舟山 恭史(ふなやま やすし、1967年8月17日 - )は… 舟山 恭史(ふなやま やすし、1967年8月17日 - )は、東京都立川市出身の元プロ野球選手(投手)。 明大中野高校では2年秋に都大会準々決勝へ進むが、秋元宏作のいた国学院久我山高に敗れた。明治大学へ進学(同期に東瀬耕太郎、今久留主成幸)。東京六大学リーグ通算35試合登板、12勝13敗、防御率3.54、142奪三振。 1989年のプロ野球ドラフト会議で日本ハムファイターズから4位指名を受け入団。 1993年にイースタン・リーグ最優秀防御率を獲得し、一軍初登板も果たす。 1994年にもイースタンで最優秀救援投手を獲得する。 1996年限りで現役を引退。 引退後、ファイナンシャル・プランナーや国内生命保険会社勤務を経て、成立学園高に講師として勤務。
古賀 道人(こが みちひと、1967年8月7日 - )は、福… 古賀 道人(こが みちひと、1967年8月7日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手(内野手)。右投右打。 関東一高時代は、1985年の夏の甲子園に出場。同年のプロ野球ドラフト会議でロッテオリオンズから5位指名を受けて入団。 一軍出場がないまま、1991年限りで現役を引退した。
小林 昭則(こばやし あきのり、1967年8月5日 - )は… 小林 昭則(こばやし あきのり、1967年8月5日 - )は、東京都江戸川区出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。2023年4月より藤井高等学校野球部監督を務めている。 帝京高では2年秋の都大会決勝で4番・秋元宏作を擁する国学院久我山高と延長13回の末に惜敗、1985年の春の選抜に出場。広島商業高、東海大五高、池田高を完封するなど順調に勝ち進む。しかし、決勝で伊野商業高の渡辺智男に本塁打を打たれた上に完封を喫し、準優勝にとどまった。春季関東大会では決勝で横浜高の相川英明に投げ勝って優勝。夏の東東京大会では、決勝まで進むが古賀道人擁する関東一高に敗れ甲子園出場を逸する。高校同期に河田雄祐、1年下に奈良原浩がいた。
佐藤 康弘(さとう やすひろ、1967年7月25日 - )は… 佐藤 康弘(さとう やすひろ、1967年7月25日 - )は、日本の野球選手(投手)、野球指導者。 中学生時代まで栃木県で過ごしていたが、都内の強豪校で野球をしたいと考えて創価高校に進学した。しかし硬式球を使った練習で左膝を痛め、2年生になるまで練習ができなかったという。玉川上水沿いで走り込むなど練習を重ね、背番号1のエースとして臨んだ1985年夏の西東京大会では準々決勝に進出するが、法政一高に敗退した。 1986年、創価大学に進学し野球部に入部した。東京新大学リーグでは流通経済大の後塵を拝し、在学中8季連続2位にとどまる。しかし猛練習を積み、2年生の1987年秋季リーグではノーヒットノーランを達成している。
大島 公一(おおしま こういち、1967年6月17日 - )… 大島 公一(おおしま こういち、1967年6月17日 - )は、東京都板橋区出身の元プロ野球選手(内野手)。野球解説者。
鈴木 望(すずき のぞむ、1967年5月2日 - )は、東京… 鈴木 望(すずき のぞむ、1967年5月2日 - )は、東京都世田谷区出身の元プロ野球選手(内野手)。
初芝 清(はつしば きよし、1967年2月26日 - )は、… 初芝 清(はつしば きよし、1967年2月26日 - )は、東京都豊島区生まれ、埼玉県坂戸市育ちの元プロ野球選手(内野手)、野球解説者、社会人野球監督。株式会社オフィス・オーパ所属。 埼玉に移り住んだ小学4年より野球を始める。二松學舍大附属高校では、2学年時からエース、3番打者として活躍。1984年夏の甲子園予選東東京大会で決勝に進むが、日大一高に敗退。高校通算30本塁打。高校卒業後はプロ入り志望だったが、ドラフト会議では指名をもらえず、同校卒業後は社会人野球の東芝府中に入社。内野手に転向し、プリンスホテル、NTT東京の補強選手として都市対抗野球大会に3回出場した。 1987年、ドラフト指名解禁となったこの年は成績が良くなく残留。
白井 正勝(しらい まさかつ、1966年8月2日 - )は、… 白井 正勝(しらい まさかつ、1966年8月2日 - )は、東京都大田区出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 大田シニアから進んだ駿台甲府高では1年秋に県大会準決勝で先発も峡南高の伊藤史生に完投で敗戦。2年夏の県大会準決勝で救援登板したが延長10回サヨナラ負け。3年夏の県大会では5回参考記録ながらノーヒットノーランを達成、準決勝では四條稔が先発した東海大甲府高に敗れた。1984年オフにドラフト外で横浜大洋ホエールズに入団する。 1986年にイースタンリーグ最優秀防御率を獲得し、一軍公式戦初登板も果たした。1990年限りで現役を引退。 チームに残り、1999年まで打撃投手を務める。1998年の横浜ベイスターズ優勝時の胴上げでは、選手より目立っていた。
平塚 克洋(ひらつか かつひろ、1966年1月29日 - )… 平塚 克洋(ひらつか かつひろ、1966年1月29日 - )は、東京都墨田区出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ。 漫画『ど根性ガエル』に登場するキャラクター・佐川梅三郎に風貌がそっくりなことから、愛称は「ウメさん」。 野球部2期生として入学した春日部共栄高時代は、エースで4番打者を務めた。3年次の1983年には夏の甲子園埼玉大会で準々決勝に進出するが、長嶋一茂のいた立教高に惜敗。 高校卒業後は明治大学へ進学し、同期の武田一浩との二本柱で活躍。登板の無い時は一塁手としても活躍し、東京六大学リーグでは2年次の1986年に秋季で優勝を経験。リーグ通算28試合登板、6勝7敗、防御率2.27を記録。 大学卒業後は朝日生命へ入社し、外野手へ転向すると、同年の都市対抗にNTT東京の補強選手として出場。
上福元 勤(かみふくもと つとむ、1966年1月4日 - 2… 上福元 勤(かみふくもと つとむ、1966年1月4日 - 2007年9月29日)は、東京都出身のプロ野球選手(内野手)。右投右打。
伊藤 博(いとう ひろし、1965年11月21日 - )は、… 伊藤 博(いとう ひろし、1965年11月21日 - )は、日本のアスレティックトレーナー、プロ野球コーチ。プロ野球における選手経験はない。 石神井小3年で野球を始め、上石神井中、国学院久我山高、明治学院大学までプレー。その後セントラルスポーツに入社し、全府中野球倶楽部でも野球を続けながら競泳コーチ、道都大学硬式野球部コーチなどを務めた。 2003年に、読売ジャイアンツに二軍トレーニングコーチとして入団する。2005年に、一軍トレーニングコーチに昇格したが、2007年から、再び二軍トレーニングコーチとなった。2015年シーズン途中、再度一軍トレーニングコーチに配置転換。2018年をもって退団。 2019年より社会人野球の北海道ガスにて野手兼トレーニングコーチを務める。
板倉 賢司(いたくら けんじ、1965年8月25日 - )は… 板倉 賢司(いたくら けんじ、1965年8月25日 - )は、東京都調布市出身の元プロ野球選手(内野手)。右投右打。
武田 一浩(たけだ かずひろ、1965年〈昭和40年〉6月2… 武田 一浩(たけだ かずひろ、1965年〈昭和40年〉6月22日 - )は、東京都世田谷区出身の元プロ野球選手(投手)、実業家(社会起業家)。 現役時代は1988年から2002年の15年間にわたり、日本プロ野球 (NPB) の日本ハムファイターズ、福岡ダイエーホークス、中日ドラゴンズ、読売ジャイアンツ(巨人)の計4球団に所属し、通算89勝99敗31セーブの成績を残した。日本ハム時代は先発・抑えの双方で起用され、抑えを担った1991年には最優秀救援投手のタイトルを獲得、抑えとして起用された1990年と先発で起用された1993年にはそれぞれ10勝を記録した。1996年から1998年はダイエーでプレーし、左のエースだった工藤公康とともに右のエースとして活躍、1996年は自己最多となる15勝を挙げたほか、1998年は13勝を挙げてパシフィック・リーグ最多勝のタイトルを獲得した。
丹波 健二(たんば けんじ、1965年5月20日 - )は、… 丹波 健二(たんば けんじ、1965年5月20日 - )は、神奈川県川崎市高津区出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)。 調布リトルに在籍し、同期には武田一浩らがいた。 1981年に日体荏原高に入学。2年次の1982年は、1学年先輩の今野隆裕投手(後にプロでも同僚)を擁しながらも夏の東東京大会の準々決勝で城西高に7-1のコールド勝ち寸前から7-10へのまさかの逆転負けを喫しベスト8止まり。3年次の1983年は、夏の東東京大会準々決勝で1学年下の山口重幸や森範行を擁する岩倉高に逆転負けを喫し、在学中に甲子園出場は果たせなかった。 高校卒業後は東海大学に進学して野球部でプレーすることも決まっていたが、社会人野球に方向転換。
市原 勝人(いちはら かつひと、1965年3月4日 - )は… 市原 勝人(いちはら かつひと、1965年3月4日 - )は、東京都出身の日本の野球指導者。二松學舍大学附属高等学校硬式野球部監督。保健体育科教諭。 二松学舎大附属高校では1年春よりベンチ入りをする。夏は東東京大会決勝で早稲田実の荒木大輔と対戦して代打出場も敗退。秋は都大会ベスト8。2年秋は決勝で早稲田実の荒木と投げ合うが敗退。3年時にはエースとして第54回選抜高等学校野球大会に出場し、同校初の準優勝の成績を修めた。 高校卒業後は日本大学、社会人野球のNTT信越でプレー。社会人時代には3年連続都市対抗野球大会へ出場した。 選手引退後は母校の二松学舎大附属高校の臨時コーチに就任し、1996年春に31歳で監督に就任した。
笠原 昌春(かさはら まさはる、1965年3月1日 - )は… 笠原 昌春(かさはら まさはる、1965年3月1日 - )は、東京都出身のプロ野球審判員。現役引退時の審判員袖番号は8。2026年シーズンの役職は副審判長。 東京電機大学高等学校・東京電機大学・東京道路エンジニア株式会社を経て、1988年に当時のセントラル・リーグ審判部に入局した。審判員袖番号は8(1988年初採用から)で、森健次郎同様セ・リーグ審判員袖番号採用初年度入局審判である。 オールスターゲーム出場5回(1995年、1999年、2004年、2014年、2025年。うち1999年第3戦、2004年第1戦で球審。)。日本シリーズ出場11回(2002年、2003年、2006年、2008年、2010年、2011年、2015年、2018年、2019年、2020年、2024年。
宮下 昌己(みやした まさみ、1965年1月4日 - )は、… 宮下 昌己(みやした まさみ、1965年1月4日 - )は、東京都調布市出身の元プロ野球選手(投手)、少年野球指導者。右投右打。 調布市立神代中学校では荒木大輔と同級生。日大三高に進み、エースとして1982年夏の甲子園西東京予選決勝に進出するが、日大二高の田辺晃(プリンスホテル)に完封負け、甲子園出場を逸する。 1982年のプロ野球ドラフト会議で中日ドラゴンズから6位指名を受け入団。 1986年には40試合に登板、3勝をあげる。同年は先発としても8試合に起用されるが結果を残せず、翌1987年には中継ぎに専念し50試合に登板、自己最多の5勝を記録した。 その後は登板数が減少、1989年オフに、広橋公寿、小川宗直との交換トレードで、大宮龍男と共に西武ライオンズに移籍した。
今野 隆裕(こんの たかひろ、1964年7月11日 - )は… 今野 隆裕(こんの たかひろ、1964年7月11日 - )は、東京都大田区出身の元プロ野球選手(投手)。 大田区立大森第八中学校から1980年に日体荏原高に進学する。高校時代は好守巧打の外野手兼投手として、クリーンアップトリオの一角を担った。高校の1学年後輩に丹波健二がいた(プロ入り後もロッテで再びチームメイトとなった)。 高校卒業後は、社会人野球の強豪である西濃運輸に入社し、本格的に投手へ転向する。1988年の都市対抗野球にはNTT東海の補強選手として出場し、同じく補強の古田敦也とバッテリーを組んで準々決勝に先発するなどチームの準優勝に貢献した。 1988年のプロ野球ドラフト会議でロッテオリオンズから2位指名を受け入団。
高田 誠(たかだ まこと、1964年6月9日 - )は、東京… 高田 誠(たかだ まこと、1964年6月9日 - )は、東京都江東区出身の元プロ野球選手(捕手)、指導者。
荒木 大輔(あらき だいすけ、1964年5月6日 - )は、… 荒木 大輔(あらき だいすけ、1964年5月6日 - )は、東京都調布市出身の元プロ野球選手(投手)、野球解説者、野球指導者。
小沢 章一(おざわ のりかず、1964年4月4日 - 200… 小沢 章一(おざわ のりかず、1964年4月4日 - 2006年1月15日)は、元千葉英和高等学校保健体育教諭、野球部監督。
森 健次郎(もり けんじろう、1964年(昭和39年)1月2… 森 健次郎(もり けんじろう、1964年(昭和39年)1月22日 - )は、日本のプロ野球審判員。現役引退時の審判員袖番号は27。2023年シーズンよりNPBの審判長を務める。東京都世田谷区出身。 国士舘高等学校では野球部でマネージャーを務め、国士舘大学、森商事、東都大学野球審判員を経て、1988年にセントラル・リーグ審判部に入局 した。審判員袖番号は27(1988年初採用から)、笠原昌春と同様にセ・リーグが審判員に袖番号を採用した初年度に入局した審判員である。 身長はさほど高くなく、がっちりした体型である。全体的にストライクゾーンがかなり広く、特に外角はMLBの審判並みにワイドと言われている。
福王 昭仁(ふくおう あきひと、1964年1月10日 - )… 福王 昭仁(ふくおう あきひと、1964年1月10日 - )は、東京都町田市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ。 日大三高では「三高野球部史上最高の遊撃手」と評価され、2年次の1980年からレギュラーの座を勝ちとる。同年の春季関東大会では準決勝に進むが、愛甲猛らのいた横浜高に敗退。夏の甲子園西東京大会は準々決勝で國學院久我山高に惜敗。同年の秋季東京大会は準々決勝に進むが、早稲田実の荒木大輔に完封を喫し、甲子園には出場できなかった。もの静かで温厚な性格、責任感は人一倍強く3年次の1981年には主将を任される。高校卒業後は1982年に明治大学へ進学し、東京六大学野球リーグでは在学中に2度の優勝を経験。
古川 慎一(ふるかわ しんいち、1963年7月26日 - )… 古川 慎一(ふるかわ しんいち、1963年7月26日 - )は、東京都江戸川区出身の元プロ野球選手(外野手)。右投右打。 ロサンゼルスオリンピック野球の金メダリスト。 春日部工業高校では投手として2年秋に県大会優勝で関東大会へ進むが準々決勝で印旛高校に敗退。1981年の全国高等学校野球選手権埼玉大会準決勝に進出するが、上尾高校に敗れる。卒業後は亜細亜大学に進学。大学3年から本格的に野手転向。東都大学野球リーグでは1984年春季リーグで優勝。同年の全日本大学野球選手権大会決勝に進むが、法大に延長11回惜敗、準優勝にとどまる。同年の日米大学野球選手権大会日本代表に選出され、またロサンゼルスオリンピック日本代表となり、金メダル獲得に貢献した。
西沢 浩一(にしざわ こういち、1963年5月30日 - )… 西沢 浩一(にしざわ こういち、1963年5月30日 - )は、東京都立川市出身の元プロ野球選手(投手)。 現在は、東京ヤクルトスワローズのスコアラー。 中学時代はハンドボール部に所属しており、武蔵村山高で本格的に野球を始めた。高校3年次夏の大東大盈進高校戦でノーヒットノーランを達成した。 高校卒業後、新英電工を経て1982年のプロ野球ドラフト会議でヤクルトスワローズから6位指名を受け入団。珍しい都立高出身選手として話題になった。重い速球で真っ向から勝負する左の本格派でカーブ、フォーク、シュートが武器。 1986年と1988年に一軍登板を果たす。 1990年限りで現役を引退。その後は打撃投手、スコアラーを務める。
鈴木 慶裕(すずき よしひろ、1963年5月21日 - )は… 鈴木 慶裕(すずき よしひろ、1963年5月21日 - )は、東京都大田区出身の元プロ野球選手(外野手)。 武相高では1981年の夏の甲子園神奈川大会で準々決勝に進出するが、日大高に敗退。武相高校では遊撃手だった。高校卒業後の1982年、亜細亜大学へ進学し、外野手に転向する。東都大学野球リーグでは同期三原昇(東芝)、1年下の阿波野秀幸の両エースを擁し、3年時の1984年春季リーグの優勝に貢献。同年の全日本大学野球選手権大会では決勝に進むが、3年西川佳明投手擁する法政大に延長11回法政2年山本貴のサヨナラ本塁打により3-×6で惜敗、準優勝にとどまる。リーグ通算85試合に出場し316打数76安打、打率.241、1本塁打、19打点。
相馬 勝也(そうま かつや、1963年5月11日 - 201… 相馬 勝也(そうま かつや、1963年5月11日 - 2013年6月2日)は、東京都荒川区出身のプロ野球選手(捕手)・指導者。愛称は「バニー」。 日大二高では2年秋に準決勝まで進むが早実の荒木大輔に完投で敗れ、3年春・夏(西東京)ともに都大会ベスト4、1981年オフにドラフト外で西武ライオンズに入団。顔がラビット関根に似ていたため、ラビというニックネームで親しまれた。 強肩の捕手として期待され、1983年には秋山幸二、安部理などと共にカリフォルニアリーグのサンノゼ・ビーズに野球留学した。留学時には、引率した和田博実によって「バニー・ソウマ」(Bunny Soma)の英語名が付けられた(和田博実の項も参照)。
伊東 昭光(いとう あきみつ、1963年4月2日 - )は、… 伊東 昭光(いとう あきみつ、1963年4月2日 - )は、東京都江戸川区出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)・コーチ・二軍監督。長男はサッカー選手の伊東駿多。 2014年から2015年まで東京ヤクルトスワローズの二軍監督を務め、現在は東京ヤクルトスワローズ編成部長。 ロサンゼルスオリンピック野球の金メダリスト。 中学時代リトルリーグの全日本のエースとしてアメリカに遠征。帝京高校2年春(1980年)の第52回選抜高等学校野球大会では決勝戦まで勝ち進み、決勝戦では中西清起がエースの高知商業と対戦するが敗北して準優勝に終わる。優勝候補に挙げられた夏の東東京大会は準決勝まで進むも、早稲田実業との準決勝で1年生エースの荒木大輔に3安打で完封され、0対4で敗れて甲子園への出場を逃した。
竹田 光訓(たけだ みつくに、1962年8月9日 - )は、… 竹田 光訓(たけだ みつくに、1962年8月9日 - )は、東京都荒川区出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 在日朝鮮人であり、本名は宋 光訓(ソン・グァンフン、송광훈)。 中学時代はバレーボール部に所属。日大一高時代は平松政次(横浜大洋ホエールズ)に憧れ、彼のフォームを手本にしていた。高校時代はエースとして活躍するが、3年夏は東東京大会4回戦で敗れ甲子園には出場できなかった。 卒業後は明治大学に進学。明治大学硬式野球部時代は、東京六大学野球リーグ3回優勝を経験。同期の広沢克己とともにチームを引っ張り、1983年春季リーグ、1984年秋季リーグの優勝に貢献。1983年から2年連続で日米大学野球選手権大会日本代表に選出され、いずれもMVPを受賞している。
白幡 隆宗(しらはた たかひろ、本名:白幡 勝弘(しらはた … 白幡 隆宗(しらはた たかひろ、本名:白幡 勝弘(しらはた かつひろ)、1962年5月27日 - 没年不詳)は、東京都出身のプロ野球選手(外野手、内野手、捕手)。 二松學舍大附高では、エース西尾利春(阪急)を擁し、三番打者、左翼手として1979年秋季東京大会決勝に進出。伊東昭光のいた帝京高を9回裏逆転サヨナラ勝ちで降し、1980年の春の選抜への出場を決める。しかし、1回戦で柳川高の中島輝士投手に抑えられ敗退。同年夏の甲子園東東京大会でも決勝に進出するが、荒木大輔を擁する早実高に敗れる。 1981年、ドラフト外で西武ライオンズに入団。当時の青木久雄監督が日大三の先輩である根本陸夫監督に頼み込んだという。
長谷川 国利(はせがわ くにとし、1962年5月26日 - … 長谷川 国利(はせがわ くにとし、1962年5月26日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手(外野手)。
市川 武史(いちかわ たけし、1962年5月22日 - )は… 市川 武史(いちかわ たけし、1962年5月22日 - )は、東京都出身の元アマチュア野球選手(投手)。右投右打。 1980年夏に、国立高校が都立として初めて甲子園(第62回全国高等学校野球選手権大会)出場した時のエース。また1年の浪人後東京大学に入学し、東京六大学野球で投手として7勝(22敗)を挙げるなどの活躍をした。 3年夏の西東京大会では全7試合81イニングを投げ抜き、ノーシードから優勝を果たす原動力となる。大会直前にオーバースローからサイドスローに変え、同じ直球でも縫い目の指の掛け方を工夫した(現在でいうツーシームやムービング・ファストボール)ことが功を奏し、並み居る強豪を封じ込める。国立高校の予選での打率が0.243[要出典]と非力で、コールドゲームは0試合。
宮下 正彦(みやした ただひこ、1962年5月19日 - 2… 宮下 正彦(みやした ただひこ、1962年5月19日 - 2008年)は、東京都江戸川区出身のプロ野球選手(外野手)。1990年から1991年までの登録名は「宮下 嗣朗」(みやした しろう)。
野中 寿人(のなか かずと、1961年6月6日 - )は、東… 野中 寿人(のなか かずと、1961年6月6日 - )は、東京都大田区出身の野球指導者。2度にわたって野球インドネシア代表監督を務め、さらに野球スリランカ代表監督も務めた。 高校時代は日本大学第三高等学校のキャッチャーとして、1979年の第61回全国高等学校野球選手権大会(夏の甲子園)に出場。プロ野球からの勧誘を断って大学に進んだが、意中の進学先だった明治大学ではなく日本大学であったことや大学での指導方法に不満を持ち、1年生で休部。3年生時に復帰するものの、プロ野球選手への道は断念した。当時の強豪社会人チームプリンスホテル硬式野球部への入部が決まっていたが結局入社せず。[要出典]1984年に日本大学を卒業し、1987年にフィリピンに渡って実業家となるも、現地でのトラブルから帰国を余儀なくされる。
高野 光(たかの ひかる、1961年5月20日 - 2000… 高野 光(たかの ひかる、1961年5月20日 - 2000年11月5日)は、東京都江東区出身のプロ野球選手(投手、右投右打)、コーチ。
白坂 契(しらさか ひさし、1961年5月10日 - )は、… 白坂 契(しらさか ひさし、1961年5月10日 - )は、アスレティックトレーナー、プロ野球コーチ。東京都出身。プロ野球選手としての経験はない。 千葉県立松戸南高等学校、日本体育大学卒業。中学校教諭を経て、「リボーンスポーツシステム」と「ヘルスパーク」でフィットネス、トレーニングを学ぶ。 2001年、立花龍司の後を受ける形で千葉ロッテマリーンズにコンディショニング担当として入団。2005年はボビー・バレンタイン監督の下、コンディショニング担当として「故障を未然に防ぐ」を実践。ロッテ日本一の立役者の1人とされる。 その手腕を評価され、2006年から読売ジャイアンツの一軍トレーニングコーチに就任。
栗山 英樹(くりやま ひでき、1961年〈昭和36年〉4月2… 栗山 英樹(くりやま ひでき、1961年〈昭和36年〉4月26日 - )は、東京都小平市出身の野球指導者、元プロ野球選手(外野手)。右投両打。 2012年から北海道日本ハムファイターズの監督を球団最長となる10年間務め、退任後も同球団の育成・編成補佐に携わっている。選手引退から監督就任までの間は白鷗大学教授としても活動しており、国立大学出身・大学教授の経歴を持つ日本初のプロ野球監督でもあった。2026年、野球殿堂入りを果たした。 野球好きの兄に誘われ、小平市立小平第十三小学校時代に軟式野球を始める。厳格な父親が創設し監督を務める少年野球チーム「富士見スネークス」で徹底的に指導される。小平市立小平第二中学校では一度野球を離れ、バレーボール部のセッターとして活躍。
小沢 誠(おざわ まこと、1961年4月3日 - )は、埼玉… 小沢 誠(おざわ まこと、1961年4月3日 - )は、埼玉県出身の元プロ野球選手(外野手)。 川越商業高では、1978年秋季関東大会準決勝に進むが吉田高に完封負け、春の選抜出場を逸する。1979年オフにドラフト外で西武ライオンズに入団。 俊足の外野手で1981年、1983年にはイースタン・リーグ盗塁王を獲得。一軍公式戦の出場は通算50試合出場で打数1と、主に代走・守備要員としての出場であった。1982年の中日ドラゴンズとの日本シリーズでは2試合に代走として起用されている。1987年限りで現役を引退。
有馬 信夫(ありま のぶお、1961年 - )は、東京都調布… 有馬 信夫(ありま のぶお、1961年 - )は、東京都調布市出身の日本の高校野球指導者。元高校保健体育科教諭。 都立調布北高校では、遊撃手としてプレーし、主将も務めた。日本体育大学を卒業後は、都立鮫洲工業高校定時制の軟式野球部を7年近く指導する。 都立城東高校では、1999年夏の甲子園大会に出場。都立高校野球部指導者では数少ない甲子園経験者となっている。 その後は、都立保谷高校、都立総合工科高校で指導を行う。総合工科高校時代の教え子には、創価大学を経て、福岡ソフトバンクホークスに入団する、石川柊太がいた。2018年4月からは、都立足立新田高校に赴任し、野球部監督に就任。現在は教員を定年退職し、監督に専念している。
小山 昭晴(こやま あきはる、1960年12月14日 - 2… 小山 昭晴(こやま あきはる、1960年12月14日 - 2005年11月14日)は、東京都町田市出身のプロ野球選手。1981年に昭治から昭晴に改名した。 日大高では2年次の1977年に秋季関東大会県予選で準決勝へ進むが、武相高に惜敗。 1978年のドラフト3位で横浜大洋ホエールズに入団。遠投120mの強肩で期待されたが、当時の大洋は福嶋久晃、辻恭彦など捕手層が厚く、なかなか出場機会に恵まれなかった。 1985年10月に一軍初出場、初安打を放ち先発出場も経験する。 1987年オフに石川賢との2対1の交換トレードで堀井幹夫と共にロッテオリオンズへ移籍。登録名を小山 昭吉(あきよし)に変更し、同年は袴田英利の控えながら6試合に先発マスクを被る。
川又 米利(かわまた よねとし、1960年8月4日 - )は… 川又 米利(かわまた よねとし、1960年8月4日 - )は、東京都調布市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)。 2012年より2年間中日ドラゴンズの二軍打撃コーチを務めた。また、名古屋に本社を置く芸能事務所セントラルジャパンに所属している。
中島 浩人(なかじま ひろと、1960年4月11日 - )は… 中島 浩人(なかじま ひろと、1960年4月11日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。 横浜商業高では前年に続いて1978年の夏の県大会決勝に進出。横浜高の1年生・愛甲猛投手と投げ合うが3-5で敗退。甲子園出場はならなかった。 高校卒業後は、社会人野球の日本鋼管に入社。1982年の都市対抗野球に日産自動車の補強選手として出場し、準決勝では住友金属を相手にリードされた終盤に登板したが敗れる。同年のプロ野球ドラフト会議で読売ジャイアンツから5位指名を受けるが、これを保留したままチームに残留し、翌1983年の都市対抗野球に出場。自身は救援で1試合に投げて、チームは準々決勝まで進出するが東芝に敗退。
五十嵐 信一(いがらし しんいち、1959年8月29日 - … 五十嵐 信一(いがらし しんいち、1959年8月29日 - )は、東京都杉並区出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)。愛称はシンさん、シン。 日大二高では、入学間もなくより一貫して遊撃手の正選手として活躍。2年夏の西東京大会では決勝へ進出し、甲子園で優勝することになる桜美林高に敗れた。1977年の西東京大会も準決勝まで進むが明大中野高に敗退。 同年オフに、ドラフト外で日本ハムファイターズに入団。二軍暮らしが長かったが、1979年4月には、「空白の一日」で入団した江川卓が二軍で初登板した試合で江川に初本塁打を浴びせたことで有名になる。 1981年には二塁手として一軍に定着、菅野光夫、鍵谷康司と定位置を争う。
岡部 憲章(おかべ のりあき、1958年4月11日 - )は… 岡部 憲章(おかべ のりあき、1958年4月11日 - )は、東京都武蔵村山市出身の元プロ野球選手(投手)。
有賀 佳弘(ありが よしひろ、1957年10月15日 - )… 有賀 佳弘(ありが よしひろ、1957年10月15日 - )は、東京都調布市出身の元プロ野球選手(捕手)。
篠塚 和典(しのづか かずのり、本名・旧登録名:篠塚 利夫〈… 篠塚 和典(しのづか かずのり、本名・旧登録名:篠塚 利夫〈しのづか としお〉、1957年7月16日 - )は、東京都豊島区生まれ、千葉県銚子市出身の元プロ野球選手(内野手、右投左打)、野球解説者・野球評論家。 愛称は「シノ」「シノさん」。 銚子商業校2年次に3年生エースの土屋正勝を擁し、春夏の甲子園大会では「4番・三塁手」として連続出場。春は準々決勝で報徳学園に1-2で惜敗。夏は全試合勝ち進み、8月19日の決勝で防府商を7-0で降し同校初の夏の大会優勝を飾った。この大会から金属バットが導入されたが篠塚はプロ野球の道に進んだ時に適応できるように木製バットで打席に入り、2本塁打を放った。1学年後輩に宇野勝がいた。
松沼 雅之(まつぬま まさゆき、1956年7月24日 - )… 松沼 雅之(まつぬま まさゆき、1956年7月24日 - )は、東京都墨田区出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)・コーチ。 現役時代は、西武ライオンズに在籍。兄は元西武投手の松沼博久。西武在籍当時、博久は「松沼兄」雅之は「松沼弟」と呼ばれていた。通称「オトマツ」「おとやん」。 4人兄弟の末弟(四男)(博久は三男)として生まれる。東京都墨田区から千葉県流山市に転居。高校は茨城県の取手二高に進学。エースとして1974年夏の県大会決勝に進む。土浦日大高の工藤一彦と投げ合うが1-3で惜敗、甲子園出場を逸した。 卒業後は博久と同じく東洋大学に進む。東都大学野球リーグでは1年上の達川光男とバッテリーを組み、1976年秋季リーグで8勝1敗の好成績をあげ、チームのリーグ初優勝に貢献した。
豊田 誠佑(とよだ せいすけ、1956年4月23日 - )は… 豊田 誠佑(とよだ せいすけ、1956年4月23日 - )は、東京都練馬区出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)、プロ野球コーチ。右投右打。1988年から1997年までの登録名は豊田 成佑(読み方同じ)。 日大三高では、右翼手として1974年春の選抜に出場。向陽高を破り2回戦に進むが、銚子商高の土屋正勝に抑えられ敗退。この大会の本塁打記録は1本と珍しい大会であったが、その1本は豊田が土屋から打ったランニングホームランであった。 高校卒業後は、明治大学へ進学。東京六大学野球リーグでは3度の優勝を経験。 1977年春季リーグで首位打者を獲得。 1978年春季リーグでは鹿取義隆、高橋三千丈の両エースを擁し、中心打者として優勝に貢献。
森 一晃(もり かずあき、1956年3月19日 - )は、東… 森 一晃(もり かずあき、1956年3月19日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手(外野手)。1977年と1978年の登録名は森 浩一。 修徳高から社会人野球・クラブチームのオール北斗を経て、1976年オフにドラフト外で大洋ホエールズへ入団。 1982年限りで現役を引退した。
小泉 泰重(こいずみ やすしげ、1955年4月6日 - )は… 小泉 泰重(こいずみ やすしげ、1955年4月6日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手(外野手)。左投左打。 城西高では高橋慶彦の1学年先輩、卒業後は草野球をしていたが読売ジャイアンツの入団テストを受験。3打席連続ホームランを打ち、1975年オフにドラフト外で入団。 一軍公式戦に出場することなく、1978年に現役を引退。都内で会社員となった。