田倉 雅雄(たくら まさお、1955年 - )は、東京都町田… 田倉 雅雄(たくら まさお、1955年 - )は、東京都町田市出身の日本の高校野球指導者。東海大学付属相模高等学校元保健体育科教諭。 町田市立堺中学校時代にエースとして活躍。 原貢率いる東海大相模高校に憧れ、入学。3年夏には投手として、甲子園大会に登板。 高校卒業後は東海大に進み、野球部に所属。1976年の大学選手権で日本一を経験している。 高校時代の恩師の原が東海大の監督に就任するのに伴い、東海大の投手コーチに就任。 1979年春からは24歳にして、東海大相模高校の監督に就任。1980年には自身による不祥事(後述)で夏の大会を辞退し、その後一時的に監督から退任。1984年に監督に復帰。1980年、1986年、1988年の春の県大会で優勝。
仲根 正広(なかね まさひろ、1954年9月24日 - 19… 仲根 正広(なかね まさひろ、1954年9月24日 - 1995年8月15日)は、東京都渋谷区出身の元プロ野球選手(投手、外野手)・解説者。一時期登録名を「仲根 政裕」(読みは同じ)としていた。
待井 昇(まちい のぼる、1954年9月21日 - )は、東… 待井 昇(まちい のぼる、1954年9月21日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手。ポジションは外野手、投手。 日大三高では1971年、2年生の時、春の選抜に中堅手兼控え投手として出場。1年上のエース渡部良克(日大-名古屋日産)の好投もあり、決勝で奥田直也投手を擁する大鉄高を降し初優勝を飾る。この大会で登板の機会はなかった。同年夏の甲子園都予選では準決勝で渡部のリリーフに立つが、日大一高の保坂英二に完封負け。他の1年上のチームメートに捕手、四番打者の岩沢建一がいた。 翌年の選抜には投手として、同期の小曽根修治(電電関東)との二本柱で勝ち進む。決勝では日大櫻丘の仲根正広と投げ合うが、完封を喫し準優勝に終わった。
川口 啓太(かわぐち けいた、1954年7月15日 - )は… 川口 啓太(かわぐち けいた、1954年7月15日 - )は、元アマチュア野球選手(内野手)、野球指導者。 初めは日大一高に通学していたが、日体荏原高に転校する。高校卒業後に明治大学に進学して硬式野球部に所属。東京六大学野球リーグではエースの丸山清光や名取和彦の好投もあり、1975年に春秋季連続優勝を飾る。同年春季リーグではベストナイン(三塁手)に選出された。直後の全日本大学野球選手権ではこの大会初となる満塁本塁打も記録するが、準決勝で中畑清を打の主軸とする駒大に敗退する。しかし同年の明治神宮野球大会は、決勝で因縁の駒大を降し優勝を飾った。 その後は江戸川学園取手高校の野球部部長、沼津学園高校の監督を務めた。
田野倉 利男(たのくら としお、1954年4月3日 - )は… 田野倉 利男(たのくら としお、1954年4月3日 - )は中日ドラゴンズ・ロッテオリオンズに所属した元プロ野球選手(内野手)。東京都出身。引退後はロッテの2軍コーチを務めた。
田野倉 利男(たのくら としお、1954年4月3日 - )は… 田野倉 利男(たのくら としお、1954年4月3日 - )は、中日ドラゴンズ・ロッテオリオンズに所属した元プロ野球選手(内野手)。東京都出身。引退後はロッテの2軍コーチを務めた。 小学校時代に調布リトルリーグに入る。早稲田実高では遊撃手、4番打者として活躍。1972年春季都大会では決勝に進出し、待井昇が先発し、吉沢俊幸が4番の日大三高を降す。続く関東大会でも決勝で成東高を破り優勝を飾った。成東高には後にプロで同期となる鈴木孝政がいたが、この試合には登板しなかった。同年夏は都大会で敗れ、甲子園には出場できなかった。 ドラフト4位で中日に入団。なかなか一軍に定着できなかったが、1976年には広瀬宰の移籍もあって、遊撃手の定位置を正岡真二、梅田邦三と争う。
林 博之(はやし ひろゆき、1954年 - )は、東京都出身… 林 博之(はやし ひろゆき、1954年 - )は、東京都出身の元アマチュア野球選手(投手)。 拓殖大学第一高校では、エースとして1972年夏の甲子園都予選準々決勝に進み、修徳高を引き分け再試合で降す。準決勝でも日大桜丘高の仲根正広と延長18回の投手戦の末に引き分け、しかし再試合では大敗を喫した。 中央大学に進学。当時のエースは1年上の田村政雄であり、東都大学野球リーグでは2年生までに2回の優勝を経験。しかしその後は駒大、東洋大に抑えられ優勝には届かなかった。1976年の日米大学野球選手権日本代表に選出され5試合に登板する。大学同期に外野手の岡村隆則がいた。 卒業後は熊谷組に入社。久保田美郎、小林秀一らと強力投手陣を形成する。
保坂 英二(ほさか えいじ、1953年11月29日 - )は… 保坂 英二(ほさか えいじ、1953年11月29日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手である。ポジションは投手。 日本大学第一中学校時代に東京大会の決勝で早実中と対戦し延長戦で0-1と惜敗。その後早実から勧誘されたが、そのまま日本大学第一高等学校へ進学。 日大一高では入学直後から速球派左腕として1年から甲子園で登板機会を与えられる。1969年、1年生の時に夏の東京大会準決勝、2連覇を狙う日大一高はセンバツ準優勝の但田裕介を要する堀越を破り第51回全国高等学校野球選手権大会に出場。小山良春(日大-三協精機)の控え投手として2回戦で藤波行雄、松島英雄のいた静岡商に1-3で敗退するが、この試合で小山をリリーフして初めて甲子園のマウンドを踏んだ。
宮崎 剛(みやざき たけし、1953年9月12日 - )は、… 宮崎 剛(みやざき たけし、1953年9月12日 - )は、元アマチュア野球選手である。ポジションは内野手。 父親は西鉄で監督も務めた宮崎要。佼成学園高校卒業後に専修大学に入学する。 大学卒業後は、社会人野球の東芝のチームに入団し、1981年の都市対抗野球では大会優秀選手に選ばれ、同年の社会人ベストナインにも選ばれた。 1983年の都市対抗野球では親子二代に渡って、橋戸賞を受賞し、首位打者にも受賞した。同年のベストナインにも選ばれた。同年のアジア野球選手権大会の全日本メンバーにも選ばれた。
大迫 幸一(おおさこ こういち、1953年7月19日 - )… 大迫 幸一(おおさこ こういち、1953年7月19日 - )は、アスレティックトレーナー、プロ野球コーチ。埼玉県出身。プロ野球選手経験はない。 国士舘大学時代はサッカー部に所属。 大学卒業後は体育教師を目指していたが、後輩の紹介でスポーツジムに就職。警視庁近代五種水泳臨時コーチ、高校サッカーの指導者などを経て、1989年に女子プロゴルファーの日蔭温子のリハビリトレーナーとなり、復帰戦となった同年の日本女子オープンでキャディーを務めた。 1980年、37歳の時にアメリカンフットボールのXリーグの選手として入団。 1994年にスポーツ施設の管理、運営、指導などを行う「(株)クラフトワーク」を設立。西武ライオンズ所属選手のパーソナルトレーナーの道を歩んだ。
岩沢 建一(いわさわ けんいち、1953年 - )は、東京都… 岩沢 建一(いわさわ けんいち、1953年 - )は、東京都出身の元アマチュア野球選手。ポジションは捕手、内野手、外野手。 日本大学第三高等学校では同期のエース渡部良克(日大-名古屋日産)とバッテリーを組み、四番打者として2年生時に1970年春の選抜に出場。2回戦に進むが、淡口憲治、羽田耕一、中西清治らのいた三田学園に敗退。同年夏の甲子園都予選は準決勝で日大一高の保坂英二に抑えられ惜敗。翌1971年春の選抜にも連続出場。準々決勝で深谷商、準決勝では坂出商に完封勝ち。決勝でもエース奥田直也を擁する大鉄高を完封で降し初優勝を飾る。同年夏は都予選準決勝でまたも日大一高の保坂に完封負けを喫する。1年下のチームメイトに吉沢俊幸、待井昇がいた。
松沼 博久(まつぬま ひろひさ、1952年9月29日 - )… 松沼 博久(まつぬま ひろひさ、1952年9月29日 - )は、東京都墨田区出身の元プロ野球選手(投手)。野球解説者。日本プロ野球OBクラブ副理事長も務めている。 弟は、元西武投手の松沼雅之。西武在籍当時、博久は「松沼兄」雅之は「松沼弟」と呼ばれていた。通称「アニヤン」。 4人兄弟の三男。東京都墨田区から千葉県流山市に転居。中学校の野球部の先輩が進学していたこともあり、茨城県の取手二高に進学。1969年秋季関東大会県予選準々決勝に進むが、磯原高に敗退。 高校卒業後は東洋大学に入学。後に西武でチームメイトになる同期の市村則紀と、投手の二本柱として活躍した。しかし東都大学野球リーグでは駒大、中大に阻まれてリーグ初優勝には届かず、1973年秋季リーグから3季連続で2位に甘んじる(卒業後の1975年春の2位を含めると4季連続)。
倉骨 道広(くらほね みちひろ、1952年8月14日 - )… 倉骨 道広(くらほね みちひろ、1952年8月14日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手(捕手)。右投右打。現姓・宇田川。 世田谷工業高等学校では、捕手、三番打者として1970年夏の甲子園都予選5回戦まで進むが、桜美林高に1-2で惜敗。卒業後は東京農業大学に進学。東都大学野球リーグでは二部リーグ2位が最高で、一部昇格はならなかった。 1974年に読売ジャイアンツからドラフト3位指名を受けて入団した。 一軍での出場経験はなく、1977年限りで引退した。
宇野 輝幸(うの てるゆき、1952年2月10日 - )は、… 宇野 輝幸(うの てるゆき、1952年2月10日 - )は、千葉県出身の元プロ野球選手(捕手)である。 日本大学第一高校(東京)では小山良春(日大-三協精機)、保坂英二の両投手を擁し、1969年の第51回全国高等学校野球選手権大会に出場。本来は捕手であるが、打力を活かし三塁手、四番打者として起用された。1回戦で東洋大姫路を降すが、2回戦では松島英雄、藤波行雄のいた静岡商に敗れる。同年秋、阪急ブレーブスのドラフト3位指名を受け、入団。 ブレーブスでは中沢伸二、河村健一郎に次ぐ三番手の捕手であったが、1977年には26試合に先発マスクを被り活躍。地味ではあるが1975年からのチームのリーグ4連覇・日本シリーズ3連覇に貢献している。
林 龍郎(はやし たつろう、1952年 - )は、東京都出身… 林 龍郎(はやし たつろう、1952年 - )は、東京都出身の出身の元アマチュア野球選手(外野手)。 日本大学第一高校では、主力打者として3年連続で夏の甲子園に出場。1968年夏の選手権に、1年上のエース小山良春(日大-三協精機)を擁し右翼手として出場するが、2回戦(初戦)で星林高に敗退。1969年夏の選手権では中堅手に回り、1回戦で東洋大姫路を降すが、2回戦では松島英雄、藤波行雄のいた静岡商に敗れる。他のチームメイトに捕手、三塁手の宇野輝幸がいた。1970年夏の選手権は1年下の保坂英二がエースとなる。1回戦で都城高を降すが、2回戦で大分商の小川清一に抑えられ敗退。 亜細亜大学に進学。東都大学野球リーグでは、1971年春季リーグでエース山本和行の好投もあって優勝を経験。
栗橋 茂(くりはし しげる、1951年8月10日 - )は、… 栗橋 茂(くりはし しげる、1951年8月10日 - )は、東京都板橋区小茂根出身の元プロ野球選手(外野手)、野球解説者。 帝京商工高等学校では1968年秋季東京大会準々決勝に進出。日体荏原高との日没引き分け再試合の末に敗退。翌1969年夏の甲子園都予選でも準々決勝に進出するが、日大一高に敗れ甲子園には出場できなかった。3年生時、東京六大学野球リーグ各校からも勧誘があったが、「(左腕)投手転向を見越しての獲得を目指した東京六大学より、打者としての自分を評価してくれた」という理由で駒澤大学へ進学した。東都大学野球リーグでは在学中2回優勝。1973年の第4回明治神宮野球大会では、同期のエース赤津宏二(日立製作所)を擁し、決勝で田尾安志のいた同志社大を降し優勝を飾る。
大竹 憲治(おおたけ けんじ、1951年7月31日 - )は… 大竹 憲治(おおたけ けんじ、1951年7月31日 - )は、東京都品川区出身の元プロ野球選手(内野手)。右投右打。 東京・専大京王高(現・専大附属高)出身。高校3年間で通算30本塁打を打った大型内野手。 1969年のドラフト4位で巨人に入団。同期入団の河埜和正とともに次代のレギュラー内野手として期待され、1971年には一軍に上がり4試合に出場、うち3試合に三塁手として起用される。1972年にはジュニアオールスターゲームに出場、同年のイースタン・リーグ打点王を獲得。1975年4月6日には、開幕3試合目の大洋ホエールズとの対戦で、一塁手、五番打者として初先発出場し2安打を放つ。同年は8月にも三塁手として先発を果たすなど24試合に出場。
小枝 守(こえだ まもる、1951年7月29日 - 2019… 小枝 守(こえだ まもる、1951年7月29日 - 2019年1月21日)は、日本の高校野球指導者。東京都生まれ。日本大学第三高等学校、拓殖大学紅陵高等学校野球部監督を歴任し、日本高等学校野球連盟技術・振興委員を務めた。
新浦 壽夫(にうら ひさお、1951年5月11日 - )は、… 新浦 壽夫(にうら ひさお、1951年5月11日 - )は、東京都世田谷区出身、静岡県育ちの元プロ野球選手(投手)。現在は東北放送の野球解説者(かつては日本テレビ、福岡放送でも解説を担当)、韓国への縁から東亞日報グループの「スポーツ東亞」の日本駐在通信員を兼任している。
問矢 福雄(といや ふくお、1950年9月3日 - )は、東… 問矢 福雄(といや ふくお、1950年9月3日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手、外野手。 早実を中退後に入った二松學舍大附高校では、1968年秋季東京大会準々決勝に進むが、但田裕介のいた堀越高に敗退。1969年ドラフト会議でロッテオリオンズから4位指名を受け入団。1971年にはジュニアオールスターに出場、イースタンリーグで本塁打王、打率2位の成績を残す。1972年4月16日には南海ホークスとの対戦で二番打者、右翼手として初先発出場(偵察要員としての起用を除く)。しかしその後は一軍での出場機会に恵まれず、同年限りで退団。1974年に広島東洋カープで復帰するが、活躍の場はなく同年限りで引退。
辻 正孝(つじ まさたか、1950年1月5日 - )は、東京… 辻 正孝(つじ まさたか、1950年1月5日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手(外野手)。右投右打。 習志野高から移った修徳高では1966年の夏の甲子園に出場。1回戦で鳴門工に敗れる。森二郎(駒沢大から電電東北を経て電電東京)がチームメイトだった。1966年のプロ野球第一次ドラフト会議で中日ドラゴンズから5位指名されるが入団せず。 その後、社会人野球のいすゞ自動車に入社。そこで野球をしていたところ、グローバルリーグの東京ドラゴンズに引っ張られ入団。 東京ドラゴンズでは4番を打ち、守備はうまくはないが、長打力が光る主砲であった。その後、グローバルリーグが解散し、1年間のブランクがあったものの、中日ドラゴンズの入団テストを受け合格。
畑野 実(はたの みのる、1949年9月23日 - )は、東… 畑野 実(はたの みのる、1949年9月23日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。 日大三高では、高校同期の古賀正明、柴田民男両投手を擁し、2年生の時から三塁手として活躍。1966年の春季東京大会準決勝に進むが、日大一高の保谷俊夫、桜井憲の継投に抑えられ敗退。同年夏の甲子園東京都予選では決勝進出を果たし、修徳高と対決。古賀が先発するが、辻正孝に本塁打を喫するなど乱戦の末に7-9で惜敗。翌1967年夏も都予選準決勝で依田優一が四番打者であった堀越高に敗れ、甲子園出場はならなかった。 卒業後は柴田とともに日本大学へ進学。東都大学野球リーグでは三塁手、三番打者として中沢邦男らと打線の主軸となり、1971年秋季リーグの優勝に貢献。
金井 元三(かない もとみ、1949年5月14日 - )は、… 金井 元三(かない もとみ、1949年5月14日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手(外野手)。 東洋大牛久高校から、1967年にドラフト外でサンケイアトムズへ入団。 1970年、5試合に右翼手、左翼手として先発出場。同年にはジュニアオールスターゲームにも選出、イースタン・リーグベストナイン。しかし、その後は一軍での出場機会に恵まれず、1971年限りで引退した。
柴田 民男(しばた たみお、1949年4月5日 - )は、東… 柴田 民男(しばた たみお、1949年4月5日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手(投手)。 日大三高では、同期の古賀正明とともに投手陣の中心として活躍。1965年秋季東京大会では1回戦で先発を任されるが、堀越高に大敗。1966年の夏の東京都大会決勝に進出するが修徳高に敗退、古賀が完投して自らの登板はなかった。1966年秋季東京大会では日体荏原高との準々決勝で先発するが古賀らに繋ぎ、延長15回の末に敗退。1967年夏は都大会準決勝で古賀が先発して3番手で登板したがまたも堀越高に7回コールド負け、甲子園出場はならなかった。古賀以外の高校同期に大学でも同僚の畑野実三塁手がいる。 高校卒業後は、畑野とともに日本大学へ進学。
井上 洋一(いのうえ よういち、1949年2月5日 - )は… 井上 洋一(いのうえ よういち、1949年2月5日 - )は、東京都小金井市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)・コーチ。 愛媛大学教育学部教授の井上洋一とは別人。 拓大一高では宇田東植と同期であり、決められた練習メニューを全力で行った。チーム内では走力や遠投で常に一番の成績を残し、スランプや結果が出ない時は自宅に帰り、納得するまで、結果が出るまで練習した。 卒業後の1966年にドラフト外でサンケイアトムズへ入団し、2年目の1968年にはジュニアオールスターに選出され、3年目の1969年にはイースタン・リーグ打点王を獲得。1970年には一軍に定着し、本来は内野手だが外野手もこなせるユーティリティプレーヤーとして重宝される。
宇田 東植(うだ とうしょく、1948年8月23日 - )は… 宇田 東植(うだ とうしょく、1948年8月23日 - )は、東京都杉並区出身 の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。 在日韓国人で、韓国名は朱 東植(チュ・ドンシク、주동식)。 現在は北朝鮮になっている咸鏡南道出身の父と日本人の母の下に生まれたが、両親は宇田が5歳の時に離婚し、父が宇田を引き取った。父の当時の仕事は、立川基地にいた進駐軍兵士からPXの横流れ品を買うブローカーであり、昼は荻窪の市場で店を開き、夜は買い出しに出かけたため、ほとんど一日、家にいなかった。 小学生の時は音楽部の部長を務め、NHKの子供音楽コンクールに出場するなど、音楽活動を行っていた。杉並区立杉並中学校入学後に野球を始め、ポジションは三塁手であった。
鈴木 弘(すずき ひろし、1948年6月28日 - )は、東… 鈴木 弘(すずき ひろし、1948年6月28日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手(内野手)。左投左打。 196cmの長身から「ジャンボ鈴木」の異名を持つ。 国士舘高等学校、大東文化大学を経て、1970年春にキャピー原田に誘われサンフランシスコ・ジャイアンツとマイナー契約を結んだ。MLBの球団と契約した初の日本人野手となった。 この年の3月に行われた日米野球にジャイアンツのメンバーとして来日して2試合に出場(うち1試合は先発)。アメリカに戻った後は傘下A級ディケーター・コモドアーズ(英語版)で開幕を迎えたが、1か月後にはルーキー級のグレートフォールズ・ジャイアンツ(英語版)に降格。異国での生活に慣れなかったこともあり成績は上がらず、2球団合計で70試合に出場して、打率.149、2本塁打という結果に終わった。
保谷 俊夫(ほうや としお、1948年4月10日 - 201… 保谷 俊夫(ほうや としお、1948年4月10日 - 2010年7月3日)は、東京都出身のプロ野球選手(投手)。 東京都出身。日大一高では投手として、桜井憲とともに左右の二本柱となる。1966年の春季関東大会決勝で浅野高を降し優勝、この試合では先発を任され桜井につなぐ。夏の甲子園東京都予選では6回戦で敗退。182cmの長身から投げ降ろす速球には威力があった。他の高校同期に捕手の村上修(富士重工業)がいた。 1966年第1次ドラフト会議で阪急ブレーブスから4位指名を受け入団。7年間で一軍登板はなく、1973年限りで引退。その後阪急・オリックスのスコアラーやマネジャーを歴任し、1994年からはファーム担当として若手育成に尽力し、2002年からオリックスの選手寮「青濤館」の寮長を務めていた。
相川 進(あいかわ すすむ、1948年2月12日 - 201… 相川 進(あいかわ すすむ、1948年2月12日 - 2010年3月27日)は、東京都葛飾区出身のプロ野球選手(内野手)。 佼成学園高校では今西啓介監督の下で指導を受けるも経済的な事情もあって中退。 1965年に中日ドラゴンズへテスト生として入団、大型内野手として期待される。1966年9月28日に一軍初出場。サンケイの石戸四六から代打初打席初本塁打を記録する。内野全般をこなすが、二塁手、三塁手として起用されることが多かった。 1968年オフに吉沢岳男とのトレードで杉斉英と共に近鉄バファローズへ移籍。1970年には開幕戦から三塁手として起用され、41試合に先発出場を果たす。しかし打撃面で伸び悩み、1971年限りで現役を引退した。
今井 恒夫(いまい つねお、1948年 - )は、東京都出身… 今井 恒夫(いまい つねお、1948年 - )は、東京都出身の元アマチュア野球選手(投手)。 明治高等学校では1年上の古川義弘(明治大学-日本楽器)とバッテリーを組み、1965年春の選抜に出場。1回戦で田原本農を降すが、2回戦では岡山東商の平松政次と投げ合い0-1で惜敗。同年夏の甲子園都予選は6回戦で日大二高に敗れる。同年秋季東京大会は準々決勝に進むが国士舘高に敗退。 明治大学に進学し、古川と再びバッテリーを組む。東京六大学野球リーグでは1969年春季リーグで8年振りに優勝。主軸であった星野仙一、池島和彦両投手が卒業し下馬評は高くなかったが、1年上の古屋英雄との二本柱で早大、法大を振り切った。同年の全日本大学野球選手権大会では東海大の上田二郎に抑えられ、2回戦敗退。
磯部 史雄(いそべ ふみお、1948年 - )は、東京都出身… 磯部 史雄(いそべ ふみお、1948年 - )は、東京都出身のアマチュア野球選手(外野手)。 日大三高では2年生時の1965年に、1年上の佐藤道郎、石塚雅二のバッテリーを擁し、左翼手として夏の甲子園都予選決勝に進むが、日大二高の神山修投手に完封され0-2で惜敗。翌1966年も、1年下のエース古賀正明を擁し、右翼手、三番打者として活躍。春季東京大会準決勝に進むが、日大一高の保谷俊夫、桜井憲の継投に抑えられ敗退。同年夏の甲子園東京都予選では決勝進出を果たし、修徳高と対戦するが、辻正孝に本塁打を喫するなど乱戦の末に7-9で惜敗。他のチームメイトに投手の柴田民男、三塁手の畑野実がいた。 法政大学へ進学。
萩原 康弘(はぎわら やすひろ、1947年11月17日 - … 萩原 康弘(はぎわら やすひろ、1947年11月17日 - )は、神奈川県横浜市神奈川区出身の元プロ野球選手である。ポジションは外野手。 荏原高校(現・日体大荏原高校)では1965年、3年次に一塁手として春の選抜に出場する。荏原高校は甲子園初出場であった。2回戦(初戦)で福島久晃、長井繁夫らのいたPL学園に敗退。同年夏の甲子園都予選では準決勝で日大二高に敗れ、甲子園出場を逸した。高校同期に中堅手で後にプロで同僚となる原田治明がいる。 卒業後は中央大学へ進学。東都大学野球リーグでは一塁手、左翼手として活躍。1967年の春季リーグではエース宮本幸信の好投もあり優勝。直後の全日本大学野球選手権大会でも、決勝で藤原真投手を擁する慶大を破り選手権初優勝を飾る。
原田 治明(はらだ はるあき、1947年7月28日 - )は… 原田 治明(はらだ はるあき、1947年7月28日 - )は、東京都目黒区出身の元プロ野球選手。ポジションは外野手。1973年〜1975年までの登録名は原田 俊治(はらだ としはる)。 父は大相撲武隈部屋の十両力士であった郷錦廣次である。 荏原高等学校では1965年、中堅手として、後に巨人で同僚となる萩原康弘と共に第37回選抜高等学校野球大会に出場。高校初の甲子園出場という栄誉を担う。2回戦(初戦)で、後にプロ入りする福嶋久晃、得津高宏、加藤秀司らがいた大阪府のPL学園と対戦し、4-2で敗れた。同年夏の甲子園都予選では準決勝で日大二高に敗れ、甲子園には届かなかった。 高校卒業後は駒澤大学に進学するが腰の怪我のため野球部を退部。
石塚 雅二(いしづか まさじ、1947年7月15日 - )は… 石塚 雅二(いしづか まさじ、1947年7月15日 - )は、茨城県出身の元プロ野球選手(捕手)。 日大三高では、1年生の時にエース若宮秀雄とバッテリーを組み1963年の秋季東京大会に優勝、翌1964年の春の選抜への出場を決める。選抜では2回戦(初戦)で浪商に敗退している。同年夏の甲子園都予選は6回戦で修徳高に敗退。1年上のチームメートに若宮の他、遊撃手の大橋穣がいた。1965年の夏の甲子園都予選では同期のエース佐藤道郎を擁し決勝に進むが、日大二高の神山修に完封され0-2で惜敗、甲子園出場を逸する。 日本大学へ進学するが中退し、社会人野球の三菱重工川崎へ入社する。 その後、1969年に中南米で新規に発足した国際的プロ野球リーグである「グローバルリーグ」の東京ドラゴンズに、森徹、矢ノ浦国満らと共に参加するが、同リーグは財政問題で破綻し、解散を余儀なくされた。
落合 勤一(おちあい きんいち、1947年6月21日 - 2… 落合 勤一(おちあい きんいち、1947年6月21日 - 2011年4月10日)は、東京都八王子市出身のプロ野球選手。ポジションは投手。 実践商業高校では、エースとして1965年夏の甲子園都予選5回戦まで進むが、日大二高の神山修に完封を喫する。高校時代はスライダーやフォークボールを武器とし、大型右腕として注目されていた。 1965年プロ野球ドラフト会議で東映フライヤーズに7位指名で入団。3年目の1968年には一軍に上がり23試合に登板、8月から先発としても起用される。9月12日には西鉄を相手に6回からリリーフに立ち、2イニングを無失点に抑え、8回に味方が逆転しプロ初勝利を記録した。1970年にフォームをスリークォーターから下手投げに変えたが、同年限りで引退。
植原 修平(うえはら しゅうへい、1947年4月28日 - … 植原 修平(うえはら しゅうへい、1947年4月28日 - )は、東京都世田谷区出身の日本の元プロ野球選手。ポジションは外野手。実業家(株式会社同栄 代表取締役社長)。 帝京商工高校では、1965年の夏の甲子園都予選準々決勝に進むが、日大三高の佐藤道郎に抑えられ敗退。日本大学へ進学し、佐藤とはチームメートになる。東都大学野球リーグでは外野手、一塁手として活躍。エース佐藤を擁し1969年春秋季リーグで連続優勝、自身も春季リーグでベストナイン(一塁手)に選出される。同年の全日本大学野球選手権大会では、決勝で東海大の上田次朗に完封を喫し準優勝。リーグ通算6本塁打を放った。他の大学同期に捕手の須藤和彦がいる。
神山 修(かみやま おさむ、1947年 - )は、元アマチュ… 神山 修(かみやま おさむ、1947年 - )は、元アマチュア野球選手である。ポジションは投手。 日大二高では、2年夏の都大会準決勝で大矢明彦が正捕手の早稲田実に敗れた。3年生時に1965年夏の都大会でエースとして活躍。決勝で日大三高の佐藤道郎と投げ合って完封勝利、甲子園への出場を果たした。同年の夏の甲子園では、1回戦で岡山東商の平松政次と投げ合った末に完封勝ちを果たしたが、2回戦で秋田高校に敗れた。同年のドラフト会議で阪急ブレーブスから7位指名されたが入団を拒否し、日本大学に進学する。 大学に進学してからは三塁手に転向し、東都大学野球リーグにおいて、1969年の春季、秋季のリーグ優勝に貢献し、同年の全日本大学野球大会にも出場し、チームは準優勝に輝いた。
成田 文男(なりた ふみお、1946年10月2日 - 201… 成田 文男(なりた ふみお、1946年10月2日 - 2011年4月21日)は、東京都足立区出身のプロ野球選手(投手)。右投右打。 幼少期は秋田県で過ごす。足立区立第四中学校の同級生にはビートたけしがいた。修徳高校では1年生の時、1962年夏の都大会決勝に進み、春の選抜で準優勝した日大三高のエース・井上治男(早大 - 日本石油)と投げ合うが、倍賞明(日大 - 全鐘紡 - 日産自動車、倍賞千恵子の弟で倍賞美津子の兄)に適時打を喫し完封負け。 3年生の1964年夏も都大会決勝に進出。出澤堯・大矢明彦のいた早実高を破り、第46回全国高等学校野球選手権大会に出場。修徳高を春夏通じて初の甲子園出場に導いた。
小松 時男(こまつ ときお、1946年9月26日 - )は、… 小松 時男(こまつ ときお、1946年9月26日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手。ポジションは外野手。 日大三高では大橋穣と同期で3年春の選抜に出場、控え投手でもあった。日本大学へ進学。東都大学野球リーグ一部通算42試合出場、134打数38安打、打率.284、0本塁打、12打点。 1969年に河合楽器へ入社。同年の都市対抗では左翼手として山下慶徳と併用され、準決勝に進出するが電電関東に敗れる。翌1970年の都市対抗では右翼手、六番打者として出場。1回戦で鐘淵化学に敗退。 退社後の1970年ドラフト会議で西鉄ライオンズから7位指名を受け入団。1971年には8月から一軍に定着し5試合に先発出場するが、その後はあまり出場機会に恵まれず1973年限りで引退した。
田淵 幸一(たぶち こういち、1946年9月24日 - )は… 田淵 幸一(たぶち こういち、1946年9月24日 - )は、東京都豊島区出身の元プロ野球選手(捕手、内野手)・指導者(監督、コーチ)、野球解説者、野球評論家、タレント。阪神タイガースOB会会長(第6代)。 株式会社タブチエンタープライズ所属(FIRST AGENTにも業務提携で在籍)。ニックネームは「ブチ」「ブッちゃん」「タブタ」「オッサン(東尾修が使用)」。3代目ミスタータイガースとも称される。 現役時代は阪神タイガースの主砲として活躍し、1979年に移籍した西武ライオンズではチームの2年連続リーグ優勝・日本一に貢献した。引退後は福岡ダイエーホークス監督、阪神・楽天のコーチを歴任。また、北京オリンピック野球日本代表ヘッド兼打撃コーチも務めた。
小林 毅二(こばやし たけじ、1946年8月20日 - )は… 小林 毅二(こばやし たけじ、1946年8月20日 - )は、日本の元プロ野球審判員。前セントラル・リーグ審判部長、元審判部指導員。審判員袖番号は13(1988年初採用からだが、セ・リーグ審判は指導員に転じても袖番号を返上しないという通例があるので指導員となった際も付けていた)。2010年限りで指導員からも引退。東京都品川区出身。 荏原高校から日本大学卒業後、丸井勤務のかたわら東京都高野連および首都大学リーグ審判を経て、1972年セントラル・リーグ審判部入局。1997年より副部長、2000年から審判部長を務め、2003年12月に退任。2005年よりプロ野球マスターズリーグの審判員を務める。現在では、資格回復をして、東京都高野連および首都大学リーグの審判員として活動している。
渡辺 孝博(わたなべ たかひろ、1946年7月21日 - )… 渡辺 孝博(わたなべ たかひろ、1946年7月21日 - )は、ヤクルトアトムズ・ヤクルトスワローズに所属した元プロ野球選手(投手)。東京都立川市出身。 東京都立八王子工業高等学校から1965年に東海大学へ進学すると、1964年に創設された首都大学野球のリーグ戦で、1学年後輩の上田二郎投手と共に活躍。在学中に7度のリーグ優勝を果たしたほか、全日本大学野球選手権大会でも準決勝に2度進出した。在学中には、リーグ戦で通算40試合に登板。26勝3敗、防御率0.86、213奪三振を記録したほか、最高殊勲選手に3回、最優秀投手に2回、ベストナインに3回選ばれている。 さらに、大学4年時の1968年に催された明治維新百年記念明治神宮野球大会では、上田とともに首都大学選抜チームのエースとして出場。
内田 圭一(うちだ けいいち、1946年7月13日 - )は… 内田 圭一(うちだ けいいち、1946年7月13日 - )は、東京都出身の元プロ野球捕手・内野手。右投右打。
大橋 穣(おおはし ゆたか、1946年5月29日 - 202… 大橋 穣(おおはし ゆたか、1946年5月29日 - 2025年7月18日)は、東京都新宿区出身(富山県氷見市生まれ)のプロ野球選手(遊撃手)・コーチ・監督。 愛称は「ペロ」(現役時代、打つ時、捕球の時、舌を出す癖があることから)。台湾における表記は大橋 穰(正体字)。 パ・リーグ初の遊撃手部門のダイヤモンドグラブ賞(現・ゴールデングラブ賞)を受賞している。 中学時代に野球を始めると同時に遊撃手となり、以後ずっと遊撃でプレーする。日大三高では、1年次の1962年に控え内野手として夏の甲子園に出場するが、準々決勝で村上公康のいた西条高に敗れる。2年次の1963年には同期のエース若宮秀雄を擁し秋季東京大会に優勝し、3年次の1964年に行われる春の選抜出場を決める。
若宮 秀雄(わかみや ひでお、1946年 - )は、東京都出… 若宮 秀雄(わかみや ひでお、1946年 - )は、東京都出身の元アマチュア野球選手。ポジションは投手。 日大三高では、エースとして1年下の石塚雅二とバッテリーを組み1963年の秋季東京大会に優勝、翌1964年の春の選抜への出場を決める。選抜では2回戦(初戦)で浪商に敗退。同年夏の甲子園都予選は6回戦で修徳高に敗退。高校同期に遊撃手の大橋穣、外野手の小松時男がいた。 小松とともに日本大学に進学。東都大学野球リーグでは1966年春季リーグで優勝を経験。しかしその後はチームが低迷、1967年秋季リーグでは二部に陥落する。大学の1年上に森内一忠、1年下に佐藤道郎と好投手がおり、あまり活躍の場はなかった。
佐藤 一誠(さとう いっせい、1945年1月5日 - )は、… 佐藤 一誠(さとう いっせい、1945年1月5日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手(外野手)。 八王子学園八王子高等学校から、神奈川大学へ入学。神奈川五大学野球リーグでは、1年生ながら左翼手、四番打者として1963年春季リーグに優勝。同年の全日本大学野球選手権大会に出場し、準決勝まで勝ち進むが慶大に敗退。同大会は8打数4安打、打率.500を記録し、巨人、大洋、中日など各球団から勧誘をうけていた。百メートル12秒の俊足でもあった。 同年に神奈川大学を中退し、国鉄スワローズに入団。1964年には左翼手として2試合に先発出場。しかしその後は出場機会が減少、自由契約となり、テストを受け1967年に大洋ホエールズに移籍した。
西田 暢(にしだ とおる、1944年11月2日 - )は、東… 西田 暢(にしだ とおる、1944年11月2日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。
倍賞 明(ばいしょう あきら、1944年5月11日 - 20… 倍賞 明(ばいしょう あきら、1944年5月11日 - 2019年1月22日)は、東京都出身の元アマチュア野球選手。ポジションは一塁手。5人兄弟姉妹の長男で長姉は倍賞節子。女優の倍賞千恵子は姉、倍賞美津子は妹。弟は倍賞鉄夫。 日本大学第三高等学校では1962年、井上治男(早大-日本石油)、豊永邦男の両エースを擁し、春夏の甲子園に一塁手、三番打者として連続出場。春の選抜では準決勝に進み、中京商の林俊彦の好投に苦しめられるが1-0で9回裏サヨナラ勝ち。決勝では作新学院との接戦になるが、八木沢荘六を打ち崩せず0-1で敗退、準優勝にとどまる。同年夏の選手権は準々決勝に進むが、村上公康のいた西条高に敗れる。
井手 峻(いで たかし、1944年2月13日 - )は、東京… 井手 峻(いで たかし、1944年2月13日 - )は、東京都新宿区出身(佐賀県東松浦郡北波多村 (現:唐津市北波多)生まれ)の元プロ野球選手(投手, 外野手)・コーチ・監督、解説者、元中日球団代表兼連盟担当(会社役員)。 新治伸治(1965年大洋入団)に次ぐ史上2人目の東大野球部出身プロ野球選手で、ドラフト制度発足後としては東大初の指名選手となった。公式戦出場試合数は、過去の東大出身プロ野球選手の中では最も多かった。 父は脚本家の井手俊郎。 父・俊郎の実家は質屋を営んでいた。その家は「明治時代以降に炭鉱町として発展した北波多村の繁栄を伝える重要な町家建築」として国の登録有形文化財に登録され、現在もギャラリーとして残っている。
矢島 勝彦(やじま かつひこ、1943年9月12日 - )は… 矢島 勝彦(やじま かつひこ、1943年9月12日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手(内野手)。 法政大一高では、2年生の時に三塁手として1960年春の選抜に出場。2回戦(初戦)でエース木原義隆を擁する海南高を延長11回裏サヨナラで降すが、続く準々決勝では北海高の佐藤進に完封負けを喫する。翌1961年は遊撃手に回り、夏の甲子園にも出場するが、1回戦で関根知雄のいた銚子商に延長12回裏サヨナラ負け。 高校卒業後は、社会人野球の日産自動車に入団。1965年の都市対抗に出場、1966年の産別大会でもダイハツに補強され、本塁打を放つなど活躍。 1966年のドラフト外で近鉄バファローズへ入団。小柄ながら好打攻守、ベース1周を13秒8で走る俊足もあって即戦力として期待された。