稲毛 謙介(いなげ けんすけ、1982年12月2日 - )は… 稲毛 謙介(いなげ けんすけ、1982年12月2日 - )は、日本の作曲家、編曲家、音楽プロデューサー。山形県米沢市出身。血液型はA型。株式会社テンペストスタジオ代表取締役。 4歳からピアノ、14歳から作曲を始め、2001年尚美学園大学に進学。大学では作曲を専攻し、冨田勲に師事する。2005年、コーエー(現コーエーテクモゲームス)に入社。「戦国無双」シリーズをはじめとする数々の大ヒットタイトルでメインコンポーザーを務め、2011年、同社を退職。2014年、株式会社テンペストスタジオを設立。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、音楽関係者(バンド等)に関連した書きかけの項目です。
大谷 靖夫(おおたに やすお、1978年5月23日 - ) … 大谷 靖夫(おおたに やすお、1978年5月23日 - ) は、日本の作曲家、編曲家。山形県山形市出身。
森 正明(もり まさあき、1960年〈昭和35年〉4月10日… 森 正明(もり まさあき、1960年〈昭和35年〉4月10日 - )は、日本の作曲家・編曲家・ギタリスト。山形県出身。 大学在学中から、ハードロックにのめり込み、卒業後はバックバンド、編曲家、音楽雑誌のライターとして活動。 1989年、ビリーバンバンのバックでリードギターを担当するようになる。それからは、森山良子、杉田二郎、山本潤子、マイク眞木等と共演し、小椋桂、岡崎律子等のアルバムに参加する傍ら、2000年にはソロアルバム『ルート812』を発売、「ニュースステーション」「世界の車窓から」などで使用される。 代表作は2007年11月リリース、ビリーバンバン「また君に恋してる」(2009年坂本冬美がカバー)。
小柴 大造(こしば だいぞう、1956年9月18日 - )は… 小柴 大造(こしば だいぞう、1956年9月18日 - )は、日本のシンガーソングライター、作曲家、編曲家、プロデューサー。山形県出身。山形県立山形南高等学校卒業。 1978年、第1回東芝シンガーソングライターコンテストで「さよならのバラード」が最優秀賞を獲得。同曲が地元山形放送で10週間トップを記録し、同局の『大造のスタンバイ・ミー』ラジオパーソナリティに就任。 1979年に「小柴大造&エレファント」を結成。同年12月21日に山形県県民会館大ホールで開催されたコンサートでは、プロデビュー前にもかかわらず、初の満席を記録した。 1980年5月5日に、東芝EMIから5枚同時シングルリリースというデビューを果たす(昭和55年5月5日と5枚シングルで、5が5つとなる)。
真島 俊夫(ましま としお、1949年2月21日 - 201… 真島 俊夫(ましま としお、1949年2月21日 - 2016年4月21日)は、日本の作曲家・編曲家。吹奏楽のためのオリジナル、ジャズやポップスの作・編曲作品が多数。 山形県鶴岡市出身。山形県立鶴岡南高等学校卒業(在学中は吹奏楽研究会に在籍)、神奈川大学工学部中退(在学中は吹奏楽部に在籍、パートはトロンボーン)。和声法と作・編曲法を兼田敏に師事。 全日本吹奏楽コンクール課題曲をはじめとする数多くの吹奏楽曲を作曲しているほか、二十数年以上にわたり「ニュー・サウンズ・イン・ブラス」にスコアを提供、代表的な編曲としては「宝島」「オーメンズ・オブ・ラブ」「チュニジアの夜」等、そして「ドラゴンクエスト」シリーズの全吹奏楽編曲を担当。
若草 恵(わかくさ けい、1949年2月10日 - )は、日… 若草 恵(わかくさ けい、1949年2月10日 - )は、日本の作曲家、編曲家。山形県出身。男性。本名:斉藤 徹(さいとう とおる)。 父親はミノルフォン専属の演歌作曲家だった。幼い頃から音楽を聴いて育つ。中学、高校とブラスバンド部に在籍。同時期にクラシックを林三重子に師事。高校卒業後、18歳で一家揃って東京に出てくる。理由は「東京に出て勉強したい」と言うと、一家で山形から東京に出ようということになった。ヤマハ音楽振興会の渡辺貞夫のクラスでジャズ理論を学ぶ傍ら、CM音楽等の作曲活動を始める。その後、師であり親とも慕う中山大三郎の元で、歌謡曲の編曲を始める。研ナオコ「かもめはかもめ」などの編曲で注目され、演歌、ポップスとジャンルを問わず幅広く手がけている。
佐藤 敏直(さとう としなお、1936年7月24日 - 20… 佐藤 敏直(さとう としなお、1936年7月24日 - 2002年3月18日)は、日本の作曲家。 山形県鶴岡市生まれ。山形県立鶴岡南高等学校、慶應義塾大学工学部電気工学科卒業。清瀬保二に師事。当初から師・清瀬ゆずりの民族的作風を示し、1959年、日本音楽コンクールに「ピアノのための三章」で入選した。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:音楽)。 この項目は、クラシック音楽に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル クラシック音楽/ウィキプロジェクト クラシック音楽)。
服部 公一(はっとり こういち、1933年4月24日 - )… 服部 公一(はっとり こういち、1933年4月24日 - )は日本の作曲家、随筆家、音楽評論家。神奈川県鎌倉市在住。 昭和8年(1933年)、山形県山形市生まれ。音楽教師であった祖母の指導で幼少時よりピアノを始める。 山形県立山形東高等学校卒業後、学習院大学文学部哲学科に入学し、久野収ゼミに所属。大学では皇太子・明仁親王と同学年。学部が違ったためいわゆる「ご学友」ではなかったが、「美術史」など一般教養科目をともに履修し、親しく言葉を交わすこともあったという。現在も宮中の茶会などに招かれる間柄である。学生時代からアマチュアの音楽家として活動し、中田喜直・山田耕筰・團伊玖磨らの知遇を得る。同大学4年の時NHKのオーディションに合格。
紺野 陽吉(こんの ようきち、1913年5月16日 - 19… 紺野 陽吉(こんの ようきち、1913年5月16日 - 1945年10月3日)は、山形県生まれの作曲家。 1913年、山形県西置賜郡東根村大字畔藤(現白鷹町畔藤)で生まれる。紺野家は祖父の代からの医者の家で、陽吉は男3人女3人の6人兄弟の次男であった。県立長井中学校 (現山形県立長井高等学校) を1931年に卒業し、上京する。親は医学の道を望んだが、本人は自分の好きな音楽の道へ進む。立教大学交響楽団やコンセール・ポピュレール (後の青年日本交響楽団) というセミプロ楽団でヴァイオリンを弾く。生活の糧は、当時さかんに発売されていたポピュラー音楽のレコード録音の伴奏者として得ていたものと考えられる。
海鋒 義美(かいほこ よしみ、1905年11月4日 - 19… 海鋒 義美(かいほこ よしみ、1905年11月4日 - 1997年6月18日)は日本の作曲家、教育者である。宮城県において音楽教育に尽力した。また、東北地方の多くの学校の校歌や、戦後のラジオ番組において多数の童謡の作曲を手掛けた。三男の海鋒正毅はクラリネット奏者である。 海鋒は山形県北村山郡山口村(現在の天童市)で生まれた。東京音楽学校(後の東京芸術大学)臨時教員養成所を卒業し、熊本県立山鹿高等女学校勤務を経て、1933年(昭和8年)から宮城県仙台市の音楽指導員となった。この時、尋常小学校、高等小学校、計22校で月に最低一回は指導する決まりだった。この頃、児童唱歌コンクール(後のNHK全国学校音楽コンクール)において市内の東二番丁尋常小学校や南材木町尋常小学校が優勝しており、仙台で合唱の流行があった。
阿部 武雄(あべ たけお、1902年(明治35年)1月4日 … 阿部 武雄(あべ たけお、1902年(明治35年)1月4日 - 1968年(昭和43年)2月5日)は、日本の作曲家。 山形県鶴岡市湯野浜に旅役者の息子として誕生するも、生後間もなく両親は離別、再婚した母に伴われて横須賀に居を移したが母が病死したので、祖父母と石巻に転住。まだ小学生という頑是無い子供であるのに、町役場の給仕として働き生活の辛酸を舐めていた。 苦学の末、東洋音楽学校に入学。卒業後、神戸オリエントホテルのバンドマンとして就職。10年程、楽士として各地を転々とする。 1933年(昭和8年)、作詞家藤田まさとの紹介でポリドールに入社し、専属作曲家となる。1934年(昭和9年)、東海林太郎の歌う「国境の町」、1935年(昭和10年)「むらさき小唄」が大ヒット。
五十嵐 悌三郎(いがらし ていざぶろう、明治26年(1893… 五十嵐 悌三郎(いがらし ていざぶろう、明治26年(1893年)9月21日 - 昭和15年(1940年)5月1日)は、山形県西田川郡栄村(現・鶴岡市)出身の、作曲家、音楽教育者。 代表的な作曲に、『山形県青年団歌』(土井晩翠作詞)がある。 京城で学校教諭を務める傍ら、李王家の雅楽研究に没頭した。 山形県師範学校での授業の始めには、毎回1曲の歌を歌っていた。
大沼 哲(おおぬま さとる、1889年6月17日 - 194… 大沼 哲(おおぬま さとる、1889年6月17日 - 1944年10月18日)は、日本の陸軍軍人、作曲家、指揮者。最終階級は陸軍軍楽少佐。山形県米沢市出身。 1889年、小学校長を勤める音楽好きな父の家に生まれるが、7歳のころ生家の大滝家を離れ親戚の大沼家の養子となる。米沢工業学校卒業後に音楽への思い止みがたく上京して、軍楽兵を目指し1907年陸軍戸山学校に入校。同校を首席で卒業し銀時計を授与される(俗に言う「恩賜の銀時計組」)。1912年に陸軍戸山学校軍楽隊を中心とする選抜メンバーでイギリス演奏旅行する際、メンバーに選ばれず永井建子軍楽隊長の留守居役を命じられたことに発奮し、フランス語を習得した。