矢口 健一(やぐち けんいち、1974年6月25日 - )は… 矢口 健一(やぐち けんいち、1974年6月25日 - )は、千葉県木更津市出身の元社会人野球選手(内野手、指名打者)右投げ右打ち。背番号は3(2007年シーズンは36)。 木更津高時代、同級生に競艇選手の石渡鉄兵がいた。 高校卒業後、一浪して一般受験で早稲田大学商学部に入学し野球部に入部。グラウンド整備に使うトンボとグラウンドの塀を使って素振りさせるなど佐藤清監督の個性的な指導で打棒が開花し、2年春からリーグ戦に出場。そのシーズンの対立教大学戦で1試合8打点のリーグ記録を樹立、一気に注目を集めた。このシーズン規定打席不足ながら4割以上を放ち本塁打・打点はリーグ1位、“幻の三冠王”といわれた。恵まれた体躯から長打を連発し、チームの主軸に成長、岡田彰布・石井浩郎以来の右の大砲と嘱望された。
寺村 友和(てらむら ともかず、1974年4月22日 - )… 寺村 友和(てらむら ともかず、1974年4月22日 - )は、千葉県千葉市稲毛区出身の元プロ野球選手(投手)。台湾での登録名は山崎 友和(やまざき ともかず)であり、山崎は現姓。 小学校時代は軟式野球のヤングジャイアンツに所属。中学時代は硬式野球の千葉ジャガーズに所属し、高橋由伸は1年後輩に当たる。 千葉商業高等学校卒業後は本田技研に進み、1996年にチームが第67回都市対抗野球大会で優勝したが、入来祐作や補強の大塚晶文らがいたため、登板機会はなかった。 1997年のプロ野球ドラフト会議にて千葉ロッテマリーンズから2位指名を受けて入団。 プロ入り後は球威はあるものの制球難に苦しみ、サイドスローに転向したもの、大きな結果には繋がらなかった。
小笠原 道大(おがさわら みちひろ、1973年10月25日 … 小笠原 道大(おがさわら みちひろ、1973年10月25日 - )は、千葉県千葉市美浜区出身の元プロ野球選手(内野手、捕手)。右投左打。愛称は「ガッツ」(後述)、「北の侍(サムライ)」、「ミスターフルスイング」。 NPBの現役選手時代は1997年から2006年まで北海道日本ハムファイターズ(2003年までは「日本ハムファイターズ」)で、2007年から2013年までは読売ジャイアンツ(巨人)で、2014年から2015年までは中日ドラゴンズでプレーした。日本ハム時代にはパシフィック・リーグの首位打者2回、本塁打王1回、打点王1回などのタイトルを獲得、また日本ハム時代の2006年にはパ・リーグのMVPを、巨人時代の2007年にはセントラル・リーグのMVPをそれぞれ受賞している。
石井 一久(いしい かずひさ、1973年9月9日 - )は、… 石井 一久(いしい かずひさ、1973年9月9日 - )は、千葉県千葉市若葉区出身の元プロ野球選手(投手、左投左打)。吉本興業に所属している。 現役時代は投手としてNPBのヤクルトスワローズ(セントラル・リーグ)、埼玉西武ライオンズ(パシフィック・リーグ)で6度のリーグ優勝、4度の日本シリーズ優勝に貢献。MLBではロサンゼルス・ドジャース時代に1度の地区優勝に貢献した。またNPBで合計4個のタイトル(最優秀防御率1個、最多奪三振2個、最高勝率1個)を獲得している。 2018年9月から2022年まで東北楽天ゴールデンイーグルス(株式会社楽天野球団)取締役GM、2021年から2023年まで同球団第9代監督を務めた。
荒井 修光(あらい のぶあき、1973年〈昭和48年〉8月1… 荒井 修光(あらい のぶあき、1973年〈昭和48年〉8月11日 - )は、千葉県我孫子市出身の元プロ野球選手(捕手)。右投左打。現役引退後は北海道日本ハムファイターズの球団職員となっている。 我孫子シニア、我孫子高校、早稲田大学を経て、1995年ドラフト2位で日本ハムファイターズに入団。 高校3年時に、ピッチャーとして甲子園に出場。2勝をあげる。なおこの時の監督は、実父の荒井致徳であり話題となる。早稲田大学では1年で2勝するが、2年のときに捕手へ転向。東京六大学リーグ通算87試合出場、307打数74安打、打率.241、2本塁打、33打点。ベストナイン1回。織田淳哉、三澤興一とバッテリーを組む。
花島 寛己(はなしま よしき、1973年6月16日 - )は… 花島 寛己(はなしま よしき、1973年6月16日 - )は、千葉県習志野市出身の元プロ野球選手(投手)。 習志野市立大久保小学校、習志野市立第二中学校出身。地元の少年野球チーム「オール大久保」では投手のほか、一塁手や中堅手も経験したが、第二中学時代は投手に専念し、県大会優勝に貢献した。習志野高校では2年春に県大会優勝すると関東大会準々決勝で先発したが横浜高に敗れる。なお、高校の2学年先輩には野口寿浩がいた。 高校3年生の夏以降、翌1992年から地元・千葉県の千葉マリンスタジアムを本拠地とすることを決めていた千葉ロッテマリーンズ(旧ロッテ・オリオンズ)から同年のプロ野球ドラフト会議で指名することを打診する話があり、花島本人もドラフト会議前からロッテ入団を希望していた。
北川 哲也(きたがわ てつや、1973年4月18日 - )は… 北川 哲也(きたがわ てつや、1973年4月18日 - )は、東京都江戸川区出身の元プロ野球選手(投手)。 暁星国際高校には、同校が野球部の強化を始めた時期の1期生として入学。エースとして臨んだ2年夏の千葉県大会では、決勝で成田高校に敗れた。翌年夏は県大会初戦(2回戦)で敗れた。高校時代は小笠原道大とバッテリーを組んでいた。石井一久とは同学年で「右の北川、左の石井」と言われた[誰によって?]。 高校卒業後は日産自動車に入社。同僚の川尻哲郎らとともに活躍し、1994年の第21回社会人野球日本選手権大会では準優勝に貢献し、敢闘賞を受賞した。キレのある145km/hの速球とスライダー、ナックルボールが武器。
秋葉 直樹(あきば なおき、1973年3月22日 - )は、… 秋葉 直樹(あきば なおき、1973年3月22日 - )は、千葉県出身の元プロ野球選手(投手)。 野球好きだった父の影響で自分も興味を持ち、小学校3年生の頃に野球を始めた。リトルリーグおよびリトルシニアで一塁手として野球を続けたが、ほぼ補欠で出場機会は少なかったという。 千葉大宮高に進むと高校野球のレベルに圧倒されたが、練習後も自宅で1時間の素振りをするなどの努力もあり、1年生ながら夏の県大会ではレギュラーに選ばれている。2年次の秋には新チームの主将になり、同時にチーム事情から投手に転向した。あこがれのポジションだったため非常に嬉しく、走りこみや投げ込みを重ねたという。3年次にはエースで四番となり、プロのスカウトも視察に来ていた。
高橋 郁雄(たかはし いくお、1973年1月11日 - )は… 高橋 郁雄(たかはし いくお、1973年1月11日 - )は、千葉県出身の元プロ野球選手(外野手)。 日大一高を経て、創価大学では4年春にリーグ初のサイクル安打を記録、一光へと進むが、新人大量補強にはじきだされた形で退部。日本ハムファイターズの入団テストを受けるも不合格となったが、ヤクルトスワローズの入団テストを受けて合格となり、1997年のドラフト会議で5位指名を受け入団。 俊足強肩を売りとした外野手だったが、1軍出場のないまま、1999年に戦力外通告を通知され、現役から引退する。その後は事業を継いでいる。
ティミィ・キーナン(Timmy Keenan, 1972年3… ティミィ・キーナン(Timmy Keenan, 1972年3月11日 - )は、元社会人野球選手(内野手)。 岩手県生まれ、その後家族で千葉県へ転居。成田北高では大型ピッチャーとして知られ、プロのスカウトも注目する存在だった。 高校卒業後はNTT関東へ入社して内野手に転向。大柄な体躯を生かした長打力を利して、またたく間に社会人野球を代表するスラッガーへ成長を遂げ、公式戦通算135本のホームランを打っている。 1998年限りでNTT関東がNTTグループの大統合に伴って廃部となり、NTT東日本へ転籍。NTT東日本でもクリーンアップを打って活躍を見せた。背番号は33だった。2003年シーズンをもって現役を引退。
度会 博文(わたらい ひろぶみ、1972年1月26日 - )… 度会 博文(わたらい ひろぶみ、1972年1月26日 - )は、千葉県船橋市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)。 登録ポジションは内野手だが、投手と捕手以外の全てのポジションを守れるユーティリティープレイヤーとして活躍した。息子が2人おり、そのうち次男は横浜DeNAベイスターズ所属の度会隆輝。 八千代松陰高等学校では2年秋の関東大会に出場して初戦は井出竜也が先発の吉田高に勝利したが、準々決勝で5回コールド負け。中央学院大学に進学。大学2年時に頭角を現し始め、首位打者3回、ベストナイン4回、4年秋はMVP、大学通算で打率.475、9本塁打。 1993年、ドラフト3位でヤクルトに入団。明治神宮外苑で草野球をしていたところ、片岡宏雄スカウトの目に留まり入団に至った。
大塚 晶文(おおつか あきのり、1972年1月13日 - )… 大塚 晶文(おおつか あきのり、1972年1月13日 - )は、千葉県千葉市花見川区出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)、プロ野球コーチ。 投手としてサンディエゴ・パドレスで1度の地区優勝に貢献。個人ではNPBで合計1個のタイトルを獲得している。 2003年から2007年までの登録名は大塚 晶則(読み同じ)。 小学3年時、地元こてはし台の少年野球チームに入り野球を始める。 その後、横芝敬愛高等学校へ進学。1年時に母が病気で他界したが、兄や姉、後見人の支えもあり、野球を続ける。高校3年夏の千葉県大会では、4回戦で八千代東高校を3-2で破った。同試合後、八千代東のエースだった恩田寿之(のちに東洋大→かずさマジック)から千羽鶴を手渡された。
大塚 晶文(おおつか あきのり、1972年1月13日 - )… 大塚 晶文(おおつか あきのり、1972年1月13日 - )は、千葉県千葉市出身の元プロ野球選手(投手)、コーチ。
関根 裕之(せきね ひろゆき、1971年12月9日 - )は… 関根 裕之(せきね ひろゆき、1971年12月9日 - )は、千葉県松戸市出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)・コーチ。2010年から2011年までは北海道日本ハムファイターズの二軍投手コーチ、2012年からはチームスタッフ(プロスカウト)を務める。 小学2年の時に野球を始め、当時は内野手だった。中学時代に投手へ転向した。岩倉高校では3年次の1989年夏の都大会決勝でエース吉岡雄二擁して全国制覇した帝京高校に敗れ準優勝。1990年、東北福祉大学に進学。同大学では2年上に斎藤隆、金本知憲らがいた。2年生になると同期三野勝大より先に頭角を現し、上級生になると日米大学野球にも出場。大学では1年下の和田一浩とバッテリーを組んだ。
知野 公昭(ちの きみあき、1971年10月14日 - )は… 知野 公昭(ちの きみあき、1971年10月14日 - )は、千葉県君津郡袖ヶ浦町(現:袖ケ浦市)出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 拓大紅陵高3年次に、千葉県予選決勝まで進出するが、押尾健一擁する成東高に0-1で敗退した。高校3年間で47試合に登板し、28勝6敗、防御率0.84という記録を残した。 1989年のプロ野球ドラフト会議で横浜大洋ホエールズから6位で指名を受けて入団。契約金3000万円・年俸360万円(金額は推定)と決まった。 140km/h後半のストレートが武器だったが、一軍登板までは至らずにサイドスローに転向するなどしたが、結局一軍登板のないまま1994年限りで現役を引退した。
酒井 弘樹(さかい ひろき、1971年9月22日 - )は、… 酒井 弘樹(さかい ひろき、1971年9月22日 - )は、千葉県柏市出身の元プロ野球選手(投手)。現在は市邨高校教員。 小学1年の時に野球を始める。関東第一高等学校時代には2年時の1988年夏にエースピッチャーになるが、3年時の1989年夏は急性肝炎で入院したためベンチ入りすらできなかった。1990年に高校卒業後、國學院大學文学部に進学し、当時東都大学野球連盟2部リーグ所属の同大学野球部に在籍。3年時の1992年春に東農大戦で投げて15奪三振を記録すると2部リーグで優勝し、2部最優秀投手に選出される。続く入替戦でも初戦完封から2回戦も救援するなど1部昇格の原動力となった。4年時の1993年春の1部リーグ開幕戦で駒大を相手に延長15回を投げ切って引分けたが、このシーズンは最下位となる。
大野 和哉(おおの かずや、1971年9月16日 - )は、… 大野 和哉(おおの かずや、1971年9月16日 - )は、千葉県東葛飾郡沼南町(現:柏市)出身の元プロ野球選手(外野手)。 小学5年で野球を始め、中学時代はオール沼南(中学硬式チーム)に所属し、ボーイズリーグの世界選手権にも出場。 市立船橋高時代は、1年秋の県大会決勝で1学年上の伏島良平とバッテリーを組み、市立銚子高の石毛博史と投げ合って勝利。2年次の1988年に春のセンバツでは初戦で1学年上の立石尚行の後を救援したが敗退。1989年に春の県大会で柏中央高を相手にノーヒットノーランを達成。夏の千葉県大会は5回戦で敗退。同年オフにドラフト外で読売ジャイアンツに投手として入団。 1992年に外野手へ転向。
押尾 健一(おしお けんいち、1971年7月3日 - )は、… 押尾 健一(おしお けんいち、1971年7月3日 - )は、千葉県出身の元プロ野球選手(投手)。 横芝中学校時代から投手として高い評価を受け、強豪の東海大浦安高から勧誘を受けたが、心臓に持病のある母のために自宅近くにいたいなどの理由で同じく誘いのあった成東高に進学。速球は高校の先輩である鈴木孝政に匹敵すると言われたが、1年夏に左足アキレス腱を故障して3ヶ月入院している。2年夏の県大会は準決勝で救援登板したが市立柏高の八島祥司に完投負け。3年春には右ひじを故障したが、夏の県大会ではシュートやカーブを武器に全7試合を一人で投げきって71奪三振、7失点の成績を残した。準決勝では一緒にプロ入りすることとなる野口寿浩が捕手で出場していた習志野高に完投勝利、決勝では知野公昭らを擁する拓大紅陵高を5安打完封で破り、チームの選手権大会初出場に貢献した。
野口 寿浩(のぐち としひろ、1971年6月24日 - )は… 野口 寿浩(のぐち としひろ、1971年6月24日 - )は、千葉県習志野市出身の元プロ野球選手(捕手)、野球指導者。右投右打。野球解説者。PAMSとマネジメント契約を結んでいる。 習志野高時代はチームとしては1年夏に甲子園出場もメンバー外。3年春は県大会準優勝で関東大会ベスト8。夏は千葉大会準決勝で押尾健一を擁する成東高に敗れ、ベスト4。高校通算11本塁打。高校の2学年後輩には花島寛己がいた。 石井好博監督と当時ヤクルトスワローズのスカウトだった安田猛が、早稲田大学野球部の先輩後輩の関係であり、ヤクルト入団意思が固いと他球団は手を引き、1989年オフにドラフト外でヤクルトスワローズに入団。 1年目はドラフト外の高卒ルーキーながら、二軍で59試合に出場し、.292、0HR、23打点を記録するなど、いきなりレギュラーに定着する。
川口 亘太(かわぐち こうた、1971年5月28日 - )は… 川口 亘太(かわぐち こうた、1971年5月28日 - )は、プロ野球審判員。審判員袖番号は39。 我孫子高等学校、中央学院大学を経て1994年にパシフィック・リーグ審判部に入局。審判員袖番号は39。 2008年5月24日北海道日本ハムファイターズ対中日ドラゴンズ第2回戦(札幌ドーム)にて二塁塁審を務め、通算1000試合出場を達成した。 2025年終了時点での試合出場数は2734試合。オールスターゲーム出場4回(2001年、2004年、2011年、2019年。内2001年の第2戦と2011年の第2戦で球審)、日本シリーズ出場8回(2006年、2010年、2011年、2014年、2016年、2018年、2022年、2023年。
鈴木 秀範(すずき ひでのり、1970年12月31日 - )… 鈴木 秀範(すずき ひでのり、1970年12月31日 - )は、千葉県袖ケ浦市出身の元社会人野球の選手(内野手)・監督。 中学時代は学校の軟式野球部に所属。 拓大紅陵高では1986年と1988年の2度、夏の甲子園への出場経験を有する。同期のプロ選手に高橋憲幸と和田孝志がいる。 高校卒業後は、法政大学へ進学し野球部に入部する。4番打者として田淵幸一・小早川毅彦に次ぐ通算11本塁打を記録し、1992年春季リーグ戦においてはシーズン記録の10二塁打を記録。これは未だに破られていない。2年後輩の稲葉篤紀と共にクリーンアップを組み、全日本大学野球選手権に出場した。同期生には青山正克がいる。 大学卒業後は新日本製鐵に入社、君津野球部に所属。
松本 和弘(まつもと かずひろ、1970年10月25日 - … 松本 和弘(まつもと かずひろ、1970年10月25日 - )は、茨城県出身の元プロ野球選手(内野手)。 成田西高では俊足強肩の遊撃手として活躍、3年生だった1988年夏に県大会でベスト4入りの原動力になった。同年オフに広島東洋カープへドラフト外入団した。契約金は1500万円、1989年シーズンの年俸360万円。 一軍公式戦への出場がないまま、1991年限りで現役を引退。 八千代中央リトルシニアで指導している。
八島 祥司(やしま しょうじ、1970年9月14日 - )は… 八島 祥司(やしま しょうじ、1970年9月14日 - )は、千葉県出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 市立柏高では3年夏に県大会準優勝を果たす。1988年オフにドラフト外でロッテオリオンズに入団。 プロ入団時には、すでにフォークをマスター済みで「秋山、清原からフォークで連続三振を奪うのが夢」と抱負を語っていた。 2年目の1990年8月3日に初めて一軍登録され、その日の6回裏一死2,3塁のピンチでベンチに座っていたところ、金田監督から「お前行けるか」と登板を命じられてプロ入り初登板を果たす。急遽ベンチ裏からグラブを取り出してキャッチボールをしただけでの登板だったが、ピンチを抑えて1回2/3を投げた後に、チームが逆転してプロ入り初勝利を挙げる。
石毛 博史(いしげ ひろし、1970年7月13日 - )は、… 石毛 博史(いしげ ひろし、1970年7月13日 - )は、千葉県銚子市出身の元プロ野球選手(投手)、野球指導者。 市立銚子高では、2年生の時、1987年夏に行われた千葉大会準決勝に進むが、東海大浦安高に7回コールドで敗退。秋は県大会準優勝したが、関東大会で初戦敗退。 ドラフト会議前には読売ジャイアンツから打診があったが、結局指名はなく内定していた社会人野球の住友金属鹿島へ進むことを決意するも、城之内邦雄スカウトから接触があり、1988年オフにドラフト外で巨人に入団。 肘の故障があったため、専らリリーフ投手として活躍。東京ドームで行われた1990年のジュニア日本選手権で中日ドラゴンズの清水雅治にサヨナラ本塁打を浴びている。
立石 尚行(たていし なおゆき、1970年5月14日 - )… 立石 尚行(たていし なおゆき、1970年5月14日 - )は、千葉県習志野市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。現在は北海道日本ハムファイターズ・ベースボールアカデミーのコーチ(野球教室講師)として活動している。 市立船橋高では同期の伏島良平(巨人)とバッテリーを組み、サイドスローのエースとして1988年春の選抜に出場。1回戦で倉吉東高に敗退。1年下のチームメートに中堅手の大野和哉がいた。 卒業後は社会人野球のNTT関東に入社。川崎製鉄千葉・新日本製鐵君津と共に『千葉3強』の一角を形成していたチームをエースとして支えた。チームメートにバッテリーを組んでいた小笠原道大(当時捕手)や、遊撃手の沖原佳典がいる。
小川 祥志(おがわ しょうし、1970年4月27日 - )は… 小川 祥志(おがわ しょうし、1970年4月27日 - )は、千葉県船橋市出身の元プロ野球選手(内野手)。 印旛高時代は、1年次からエースピッチャーとなり、夏は2学年上の土橋勝征らと県大会決勝へ進むが、決勝では先発登板するも拓大紅陵高の佐藤幸彦に本塁打を浴びるなど途中降板して敗退。打者としても通算48本塁打を放つ。 1988年オフ、ドラフト外で中日ドラゴンズへ入団。ファン感謝デーでの落合博満のものまねで有名。 1992年10月5日に戦力外通告を言い渡され、同年限りで現役を引退した。
伏島 良平(ふせじま りょうへい、1970年4月10日 - … 伏島 良平(ふせじま りょうへい、1970年4月10日 - )は、千葉県船橋市出身の元プロ野球選手(捕手、内野手)。 千葉県の市立船橋高校では、立石尚行とバッテリーを組んで3年春にセンバツ出場。 専修大学への進学と言われるなか、1988年のドラフト外で巨人に入団。 一軍公式戦出場のないまま、内野手に転向した1996年限りで引退。 引退後は千葉商科大学でコーチを務める。
三輪 隆(みわ たかし、1969年12月1日 - )は、千葉… 三輪 隆(みわ たかし、1969年12月1日 - )は、千葉県柏市出身の元プロ野球選手(捕手、右投右打)、コーチ。 2004年のプロ野球再編問題では、オリックス・ブルーウェーブ最後の選手会長として労使交渉に奔走した。バルセロナオリンピック野球の銅メダリスト。 関東一高では、控え捕手として1986年春の第58回選抜大会に出場するが、1回戦で中村良二らのいた天理高に敗退。夏は正捕手として東東京大会準優勝。秋は東京都大会決勝で芝草宇宙がエースの帝京高に惜敗。翌1987年春の第59回選抜大会に正捕手として連続出場。エース平子浩之(東洋大-日本通運)の好投もあって勝ち進み、準決勝で池田高を降し決勝に進出。
小林 茂生(こばやし しげお、1969年9月26日 - )は… 小林 茂生(こばやし しげお、1969年9月26日 - )は、千葉県千葉市出身の元プロ野球選手(投手)、野球指導者。右投右打。 中学までは捕手を務めており、横芝敬愛高進学後に投手に転向した。2年夏は2回戦、3年夏は1回戦で敗退しており、甲子園出場経験はない。 日体大進学を希望していたが、1987年のプロ野球ドラフト会議でロッテオリオンズから4位指名を受けて入団。武器はカーブ、フォーク。 一軍出場がないまま、1993年限りで現役を引退した。 引退後はロッテに残りで2007年まで打撃投手を、2008年よりスコアラーを務める。 その後は、2018年から2019年にロッテのアカデミーコーチを経て、2020年からは栃木県に拠点を置くエイジェックの女子ユースチームの監督を務めている。
島田 一輝(しまだ かずてる、1969年9月19日 - )は… 島田 一輝(しまだ かずてる、1969年9月19日 - )は、千葉県習志野市出身の元プロ野球選手(外野手、右投右打)・コーチ・スカウト。 千葉県立柏井高校から東京農業大学へ進学。一般入学ではあったが、大沢紀三男監督に評価され1年秋季リーグからベンチ入りし、巧打の外野手として活躍した。NTT関東では2年目から都市対抗野球に出場し1994年は補強の3番松中信彦、5番小笠原道大に挟まれて4番を打っている。社会人通算打率.453、17本塁打。1994年度ドラフト会議にて日本ハムファイターズから4位指名を受けて入団。 即戦力として期待されていたが、当初は社会人時代までの金属バットの打ち方から抜け出せず、また、故障が続いたことから、二軍でも結果が残せない日々が続いた。
城 友博(じょう ともひろ、1969年4月30日 - )は、… 城 友博(じょう ともひろ、1969年4月30日 - )は、千葉県習志野市出身の元プロ野球選手(外野手)。右投右打。現在はアスリート学生就活サポート「J-SHIP」の代表取締役社長。 中学時代は捕手としてプレーした。習志野高校時代は、3年次の1987年に1番・センターで第69回夏の甲子園に出場し、チームはベスト8まで勝ち進む。俊足を評価され、同年のプロ野球ドラフト会議でヤクルトスワローズから6位指名を受けて入団。 1990年シーズンにはイースタン・リーグで盗塁王と最多安打を獲得し、一軍初出場も果たす。 1991年シーズンにもイースタン・リーグで盗塁王を獲得した。 1992年シーズンに一軍に定着すると83試合に出場し、14年ぶりのリーグ優勝に貢献した。
加藤 博人(かとう ひろと、1969年4月29日 - )は、… 加藤 博人(かとう ひろと、1969年4月29日 - )は、千葉県八千代市出身の元プロ野球選手(投手)、コーチ、監督。 高校時代はエースではなかったが2年秋の県大会で優勝し、関東大会では初戦で中込伸(甲府工)に完投されて惜敗する。無名の存在であったが独特のカーブがヤクルトスワローズスカウトの安田猛の目に留まり、1987年オフにヤクルトの入団テストを受験。当時直球の球速は130キロ台であったが、監督の関根潤三ら首脳陣の目に留まり合格し、同年にドラフト外で入団。 1988年は二軍で鍛えられた。 1989年のユマキャンプに打撃投手的な役割で連れていったところ、広澤克実・池山隆寛ら主力打者がカーブを空振りしたことから一軍に抜擢。
八木 政義(やぎ まさよし、1969年4月14日 - )は、… 八木 政義(やぎ まさよし、1969年4月14日 - )は、千葉県銚子市出身の元プロ野球選手(投手)。 銚子商業高では1年春からベンチ入り、3年春は県大会で2試合連続14奪三振、ベスト4。3年夏は5回戦で優勝した習志野高に敗れた。住友金属鹿島に内定していたが1987年のプロ野球ドラフト会議で阪急ブレーブスから3位指名を受け入団。武器はカーブ、フォーク。 1年目の1988年に2試合に登板しただけで、その後は一軍登板がなく1991年に現役を引退。 背番号51は、入団前は福良淳一(八木入団時に1に変更)が着用し、八木の引退後はイチローに引き継がれた。
筒井 孝(つつい たかし、1969年1月25日 - )は、千… 筒井 孝(つつい たかし、1969年1月25日 - )は、千葉県松戸市出身の元プロ野球選手(外野手)。右投右打。2006年よりフリーのプロゴルファーとして活躍している。 松戸馬橋高から、1986年のプロ野球ドラフト会議で日本ハムファイターズから2位指名を受け入団。 一軍出場のないまま、1991年で現役を引退。入団当時から飛ばすことにかけてはチームでも指折りだったが、二軍通算打率.208と確実性に欠けた。
名洗 将之(なあらい まさゆき、1969年1月3日 - )は… 名洗 将之(なあらい まさゆき、1969年1月3日 - )は、千葉県銚子市出身の元プロ野球選手(外野手)。 印旛高では土橋勝征と同期で、3年次の夏には4番として千葉県大会で準優勝。 1986年のプロ野球ドラフト会議で日本ハムファイターズから3位指名を受け入団。 一軍出場のないまま、1991年に現役を引退。引退後は、家業の水産加工業に就いた。
土橋 勝征(どばし かつゆき、1968年12月5日 - )は… 土橋 勝征(どばし かつゆき、1968年12月5日 - )は、千葉県船橋市出身の元プロ野球選手、プロ野球コーチ。妻は女優の白島靖代。 中学の時は投手だった。 印旛高校の時代は長打力に長け、高校3年夏の千葉大会は準決勝で本塁打を放ち、先発登板した1年生・小川祥志の後を受けて救援して勝利。決勝戦で、飯田哲也を擁する拓大紅陵高校に敗れたが、この時に記録した1大会5本塁打は、現在も千葉大会の最多本塁打記録である。1986年のドラフト会議でヤクルトに2位指名され入団。背番号は38。 入団後は打撃面で伸び悩み、試合終盤の守備固めの控え選手的な存在だった。また、内野守備でもイップスにかかり、監督の野村克也の指示で外野手にコンバートされる。
奈部川 勉(なべがわ つとむ、1968年11月10日 - )… 奈部川 勉(なべがわ つとむ、1968年11月10日 - )は、千葉県出身の元プロ野球選手(投手)。 成田西高では3年春に県大会準優勝で関東大会に出場、関東大会では登板せずに敗退した。進学を希望していたが1986年オフにドラフト外で西武ライオンズに入団。 1年目の1987年は、アメリカ1A・サンノゼ・ビーズに野球留学した。一軍公式戦への出場がないまま、1991年限りで現役を引退。 現在は、西武ドームに勤務している。
徳永 耕治(とくなが こうじ、1968年9月3日 - )は、… 徳永 耕治(とくなが こうじ、1968年9月3日 - )は、千葉県千葉市出身の元野球選手(内野手)。バルセロナ五輪代表では四番打者を務めた。 千葉工業高では長打力を評価されて一年からレギュラーを務め、三年になると捕手に転向し四番を任された。全国大会出場はならなかったが、同じ県内の銚子商業の監督だった斉藤一之の紹介があり、卒業後は社会人野球の日本石油に進む。1年目はブルペン捕手だったが、入社2年目の1988年に指名打者制度が導入されたのをきっかけにチームの若返りの方針もあって四番を任されるようになり、同年の日本選手権には四番・DHとして出場。2回戦の対神戸製鋼戦で2本塁打、準決勝の対東芝戦でも2ラン本塁打を放つ活躍で、大会優秀選手に選ばれている。
大塚 賢一(おおつか けんいち、1968年8月3日 - )は… 大塚 賢一(おおつか けんいち、1968年8月3日 - )は、埼玉県上尾市生まれ・千葉県船橋市出身の元プロ野球選手(投手)。現在は、立川市内の野球用品店「Ken's Glove」店主。 習志野高から1986年のプロ野球ドラフト会議で南海ホークスから4位指名を受け入団。 プロ2年目の1988年に一軍登板を果たす。1990年はマイナーリーグA級のサリナス・スパーズ(英語版)に野球留学した。 1991年12月、ダイエーのドラフト10人指名の余波を受け本村信吾、山田武史とともに保留選手名簿に記載されたにもかかわらず解雇通告を受けた。本村の提訴により本村は参稼報酬同額の補償裁定(1991年の年俸と同額)を勝ち取り、同じく山田は参稼報酬の9割相当額(1991年の年俸の9割)で和解が成立しているが、大塚は現役続行を希望し広島東洋カープのテストを受け合格し入団した。
佐藤 幸彦(さとう ゆきひこ、1968年4月16日 - )は… 佐藤 幸彦(さとう ゆきひこ、1968年4月16日 - )は、千葉県千葉市花見川区出身の元プロ野球選手(外野手)。 小学生時代はテニスの選手であり、海外へテニス留学をした経験を持つ。拓大紅陵高では飯田哲也と同級生。2学年先輩には小川博文が、2学年後輩には和田孝志と高橋憲幸がいた(和田とは後にプロでもチームメイトとなる)。1986年は春夏連続で甲子園に出場。 1986年のプロ野球ドラフト会議でロッテオリオンズから4位指名を受け入団。 高卒1年目の1987年に一軍デビューを果たし、イースタン・リーグでも打率.303、11本塁打と結果を残した。1989年には一軍初安打を放った。当初は三塁手で初芝清とポジション争いをしていたが、1992年に初芝がレギュラー三塁手になると左翼手、指名打者として起用されるようになった。
佐久間 浩一(さくま ひろかず、1967年10月11日 - … 佐久間 浩一(さくま ひろかず、1967年10月11日 - )は、千葉県出身の元プロ野球選手(外野手)。左投左打。 1996年から1997年までの登録名は佐久間 博千(読み同じ)。 東海大浦安高では4番を打った2年夏の県大会準優勝。3年春の1985年に選抜甲子園に出場。この大会では、3年KKコンビ擁するPL学園を筆頭に東海大浦安も優勝候補の一角に挙げられていたが、1回戦で優勝した3年渡辺智男投手擁する伊野商に1-5で敗退。佐久間は4打数1安打1三振に終わり、チームは散発6安打、佐久間のレフトへのタイムリーによる1点に抑えられた。高校卒業後の1986年、東海大学に進学し野球部に所属。首都大学リーグ戦では3年秋にベストナイン。
服部 裕昭(はっとり ひろあき、1967年7月30日 - )… 服部 裕昭(はっとり ひろあき、1967年7月30日 - )は、千葉県松戸市出身の元プロ野球選手(投手)。左投げ左打ち。 1985年春の県大会で1試合17奪三振を記録。この大会では1試合平均10奪三振をマークした。また16試合被本塁打なしという記録を打ち立てている。 1985年のプロ野球ドラフト会議で阪神タイガースから3位指名を受け入団。貴重な左投手として毎年期待されていた。 プロ4年目の1989年に一軍初登板を果たすが、その後も登板機会は少なく一軍未勝利のまま1996年限りで現役を引退。 引退後は、阪神に残り2006年まで打撃投手を務めた。1999年の春季キャンプでは、現役復帰を打診されたことがある。
小川 博文(おがわ ひろふみ、1967年3月6日 - )は、… 小川 博文(おがわ ひろふみ、1967年3月6日 - )は、千葉県館山市出身の元プロ野球選手(内野手)、プロ野球指導者。野球解説者。ソウルオリンピック野球の銀メダリスト。 現在は社会人野球チーム・サムティ硬式野球部の監督を務める。 中学生までは館山市で軟式野球をしており、1982年に当時の顧問の勧めで創立5年目の拓大紅陵高に進学(2学年後輩には飯田哲也と佐藤幸彦がいた)。当初は硬式野球経験のあるシニアリーグ出身者に遅れを取ったが、監督小枝守の下で厳しい練習に取り組み二塁手として成長。2年夏にはレギュラーの1番打者となり、秋からは3番打者を務めるようになった。同年秋の関東大会では大島公一らを擁する法政二高と準々決勝で対戦し、サヨナラタイムリーを放ち、ベスト4に進み、同校初の全国大会となる第56回選抜大会への出場を決めている。
島崎 毅(しまざき たけし、1967年3月3日 - )は、千… 島崎 毅(しまざき たけし、1967年3月3日 - )は、千葉県成田市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ。コーチ転身後の2003年から表記を島﨑 毅(読み同じ)としている。 パシフィック・リーグ初の最優秀中継ぎ投手を獲得している。 小学5年の時に野球を始め、中学時代は三塁手だった。 東京学館高等学校で投手に転向。在学中から、千葉県内の高校野球界で好投手として知られていたが、高校時代の夏の県大会は3回戦進出が最高成績(1984年)。高校卒業後は、東都大学野球連盟に所属する国士舘大学に進んだが、在学中はチームの活動停止期間等もあって1部でプレーの夢はかなわなかった。大学通算15勝14敗。 国士舘大学2部政経学部を卒業後、社会人野球のNTT北海道に入部。
松浦 宏明(まつうら ひろあき、1966年5月19日 - )… 松浦 宏明(まつうら ひろあき、1966年5月19日 - )は、千葉県船橋市出身の元プロ野球選手(投手)、教職員。 船橋法典高校では外野手だったが、2年生時に投手に抜擢。千葉県屈指の本格派投手として注目され、1984年夏の県大会準々決勝に進出するが、春の県大会準々決勝に続いて成田高に0-1で惜敗する。高校時代は打者としても打順が四番で、高校通算46本塁打を記録している。複数球団から話があり、日本ハムからはドラフト会議で指名すると言われていたが漏れてしまった。社会人野球にも内定していたがドラフト外で日本ハムファイターズに入団。 入団2年目の1986年にはイースタン・リーグで11勝を挙げて最多勝を獲得するものの、一軍登板は1試合のみに終わった。
与田 剛(よだ つよし、1965年〈昭和40年〉12月4日 … 与田 剛(よだ つよし、1965年〈昭和40年〉12月4日 - )は、福岡県北九州市八幡東区生まれ、千葉県君津市出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)・コーチ・監督、解説者・評論家。東京農業大学硬式野球部アドバイザー。1999年シーズン途中から2000年までの登録名は与田 剛士(読み同じ)。 現役時代は中日ドラゴンズで新人年(1990年)に最高球速157 km/hを記録するなど、抑え投手として活躍。その剛速球は「名前通りの剛球」と呼ばれた。 妻は元TBSアナウンサーの木場弘子。 福岡県北九州市八幡東区で生まれたが、3歳ないし5歳の時に千葉県へ転居した。姉が2人いる。剛の父親は福岡県嘉穂郡桂川町、母親は同県飯塚市の出身であり、父親は剛が出生した当時、八幡製鉄所に勤めていた。
橋上 秀樹(はしがみ ひでき、1965年11月4日 - )は… 橋上 秀樹(はしがみ ひでき、1965年11月4日 - )は、千葉県船橋市出身の元プロ野球選手(外野手・捕手、右投右打)、プロ野球コーチ、YouTuber。現在は読売ジャイアンツでオフェンスチーフコーチを務める。 安田学園高校から1983年のドラフト3位でヤクルトスワローズに捕手として入団。後に外野手へ転向し、主に守備固めや代打のほか、左投手の時にはスタメンや代打で登場することが多かった。 1992年には自己最多の107試合に出場し、西武との日本シリーズでも8打数5安打1本塁打とジョニー・パリデスと共にラッキーボーイ的存在になり活躍した。 1993年以降も主に控えではあったが、右の代打として活躍。
小宮山 悟(こみやま さとる、 1965年9月15日 - )… 小宮山 悟(こみやま さとる、 1965年9月15日 - )は、千葉県柏市出身の元プロ野球選手(投手)、野球解説者、野球評論家、早稲田大学野球部監督。日本ソックモンキー有限責任事業組合理事、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)理事(非常勤)。 投手として千葉ロッテマリーンズでは1度のリーグ優勝、1度の日本シリーズ優勝に貢献している。個人ではNPBで合計1個のタイトルを獲得している。 制球力が非常に高いことから「投げる精密機械」、「ミスターコントロール」などと呼ばれた。風避けのアイウェアと独特のセットポジションが特徴。魔球と呼ばれた新球種「シェイク」の開発者。 Jリーグの理事を務めるなど、サッカー好きであり、柏レイソルサポーターとしても知られる。
桜井 伸一(さくらい しんいち、1965年4月29日 - )… 桜井 伸一(さくらい しんいち、1965年4月29日 - )は、千葉県印旛郡酒々井町出身の元プロ野球選手(内野手)。 成田高では、1983年夏の甲子園県予選準決勝に進むが、山中律俊のいた印旛高に9回サヨナラ負け。同年のプロ野球ドラフト会議でヤクルトスワローズに4位指名され入団。 1986年に一軍初出場を果たす。 1987年には二塁手、遊撃手として28試合に先発出場、主にチャンスメーカーとして起用された。 1988年は、8月頃から二塁手としてスタメンに定着するようになり、49試合に先発する。 1989年は開幕スタメンに抜擢されるも、打撃面が伸び悩み、笘篠賢治に定位置を奪われて出場機会が減少。 1992年には復活、内野のユーティリティプレイヤーとして長く活躍した。
平沼 定晴(ひらぬま さだはる、1965年3月27日 - )… 平沼 定晴(ひらぬま さだはる、1965年3月27日 - )は、千葉県習志野市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 2011年シーズンまでは中日ドラゴンズで打撃投手兼用具係を担当していたが、後述の理由で2012年シーズンからは用具係専任となった。 千葉商大付高時代、1982年の第54回選抜高等学校野球大会に出場。大会屈指の速球派として前評判が高かったものの初戦で尾道商業高に敗れた。同年夏は千葉大会2回戦で12奪三振を奪う好投を見せたが敗退。 喧嘩早く物怖じせず度胸が据わっている性格とセンバツでの活躍が評価され、同年のプロ野球ドラフト会議で中日ドラゴンズから2位指名を受け入団。 1984年シーズンに一軍初登板を果たす。