仁科 関夫(にしな せきお、1923年(大正12年)4月10… 仁科 関夫(にしな せきお、1923年(大正12年)4月10日 - 1944年(昭和19年)11月20日)は、日本の海軍軍人。海兵71期。太平洋戦争(大東亜戦争)の末期、人間魚雷「回天」を創案するとともに自らも出撃して戦死した。最終階級は海軍少佐。 1923年(大正12年)4月10日に滋賀県大津市で生まれる。その後大阪府へ転居し、大阪府女子師範附属小学校を卒業後に大阪府立天王寺中学校を四年で修了し、海軍兵学校(71期)へ入学する。地理学や各訓練などに才能を如何なく発揮し、1942年(昭和17年)11月14日に優秀な成績で卒業。当時の海軍兵学校校長は井上成美海軍中将。卒業式には高松宮宣仁親王(軍令部大佐、昭和天皇弟宮)が出席した。
野村 実(野村 實、のむら みのる、1922年〈大正11年〉… 野村 実(野村 實、のむら みのる、1922年〈大正11年〉4月16日 - 2001年〈平成13年〉5月18日)は、日本の海軍軍人、軍事史学者。滋賀県出身。 専門は日本海軍史。防衛大学校教授、名古屋工業大学教授、軍事史学会会長を歴任した。学位は文学博士(慶應義塾大学)。最終階級は海軍大尉。 滋賀県彦根市生。旧制彦根中学校を経て海軍兵学校入校(第71期)。1942年(昭和17年)卒業(次席)。 空母「瑞鶴」、戦艦「武蔵」乗組、軍令部第1部付(作戦記録係)で太平洋戦争を経験、海軍兵学校教官で終戦を迎える。 終戦後は復員庁で極東国際軍事裁判海軍被告人弁護事務を担当。海軍大尉の経歴のため公職追放となる。
岩瀬 勝輔(いわせ かつすけ、1921年(大正10年)8月4… 岩瀬 勝輔(いわせ かつすけ、1921年(大正10年)8月4日 - 1942年(昭和17年)5月31日)は、日本の海軍軍人。特殊潜航艇「甲標的」艇長としてマダガスカル攻撃に参加し、戦死。二階級特進により最終階級は海軍大尉。 香川県綾歌郡山田村出身。税務署職員であった父が勤務していた愛媛県松山市に生まれる。四人兄弟妹の次男であった。岩瀬は父の転勤により、小中学校で三度の転校を経験した。入学した中学は滋賀県立膳所中学で、徳島県立池田中学に転入し、1938年(昭和13年)、中学4年で陸軍士官学校と海軍兵学校に合格した。海兵進学を選択し、1941年(昭和16年)3月に卒業した。岩瀬は海兵69期生で、このクラスは343名の同期生中223名が戦死している。
中村 龍平(なかむら りゅうへい、1916年〈大正5年〉5月… 中村 龍平(なかむら りゅうへい、1916年〈大正5年〉5月20日 - 2008年〈平成20年〉3月29日)は、日本の陸軍軍人及び陸上自衛官。陸軍士官学校卒業(第49期)、陸軍大学校卒業(第56期)。第10代陸上幕僚長、第7代統合幕僚会議議長。 滋賀県出身。農業組合長・中村忠治郎の長男として生まれる。水口中学校(現:滋賀県立水口高等学校)を卒業し、陸士予科を経て陸士本科へ進んだ。1937年(昭和12年)陸士本科(第49期)卒業。1942年(昭和17年)陸大卒業(恩賜組)。関東軍参謀、大本営陸軍部参謀等を務め、陸軍少佐で終戦を迎える。その後、公職追放となる。 1952年(昭和27年)7月、警察予備隊に入隊。
小林 謙五(こばやし けんご、1893年3月22日 - 19… 小林 謙五(こばやし けんご、1893年3月22日 - 1948年4月23日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
上阪 香苗(こうさか かなえ、1892年〈明治25年〉10月… 上阪 香苗(こうさか かなえ、1892年〈明治25年〉10月8日 - 1974年〈昭和49年〉12月10日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。滋賀県大津市出身。 旧制滋賀県立膳所中学校より海軍兵学校第43期入校。当時の海軍兵学校は受験を3度までしか認めておらず、上阪は兵学校の受験に2度失敗し、最後の受験で入校が認められた。海軍砲術学校高等科卒業後は砲術畑を歩んだが、大佐進級後は航空に移った点で、戸塚道太郎海軍中将や同期生の有馬正文海軍中将と似た経歴をたどる。太平洋戦争中は一時的に航空戦隊司令官を務めた以外は、一貫して航空本部補職が続いた。 練習航海で同じ艦に乗組んだ同期生の高木惣吉海軍少将は、死去するまで大親友だった。
山内 正文(やまうち まさふみ、1891年(明治24年)10… 山内 正文(やまうち まさふみ、1891年(明治24年)10月8日 - 1944年(昭和19年)8月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は中将。旧姓・秋山。 滋賀県出身。裁判官・秋山正義の息子として生まれる。膳所中学校を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同期に青木重誠、武藤章、富永恭次、佐藤幸徳、田中新一、山崎保代らがいる。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第60連隊付となる。 1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業。綾部橘樹、有末精三、斎藤義次、小畑信良らが同期。陸軍きっての逸材と評されたが、中学出身であるため傍流とみなされていた[要出典]。1925年(大正14年)3月、歩兵第39連隊中隊長に就任。
菅 晴次(かん はるじ、1891年(明治24年)2月28日 … 菅 晴次(かん はるじ、1891年(明治24年)2月28日 - 1985年(昭和60年)4月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓は石塚。評論家の菅孝行は息子。 滋賀県の没落農家に生まれる。滋賀県立膳所中学校を経て、1913年(大正2年)5月26日、陸軍士官学校(25期)を卒業。士官学校の教官だった菅孝の養子となり石塚姓から改姓する。同年12月25日、陸軍砲兵少尉に任官。1916年(大正5年)11月30日、陸軍砲工学校高等科を首席で卒業し、東京帝国大学工学部造兵学科に派遣された。1920年代後半からフランスの軍需工場に5年派遣されてフランス語を習得する。 1936年(昭和11年)8月1日陸軍砲兵大佐に昇格すると共に陸軍造兵廠東京砲兵工廠精機製造所長に就任、同年12月1日陸軍省兵器局鉄砲課長となり、1939年(昭和14年)3月9日陸軍少将・陸軍省兵器局長兼大本営野戦兵器長官に就任した。
原田 宇一郎(はらだ ういちろう、1890年(明治23年)1… 原田 宇一郎(はらだ ういちろう、1890年(明治23年)10月16日 - 1973年(昭和48年)2月3日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 滋賀県出身。原田宇之助の長男として生れる。膳所中学校卒業後、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第66連隊付となる。1919年(大正8年)11月から翌年10月まで、シベリア出兵に出征。1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を優等で卒業し歩兵第15連隊中隊長に就任した。 1926年(大正15年)12月、陸軍省軍務局付勤務となり、軍務局課員を経て、1928年(昭和3年)8月、歩兵少佐に昇進し歩兵第61連隊付となる。
北野 憲造(きたの けんぞう、1889年(明治22年)8月2… 北野 憲造(きたの けんぞう、1889年(明治22年)8月24日 - 1960年(昭和35年)7月25日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 滋賀県出身。税務署長・北野本次郎の息子として生まれる。彦根中学校、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1910年(明治43年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第38連隊付となる。参謀本部付勤務などを経て、1919年(大正8年)11月、陸軍大学校(31期)を卒業した。 教育総監部付勤務、教育総監部課員、ドイツ駐在、教育総監部課員、歩兵第3連隊大隊長、教育総監部課員、陸軍省人事局課員などを歴任し、1933年(昭和8年)8月、歩兵大佐に昇進し陸士本科生徒隊長となった。
喜多 誠一(きた せいいち、1886年〈明治19年〉12月2… 喜多 誠一(きた せいいち、1886年〈明治19年〉12月20日 - 1947年〈昭和22年〉8月7日)は、日本の陸軍軍人。陸士19期・陸大31期。最終階級は陸軍大将、栄典は正三位[要出典]勲一等功四級。 滋賀県出身。喜多三郎の子として生まれる。滋賀二中(現・滋賀県立膳所高等学校)を経て、1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第36連隊付となる。天津駐屯歩兵隊付などを経て、1919年(大正8年)11月、陸軍大学校(31期)を卒業した。 1920年(大正9年)2月、歩兵第68連隊中隊長となり、参謀本部付勤務、参謀本部員、参謀本部付(支那駐在)、歩兵第19連隊大隊長などを歴任。
加藤 保太郎(かとう やすたろう、明治19年(1886年)9… 加藤 保太郎(かとう やすたろう、明治19年(1886年)9月11日 - 昭和43年(1968年)8月19日)は大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍少将。 滋賀県犬上郡豊郷村四十九院の農家、加藤甚弥・ふさの次男に生まれ、苦学して彦根中学卒業後、陸軍軍人となる。陸士同期に石原莞爾、飯村穣、陸大同期に井出宣時、町尻量基、後宮淳、牟田口廉也らがいる。「先入主に陥らぬこと」を旨とし、一貫して英米との協調路線を説いた。
磯村 年(いそむら とし、明治5年(1872年)9月30日)… 磯村 年(いそむら とし、明治5年(1872年)9月30日) - 1961年(昭和36年)9月12日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。旧姓・平田。 滋賀県士族・平田繁の二男として生まれる。父は加賀大聖寺藩士で、藩主の命により同士石川専輔と共に神戸に、神戸川崎造船所の前身の造船所を開き、藩の造船所奉行となっている。1885年(明治18年)11月に、同藩士で陸軍中佐・磯村惟亮の養嗣子となる。東京府尋常中学、陸軍幼年学校を経て、1893年(明治26年)7月に陸軍士官学校(4期)卒業。翌年3月、砲兵少尉に任官し野戦砲兵第3連隊付となる。1900年(明治33年)12月、陸軍大学校(14期)卒業。 日露戦争時に大本営陸軍部参謀として勤務し、第一次世界大戦における通称・青島攻略戦と呼ばれるドイツの要衝・青島へ独立第18師団高級参謀として出撃。
三須 宗太郎(みす そうたろう、1855年9月16日〈安政2… 三須 宗太郎(みす そうたろう、1855年9月16日〈安政2年8月6日〉- 1921年〈大正10年〉12月24日)は、明治時代の海軍軍人。官位は海軍大将・正三位勲一等功二級男爵。近江国(現:滋賀県)出身。 彦根藩士三須熊次郎の長男として生まれた。藩主井伊直弼がペリー来航に際して江戸湾防衛を担当した際、死を覚悟して事前に「宗観院柳暁覚翁居士」の戒名を手に入れて赴任したことにちなみ、熊次郎は藩主の戒名から最初の一字を頂き、長男を宗太郎と命名した。三須本人も開国に殉じた藩主を尊敬し、元服しても名を改めようとしなかった。 明治4年(1872年)8月、海軍兵学寮に入った。カリキュラムを修了するまでの7年間、兵学寮に留まったが、生徒の多くが薩摩藩や佐賀藩の出身者で、彦根出身の三須には居心地のよい場所ではなかったらしい。
岡見 正美(おかみ まさみ、1852年6月1日(嘉永5年4月… 岡見 正美(おかみ まさみ、1852年6月1日(嘉永5年4月14日) - 1920年(大正9年)11月8日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。 近江彦根藩領犬上郡彦根町(滋賀県犬上郡彦根町を経て現彦根市)出身。士族・岡見安の長男として生まれ、1872年(明治5年)家督を相続する。同年、陸軍歩兵少尉に任じ、台湾守備歩兵第5連隊長、歩兵第17連隊長などを経て、1899年(明治32年)8月、大佐に進む。1902年(明治35年)11月、陸軍少将に進級と同時に予備役に編入するが、日露戦争の開戦により召集を受け1904年(明治37年)2月、留守歩兵第21旅団長に補され、1906年(明治39年)2月、召集解除となった。