)、会津若松城下(現・福島県会津若松市)に生まれた。
重野 謙次郎(しげの けんじろう、1854年12月16日〈安… 重野 謙次郎(しげの けんじろう、1854年12月16日〈安政元年10月27日〉 - 1930年〈昭和5年〉11月5日)は、衆議院議員(自由党→憲政党→立憲政友会→無所属)。 出羽国天童に天童藩士重野謙次郎の子として生まれる。戊辰戦争では藩主に従い奔走した。1869年(明治2年)、藩命により東京に遊学。一度は郷里に戻るも再び上京し、講学法社で法学を学んだ。1880年(明治13年)に山形で「法律学社」を創設し、自由民権運動を推進した。また集会条例改正を建白したことで衆望を集め、翌1881年(明治14年)7月、山形県会議員に選出された。1886年(明治19年)2月26日から1887年(明治20年)12月7日まで同副議長を務めた。
松村 脩平(まつむら しゅうへい、1854年12月7日(安政… 松村 脩平(まつむら しゅうへい、1854年12月7日(安政元年10月18日) - 1927年(昭和2年)10月7日)は、明治から昭和時代戦前の政治家。実業家。貴族院多額納税者議員。茨城県結城郡宗道村長。 下総国、のちの茨城県結城郡宗道村(千代川村を経て現下妻市)出身。小川八郎の弟として生まれ、1874年(明治7年)松村新造の養子となり家督を相続したのち、更に養子直四郎に譲り、1912年(大正元年)11月分家する。 1889年(明治22年)以降、宗道村会議員、同村長、茨城県会議員、結城郡会議員などのほか、石下銀行取締役を歴任した。 1897年(明治30年)9月には茨城県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1898年(明治31年)7月5日まで務めた。
滝沢菊太郎/瀧澤菊太郞(たきざわ きくたろう、1854年12… 滝沢菊太郎/瀧澤菊太郞(たきざわ きくたろう、1854年12月4日(嘉永7年10月15日) - 1933年(昭和8年)1月12日)は明治時代から大正時代にかけての日本の教育者。府県師範学校長。 信濃国埴科郡福井村(現・長野県千曲市)生まれ。14歳で寺子屋に学び私塾で漢学を修める。1874年に上京、日本橋の私塾日章堂、次いで慶應義塾に入塾し英学を学ぶ。1876年東京師範学校に入学。師範教育取調を目的とする米国留学から帰国した伊沢修二・高嶺秀夫が、ペスタロッチ主義教育(開発教授)の本格的導入を開始した時期であったため、卒業取消を願って3年の履修課程を6年かけ、1882年2月に同校中学師範学科を卒業した。
金子 弥平(かねこ やへい、安政元年12月(1854年) -… 金子 弥平(かねこ やへい、安政元年12月(1854年) - 1924年2月17日)は、明治期の官僚、満州開拓者、実業家。興亜会や黒龍会といったアジア主義団体に幅広く通じたナショナリストの魁的な存在。正式名は金子弥兵衛。 弥平はペリー来航の翌年、安政元年12月(1854年)に現在の岩手県花巻市で生まれる。金子家は近江系の有力商家で、南部藩から苗字帯刀を許されていた郷士に当たる人物である。明治維新後の1872年(明治5年)の春に単身上京して福澤諭吉の書生となり、翌年の1873年(明治6年)5月には慶應義塾に入る。卒業後は、郷党の先輩・東政図に触発され、清国北京公使館通弁見習として大陸に渡り、種々の活動を試みた。
鵜飼 退蔵(うかい たいぞう、1853年12月27日(嘉永6… 鵜飼 退蔵(うかい たいぞう、1853年12月27日(嘉永6年11月27日) - 1915年(大正4年)12月19日)は、明治時代の滋賀県の政治家。 1853年(嘉永6年)11月、近江国栗太郡東坂村(後の金勝村、現栗東市東坂)に住いする鵜飼藤右衛門の長男として誕生し、近隣の私塾に入塾した後に京都の岩垣月洲に就いて経書典籍を修め、1870年(明治3年)帰郷した。1872年(明治5年)地租改正令公布に伴い穴村(現草津市)の駒井深美とともに地租改正委員に選ばれ、1879年(明治12年)4月20日第一回滋賀県議会が大津南町顕證寺において開かれた際は栗太郡より県会議員に選出され、以後30年間その職にあった。
大山 綱昌(おおやま つなまさ、1853年12月24日(嘉永… 大山 綱昌(おおやま つなまさ、1853年12月24日(嘉永6年11月24日) - 1934年(昭和9年)10月18日)は、日本の官僚、政治家、警察官、陸軍軍人。貴族院議員、錦鶏間祗候。位階および勲等は正三位・勲二等。4県の知事を務めた。幼名・勘助。 陸軍元帥の大山巌の父大山綱昌とは同姓同名だが、直接的な血縁関係はない。 薩摩国鹿児島郡鹿児島近在西田村(現鹿児島県鹿児島市)で、鹿児島藩士、大山探賢の長男として生まれる。1875年(明治8年)、警視庁13等出仕となる。1877年(明治10年)、陸軍中尉に任官し西南戦争に出征。階級は陸軍憲兵大尉まで昇り、一等警視補に転じた。次いで、農商務省に移り、権少書記官、書記官、参事官、工務局次長、商工局次長、権大書記官を歴任。
手塚 猛昌(てづか たけまさ、1853年12月22日(嘉永6… 手塚 猛昌(てづか たけまさ、1853年12月22日(嘉永6年11月22日) - 1932年(昭和7年)3月1日)は、「時刻表の父」として知られる、明治期の実業家。日本最初の月刊時刻表とされる「汽車汽船旅行案内」の発行者。 現在の山口県萩市須佐出身。元の名は岡部緒三郎。 長州藩士の家柄だが家貧で四書五経を独学で修めた。長州藩永代家老の益田家が設けた郷校・育英館で学び、33歳の時に上京し慶應義塾(現・慶應義塾大学)に進んだ。 その後、庚寅新誌社を創立し政治経済雑誌を発行する一方『庚寅新誌』を発行し、政治活動を始める。1894年(明治27年)に恩師福沢諭吉の勧めで、英国の時刻表を手本に「汽車汽船旅行案内」を発行。
野田 卯太郎(のだ うたろう、嘉永6年旧暦11月21日(18… 野田 卯太郎(のだ うたろう、嘉永6年旧暦11月21日(1853年12月21日) - 昭和2年(1927年)2月23日)は日本の政治家、実業家。号は大塊。衆議院議員、逓信大臣、商工大臣などを務めた。福岡県平民。一平民から大臣にまで昇った立身出世を体現するような人物である。
告森 良(こつもり りょう / こつもり はじめ / つげも… 告森 良(こつもり りょう / こつもり はじめ / つげもり りょう、1853年12月21日(嘉永6年11月21日) - 1919年(大正8年)11月27日)は、明治から大正期の内務官僚。官選県知事。 伊予国宇和島城下御殿町(現愛媛県宇和島市)出身。宇和島藩士・告森桑圃の長男として生まれる。1873年、神山県に出仕。以後、兵庫県、広島県、長崎県、愛媛県、京都府で勤務。 1887年5月、愛媛県東宇和郡長に就任。以後、兼西宇和郡長、京都府参事官、岐阜県参事官、埼玉県書記官、岡山県書記官、徳島県書記官などを歴任。 1908年3月、鳥取県知事に就任。倉吉中学校・県立商業学校の新設、農事試験場拡張、耕地整理事業、因伯牛の改良などを推進。
上村 精之助(かみむら せいのすけ、1853年12月1日(嘉… 上村 精之助(かみむら せいのすけ、1853年12月1日(嘉永6年11月1日)- 1929年(昭和4年)2月1日)は、明治から大正期の農業経営者・政治家。衆議院議員、鹿児島県肝属郡花岡村長。 薩摩国鹿児島郡鹿児島城下(現鹿児島県鹿児島市)で生まれた。漢学を修めた。海軍兵学校、大阪英語学校で学んだ。 1881年(明治14年)犬童英輔らと博愛社を結成し、県下各地で演説会を催した。三州社が結成され博愛社はこれに合同した。九州改進党に加わらなかったが、鹿児島同志会が結成されると加入して委員となる。 その後、肝属郡花岡村(現鹿屋市花岡)に移り農業を営み、1887年(明治20年)8月、鹿児島県会議員に選出された。
大森 治豊(おおもり はるとよ、嘉永5年11月10日(185… 大森 治豊(おおもり はるとよ、嘉永5年11月10日(1852年12月20日) - 1912年2月19日)は日本の外科医、医学博士。日本の腹部外科の開拓者。 1852年(嘉永5年)、上山藩御典医、大森快春の長男として江戸に生まれる。以後、出羽国上山藩に移り、藩校の明新館に入学。 1879年東京大学医学部卒業後、福岡医学校に赴任し、1885年同校校長となる。1885年日本で初めて帝王切開手術に成功し、以来次々に腹部手術を行う。 1903年、福岡医科大学が創設された際に、初代学長兼付属医院長となり、外科学講座をもつ。1909年病気により退官、1911年九州帝国大学名誉教授。 1910年、九州大学医学部に大森の銅像が建てられた。
岸本辰雄(きしもと たつお/ たつゆう、1852年12月18… 岸本辰雄(きしもと たつお/ たつゆう、1852年12月18日(嘉永5年11月8日) - 1912年(明治45年)4月4日)は、日本の法学者。明治大学の創設者。 因幡国南本寺町(現在の鳥取市)に鳥取藩士岸本平次郎の三男として生まれる。幼名、辰三郎。当初藩校尚徳館で蘭式兵法を修める。 戊辰戦争に従軍後、1869年(明治2年)、箕作麟祥の共学塾に入門。翌年、貢進生として鳥取藩の推薦を受け、大学南校(後の東京大学)に入学。1872年(明治5年)、新設の司法省明法寮(後に司法省法学校)に第一期生として入学。ジョルジュ・ブスケ、ギュスターヴ・エミール・ボアソナードらにフランス法を学び1876年(明治9年)卒業。
八巻 九万(八卷 九萬、やまき くまん、1852年12月14… 八巻 九万(八卷 九萬、やまき くまん、1852年12月14日(嘉永5年11月4日)- 1929年(昭和4年)4月1日)は、明治から昭和初期の大地主、政治家。衆議院議員、山梨県会議長。号・水竹漁史。幼名は熊太郎。 甲斐国巨摩郡箕輪村(山梨県北巨摩郡安都那村箕輪、高根村、高根町を経て現北杜市高根町箕輪)で、大地主の家に生まれる。父は勘弥、母はちゑ子。徽典館で学び、その後も学業を続けたいとの希望がかなえられず出奔し、上京して慶應義塾で学んだ。父の病の知らせにより帰郷して看病に手を尽くしたが死去し、家督を相続して東京に戻り、学業を終えて帰郷した。 戸長、区長総代理、学区総取締などを歴任。1879年(明治12年)山梨県会議員に選出され、同議長も務めた。
広住 久道(ひろずみ きゅうどう、1852年12月7日(嘉永… 広住 久道(ひろずみ きゅうどう、1852年12月7日(嘉永5年10月26日) - 1910年(明治43年)2月5日)は、明治時代の政治家。自由民権運動家。衆議院議員(5期)。 遠江掛川藩領志太郡阿知ヶ谷村(静岡県志太郡六合村を経て現島田市)に生まれる。斎藤拝石に漢学を学び、15歳にして阿知ヶ谷村の名主になる。1871年(明治4年)同村に栄昌舎を創立し、後進の教育に尽くした。国会開設請願運動にも関わり、郷里の有志惣代として奔走した。1882年(明治15年)静岡県会議員に当選し、同年立憲改進党が組織されると静岡県改進党に入党した。 1892年(明治25年)2月の第2回衆議院議員総選挙では静岡県第3区から出馬し当選。
山辺 丈夫(やまのべ たけお、1851年12月30日〈嘉永4… 山辺 丈夫(やまのべ たけお、1851年12月30日〈嘉永4年12月8日〉 - 1920年〈大正9年〉5月14日)は、日本の武士(津和野藩士)、明治期の紡績技師・実業家。従五位。 東洋紡(東証プライム)の創業者である。 嘉永4年(1851年)、石見国津和野城下の森町堀内にて津和野藩重臣・清水格亮(大目付、側用人を歴任し、明治維新後は権大参事を務めた)の二男として生まれる。幼名は虎槌または善蔵で、後に丈夫と改めた。4歳の時に同藩士の山辺正義の養子となる。 津和野潘の藩校であった養老館に学んだ後、1870年(明治3年)に藩の奨学制度によって文学修行の命を受け上京。当初は同藩出身の福羽美静の培達塾で学んでいたが、元来洋学を志していたため、西周の育英舎や中村敬宇の英学同人舎に移り英語や洋学を学んだ。
9代 吉野 周太郎(よしの しゅうたろう、1851年12月2… 9代 吉野 周太郎(よしの しゅうたろう、1851年12月24日(嘉永4年12月2日)- 1911年(明治44年)8月2日)は、明治期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。幼名・九八郎。 陸奥国信夫郡八島田村(福島県信夫郡野田村、吾妻町を経て現:福島市八島田。当時は越後新発田藩の領地。)に於いて名主吉野安兵衛の四男として生まれる。兄・周太郎の死後に9代周太郎を襲名し、1898年(明治31年)4月に家督を相続した。 1897年(明治30年)以降、第百七国立銀行取締役、同頭取などを務めた。1904年(明治37年)9月29日、貴族院多額納税者議員に任じられ、 1911年8月、在任中に死去した。
瀧川 辨三(たきがわ べんぞう、嘉永4年11月21日(185… 瀧川 辨三(たきがわ べんぞう、嘉永4年11月21日(1851年12月13日) - 大正14年(1925年)1月12日)は、日本の実業家、政治家。 1884年、神戸で興したマッチ製造会社(精燧社)が成功、精燧社は数々の会社を吸収して東洋燐寸株式会社と改名し、辨三は「日本のマッチ王」と呼ばれるようになる。神戸のガス・水道・電気・築港などの公共事業にも参画した。神戸商工会議所会頭、貴族院多額納税者議員(1915年1月21日 - 1918年9月28日)などを歴任し1925年没。享年75。 嘉永4年(1851年)11月21日長府藩士瀧川清の二男として生まれた(戸籍では兵庫県平民)。幼名は百十郎、通称は武熊。
尾形 兵太郎(おがた ひょうたろう、嘉永4年11月14日(1… 尾形 兵太郎(おがた ひょうたろう、嘉永4年11月14日(1851年12月6日)- 昭和9年(1934年)1月4日)は、衆議院議員(憲政本党)、弁護士。 岡山藩士尾形徳蔵の長男として岡山城下上内田町(現在の岡山市北区)に生まれる。岡山藩藩学で漢学を学んだ後、1865年(元治2年)に岡山兵学館に入り、洋式兵学を学んだ。1870年(明治3年)、兵学三等教授に就任するが、翌年の廃藩置県で藩兵が廃止されるとともに、兵学館も閉鎖となった。1876年(明治9年)、代言人制度の発足とともに代言人の免許を取得し、岡山で開業した。翌年、神戸に移り、さらに1881年(明治14年)に大阪に移った。 憲政本党に入党し、機関紙『関西週報』の発行にあたった。
能川 登(のがわ のぼる、1851年12月5日(嘉永4年11… 能川 登(のがわ のぼる、1851年12月5日(嘉永4年11月13日)- 1910年(明治43年)4月7日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。幼名・辰太郎。号・西京農夫。 加賀国石川郡本吉町(金沢県石川郡美川町、石川県石川郡美川町を経て現白山市美川本吉町)で、船主・能川太平治の長男として生まれる。金沢の叔父・畑春斎宅に寄寓し漢学を修めた。13歳で帰郷し、郷校開道館・素読教師、加賀藩銃卒取締、駅逓取締を務めた。1879年(明治12年)家督を相続。 1874年(明治7年)大阪に出て法学を研究し、1877年(明治8年)京都に移り、草場船山に師事し漢学を修めた。1878年(明治9年)9月、京都米商会所の創立委員として上京し、政府に出願をしたが許可を得られなかったため、内務卿大久保利通に面会して允許の内諭を得て帰京した。
奥宮 正治(おくみや まさはる、嘉永4年11月12日(185… 奥宮 正治(おくみや まさはる、嘉永4年11月12日(1851年12月4日) - 1927年(昭和2年)7月20日)は、明治時代の司法官僚。大審院検事。宮城控訴院検事長。幼名は猪左馬。 奥宮慥斎の長男として土佐高知藩領土佐郡布師田村(現高知市布師田)に生まれる。1873年(明治6年)司法省に出仕する。1881年(明治14年)検事に進み、1890年(明治23年)広島地方裁判所検事正となり、神戸地方裁判所検事正、横浜地方裁判所検事正を歴任し、1896年(明治29年)司法書記官に任じた。1899年(明治32年)大審院検事となり、のち宮城控訴院検事長に就任した。
大久保 鉄作(おおくぼ てっさく、嘉永3年11月28日(18… 大久保 鉄作(おおくぼ てっさく、嘉永3年11月28日(1850年12月31日) – 大正10年(1921年)7月5日)は、日本の新聞記者、政治家。 秋田市長(第5代)、衆議院議員(立憲政友会)、秋田県会議長、秋田県会議員などを務めた。 久保田藩士大久保盛実の長男として中谷地町(現秋田市)に生まれる。藩校明徳館で漢学を学んだ後、東京に出て1875年(明治8年)より朝野新聞の記者となった。帰郷後の1881年(明治14年)に秋田日報を創刊し、1883年(明治16年)に秋田改進党を結成した。同年、秋田県会議員に選ばれ、後に議長に就任した。後藤象二郎が大同団結運動を唱えると、これに呼応して東北九州連合の必要性を説いて、精力的に活動した。
木村 利武(きむら としたけ、嘉永3年11月28日(1850… 木村 利武(きむら としたけ、嘉永3年11月28日(1850年12月31日) - 1914年(大正3年)10月2日)は、明治時代の政治家、実業家。愛媛県松山市長。 松山城下柳井町で藩士・木村利長の長男として生まれる。1871年(明治4年)松山県庁掌、1874年(明治7年)愛媛県雇・戸長、1878年(明治11年)風早郡書記、1880年(明治13年)同郡長心得、1886年(明治19年)風早・和気・温泉・久米郡長心得を歴任。1890年(明治23年)1月に松山五十二銀行取締役に転じたが、同年2月6日、推挙され松山市長に就任した。 1896年(明治29年)2月まで市長を務めたのち、実業界に入り、松山商業銀行頭取、同行取締役、松山商業会議所会長などを歴任した。
田代 進四郎(たしろ しんしろう、嘉永3年11月23日(18… 田代 進四郎(たしろ しんしろう、嘉永3年11月23日(1850年12月26日) - 大正15年(1926年)3月13日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 肥前国小城郡小城町(現在の佐賀県小城市)出身。茨城県学務課勤務や出版事業経営を経て、宮城県仙台市に弁護士事務所を開業した。仙台弁護士会長、宮城県教育会副会長、仙台英語学校校長などを務めた。また仙台市会議員、同議長、宮城県会議員、同議長に選ばれた。 1912年(明治40年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他、広瀬電力株式会社取締役を務めた。
町田 菊次郎(まちだ きくじろう、嘉永3年11月23日(18… 町田 菊次郎(まちだ きくじろう、嘉永3年11月23日(1850年12月26日) - 1917年(大正6年)4月2日)は、群馬県の養蚕家。高山長五郎の後を継いで高山社第2代社長となり、私立甲種高山社蚕業学校を設立した。 嘉永3年(1850年)11月23日上野国緑野郡本郷村の養蚕農家町田藤太郎の子として生まれた。幼名は藤太郎。明治5年(1872年)3月9日家督を継ぎ、1874年(明治7年)3月本郷村副戸長となった。 矢場村で堤防工事を監督した際、休憩時間に吉田半十郎宅で高山長五郎の清温育の講義を聞いて興味を持ち、1875年(明治8年)入門し、1876年(明治9年)蚕児飼育法授業員として地域を巡回した。