蓮池 透(はすいけ とおる、1955年〈昭和30年〉1月3日… 蓮池 透(はすいけ とおる、1955年〈昭和30年〉1月3日 - )は、日本の政治活動家。1978年に北朝鮮に拉致された蓮池薫の実兄で、北朝鮮による拉致被害者家族連絡会事務局長を務めた。 新潟県柏崎市出身。新潟県立柏崎高等学校卒業。1977年3月、東京理科大学工学部電気工学科卒業。同年4月、東京電力に入社。2002年、日本原燃出向。同社燃料製造部副部長。核廃棄物再処理(MOX燃料)プロジェクトを担当。2006年、東京電力原子燃料サイクル部部長(サイクル技術担当)。2009年夏に退社。 北朝鮮による日本人拉致問題について、「拉致は国家テロ。北朝鮮への経済制裁を行え」「これは戦争ですよ。アメリカならそうするでしょう」といった発言を繰り返し、また制裁要請のために横田滋・早紀江夫妻とともに渡米するなど強硬派と目されていた。
涌井 徹(わくい とおる、1948年9月21日 - )は、日… 涌井 徹(わくい とおる、1948年9月21日 - )は、日本の篤農家・実業家・元政治活動家。株式会社ジャパン・パックライス秋田・株式会社大潟村あきたこまち生産者協会代表取締役。 1948年(昭和23年)9月21日、新潟県十日町市吉田の農家に生まれる。1966年、新潟県立十日町高等学校を卒業。1967年、新潟県立農業教育センターを卒業、就農。1970年、21歳のときに家族とともに秋田県大潟村に入植。1987年、大潟村あきたこまち生産者協会を設立。2013年(平成25年)11月11日に、東日本コメ産業生産者連合会を設立する。2014年(平成26年)11月17日、コメネピュレが「フード・アクション・ニッポン・アワード2014」最優秀賞を受賞。
坂内 三夫(ばんない みつお、1947年9月25日 - )は… 坂内 三夫(ばんない みつお、1947年9月25日 - )は、日本の社会運動家。全国労働組合総連合(全労連)元議長。 新潟県南蒲原郡下田村(現三条市)生まれ。中学校卒業後、集団就職で上京。1968年、定時制高校を卒業。中野共立病院に就職、労働組合で青年部長・書記長・委員長を歴任。中野区労協事務局長として革新区政誕生に関わった。 1981年より、東京地方医療労働組合連合会専従。1984年、日本医療労働組合協議会(現日本医療労働組合連合会、医労連)専従。1987年、日本医療労働組合連合会初代書記長。 1998年7月の全国労働組合総連合(全労連)大会で事務局長に選任された。2006年7月-2008年7月、全労連議長。
伊藤 哲夫(いとう てつお、1947年9月23日 - )は、… 伊藤 哲夫(いとう てつお、1947年9月23日 - )は、日本の政治活動家。日本政策研究センター代表、日本会議常任理事(政策委員)、神道政治連盟政策委員、日本李登輝友の会常務理事、元生長の家中央教育宣伝部長。 新潟県上越市生まれ。新潟大学人文学部卒業。生長の家の「飛田給派」(現・生長の家本流運動)の一員だったが、教団が政治活動から手を引いたため自身も教団を抜け、1984年、「日本政策研究センター」を設立。日本会議常任理事を務める。1996年には、選択的夫婦別姓制度導入に反対する「夫婦別姓に反対し家族の絆を守る国民委員会」の呼びかけ人を務めている。 「日本政策研究センター」は、生長の家学生会全国総連合(生学連)OBを中心に、伊藤が設立した「生長の家」の関連団体であり、「日本会議」のシンクタンクである。
佐藤 昭子(さとう あきこ、旧名:佐藤 昭〈さとう あき〉、… 佐藤 昭子(さとう あきこ、旧名:佐藤 昭〈さとう あき〉、1928年〈昭和3年〉8月5日 - 2010年〈平成22年〉3月11日、女性)は、日本の政治家秘書、政治運動家。33年間にわたって田中角栄の秘書を務め、その愛人であったといわれ「越山会の女王」と称された。後に「政経調査会」を主宰した。 新潟県刈羽郡枇杷島村(現・柏崎市)に生まれる。両親は雑貨店を営んでいた。6人きょうだいの末っ子であったが、1人の姉は昭の出生前に死亡しており、1944年(昭和19年)までに父母、2人の兄、2人の姉と死別した。枇杷島小学校3年からそろばん塾に通って1級を取得し、数学・習字・体育が得意であった。1941年(昭和16年)小学校卒業後に進学した新潟県立柏崎高等女学校(5年制、のち4年制に変更。
山田 善二郎(やまだ ぜんじろう、1928年1月 - 202… 山田 善二郎(やまだ ぜんじろう、1928年1月 - 2022年1月20日)は、日本の社会運動家。 新潟県南蒲原郡(現三条市)生まれ。父親は陸軍省の下級職員であった。尋常小学校の同級生にのちの法学者江藤价泰がいた。担任の勧めで第一東京市立中学校夜間部を受験し合格、昼間は給仕を務め家計を助けながら通学した。1943年、軍国少年として憂国の思いから、海軍飛行予科練習生(予科練)を親に隠れて志願し合格。三重海軍航空隊に入り、1945年、日本の敗戦により除隊。 戦後、連合国軍最高司令官総司令部通信資材部隊、同対敵諜報部隊、キャノン機関、中央情報局(CIA)横須賀海軍施設拠点などに日本人従業員として勤務。
細井 宗一(ほそい そういち、1918年1月2日 - 199… 細井 宗一(ほそい そういち、1918年1月2日 - 1996年12月26日)は、労働運動家。 新潟県糸魚川市出身。陸軍士官学校卒業。陸軍では後に内閣総理大臣を務める田中角栄の上官だった。共に新潟出身で1918年(大正7年)年生まれという共通点があり堅い友情に結ばれていた。終戦時は関東軍第5軍司令部付陸軍中尉であった。 シベリア抑留を経験した。日本に引き揚げた後に日本国有鉄道(国鉄)に入り、国鉄労働組合(国労)へ加入した。1952(昭和27)年国労本部中央委員に就任。岩井章と共に国労内の日本共産党系勢力を指導した。1957(昭和29)年の新潟闘争で国鉄を解雇された。その後は総評反主流派の中核的な論客となったり、現場協議制度を国鉄で行ったり、国労新綱領の策定を指導したりした。
小林 進(こばやし すすむ、1910年(明治43年)9月9日… 小林 進(こばやし すすむ、1910年(明治43年)9月9日 - 1997年(平成9年)8月6日)は、昭和期の農民運動家、政治家。衆議院議員。 新潟県三島郡寺泊町(現・長岡市)に生まれる。1928年(昭和3年)北海中学校卒業。1935年(昭和10年)中央大学法学部卒業。 中央大学卒業後、東京倉庫運輸株式会社入社。その後、幹部候補生の教育を受けて、陸軍主計大尉として終戦を迎えた。 第二次世界大戦敗戦のショックを経て「これからは余生だ」「人の役に立ちたい」と立候補を決意。1946年(昭和21年)平野力三の自宅を訪れ政治への熱意を語るが、当時新潟には戦前からの有力社会党派閥が既存しており、実績のない小林の入党は断わられる。
石田 宥全(いしだ ゆうぜん、1901年(明治34年)1月5… 石田 宥全(いしだ ゆうぜん、1901年(明治34年)1月5日 - 1981年(昭和56年)11月13日)は、日本の農民運動家、政治家。衆議院議員(5期)、新潟県中蒲原郡川東村長。 新潟県中蒲原郡川東村(現五泉市)出身。1916年(大正5年)川東高等小学校(現:五泉市立川東小学校)を卒業し農業に従事。 1923年(大正12年)頃から農民運動に加わった。日本農民組合、労働農民党、全国労農大衆党などの中央、地方組織の役員を務めた。1926年(大正15年)日農関東同盟新潟県連理事に就任し、同年に小作争議指導の嫌疑で検挙され懲役6月となり、1928年(昭和3年)菅沼小作争議では暴行容疑で懲役2月の有罪判決を受けた。
稲村 順三(いなむら じゅんぞう、1900年9月30日 - … 稲村 順三(いなむら じゅんぞう、1900年9月30日 - 1955年2月21日)は、日本の農民運動家・政治家。衆議院議員(5期)。本名は「稲村 順蔵」、ペンネームは「村上 進」。 新潟県三条市出身。稲村道三郎の二男として生まれた。北海道帝国大学予科から東京帝国大学へ入学するが、兄・稲村隆一の影響を受け農民運動に関わるようになり大学を中退。1926年に労働農民党に入党し、雑誌「マルクス主義」の編集者。無産大衆党書記や社会大衆党書記を務め、1927年『労農』同人。1928年に日本大衆党に参加するが翌1929年5月21日に除名処分を受ける。1932年には秋田、新潟の農民運動に参加するも、1937年人民戦線事件で検挙され、釈放の後に帝国農業会嘱託や中央農会副参事として勤務する。
大泉 兼蔵(おおいずみ けんぞう、1898年8月8日 - 没… 大泉 兼蔵(おおいずみ けんぞう、1898年8月8日 - 没年不明)は、日本の社会運動家。 新潟県西蒲原郡燕町(現燕市)仙木の貧農の長男に生まれた。小学校卒業後農業に従事。小作農の貧しさから1920年春、仙木に農民組合を組織、1921年日本農民組合(日農)関東同盟に加盟、同組合仙木支部員、新潟県連合会執行委員として農民運動で活動。1925年全日本無産青年同盟と労働農民党に加入。1927年12月、オルグとして新潟に来ていた河合悦三の勧めで日本共産党に入党、中越地区細胞に所属。1928年、三・一五事件で検挙されたが党員であることが発覚せず約1か月で釈放された。のち上京し、1929年2月頃からしばらく自由労働者集団の中に入っていた。
田口運蔵(たぐち うんぞう、1892年(明治25年)5月1日… 田口運蔵(たぐち うんぞう、1892年(明治25年)5月1日 - 1933年(昭和8年)10月26日)は、日本の社会主義運動家。コミンテルン初期の日本人代表として知られる。
清沢 俊英(清澤、きよさわ としえい、1890年(明治23年… 清沢 俊英(清澤、きよさわ としえい、1890年(明治23年)8月7日 - 1980年(昭和55年)10月16日)は、昭和期の労働運動家、政治家。衆議院議員(2期)、参議院議員(2期)。 新潟県古志郡長岡町渡里町(現長岡市)で浄土真宗大谷派妙宗寺に生まれた。1908年(明治41年)長岡中学校(現新潟県立長岡高等学校)を卒業した。 1928年(昭和3年)長岡労働向上会を組織し日本労農党新潟県連合会常任執行委員に就任。日本労農党、日本大衆党、社会大衆党、全国農民組合、日本農民組合などの中央委員を務めた。1936年(昭和11年)三宅正一に次いで無産政党員として長岡市会議員に当選。その他、全国労働組合新潟県委員長、日本漁民組合中央委員も務めた。
石山 寅吉(いしやま とらきち、1890年(明治23年)1月… 石山 寅吉(いしやま とらきち、1890年(明治23年)1月25日 - 1937年(昭和12年)5月16日)は、大正から昭和前期の労働運動家、農民運動家、政治家。衆議院議員。 新潟県中蒲原郡沼垂町(現新潟市)の貧しい農家に生まれる。1896年(明治29年)同県北蒲原郡濁川村(現:新潟市北区濁川)の製綿業・石山家の養子となる。しかし養家が倒産したため、樺太、北海道へ出稼ぎに出たが過労のため帰郷。家業の再興を図るも不首尾で、1915年(大正4年)精練工として足尾銅山に入山した。 1917年(大正6年)足尾労働組合(のち大日本鉱山労働同盟会)の結成に参画した。1919年(大正8年)足尾銅山争議を指導。
平澤 計七(ひらさわ けいしち、1889年7月14日 - 1… 平澤 計七(ひらさわ けいしち、1889年7月14日 - 1923年9月3日)は、近代日本の劇作家・労働運動家である。日本のプロレタリア演劇の祖にして、生活協同組合及び労働金庫の設立の提言者でもある。関東大震災直後に、亀戸警察署に検束され労働運動家であったために他の活動家とともに虐殺された。妻の松は森竹次郎(森泰吉郎の父である磯次郎の義父)の次女。実子は、平澤綾子がいた。 若い頃、「潮態」あるいは「紫魂」の筆名を用いた。新潟県小千谷町(現・小千谷市)の出身。小学校を卒業すると、日本鉄道株式会社(現・JR東日本)大宮工場に就職した父に連れられて故郷を後にし、同工場付属職工養成所に入った。そこで3年間、近代的鍛冶工としての技術を身につけた。
逢坂 信忢(おうさか しんご、1882年〈明治15年〉9月9… 逢坂 信忢(おうさか しんご、1882年〈明治15年〉9月9日 - 1981年〈昭和56年〉1月7日)は、日本の牧師、伝道者、宗教哲学者、社会運動家、郷土史家、著述家。 新潟県中蒲原郡女池新田(現 新潟市中央区女池)の、女池新田、神道寺新田、および小張ノ木新田の戸長を務めていた名望家・逢坂清治の次男として出生。 1900年(明治33年)3月に新潟県中学校を卒業、1902年(明治35年)7月に札幌農学校予修科を卒業、1908年(明治41年)12月に東北帝国大学農科大学(旧 札幌農学校)農学科(農政学・農業経済学専攻)を卒業。 1915年(大正4年)9月に救世軍に入隊、1916年(大正5年)6月に救世軍士官学校を卒業、中尉に任官、東京銀座小隊長に就任、1917年(大正6年)4月に大尉に任官、1919年(大正8年)春に救世軍を除隊。
坪川 洹平(つぼかわ かんぺい、1874年(明治7年)6月2… 坪川 洹平(つぼかわ かんぺい、1874年(明治7年)6月29日 - 1958年(昭和33年)11月7日)は、日本の実業家・慈善家。1952年(昭和27年)には新発田市名誉市民に推挙された(名誉市民第1号)。新発田町立図書館(新発田市立中央図書館の前身)の寄贈者である。新潟県北蒲原郡新発田本村外ヶ輪(現・新発田市城北町)出身。 1874年(明治7年)6月29日、新潟県北蒲原郡新発田本村外ヶ輪(現・新発田市城北町)に生まれた。父親は坪川瀬平、母親はウイである。洹平は5人兄弟姉妹の三男であり、兄には英吉と雄二、姉にはレンとキイがいた。父の瀬平は新発田藩の茶道家である田宮休斎の次男であり、坪川家を嗣いで同家7代目となった。
内山 愚童(うちやま ぐどう、1874年〈明治7年〉5月17… 内山 愚童(うちやま ぐどう、1874年〈明治7年〉5月17日 - 1911年〈明治44年〉1月24日)は、日本の社会主義運動家、仏教者。 僧侶として曹洞宗林泉寺の住職を務め、幸徳事件(大逆事件)で処刑された12名の1人である。 1874年(明治7年)5月17日 に新潟県北魚沼郡小千谷町(現:新潟県小千谷市)において、宮大工で木形職人であった父・直吉、母・カヅの長男として生まれる。幼名は慶吉で、1885年(明治18年)に小千谷市立小千谷小学校を卒業する。 1890年(明治23年)10月に父が死去すると、内山は長男として家業を継ぐはずだったが、1893年(明治26年)頃に小千谷を離れた。井上円了の住み込みもしていたとの説もある。
西巻 開耶(にしまき さくや、慶応2年2月8日(1866年3… 西巻 開耶(にしまき さくや、慶応2年2月8日(1866年3月24日) - 1908年(明治41年)12月31日)は、日本の女性運動家。現在の新潟県柏崎市出身。 小学校教員となったのち自由民権運動に加わり、1881年に柏崎での集まりで男女同権を訴える演説を行った。1882年に教員でありながら政治集会に参加したことが集会条例違反等に問われ、翌年に罰金刑を受けた。このことで「日本初の女性政治犯」とされる一人である。その後は民権運動から離れたものの、女性の経済的自立や政治的自立を国権論の立場から支持していた社会活動家の北畠道龍と行動をともにし、婦人組織の結成や女子教育の実践にたずさわった。のちに北畠道龍の妻となる。
二階堂 保則(にかいどう やすのり、1865年(慶応元年9月… 二階堂 保則(にかいどう やすのり、1865年(慶応元年9月9日)- 1925年8月4日)は、江戸時代幕末の尊攘運動家。明治時代から大正時代の医師、統計学者。諱は良碩。号は如瓶。 越後国蒲原郡古寺村(現在の新潟県新発田市)に生まれる。幼名は菊太郎。中之島村の医師・三浦宗仙の養子となる。幼い頃から医学を学び、漢学者の若月元輔と共に江戸に行き、松崎慊堂や林復斎に教えを受け、田原藩に招聘された。故郷に戻り、子弟を教育していたが、三島郡瓜生村の金子邸で勤皇の同志と交わる。戊辰戦争が起こるや松田秀次郎や高橋竹之助などと草莽隊の方義隊を結成し、新政府軍の道案内を務めた。隊の解散後は家を義弟の宗潮に譲り、本姓の二階堂氏を名乗る。
広川 広四郎(ひろかわ こうしろう、旧字体: 廣川 廣四郞、… 広川 広四郎(ひろかわ こうしろう、旧字体: 廣川 廣四郞、1864年10月13日〈元治元年9月13日〉 - 1896年〈明治29年〉10月22日)は、明治期の日本の鉄道技術者、自由民権運動家。 仙石貢らとともに東京市街高架鉄道(現在の山手線および京浜東北線の上野駅・浜松町駅間の高架線区間)および中央停車場(現在の東京駅)の計画、設計をおこなった。広川は計画設計作業従事中に倒れ、32歳で死去した。 越後国三島郡飯塚村(現在の新潟県長岡市飯塚)に、広川甚左衛門とちやの次男として生まれる。[要出典]父は小さい頃に死別し、母のもとで育てられる。1878年(明治11年)、長岡学校(現在の新潟県立長岡高等学校)に入学した。
城 泉太郎(じょう せんたろう、1856年8月17日(安政3… 城 泉太郎(じょう せんたろう、1856年8月17日(安政3年7月17日) - 1936年(昭和11年)1月8日)は、日本の武士(越後長岡藩士)、教育者、共和主義思想家、自由民権運動家。 旧暦安政3年7月(1856年8月)、越後長岡藩士・河井資信とちよの長男として長岡に生まれる。河井家は譜代の家臣で幕末の禄高が90石、河井継之助は親戚筋にあたる。 藩校崇徳館で学び、三島郡入軽井村(現・長岡市)の遠藤軍平塾を経て、戊辰戦争における同藩の敗北を経験した後、明治3年6月(1870年)、慶應義塾に入塾。明治5年(1872年)に義塾の教員となり(1890年に特選塾員)、新暦1876年(明治9年)からは徳島慶應義塾の二代目校長となる。
銀林 綱男(ぎんばやし つなお、1844年5月6日〈弘化元年… 銀林 綱男(ぎんばやし つなお、1844年5月6日〈弘化元年3月19日〉 - 1905年〈明治38年〉9月20日)は、幕末の尊攘運動家、明治期の内務官僚・実業家。官選埼玉県知事。孫に数学者の銀林浩、曾孫に政治家の片山さつきがいる。同郷の前島密と親交があった。 越後国頸城郡青海村(後の新潟県西頸城郡青海町→糸魚川市)の青海神社の宮司銀林玄類の息子として生まれる。江戸で医学、詩文を学んだ。戊辰戦争では新政府側の居之隊に属して転戦した。 慶応4年(1868年)8月、新政府に出仕し民政方御用掛に就任。以後、新潟県少属、同一等警部を歴任。1876年、東京府に転じ、同大属、同戸籍掛長、同学務課長、同建築調査委員、同官報通信主任、同会計主務官代理などを務めた。
高橋 竹之助(たかはし たけのすけ、1842年2月14日(天… 高橋 竹之助(たかはし たけのすけ、1842年2月14日(天保13年1月5日) - 1909年(明治42年)11月7日)は、江戸時代幕末の尊攘運動家。明治時代の教育者、治水家。名は竹之介とも書き、「ちくかい」とも読む。諱は三寅、字は誠仲。変名として北山信や芳賀喜之七がある。号は蘇門。 越後国南蒲原郡中之島村杉之森(現在の新潟県長岡市)の名主の高橋家に次男として生まれる。生家跡には生誕地の碑が建つ。与板の斎藤赤城の塾に学び、20歳で漢学者・鈴木文臺の私塾・長善館に入門した。1863年(文久3年)、西国遊学に出発し、湊川神社の楠木正成の墓前で尊王を誓う。京都で播磨国林田藩の儒学者の河野鉄兜の門下となり、森田節斎や日柳燕石にも学ぶ。
滋野 七郎(しげの しちろう、1836年2月5日(天保6年1… 滋野 七郎(しげの しちろう、1836年2月5日(天保6年12月19日)- 1886年(明治19年)3月16日)は、江戸時代の幕末から明治時代の尊攘運動家、僧侶、神職。 越後国糸魚川寺町に生まれる。18歳のとき、糸魚川藩の祈願所である持明院の院主となった。院は近郷近在の修験院の頭で、天津神社の祭りにはこの院主が先導しなければ巡行ができないほどの格があった。同郷の田村弥平や小川長秋、銀林綱男などと親交を結び、国学を修め、勤皇の大義を論じた。1868年、戊辰戦争が起こると院を捨て、親兵隊の方義隊を組織して官軍のために斥侯を務めた。また京都で暗殺された大村益次郎の襲撃犯を隠匿したとして投獄された。維新後は神職となり、筑波山神社を最初に、天津神社祭祠、弥彦神社の宮司、皇典講究所などを歴任した。
初代 相馬 哲平(そうま てっぺい、1833年6月22日〈天… 初代 相馬 哲平(そうま てっぺい、1833年6月22日〈天保4年5月5日〉 - 1921年〈大正10年〉6月6日)は、日本の政治家・貴族院議員・北海道多額納税者・資産家・実業家・慈善家。函館貯蓄銀行頭取。相馬合名代表社員。族籍は北海道平民。北海道屈指の豪商だった。多くの公共施設や神社仏閣、凶作救済資金などに多額の私財を寄付した。 越後国蒲原郡荒井浜(のち新潟県北蒲原郡乙村大字荒井浜、現胎内市)で、相馬熊次郎の二男として生まれる。生家は木造和船を一艘所有した回漕業と綿屋の兼業で生計を立てていた。家計が豊かでなかったので、少年時代から「何か腕に芸を覚えよう」と考えていた。 文久元年(1861年)、28歳で箱館に移り、岩船屋春蔵宅で奉公(住み込み労働)。
松田 秀次郎(まつだ ひでじろう、1831年(天保2年)- … 松田 秀次郎(まつだ ひでじろう、1831年(天保2年)- 1896年(明治29年)8月30日)は、幕末の尊攘運動家、明治時代の神職。諱は義昌。号は胖仙、良知。 越後国南蒲原郡狭口村(現在の新潟県加茂市)の庄屋である笠原家に生まれた。親戚で安田興野村 (現在の見附市今町)の庄屋である笠原勘之助の養嗣子となった。兄の笠原新吾も活動に参加した。松田姓は笠原氏の遠祖の姓で、尊攘活動で家族に難が及がことを恐れ、この変名を名乗っている。 慶応3年(1867年)杉之村(現在の長岡市中之島町)の名主の高橋竹之助と共に京都に向かった。朝廷に参内し、北越の鎮定と御親兵の取り立てを建白した。松田は帰郷したが、高橋は京に止まり、北陸道鎮撫使の公家・高倉永祜から「同志を糾合し先鋒たるべし」との沙汰書を明治元年(1868年)1月18日に受け取り帰郷した。同年2月中旬、越後国三島郡坂谷村(現在の長岡市和島村)の池浦広太郎の宅に高橋をはじめ、新発田藩領中之島組安田興野村名主松田秀次郎、中之島村の医師・二階堂保則、糸魚川藩領魚沼郡並柳村(現在の魚沼市広神村)の大割元である関谷孫左衛門などが集まった。
長谷川 鉄之進(はせがわ てつのしん、1822年(文政5年)… 長谷川 鉄之進(はせがわ てつのしん、1822年(文政5年) - 1871年12月14日(明治4年11月3日))は、幕末の勤皇家、志士。名は世傑、字は公輿、号は強庵。1907年(明治40年)贈従四位。 越後長岡藩粟生津村出身。家は代々庄屋であった。15歳のとき私塾長善館に入門。26歳で江戸に遊学し、朝川善庵に師事する。ペリー来航後は尊皇攘夷を唱え志士活動に身を投じ、各地を巡る。讃岐では小橋安蔵や日柳燕石と親交を結ぶ。攘夷実行の動きに呼応して京都に上るが、文久3年(1863年)の七卿落ちに伴い長州藩へ向かう。「忠正公勤王事績」によると、長谷川と大楽源太郎が佐久間象山の殺害を久坂玄瑞に提案したところ却下されたことが長谷川の日記に書かれているという。
西脇 国三郎(にしわき くにさぶろう、安政2年 - 明治29… 西脇 国三郎(にしわき くにさぶろう、安政2年 - 明治29年(1896年)2月7日)は、明治時代の日本の実業家、社会事業家、地方政治家。号は雲林。 越後国小千谷(現・新潟県小千谷市)出身。 明治14年(1881年)小千谷銀行の前身となる金融会社が設立され、頭取に就任した。その後、小千谷電信局の設立や信濃川旭橋の架橋に資金を提供した。 明治24年(1891年)、小千谷町長となる。明治25年(1892年)に両毛鉄道社長となった。そのほか、第四国立銀行取締役などを務めた。 長男の西脇済三郎は実業家として活動、小千谷市の名誉市民に選ばれている。 詩人の西脇順三郎は縁戚に当たる。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。