安田 敏雄(やすだ としお、1909年(明治42年)8月20… 安田 敏雄(やすだ としお、1909年(明治42年)8月20日 - 1977年(昭和52年)9月27日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員(1期)。 山梨県南都留郡谷村町下谷(現都留市)で生まれる。1927年(昭和2年)都留中学校(現山梨県立都留高等学校)を卒業した。 谷村町町営電気部(のち東京電燈に合併)に入所。戦後、労働運動に加わり、関東配電労働組合大月分会委員長、南都留労協委員長、東京電力労働組合山梨県支部常任執行委員などを務めた。また社会運動研究会「黎人荘」を設立して主幹に就任。 政界では、社会大衆党に入党。1947年(昭和22年)山梨県議会議員に選出され2期在任し、同副議長を務めた。
横内 要(よこうち かなめ、1908年〈明治41年〉5月25… 横内 要(よこうち かなめ、1908年〈明治41年〉5月25日 - 1989年〈平成元年〉 4月30日)は、日本の政治家。山梨県韮崎市長(4期)。位階は正五位。山梨県知事の横内正明と元韮崎市長の横内公明の父。 山梨県北巨摩郡韮崎町(現:韮崎市)で生まれた。1927年甲府市立商業学校(現・甲府市立甲府商業高等学校)卒。1937年北巨摩郡竜岡村会議員に当選。1955年山梨県議会議長に当選。県議会議長も務めた。1962年韮崎市長に当選。市長を4期16年務め、1977年に自治大臣表彰を受ける。翌1978年に韮崎市長を退任。退任後、市から名誉市民を贈られた。1989年死去。死没日付をもって正五位に叙された。
小林 信一(こばやし しんいち、1908年(明治41年)1月… 小林 信一(こばやし しんいち、1908年(明治41年)1月27日 - 1983年(昭和58年)8月15日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。衆議院議員。 山梨県東山梨郡松里村上井尻(塩山町、塩山市を経て現甲州市塩山上井尻)出身。日川中学校(現山梨県立日川高等学校)を経て、1926年(大正15年)山梨県師範学校第2部を卒業した。 南都留郡盛里小学校訓導、旭尋常高等小学校訓導、山梨国民学校教頭、峡東青年学校長などを歴任し、1947年(昭和22年)松里中学校長に就任。1948年(昭和23年)山梨県教職員組合執行委員長となり、山梨県連合教育会副会長も務めた。 1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙に山梨県全県区から無所属で出馬して当選。
桑原福保(くわばら ふくほ、1907年(明治40年)11月4… 桑原福保(くわばら ふくほ、1907年(明治40年)11月4日 - 1963年(昭和38年)7月18日)は、日本の洋画家。家族や日常風景を題材とした写実的な作品を多く残す。 山梨県東八代郡境川村寺尾(笛吹市)に生まれる。父は神主の腎蔵、母は志ん。桑原家には四男三女があり、福保は長男。幼少期から洋画を志し、油彩画を手がける。 1927年(昭和2年)3月に山梨県師範学校(山梨大学)本科第一部を、翌1928年(昭和3年)3月に山梨県師範学校専攻科を卒業後、同年4月から山梨県中巨摩郡田之岡村(南アルプス市)の八田尋常小学校に美術教師として勤務する傍ら制作活動を行う。同年12月10日には母の志んが死去。 大正期から昭和初期にかけて、中央画壇ではフォービズムの影響を受けた画風や日本的な油彩画、写実などの画風や前衛美術運動が活発化しており、山梨においても赤蓼会が甲府で展覧会を開催し、土屋義郎らが中心となり岸田劉生をはじめとする草土社の画風に影響された写実表現を展開していた。
埴原 一亟(はにはら いちじょう、1907年10月5日 - … 埴原 一亟(はにはら いちじょう、1907年10月5日 - 1979年12月31日)は、日本の小説家。山梨県出身。 早稲田大学露文科中退。戦前三度の芥川賞候補に選ばれるが、いずれも受賞を逃す。 1907年(明治40年)10月5日、山梨県北巨摩群白州町に生まれる。同町の出身者には山口素堂がいる。生家は宿場本陣の家柄であるが、1912年(大正元年)春、一家そろって上野車坂町に移る。また、大正期に下級官吏であった埴原の父は49歳でこの世を去っている(『文芸復興』誌上に「沈香も焚かず」の題で小説化している)。 早稲田大学露文科を中退後、銀座松屋に勤めながら執筆するが、左翼的との理由で解雇。1932年(昭和7年)、長編『蒼白きインテリ』を刊行(後、発禁)。
小林 甲子郎(こばやし こうしろう、1907年(明治40年)… 小林 甲子郎(こばやし こうしろう、1907年(明治40年)4月7日 - 1989年(平成元年)6月27日)は、昭和期の実業家。京王帝都電鉄(現・京王電鉄)代表取締役社長(第3代)。 山梨県初狩村(現大月市)において、酒造業を営む小林亀麿、ふくの二男として生まれる。二男であるが、兄が早逝したので実質的には長男として育つ。 父亀麿は、初狩村の村長や、北都留郡議会、山梨県議会で議員をつとめ、都留電燈会社(後に東京電力に統合)の社長をつとめた地元の実力者であった。 小林は、山梨県立都留中学校(現・山梨県立都留高等学校)を経て、1931年、慶應義塾大学法学部政治学科を卒業し、甲州財閥の縁で、東武鉄道に入社した。
赤尾 好夫(あかお よしお、1907年3月31日 – 198… 赤尾 好夫(あかお よしお、1907年3月31日 – 1985年9月11日)は山梨県東八代郡英村(現笛吹市石和町)出身の出版人、放送人である。
小林 宏治(こばやし こうじ、1907年 <明治40年> 2… 小林 宏治(こばやし こうじ、1907年 <明治40年> 2月17日 - 1996年 <平成8年> 11月30日)は、日本の実業家。元日本電気(NEC)社長、会長。位階は正三位。 山梨県大月市出身。1925年に山梨県立都留中学校(現山梨県立都留高等学校)を卒業した後、旧制松本高校理科甲類、東京帝国大学工学部電気工学科を卒業し、1929年に日本電気に入社する。常務、専務、副社長を経て、1964年社長となる。小林が社長の時代に、NECは通信とコンピュータ、半導体を主軸とした総合電器メーカーへと発展し、「NEC中興の祖」と呼ばれた。1976年会長に就任。父親、藤本氏から小林氏に入婿(本姓 藤本氏)[要出典]。
鷹野 孝徳(たかの たかのり、1907年2月15日 - 19… 鷹野 孝徳(たかの たかのり、1907年2月15日 - 1997年5月8日 )は、日本の経営者、銀行家。鹿児島銀行頭取を務めた。 山梨県甲府市出身。1928年に長崎高等商業学校を卒業し、同年に日本銀行に入行した。1959年11月に鹿児島銀行に転じ、副頭取に就任し、1960年5月には頭取に昇格した。1979年12月に会長を経て、1986年6月には相談役に就任。 1970年10月に藍綬褒章を受章し、1977年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1997年5月8日、脳梗塞のために死去。90歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
遠山正瑛(とおやま せいえい、1906年12月14日 - 2… 遠山正瑛(とおやま せいえい、1906年12月14日 - 2004年2月27日)は、日本の農学者・園芸学者。鳥取大学名誉教授。中国内モンゴル自治区のクブチ砂漠の約2万ヘクタールの砂漠の緑化に成功し、その取り組みが高く評価されている。 1906年12月14日、山梨県南都留郡瑞穂村新倉(後の旧下吉田町新倉、現・富士吉田市新倉)に生まれる。実家は浄土真宗本願寺派の寺院である大正寺で、6人兄弟の3番目だった。旧制山梨県立日川中学校(現:山梨県立日川高等学校)、旧制第二高等学校を卒業。高校時代に旧制第二高等学校の先輩である、菊池秋雄教授に出会い農学を志す。京都帝国大学農学部農学科に入学。京都大学で卒業後は同大で助手として働いた。
内田 義広(うちだ よしひろ、1906年 - 1988年)は… 内田 義広(うちだ よしひろ、1906年 - 1988年)は、日本の詩人作詞家。 山梨県生まれ。笛吹市石和町出身。教職に就きながら、詩の同人誌「中央山脈」を創刊、『花の群落』『笛吹川の水辺にて』などの詩集も発表している。また山梨県内の校歌作詞にも携わっていた。 高等学校・特別支援学校
米倉 壽仁(よねくら ひさひと、1905年(明治38年)2月… 米倉 壽仁(よねくら ひさひと、1905年(明治38年)2月19日 - 1994年(平成6年)3月18日)は、日本のシュルレアリスムの洋画家、詩人。 山梨県甲府市にて甲陽館米倉旅館を営む両親のもとに、次男として生まれる。 1922年、山梨県立甲府中学校(現山梨県立甲府第一高等学校)を卒業。1923年、名古屋高等商業学校(現名古屋大学)経済学部に入学し、後に日本にシュルレアリスムの紹介をおこなう詩人、山中散生と親交を結ぶ。1926年、名古屋高等商業学校を卒業する。 1928年、伯母が経営する伊藤学園甲府女子商業学校および甲府湯田高等女学校(現甲斐清和高等学校)の教諭となる。1930年、甲府市において辻葦夫、中村宗久、小柳津経広、田中常太郎、小宮山堅次とともに六人社を結成し、第1回展を開く。
土橋 里木 (つちはし りき、明治38年(1905年)1月4… 土橋 里木 (つちはし りき、明治38年(1905年)1月4日) - 平成10年(1998年)11月25日)は、山梨県出身の郷土史家。民俗学、口承文芸研究者。本名は土橋 力。 山梨県西八代郡上九一色村古関(現在の甲府市古関町)に、父「喜一」、母「かん」の長男として生まれる。上九一色尋常小学校を経て、1922年(大正11年)に山梨県立甲府中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)を卒業する。同年、父親が第四代局長を務める上九一色郵便局に勤務する。上九一色郵便局は1874年(明治7年)7月に開局し、里木の曽祖父である土橋助右衛門は初代局長を務めている。 昭和23年(1948年)に里木は五代目の上九一色郵便局長となり、昭和48年(1973年)に退官する。
大木 金次郎(おおき きんじろう、1904年(明治37年)8… 大木 金次郎(おおき きんじろう、1904年(明治37年)8月3日 - 1989年(平成元年)8月3日)は、日本の教育者、経済学者、経済学博士。青山学院大学第11代院長、青山学院理事長。 1904年8月3日、山梨県甲府市に生まれる。1922年3月、甲府商業学校を卒業し、校長の推薦により同年4月に朝鮮銀行に就職する。同年10月、同行大邱支店在勤中にF.H.スミスから洗礼を受け、さらにクリスチャンだった支店長の薦めにより、1925年に青山学院高等学部商科に無試験入学する。1929年3月に卒業した後、同年6月に同学院の留学生として渡米し、アメリカのオハイオ・ウェスリアン大学経済学部に留学し、その卒業後さらにコロンビア大学大学院で経済政策を専攻してマスター・オブ・アーツの学位を取得する。
菅野 義丸(かんの よしまる、1904年〈明治37年〉6月1… 菅野 義丸(かんの よしまる、1904年〈明治37年〉6月14日 - 1979年〈昭和54年〉5月7日)は、日本の鉄道官僚、実業家。内閣官房副長官、国際電信電話社長。旧姓は長田。 山梨県東八代郡上曽根村(現甲府市)の長田家に生まれ、その後、菅野家に婿入りして本籍を福島県に移す。山梨県立甲府中学校(現山梨県立甲府第一高等学校)を経て、検定試験に合格して、1931年3月、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。1930年10月、高等試験行政科試験に合格。1931年、鉄道省に入省し仙台鉄道局書記となる。 以後、鉄道省事務官、鉄道局副参事、国際観光局事務官、大阪鉄道局運輸部長、同業務部長、運輸省大臣官房文書課長、日本国有鉄道職員局長などを歴任。
三神 美和(みかみ みわ、1904年3月30日 - 2010… 三神 美和(みかみ みわ、1904年3月30日 - 2010年12月21日)は、日本の医師、東京女子医科大学名誉教授・相談役。山梨県甲府市出身。 山梨県立高等女学校(現・山梨県立甲府西高等学校)を経て、1924年に東京女子医学専門学校(現・東京女子医科大学)を卒業。1940年に「不飽和脂肪酸の動物栄養に及ぼす影響について」で慶應義塾大学より医学博士の学位を取得。1951年より東京女子医科大学教授、同大学理事。1965年からは東京女子医科大学病院に勤め、教授職のかたわら病院長職も務めた。 東京女子医科大学を退職後は名誉教授となり、同大学医学部同窓会である至誠会が運営する至誠会第二病院の院長に就任。
大森 曹玄(おおもり そうげん、1904年〈明治37年〉3月… 大森 曹玄(おおもり そうげん、1904年〈明治37年〉3月10日 - 1994年〈平成6年〉8月18日)は、臨済宗の禅僧。また、直心影流剣術第15代・山田次朗吉の弟子でもあり、直心影流剣術の「法定」の指導も行った。山岡鉄舟ゆかりの高歩院の住職を務め、山岡鉄舟についての著書もある。 この項目は、宗教家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 宗教/ウィキプロジェクト 宗教)。 この項目は、仏教に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 仏教/ウィキプロジェクト 仏教)。
水上 達三(みずかみ たつぞう、1903年〈明治36年〉10… 水上 達三(みずかみ たつぞう、1903年〈明治36年〉10月15日 - 1989年〈平成元年〉6月16日)は、日本の実業家。 山梨県北巨摩郡清哲村字青木(現・韮崎市)に農業水上勘三郎・千鶴夫妻の五男として生まれる。水上家は江戸時代、庄屋を務めた家系という。国文学者の清水泰は実兄。 旧制甲府中学校(現山梨県立甲府第一高等学校)を経て、1928年東京商科大学(現一橋大学)卒。大学の同期には三井物産副社長や東レ副社長等を務めた町田栄次郎、三菱地所社長を務めた伊藤達二、松下電器理事を務めた乗松健二、第一電工社長等を務めた松原美義がいる。 1928年三井物産入社。高崎派出所駐在員を命ぜられ、以後6年間を同地で過ごす。
前嶋 信次(まえじま しんじ、1903年7月20日 - 19… 前嶋 信次(まえじま しんじ、1903年7月20日 - 1983年6月3日)は、日本のイスラム学者、東洋史家、東洋学者。慶應義塾大学名誉教授。 1903年、山梨県笛吹市八代町に生まれた。山梨県立日川中学校、東京外国語学校仏語科を経て、東京帝国大学文学部東洋史学科に進んだ。当時は日本ではほとんど研究する者がなかったイスラム史を志し、アラビア語を学んだ。1928年に同大学を卒業。 卒業後は、台北帝国大学助手や台南州立台南第一中学校教諭を務めた。1940年、南満洲鉄道東亜経済調査局に勤勤。このことで厖大なイスラム文献を自由に手に取り研究する機会を得た。 1953年、学位論文『東西交渉史上におけるイスラム教徒勢力の消長に関する研究』を慶應義塾大学に提出して文学博士号を取得。
功力 金二郎(くぬぎ きんじろう、1903年2月20日 - … 功力 金二郎(くぬぎ きんじろう、1903年2月20日 - 1975年12月19日)は、日本の数学者。専門は集合論、位相空間論、関数論で、特に複素関数論。 山梨県韮崎市神山町武田出身。旧制甲府中学、松本高等学校 (旧制)を経て、1926年東京帝国大学理学部数学科卒業、旧制東京高等学校教授となる。1927年に北海道帝国大学への1930年理学部設置が決まり、数学関係の創立委員となった師の吉江琢児の指名により教授候補者の1人として内定したのは東京帝国大学卒業後1年余であった。 北海道帝国大学理学部数学科開講までの準備期間3年の内、教授候補者は約2年間を海外留学することとなっており、1928年3月よりフランスに留学、パリ大学のモーリス・ルネ・フレシェに師事し、Docteur ès Science(フランス政府理学博士号)を取得、1930年9月に帰国。
金子 文六(かねこ ぶんろく、1902年9月6日 - 199… 金子 文六(かねこ ぶんろく、1902年9月6日 - 1991年5月25日)は、日本の法学者・元裁判官・元外交官。専門は、民事手続法(民事訴訟法・民事執行法・民事保全法)。法学博士(中央大学)。中央大学名誉教授。 山梨県甲府市出身。山梨県立日川中学校(現・山梨県立日川高等学校)卒業。1926年高等文官試験司法科合格。1927年中央大学法学部卒業。司法官試補。1928年東京地方裁判所判事に就任。その後、福島地方裁判所判事、仙台地方裁判所判事、横浜地方裁判所判事を経て、1936年中華民国南京日本総領事館領事に就任。1942年中華民国天津日本総領事館領事。1946年東京控訴院判事。1948年中央大学法学部教授。
太田 一郎(おおた いちろう、1902年6月6日 - 199… 太田 一郎(おおた いちろう、1902年6月6日 - 1996年1月20日)は、日本の外交官。位階は正三位。 外務省総務局長、外務事務次官を経て、駐タイ兼ラオス特命全権大使、駐イタリア特命全権大使兼駐チュニジア特命全権公使等を務めた。 山梨県甲府市生まれ。1922年第五高等学校文科甲類卒業。1924年(大正13年)高等試験外交科試験合格。同年東京帝国大学法学部政治学科を中退し、外務省在外研究員として中華民国に留学。1927年(昭和2年)外交官補任官、中華民国在勤、叙従七位。1928年英国在勤。 在南京副領事を経て、1932年(昭和7年)在上海副領事。同年在中華民国公使館三等書記官。1937年(昭和12年)在ロスアンゼルス領事、日本赤十字社ロスアンゼルス特別委員長。
鳴山 草平(なるやま そうへい、1902年(明治35年)5月… 鳴山 草平(なるやま そうへい、1902年(明治35年)5月30日 - 1972年(昭和47年)3月7日)は、日本の小説家。本名は前田好照。昭和初期に時代小説を数多く手がけるほか、自身の教師体験をもとにしたを「きんぴら先生」シリーズで知られる。
小川 正子(おがわ まさこ、1902年3月26日 - 194… 小川 正子(おがわ まさこ、1902年3月26日 - 1943年4月29日)は、日本の医師。手記『小島の春』で知られる。 1932年、希望して岡山県の長島愛生園に勤務、光田健輔の指導を受ける。ハンセン病在宅患者の収容に赴き、その状況を『小島の春』に著した。同書はその文学的価値が高く評価されて映画化され、「小島の春現象」を産んだが、一方でハンセン病に対する偏見を強化し、無らい県運動に加担したとする批判もある[誰によって?]。 ※以下の文中では、当人存命当時の慣例に沿って、ハンセン病について「らい」と表記する場合がある。 山梨県東山梨郡春日居村(現在の笛吹市)に生まれる。1918年に甲府高等女学校を卒業した。
辻 葦夫(つじ あしお、1902年(明治35年) - 198… 辻 葦夫(つじ あしお、1902年(明治35年) - 1980年(昭和55年)11月13日)は、日本の洋画家。「葦夫」は筆名で、本名は芳雄。 山梨県甲府市に生まれる。山梨県立甲府中学校(山梨県立甲府第一高等学校)を卒業後、上京して慶應義塾大学に入学する。大学時代から油絵をはじめ、1929年(昭和4年)には福沢一郎に師事する。翌年には地元で米倉壽仁らとシュルレアリスム絵画グループである「六人社」を結成する。また、1937年(昭和12年)に設立された山梨美術協会の結成にも参加し、1941年(昭和16年)・翌42年(昭和17年)には副委員長を務める。 1944年(昭和19年)には独立美術協会で《秋》、《静物》が入選し、同年にはサロン・ド・ジュワン会員となる。
妻木 松吉(つまき まつきち、1901年〈明治34年〉12月… 妻木 松吉(つまき まつきち、1901年〈明治34年〉12月13日 - 1989年〈平成元年〉1月29日)は、日本の昭和時代の左官。強盗強姦犯。防犯講師。大正末年から1929年(昭和4年)まで帝都東京市で犯行を重ね、立ち去り際に被害者に防犯の注意をしたことから「説教強盗」と呼ばれ、世間を大いに賑わせた。服役後は自らの体験を元に各地で防犯講演を行った。 1901年(明治34年)、山梨県甲府市橘町(現・甲府市丸の内)の甲府監獄(現・甲府刑務所)に生まれる。母の妻木たか(本名妻木ウメ)は山梨県西八代郡市川大門町(現・市川三郷町)の野守(非人)の娘で、製紙会社の工員として働いていたが、同僚の河西徳太郎と知り合って同棲するようになり、妊娠8~9ヶ月の頃に窃盗罪で逮捕され、懲役3月の実刑判決を受け、甲府監獄で松吉を私生児として出産した。
濱 健夫(はま たけお、1901年(明治34年)11月26日… 濱 健夫(はま たけお、1901年(明治34年)11月26日 - 1984年(昭和59年)4月13日)は、日本の植物学者、細菌学者。専門は海洋や温泉に含まれる硫黄細菌の研究。妻は宗教家の金森通倫の五女・壽々枝。義弟(妹の夫)は元八幡市長の守田道隆。 長野県諏訪郡中洲村(現諏訪市)出身。東京高等師範学校附属小学校、旧制甲府中学、旧制一高を経て、1925年東京帝国大学理学部植物学科を卒業し、広島高等師範学校教授。1943年日本大学教授、理学博士号取得、勲四等瑞宝章受章。1949年明治学院大学教授。 1916年、日本基督教会山梨教会で金井為一郎から洗礼を受けた。聖書中に出てくる植物に関する研究考察や、キリスト教信仰と自然科学との関係を論じた論文も多い。
今井 福治郎(いまい ふくじろう、1901年7月2日 - 1… 今井 福治郎(いまい ふくじろう、1901年7月2日 - 1968年1月23日)は、歌人、国文学者。 山梨県甲府市生まれ。号・白水。1927年ころから作歌。1935年に國學院大學文学部国文科を卒業。1961年「万葉集の地名と伝承」で國學院大學文学博士。和洋女子大学教授。
川村 茂久(かわむら しげひさ、1901年(明治34年)3月… 川村 茂久(かわむら しげひさ、1901年(明治34年)3月21日 - 1980年(昭和55年)8月6日)は、日本の外交官。甲府市長。 山梨県東山梨郡七里村(現在の甲州市)で父「広瀬久政」、母「さと」の四男として生まれる。七里尋常小学校、旧制日川中学校、第三高等学校を経て東京帝国大学法学部を卒業し、高等文官(外交科)試験に合格後、大正13年(1924年)に外務省に入省、大正15年(1926年)にワシントン日本大使館、昭和2年(1927年)にロサンゼルス日本領事館、昭和3年(1928年)外務省アジア局、昭和8年(1933年)スイス・ベルン日本公使館、昭和9年(1934年)外務省調査部、昭和14年(1939年)に興亜院調査官を務め、昭和22年(1947年)に行われた山梨県知事選挙に出馬するが落選。
大村 勇(おおむら いさむ、1901年 - 1991年)は日… 大村 勇(おおむら いさむ、1901年 - 1991年)は日本の牧師、日本基督教団第6代総会議長。日本キリスト教協議会の議長も務めた、エキュメニカル派の牧師。日本基督教団阿佐ヶ谷教会の牧師を務める。
望月 百合子(もちづき ゆりこ、1900年(明治33年)9月… 望月 百合子(もちづき ゆりこ、1900年(明治33年)9月5日 - 2001年(平成13年)6月9日)は、日本の評論家。
進藤 章(しんどう あきら、1900年(明治33年)4月12… 進藤 章(しんどう あきら、1900年(明治33年)4月12日 - 1976年(昭和51年)5月18日)は、日本の画家、油彩画、日本画などを描く。 1900年(明治33年)4月12日、父善次郎と母たいの7人兄弟の長男として山梨県北都留郡小淵沢村上久保(現・山梨県北杜市小淵沢町上久保)に生まれる。小淵沢小学校、大泉高等科3年を経て山梨師範学校(現・山梨大学)に学ぶ。 卒業後、日野春、小淵沢、甲府富士川小学校に訓導として勤め、当時文壇を風靡した武者小路実篤らの白樺運動の影響を受け、地方文化の活動、ことに画道に専心した。また山梨師範学校の先輩でもあった土屋義郎氏の紹介により岸田劉生の草土社に属し、木村荘八の指導を受けた。
野口 二郎(のぐち じろう、1900年(明治33年)3月3日… 野口 二郎(のぐち じろう、1900年(明治33年)3月3日) - 1976年(昭和51年)1月18日)は、日本の実業家、政治家、郷土史研究家。甲府市長(官選第18代)、山梨日日新聞社社長、山梨放送社長。 甲府市百石町に、父・英夫、母・いしの二男として生まれる。1906年(明治39年)4月に山梨県尋常師範学校付属小学校に入学、1917年(大正6年)3月に山梨県立甲府中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)、1920年(大正9年)3月に第八高等学校を卒業後、同年4月に東京帝国大学法学部に入学。1922年(大正11年)2月20日に山梨日日新聞社社長であった父親の野口英夫が逝去し、同月21日に学生のまま同新聞社の社長に就任。
鈴木 弼美(すずき すけよし、1899年〈明治32年〉11月… 鈴木 弼美(すずき すけよし、1899年〈明治32年〉11月21日 - 1990年〈平成2年〉5月26日)は、日本の教育者。内村鑑三の弟子で、基督教独立学園高等学校の創設者。初代校長。 山梨県北都留郡七保村大字葛野(現・大月市)で、800年続いた甲斐絹問屋・鈴木商店の店主鈴木治作の次男として生まれる。 1920年、東京帝国大学理学部物理学科に入学。1924年1月27日、東京府柏木の内村鑑三邸内にある今井館で行われた聖書研究会に出席。6月頃、内村が柏木集会に参加していた青年に山形県小国郷と岩手県の北上山地への伝道を呼びかける。この2ヵ所は、内村がアメリカに留学していた頃に日本地図を広げて、将来伝道すべき所として選んだ、人跡稀な34ヵ所の場所の一つであった。
国会図書館(学術機関ポジトリデータベース) 杉平 顗智(すぎ… 国会図書館(学術機関ポジトリデータベース) 杉平 顗智(すぎひら しずとし、1899年(明治32年)10月5日 - 1984年(昭和59年)5月1日) 1899年(明治32年)10月5日 山梨県東山梨郡等々力村1582番地にて出生、父は了英、母はます。1984年(昭和59年)5月1日 山梨県東八代郡一宮町の病院にて85歳で死去。 京都大谷大学にて英文学など教える(英文学) 名古屋同朋大学(英文学) 1899年(明治32年)、山梨県勝沼町真宗大谷派仙光寺にて出生。 大正10年(真宗大谷大学専修科1年)の時 初秋 鈴木大拙博士に師事 1923年(大正12年)、大谷大学卒業。 1927年(昭和2年)、東京大学文学部英文科卒業。
髙野 孫左衛門(たかの まござえもん、明治32年(1899年… 髙野 孫左衛門(たかの まござえもん、明治32年(1899年)5月2日 - 昭和43年(1968年)2月25日)は、山梨県出身の実業家、政治家。山梨県会議員、衆議院議員を歴任した。幼名は髙野 毅(たかの つよし)。 山梨県甲府市柳町(現在の甲府市中央4丁目)に、父「孫左衛門(第15代目)」、母「とも」の三男として生まれる。山梨師範学校付属小学校を経て大正5年(1916年)3月に市立甲府商業学校(現在の甲府市立甲府商業高等学校)を卒業。 早逝した兄「孫親」の妻、義姉の「喜代」と大正11年(1922年)5月に結婚し、油と塩を商いする甲府有数の老舗である家業の吉字屋を継ぐ。大正12年(1923年)4月に単身上京して早稲田大学政治経済学科に入学したが、同年9月1日に発生した関東大震災のため帰郷し、大正14年(1925年)1月に第16代目高野孫左衛門を襲名した。
権藤 花代(ごんどう はなよ、1899年(明治32年)4月1… 権藤 花代(ごんどう はなよ、1899年(明治32年)4月13日 - 1961年(昭和36年)11月3日)は、唱歌「たなばたさま」作詞者・童謡詩人。本名は権藤はなよ。結婚前は伊藤はなよの旧姓で作品を発表、結婚後はペンネーム権藤はな子を使っていた。2008年頃までは、「権藤花代」という漢字名が使用されていたが、その後は本名の「権藤はなよ」が一般的になっている。実兄の伊藤生更はアララギ派の歌人であり、短歌結社「美知思波」を創立している。 1899年(明治32年)山梨県北巨摩郡穴山村(現・韮崎市穴山町)に、父・伊藤友重(ともじゅう)、母・やよの次女として生まれる。 1919年(大正8年)山梨県師範学校(現・山梨大学)を卒業。
小沢 儀明(おざわ よしあき、1899年3月31日 - 19… 小沢 儀明(おざわ よしあき、1899年3月31日 - 1929年12月28日)は地質学者、古生物学者。東京帝大助教授。 1899年、山梨県東山梨郡日下部村の大地主の家に生まれた。1916年、日川中学校を卒業し、第一高等学校に入学。中学時代より地学に関心があり、高校では科学会に所属して坪井誠太郎と共に活動した。高校1年次にすでに東京地質学会創立第20周年記念総会に出席した記録が残っている。1920年、東京帝国大学地質学科に入学。トマス・ヘンリー・ハクスリーの『白亜の一片(On a piece of chalk)』を読んで、地史学・古生物学の道を志したという。在学中より第二講座の横山又次郎の指導を受け、山口県秋吉台周辺の化石層序を研究した。
小林 中(こばやし あたる、1899年〈明治32年〉2月17… 小林 中(こばやし あたる、1899年〈明治32年〉2月17日 - 1981年〈昭和56年〉10月28日)は、日本の実業家。初代日本開発銀行(現・日本政策投資銀行)総裁、日本航空会長、東急電鉄社長、富国生命保険社長などを歴任。戦後の財界において影の財界総理と称されるほどの実力者であった。愛称はコバチュー。初代石和町名誉町民。位階は正三位。勲等は勲一等旭日大綬章。 1899年(明治32年)2月17日、山梨県中巨摩郡源村(現・南アルプス市)の村長を務めた矢崎貢と、小林伝右衛門の三女ふくの間に、次男として出生。伝右衛門の要請で両親とともに石和町に移り、同年12月に伝右衛門の養子となった。1901年(明治34年)9月には小林家の家督を相続した。
相田 隆太郎(そうだ りゅうたろう、1899年(明治32年)… 相田 隆太郎(そうだ りゅうたろう、1899年(明治32年) - 1987年(昭和62年))は、日本の評論家。本名は「茂隆」。 山梨県北巨摩郡明野村(現・北杜市明野町)に生まれる。生家は農業を営む。後年の1963年(昭和38年)10月に『農民文学』第7号に発表した「加藤武雄を偲ぶ」によれば、隆太郎は15歳の時に加藤武雄『土を離れて』を読み感銘を受け、後年の評論活動に影響を与えたという。 隆太郎は菊池寛・加藤武雄らと交流があり、『新潮』『文芸』などの中央の文芸誌に評論を発表している。加藤武雄らが「創作研究会」を開催すると、相田は石原文雄・鑓田研一を誘いこれに参加する。 1922年(大正11年)8月には『早稲田文学』に評論「現文壇の農民小説を論じて『吾が農民』を想ふ」を発表し、注目される。
名取 忠彦(なとり ただひこ、1898年(明治31年)11月… 名取 忠彦(なとり ただひこ、1898年(明治31年)11月26日 - 1977年(昭和52年)2月20日)は、日本の経営者。戦後の山梨中央銀行頭取。 山梨県東山梨郡七里村(現在の甲州市)に広瀬久政の三男として生まれ、繁と命名される。山梨県立日川中学校(現在の山梨県立日川高等学校)、第一高等学校を経て大正11年(1922年)に東京帝国大学経済学部を卒業し、三菱銀行に入行し神戸支店に勤務したが、胸を患い退職。その後、療養しながら東京帝国大学の大学院に在籍し工場経営学を専攻し、東京高等商船学校(現在の東京海洋大学)の講師を務めた。 その間、甲府市長、貴族院議員を務めた甲府市山田町(ようだまち)の商家名取忠愛の二女淑子と大正13年(1924年)11月に結婚し、名取繁と名乗ることとなった。
岩内 とみゑ(いわうち とみえ、1898年(明治31年)10… 岩内 とみゑ(いわうち とみえ、1898年(明治31年)10月15日 - 1986年(昭和61年)3月26日)は、日本の社会運動家である。旧姓は和田。夫は同じく社会活動家の岩内善作。 山梨県東山梨郡加納岩村(現在の山梨市)に生まれ、幼年期に小学校を中退し製糸工場の女工として活動する。1917年(大正6年)に単身上京し、亀戸にあったセルロイド工場の女工として活動した。同工場に勤務中にキリスト教に受洗し、1921年(大正10年)には日暮里で同教の社会事業団体であった愛隣団の診療所の看護婦として活動を始める。 1927年(昭和2年)には日本労働党傘下の全国婦人同盟の結成に携わり、その幹事も務めた。また後に社会大衆婦人同盟の幹事も務め、中間派の無産婦人運動の指導に尽力した。
小野 光洋(おの こうよう、1898年4月4日 - 1965… 小野 光洋(おの こうよう、1898年4月4日 - 1965年11月19日)は、日蓮宗僧侶、参議院議員(1期)。文教大学創立者。 山梨県東八代郡富士見村(現・笛吹市)東油の妙油寺住職小野日祥の息子として生まれる。幼名はみのる。 1918年、旧制甲府中学卒業後、日蓮宗大学補習科入学、また同時期に得度。1924年、日蓮宗大学本科を卒業後、翌年、同大学が立正大学となったため再度文学部哲学科に入学。1927年、馬田行啓と共に立正学園を設立。戦後1946年には同学園理事長に就任するほか、学園の各種学校の校長にもなった。1953年には新設された立正学園女子短期大学の学長に就任。また1947年には日本私立中学高等学校連合会理事長にもなった。
戸田 帯刀(とだ たてわき、1898年3月23日 - 194… 戸田 帯刀(とだ たてわき、1898年3月23日 - 1945年8月18日)は、日本のカトリック聖職者。洗礼名はラウレンチオ。カトリック札幌使徒座代理および横浜教区長を務め、終戦直後の8月18日に射殺された。 1898年(明治31年)3月23日、山梨県東山梨郡西保村に生まれる。1923年(大正12年)11月にローマ・ウルバノ大学へ留学し、1927年(昭和2年)12月17日に司祭に叙階された。 1940年(昭和15年)10月11日に札幌使徒座代理に任命され、太平洋戦争中の1942年(昭和17年)3月、「米英を相手に戦争したらどうなるか分からない」と同僚神父に話したとして旧陸軍刑法違反で逮捕された。
木々 高太郎(きぎ たかたろう、1897年〈明治30年〉5月… 木々 高太郎(きぎ たかたろう、1897年〈明治30年〉5月6日 - 1969年〈昭和44年〉10月31日)は、日本の大脳生理学者・小説家・詩人。医学博士。本名は林 髞(はやし たかし)。山梨県出身。 1937年、直木賞受賞。主に推理小説・探偵小説で知られたほか、詩歌や評論も手掛けた。イワン・パブロフ門下の生理学者でもあり、母校の慶應義塾大学医学部で教鞭を執った。戦後はアメリカの穀物メジャーの支援を受けて小麦食を推奨し、「頭脳パン」、「米食低脳論」を提唱した。長男は医学博士で精神衛生学者の林峻一郎。 山梨県西山梨郡山城村下鍛冶屋(現・甲府市下鍛冶屋町)に生まれる。生家は医家。甲府市湯田町へ移り、甲府市立湯田尋常小学校へ通う。
平井 昌平(1897年〈明治30年〉2月16日 - 1957… 平井 昌平(1897年〈明治30年〉2月16日 - 1957年〈昭和29年〉4月3日)は、日本の海軍軍人。海軍兵学校46期生。最終階級は海軍少将。終戦時は呉海軍工廠総務部長。 1897年(明治30年)2月16日に山梨県北都留郡広里村(現:大月市大月町)で、父・保太郎、母・いちの四男として生まれる。 真木尋常小学校、広里高等小学校を卒業後、長兄の薦めもあり、東京に出ていた別の兄を頼って麻布中学へ進学する。麻布中学卒業後は、海軍兵学校へ進学し、1918年(大正7年)に46期生として卒業する。 1927年(昭和2年)には井上良馨元帥の副官となる。 1934年(昭和9年)には少佐に昇進しており、軍の特命を受けてアメリカ合衆国へ実情偵察を目的として出張する。
保阪 嘉内(ほさか かない、1896年〈明治29年〉10月1… 保阪 嘉内(ほさか かない、1896年〈明治29年〉10月18日 - 1937年〈昭和12年〉2月8日)は、日本の詩人。宮沢賢治の親友として知られ、賢治の代表作とされる『銀河鉄道の夜』のカムパネルラのモデルとも言われる。 山梨県北巨摩郡駒井村(現:韮崎市)出身。父は郡役所書記であった。韮崎高等小学校から1910年に山梨県立甲府中学校(現:山梨県立甲府第一高等学校)に進む。星の和名に詳しい野尻抱影に英語を教わり、また文芸同人誌に作品を発表していた。中学入学の年にハレー彗星の最接近を観察しスケッチをつけた。 1915年に甲府中学を卒業すると、東北帝国大学札幌農科大学(現:北海道大学)を受験するが不合格となり、翌1916年に盛岡高等農林学校農学科第二部に入学する。
佐竹 次郎(さたけ じろう、1896年7月10日 - 195… 佐竹 次郎(さたけ じろう、1896年7月10日 - 1959年10月21日)は、日本の経営者。 山梨県甲府市出身。1921年に東京帝国大学経済学部を卒業。 南満洲鉄道、富国徴兵保険での勤務、日産生命保険社長を経て、1951年4月から1953年9月までに富国生命保険社長を務め、1953年10月には昭和電工社長に就任。 1959年10月21日自殺により、死去。63歳没。
松沢 一(松澤、まつざわ はじめ、1896年(明治29年)2… 松沢 一(松澤、まつざわ はじめ、1896年(明治29年)2月16日 - 1961年(昭和36年)9月4日)は、昭和期の農民運動家、政治家。衆議院議員。 山梨県東山梨郡春日居村桑戸(春日居町を経て現笛吹市)で生まれる。農業を営む。早くから農民運動に加わった。 1930年(昭和5年)日本農民組合山梨県連合会結成時に青年部理事に就任。以後、会長の平野力三と行動を共にした。しかし社会情勢の変化に伴い、日本国家社会党、さらに皇道会に所属した。 また、春日居村会議員に就任し、さらに1939年(昭和14年)10月、山梨県会議員に選出され、同参事会員、小作戦時特別調停委員、金銭債務戦時特別調停委員、人事戦時特別調停委員、県農地委員、山梨地方森林会議員などを務めた。
桑原 幹根(くわはら みきね、1895年 <明治28年> 8… 桑原 幹根(くわはら みきね、1895年 <明治28年> 8月29日 - 1991年 <平成3年> 4月11日)は、日本の政治家、内務官僚。1946年に官選愛知県知事に任じられ、公職追放された後、公選で当選し、同知事を6期24年にわたって務めた。1987年愛知県名誉県民。勲一等旭日大綬章受章。位階は正三位。 山梨県南都留郡明見村(後に明見町を経て、現・富士吉田市)で養蚕農家の七男として生まれた。兄は大審院判事を務めた桑原龍興。山梨県第一中学校都留分校(現・山梨県立都留高等学校)、旧制第一高等学校から東京帝國大学(現・東京大学)法学部を経て、内務省に入省。1935年、福島県書記官・経済部長、同年に内閣東北振興事務局書記官に就任。