石田 東四郎(いしだ とうしろう、1912年8月 - 200… 石田 東四郎(いしだ とうしろう、1912年8月 - 2009年6月25日) は、日本の陸軍軍人。太平洋戦争終結から48年目の1993年、中国河南省南召県から帰国した。 1912年8月、秋田県平鹿郡増田町土肥館(現在の横手市)に生まれる。1929年、満17歳で陸軍に志願し秋田歩兵第17連隊に配属された。1936年、一時除隊し、秋田県庁に勤務する。 1937年、輜重特務兵として再召集され第10師団架橋材料中隊(通称成谷部隊、長:成谷兵輔輜重兵少佐)監視隊に属しており、皆川字右衛門工兵少尉指揮のもと、黄河の渡河作戦に従事したことが美談として報じられている。中国河南省封丘に渡り、宣撫官として秋田部隊で情報収集任務に従事する。
赤松 貞雄(あかまつ さだお、1900年(明治33年)5月2… 赤松 貞雄(あかまつ さだお、1900年(明治33年)5月21日 - 1982年(昭和57年)8月16日)は、大正末から昭和期の陸軍軍人。階級は陸軍大佐。 東條英機大将の、陸相秘書官・首相秘書官として知られる。小松崎力雄陸軍少将は兄。 陸軍大佐・小松崎清職の三男として秋田県に生まれ、後に赤松久吾の養子となる。京華中学校で学び、仙台陸軍地方幼年学校(33期)を卒業。1922年(大正11年)7月、陸軍士官学校(34期)を卒業。同年10月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第1連隊附となる。 1925年(大正14年)10月、歩兵中尉に昇進。1931年(昭和6年)12月、陸軍大学校(46期)に入学。1932年(昭和7年)4月、歩兵大尉に進み、1934年(昭和9年)11月、陸大を優等で卒業し歩兵第1連隊中隊長となる。
西村 祥治(にしむら しょうじ、1889年(明治22年)11… 西村 祥治(にしむら しょうじ、1889年(明治22年)11月30日 - 1944年(昭和19年)10月25日)は、日本の海軍軍人。海兵39期。最終階級は海軍中将。秋田県南秋田郡船越村(現:男鹿市)出身。 太平洋戦争(大東亜戦争)のレイテ沖海戦におけるスリガオ海峡夜戦を、第一遊撃部隊第三部隊指揮官(第二戦隊司令官)として戦い、旗艦・戦艦「山城」と共に壮烈な最期を遂げたことで知られる。 旧制秋田中学校(現:秋田県立秋田高等学校)から旧制横手中学校(現:秋田県立横手高等学校)を経て、海軍兵学校に入校(兵39期)。 兵学校卒業席次は21番/148名と上位であったが、海大甲種学生を経ていず、進級は遅れがちであった。
安江 仙弘(やすえ のりひろ、1888年〈明治21年〉1月1… 安江 仙弘(やすえ のりひろ、1888年〈明治21年〉1月12日 - 1950年〈昭和25年〉8月14日)は、日本陸軍の軍人。陸士21期。最終階級は陸軍大佐。帝国陸軍におけるユダヤ問題の専門家として知られる。 旧松本藩士・台湾総督府官吏、安江仙政の長男として現在の秋田県秋田市中通4丁目で生まれた。安江が生まれた家は、平田篤胤の生家であった。 京華中学校、陸軍中央幼年学校予科(のちの東京陸軍幼年学校)、陸軍中央幼年学校を経て、1909年5月、陸軍士官学校(21期、同期には石原莞爾(陸軍中将)、樋口季一郎(陸軍中将)がいる)を卒業し、陸軍歩兵将校となった。 1918年、シベリア出兵に出征し、シベリアでグリゴリー・セミョーノフなど白衛軍の将校と接しているうちに、『シオン賢者の議定書』という反ユダヤ主義の古典の存在を知り、日本に帰国後同書を翻訳。
安藤 忠一郎(あんどう ちゅういちろう、1887年〈明治20… 安藤 忠一郎(あんどう ちゅういちろう、1887年〈明治20年〉11月9日 - 1954年〈昭和29年〉1月11日)は大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍少将。 秋田県出身。秋田中学校を経て、1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校卒業(士候21期)。同年12月、陸軍歩兵少尉任官。 歩兵第32連隊留守隊長などを経て、1939年(昭和14年)10月、第106師団隷下の歩兵第147連隊長に着任し、日中戦争に出征した。その後、熊本連隊区司令官等を歴任し、1941年(昭和16年)3月、陸軍少将に昇進。1942年(昭和17年)3月、第9独立守備隊長に補せられ、1944年(昭和19年)7月、独立混成第60旅団長に転じた。
後藤 英次(ごとう えいじ、1887年(明治20年)11月5… 後藤 英次(ごとう えいじ、1887年(明治20年)11月5日 - 1967年(昭和42年)11月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 秋田県仙北郡高梨村(現・大仙市)出身 。後藤英之助の長男として生まれる。秋田中学校を経て、1909年11月、海軍兵学校(37期)を卒業し、翌年12月に海軍少尉任官。海軍砲術学校普通科、海軍水雷学校普通科で学ぶ。 以後、「安芸」分隊長、「常磐」分隊長、水雷学校教官、「弥生」「吹雪」「樅」の各駆逐艦長、砲艦「隅田」「鳥羽」「堅田」の各艦長、「龍田」水雷長、「第5号駆逐艦」(春風 [II])・「第41号駆逐艦」(薄雲 [II])の各駆逐艦長、「浅間」副長などを歴任。
上村 清太郎(うえむら せいたろう、1883年(明治16年)… 上村 清太郎(うえむら せいたろう、1883年(明治16年)10月15日 - 1947年(昭和22年)3月11日)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 秋田県出身。1901年(明治34年)12月[要出典]、士官候補生(15期)として陸軍に入る。1903年(明治36年)陸軍士官学校を卒業し、翌年2月に陸軍砲兵少尉任官。1916年(大正5年)11月、陸軍大学校(28期)卒業し、参謀本部要塞課に配属された。 陸軍重砲兵学校教導大隊長、同教育部長、横須賀重砲兵連隊長等を歴任し、1932年(昭和7年)8月、陸軍少将へ昇進。陸軍重砲兵学校幹事、野戦重砲兵第4旅団長、陸軍重砲兵学校長などを経て、1936年(昭和11年)4月、陸軍中将に進級。
須田 實(すだ みのる、1880年(明治13年)10月30日… 須田 實(すだ みのる、1880年(明治13年)10月30日 - 没年不詳)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 秋田県出身。秋田尋常中学校を経て、1898年(明治31年)9月、士官候補生(12期)として陸軍に入る。1900年(明治33年)11月、陸軍士官学校を卒業し、翌年6月に陸軍歩兵少尉任官。1911年(明治44年)11月、陸軍大学校(23期)を卒業。 佐賀連隊区司令官、歩兵第55連隊長、第16師団参謀長等を経て、1927年(昭和2年)3月、陸軍少将に進む。同年7月、歩兵第3旅団長に就任し、1928年(昭和3年)8月、予備役に編入された。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
長嶺 俊之助(ながみね しゅんのすけ、1875年(明治8年)… 長嶺 俊之助(ながみね しゅんのすけ、1875年(明治8年)1月12日 - 1945年(昭和20年)11月29日)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍少将。 秋田県出身。秋田尋常中学校を経て、1894年(明治27年)12月、士官候補生(8期)として陸軍に入る(原隊は歩兵第5連隊)。1896年(明治29年)11月、陸軍士官学校を卒業し、翌年6月に陸軍歩兵少尉任官。 日露戦争では歩兵第5連隊中隊長、後備歩兵第5連隊副官として黒溝台会戦に参加した。盛岡連隊区司令官などを経て、1924年(大正13年)2月、歩兵第31連隊長に就任。1927年(昭和2年)7月、陸軍少将昇進と同時に待命となり、同年12月、予備役に編入された。
神成文吉(かんなり ぶんきち、1869年5月6日〈明治2年3… 神成文吉(かんなり ぶんきち、1869年5月6日〈明治2年3月25日〉 - 1902年〈明治35年〉1月27日)は、大日本帝国陸軍の軍人。八甲田雪中行軍遭難事件において、青森歩兵第5連隊雪中行軍隊の主任中隊長であった人物として知られる。 1869年5月6日(明治2年3月25日)生まれで、久保田藩領の羽後国秋田郡鷹巣村(現・秋田県北秋田市)出身。 陸軍教導団卒業。1894年(明治27年)10月に特務曹長に昇進し、日清戦争に従軍。威海衛で戦闘の後、1895年(明治28年)4月1日陸軍歩兵少尉に昇進。その後、遼東半島守備を経て、1896年(明治29年)4月3日付けで台湾守備歩兵第2連隊付となり台湾へ出征し、1897年(明治30年)9月7日付けで青森歩兵第5連隊へ帰還。
白瀬 矗(しらせ のぶ、1861年7月20日〈文久元年6月1… 白瀬 矗(しらせ のぶ、1861年7月20日〈文久元年6月13日〉- 1946年〈昭和21年〉9月4日)は、日本の陸軍軍人、南極探検家。最終階級は陸軍輜重兵中尉。幼名は知教(ちきょう)。 「白瀬中尉」と呼ばれることが多い。 文久元年(1861年)、出羽国由利郡金浦村(現在の秋田県にかほ市)出身。浄蓮寺の住職、白瀬知道・マキエの長男、知教(ちきょう)として生まれた。 南極探検以後になって出版した自伝によると、幼年時代は非常にわんぱくだったという。「金浦の浜辺に漁師が捨てた小魚を狙ってきた狐の尻尾をちぎった」「海に潜って300トンもある千石船の底を潜り抜けようとしたが、抜けられずに溺れて死にかけた」「本堂に引っかった凧を取ろうとして落っこちた」のほか、狼退治や150人と血闘を行ったなどと列挙している。
大島 久直(おおしま ひさなお、1848年10月1日〈嘉永元… 大島 久直(おおしま ひさなお、1848年10月1日〈嘉永元年9月5日〉- 1928年〈昭和3年〉9月27日)は、明治・大正期の日本の陸軍軍人。軍事参議官、教育総監、近衛師団長等を歴任し、官位は陸軍大将正二位勲一等功二級子爵に昇る。 久保田藩久保田出身。槍術師範・大島久徴の次男として生まれる。江戸へ留学している最中に戊辰戦争が勃発し参戦の為に帰郷し、事故により負傷する。その後父が大館市十二所に転勤になり同行。さらに上京し明治3年(1870年)4月、第3番大隊に配属され、明治4年(1871年)5月には陸軍中尉に初任。同年11月、大尉に進み翌1872年(明治5年)、第7番大隊副官。1874年(明治7年)、歩兵第2連隊大隊長となり、少佐進級の後の1875年(明治8年)12月には東京鎮台幕僚参謀副長に任ぜられる。