伊藤 弘人(いとう こうじん、1916年 - 1988年)は… 伊藤 弘人(いとう こうじん、1916年 - 1988年)は、神奈川県相模原市出身の日本画家。日本美術院特待。相模原市民文化彰受賞。本名は、伊藤弘。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
上野 豊(うえの ゆたか、1915年(大正4年)11月9日 … 上野 豊(うえの ゆたか、1915年(大正4年)11月9日 - 2016年(平成28年)3月6日)は、日本の実業家。海運・石油輸送大手の上野トランステック名誉会長、横浜エフエム放送会長。元横浜商工会議所会頭、横浜エフエム放送社長。神奈川県横浜市出身。長男は上野トランステック社長の上野孝。 1937年、旧制横浜高等商業学校(現横浜国立大学)を卒業し、合名会社上野運輸商会に入社。渡辺輝一ゼミ出身。終戦時は陸軍大尉として広島に赴任。被爆するが一命を取り留める。1966年、上野運輸商会社長に就任。1975年株式会社上野運輸商会社長。石油輸送の上野グループを国内大手に育て上げ、石油メジャーのロイヤル・ダッチ・シェルとのつながりも深く、本国のシェル上層部と直接話のできる数少ないひとりと言われた。
河村 勝(かわむら かつ、1915年(大正4年)10月4日 … 河村 勝(かわむら かつ、1915年(大正4年)10月4日 - 2001年(平成13年)1月30日)は、日本の政治家。
川合 武(かわい たけし、1915年9月21日 - 1991… 川合 武(かわい たけし、1915年9月21日 - 1991年1月15日)は日本の内務・自治官僚・政治家。元衆議院議員(1期)。 神奈川県出身。横浜一中、水戸高卒業。1940年、東京帝国大学法学部卒業後、内務省入省、長野県特高課長などを務めた。総理秘書官、自治省官房調査官を経て消防庁次長を務める。その後、日本消防協会常任顧問。1952年第25回衆議院議員総選挙(日本自由党公認)、1953年第26回衆議院議員総選挙(無所属)、1958年第28回衆議院議員総選挙(無所属)で神奈川県第1区(中選挙区。横浜市全域が選挙区)から立候補するも落選し、1971年横浜市長選挙に自民党推薦で立候補し現職の飛鳥田一雄に敗れたが、1976年、第33回衆議院議員総選挙で神奈川県第4区から新自由クラブから立候補し、初当選。
大久保 良順(おおくぼ りょうじゅん、1915年9月11日 … 大久保 良順(おおくぼ りょうじゅん、1915年9月11日 - 2010年10月28日)は、天台宗の僧。大正大学長を務めた。 神奈川県平塚市生まれ。1938年大正大学文学部仏教学科卒。40年同大学院修了。天台宗天王寺住職。大正大学助教授、教授、1985年学長。天台宗大僧正。三十三間堂本坊・妙法院門跡、同名誉門主。大久保良峻は甥。1987年、勲三等瑞宝章受章。 この項目は、仏教に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 仏教/ウィキプロジェクト 仏教)。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
小川 利雄(おがわ としお、1915年5月11日 - 没年不… 小川 利雄(おがわ としお、1915年5月11日 - 没年不明)は、神奈川県出身のプロ野球選手。 浅野中学校から東京機器工業を経て、1950年に国鉄スワローズへ入団。
飛鳥田 一雄(あすかた いちを、1915年〈大正4年〉4月2… 飛鳥田 一雄(あすかた いちを、1915年〈大正4年〉4月2日 - 1990年〈平成2年〉10月11日)は、日本の政治家。衆議院議員(6期)、横浜市長(4期)、日本社会党委員長を歴任した。 横浜市滝頭町出身。厚木市の旧家で医師の家に生まれる。 父は弁護士で横浜市会議長・高松高検検事長を務めた飛鳥田喜一。5歳の頃に小児麻痺にかかり、左足が不自由となった。これを機に、名の読みを「かずお」から「いちを」に改める。障碍を理由に入学を反対する教員を長野正義(のち飛鳥田夫婦の仲人。横須賀市教育長を経て横須賀市長)らの教員が説得して入学できた神奈川県立横浜第一中学校(現・神奈川県立希望ヶ丘高等学校)を経て、旧制水戸高等学校(現・茨城大学)を受験するが、左足の障害を理由に不合格とされた。
寺田 透(てらだ とおる、1915年〈大正4年〉3月16日 … 寺田 透(てらだ とおる、1915年〈大正4年〉3月16日 - 1995年〈平成7年〉12月21日)は、日本の文芸評論家・フランス文学者。東京大学教養学部教授を歴任。 神奈川県横浜市出身。神奈川一中から第一高等学校をへて東京帝国大学文学部仏文学科卒業、大学時代に、立原道造・杉浦明平とともに同人雑誌をやっていたが、立原が日本浪曼派に接近したことで絶交し、同人雑誌も終わりとなった。戦後、中央大学予科教授、第一高等学校教授から、1949年東京大学教養学部教授。1969年大学紛争のときに事態の収拾法に不満をもち、辞職した。ただし当時の文章や対談では、以前から新制大学に「文人」は適合できないと感じていたと言っている。
松田 トシ(まつだ トシ、1915年3月7日 - 2011年… 松田 トシ(まつだ トシ、1915年3月7日 - 2011年12月7日)は、日本の歌手、声楽家(声域はソプラノ)。松田敏江の芸名でも活動した。 神奈川県横浜市出身。東京音楽学校本科卒業。在学中は長坂好子、マリヤ・トルに師事。卒業後、日本大学芸術科や東京女子体操音楽学校の講師となる。 1936年、NHKにおいて「フォーレ歌曲」を初放送。その後は国民歌謡で、「蘭花の頌」「満州帝国皇帝陛下奉迎国民歌」「日本婦人の歌」を放送。戦後もラジオ歌謡で「白鳥の歌」「ブンガワン・ソロ」など吹込みヒットさせた。 1949年8月からは、NHKで放送開始した『うたのおばさん』に約15年間出演。安西愛子と共に「うたのおばさん」として親しまれた。
鷲巢 繁男(わしす しげお、1915年1月7日 - 1982… 鷲巢 繁男(わしす しげお、1915年1月7日 - 1982年7月27日)は、日本の詩人。宗教評論家。ギリシア正教徒。洗礼名ダニール。漢詩文では不羣(ふぐん)と号した。 サン=ジョン・ペルスに影響された長大な叙事詩的スタイルの作品が特徴である。少年時代からボードレール『悪の華』に原書で親しむなどしたが、戦時中に新興俳句運動に出会い、富澤赤黄男に師事して俳人として出発した。北海道石狩に戦後開拓に入るが、やがて離農、札幌で印刷会社に校閲者として就職した。その頃に現代詩に転じ、和田徹三の形而上詩誌「湾」同人として活動した。 定年退職とともに埼玉県に移住。前年に出版した『定本鷲巣繁男詩集』で歴程賞受賞。
吉田 耕三(よしだ こうぞう、1915年 - 2013年)は… 吉田 耕三(よしだ こうぞう、1915年 - 2013年)は、日本の美術評論家。 神奈川県横浜市出身。日本画家の速水御舟の甥。御舟から日本画を学び、御舟の日本画の鑑定人を務める。現代陶芸の旗手といわれた加守田章二の才能を認める。陶芸の公募展・日本陶芸展創設を企画する。 東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科卒業。復員後、世界的な陶磁学者で陶芸家・小山富士夫の助手となり、その後、東京帝室博物館(現・東京国立博物館)陶磁器主任で、陶磁器の批評と収集の天才といわれる北原大輔、人間国宝・荒川豊蔵、百五銀行頭取で陶芸作家・川喜田半泥子から焼き物に関する学問と技術を学ぶ。北大路魯山人の弟子でもある。 東京国立近代美術館の創立時から勤務して日本画と工芸を担当し、総括主任研究官などを歴任。
村瀬 輝光(むらせ てるみつ、1915年 - 1985年5月… 村瀬 輝光(むらせ てるみつ、1915年 - 1985年5月9日)は、昭和時代後期日本の中等教育教員。神奈川県の2代目県民歌「光あらたに」の作詞者として知られる。 また、推理作家としてのペンネームに深草 蛍五(ふかくさ けいご)がある。 横浜市中区出身。旧制厚木中学校を経て神奈川師範学校を卒業した後、1945年(昭和20年)に旧制相洋中学校の国語教諭となり、1947年(昭和22年)の新制高等学校への改組に伴い校歌を作詞した。 1950年(昭和25年)、神奈川県が行った2代目県民歌の懸賞公募で応募作「光あらたに」が採用され、同年4月10日付で制定される。ところが、制定から15年余りを過ぎた1967年(昭和42年)に当時の津田文吾知事が4番の歌詞について「大気汚染が社会問題化する中で不適切な表現ではないか」として改訂を指示し、作曲者の飯田信夫と共に難色を示したが結論が出ないまま1968年(昭和43年)を以て知事から問題視された4番自体が廃止されることになった。
松村 達雄(、1914年〈大正3年〉12月18日 - 200… 松村 達雄(、1914年〈大正3年〉12月18日 - 2005年〈平成17年〉6月18日)は、日本の俳優。東京俳優生活協同組合所属。 大学時代はラグビー選手として活躍し、劇団を結成して舞台で活動するが、劇団の解散後は映画・テレビドラマに多く出演した。しやがれた声の独得な台詞まわしと、芝居臭さを感じさせないリアルで深味のある演技で個性的なバイプレイヤーとして活躍し、崩れたインテリ役に定評があった。映画『男はつらいよ』シリーズで2代目おいちゃん役を演じたことでも知られる。 神奈川県横浜市に父・武重と母・トエ(高橋榮太郎の長女)の3男2女の3男として生まれる。兄は錠司と重雄。父は大阪府の松村繁三郎の三男として1882年3月に生まれ、帝国蓄音機やスタンダード蓄音機、コロムビアレコードの取締役文芸部長となった。
内藤 知周(ないとう ともちか、1914年11月20日 - … 内藤 知周(ないとう ともちか、1914年11月20日 - 1974年5月16日)は、社会運動家で、政治運動家。 出典は『内藤知周著作集』。 神奈川県横須賀市生まれ。1932年神奈川県立横須賀中学校(現・神奈川県立横須賀高等学校)卒業。1937年中央大学専門部法学科卒業。1941年東北帝国大学法文学部経済学科卒業。在学中に学生運動に加わり、1938年に検挙され無期停学。卒業後、繊維需給調整協議会に就職。大日本帝国陸軍自動車第31連隊に召集を受け、中国河北へ。 1946年に復員し、日本共産党に入る。同党山口県委員として徳山市で活躍。1948年同党地方委員・常任委員。1952年同党労対書記・政策委員会書記。
加藤 衛(かとう まもる、1914年11月9日 - 1992… 加藤 衛(かとう まもる、1914年11月9日 - 1992年3月19日)は、ドイツ文学者、演劇評論家、劇作家。神奈川県立横浜第一中学校(現在の神奈川県立希望ヶ丘高等学校)、1939年上智大学卒業。ドイツ文学専攻、東京水産大学助教授、横浜市立大学教授を務め、演劇評論のほか劇作・上演も行い、横浜演劇研究所所長を務めた。ほか、1948年に湘南工業短期大学の前身とされる湘南工業専門学校の教員にも就任している。 (秋 現代日本戯曲大系 第3巻 三一書房 1971)
安達 英三朗(あだち えいざぶろう、1914年10月6日 -… 安達 英三朗(あだち えいざぶろう、1914年10月6日 - 1992年4月3日)は日本映画のプロデューサー。神奈川県横浜市出身。 1937年に東宝映画配給に入社、その後東宝発足と同時に会計課長となる。1947年に新東宝設立と同時に監査役となる。1949年に取締役企画部長となる。1952年よりプロデューサーとして活躍。 この項目は、映画関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
村尾 次郎(むらお じろう、1914年(大正3年)9月20日… 村尾 次郎(むらお じろう、1914年(大正3年)9月20日 - 2006年(平成18年)12月9日)は、日本の歴史学者。東京大学文学博士。 静岡県浜松市の医家(父は医学博士・圭介。松籟と号す)に生まれた。虎童子と号す。考証学者・村尾元融は、血縁の父祖にあたる。 横浜一中、静岡高等学校卒業後、1936年(昭和11年)、東京帝国大学文学部国史学科に進学後は平泉澄の内弟子となった。1940年(昭和15年)、卒業と同時に東京帝国大学文学部助手となるも、1943年(昭和18年)3月に応召される。歩兵より船舶兵科に転じ、陸軍船舶幹部候補生隊本部教官[要出典]。 戦後は古代史専攻の研究者となり、1961年(昭和36年)に「律令財政史の研究」で東京大学より文学博士の学位を受けた。
橋口 隆吉(はしぐち りゅうきち 1914年8月23日 - … 橋口 隆吉(はしぐち りゅうきち 1914年8月23日 - 1996年10月4日)は、日本の金属・材料物理学者。
高橋 輝彦(たかはし てるひこ、1914年4月29日 - 没… 高橋 輝彦(たかはし てるひこ、1914年4月29日 - 没年不明(1993年4月1日 - 2003年3月1日の間))は、神奈川県出身のプロ野球選手。 神奈川県立商工実習学校(現:神奈川県立商工高等学校)時代には春1回(1931年)、夏2回(1928年、1931年)甲子園に出場した。 その後、専修大学に進学し、遊撃手として活躍。1935年秋季の東都大学リーグ戦では打率.346をマークしている。また身長五尺五寸三分、体重十六貫五百匁で趣味は映画鑑賞だったと伝わる。 1936年、東京セネタースの結成に参加(そのため、専大を中退)。苅田久徳・中村信一・綿貫惣司と共に「百万ドル内野陣」と呼ばれる鉄壁の守備を形成した。
舘盛 静光(たてもり せいこう、1914年〈大正3年〉4月2… 舘盛 静光(たてもり せいこう、1914年〈大正3年〉4月21日 ‐ 2002年〈平成14年〉12月17日)は、日本の政治家。相模原市長(5期)。位階は従四位。 神奈川県相模原市出身。神奈川師範学校中退。大沢村書記から1941年の合併後は相模原町書記、大沢出張所長などを経て、相模原市役所に勤務する。1956年から同市教育長を15年勤め、1971年市助役に就任する。1977年の市長選挙に立候補して初当選、5期務めた。1997年引退。2002年死去。死没日付をもって従四位に叙された。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
岸田 麗子(きしだ れいこ、1914年(大正3年)4月10日… 岸田 麗子(きしだ れいこ、1914年(大正3年)4月10日 - 1962年(昭和37年)7月26日)は、日本の画家。洋画家・岸田劉生の娘で、劉生の連作集「麗子像」のモデル。モデルとなった絵画には「麗子微笑」(重要文化財東京国立博物館所蔵他)等がある。 岸田劉生と岸田蓁の娘として生まれる。 鎌倉女学院在学中の1929年(昭和4年)に15歳で父を喪う。1937年(昭和12年)武者小路実篤の新しき村で知り合った歯科医師の瀧本貞次郎と結婚し和歌山市に住んで、1940年(昭和15年)娘・夏子を儲ける(夏子の他に姉弟もいる)。戦後は東京に住むが、瀧本と別れ、年下の臼井幸四郎と結婚し、臼井は岸田姓を名のった。
横尾 義貫(よこお よしつら、1914年 - 2007年1月… 横尾 義貫(よこお よしつら、1914年 - 2007年1月28日)は、日本の建築学者。建築教育者。京都大学名誉教授。専門分野は建築構造学。 神奈川県生まれ。佐賀県出身。江藤新平の曾孫。旧制逗子開成中学校から1932年に旧制静岡高校を経て1939年、京都帝国大学工学部建築学科卒業後、佐世保海軍建築部に勤務。1942年京都帝国大学 助教授、1949年京都大学工学部教授に就任。1977年4月豊橋技術科学大学へ転出。同大学では副学長を歴任。その後名古屋大学教授、日本建築総合試験所理事長など。1975年日本建築学会会長(1975年 - 1977年)。著書に『東三河の戦国時代』、『建築学小事典 建築の美と技術』(監訳)、『構造力学〈第1-2巻〉 (1951年)』(共著)など。
鈴木 正雄(すずき まさお、1914年(大正3年) - 20… 鈴木 正雄(すずき まさお、1914年(大正3年) - 2006年(平成18年)11月7日)は、日本の実業家。三菱銀行入行を皮切りに、三菱グループで三菱重工業副社長や三菱自動車販売(現三菱自動車工業)社長・会長などを歴任した。
榎 一雄(えのき かずお、1913年(大正2年)11月11日… 榎 一雄(えのき かずお、1913年(大正2年)11月11日 - 1989年(平成元年)11月5日)は、日本の東洋史学者、東京大学名誉教授。正四位勲二等瑞宝章。 1913年、兵庫県明石郡垂水村(現・神戸市)で生まれた。神奈川県立横浜第三中学校を卒業。第一高等学校を1934年に卒業し、東京帝国大学文学部東洋史学科に入学。大学では白鳥庫吉の指導を受けた。 1943年9月より東京帝国大学文学部講師、1947年4月に東洋文庫研究員、1948年に東京大学文学部東洋史学科助教授に就任。1955年に教授昇進。1962年、学位論文『エフタル勃興前後の中央アジア』を東京大学に提出して文学博士号を取得。1974年に東京大学を定年退官。
普川 茂保(ふかわ しげやす、1913年5月13日 - 19… 普川 茂保(ふかわ しげやす、1913年5月13日 - 1995年5月30日)は日本の実業家。元日本信託銀行社長・会長。 神奈川県出身。旧制神奈川県立小田原中学校(神奈川県立小田原高等学校の前身)、旧制東京商科大学(一橋大学の前身)を経て、第百銀行に入行。 三菱銀行で総務部長や常務を務めたのち、1974年に日本信託銀行社長就任。日本列島改造論後の不動産不況で多額の不良債権が生じていた同行のたてなおしにあたった。また労働組合との関係改善も進め、のちの三菱銀行との経営統合の基盤を作った。1981年に社長を退任し、会長に就任。1987年6月、会長を退き、取締役相談役に就任。1988年6月には取締役を退任し相談役に就任。
小泉 明(こいずみ あきら、1913年2月10日 - 197… 小泉 明(こいずみ あきら、1913年2月10日 - 1977年2月8日)は、日本の経済学者。ケインズ経済学を専攻、国際金融論。第7代一橋大学学長。経済学博士。正三位勲二等旭日重光章。 神奈川県横浜市出身。1938年東京商科大学(現一橋大学)を卒業。山口茂ゼミ出身。三洋証券社長の土屋陽三郎、新日本証券社長の鷹尾寛、東京銀行頭取の横山宗一、鹿島建設副会長の原明太郎、マツダ会長の岩沢正二、丸井今井社長の今井道雄、日東製網社長の小林政夫、三井不動産社長の坪井東らとともに大学の同期会を結成。 大学卒業後第一生命保険に入社するが、1940年に同社を退職し東京商科大学助手に就任。同助教授を経て、戦後一橋大学商学部助教授、58年教授に昇格。
藤井 誠司(ふじい せいじ、1913年1月16日 - 199… 藤井 誠司(ふじい せいじ、1913年1月16日 - 1997年10月4日)は、日本の経営者。不二家社長、会長を務めた。神奈川県横浜市出身。 1930年に日本大学第三中学校を卒業し、同年に不二家に入社。副社長を経て、1948年に社長に就任し、1969年5月には会長に就任。 キャラクターの「ペコちゃん」と「ポコちゃん」を考案した。 1997年10月4日、呼吸不全のために死去。84歳没。
櫻内 義雄(さくらうち よしお、1912年〈明治45年〉5月… 櫻内 義雄(さくらうち よしお、1912年〈明治45年〉5月8日 - 2003年〈平成15年〉7月5日)は、日本の政治家。衆議院議員(18期)、衆議院議長(第67代)、外務大臣(第106代)、建設大臣(第41代)、国土庁長官(第6代)、農林大臣(第44代)、通産大臣(第23-24代)、自由民主党政務調査会長(第20・25代)、自由民主党幹事長(第21・22代)。日蓮宗全国檀信徒協議会会長。位階は従二位、勲等は勲一等。 商工大臣、農林大臣、大蔵大臣などを歴任した櫻内幸雄は父、中国電力会長を務めた櫻内乾雄は兄にあたる。 東京生まれ。幼稚舎から慶應義塾に学び、慶應義塾大学経済学部卒業、鐘紡に入社する。
梅本 克己(うめもと かつみ、1912年3月26日 - 19… 梅本 克己(うめもと かつみ、1912年3月26日 - 1974年1月14日)は、日本の哲学者。
龍崎 一郎(りゅうざき いちろう、1912年2月20日 - … 龍崎 一郎(りゅうざき いちろう、1912年2月20日 - 1988年6月28日)は、日本の俳優。神奈川県横浜市出身。本名は龍崎 光一郎。旧芸名は竜崎 一郎。特技は剣道(5段)。師は映画監督の牛原虚彦。 旧制横浜第一中学校(現:神奈川県立希望ヶ丘高校)卒。 新興キネマ、高田プロダクション、東宝、ぷろだくしょん森に所属していた。 1988年6月28日、肺癌のため死去。76歳没。
森川 信(もりかわ しん、1912年(明治45年)2月14日… 森川 信(もりかわ しん、1912年(明治45年)2月14日 - 1972年(昭和47年)3月26日)は、日本の俳優およびコメディアン。本名は森川 義信。神奈川県横浜市南区出身。横浜市立商業学校卒業。元妻は水戸光子。 商業学校卒業後、銀行に勤める傍ら、役者になるために演劇学校へ通う。 1931年、遠戚にあたる俳優・静香八郎と共に俳優の道へ進み、1932年に静香主演の『肉弾三勇士』での死体役でデビュー。 その後、一座を組んで浅草で芝居を試みるが、浅草演劇界ではエノケンとロッパが君臨していたため、競合を余儀なくされた。 その後、大阪、名古屋、京都、博多など各地を転々とし、この頃に清水金一、田崎潤、淀橋太郎などを知った。
永山 時雄(ながやま ときお、1912年〈明治45年〉2月1… 永山 時雄(ながやま ときお、1912年〈明治45年〉2月11日 - 1999年〈平成11年〉7月11日)は、神奈川県出身の官僚。旧通商産業省初代大臣官房長。位階は従三位。 神奈川県立小田原中学校(現:神奈川県立小田原高等学校)、第一高等学校 (旧制) を経て、1935年に東京帝国大学法学部卒業。同年、商工省入省。入省同期に、斎藤正年(特許庁長官)、小出栄一(共石社長、経済企画事務次官)、鹿子木昇(アジア経済研究所所長、大阪通産局長)、小山雄二(中小企業庁長官)、油谷精夫(東京通産局長)など。 戦後、商工省外局の貿易庁に、時の貿易庁長官に就任した白洲次郎が貿易庁と共に商工省も解体し新制・通商産業省へと改組する構想を松田太郎商工次官が掴み、当初その動向を監視するため、当時商工省物資調整課長であった永山が筆頭課長である貿易課長として送り込まれた。
小堀 清一(こぼり せいいち、1912年2月10日 - 19… 小堀 清一(こぼり せいいち、1912年2月10日 - 1996年2月2日)は、将棋棋士。九段。神奈川県横浜市出身。金子金五郎九段門下。
比田井 南谷(ひだい なんこく、英語: Nankoku Hi… 比田井 南谷(ひだい なんこく、英語: Nankoku Hidai)、1912年〈明治45年〉2月1日 - 1999年〈平成11年〉10月15日)は書家。本名は漸(すすむ)。神奈川県出身。 父・比田井天来、母・小琴の次男として生まれ、天来没後は書道研究機関「書学院」を継承し、碑帖の管理や出版部の再開に努める。書学院長・毎日書道展名誉会員・書宗院顧問・独立書入団客員などを歴任し、プリンストン大学・オックスフォード大学など、約20の大学で書道史を講演する。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
桝本 セツ(ますもと せつ、1912年2月 - 没年不明)は… 桝本 セツ(ますもと せつ、1912年2月 - 没年不明)は、日本のロシア語翻訳家、政治運動家。岡邦雄の愛人として知られる。名前は節子とも。 長崎県生まれ。父は造船技師の桝本卯平、母は長崎の料亭で働いており、3歳のときに死別。日本女子大学附属女学校卒、東京女子高等師範学校中退。朝鮮京城で2年間ロシア語を学び帰国。唯物論研究会に入り、1936年に妻のある岡邦雄と恋におち、アパートに同棲。 1938年、岡とともに治安維持法違反で検挙される。1942年に男児、1944年に女児を生む。1946年、岡と日本共産党に入党。1957年に離党。1971年岡が死去する。
内藤 誉三郎(内藤 譽三郎、ないとう たかさぶろう、1912… 内藤 誉三郎(内藤 譽三郎、ないとう たかさぶろう、1912年1月8日 - 1986年3月16日)は、昭和期の政治家、文部官僚。文部大臣(第100代)、参議院議員(3期)。大妻女子大学学長。 神奈川県中郡西秦野村渋沢(現秦野市)に、葉タバコ農家を営む諸星喜之助の四男として生まれる。神奈川県立小田原中学校(現神奈川県立小田原高等学校)、東京高等師範学校を経て、1936年東京文理科大学英語英文科を卒業、文部省社会教育局に嘱託として入省する。また同年に内藤春子と結婚し、内藤家の養子となった。文部省入省後の1942年に高等文官試験に合格し、大臣官房文書課総務掛長となる。 戦後は省内随一の英語力を武器に、GHQとの折衝で活躍し頭角を顕した。
林 寿郎(はやし じゅろう、1912年1月 - 1986年7… 林 寿郎(はやし じゅろう、1912年1月 - 1986年7月11日)は、多摩動物公園初代園長、恩賜上野動物園(東京都台東区上野公園)の元園長(第2代)。
秦野 章(はたの あきら、1911年10月10日 - 200… 秦野 章(はたの あきら、1911年10月10日 - 2002年11月6日)は、日本の官僚・政治家。
半田義之(はんだ よしゆき、1911年7月2日 - 1970… 半田義之(はんだ よしゆき、1911年7月2日 - 1970年8月1日)は、日本の小説家である。神奈川県横浜市保土ヶ谷出身。 旧制前橋中学(現群馬県立前橋高等学校)中退後、国鉄の職員として働く傍ら、同人誌に創作を発表する。「文藝首都」の1939年6月号に掲載した「鶏騒動」で第9回芥川龍之介賞を受賞した。受賞後は国鉄を退職し、菊池寛が編集長だった「日本映画」の記者となる。 戦後は日本共産党に入党。国鉄の労働運動に参加し、日本共産党系の『民主文学』などに小説を発表したが、1970年に59歳で自殺した。
長門 美保(ながと みほ、1911年(明治44年)6月23日… 長門 美保(ながと みほ、1911年(明治44年)6月23日 - 1994年(平成6年)11月11日)は、日本の声楽家(ソプラノ)、歌手、オペラ歌手、翻訳家(訳詞家)、歌劇団主宰者・総監督、オペラ演出家。本名は鈴木 美保。 福岡県若松市(現: 北九州市若松区)出身。3歳の時、家族とともにドイツに渡り、幼時をドイツで過ごす。小学校1年のとき帰国し、日本女子大学附属豊明小学校に半年遅れで編入。日本女子大学校附属高等女学校を経て、東京音楽学校に入学。在学中に東京音楽学校春期演奏会におけるマーラーの交響曲第2番(指揮: クラウス・プリングスハイム)のソリストとなる。1933年(昭和8年)同校を卒業し研究科に進む。
中原 多代(なかはら たよ、1911年(明治44年)5月 -… 中原 多代(なかはら たよ、1911年(明治44年)5月 - 没年不明)は、日本の声楽家・歌手、発声法の研究者。西洋音楽・邦楽両方の歌唱にわたる研究・実践を行い、その活動が「歌詞を大切にしている声楽家」と評されている。また、日本人の特性を活かす発声法を科学的に研究し、それを生かしたボイストレーニングも行っていた。 1911年5月 横浜に生まれる。 幼少の頃から邦楽の稽古に励む一方で、家には大型オルガン・アップライトピアノ・電蓄があった。また、叔父がヴァイオリンを弾き、叔母が賛美歌を歌う一方、母は箏・三味線と、邦楽・西洋音楽の両方から影響を受けた。 1923年の関東大震災の際、神奈川県立第一高等女学校(現在の神奈川県立横浜平沼高等学校)から文化学院に転校後、同校卒業。
江口 朴郎(えぐち ぼくろう、1911年3月19日 - 19… 江口 朴郎(えぐち ぼくろう、1911年3月19日 - 1989年3月15日)は、日本の西洋史研究者。東京大学名誉教授。元日本学術会議会員、元歴史学研究会委員長。 1911年、佐賀県生まれ。少年時代から神奈川県藤沢町(鵠沼(現・藤沢市鵠沼桜が岡1丁目)に在住。湘南中学校、第一高等学校を経て、1933年東京帝国大学文学部西洋史学科卒業。同大学院に進んだ。 卒業後は、1934年から外務省に嘱託として勤務。1941年、姫路高等学校教授に就いた。 戦後は鵠沼(現鵠沼橘2丁目)に帰り、1947年に第一高等学校教授となった。この頃、母校の湘南高校の生徒であった江藤淳、石原慎太郎、葉山峻らが出入りしていた。1953年に東京大学教授となった。
高橋 良(たかはし りょう、1911年2月28日 - 201… 高橋 良(たかはし りょう、1911年2月28日 - 2013年10月)は、日本の耳鼻科医。 神奈川県横浜市出身。1934年東京慈恵会医科大学卒、1940年「聴器結核の研究」で医学博士。慈恵医科大学耳鼻咽喉科勤務、助手、1938年講師、1945年助教授、1959年教授となる。1976年退職し名誉教授。1977年港区赤坂に鼻の相談室クリニック開設。1981年勲三等旭日中綬章受勲。
岡本 太郎(おかもと たろう、1911年〈明治44年〉2月2… 岡本 太郎(おかもと たろう、1911年〈明治44年〉2月26日 - 1996年〈平成8年〉1月7日)は、日本の芸術家・作家。 1930年(昭和5年)から1940年(昭和15年)までフランスで過ごし、抽象美術運動やシュルレアリスム運動とも接触した。 岡本太郎(以下岡本と表記)は神奈川県橘樹郡高津村大字二子(現在の川崎市高津区二子)で、漫画家の岡本一平、歌人で小説家・かの子との間に長男として生まれる。血液型はO型。父方の祖父は町書家の岡本可亭であり、当時可亭に師事していた北大路魯山人とは家族ぐるみの付き合いがあった。 父・一平は朝日新聞で「漫画漫文」という独自のスタイルで人気を博し、「宰相の名は知らぬが、一平なら知っている」といわれるほど有名になるが、付き合いのため収入のほとんどを酒代に使ってしまうほどの放蕩ぶりで、家の電気を止められてしまうこともあった。
細入藤太郎(ほそいり とうたろう、1911年2月16日 - … 細入藤太郎(ほそいり とうたろう、1911年2月16日 - 1993年12月29日)は、日本のアメリカ文学者、アメリカ史学者。元立教大学教授。 横浜市生まれ。実業家の細入富重の長男として生まれる。1936年、立教大学英文科卒、1937年、カールトン大学文学部英文学科卒、ハーバード大学大学院文学研究科G.Chaucer博士課程修了。戦中は、清水幾太郎、宮城音弥とともに、海軍技術研究所の実験心理研究部の顧問を務めた。1940年に立教大学予科講師となり、1945年に同大学予科教授に昇格、1946年に立教大学アメリカ研究所理事に就任したほか、清水幾太郎、大河内一男らとともに、財団法人二十世紀研究所を設立、のち理事長となる。
小島 忠治(こじま ちゅうじ、1911年2月7日 - 197… 小島 忠治(こじま ちゅうじ、1911年2月7日 - 1974年1月9日)は、日本の教育者、教育学者。 神奈川県横浜市出身。1943年法政大学文学部国漢科卒。小学校教師を務め、東横学園小学校校長、和光学園主事。日本私立小学校連合会副会長。国語教育が専門。
井上 禅定(いのうえ ぜんじょう、1911年〈明治44年〉1… 井上 禅定(いのうえ ぜんじょう、1911年〈明治44年〉1月20日 - 2006年〈平成18年〉1月26日)は、日本の禅僧。元東慶寺住職。相模工業大学教授。学僧として名高く、また自然保護運動でも活躍した。 神奈川県高座郡渋谷村(現・藤沢市)高倉に円覚寺派東勝寺の禅僧の三男として生まれる。大正の初め、父の転住に伴い、足柄上郡南足柄村(現・南足柄市)の狩野極楽寺に移る。この極楽寺は臨済宗円覚寺の末寺であり、そこで少年時代の井上は、晩年の釈宗演の法話を聞き感銘を受ける。1921年春、10歳で親元を離れ鎌倉に赴き、東慶寺住職として釈宗演の跡を継いでいた佐藤禅忠の弟子となる。 神奈川県立湘南中学校(現在の神奈川県立湘南高等学校)、松本高等学校文科甲類を経て、東京帝国大学文学部印度哲学科で辻直四郎の指導を受け、また和辻哲郎にも学ぶ。
秋元 松代(あきもと まつよ、1911年1月2日 - 200… 秋元 松代(あきもと まつよ、1911年1月2日 - 2001年4月24日)は、日本の劇作家。俳人の秋元不死男は兄。 神奈川県横浜市生まれ。横浜吉田小学校卒業。病身と貧困のためそれ以上の進学は叶わなかった。 秋元家は北足立郡美本町美女木の庄屋の出で代々医家でもあったが、祖父の死後家運傾き、婿養子の父・茂三郎は横浜元町で漆器輸出業を営むも成功せず、松代3歳のときに死去、母が和裁の賃仕事などをして家計を支えた。松代は七人の兄弟姉妹の次女で、長兄は幼時に病死、次兄は秋元不死男(不二男)、三兄は共産党員から転向して古書店を経営、戦時中の予防拘禁を経て戦後は作家を目指した。四兄は30歳で結核死、妹は出生すぐ他家に養子に出され、長崎で原爆死した。
佐藤 謙三(さとう けんぞう、1910年11月5日 - 19… 佐藤 謙三(さとう けんぞう、1910年11月5日 - 1975年1月25日)は、国文学者。國學院大學元学長。 1910年、神奈川県横浜市で生まれた。横浜第二中学校在学時に、関東大震災が発生し、自宅で被災した。國學院大學予科を経て、國學院大學国文科で学んだ。1933年に卒業し、同大学国文研究室助手に採用された。1935年に予科講師、1945年に予科教授に昇格。 戦後、1946年に文学部教授となった。1961年、学位論文『平安時代文学の研究』を國學院大學に提出して文学博士号を取得。1964年から文学部長を務め、1970年には國學院大學学長に就任した。1973年より病のため入院治療にあたったが、1975年、学長在職中に死去。
渡邊 はま子(わたなべ はまこ、1910年(明治43年)10… 渡邊 はま子(わたなべ はまこ、1910年(明治43年)10月27日 - 1999年(平成11年)12月31日)は戦前から戦後の日本の歌謡界で活躍した女性流行歌手。神奈川県横浜市平沼出身。本名 加藤 濱子。生涯横浜で過ごした。愛称は「おはまさん」。 横浜生まれで、文字通りハマっ子の渡邊は、美貌で知られた歌手であった。女子師範学校の英語教師、渡辺近蔵(?- 1941年9月19日)と鞠(?- 1955年5月15日)の次女として生まれた。兄と姉がいた。マリの祖父が日系アメリカ人だった。1929年(昭和4)捜真女学校普通科卒業。後に川崎市に転居し、御幸尋常小学校(現在の川崎市立御幸小学校)に入学したが、3年生のときに父の勤務する横浜の女子師範学校の付属小学校に転校する。