高森 玄(たかもり げん、1941年〈昭和16年〉4月30日… 高森 玄(たかもり げん、1941年〈昭和16年〉4月30日 - 1995年〈平成7年〉11月27日)は日本の元俳優、元歌手。本名および旧芸名は高橋 俊行(たかはし としゆき)。デビュー当時の芸名は高城 裕二。 宮城県出身。宮城県築館高等学校卒業、千葉商科大学中退後、「高城 裕二」の芸名で映画デビュー。 1964年(昭和39年)に東映東京の制作による数本の映画に脇役として出演した後に俳優業から離れたが、数年間のサラリーマン生活を経て、新宿を拠点に活動していた「劇団世代」に入団、本名の「高橋 俊行」を新たな芸名として1967年(昭和42年)に俳優業へ復帰。 1968年(昭和43年)に東映京都テレビプロダクション制作のテレビ時代劇『俺は用心棒』の続編『待っていた用心棒』のレギュラーに抜擢()され、無表情で無愛想だがさりげない優しさも見せる氏素性の不明な浪人『狂犬』を演じた。
高森 玄(たかもり げん、1941年(昭和16年)4月30日… 高森 玄(たかもり げん、1941年(昭和16年)4月30日 - 1995年(平成7年)11月27日)は日本の俳優、歌手。本名および旧芸名は高橋 俊行(たかはし としゆき)。デビュー当時の芸名は高城 裕二。
鎌田 宏(かまた ひろし、1941年(昭和16年)4月11日… 鎌田 宏(かまた ひろし、1941年(昭和16年)4月11日 - )は、日本の銀行家。七十七銀行頭取を務めた。 七十七銀行専務取締役を歴任した鎌田英一の長男として、宮城県仙台市に生まれる。 慶應義塾大学法学部卒業後、七十七銀入行。1993年(平成5年)に取締役昇格。親子2代にわたって役員として、同行の経営に携わることとなった。 2005年(平成17年)頭取、10年会長、18年相談役。 2010年(平成22年)10月、仙台商工会議所会頭に就任し、22年10月名誉会頭となる。 2011年(平成23年)6月には、東北楽天ゴールデンイーグルス監督である星野仙一の仙台後援会「楽仙会」の会長に就任した。
波山 次郎(はやま じろう、1941年4月5日 - 1979… 波山 次郎(はやま じろう、1941年4月5日 - 1979年7月5日)は、宮城県仙台市出身のプロ野球選手(投手)。本名は尹 次郎(ユン・チャラン、朝鮮語: 윤차랑)。 1955年秋、東北高校の主催による中学生を対象とした野球大会「南光大会」が開催された。この大会に仙台市立第二中学校のエースとして参加した波山はその才能を買われ、1957年4月、東北高校野球部に正式に入部した。同年9月8日、東北高校の招聘により評定河原球場で行なわれた対早稲田実業戦で5回表からリリーフ登板し、王貞治から三球三振を奪うなど、8回まで一人の走者も許さない好投を見せたが、9回、先頭打者の王に場外ホームランを許し敗戦投手となった。
奥山 興悦(おくやま こうえつ、1941年3月28日 - )… 奥山 興悦(おくやま こうえつ、1941年3月28日 - )は、日本の裁判官、公証人、弁護士。最高裁判所家庭裁判所調査官研修所長や、釧路地方裁判所長、東京高等裁判所部総括判事等を歴任した。瑞宝重光章受章。 宮城県石巻市生まれ。宮城県石巻高等学校を経て、1964年東北大学法学部卒業。1966年東京地方裁判所判事補。1969年仙台地方裁判所判事補。1972年最高裁判所事務総局家庭局付。1975年家庭裁判所調査官研修所教官。1977年盛岡地方裁判所一関支部長。1979年最高裁判所事務総局家庭局第三課長。1983年最高裁判所事務総局家庭局第一課長。1985年東京地方裁判所判事。1988年司法研修所民事裁判教官、法務省司法試験考査委員(民事訴訟法担当)。
大和田 智子(おおわだ ともこ、1941年3月15日 - )… 大和田 智子(おおわだ ともこ、1941年3月15日 - )は、日本のフェンシング選手、指導者。宮城県生まれ。 気仙沼市出身。宮城県鼎が浦高等学校、専修大学卒業。鼎が浦高校での指導者は、本吉町(現 気仙沼市)出身で1958年 全日本選手権優勝の千葉卓朗であった。 1964年 全日本選手権女子フルーレ優勝、 同年 第18回オリンピック東京大会フェンシング女子フルーレ個人・団体に出場。専修大学からは小森芳江もフルーレ個人に出場した。 その後は、専修大学フェンシング部 女子監督に就任。後進の指導にあたり、2004年に功労賞(各競技団体主催の公式大会で、各部を団体優勝に導いた部長、監督に贈られる)を受賞。
星宮 望(ほしみや のぞむ、1941年(昭和16年)2月8日… 星宮 望(ほしみや のぞむ、1941年(昭和16年)2月8日 - 2017年(平成29年)1月25日)は、宮城県仙台市出身の工学者で東北大学名誉教授。元東北学院大学学長および元学校法人東北学院院長。工学博士(東北大学)。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
高橋 資祐(たかはし もとすけ、1941年〈昭和16年〉1月… 高橋 資祐(たかはし もとすけ、1941年〈昭和16年〉1月11日 - 2007年〈平成19年〉11月8日)は、日本の男性アニメーター、アニメ演出家・監督、キャラクターデザイナー。宮城県石巻市出身。 1959年3月に宮城県石巻高等学校卒業後、石巻市役所に就職。美術を学ぶため、日本デザインスクールに入学するも1963年に同校を中退。第一広告(現・I&S BBDO)、文珠デザインスタジオの商業デザイナーを経て、草月アニメフェスティバルでアニメに興味を持ち、1966年8月に新聞の社員募集広告に応募して竜の子プロダクション(タツノコプロ)へ入社。 同プロでは笹川ひろしや吉田竜夫らの下で『おらぁグズラだど』『昆虫物語 みなしごハッチ』などの原画・演出を担当した他、作画チーフも務めた。
梅内 拓生 (うめない たくせい、1941年- )は、日本… 梅内 拓生 (うめない たくせい、1941年- )は、日本の医学者、医学博士。東京大学名誉教授。世界保健機関ジュネーブ本部感染対策次長、吉備国際大学学長。 岩手県大船渡市盛町出身。宮城県気仙沼高等学校、東北大学医学部卒業。東北大学助教授を経て、1982年 世界保健機関(WHO)西太平洋地域感染対策課長に就任し、西太平洋地域感染対策部長、ジュネーブ本部感染対策次長、1992年 東京大学医学部大学院教授を歴任。2001年 吉備国際大学学長に就任した[要出典]。日本性感染症学会名誉会員、青梅今井病院特別顧問。 五七五、五七五七七の短韻文に詠んだ複数の作品をつなげて評をして、詠作者の「存在と心」に触れる会話を目指した「ことばつなぎ」活動を行う。
石井 稔(いしい みのる、1941年〈昭和16年〉 - )は… 石井 稔(いしい みのる、1941年〈昭和16年〉 - )は、日本の無農薬栽培農家、名稲会会員第1号。
山内 ジョージ(やまうち ジョージ、1940年11月24日 … 山内 ジョージ(やまうち ジョージ、1940年11月24日 - 2025年2月27日)は、日本の漫画家、文字絵作家。日本児童出版美術家連盟会員、東アジア文化支援プロジェクト事務局長。山内 譲二名義による作品もある。本名は山内 紀之(やまうち のりゆき)。 日本の租借地であった関東州(現在の中華人民共和国遼寧省)大連市で、関東局勤務の警察官の家庭に生まれる。1945年、日本の第二次世界大戦敗戦に伴い収容所生活を送った後、1947年に日本へ引き揚げ、父の郷里の宮城県登米市で育つ。小学校5年生の時、手塚治虫と文通。中学校2年生の時、小野寺章太郎(石ノ森章太郎)と知り合う。宮城県佐沼高等学校卒業。 上京後、1960年9月から1962年3月までトキワ荘に住み、石森章太郎や赤塚不二夫のアシスタントを経て独立。
たこ 八郎(たこ はちろう、1940年〈昭和15年〉11月2… たこ 八郎(たこ はちろう、1940年〈昭和15年〉11月23日 - 1985年〈昭和60年〉7月24日)は、日本の元プロボクサー・コメディアン、俳優。本名は斉藤 清作(さいとう せいさく)。 元日本フライ級王者。俳優活動では太古 八郎、多胡 八郎、多古 八郎、タコ 八郎などの名義も用いた。 座右の銘は「迷惑かけてありがとう」。 宮城県仙台市新田(現宮城野区)の農家に、8人兄弟の次男(第4子)として生まれる。少年時代に友達と泥んこの投げ合いをしていて、泥が左眼に当たったことが原因で左眼の視力をほとんど失う。すぐに病院に行き治療すれば失明はしなかったと言われたが、少年時代は裕福な家庭ではなかったため、病院に行けば親に迷惑がかかると思い黙っていたと後に語っている。
佐藤 征一郎(さとう せいいちろう、1940年(昭和15年)… 佐藤 征一郎(さとう せいいちろう、1940年(昭和15年)10月15日 - )は、日本の声楽家(バス、バスバリトン)、オペラ歌手、音楽教育者、合唱指揮者。 宮城県仙台市生まれ。神奈川県立川崎高等学校 卒業。1967年(昭和42年)東京芸術大学音楽学部声楽科卒業。1970年(昭和45年)同大学院修士課程修了。大学院在学中に第132回芸大オーケストラ定期公演(指揮:山田一雄)ベートーヴェン『第九』バス独唱で音楽界にデビュー。1969年(昭和44年)二期会(指揮:若杉弘)ワーグナー『ラインの黄金』ファフナーでオペラデビュー。その後、読売日本交響楽団第58回定期演奏会(指揮:若杉弘)ベルリオーズ『ファウストの劫罰』ブランデルや、同年帰国した小澤征爾指揮による日本フィルハーモニー交響楽団第180回東京定期演奏会 モーツァルト『コジ・ファン・トゥッテ』(演奏会形式)に出演 したほか、二期会を中心に1971年(昭和46年)2月までの約2年間に計14本 ものプロダクションに出演している。
菅原 鬨也(すがわら ときや、1940年10月8日- )は、… 菅原 鬨也(すがわら ときや、1940年10月8日- )は、俳人。 宮城県仙台市生まれ。東北学院大学卒。俳誌「滝」主宰。1974年、藤田湘子の「鷹」入会、76年「鷹」同人。91年「槐」創刊同人。92年「滝」創刊主宰。93年「鷹」同人辞退。1981年、宮城県芸術選奨新人賞、1980年、角川俳句賞。現代俳句協会員。宮城地区現代俳句協会副会長。
菊地 秀之(きくち ひでゆき、1940年9月7日 - 201… 菊地 秀之(きくち ひでゆき、1940年9月7日 - 2014年7月17日)は、宮城県仙台市出身のプロ野球選手。 東北高校から1959年に西鉄ライオンズへ入団。1962年に引退。
阿子島 たけし(あこじま たけし、1940年8月30日 - … 阿子島 たけし(あこじま たけし、1940年8月30日 - 2005年12月13日)は、日本の音楽評論家。 宮城県白石市出身。早稲田大学第一文学部卒業。1964年に報知新聞社に入社し、文化部記者として映画・音楽を担当したが、1972年に退社。翌年、ミュージック・ラボ社に入社し、音楽業界専門誌『ミュージック・ラボ』編集長を務めたが、1976年退社し、フリーの音楽評論家として独立。執筆活動のかたわら、日本レコード大賞の審査委員長、全日本有線放送大賞等の審査員を務めた。 阿子島は2005年12月12日夜に東京都のホテルで行われたディナーショー終了後に行方がわからなくなった。その後の阿子島の目撃証言は一切なく、また通話など連絡をとったものも当時実家滞在中の妻も含め一切いない。
西 紘平(にし こうへい、1940年7月7日 - )は、日本… 西 紘平(にし こうへい、1940年7月7日 - )は、日本の実業家。雪印乳業代表取締役社長や、ロッテアイス代表取締役社長、日本乳業協会副会長を務めた。 宮城県仙台市出身。宮城県仙台第二高等学校を経て、1964年東北大学農学部卒業、雪印乳業入社。横浜支店長、営業促進部長、取締役を経て、1999年常務取締役東日本支社長。2000年から代表取締役社長を務め、雪印牛肉偽装事件の対応にあたり、経営再建を進めたが、2002年に辞任した。この間、日本乳業協会副会長も務めた。2004年ロッテスノー代表取締役社長。
桜井 良之助(さくらい りょうのすけ、1940年7月3日 -… 桜井 良之助(さくらい りょうのすけ、1940年7月3日 - 2006年7月16日)は、日本の政治家。宮城県仙台市出身。東北大学卒業。元東京都議会議員。公明副代表を歴任。 1940年7月3日、宮城県仙台市に生まれる。創価学会に入会する。東北大学を卒業する。公明新聞記者を務める。 1973年、東京都議会議員選挙に、世田谷区から公明党公認候補として立候補し、初当選する(以降、連続9期)。東京都議会副議長、東京都議会総務委員長を歴任する。 1994年12月5日、公明党解散にともない、公明結成に参加し、公明副代表に就任する。 1998年11月7日、公明党再結成に参加し、公明党幹事に就任する。公明党東京都本部代表代行を歴任する。
朝間 義隆(あさま よしたか、1940年6月29日 - )は… 朝間 義隆(あさま よしたか、1940年6月29日 - )は、日本の脚本家、映画監督。宮城県仙台市出身、神奈川県鎌倉市在住。山田洋次監督との共作で知られる。 1965年、上智大学文学部英文学科を卒業。 松竹大船撮影所演出助手室に入社。山田洋次に師事し、『男はつらいよ』シリーズや『遙かなる山の呼び声』、『同胞』など山田監督作品の脚本を共同で手がける。『幸福の黄色いハンカチ』では第1回日本アカデミー賞最優秀脚本賞、第51回キネマ旬報賞脚本賞受賞。 1979年、街で働く若者たちが第九交響曲を一緒に歌うまでのドラマを描いた『俺たちの交響楽』により監督デビュー。1980年に松竹を退社し、以後契約監督。1996年、フリーに。
亀谷 博昭(かめや ひろあき、1940年〈昭和15年〉5月1… 亀谷 博昭(かめや ひろあき、1940年〈昭和15年〉5月18日 - 2003年〈平成15年〉2月19日)は、日本の政治家。 宮城県議会議長、宮城県議会議員(5期)、参議院議員(1期)を歴任した。 1940年(昭和15年)5月18日、当時父が海軍に勤務していた関係で、海軍基地のある神奈川県横須賀市に生まれる。その後、太平洋戦争勃発と戦争激化に伴い、郷里である宮城県に疎開し、多賀城市に移り住む。 1959年(昭和34年)宮城県仙台第一高等学校を卒業。家庭の事情で、大学進学を断念し、地元の河北新報社に就職する。この間、ボランティア活動を通じて政治を志し、1971年(昭和46年)宮城県議会議員選挙に仙台市選挙区から立候補するが現職の壁が厚く落選。
小川 康雄(おがわ やすお、1940年4月19日 - )は、… 小川 康雄(おがわ やすお、1940年4月19日 - )は、宮城県出身の元プロ野球選手。 東北高校から1959年に西鉄ライオンズへ入団。同年退団。
佐々木 隆二 (ささき りゅうじ、1940年 - )は、… 佐々木 隆二 (ささき りゅうじ、1940年 - )は、日本の写真家。宮城県生まれ。 気仙沼市出身。 仙台市在住。東北と宮澤賢治をモチーフに撮影活動を続けている。「仙台文学館ニュース」の表紙や仙台市市民文化事業団発行の季刊「まちりょく」などの写真を担当するほか、「仙台クラシックフェスティバル」のボランティアカメラマンなど、被災地での音楽活動を多く撮影している。 2015年9月15日から10月31日まで、仙台文学館において、「梶原さい子歌集『リアス/椿』―短歌と写真― 」と題し、写真と短歌のコラボレーション展示が行われた。 2017年8月13日から16日まで、気仙沼市の水梨文化館にて、戦後70年の写真展「いのち」を開催 。
小野木 孝(おのき たかし、1939年12月1日 - )は、… 小野木 孝(おのき たかし、1939年12月1日 - )は、宮城県仙台市出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。 仙台工から1958年に国鉄スワローズへ入団。2年目に1軍初登板し、11試合に登板した。翌年は、3試合しか登板できず同年に引退。引退後は東北ベースボールアカデミーリーグの代表、日本プロ野球OBクラブ宮城県代表幹事を務めている。
高橋 俊裕(たかはし としひろ、1939年11月28日 - … 高橋 俊裕(たかはし としひろ、1939年11月28日 - )は、トヨタ自動車常務、東京トヨペット社長、トヨタアドミニスタ社長、日本郵政公社副総裁。 トヨタ自動車で「営業の神様」「真に優れたリーダー」「貴重な隠し玉」と言われ豪放果断な実行力から「トップエグゼクティブ」の一人になる人物と言われていたが小泉内閣最大の目玉である郵政民営化にともないトヨタ方式(Japan Post System)を取り入れるため上司である奥田碩の推薦により郵政公社の重職を務めることになった。
三宅 義信(みやけ よしのぶ、1939年11月24日 - )… 三宅 義信(みやけ よしのぶ、1939年11月24日 - )は、宮城県柴田郡村田町出身のオリンピックにも出場した元重量挙げ選手、元陸上自衛官。現在は東京都在住。
島田 源太郎(しまだ げんたろう、1939年8月25日 - … 島田 源太郎(しまだ げんたろう、1939年8月25日 - 2024年6月16日)は、宮城県気仙沼市出身のプロ野球選手(投手)・コーチ・解説者。愛称は寝ぼけの源、おとぼけの源。 2021年までの日本プロ野球最年少完全試合(20歳11ヶ月)達成者(2024年現在はセ・リーグ最年少記録)。 宮城県気仙沼市出身。気仙沼高校では3年次の1957年、夏の甲子園県予選で準決勝に進むが、仙台二高に敗退。卒業後は盛岡鉄道管理局への入社が内定していたが、大毎オリオンズの新人募集広告を目にして、上京して入団テストを受けるが不合格であった。しかし、プロ入りへの夢が捨てきれず、再び家族に黙って上京し大洋ホエールズの入団テストを受験。
わたり むつこ(1939年〈昭和14年〉8月8日 - )は、… わたり むつこ(1939年〈昭和14年〉8月8日 - )は、日本の絵本作家、児童文学作家。本名、池田 睦子。 宮城県白石市出身。1962年、東京女子大学文理学部日本文学科を卒業。卒業後は児童文学同人『バオバブ』を結成。1963年に結婚してアラスカに2年居住し、1971年に「アラスカの七つ星」でデビューする。『バオバブ』に連載した長編ファンタジー『はなはなみんみ物語』で、1980年度サンケイ児童出版文化賞を受賞。『もりのおとぶくろ』で2011年度サンケイ児童出版文化賞ニッポン放送賞を受賞。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
菅野 光亮(かんの みつあき、1939年7月10日 - 19… 菅野 光亮(かんの みつあき、1939年7月10日 - 1983年8月15日)は日本の作曲家、ジャズピアニスト。宮城県仙台市出身。 国立音楽大学付属高等学校を経て、東京芸術大学音楽学部作曲科に入学し、長谷川良夫に師事。大学在学中の1966年に、第35回日本音楽コンクール作曲部門第2部(室内楽曲)に応募した「弦楽四重奏曲第3番作品24」が3位入賞を果たす。大学卒業後は主にジャズピアニストとして活躍。 男声カルテット「ロイヤルナイツ」の第1回ソ連公演(1966年12月 - 1967年1月)、東欧公演~第3回ソ連公演(1968年5月下旬 - 9月)には、菅野光亮クインテットのピアニストとして同行。 1974年に公開された松竹映画「砂の器」では、ラフマニノフばりの美しいテーマ曲「ピアノと管弦楽のための組曲 宿命」を作曲・ピアノ演奏し、第29回毎日映画コンクール音楽賞、モスクワ映画祭ソビエト作曲家同盟賞を受賞した。
須藤 祐孝(すとう ゆうこう、1939年5月28日 - 20… 須藤 祐孝(すとう ゆうこう、1939年5月28日 - 2018年7月27日)は、日本の政治学者。専門はイタリア政治思想。愛知大学名誉教授。 1939年、宮城県柴田郡で生まれた。宮城県仙台第一高等学校を経て、東北大学法学部に進学。同大学大学院に進み、法学修士号を取得した。 愛知大学法学部教授を長らく勤め、「ヨーロッパ政治思想史」などの科目を担当した。2010年3月に愛知大学を定年退職し、4月に同大学名誉教授となった。 専門はイタリアの政治思想史。特に、ジロラモ・サヴォナローラ、ニッコロ・マキャヴェッリの研究で知られている。ルネサンス期以外でも、ガエターノ・モスカを中心とする「寡頭制の鉄則」の研究などもおこなった。
石崎 允(いしざき まこと、1939年2月 - 2009年8… 石崎 允(いしざき まこと、1939年2月 - 2009年8月3日)は、日本の医学者。腎臓透析を専門とする。CAPD仙台カテーテルを開発した。 宮城県遠田郡小牛田町(現・美里町)に生まれる。小牛田町立小牛田中学校、宮城県古川高等学校を経て、東北大学医学部卒業。東北大学講師を経て仙台社会保険病院に勤務し、腎不全患者のために腎移植を推進すると共に、人工透析の技法を開発した。
久道 茂(ひさみち しげる)、1939年(昭和14年)1月3… 久道 茂(ひさみち しげる)、1939年(昭和14年)1月3日 - 2020年(令和2年)10月24日)は、日本の内科医。専門は、消化器病学 、内視鏡、疫学、公衆衛生学。東北大学名誉教授。 宮城県涌谷町生まれ。東北学院高校、東北大学医学部卒業。東北大学大学院医学研究科内科学系専攻修了(医学博士)。東北大学教授(公衆衛生学講座担当)。東北大学大学院医学系研究科長・医学部長。令和2年、肝不全のため死去(享年81)。 宮城県病院事業管理者兼宮城県立がんセンター総長。公益財団法人宮城県対がん協会会長。日本学術会議会員公衆衛生審議会会長。厚生科学審議会会長。国立保健医療科学院評価委員会委員長。 日本公衆衛生学会総会会長・名誉会員。
佐々木 謙次(ささき けんじ、1939年〈昭和14年〉1月2… 佐々木 謙次(ささき けんじ、1939年〈昭和14年〉1月2日 - 2024年〈令和6年〉12月24日)は、日本の政治家。宮城県古川市(現・大崎市)長(2期)。旭日小綬章。 宮城県大崎市志田郡古川町(旧・古川市→現・大崎市古川)出身。大崎市立古川中学校、宮城県古川高等学校を経て、1961年に東北学院大学文経学部卒。古川商工会議所に入り、中小企業相談所次長などを経て、1983年、古川市議会議員に当選。4期務め、議長も務めた。1999年に古川市議を退任し、翌2000年に古川市長に当選した。古川市長を2期務め、在任中に古川市は近隣の町村との合併に向け、協議会が結成され、古川市長の佐々木が合併協議会会長となった。
芳賀 勝男(はが かつお、1938年12月14日 - 200… 芳賀 勝男(はが かつお、1938年12月14日 - 2000年11月24日 )は、日本の元プロボクサー。宮城県仙台市出身。ローマオリンピック日本代表。第16・18代日本バンタム級王者。プロ現役時代は暁ジム所属。 仙台育英学園高等学校で野球部に所属していた。ポジションは捕手だった。3年の時に主将を任されるも、夏の甲子園の県大会予選で敗退した。その後ボクシング部の練習に参加して、ボクシングを始める。当時ボクシング部の1年に、後のたこ八郎がいた。 中央大学進学後、ローマオリンピックバンタム級に日本代表として出場。1回戦で後にWBA世界ジュニアライト級王者:小林弘に挑戦するカルロス・カネテに勝利するも、2回戦でプリモ・ザンパリーニに敗れる(ザンパリーニは銀メダル獲得)。
相沢 光哉(あいざわ みつや、1938年12月7日 - 20… 相沢 光哉(あいざわ みつや、1938年12月7日 - 2025年2月28日)は、日本の政治家、実業家。株式会社橘寿司代表取締役、宮城県寿司商環境衛生同業組合理事長、宮城県監査委員、自由民主党宮城県連幹事長、宮城県議会議長等を歴任した。 1951年仙台市立東二番丁小学校卒業。1954年東北学院中学校卒業。1957年東北学院高等学校卒業。1962年一橋大学商学部卒業、キリンビール入社。 1971年仙台市議会議員。1980年橘寿司代表取締役。1982年宮城県寿司商環境衛生同業組合理事長。1991年宮城県議会議員。2000年自由民主党宮城県民会議会長。2003年宮城県監査委員。2005年自由民主党宮城県連幹事長、日本李登輝友の会理事。
佐藤 道輔(さとう みちすけ、1938年9月8日 - 200… 佐藤 道輔(さとう みちすけ、1938年9月8日 - 2009年6月16日)は都立高校の野球部監督。 宮城県生まれ。宮城県仙台第二高等学校を経て、早稲田大学卒。都立校の社会科教諭(おもに日本史)で、野球部顧問を兼務した。大学卒で最初に赴任したのは都立大島高校である。その活動などを著書にしたことから多くの部員志望者が集まった。その後、都立昭和高校、都立久留米高校を経て都立東大和高在職中の野球部は1978年、1985年の西東京大会に準優勝した。後年、東京都高野連理事としても活動していた。また、教え子の桜井国弘が青年海外協力隊としてペルーに赴任。野球の指導に関わった際、野球用具やユニフォームなどを提供し、自身もペルーを訪れて野球の普及に尽力した。
佐藤 好夫(さとう よしお、1938年8月1日 - )は、宮… 佐藤 好夫(さとう よしお、1938年8月1日 - )は、宮城県出身の元プロ野球選手。 東北高校から1958年に西鉄ライオンズへ入団。58年は11試合出場するも全て偵察要員での出場だった。 1959年に1軍初登板するも同年に退団した。
田村 滋美(たむら しげみ、1938年7月20日 - )は、… 田村 滋美(たむら しげみ、1938年7月20日 - )は、公益財団法人東電記念財団理事長。東京電力会長(2002年-2008年)、東京電力自然学校校長、ビューティフル・エージング協会理事長、産業創造研究所理事長などを歴任した。 岡山県出身。岡山県立岡山朝日高等学校、東北大学工学部卒業。東北大学時代に1960年ローマオリンピックのボート競技(エイト)に出場した経験を持つ。2002年、東京電力原発トラブル隠し事件で退任した経営陣の後を受けて会長に就任、2008年まで務めた。 三菱重工業長崎造船所の世界最大級の容量を誇る液化天然ガス運搬船「アルト アクルクス」を命名した人物でもある。
斎藤 良雄(さいとう よしお、1938年7月9日 - )は、… 斎藤 良雄(さいとう よしお、1938年7月9日 - )は、宮城県出身の元プロ野球選手(投手→外野手)。左投左打。 宮城県白石高等学校から1957年に国鉄スワローズへ入団。同期に村田元一がいた。1年目から一軍で投げたが投手としては力量不足で勝星を挙げたことも先発したこともなかった。武器はシュート、カーブ、ドロップを武器とした。左ということもあり1961年に打者に転向したが、元投手なのに肩が弱く、打撃も非力でさしたる活躍もないまま1963年限りで引退した。なお、高校の先輩である佐藤孝夫も同年で引退している。
大竹 康市(おおたけ こういち、1938年5月2日 - 19… 大竹 康市(おおたけ こういち、1938年5月2日 - 1983年11月20日)は、日本の建築家。都市計画家。象設計集団創設者の一人で中心的存在。宮城県仙台市生まれ。 東北学院中学校・高等学校に進学し、高校では陸上競技とサッカーでインターハイに出場する。1962年、東北大学工学部建築学科卒業。卒業設計は全国優秀賞を受賞する。その後早稲田大学大学院に進学し同大学院修士課程修了。 1964年、吉阪隆正が主宰する建築設計事務所U研究室に入所し、大学セミナーハウス、大島元町復興計画(計画書、大島中学校体育館、吉谷公園、大島参道など)、生駒山宇宙科学館、相模湖総合復興計画などを担当する。 1971年、象設計集団設立。
扇山 民雄(おうぎやま たみお、1938年3月27日 - )… 扇山 民雄(おうぎやま たみお、1938年3月27日 - )は、宮城県栗原郡金成町(現役当時、現・同県栗原市)出身で時津風部屋に所属した元大相撲力士。本名は高橋 民雄(たかはし たみお)。 プロレスラーとして国際プロレスに籍を置いていた時期もあり、レスラー時代のリングネームは扇山 大五郎(おうぎやま だいごろう)であった。 大相撲時代の体格は177cm、103kg。プロレスラー時代の体格は178cm、105kg。力士としての自己最高位は、東前頭5枚目(1963年1月場所・1967年1月場所)。 中学校卒業後はパン屋で働いていたが、錣山親方(元関脇・若葉山鐘)にスカウトされた事がきっかけで時津風部屋へ入門し、1955年1月場所にて16歳で初土俵を踏んだ。
徳増 俊郎(、1938年〈昭和13年〉2月14日 - )は日… 徳増 俊郎(、1938年〈昭和13年〉2月14日 - )は日本の映画プロデューサー。宮城県石巻市出身。東宝映画所属。 この項目は、映画関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
石ノ森 章太郎(いしのもり しょうたろう、英: Shotar… 石ノ森 章太郎(いしのもり しょうたろう、英: Shotaro Ishinomori、1938年〈昭和13年〉1月25日 - 1998年〈平成10年〉1月28日)は、日本の漫画家。本名は小野寺 章太郎(おのでら しょうたろう)。1984年までは「石森 章太郎」の表記を使用していたが、この時期には「いしもり しょうたろう」と呼ばれるのが通例だった。 SF漫画、ギャグ漫画から学習漫画まで幅広いジャンルの作品を量産し、“漫画の神様”手塚治虫との対比で「漫画の王様」、「漫画の帝王」 と評された。 代表作は『サイボーグ009』『佐武と市捕物控』『009ノ1』『さるとびエッちゃん』『人造人間キカイダー』『マンガ日本経済入門』『HOTEL』など。
本林 徹(もとばやし とおる、1938年1月5日 - )は、… 本林 徹(もとばやし とおる、1938年1月5日 - )は、日本の弁護士。日本弁護士連合会元会長。現在、松田綜合法律事務所の顧問である。森綜合法律事務所(森・濱田松本法律事務所の前身事務所)の創設メンバー。 森綜合法律事務所時代の特徴の1つとして、「弁護士一人ひとりの個性や自由を大切にし、楽しく仕事をすることをモットーにしました」という点を挙げている。「雰囲気が楽しいと、仕事がきつくても精神的ストレスが意外とありません。例えば、裁判に勝ったとか、大きな案件が落着したときは、担当弁護士が事務所の全員にケーキをおごることが慣例でした」 得意分野は、企業法務全般、国内・国際商取引および各種紛争解決。本林弁護士が、米国ハーバード・ロースクールに留学して得たことは、アメリカでは市民が裁判を起こしやすいこと、事件に関連のある証拠を、裁判所が強制的に命令して出させる制度があることであった。
大森 英樹(おおもり ひでき、1938年 - )は、日本の数… 大森 英樹(おおもり ひでき、1938年 - )は、日本の数学者、東京理科大学名誉教授。
伊達錦 一成(だてにしき かずなり、1937年11月12日 … 伊達錦 一成(だてにしき かずなり、1937年11月12日 - 没年不明 )は、宮城県遠田郡涌谷町出身(生まれは東京府)で出羽海部屋に所属した元大相撲力士。本名は廣瀬 一成(ひろせ かずなり)。173cm、102kg。最高位は東十両16枚目。得意技は左四つ、寄り。 入門する前は農業を営んでいた。1954年5月場所に初土俵。1963年7月場所に十両昇進。新十両の場所は8勝7敗と勝ち越すが、翌9月場所は5勝10敗と負け越し、2場所で幕下に陥落。1964年5月場所に再度十両に昇進するも、十両下位に甘んじて再び2場所で幕下に陥落。1965年5月場所限りで27歳で廃業した。
若生 忠男(わこう ただお、1937年8月22日 - 199… 若生 忠男(わこう ただお、1937年8月22日 - 1998年)は、宮城県仙台市出身のプロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。 1970年シーズンの登録名は若生 忠泰(わこう ただやす)。 東北高校時代は若生智男・若生照元と共に「東北の三若生」と呼ばれたが、甲子園には届かなかった。 1955年に西鉄ライオンズへ入団。 1957年には6月から先発陣の一角となり9勝を挙げ、同年の巨人との日本シリーズでも最終戦の第5戦に先発し、チームの2年連続日本一に貢献。背番号が見えるくらい全身を捻り、下手投げからキレの良い変化球を投げる「ロカビリー投法」で一世を風靡。 1960年には初の2桁勝利となる13勝、同年のオールスターにも選出されるが出場を辞退した。
若生 照元(わこう てるもと、1937年7月10日 - )は… 若生 照元(わこう てるもと、1937年7月10日 - )は、宮城県仙台市出身の元プロ野球選手(投手)。 東北高校時代は若生忠男・若生智男と共に「東北の三若生」と呼ばれたが、甲子園には届かなかった。高校卒業後は1956年に中央大学へ進学。東都大学野球リーグでは低目を突く速球と威力あるシュートを武器に活躍する。3年次の1958年春季リーグでは東京農業大学戦でノーヒットノーランを達成し、5年ぶりの優勝に貢献。同年の大学野球日本選手権では、決勝で立教大学に惜敗して準優勝。1年上には後に大洋でチームメイトとなる桑田武・森田斌、同期には小栗秀夫、西山弘二(広島)・本田威志がいた。 大学卒業後の1960年、本田と共に大洋ホエールズへ入団。
市川 一朗(いちかわ いちろう、1937年4月12日 - )… 市川 一朗(いちかわ いちろう、1937年4月12日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属。 参議院議員(3期)、農林水産副大臣(第1次小泉第2次改造内閣、第2次小泉内閣)などを歴任。 宮城県栗原郡鶯沢町(現在の栗原市鴬沢地区)出身。仙台第一高等学校卒業後、東京大学文科一類入学。1961年、東京大学法学部(私法コース)卒業と同時に建設省に入省する。国土庁防災局長、建設省都市局長、建設省総務審議官を経て、1993年に国土事務次官に就任し、翌1994年に退官。 1995年の第17回参議院議員通常選挙に無所属(新進党推薦)で宮城県選挙区から立候補し、初当選。当選後は新進党の参議院会派である平成会に所属したものの、最後まで新進党には入党しなかった。
若生 智男(わこう ともお、1937年4月5日 - 2024… 若生 智男(わこう ともお、1937年4月5日 - 2024年6月3日)は、宮城県仙台市太白区出身のプロ野球選手(投手)・コーチ、評論家。 兄には仙台商業高校元監督で宮城県野球連盟会長を務めた若生久二雄、弟には埼玉栄高校元監督の若生正廣がいる。東北高校時代は若生忠男(西鉄→巨人)・若生照元(中大→大洋)と共に「東北の三若生」と呼ばれたが、甲子園には届かなかった。 卒業後の1956年に毎日オリオンズへ入団し、8月23日の阪急戦(駒澤)に和田功・中西勝己の3番手で初登板。9月3日の大映戦(後楽園)では先発に起用されるが、5回途中で降板。 2年目の1957年は8月18日の大映戦(西京極)で初勝利を挙げ、10月23日から同24日の東映3連戦(駒澤)では2勝を記録。
平間 誠記(ひらま せいき 1937年3月21日 - 196… 平間 誠記(ひらま せいき 1937年3月21日 - 1968年8月21日)は、元競輪選手。宮城県刈田郡蔵王町出身。日本競輪学校(当時。以下、競輪学校)第13期卒業。現役時は日本競輪選手会宮城支部所属。選手登録番号6789。 競輪学校91期生であった元競輪選手の平間一洋の大叔父にあたる。 宮城県立大河原高等学校を卒業後、アマチュア選手としてアジア大会などのスクラッチ(現在のスプリント)種目に出場し数々の優秀な成績を治める。この頃は早稲田大学商学部の聴講生であったが、大学の自転車部が平間を一般学生として登録し出場させていたため、部全体が長期の活動停止処分を受けてしまい、アマとしての活動が難しくなったため、プロである競輪への転向を決断している。