桂 夏丸(かつら なつまる、本名:阿倍 清彦、1984年8月… 桂 夏丸(かつら なつまる、本名:阿倍 清彦、1984年8月15日 - )は、群馬県吾妻郡吾妻町(現・東吾妻町)出身、落語芸術協会所属の噺家、俳人。出囃子は『あゝそれなのに』。 父は根付作家、母は声楽家。小学生の頃から落語と俳句に熱中して東京まで寄席通いを続け、群馬県立渋川青翠高等学校2年生の時に桂幸丸に弟子入りを許され、自宅で稽古を付けて貰うようになる。 2003年(平成15年)3月、卒業と同時に正式入門、桂夏丸の名で前座。2007年(平成19年)9月1日二ツ目昇進。四代目桂米丸一門伝統の新作落語で研鑚中。 実力派の若手俳人としても評価が高く、高校在学中の2002年度上毛新聞社主催『上毛ジュニア俳壇』にて最優秀賞。
伊波 真人(いなみ まさと、1984年 - )は、日本の歌人… 伊波 真人(いなみ まさと、1984年 - )は、日本の歌人。作詞家・小説家・映像作家としても活動している。 群馬県高崎市生まれ。埼玉県さいたま市在住。美術系大学の映像学科を経て、早稲田大学第二文学部卒業。 もともと映像制作を行っていたが、早稲田大学在学中に彬聖子の漫画『こいのうた』で穂村弘の短歌を読んで、短歌に興味を持つ。その後、短歌実作の講義の受講をきっかけに、映像制作と並行して短歌の創作を始める。「早稲田短歌会」を経て、歌人集団「かばん」に入会。 2013年、『冬の星図』で第59回角川短歌賞を受賞。 ブルー・ペパーズ『秋風のリグレット』など、ポップスの作詞家としても活動している。 写真撮影も行っており、雑誌、書籍などに掲載されている。
清水 一憲(しみず かずのり、1977年7月26日 - )は… 清水 一憲(しみず かずのり、1977年7月26日 - )は、群馬県藤岡市出身の文人、歌人、NPO研究者(活動家)、会社役員、政策プランナー、まちづくりコンサルタント、イベントプロデューサーである。多数のNPO法人役員を兼職しており、中央省庁や地方自治体の公職にも委嘱されている。
田村 元(たむら はじめ、1977年2月11日 - )は、日… 田村 元(たむら はじめ、1977年2月11日 - )は、日本の歌人。 群馬県勢多郡新里村(現・桐生市)出身。群馬県立桐生高等学校を経て北海道大学法学部卒業。 1997年頃、北海道新聞の松川洋子選歌欄への投稿をきっかけに短歌を作りはじめる。同じ選歌欄に投稿していた樋口智子、雪舟えまらと知り合う。 1999年、「りとむ」入会。2000年、「太郎と花子」創刊に参加。2002年、「上唇に花びらを」で、第13回歌壇賞受賞。2012年、第一歌集『北二十二条西七丁目』刊。翌2013年、同歌集で第19回日本歌人クラブ新人賞、第4回神奈川県歌人会第一歌集賞受賞。 2021年度NHK短歌選者、横浜歌人会副代表委員。
木暮 陶句郎(こぐれ とうくろう、1961年〈昭和36年〉1… 木暮 陶句郎(こぐれ とうくろう、1961年〈昭和36年〉10月21日 -)は、日本の俳人、陶芸家。群馬県北群馬郡伊香保町(現・渋川市)出身。本名、木暮 宏明 (こぐれ ひろあき)。 1993年、俳句雑誌「ホトトギス」投句開始。 稲畑汀子、稲畑廣太郎に師事。1998年、日本伝統俳句協会賞、花鳥諷詠賞を受賞。2002年「ホトトギス」同人。2009年、村上鬼城賞正賞を受賞。 2011年俳句雑誌「ひろそ火」を創刊主宰。 現在 群馬県俳句作家協会副会長、NHK学園俳句講座講師(2024年度「NHK俳句」第3週選者)、日本伝統俳句協会会員、俳人協会会員、日本文藝家協会会員 他。 南雲龍および南雲陽に師事。
水野 眞由美(みずの まゆみ、1957年3月23日 - )は… 水野 眞由美(みずの まゆみ、1957年3月23日 - )は、群馬県出身の俳人。 前橋市生。和光大学人文学部卒業。前橋市にて古書店「山猫館書房」を経営しながら句作活動を行う。1985年より金子兜太に師事。「俳句空間」新人賞準賞、海程新人賞などを受賞。2001年、句集「陸封譚」で第6回中新田俳句大賞を受賞。女性ならではのみずみずしい感性を生かした作風で注目される[独自研究?]。現在[いつ?]、「海原」同人・「鬣-TATEGAMI」編集同人。朝日新聞群馬版・上毛俳壇選者。 エッセイ集「猫も歩けば」、評論集「現代の俳人101」(共著)。「小さな神へ—未明の詩学」で、群馬県文学賞評論部門を受賞。
渡辺 松男(わたなべ まつお、1955年5月13日 - )は… 渡辺 松男(わたなべ まつお、1955年5月13日 - )は、日本の歌人。短歌結社「かりん」所属。 群馬県伊勢崎市生まれ。群馬県立前橋高等学校、東京大学文学部卒業。公務員のかたわら1990年に短歌結社「歌林の会」に入会し、馬場あき子・岩田正に師事する。1999年から2010年まで、上毛新聞歌壇選者を務める。同じく1999年より5年間、群馬県立土屋文明記念文学館に勤務した。2010年より筋萎縮性側索硬化症(ALS)で闘病している。 口語やオノマトペを自在に使ったやわらかな文体で、人間が生き物一般と等価に立つような、独特の自然観の短歌を詠む。
林 桂(はやし けい、1953年4月8日 - )は、日本の俳… 林 桂(はやし けい、1953年4月8日 - )は、日本の俳人。本名・政美。 群馬県利根郡新治村(現みなかみ町)生まれ。群馬県立沼田高等学校を経て新潟大学法文学部卒。1983年から10年間群馬県立桐生高等学校にて、文芸部、俳句クラブの顧問を務め、教え子に、山口晃(画家・評論)、青木陽介、青木重治、木村徹、山田耕司、今泉康弘がいる。 中学時代より作句、高校時代、鈴木石夫指導の「歯車」、加藤楸邨主宰の「寒雷」に入会。高柳重信選の『俳句研究』50句競作に登場し注目される。1978年、澤好摩、夏石番矢らと「未定」創刊。1998年、「吟遊」創刊に参加。2001年、伊藤信吉、中島敏之、水野眞由美、佐藤清美らと「鬣TATEGAMI」創刊、代表同人となる。
板垣 好樹(いたがき よしき、1933年〈昭和8年〉8月20… 板垣 好樹(いたがき よしき、1933年〈昭和8年〉8月20日 - 1993年〈平成5年〉6月26日)は、日本の俳人。群馬県伊勢崎市生まれ。本名・好昭。月刊『俳句人』編集長(1973 - 1975年)、第6回新俳句人連盟賞受賞。 1933年、群馬県伊勢崎市に生まれる。19歳で結核に罹り、国立療養所大日向荘(現在の国立病院機構西群馬病院)で療養の日々を送る。1954年、療養所で俳句を知り、翌年古沢太穂の結社「道標」に入会、同時に太穂の推薦で新俳句人連盟の会員となる。1956年に療養所を退所、印刷工となり、1962年には現代俳句協会の会員となる。1971年、新聞『赤旗』俳壇時評、翌年日曜版俳句欄選者、1973年には岩間清志の死を受けて月刊『俳句人』編集長となる。
堀口 星眠(ほりぐち せいみん、1923年〈大正12年〉3月… 堀口 星眠(ほりぐち せいみん、1923年〈大正12年〉3月13日 - 2015年〈平成27年〉2月2日)は、群馬県出身の俳人、医師。本名・慶次。 群馬県碓氷郡安中町(現・安中市)生まれ。旧制高崎中学、旧制新潟高校を経て、1942年に東京帝国大学医学部入学。1947年に卒業後、東大付属病院物療内科入局。 東京帝国大学在学中より水原秋桜子に師事。1949年、軽井沢に友人と共同で「森の家」と称する家を借り、翌年より大島民郎、相馬遷子、岡谷公二らと句会。「馬酔木」に新風を吹き込み馬酔木高原派と呼ばれた。1952年「馬酔木」同人。1955年、郷里の安中市にて開業。1958年馬酔木賞。1976年句集『営巣期』で第16回俳人協会賞受賞。
宮崎 利秀(みやざき としひで、1919年 - 1982年1… 宮崎 利秀(みやざき としひで、1919年 - 1982年1月1日)は、日本の教員で俳人。 杉森久英の小説『黄色のバット』のモデルになったことで知られる。 群馬県伊勢崎市に生まれる。生後すぐに埼玉県妻沼町(現・熊谷市)に転居した。 熊谷中学校(現・埼玉県立熊谷高等学校、1937年卒業)を経て、横浜高等工業学校(現・横浜国立大学工学部)を卒業した。熊谷中学校では金子兜太と同窓だった。1942年に東京工業大学機械工学科を卒業すると、陸軍兵技将校として相模造兵廠監督課に勤務した。陸軍航空本部付技術少尉として満州派遣されている際に敗戦となる。 敗戦後は占領軍の英語通訳を務めながら、1946年に『東京ジョー』を刊行した。
江口 きち(えぐち きち、1913年〈大正2年〉11月23日… 江口 きち(えぐち きち、1913年〈大正2年〉11月23日 - 1938年〈昭和13年〉12月2日)は、大正時代から昭和時代前期にかけての女流歌人。 河井酔茗と島本久恵に師事し、貧困の中で多くの歌を詠んだが最期は自殺した。「薄幸の天才歌人」「女啄木」と呼ばれた。ただし作風は啄木とは大きく異なり万葉調であった。 群馬県利根郡川場村大字谷地に、1913年(大正2年)11月23日に父熊吉、母ユワの長女として生まれる。父は博徒で生活能力がなく、兄廣寿は幼時の脳膜炎の後遺症で知的障害があった。母が飲食店を切り盛りして三人の子どもを育てた。川場村尋常高等小学校での学業成績は優秀だったが進学は諦めた。 1930年(昭和5年)2月から沼田の郵便局に勤めるが、6月3日に母が急逝したため帰郷し家族の世話のために家業を継ぐ。
森村 浅香(もりむら あさか、1912年〈明治45年〉3月4… 森村 浅香(もりむら あさか、1912年〈明治45年〉3月4日 - 2011年〈平成23年〉8月6日)は、歌人。夫は作家の豊田三郎と、長女は森村桂。 群馬県伊勢崎市の旧家の生まれ。東京府立第五高等女学校卒。女子高等学園で西角井正慶に和歌の教えを受ける。同人誌『海石榴』を発行。1946年『鶏苑』に参加。1953年加藤克巳を中心に『近代』を創刊。1954年に『古今』に入会。1960年北沢郁子らと同人誌『藍』を創刊する。現代歌人協会会員。
吉野 秀雄(よしの ひでお、1902年〈明治35年〉7月3日… 吉野 秀雄(よしの ひでお、1902年〈明治35年〉7月3日 - 1967年〈昭和42年〉7月13日)は、近代日本の歌人・書家・文人墨客。号は艸心。多病に苦しみながら独自の詠風で境涯の歌を詠んだ。多数の美術鑑賞や随筆を残し、書家としても知られている。 『南京新唱』を読み、会津八一にひかれて師事。生涯を病とたたかいつつ、良寛を愛し、万葉調を基調にした、純粋な人間への愛憐を詠む。『寒蟬集』(1947年)、『晴陰集』(1950年)などの歌集がある。 群馬県高崎市に次男として生まれる。家は織物問屋の株式会社吉野藤であった。 1909年(明治42年)身体が病弱であったため富岡上町の祖父母のもとに移り住み、富岡小学校に入学。
住谷 三郎(すみや さぶろう、1900年〈明治33年〉1月1… 住谷 三郎(すみや さぶろう、1900年〈明治33年〉1月10日 - 1967年〈昭和42年〉1月21日)は歌人。 1900年(明治33年)1月10日、群馬県群馬郡大字東国分(現高崎市東国分町)生まれ。父友太は村長も務めた開明的な養蚕農業家、母なんの姪は土屋文明に嫁いだ。キリスト教牧師・漢詩人・英文学者の住谷天来を叔父に、元同志社総長・経済学者住谷悦治を兄にもつ。前橋中学校入学後、先輩萩原朔太郎や隣村棟高出身の山村暮鳥の活躍に刺激されて文芸に関心を持ち、同級生萩原恭次郎らを識って親交を結び、作歌への情熱を高め、角田蒼穂とともに文芸誌への投歌を始め、中学4年のとき「日本少年」「青年文壇」「秀才文壇」「文章世界」などに短歌を投稿、入選を重ね、同級の千輝春彦・高橋紅二との合作歌集『揺籃(ようらん)』(1917)を発行。
大木 雄二(おおき ゆうじ、1895年〈明治28年〉5月7日… 大木 雄二(おおき ゆうじ、1895年〈明治28年〉5月7日 - 1963年〈昭和38年〉7月21日)は、日本の歌人、児童文学者。本名・大木 雄三。 群馬県佐波郡赤堀村(現・伊勢崎市)に生まれる。郷里で小学校の教員を勤めたのち、20歳の時に上京。 1932年から雄二を名乗る。1919年「こども雑誌」の編集者となる。「少年雑誌」「金の星」などに童話を発表した。1927年(昭和2年)童話作家協会に入会し、幹事を務める。1928年(昭和3年)プロレタリア系の新興童話作家連盟の結成に参加。反戦童話「可愛い敵め」を発表する。1932年(昭和7年)右翼的な日本文化連盟を結成、戦時中はファシズム作家であった。
大澤 雅休(おおさわ がきゅう、1890年〈明治23年〉12… 大澤 雅休(おおさわ がきゅう、1890年〈明治23年〉12月17日 - 1953年〈昭和28年〉9月12日)は、昭和時代の日本の書家・歌人。平原社主宰。日本の書道界における前衛派の先駆けである。本名・雅休(まさやす)。 群馬県群馬郡大類村(現・高崎市柴崎町)の農家の長男として生まれる。高陽義塾を経て高山社に学ぶ。 1908年(明治41年)群馬郡金島村金島小学校代用教員となり、翌1909年同郡倉賀野町へ転勤。1911年高崎歩兵第15連隊に入営、除隊後大類小学校に勤務。村上鬼城や村上成之(蛃魚)に俳句の指導を受ける。 1916年(大正5年)栃木県那須開墾地に入植。このころ『ホトトギス』に小説や俳句を発表、また『アララギ』会員となり島木赤彦の指導を受ける。
土屋 文明(つちや ぶんめい、1890年〈明治23年〉9月1… 土屋 文明(つちや ぶんめい、1890年〈明治23年〉9月18日〈戸籍上は1月21日〉 - 1990年〈平成2年〉12月8日)は、日本の歌人・国文学者。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 東大哲学科卒。伊藤左千夫に師事し、斎藤茂吉とともに歌誌「アララギ」の編集に参加。社会化された民衆の生活の内面を表そうとする歌風で、歌集に『往還集』(1930年)、『山谷集』(1935年)など。著述に『万葉集私注』(1949~56年)などがある。 群馬県群馬郡上郊村(現・高崎市)の貧しい農家に生まれる。祖父の藤十郎は賭博で身を持ち崩し強盗団に身を投じて北海道の集治監で獄死したと伝えられており、家族は村人たちから冷たい目で見られ幼い文明にとって故郷の村は耐えがたい環境であった。
正田 きぬ(しょうだ きぬ、1880年〈明治13年〉2月12… 正田 きぬ(しょうだ きぬ、1880年〈明治13年〉2月12日 - 1970年〈昭和45年〉5月9日)は、日本の歌人。元日清製粉社長である正田貞一郎の妻。父は5代・正田文右衛門。 上皇后美智子の祖母で、今上天皇の曽祖母にあたる。 1880年(明治13年)、5代・正田文右衛門の長女として生まれる。弟に敏一郎(のち6代文右衛門)がいる。 1897年(明治30年)12月8日、後の日清製粉社長となる正田貞一郎と結婚。夫となった貞一郎の父(正田作次郎)はきぬの祖父(4代文右衛門)の弟で、つまり夫は父の従弟にあたる。貞一郎との間に5男5女を儲ける。なかでも三男の英三郎は、長女美智子が民間から皇室へと初めて嫁いだことで知られる。
荒井 閑窓(あらい かんそう、嘉永5年2月15日〈1852年… 荒井 閑窓(あらい かんそう、嘉永5年2月15日〈1852年3月5日〉 - 1925年〈大正14年〉12月11日)は明治・大正期の俳人。本名は荒井 清三郎。別号に竹幹道人、華崖、不染居士がある。 館林町鞘町(現・館林市仲町)で綿糸問屋「荒清」を営む荒井家の嫡子として生まれ、幼名を胤太郎といった。善導寺住職・満成から漢学を学んだ。俳諧は横山見左に学び、養志堂閑窓と号した。見左が1875年(明治8年)に死去した後は、下平可都美(現在の高崎市倉渕町水沼の人)に師事し、俳画も作るようになった。1880年(明治13年)に三森幹雄が『俳諧明倫雑誌』を創刊した際は資金面で援助を行っている。 閑窓は家督を弟に継がせ自身は俳諧に専念することを望んだが、資産50万円ともいわれる大商店でそれは許されなかった。