相馬 永胤(そうま ながたね、1850年12月25日(嘉永3… 相馬 永胤(そうま ながたね、1850年12月25日(嘉永3年11月22日) - 1924年(大正13年)1月26日)は日本の政治家、法学者、経済学者、代言人、横浜正金銀行頭取、専修学校創立者の一人・校長、専修大学創立者・初代学長。
12月生まれ:9,845人
相馬 永胤(そうま ながたね、1850年12月25日(嘉永3… 相馬 永胤(そうま ながたね、1850年12月25日(嘉永3年11月22日) - 1924年(大正13年)1月26日)は日本の政治家、法学者、経済学者、代言人、横浜正金銀行頭取、専修学校創立者の一人・校長、専修大学創立者・初代学長。
高取 伊好(たかとり これよし、1850年12月15日(嘉永… 高取 伊好(たかとり これよし、1850年12月15日(嘉永3年11月12日) - 1927年(昭和2年)1月7日)は、明治時代に活躍した佐賀藩出身の実業家、炭鉱技術者である。漢詩も嗜み西渓と号した。正六位。 法律家で元老院議員を務めた鶴田皓は実兄。Z旗のTakaこと高取ヒデアキとNobuこと高取伸和は曾孫。佐藤栞里の遠い親戚でもある。 1850年、佐賀藩多久領の武士、鶴田斌の三男として生まれる。その後、9歳の時には姉の嫁ぎ先である高取家の養子となりその家督を継いだ。 また、多久家の世継ぎである多久乾一郎の御学友に選ばれており、多久藩の郷校東原庠舎や佐賀藩校弘道館などで共に漢学と国学を学んでいる。
大須賀 庸之助(おおすが ようのすけ、嘉永3年11月4日(1… 大須賀 庸之助(おおすが ようのすけ、嘉永3年11月4日(1850年12月7日)-明治39年(1906年)4月17日)は、明治期の政治家。下総国香取郡磯山(現在の千葉県香取市(旧佐原市))出身。 豪農の出身で26歳の時に地元・磯山の戸長を務めて地租改正の実施に尽くした。その後千葉県の県会議員を務め、明治14年(1881年)に香取郡の郡長に就任して利根川の治水対策や佐原出身の伊能忠敬の贈位実現に尽力した。その頃、庸之助をはじめとする香取郡の人々は利根川の洪水防止策を求めていたが、利根川の恩恵を受けられずに水不足に苦しむ房総半島の人々はこれに強く反発して、地域間の対立を生じていた。そこで明治17年(1884年)、千葉県側の治水対策に不満を抱く茨城県と房総半島選出の県議達が連携して利根川以北の千葉県域を茨城県に譲る替わりに利根川の治水工事に茨城県が費用を負担するとした県境変更運動を開始したのである。
葦原 金次郎(あしわら きんじろう、嘉永3年11月3日(18… 葦原 金次郎(あしわら きんじろう、嘉永3年11月3日(1850年12月6日) - 1937年(昭和12年)2月2日)は、明治後半から昭和にかけての日本の皇位僭称者。葦原将軍、葦原天皇、葦原帝とも呼ばれる。また「葦」の字を「蘆(芦)」として蘆原金次郎、蘆原将軍とされる場合もある。訓みは旧仮名遣いでは「あしはら」と表記されるが、発音は「あしわら」である。 生まれは越中国高岡(現在の富山県高岡市)とする文献と、加賀国金沢(現在の石川県金沢市)とする文献がある。 埼玉県深谷で櫛職人として働いていたが、20歳の時に東京に出て発病したと言われる。24歳の時に結婚したが、懲役に処せられたことから妻に逃げられ離婚。
和田 方正(わだ ほうせい、1850年12月(嘉永3年11月… 和田 方正(わだ ほうせい、1850年12月(嘉永3年11月)- 1895年(明治28年)5月2日)は、明治期の地主、農業経営者、政治家。衆議院議員。 下野国塩谷郡、のちの栃木県塩谷郡岡村(片岡村大字岡村、矢板町を経て現矢板市)で、戸長を務める家に生まれた。農業を営む。 三大区三小区副戸長に就任。1872年(明治5年)29カ村戸長となる。以後、地主総代、区長、学区取締を務めた。1882年(明治15年)2月、栃木県会議員に選出され、立憲改進党に所属して、1890年(明治23年)まで8年間在任した。この間、塩谷郡学務課長を務めた。 1894年(明治27年)9月、第4回衆議院議員総選挙(栃木県第4区)で当選したが、議員在任中の1895年5月、日本赤十字社病院で肺疾患のため死去した。
児玉 仲児(こだま ちゅうじ、嘉永2年11月14日(1849… 児玉 仲児(こだま ちゅうじ、嘉永2年11月14日(1849年12月28日) - 明治42年(1909年)1月24日)は、和歌山県の民権家、官吏、衆議院議員(3期)、大日本水産会名誉会員。 紀伊国那賀郡中山村(粉河村、粉河町を経て現紀の川市)生まれ。同窓に濱口梧陵、陸奥宗光など。 はじめ、森田節斎について漢学を学び、京阪の鴻儒について文学を修める。明治6年(1873年)に慶應義塾に入学し、卒業後に大蔵省記録局(13等)に出仕。のちに辞して自由民権運動に参加。明治9年(1876年)の地租改正について、和歌山県令・神山郡廉に提出した建白書を発端にして、「粉河騒動」の端緒となる。 明治10年(1877年)陸奥宗光の協力により、粉河に風猛学校を設立し、翌年に自由民権の結社・実学社、木国同友会を率いる。
矢板 武(やいた たけし、1849年12月28日(嘉永2年1… 矢板 武(やいた たけし、1849年12月28日(嘉永2年11月14日) - 1922年(大正11年)3月22日)は下野国・栃木県の実業家。那須疏水の開削で知られる。 下野国塩谷郡矢板村(現・栃木県矢板市)の坂巻家に長男として生まれる。出生名は坂巻七五郎(さかまき しちごろう)。後に武兵衛(ぶへえ)と名を改めた。 1866年(慶応2年) に矢板村組頭、明治維新を経て1869年(明治2年) に矢板村名主となる。翌年、黒崎七郎右衛の娘ハマと結婚。この頃、矢板武と改名する。 1872年(明治5年) 宇都宮県五大区六小区副戸長、1873年に栃木県第三大区四小区副戸長、1874年に郵便取扱役、1875年に第三大区三小区区長となる。
河目 正平(かわめ しょうへい、1849年12月26日(嘉永… 河目 正平(かわめ しょうへい、1849年12月26日(嘉永2年11月12日) - 1890年(明治23年)8月6日)は、三河国碧海郡熊村(現在の愛知県刈谷市)出身の教育者。 刈谷市熊野町の安養寺には石碑「河目正平先生之碑」がある。 1849年(嘉永2年)11月12日、河目正平は三河国碧海郡熊村(現在の愛知県刈谷市)に生まれた。幼名は幸太郎であり、後に源吾と称し、やがて正平に改めた。 刈谷藩の藩校である文礼館の教師を務めていた。明治維新期の1870年(明治3年)7月、刈谷藩の命で大垣藩に遊学し、帰郷すると刈谷学校(現・刈谷市立亀城小学校)、熊村学校、高浜学校(現・高浜市立高浜小学校)、野田学校(現・刈谷市立双葉小学校)で教員を務めた。
16代 木村 庄之助(じゅうろくだい きむら しょうのすけ、… 16代 木村 庄之助(じゅうろくだい きむら しょうのすけ、嘉永2年11月12日〈1849年12月26日〉 - 明治45年〈1912年〉1月6日)は、大相撲の立行司。本名は柘→大家→柘新助。出身地は、現在の愛知県豊橋市。 吉田船町(現・豊橋市船町)で煮売屋の長男として生まれる。田舎相撲の強豪だった父親の影響で相撲に興味を持つが、体格に恵まれなかったため行司として研鑽を積むようになる。 安政6年(1859年)秋、吉田で江戸相撲の興行があり、その折に3代目清見潟に預けられ入門。13代庄之助に師事し、元治元年(1864年)4月に木村新介の名で初めて番付に載った。明治4年(1871年)4月に、3代木村龍五郎を襲名。
乃木 希典(のぎ まれすけ、1849年12月25日〈嘉永2年… 乃木 希典(のぎ まれすけ、1849年12月25日〈嘉永2年11月11日〉- 1912年〈大正元年〉9月13日)は、日本の陸軍軍人。日露戦争において旅順攻囲戦を指揮したことで知られる。戦後は明治天皇より第10代学習院長に任じられ、迪宮裕仁親王(昭和天皇)の教育係も務めたが、明治天皇の大喪の礼の当日に妻共々自刃した。人々から「乃木大将」や「乃木将軍」と呼ばれて深く敬愛され、「乃木神社」や「乃木坂」にも名前を残している。最終階級は陸軍大将。栄典は贈正二位勲一等功一級伯爵。 幼名は無人(なきと)で、その後、源三と改め、頼時とも称した。後、文蔵、次いで希典と名を改めた。また、出雲源氏佐々木氏の子孫と称したことから「源希典」との署名もよく用いた。
美澤 進(みさわ すすむ、1849年12月24日(嘉永2年1… 美澤 進(みさわ すすむ、1849年12月24日(嘉永2年11月10日) - 1923年(大正12年)9月16日)は日本の教育者。Y校の愛称で知られる横浜商法学校の初代校長であり、死没するその日まで同職を40年以上勤め続けた。字は業卿。 備中国三沢村(後の岡山県高梁市川上町三沢)の生まれ。遠祖は宇多源氏とされる。父・三村繁八郎、母・於美津の6人兄弟の長男で幼名を徳太郎という。実家は代々庄屋を務めて酒造りを行い、成羽藩藩外の豪士として名字帯刀を許された家柄であったが、家業の酒造りの失敗や父と叔父による鉱山投資の失敗で貧困に喘いでいた。美澤は学問での立身を志し、満12歳の1862年(文久2年)に興譲館へ入学。
宇佐川 一正(うさがわ かずまさ、1849年12月24日〈嘉… 宇佐川 一正(うさがわ かずまさ、1849年12月24日〈嘉永2年11月10日〉- 1927年〈昭和2年〉11月10日)は、明治から昭和初期の日本陸軍の軍人、政治家、華族。最終階級は陸軍中将。貴族院男爵議員。 長州藩士・藤村太郎右衛門の四男として生まれ、宇佐川久平の養子となる。伏水教導隊に入り、下士官試補、権曹長、曹長と昇進し、1874年(明治7年)6月、陸軍戸山学校を卒業し、翌月、歩兵少尉に任官。以後、歩兵第14連隊付となり、1877年(明治10年)2月、西南戦争に出征した。歩兵第24連隊大隊副官、歩兵第1旅団参謀、同副官、近衛歩兵第1旅団副官、第1師団参謀、歩兵第17連隊付、監軍部副官、近衛師団参謀などを歴任し、日清戦争には第1軍参謀として出征し、田村怡与造の後任として同軍参謀副長となった。
織田 惣三郎(おだ そうざぶろう、1849年12月17日(嘉… 織田 惣三郎(おだ そうざぶろう、1849年12月17日(嘉永2年11月3日) - 1957年(昭和32年)3月28日)は、かつて男性長寿日本一であった福井県の男性。 1849年石川県(加賀国)能美郡白峰村に生まれ、88歳までそこで暮らすが、1934年の大水害により福井県勝山市平泉寺町に移住する。 100歳ぐらいまでは草刈りなどをし、106歳時点でも酒を3合程度飲んでいた。父は92歳、母は84歳、兄弟も80~90歳代まで生きた長寿の家系であった。 1956年9月時点では国内最高齢男性とされ、子は5人のうち2人が存命でひ孫まで合わせて19人であった。 1957年3月28日、老衰のため107歳で死去。
桂 弥一(かつら やいち、嘉永2年(1849年)12月10日… 桂 弥一(かつら やいち、嘉永2年(1849年)12月10日 – 昭和14年(1939年)6月19日)は、幕末から明治・昭和初期にかけての長府藩士、維新志士、牧畜事業家。諱は孝俊。初め季澄と名乗る。維新後は牧畜・開墾事業を通じて公共に尽力し、没後に従六位を追贈された。 嘉永2年(1849年)12月10日、長府藩士桂助左衛門久澄の子として長府に生まれる。父は12代桂土左衛門(大江久澄)、母は原田則朗(金弥)の娘で、末子であった。幼少期は8歳で三吉幸之助・土生静馬に書画・読書を学び、11歳より山田易之助・井上源三郎に師事して小笠原流を修めた。12歳のとき、のちの大将乃木希典(当時は乃木無人)とともに菅文達に学び、漢籍の素養を身につけた。
上原 六四郎(うえはら ろくしろう、嘉永元年12月3日(18… 上原 六四郎(うえはら ろくしろう、嘉永元年12月3日(1848年12月28日) - 大正2年(1913年)4月1日)は、日本の音響学者・美術工芸教育者。 岩槻藩士として江戸に生まれる。1869年(明治2年)、開成学校に入ってフランス語を学び、翌年大学少得業生となる。文部省少助教となり、陸軍士官学校に出仕。軽気球製作御用取扱を命じられた。1882年(明治15年)より、文部省専門学務局音楽取調掛勤務、東京職工学校勤務、東京商業学校教諭などを歴任した。1889年(明治22年)、東京美術学校数学講師となり、翌年に東京工業学校教諭・東京美術学校教諭となった。1890年(明治23年)に東京工業学校教授・東京美術学校教授となり、翌年に東京工業学校附属職工徒弟学校主事となった。
西川 義延(にしかわ ぎえん、1848年12月28日(嘉永元… 西川 義延(にしかわ ぎえん、1848年12月28日(嘉永元年12月3日)- 1908年(明治41年)10月26日)は、明治期の地主・農業経営者・政治家。衆議院議員、京都府会議長。旧姓・山中、幼名・栄次郎、旧名・庄蔵。 河内国交野郡長尾村(大阪府交野郡菅原村、北河内郡菅原村、津田町を経て現枚方市)で豪農・山中与治兵衛の二男として生まれる。1866年(慶応元年2月)山城国綴喜郡田辺村(京都府綴喜郡田辺村大字田辺小字北里、田辺町を経て現京田辺市)の南山郷士、地主・西川長十郎長女ユキの婿養子となり、庄蔵と改名、のちに義延に改めた。 綴喜郡第八区長、第三区副区長、同郡地券取調掛、京都府会議員、同副議長、同議長、同郡部会副議長、同常置委員、綴喜郡兼相楽郡長などを務めた。
近藤 廉平(こんどう れんぺい、1848年12月20日(嘉永… 近藤 廉平(こんどう れんぺい、1848年12月20日(嘉永元年11月25日)- 1921年(大正10年)2月9日)は、幕末から大正期の武士(徳島藩士)、実業家、政治家、華族。男爵、日清汽船社長、日本郵船会社第3代社長、貴族院男爵議員。 阿波国麻植郡(のちの鴨島町西麻植江川、現・徳島県吉野川市)の医者の家に生まれる。 1862年(文久2年)に徳島藩中老である仁尾内膳の書生となる。同年、新居水竹の小心塾にて益田永武と共に学ぶ。その後、柴秋邨の思斉塾に転学。当時出会った阿部興人とは終生の親友となる。師であった水竹が庚午事変に関係して切腹を命じられた際は、徳島市の潮見寺に遺髪を葬った。 慶應義塾、大学南校に学び、1872年(明治5年)淡路出身の星合常恕に勧められ岩崎弥太郎が経営する三菱商会に入る。
小幡 儼太郎(おばた げんたろう、1848年12月17日(嘉… 小幡 儼太郎(おばた げんたろう、1848年12月17日(嘉永元年11月22日)– 1909年(明治42年)7月8日)は、明治期の漢学者、政治家。衆議院議員。幼名・正己。号・楽山、水哉。 紀伊国名草郡和歌山城下(和歌山県和歌山区を経て現和歌山市)で、和歌山詰、紀伊田辺藩士・小幡儀左衛門の長男として生まれる。父は早くに没した。 1868年(明治元年)京都で僧・天章に漢学を師事し、その後、大坂の並河華、兵庫の菅野健助に学び、さらに、東京の安井息軒、塩谷宕陰、伊勢の土井有恪に師事した。牟婁郡田辺城下で漢学塾を開き子弟の教育を行った。 1873年(明治6年)第七大区学区取締に就任し、同区一小区長、西牟婁郡書記を歴任し、1881年(明治14年)に退職。
川合 清丸(かわい きよまる、嘉永元年11月21日(1848… 川合 清丸(かわい きよまる、嘉永元年11月21日(1848年12月16日) - 大正6年(1917年)6月24日)は、神道・禅・儒学の三道を融合して、「日本の国教」を確立しようとした思想家、宗教家。字は子徳、号は山陰道士、無々道人。 伯耆国箆津(現、鳥取県琴浦町)出身。父親が太一垣神社の神職であったので、幼少から神道を学び、太一垣神社の社掌となった。 明治6年(1873年)に大神山神社の権宮司となる。大神山神社と大山寺との関係から生じた神仏分離問題に関する庶務で東京に出た時に、神仏への信仰や道徳心の荒廃した風潮を目の当たりにしたという。これをきっかけに、神道のみならず儒教・仏教・キリスト教や西洋の学問を広く学ぶ必要を痛感し、遊学した。
阿部 孝助(あべ こうすけ、1848年12月16日(嘉永元年… 阿部 孝助(あべ こうすけ、1848年12月16日(嘉永元年11月21日) - 1926年(大正15年)6月19日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 江戸生まれ。東京市下谷区上野で呉服商を営む。 1894年3月の第3回衆議院議員総選挙において東京府第8区から無所属で立候補して当選した。衆議院議員は1期務め、同年9月の第4回衆議院議員総選挙は不出馬。1896年6月の東京市会議員選挙に下谷区から立候補して当選した。同じく東京市会議員であった千澤専助が設立した下谷銀行の取締役も務めている。1926年死去。
三宅 秀(みやけ ひいず、嘉永元年11月17日(1848年1… 三宅 秀(みやけ ひいず、嘉永元年11月17日(1848年12月12日) - 昭和13年(1938年)3月16日)は、日本の医師・洋学者・医学者・貴族院議員。東京大学で最初の医学博士、のち名誉教授。幼名は復一(またいち)。
川上 操六(かわかみ そうろく、1848年12月6日〈嘉永元… 川上 操六(かわかみ そうろく、1848年12月6日〈嘉永元年11月11日〉- 1899年〈明治32年〉5月11日)は、明治期の日本の陸軍軍人。旧薩摩藩臣。官位は参謀総長・陸軍大将。栄典は従二位・勲一等・功二級・子爵。桂太郎、児玉源太郎とともに、「明治陸軍の三羽烏」とされる。 長男の素一は陸軍歩兵少佐、娘は小原伝陸軍中将に嫁ぐ。 薩摩国鹿児島郡鹿児島城外吉野村中ノ町にて、島津氏譜代の臣川上伝左衛門親徳の第3子として生まれる。幼名は宗之丞。母は肝付氏の五郎兵衛の娘のなか子。兄に藤七親綱、弟に茨城県警察部長となった親義がいる。その下の弟である丈一は西南の役で戦死した。川上氏は島津家一族で、その庶流であったが、数代前に家運が衰微したため、祖父の時に鹿児島城下より寒村の吉野村に移っていた。
天春 文衛(あまがす ぶんえい、1847年12月16日(弘化… 天春 文衛(あまがす ぶんえい、1847年12月16日(弘化4年11月9日) - 1927年(昭和2年)8月24日)は、日本の政治家、実業家。帝国議会において、衆議院議員(政友本党所属)や貴族院多額納税者議員を務めた。朝明郡の大地主・天春家の当主。伊勢国三重郡保々村出身(現在の三重県四日市市保々地区出身)。 明治時代から大正時代にかけての政治家で、農事改良や地価改良運動に取り組んだ。 天春文衛は、朝明郡中野村の名門地主の天春家の跡継ぎとして弘化年間に誕生した。朝明郡の中野村は以下の変遷の地方自治体となる。 東京に上京して、島田元林の塾に入塾して学業を積み政治家となった。三重郡保々村の大地主であった。
岡本 則錄(おかもと のりふみ、おかもと のりぶみ、1847… 岡本 則錄(おかもと のりふみ、おかもと のりぶみ、1847年12月7日(弘化4年10月30日) - 1931年(昭和6年)2月17日)は、日本の数学教育者、和算家、陸軍教授。和算から西洋数学へ転向し、文科省に横書きの教科書を刊行するよう建議した。日本数学会の前身である東京数学会社の設立に携わった。 海軍の中川勝行と荒川重平の訳語統一を支援し、「公理」「単位」「数学」などの語を発案した。 金融業を営む後藤誠作と後藤くにの間に長男として生まれ、最初は後藤を名乗った。父誠作の没後に岡本備中守にあやかり姓を岡本とした。和算家としては長谷川弘に師事した。花柳流に通っていたため貧しくなり、弟子の松岡文太郎に助けられて生活していた。
石川 柳城(いしかわ りゅうじょう、弘化4年10月26日(1… 石川 柳城(いしかわ りゅうじょう、弘化4年10月26日(1847年12月3日) - 昭和2年(1927年)11月17日)は、明治-大正時代の南画家。尾張国海部郡佐屋村(現:愛知県愛西市佐屋町)出身。 名は戈足。字は子淵、通称金三郎のち孝蔵。雅号は柳城。本姓は伊東。吉田稼雪の門。京都に出て日根野対山・中西耕石らと交わり、また台湾や中国に歴遊して研鑽をつみ、南画の泰斗としてその名を知られた。 弘化4年10月26日(1847年12月3日)、尾張国海部郡佐屋村(現:愛知県愛西市佐屋町)の旧尾張藩史、伊藤耕斎の第三子(伊藤金三郎)として生まれる。文久元年(1861年)、14歳で吉川家の養子となり「考蔵」と改名。
杉本 重遠(すぎもと しげとお、弘化3年11月14日〈184… 杉本 重遠(すぎもと しげとお、弘化3年11月14日〈1846年12月31日〉 - 1921年〈大正10年〉2月24日)は、幕末の館林藩士、明治期の内務官僚・実業家。大分県知事。従四位勲四等。幼名、太郎吉。 弘化3年(1846年)、江戸浜町の館林藩中屋敷に生まれる。父は杉本重好。3歳の時に父とともに館林へ移った。館林藩主・秋元志朝が創設した藩校・求道館(のち造士書院)に学び、表小姓として出仕した。また藩外交官補助、国事外交係を務める。 明治維新後は鎮将府に召し出された。明治2年(1869年)館林藩権少参事となり、権少検事、大警部などを歴任する。1884年(明治17年)には欧米を歴訪。徳島県書記官、警視庁警務局長、新潟県書記官などを歴任する。
屋須 弘平(やす こうへい / Juan José de J… 屋須 弘平(やす こうへい / Juan José de Jesús Yas / 1846年〈弘化3年〉12月27日 - 1917年〈大正6年〉11月29日)は、岩手県(陸奥国)で生まれ、アンティグア・グアテマラへと移住した日本人写真家である。日本の写真創成期の写真家達(上野彦馬や下岡蓮杖など)とは無縁に、グアテマラで写真術を習得した。 1846年、岩手県一関市藤沢町藤沢に生まれた。父は蘭学医の尚安。幼少期より父から蘭学を学び、1863年、15歳で上京し叔父より漢学を学ぶ。その後医学や天文学などを修学し、1868年に帰郷。3年ほど医業に携わり、再び上京。 1874年に神奈川県横浜市で通訳として金星観測を行った著名なメキシコン人天文学者コバルビアス率いるメキシコ科学調査隊との出会いをきっかけとして、メキシコへ渡った。
山本 貴三郎(やまもと きさぶろう、1846年12月20日(… 山本 貴三郎(やまもと きさぶろう、1846年12月20日(弘化3年11月3日)- 1899年(明治32年)12月22日)は、幕末の佐賀藩士、明治期の実業家・政治家。衆議院議員。 肥前国高来郡、のちの長崎県北高来郡諫早町(現諫早市)で生まれた。郷校で学び、その後、熊本に遊学し漢学、武術を修めた。16歳で帰郷し、佐賀藩の選抜生となり長崎の江戸町英学校で学び、さらに何礼之に師事し英学を修めた。 1868年(慶応4年)戊辰戦争が開戦すると、副島種臣らと長崎に赴き、振遠隊として長崎、島原、大村から隊員を募り、その後、秋田に向かい新政府軍に加わった。 その後、官途には就かず天草、肥前松島、平戸などで採炭事業を営む。
野々村 久次郎(ののむら きゅうじろう、1846年12月12… 野々村 久次郎(ののむら きゅうじろう、1846年12月12日(弘化3年5月30日) - 1925年(大正14年)11月4日)は、明治から大正時代の政治家。銀行家。貴族院多額納税者議員。 美濃国方県郡、のちの岐阜県本巣郡西郷村(現岐阜市)出身。野々村佐太郎の子として生まれ、のち叔父佐兵衛の養子となり1887年(明治20年)4月、家督を相続する。 1879年(明治12年)以降、下西郷村戸長、同衛生委員、本巣郡会議員のほか、第九十五国立銀行取締役、野々村銀行頭取を歴任した。 1918年(大正7年)9月には岐阜県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1921年(大正10年)7月6日まで務めた。
正木 退蔵(まさき たいぞう、弘化3年10月24日(1846… 正木 退蔵(まさき たいぞう、弘化3年10月24日(1846年12月12日) - 1896年(明治29年)4月5日)は、明治時代の教育者、外交官。旧萩藩士で、維新後ロンドンに留学し、開成学校講師で化学を教えた。その後、同校留学生監督として再び渡英し、帰国後東京職工学校初代校長に就任、晩年は在ハワイ王国総領事を務めた。正五位勲六等。 弘化3年(1846年)10月24日、長門国萩城外土原村渡り口筋で、萩藩大組士正木治右衛門の三男として生まれた。間もなく佐伯丹下の養子となったが、後に正木姓に復した。 安政5年(1858年)松下村塾で数ヶ月間吉田松陰に学んだ後、毛利元徳小姓として長州正義派に与し、大村益次郎の三兵学科塾で蘭学、兵学、三田尻海軍学校で英学を学んだ。
佐藤 進(さとう すすむ、1845年12月23日〈弘化2年1… 佐藤 進(さとう すすむ、1845年12月23日〈弘化2年11月25日〉 - 1921年〈大正10年〉7月25日)は、幕末から明治にかけての医師、医学者、日本陸軍軍医、順天堂医院院長。最終階級は陸軍軍医総監(中将相当官)。男爵。医学博士。 常陸国太田内堀(現:茨城県常陸太田市内堀町)で醸造業を営む高和清兵衛の長男として生まれる。佐倉順天堂に入り、その堂主であり叔母の夫である佐藤尚中の養嗣子となる。戊辰戦争では奥州に出張し、白河、三春で新政府軍の病院頭取を務めた。 明治2年(1869年)、明治政府発行の海外渡航免状第1号を得てドイツに留学。ベルリン大学医学部で学び、1874年(明治7年)にアジア人として初の医学士の学位を取得し帰国。
井上 源衛(いのうえ げんえ、1845年12月23日(弘化2… 井上 源衛(いのうえ げんえ、1845年12月23日(弘化2年11月25日) - 1923年(大正12年)3月30日)は、明治から大正時代の政治家。神職。衆議院議員。 美濃国本巣郡、のちの岐阜県本巣郡穂積村(穂積町を経て現瑞穂市)に生まれる。1871年(明治4年)第七大区二小区年番戸長となり穂積村と前野村の戸長を兼ね、1873年(明治6年)神官教導職、1874年(明治7年)2月、第七大区二小区権区長を兼ね、同郡山口村住吉神社などの神官、区長を兼任した。 1877年(明治10年)農事や養蚕業の研究のため地方を回り、帰郷後は1879年(明治12年)4月に岐阜県会議員となり衛生会委員を兼ねた。1880年(明治13年)8月、県内の治水改修のため西濃11郡の有志者と治水共同社を設立し取締役を務め、木曽、揖斐、長良川の三大河川改修事業を政府に請願した。
古賀 喜三郎(こが きさぶろう、弘化2年11月24日(184… 古賀 喜三郎(こが きさぶろう、弘化2年11月24日(1845年12月22日)- 大正3年(1914年)12月21日)は、日本の海軍軍人(海軍少佐)、教育者。海城学園の創設者。 肥前国佐賀郡北川副村古賀(現佐賀県)に平尾吉左衛門、よしの次男として生まれ、20石取りの下級武士である古賀家の養子となる。佐賀藩の砲隊司令として奥羽追討の師に加わり、秋田の戦いに功績があって有栖川大総督宮から感状を下賜された。 1891年11月、私財を投じて有栖川宮を始めとする多くの皇族達の賛同を得て海軍予備校、後の海城学園を創設。以降、理事長兼校長として、数多くの将校を育てた。
中山 平八郎(なかやま へいはちろう、1845年12月13日… 中山 平八郎(なかやま へいはちろう、1845年12月13日(弘化2年11月15日)- 1930年(昭和5年)10月2日)は、明治から昭和初期の農業経営者、政治家。衆議院議員、奈良県会議長。旧姓・飯田、幼名・格太郎。 大和国山辺郡長柄村(奈良県〔第一次〕山辺郡長柄村、堺県山辺郡長柄村、大阪府山辺郡長柄村、奈良県山辺郡長柄村、朝和村を経て現天理市長柄町)で、飯田嘉市の三男として生まれ、1872年(明治5年)同郡田村(山辺村、丹波市町を経て現:天理市)の中山平四郎の養嗣子となる。国学、漢学を修めた。農業を営む。 1881年(明治14年)大阪府会議員に当選。奈良県再設置運動に参加、1887年(明治20年)に奈良県が再設置され奈良県会議員となり、1894年(明治27年)まで在任し、同議長も務めた。
岩村 高俊(いわむら たかとし、弘化2年11月10日(184… 岩村 高俊(いわむら たかとし、弘化2年11月10日(1845年12月8日)- 明治39年(1906年)1月4日)は、日本の江戸時代後期から明治期の武士(土佐藩士)、官僚、華族である。初名は鉄五郎、のち精一郎。 宿毛領主伊賀家に仕えた岩村英俊(礫水)の三男で、岩村通俊、林有造の弟。位階勲等は従二位、勲二等、男爵。美術評論家・美術史家の岩村透は長男、次男は建築家の竹腰健造。 土佐国幡多郡、のちの宿毛村貝塚(宿毛町を経て現宿毛市)に生まれる。藩校の文武館で蘭学や砲術を学ぶ。慶応3年(1867年)9月に通俊の鉄砲購入に随行して長崎へ行く。ここで監察・佐佐木高行の添え書きを得て11月に上京し、陸援隊に入隊した。
松尾 徳三郎(まつお とくさぶろう、1845年12月5日(弘… 松尾 徳三郎(まつお とくさぶろう、1845年12月5日(弘化2年11月7日)- 1915年(大正4年)5月31日)は、明治期の実業家、政治家、衆議院議員(1期)。 大和国宇陀郡松山町(のち奈良県宇陀郡松山町、大宇陀町を経て現宇陀市)で松尾四良三郎の長男として生まれた。1885年(明治18年)4月、家督を相続。学区取締、奈良県会議員、大阪府会議員、同常置委員、勧業諮問会委員、町村会議員、連合町村会議員となる。大和銀行頭取、奈良県農工銀行取締役も務めた。 1894年9月の第4回衆議院議員総選挙において奈良2区から大手倶楽部所属で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1898年3月の第5回衆議院議員総選挙は不出馬。
山川 浩(やまかわ ひろし、弘化2年11月6日〈1845年1… 山川 浩(やまかわ ひろし、弘化2年11月6日〈1845年12月4日〉- 明治31年〈1898年〉2月4日)は、日本の武士(会津藩家老)、陸軍軍人、政治家、教育者。最終階級は陸軍少将、位階勲等・爵位は従三位勲三等・男爵。 陸軍省人員局長 兼 輜重局長、陸軍省総務局制規課長、高等師範学校長・附属中学校初代校長、貴族院議員を歴任した。明治初年までの諱は重栄、字は士亮、通称は大蔵(おおくら)、与七郎。号は屠竜子。 祖父は、会津藩家老・山川兵衛 重英。父は、山川尚江 重固。山川家の家禄は1千石。 祖父の重英が高齢まで隠居せずに家老職にあったため、父の重固は山川家の嗣子の立場で会津藩に出仕して郡奉行主役を務めていた。
岩村 兼善(いわむら かねよし、1845年12月2日(弘化2… 岩村 兼善(いわむら かねよし、1845年12月2日(弘化2年11月4日) - 1919年(大正8年)11月27日)は、幕末の高鍋藩士、明治・大正期の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍主計少将。貴族院勅選議員。幼名・虎雄。 日向国児湯郡高鍋石原(現宮崎県児湯郡高鍋町)で、高鍋藩士・岩村又之進の長男として生まれ、岩村武右衛門の養子となる。藩校明倫堂で学び、さらに江戸の安井息軒に師事した。戊辰戦争時、江戸で新政府の内国事務局参与であった藩主世嗣秋月種樹が、上杉鷹山以来親密な関係の米沢藩の行末を案じ、米沢藩に対して新政府へ恭順を勧める献策が認められ、その使者として岩村と坂田潔が選ばれ、戦乱の中で苦労して米沢に入り米沢藩を帰順に導いた。
井上 良馨(いのうえ よしか、1845年12月1日〈弘化2年… 井上 良馨(いのうえ よしか、1845年12月1日〈弘化2年11月3日〉- 1929年〈昭和4年〉3月22日)は、明治期の日本の海軍軍人。薩摩国(現:鹿児島県)出身。階級は元帥海軍大将。位階は従一位。勲等は大勲位。功級は功二級。爵位は子爵。 薩摩藩士・井上七郎の長男。幼名は直八。同郷で6歳年下の井上良智海軍中将との血縁はない。名前がよく似ている長州出身の井上馨とも関係がない。 1863年(文久3年)8月に勃発した薩英戦争で初陣を飾り、野津鎮雄(後に陸軍中将)の指揮下で沖小島砲台の警備に就いた。この戦いで薩摩藩はすべての砲台を艦砲射撃で破壊され、9名の死傷者を出した。物的被害に比べて格段に少ない人的被害の中に井上も含まれ、弾丸の破片で左腿貫通の重傷を負った。
笠間 広盾(かさま ひろたて、弘化2年(1845年)12月 … 笠間 広盾(かさま ひろたて、弘化2年(1845年)12月 – 明治16年(1883年)11月25日)は柳河藩出身の海軍軍人。名は楯雄とも。のち海軍大佐に進み、従五位・勲四等。 柳河藩士として生まれ、旧筑後柳河藩士・笠間直の伯父にあたる。慶応4年4月には兵庫海軍出張所への出仕を命じられ、明治4年ごろに大尉となった。明治7年の佐賀の乱では江藤新平の行方探索のため肥前海上を捜索し、その功により正七位に叙された。同年10月ごろに少佐へ進み正六位となる 。 明治10年の西南戦争では孟春艦長として従軍して功を挙げ、明治11年1月4日に勲四等旭日小綬章を授与された。明治14年には中佐に進み、筑波艦長として明治15年にはオーストラリアへ派遣され、その卓越した手腕により川村純義四天王の一人と称された。
大迫 尚敏(おおさこ なおとし/なおはる[要出典]、1844… 大迫 尚敏(おおさこ なおとし/なおはる[要出典]、1844年12月24日〈天保15年11月15日〉- 1927年〈昭和2年〉9月20日)は、明治・大正期の日本の陸軍軍人。学習院長、第7師団長等を務める。栄典は陸軍大将正二位勲一等功二級子爵。 薩摩国鹿児島郡薩摩藩冷水通町(現:鹿児島市冷水町)で、薩摩藩士・大迫新蔵の長男として生まれる。造士館生徒として学び、薩摩藩5番組として薩英戦争に従軍する。 戊辰戦争従軍の後、1871年(明治4年)3月、陸軍に入り御親兵に属す。同年少尉・中尉と進み1873年(明治6年)、陸軍省八等出仕、1874年(明治7年)には陸軍大尉を命ぜられる。 1877年(明治10年)、西南戦争に出征し、熊本城籠城戦に参加。
小澤 武雄(おざわ たけお、1844年12月19日(天保15… 小澤 武雄(おざわ たけお、1844年12月19日(天保15年11月10日) - 1926年1月29日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。貴族院議員、男爵。幼名・直之丞。 小倉藩士・小澤義房の長男として生まれる。1866年、第二次長州征伐において軍議役兼陣場奉行を勤める。1868年、戊辰戦争に出征し越後・会津へ転戦した。明治政府の若松民生局に出仕し、軍務官筆生、兵部少録、兵部権大録、兵部大録、兵部権少丞、兵部省7等出仕を経て、1871年、陸軍少佐に任官。第二副官、陸軍省官房長、アメリカ出張、陸軍省第1局長代理などを歴任。1877年2月から10月まで西南戦争に征討総督本営参謀として出征。 1878年11月、陸軍少将に進級。
関戸 覚蔵(せきと かくぞう、1844年12月17日(弘化元… 関戸 覚蔵(せきと かくぞう、1844年12月17日(弘化元年11月8日)- 1916年(大正5年)5月9日)は、明治時代の政治家。立憲革新党所属の衆議院議員(当選3回)。『茨城新聞』創刊者。 常陸国行方郡潮来村(現在の潮来市)に生まれる。潮来は水運によって栄えており、関戸家も豊かであった。東京師範学校に入学するが病気のため中退。戸長、郡書記、茨城県勧業課長を務め、1881年第3回茨城県会議員選挙に当選し、茨城県会議員を1886年まで務めた。また、自由民権運動に加わり、1880年に民権結社の公益民会を磯山清兵衛らと設立したり、国会開設請願の署名1万人分を野手一郎らと集めてその代表になった。1891年には『いはらき』(現・『茨城新聞』)を創刊し、経営者となるが経営がうまくいかず、飯村丈三郎に茨城新聞社の経営を委ねた。
田中 新七(たなか しんしち、1844年12月10日〈弘化元… 田中 新七(たなか しんしち、1844年12月10日〈弘化元年11月1日〉 - 1922年〈大正11年〉2月2日)は、明治・大正時代の実業家、鉄道経営者である。横浜市で生糸商を営みつつ各地の鉄道事業に関係して関西鉄道社長などを務めた。愛知県出身。 弘化元年11月1日(新暦:1844年12月10日)、田中久兵衛の次男として生まれる。出身は尾張国(現・愛知県)の一宮地方。嘉永7年8月(1854年)に家を継ぎ、父の時代からの家業であった製糸業に従事。施設の改良を続けて増産や品質向上に努めて財を成した。さらに明治に入ると横浜にて生糸の商いを始める。田中商店では横浜の本店のほか京都・福井・金沢にも支店を構えた。
野尻 邦基(のじり くにもと、1843年12月11日(天保1… 野尻 邦基(のじり くにもと、1843年12月11日(天保14年10月20日)– 1910年(明治43年)8月1日)は、幕末の岡藩士、明治期の官僚、政治家。衆議院議員。旧姓・首藤。幼名・長之助、半之允。 豊後国直入郡竹田町(大分県直入郡竹田町を経て現竹田市)で、岡藩士・野尻雙馬の長男として生まれる。藩校・由学館、経武館で学び、その後、長崎に遊学した。文武に通じ、廃藩置県後は岡県の少属、大属を歴任。その後、大分県庁に出仕し、中属、権大属、大属、兼任判事、大分県属、同警部、大分郡長、直入郡長を歴任した。その後、1886年(明治19年)大蔵省御用掛に転じ、主税官、佐賀県書記官、高知県書記官を務めた。 1901年(明治34年)7月、朝倉親為の死去に伴う第6回衆議院議員総選挙大分県第3区補欠選挙で当選し(首藤邦基名義)、1904年(明治37年)3月の第9回総選挙で大分県選挙区から出馬して再選され、衆議院議員を通算2期務めた。
八島 成正(やしま なりまさ、1843年12月1日(天保14… 八島 成正(やしま なりまさ、1843年12月1日(天保14年10月10日)- 1918年(大正7年)1月29日)は、明治期の養蚕家、実業家、政治家。衆議院議員、福島県会議長、福島県伊達郡石戸村長。 陸奥国伊達郡山戸田村(福島県伊達郡石戸村大字山戸田、霊山町を経て現伊達市霊山町山戸田)で生まれる。漢学を修め、農業を営む。 祠官、戸長、学区取締、福島県会議員、同常置委員、同副議長、同議長、石戸村長、伊達郡会議員、所得税調査委員などを務めた。 また、福島県蚕糸業組合頭取、蚕糸業中央部会議員、福島県蚕業学校評議員、同会長などを歴任。蚕種製造の改良を図って山戸田組を設立し頭取に就任。伊達郡の生糸改良のため扶桑社を設立した。
原 六郎(はらろくろう、天保13年11月9日(1842年12… 原 六郎(はらろくろう、天保13年11月9日(1842年12月10日) - 昭和8年(1933年)11月14日)は、日本の幕末から大正期の志士、軍人、銀行家、実業家。 但馬国佐中村(現・兵庫県朝来市)出身。もとの名は進藤俊三郎長政といい、生野の変で敗れ潜伏中に、原六郎と改名。 鎌倉時代より続く但馬国佐中村の大地主・進藤家の第22代目当主・丈右衛門長廣の六男四女の末っ子として生まれる。 11歳のころ、池田草庵の私塾・青谿書院に入門し、北垣国道、西村哲二郎らとともに学ぶ。池田草庵門下には、ほかに浜尾新(元東宮侍従浜尾実の祖父)、河本重次郎らがいる。 当時、尊皇攘夷派の活動が盛んであり、尊皇攘夷論を唱えるようになる。
勝山 芳藏(かつやま よしぞう、1841年12月27日(天保… 勝山 芳藏(かつやま よしぞう、1841年12月27日(天保12年11月15日) - 1896年(明治29年)11月30日)は、因幡国気高郡(現鳥取市)出身の力士。本名は小松 芳五郎。年寄2代尾車。最高位は東前頭5枚目(明治5年4月場所)。 玉垣に入門し1864年10月序ノ口。負け越しが一度もなく1871年4月入幕。しかし幕内では不調で一度も勝ち越せず下位の常連であった。負け越し続きにもかかわらず1877年6月までの6年間幕内から陥落しなかったのは若者頭的存在で指導能力があったためと思われる。1877年引退し年寄尾車を襲名。尾車の名跡は元禄時代以来の復活と思われ、師匠玉垣の後ろ盾と事務能力から角界に残るため復活させたと考察される。
池田 謙斎(いけだ けんさい、1841年12月22日〈天保1… 池田 謙斎(いけだ けんさい、1841年12月22日〈天保12年11月10日〉- 1918年〈大正7年〉4月30日)は、明治時代の医者。日本の近代医学の礎を築いた人物。学位は、医学博士。華族(男爵)、宮中顧問官、錦鶏間祗候。諱・秀之、幼名・圭助。通称・桂太郎または謙輔(けんすけ)で謙斎に改めた。 1841年、入沢健蔵の次男として越後国蒲原郡中之島村(現長岡市)に生まれる。幼名は圭助。安政5年3月(1858年1月 - 2月)に江戸に出、伯父の入澤貞意宅に寄宿する。漢学を瀬川道元に、剣術を心形刀流伊庭軍兵衛、オランダ語を竹垣龍太郎に学ぶ。 竹垣の紹介を経て適塾に入門し、1862年に西洋医学所へ入学した。
田中 正造(たなか しょうぞう、天保12年11月3日(184… 田中 正造(たなか しょうぞう、天保12年11月3日(1841年12月15日) - 1913年(大正2年)9月4日)は、日本の幕末から明治時代にかけての村名主、政治家。日本初の公害事件と言われる足尾鉱毒事件の解決に奔走し、明治天皇に直訴しようとしたことで有名。衆議院議員選挙に当選6回。幼名は兼三郎。下野国安蘇郡小中村(現・栃木県佐野市小中町)出身。足尾銅山鉱毒事件の被害者でもあり、救済を政府に訴えた。日本の公益活動家の嚆矢となった人物。 父の跡を継いで小中村の名主となり、幕末から村民らと領主である高家六角家に対して政治的要求を行っていたが、このことがもとで明治維新直前の慶応4年(1868年)に投獄された。