高橋 顕法(たかはし あきのり、1975年1月24日 - )… 高橋 顕法(たかはし あきのり、1975年1月24日 - )は、宮城県仙台市出身の元プロ野球選手(投手)。現在は宮城教育大学硬式野球部監督。 大和小2年で野球を始める。蒲町中を経て仙台育英高校に進学する。在学中、同校は春夏の甲子園に4回出場しているものの、高橋自身は肘や腰の故障のためにベンチ入りすら叶わず、3年間で公式戦登板なしに終わる。大学や社会人からも声はかからず、最後の手段として広島東洋カープの入団テストを受験したところ、合格。1992年のプロ野球ドラフト会議で8位指名を受け入団。全体の最後の78番目の指名だった。この時には契約金を辞退している。 3年間で二軍で通算0勝3敗、防御率9.79と結果を残せず、1995年に戦力外通告を受ける。
小坂 誠(こさか まこと、1973年7月2日 - )は、宮城… 小坂 誠(こさか まこと、1973年7月2日 - )は、宮城県亘理郡山元町出身の元プロ野球選手(内野手)、コーチ。右投左打。 少年野球時代はチームの後輩に小野淳一。山元町立山下中学校卒業。宮城県柴田高等学校では甲子園出場はなく、高校卒業後は社会人野球のJR東日本東北硬式野球部に5年間在籍。 1995年には都市対抗野球にチーム53年ぶりの出場、翌年も連続出場して1番を打った。ヤクルトスワローズのスカウトを務めていた佐藤孝夫(白石市出身で仙台鉄道管理局から国鉄スワローズに入団)がその才能を見出して獲得するよう推薦したが、低身長を理由に却下された。小坂をあきらめきれない佐藤は千葉ロッテマリーンズのGM広岡達朗(元ヤクルト監督)に「ヤクルトは取らないけれど、背は低いが俊足で守備範囲の広い遊撃手なんだ」と推薦し、実際に小坂を調査した広岡は即座に獲得を決意。
羽根川 竜(はねかわ りゅう、1973年6月5日 - )は、… 羽根川 竜(はねかわ りゅう、1973年6月5日 - )は、宮城県仙台市出身の元プロ野球選手(投手)。 東北高時代は、3年次の1991年に夏の選手権に出場。1回戦で礒部公一擁する西条農高と対戦するも敗退。 多彩な変化球を持つ軟投派の投手として、1991年のプロ野球ドラフト会議で読売ジャイアンツから6位指名を受け入団。 巨人では層の厚い投手陣に割って入れず、一軍登板を果たせないまま1996年オフに自由契約となり退団。翌1997年は千葉ロッテマリーンズに移籍し、念願の一軍登板を果たす。しかし、結果は残せずに1998年オフに自由契約となり退団。 1999年には、台湾・中華職業棒球大聯盟の兄弟エレファンツに移籍、二桁勝利を記録するなど主力投手として活躍した。
相沢 滋(あいざわ しげる、1972年 - )は、元社会人野… 相沢 滋(あいざわ しげる、1972年 - )は、元社会人野球の選手(投手)。七十七銀行に所属していた。 宮城県大崎市出身。宮城県古川高等学校時代、2年時の秋季大会で仙台育英高校を破りベスト4まで勝ち進み、宮城県選抜にも選ばれ台湾に遠征した。 高校卒業後は東北学院大学に進み、仙台六大学リーグで活躍した。 大学卒業後の1995年に社会人野球の七十七銀行に入行。 2004年の第75回都市対抗野球大会ではチーム初の準決勝進出に貢献した。 2008年の都市対抗野球大会の東北2次予選決勝で、摂津正擁するJR東日本東北に11安打を浴びながら121球を投げ1失点完投勝利。最優秀選手賞に選ばれた。この年限りで現役を引退した。
大越 基(おおこし もとい、1971年5月20日 - )は、… 大越 基(おおこし もとい、1971年5月20日 - )は、宮城県宮城郡七ヶ浜町出身の元プロ野球選手(外野手、投手)、野球指導者。 七ヶ浜町に生まれ、七ヶ浜町立亦楽小学校2年生の時に野球を始める。宮城球場でロッテオリオンズの試合を観戦した際にサインをもらい、嬉しくて変色するまで机に飾っていたという。会社員だった父の転勤に伴い、小学校6年生の時に青森県八戸市に転校。このため一部文献では青森県出身と表記されている。八戸二中では速球派投手として評価され、市内の3つの高校の野球部から勧誘を受けたという。しかし小さい頃からの憧れもあり、寮生活に反対する両親を説得し、仙台育英に進学。 高校ではエースとして第61回選抜大会に出場。
井上 純(いのうえ じゅん、1970年6月8日 - )は、宮… 井上 純(いのうえ じゅん、1970年6月8日 - )は、宮城県仙台市太白区出身の元プロ野球選手(外野手、左投左打)。引退後はコーチ、小学生対象のベースボールアカデミーコーチを経て、東北楽天ゴールデンイーグルスのチーム統括本部に在籍しスカウトをしている。 小学生時代から足が早く、中学校ではバレー部だった。東陵高校時代は大会屈指のスラッガーとして、3年生時の1988年夏の甲子園宮城県予選決勝の東北高戦では3点本塁打を放ち、同校の初優勝に貢献。同年夏の甲子園に初出場した。本戦では、初戦の福井商業高に敗退した。 打撃力と俊足を評価され、1988年のプロ野球ドラフト会議で横浜大洋ホエールズから3位指名を受け入団。
斎藤 隆(さいとう たかし、1970年2月14日 - )は、… 斎藤 隆(さいとう たかし、1970年2月14日 - )は、宮城県仙台市若林区出身の元プロ野球選手(投手、右投左打)、野球解説者。2020年以降の登録名は齋藤 隆(読み同じ)。 NPBでは横浜ベイスターズ(1993年から2005年まで在籍)と東北楽天ゴールデンイーグルス(2013年から2015年まで在籍)でプレーし、横浜時代の1998年には球団のセントラル・リーグ優勝と日本シリーズ優勝に、楽天時代の2013年にも球団のパシフィック・リーグ優勝と日本シリーズ優勝にそれぞれ貢献した。また横浜時代の1996年にはセ・リーグ最多奪三振のタイトルを獲得している。2006年から2012年にかけてMLBのロサンゼルス・ドジャースやミルウォーキー・ブルワーズなど5球団でプレーし、ドジャース時代の2008年、ブルワーズ時代の2011年にそれぞれナショナルリーグ地区優勝に貢献した。
加藤 高康(かとう たかやす、1969年6月7日 - )は、… 加藤 高康(かとう たかやす、1969年6月7日 - )は、宮城県仙台市出身の元プロ野球選手(投手)。 東海大学では首都大学リーグで12試合登板し2勝2敗。NTT東北では2年目に補強選手として都市対抗野球に出場、秋の日本選手権では完投勝利でベスト4進出に貢献した。1993年のNPBドラフト会議前に、この年導入された逆指名制度を利用して千葉ロッテマリーンズを逆指名し、会議当日にロッテから1位で指名され交渉権を獲得。契約金1億6000万円、年俸1200万円(金額は推定)で入団した。この契約条件は同年時点で球界史上最強の契約条件であり、「大型左腕」「金田二世」「開幕即戦力」と高い期待をかけられた。 1994年に一軍デビューし、1完封を含む2勝を記録。
佐々木 重樹(ささき しげき、1968年10月23日 - )… 佐々木 重樹(ささき しげき、1968年10月23日 - )は、宮城県仙台市出身の元プロ野球選手(投手)。現在は東北楽天ゴールデンイーグルスジュニアコーチ。
佐々木 主浩(ささき かづひろ、1968年2月22日 - )… 佐々木 主浩(ささき かづひろ、1968年2月22日 - )は、元プロ野球選手(投手)。現在は日本プロ野球名球会副理事長、野球解説者・野球評論家、タレント、馬主、レーシングチーム「D'station Racing」総監督。右投右打。 NPBでは1990年から1999年までと、2004年から2005年までの2度にわたり横浜DeNAベイスターズの前身球団に在籍し、抑え投手としてNPB歴代3位となる252セーブを記録した。また2000年から2003年まではMLBのシアトル・マリナーズに在籍し、日本人のMLB選手として歴代最多となるMLB通算129セーブを記録しており、NPB/MLB通算で381セーブ(日本人史上初の通算300セーブ)を記録したことになる。
中根 仁(なかね ひとし、1966年8月28日 - )は、宮… 中根 仁(なかね ひとし、1966年8月28日 - )は、宮城県仙台市泉区出身の元プロ野球選手(外野手、右投右打)・コーチ、園芸家。 小学校3年生の頃にリトルリーグで野球を始めた。幼少期はロッテの試合を見に宮城球場によく行き、有藤道世のファンだったという。仙台育英高校からも誘いはあったが、地理的に近い東北高校への進学を決定。1年夏、2年春、3年夏と3回甲子園には出場を果たしており、3年夏の1984年、1学年下の佐々木主浩や葛西稔とともに四番・右翼手で全国高校野球選手権に出場。柳井高校、日大一高を破って3回戦進出の立役者となった。高校卒業後は先輩が野球部に在籍していたことから法政大学へ進学。 大学でも右翼手を務め、クリーンアップを任されるようになった1987年の東京六大学野球春季リーグ戦で初のベストナインに外野手として選出される。
白鳥 浩徳(しらとり ひろのり、1966年5月4日 - )は… 白鳥 浩徳(しらとり ひろのり、1966年5月4日 - )は、宮城県出身の元プロ野球選手(投手)。 東北高時代は、1年秋の県大会決勝で先発したが途中降板して敗退。以後は登板なく東北大会は優勝して1983年春の甲子園に出場。また1984年夏の甲子園にも出場するが、いずれも登板機会はなかった。このときはエースナンバーを付けていたが、1年下の佐々木主浩が実質エースのため、控え投手扱いであった。 高校卒業後は、社会人野球の住友金属鹿島に入団。1990年と1993年に日立製作所の補強選手として都市対抗野球大会に出場。1990年は準々決勝で先発して3回を投げたがチームは延長の末に敗退。1993年はエースの斎藤充弘の救援として初戦から登板したが2回戦で熊谷組に敗れた。
荻原 満(おぎわら みつる、1965年12月19日 - )は… 荻原 満(おぎわら みつる、1965年12月19日 - )は、宮城県仙台市出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。 仙台商業高時代はエースで6番を打ち、1983年の3年次、夏の甲子園に出場した。3回戦に進むが宇部商業高の3年秋村謙宏(のち法大)に完封負けを喫する。 1984年に高校卒業後、東海大学へ進学し硬式野球部に入部。佐藤真一と同期であった。首都大学野球リーグでは在学中4回優勝(85春秋・86春・87春)。1985年秋季リーグでは最高殊勲選手、最優秀投手となる。リーグ通算48試合登板、28勝5敗、防御率1.61、ベストナイン2回受賞。 1987年春に左肘を手術したこともあり、同年オフにドラフト外で読売ジャイアンツに入団。
金子 誠一(かねこ せいいち、1964年7月23日 - )は… 金子 誠一(かねこ せいいち、1964年7月23日 - )は、宮城県仙台市青葉区出身の元プロ野球選手(外野手)、実業家。現在は、保険代理店・株式会社FPスタジアム代表取締役社長。 東北高では、1982年にエース兼中心打者として甲子園に春・夏と連続出場を果たす。春の選抜では1回戦でPL学園高の榎田健一郎と投げ合うが敗退。夏の選手権も、1回戦で熊本工業高の奥村高次、野村裕二のバッテリーに抑えられ惜敗した。2年下のチームメートに控え外野手の中根仁がいた。 高校卒業後は、法政大学に進学し、東京六大学野球リーグでは在学中4回の優勝を経験。当初は投手だったが、1学年上の西川佳明や同期の猪俣隆、石井丈裕ら好投手が多く登板機会には恵まれなかった。
原野 優(はらの まさる、1963年5月31日 - )は、1… 原野 優(はらの まさる、1963年5月31日 - )は、1980年代から2000年代にかけて活躍した元社会人野球選手(外野手、右投げ右打ち)、コーチである。 仙台育英高等学校3年の夏に甲子園に出場するも鹿児島実業に2-3で惜敗。 高校卒業後は専売東北へ入社。パンチ力のある外野手としてルーキーイヤーから活躍した。 入社6年目の1987年にはヨークベニマルの補強として都市対抗野球大会に初出場。また、翌1988年にはチーム名を「日本たばこ東北」を経て「日本たばこ」とした自チームの初出場に大きく貢献し、初出場ながらベスト8入りを果たした。 その後チームは「JT」と改称するが、30代後半まで常に「4番・センター」を守り続け『ミスターJT』と呼ばれた。
安部 理(あべ おさむ、1962年12月19日 - )は、宮… 安部 理(あべ おさむ、1962年12月19日 - )は、宮城県白石市出身の元プロ野球選手(外野手、一塁手)。 岩手県大船渡市立第一中学校卒。 進学した東北高等学校では、一塁手として、同期のエース中条善伸らとともに甲子園に4度出場。「東北の掛布」の異名を持つ強打者だった。2年生の時の1979年第51回選抜では1回戦で下関商に敗れる。同年第61回全国選手権も1回戦で済々黌高に大敗。翌1980年第52回選抜は2回戦(初戦)で松江商を破ったが、準々決勝で丸亀商に惜敗。同年第62回全国選手権は、1回戦で瓊浦高のエース本西厚博を打ち崩し勝利。2回戦では後関昌彦のいた習志野高を完封で下すが、3回戦で浜松商に逆転負け。
佐藤 洋(さとう ひろし、1962年6月9日 - 2025年… 佐藤 洋(さとう ひろし、1962年6月9日 - 2025年11月27日)は、宮城県出身のプロ野球選手(内野手)、高校野球指導者。 東北高校では、同期のエース・中条善伸らと甲子園に4回出場。2年生時の1979年春の選抜には三塁手として出場。1回戦で下関商に敗れる。同年夏の選手権も1回戦で済々黌高に大敗。 1980年春の選抜では二塁手に回り、2回戦(初戦)で松江商を降したが、準々決勝で丸亀商に惜敗。同年夏の選手権は再び三塁手に戻り、1回戦で瓊浦高のエース本西厚博を打ち崩し勝利。2回戦では後関昌彦のいた習志野高を完封で降すが、3回戦で浜松商に逆転負け。中条以外の高校同期に一塁手の安部理がいた。 卒業後は電電東北に入社。
中条 善伸(なかじょう よしのぶ、1962年4月12日 - … 中条 善伸(なかじょう よしのぶ、1962年4月12日 - )は、宮城県牡鹿郡女川町出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。1994年からは中條としている。 中学校時代はドロップボールを駆使し、チームを東北中学校野球大会優勝に導くなどして活躍した。 東北高では、エースとして4季連続でチームを甲子園に導く活躍を見せる。1979年春の選抜では1回戦で下関商業高に敗退。同年夏の選手権も1回戦で済々黌高に敗退。翌1980年春の選抜2回戦(初戦)で松江商業高を降したが、準々決勝で丸亀商業高に惜敗。なお、この大会では松江商戦で勝利が決定的になった9回にリリーフ登板(一死も取れず)したのみであった。この大会を含めこれまで甲子園ではいずれも四球病に泣かされた。
佐藤 誠一(さとう せいいち、1961年6月1日 - )は、… 佐藤 誠一(さとう せいいち、1961年6月1日 - )は、宮城県仙台市出身の元プロ野球選手(投手)。 宮城工業高では3年春に県大会準優勝、社会人野球の専売公社東北に進むが退社し、1982年に日本ハムファイターズの球団職員(練習生)となる。同年のプロ野球ドラフト会議でファイターズから2位指名を受け入団。 1985年、イースタン・リーグでチーム最多の7勝を挙げ、後半一軍でリリーフとして14試合に登板。翌1986年から一軍に定着し、同年8月18日のロッテ戦で初先発・初完投・初勝利を挙げた。1987年には自己最多の9勝を挙げた。 1989年には救援に転向して6勝18セーブを挙げ、オールスターゲームにも初出場。
太田 敏之(おおた としゆき、1961年3月12日 - )は… 太田 敏之(おおた としゆき、1961年3月12日 - )は、宮城県塩竈市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 塩釜高を卒業後、社会人野球の仙台鉄道管理局に入局。 1981年のプロ野球ドラフト会議で阪急ブレーブスから2位指名を受け、入団。 入団当時は近鉄の柳田豊に似た投法をしていたが、その後、じっくりと体にタメを作る山田久志に似たフォームに改造した。アンダースローからホップしてくるストレートの球質は重く、カーブ・スライダー・シンカーといった変化球もあり、即戦力として期待されたが、目立った活躍を見せることもないまま1987年限りで現役を引退した。
大久保 美智男(おおくぼ みちお、1960年7月29日 - … 大久保 美智男(おおくぼ みちお、1960年7月29日 - )は、宮城県塩竈市出身の元プロ野球選手(投手、外野手)。右投右打。 仙台育英高では、エースとして1977年から2年連続で夏の甲子園に出場。同年の大会では、1回戦で高知高に敗退。の1978年の大会は、1回戦で高松商業高の河地良一(西濃運輸)を相手に延長17回を投げ切り1-0でサヨナラ勝ち、予選からの公式戦通算39回連続無失点の記録を樹立する。3回戦に進むが、高知商業高の森浩二に抑えられ敗退。 1978年のプロ野球ドラフト会議で広島東洋カープから2位指名を受け入団。期待の戦力として背番号「1」を背負う。 プロ2年目の1980年に、中継ぎで一軍初登板を含む6試合に登板する。
佐藤 文彦(さとう ふみひこ、1960年4月9日 - )は、… 佐藤 文彦(さとう ふみひこ、1960年4月9日 - )は、宮城県東松島市出身の元プロ野球選手(投手)。 宮城県南郷農業高等学校、石巻日和倶楽部を経て、1982年オフにでロッテ・オリオンズにドラフト外入団(テスト入団)。 一軍出場のないまま入団1年で打撃投手となり、翌年で退団した。 引退後は家業に従事する傍ら、宮城県内各地で少年野球の指導に携わっている。2000年2月26日の「川崎球場オリオンズさよならイベント」には、ロッテOBとして参加した。 この項目は、野球選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ野球選手/P野球)。
長島 哲郎(ながしま てつろう、1959年11月9日 - )… 長島 哲郎(ながしま てつろう、1959年11月9日 - )は、宮城県出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 仙台育英高時代は、甲子園常連校に在学しながら(在学中、1年次と3年次に硬式野球部が夏の甲子園出場)、当時は書道部であったという異例の経歴の持ち主。 高校卒業後、東北福祉大学に進学して仙台六大学野球連盟に加盟する同校の硬式野球部に入部し、本格的に野球を始める。在学中はリーグ戦で7回の優勝を果たす。3年秋の明治神宮大会では初戦で近大を相手に完投したが1失点で惜敗。4年秋の仙台大学戦では9連続を含む17三振を奪取し、シーズン5試合で63奪三振を記録して一躍「仙台の怪腕」と注目される。リーグ通算成績23勝4敗。
及川 美喜男(おいかわ みきお、1959年9月18日 - )… 及川 美喜男(おいかわ みきお、1959年9月18日 - )は、宮城県柴田町出身の元プロ野球選手(外野手)。右投右打。 東北高では1977年に、同期のエース佐々木淳を擁し、左翼手として春の選抜に出場。2回戦で丸亀商に敗れる。同年夏の県予選でも決勝に進むが、佐々木が肩を故障し、1年下の薄木一弥(電電東北)が先発。仙台育英の後に広島で同僚となる大久保美智男に、延長12回の接戦の末0-1で完封を喫し、甲子園出場を逸する。 高校卒業後は、社会人野球の東芝に入社。都市対抗では試合出場がないが、1981年の日本選手権では先発出場。 1981年のプロ野球ドラフト会議で広島東洋カープから6位指名を受け入団。 1983年に一軍デビューを果たし中堅手として2試合に先発出場を果たすが、結果を残せなかった。
鈴木 孝行(すずき たかゆき、1957年8月24日 - )は… 鈴木 孝行(すずき たかゆき、1957年8月24日 - )は、宮城県出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。 東北高では、1975年春季東北大会準決勝に進むが、日大山形高に完封負け。高校同期に立野清広がいた。社会人野球の電電東北に入社。1977年の都市対抗に一塁手として出場する。1回戦で新日本製鐵広畑に敗退。クラブチームの東北クラブを経て、1980年オフにドラフト外で西武ライオンズに入団。 1982年に一軍初登板、1984年には4試合に先発。7月7日には近鉄バファローズを相手に5回を3安打2失点と好投するが、後続が打たれ初勝利はならなかった。1986年11月、日本ハムファイターズに金銭トレードにて移籍。
立野 清広(たての きよひろ、1957年6月5日 - )は、… 立野 清広(たての きよひろ、1957年6月5日 - )は、宮城県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。 東北高等学校から1975年ドラフト4位にてロッテオリオンズに入団。 人さし指を折った独特の握りから投げる垂直なカーブは威力十分だったが、一軍公式戦の出場がないまま1981年引退した。 引退後はロッテに残り、2003年まで同球団の打撃投手、2008年まで同球団の専任スコアラーを務めた。ロッテ在籍時代の落合博満は、打撃練習時にいつも立野を打撃投手として指名していた。
高橋 正巳(たかはし まさみ、1954年12月10日 - )… 高橋 正巳(たかはし まさみ、1954年12月10日 - )は、宮城県仙台市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 仙台育英高から、社会人野球の仙台鉄道管理局に進む。1979年の都市対抗にヨークベニマルの補強選手として出場。 1979年のプロ野球ドラフト会議で日本ハムファイターズから2位指名を受け入団。 1981年にアンダースローからサイドスローに転向。同年はスライダー、シュートやシンカーを武器に、開幕直後から先発陣に組み入れられ4勝をあげる。 1985年11月に木田勇と共に金沢次男・大畑徹との2対2の交換トレードで横浜大洋ホエールズに移籍。 1986年オフに現役を引退した。 1987年から古巣・日本ハムファイターズに戻って打撃投手を務めた。
佐々木 信行(ささき のぶゆき、1953年5月2日 - )は… 佐々木 信行(ささき のぶゆき、1953年5月2日 - )は、宮城県本吉郡津山町(現:登米市)出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ・監督、解説者。 佐沼高校から一般企業への就職が内定していたが、一転して1971年のドラフト10位でロッテオリオンズに入団。弘田澄男・成重春生・倉持明と同期で、1979年にはシーズン序盤の6試合に先発マスクを被るが、当時の主力捕手である高橋博士・土肥健二の壁は破れなかった。1980年以降は一軍出場もなくなり、1982年限りで現役を引退。 引退後もオリオンズ(川崎)→マリーンズ(千葉)とロッテ一筋で、現役時代から並行して行ってきたブルペン捕手や二軍コーチ補佐(1987年 - 1990年)、二軍コーチ(1991年)、一軍ブルペンコーチ(1992年, 1999年 - 2000年)、二軍バッテリー兼育成コーチ(1993年、二軍バッテリー育成担当コーチ(1994年)、一軍バッテリーコーチ補佐(1996年)、二軍総合コーチ(2001年)、一軍バッテリーコーチ(1998年途中, 2002年)、二軍監督(2003年)を歴任。
関東 孝雄(かんとう たかお、1951年9月2日 - )は、… 関東 孝雄(かんとう たかお、1951年9月2日 - )は、宮城県白石市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ。1979年から1981年まで登録名「関東孝夫」。 仙台育英高では3年次の1969年に夏の甲子園県予選準決勝に進出するが、仙台工業に引き分け再試合の末に敗退。卒業後は1970年に日本通運浦和へ入社し、稲葉誠治監督や初岡栄治監督の指導を受ける。1975年の都市対抗では電電関東に補強されて出場し、決勝の大昭和北海道戦ではエース・加藤英美から2試合連続となる本塁打を放ち優勝に貢献。 同年のドラフト6位で中日ドラゴンズに入団。1年目の1976年から一軍で起用され、左の代打要員、内野のオールラウンドプレイヤーとして活躍。
八重樫 幸雄(やえがし ゆきお、1951年6月15日 - )… 八重樫 幸雄(やえがし ゆきお、1951年6月15日 - )は、宮城県仙台市出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ・監督。野球解説者。 宮城県仙台市に生まれる。 仙台商高では1年生の時に一塁手、7番打者として、1967年の夏の甲子園に出場。2回戦で、同大会に優勝した習志野高と対戦し敗れている。翌1968年からは正捕手となり、夏の県大会に出場するが、東北大会準決勝で東北高と対戦し、チームは相手校のエース佐藤政夫に抑えられ惜敗した。秋は東北大会決勝で三沢高の太田幸司に完封負け。1969年夏は東北大会準決勝をで磐城高を延長15回の末に破るなどの躍進で優勝。夏の甲子園には4番打者として本大会に出場した。2回戦では広陵高の佐伯和司を打ち崩し、仙台商高は同校として初の夏の甲子園ベスト8まで駒を進めるが、準々決勝で玉島商のエース松枝克幸(法大-西川物産)に抑えられ敗退した。
佐藤 政夫(さとう まさお、1950年12月18日 - )は… 佐藤 政夫(さとう まさお、1950年12月18日 - )は、宮城県仙台市出身の元プロ野球選手(投手)。 東北高校3年時の1968年に、若生正廣との二枚看板で第50回全国高等学校野球選手権大会に出場。実際には宮城大会から先発を任されていて、本大会では1回戦で佐賀工業高校に敗れたものの、NPB球団のスカウトから注目されていた。大会後には社会人野球のチームからも数多くの誘いを受けていたが、「社会人(野球のチーム)には(自分のような)18歳の選手も30歳の選手もいて、大学(の硬式野球部)に比べればタテの世界(上下関係)が厳しくない」との考えから、高校の先輩(内野手の樋沢良信など)が硬式野球部に在籍していた地元の電電東北へ入社した。
若生 正廣(わこう まさひろ、1950年9月17日 - 20… 若生 正廣(わこう まさひろ、1950年9月17日 - 2021年7月27日)は、宮城県出身の元高校野球指導者。実兄はプロ野球選手の若生智男。 東北高校では投手。同期の佐藤政夫との二本柱であった。主将として1968年の宮城大会に臨む。先発を佐藤に任せ、四番打者、一塁手として活躍、決勝で築館高を破り全国選手権出場を決める。しかし1回戦で佐賀工に敗退した。この試合では佐藤をリリーフし、甲子園初登板を果たす。 卒業後は法政大学に進学。1年上に横山晴久、同期に池田信夫と好投手が揃い、あまり登板機会はなかった。社会人野球のチャイルドを経て1987年に埼玉栄高校野球部監督、1993年秋に母校である東北高校野球部監督に就任。
赤坂 光昭(あかさか みつあき、1950年5月10日 - )… 赤坂 光昭(あかさか みつあき、1950年5月10日 - )は、宮城県出身の元プロ野球選手(捕手)。 宮城県築館高等学校では、捕手、四番打者として1968年夏の甲子園県予選決勝に進出するが、東北高のエース佐藤政夫に抑えられ大敗、甲子園出場を逸する。 1968年にドラフト外でサンケイアトムズへ入団。加藤俊夫、大矢明彦の壁を破れず、一軍でマスクを被ることはなかった。いわゆる当て馬として1971年に6試合出場したに留まる。1973年限りで現役を引退した。
高橋 英二(たかはし えいじ、1949年10月29日 - )… 高橋 英二(たかはし えいじ、1949年10月29日 - )は、宮城県出身の元プロ野球選手。ポジションは外野手。
三浦 正規(みうら まさき、1949年7月18日 - )は、… 三浦 正規(みうら まさき、1949年7月18日 - )は、宮城県出身の元プロ野球選手(捕手)。 気仙沼高から大京観光を経て、1968年にドラフト外で近鉄バファローズへテスト入団。 主にブルペン捕手を務めて一軍出場は偵察メンバーとしての1試合だけに留まり、1971年に現役を引退した。
長野 哲(ながの さとし、1949年7月5日 - )は、宮城… 長野 哲(ながの さとし、1949年7月5日 - )は、宮城県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。 佐沼高校では1966年、2年生の時に夏の甲子園県予選3回戦で、宮城水産高を相手に2四球、1失策のノーヒットノーランを達成し勝利。県予選を勝ち抜き東北大会準決勝に進むが、福島商に0-1で敗退し、甲子園出場を逸する。翌年夏は県予選で敗れた。 1967年ドラフト会議でサンケイアトムズから8位指名を受けるが拒否し、熊谷組へ入社。藤津靖雄、大櫃照彦など好投手が多く、なかなか大舞台は踏めなかったが、1968年の明治維新百年記念明治神宮野球大会では、全東京選抜の抑えとして登板、全神奈川選抜に快勝した。 1968年ドラフト会議で大洋ホエールズから5位指名を受け入団。
渡辺 勉(わたなべ つとむ、1949年4月25日 - 202… 渡辺 勉(わたなべ つとむ、1949年4月25日 - 2023年5月29日)は、宮城県出身のプロ野球選手(内野手)。 仙台育英高校では1967年、遊撃手、三番打者として夏の甲子園県予選を勝ち抜き、東北大会決勝に進出するが、八重樫幸雄一塁手のいた仙台商に敗退、甲子園出場はならなかった。 同年のドラフト会議で阪急ブレーブスから5位指名を受け入団。 1968年のジュニアオールスターゲームに選出される。 1971年には控え内野手として一軍に定着、内野ならどこでも守れるユーティリティープレーヤーとして、70年代の阪急で活躍した。1975年には二塁手、遊撃手、三塁手として5月から20試合に先発出場。同年の広島カープとの日本シリーズでは全6試合に三塁の守備固め、代走として起用されている。
千葉 剛(ちば つよし、1948年4月25日- )は、宮城県… 千葉 剛(ちば つよし、1948年4月25日- )は、宮城県出身の元プロ野球選手(投手)。 東北高では末永幸士投手(国士舘大学)と同期だったが、甲子園には出場できなかった。 1966年のプロ野球第1次ドラフト会議で東映フライヤーズから5位指名を受けたが、入団を拒否し社会人野球の日本鉱業日立へ入団する。 1968年の都市対抗野球に出場し、1回戦でリリーフとして登板するが日本新薬に敗れる。翌1969年の都市対抗野球にはエースとして出場するが、同じく1回戦で三菱重工名古屋に敗退した。 1969年のプロ野球ドラフト会議で広島東洋カープから1位指名を受け入団。 シュート、カーブが武器の本格派で、スライダーをプロ入り後に習得する。
加藤 俊夫(かとう としお、1948年1月20日 - )は、… 加藤 俊夫(かとう としお、1948年1月20日 - )は、宮城県仙台市宮城野区出身の元プロ野球選手(捕手)・解説者。ニックネームは「ドン」。 仙台育英では2年次の1964年に夏の甲子園へ出場するが、1回戦で滝川高の芝池博明に0-1で完封負けを喫した。チームメイトでは1期上のエース・倉橋寛、遊撃手の佐藤博廸(南海)、同期の三塁手・石崎一夫がプロ入りしている。3年次の1965年夏は東北大会準決勝で磐城高に惜敗し、2年連続で甲子園には出場できなかった。高校時代から「大物」とうたわれ、通算打率.380をマークした。強肩と強打にプロ球界も目を付け、小さい頃からファンであった巨人から指名の話が来た時は有頂天になったが、同年のドラフトでは巨人の前に大洋から2位で指名されているが、入団を拒否。
小山 正(おやま ただし、1947年10月26日 - )は、… 小山 正(おやま ただし、1947年10月26日 - )は、宮城県出身の元プロ野球選手。ポジションは捕手。 気仙沼高校では、1965年夏の甲子園県予選準決勝に進むが、古川工に敗れ東北大会には進めなかった。同年のドラフト会議で大洋ホエールズから8位指名を受け入団。 1970年には二軍で打点王になるが、一軍出場はなく、1971年に現役引退した。
小野寺 重之(おのでら しげゆき、1947年10月24日 -… 小野寺 重之(おのでら しげゆき、1947年10月24日 - )は、日本の社会人野球選手(外野手)、元Jリーグ・柏レイソル社長。宮城県生まれ。 気仙沼市出身。宮城県気仙沼高等学校では1965年、夏の東北大会県予選準決勝に進むが古川工業に敗退。甲子園には出場できなかった。卒業後は明治大学に進学。名将島岡吉郎監督の指導を受ける。東京六大学野球リーグでは、1967年春季リーグから四番打者に抜擢され、1969年春季リーグで8年振りに優勝。直後の全日本大学野球選手権大会では東海大の上田二郎投手に抑えられ、2回戦敗退。同年の第8回アジア野球選手権大会日本代表に選出される。外野手としてベストナインに2回選出。
石崎 一夫(いしざき かずお、1947年6月2日 - )は、… 石崎 一夫(いしざき かずお、1947年6月2日 - )は、宮城県出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。 仙台育英学園高等学校では2年生の時、倉橋寛、加藤俊夫のバッテリーを擁し、八番打者、三塁手として1964年夏の甲子園に出場。しかし1回戦で滝川高の芝池博明に完封を喫する。翌1965年夏は東北大会準決勝で磐城高に敗れたが、県予選、東北大会を通じて16打数7安打、4割3分7厘の好打率を記録した。 1965年のドラフト10位で大洋ホエールズに入団。守備位置は三塁手、外野手。しかし3年間の在籍中一度も一軍公式戦に出場できず、1968年限りで退団した。
倉橋 寛(くらはし ひろし、1946年6月2日 - )は、宮… 倉橋 寛(くらはし ひろし、1946年6月2日 - )は、宮城県出身の元プロ野球選手。 仙台育英高校では、エースとして加藤俊夫とバッテリーを組み、1964年夏の甲子園に出場。しかし1回戦で滝川高の芝池博明に完封を喫する。この時のチームメイトに三塁手の石崎一夫がいる。 1965年に南海ホークスへ入団。一軍登板はなく1967年に戦力外となり退団する。 退団後は地元仙台に戻りサラリーマンとして活動していたが、プロ復帰を諦めきれず1971年に大洋ホエールズのテスト入団に合格して復帰する。1972年、1973年とも各1試合に登板するが、1973年限りで引退。
阿部 良男(あべ よしお、1946年5月15日 - 2017… 阿部 良男(あべ よしお、1946年5月15日 - 2017年6月29日[要出典])は、宮城県石巻市出身のプロ野球選手(外野手)。 宮城水産高校を卒業後、クラブチームのオール常磐(旧:常磐炭鉱)に進む。1966年の都市対抗で活躍、準々決勝に進出するが日本石油(エースは平松政次)に抑えられ敗退。チームメイトに、後にプロ入りする矢部祐一がいた。1968年のドラフト4位指名で、西鉄ライオンズへ入団。 1969年から一軍で活躍し、右翼手、中堅手として69試合に先発出場、同年のジュニアオールスターにも選出される。 1971年には開幕から一番打者として起用され、104試合に出場。 1972年には中堅手の定位置を得て、初の規定打席(打率.256)に達する。
若生 和也(わこう かずや、1944年11月16日 - )は… 若生 和也(わこう かずや、1944年11月16日 - )は、宮城県出身の元プロ野球選手(投手)。 塩釜高校では、鉄砲肩を誇る捕手だった。高校卒業後、社会人野球の仙台鉄道局に入団し投手へコンバート。その後、岩崎電気を経て立正佼成会へ移籍。1965年の都市対抗野球に初出場。大会史上に残る大応援団のもと、1回戦で後藤博を救援し好投、三重交通を降しチーム初勝利に貢献した。しかし2回戦では松下電器に打ち込まれ敗退。この時のチームメートに田中辰次(鷺宮製作所から補強)がいた。 1967年にはエースとして都市対抗に再度出場。1回戦では三菱重工神戸に完投勝利、2回戦でも日本楽器を相手に好投するが、9回裏にサヨナラ本塁打を喫し惜敗。
日下 正勝(くさか まさかつ、1944年10月17日 - )… 日下 正勝(くさか まさかつ、1944年10月17日 - )は、宮城県石巻市出身の元プロ野球選手。ポジションは外野手。 東北高等学校では1961年、2年生の時に夏の甲子園に左翼手として出場。2回戦で岐阜商に敗退。高校同期に及川宣士投手、村上宏通二塁手(阪急)がいる。 1962年に大洋ホエールズへ入団。1964年にイースタンリーグの本塁打王と打点王を獲得。同年のジュニアオールスターにも出場する。翌1965年もイースタンリーグ本塁打王を再度獲得。1966年には一軍に定着し、左翼手として16試合に先発出場。その後は守備固め外野手としての出場が多かったが、次第に粘り強い打撃が評価され、左投手への代打として起用される。
大宮 健資(おおみや けんじ、1943年4月3日 - )は、… 大宮 健資(おおみや けんじ、1943年4月3日 - )は、宮城県出身の元プロ野球選手。
伊藤 勲(いとう いさお、1942年5月14日 - 2007… 伊藤 勲(いとう いさお、1942年5月14日 - 2007年5月26日)は、宮城県仙台市出身(岩手県生まれ)のプロ野球選手(捕手)・コーチ、解説者。愛称は「キートン」。 父親の転勤で幼少期を各地で過ごし、中学時代に仙台市に移る。東北高校では3年次の1960年に夏の甲子園に出場したが、1回戦で青森高に敗退。強肩強打の捕手として大洋や巨人なども注目したが、1959年に同校の先輩である波山次郎が大洋に入団していたこともあって、1961年に大洋ホエールズへ入団。契約金は170万円で、年俸は36万円であった。 1年目の同年から一軍でマスクを被り、7月30日の中日戦(川崎)の9回裏に蓜島久美に代わって初出場を果たす。
黒川 豊久(くろかわ とよひさ、1941年10月29日 - … 黒川 豊久(くろかわ とよひさ、1941年10月29日 - )は、宮城県出身の元プロ野球選手。 東北高校時代は1958年、1959年と2年連続で夏の甲子園に出場。 1960年に西鉄ライオンズへ入団。1961年9月27日に平和台野球場で行われたウエスタン・リーグ対広島東洋カープ戦では満塁ホームランを2本打ち10打点を記録した。
鈴木 征夫(すずき ゆきお、1941年10月16日 - 20… 鈴木 征夫(すずき ゆきお、1941年10月16日 - 2009年4月10日)は、宮城県出身のプロ野球選手。 東北高校から1960年に西鉄ライオンズへ入団。1962年引退。