佐々木 すぐる(ささき すぐる、本名:佐々木 英、1892年… 佐々木 すぐる(ささき すぐる、本名:佐々木 英、1892年〈明治25年〉4月16日 - 1966年〈昭和41年〉1月13日)は、日本の作曲家。兵庫県高砂市出身。童謡をはじめとする2000曲もの楽曲を作曲し、中でも「月の沙漠」「お山の杉の子」が有名。三男の佐々木行綱は元童謡歌手、声楽家(バス)、音楽評論家、元山形大学教授。 兵庫県印南郡阿弥陀村魚橋(現・高砂市阿弥陀町魚橋)出身。元は士族であり、父親が郡役所に勤務する家庭に育つ。幼い頃に近所の住人から笛を貸してもらったことで、音楽に興味を抱く。しかし、家庭が貧しかったことから学費のことを考え、音楽学校ではなく姫路師範学校(現在の神戸大学の前身の一つ)へと進学。
中部 兼市(なかべ かねいち、1892年2月25日 - 19… 中部 兼市(なかべ かねいち、1892年2月25日 - 1953年3月25日)は、日本の経営者で、プロ野球チーム・大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)の初代オーナーも務めた。 兵庫県明石市出身。中部幾次郎の長男で、弟には中部謙吉、中部利三郎。1924年9月に林兼商店専務を務め、1945年12月に大洋漁業社長に就任。1947年8月に公職追放を受け、いったん辞任し、1950年10月に社長に復帰。 1941年に水産功労者の表彰を受ける。 1953年3月25日在職中に胃潰瘍のために山口県下関市の自宅で死去。61歳没。
川西 竜三(かわにし りょうぞう、1892年(明治25年)2… 川西 竜三(かわにし りょうぞう、1892年(明治25年)2月20日 - 1955年(昭和30年)1月24日)は、日本の実業家。阪神財閥系譜・川西財閥2代目総帥。位階勲等は従五位勲六等。大日本帝国海軍用航空機開発者、川西航空機・川西機械製作所社長、新明和工業創業者を務めたため、戦後は公職追放指定を受けた。 兵庫県神戸市須磨生まれ。川西清兵衛の次男で、川西清司の弟。 旧制姫路中学校(姫中)を経て上京し、慶應義塾大学部理財科を卒業。合資会社日本飛行機製作所(後の中島飛行機)で勤務し、飛行機の設計・製作を学ぶ。慶應義塾大学時代の学友に、坂東舜一が居る。1920年(大正9年)に父が神戸に創業した川西倉庫に川西機械製造所を設立すると、29歳で所長に就任。
後藤 正雄(ごとう まさお、1892年 - 1972年)は、… 後藤 正雄(ごとう まさお、1892年 - 1972年)は、日本の飛行機操縦士、政治家。 兵庫県有馬郡中野村下青野(現・三田市)の出身。兵庫県立柏原中学校(現・兵庫県立柏原高等学校)から歩兵第70連隊での軍務を経て帝国飛行協会の飛行士練習生試験に合格する。第二期生として入所。1917年5月帝国飛行協会兵庫支部の要請を受け篠山練兵場から三田(現三田市下田中)までモーリスファルマン式飛行機で郷里訪問飛行を行った。1918年4月1日、所沢飛行場から大阪練兵場までの単身長距離無着陸飛行に成功する。その後、四国一周および岡山県訪問飛行を同期生の佐藤要三と成功させた。 1919年帝国飛行協会を辞職、1927年2月に郷里の中野村の村長に就任する。
池長 孟(いけなが はじめ/たけし、1891年〈明治24年〉… 池長 孟(いけなが はじめ/たけし、1891年〈明治24年〉11月24日 - 1955年〈昭和30年〉8月25日)は、日本の教育者、美術品収集家。旧姓井上、号は南蛮堂。植物学者である牧野富太郎の研究を経済面で支援したことでも知られる。谷崎潤一郎とも交流があり、1940年春に自らの美術館の開館式に招いた。 1891年(明治24年)11月24日に井上德左衞門の長男として 神戸市に出生。幼少時に叔父で神戸市議会議長を務めた池長通の養子に入り池長姓に改姓。池長家は、江戸時代から続く瓦屋や貸金業を祖父吉佐衛門の代(明治5年)にたたんで、兵庫一帯の土地を買い付け柳原や門口町、白川村などで住宅や不動産の賃貸業を指揮する。
大槻 憲二(おおつき けんじ、1891年11月2日 - 19… 大槻 憲二(おおつき けんじ、1891年11月2日 - 1977年2月23日)は、日本の精神分析家、心理学者、文芸評論家。兵庫県洲本市出身。早稲田大学卒。孫に翻訳家の長井那智子。 日本における精神分析の草分けの一人であり、代表的な紹介者である。ジークムント・フロイトやその他の精神分析家の翻訳者としても著名である。文芸評論家としては『文藝日本』『新潮』などにマルキシズム文学論批判の評論を発表している。 1928年、矢部八重吉や長谷川天渓(本名、長谷川誠也)らとともに東京精神分析学研究所を創設し、後に所長となった。1933年には日本初の精神分析学の雑誌、『精神分析』を創刊した。 戦後創設された日本精神分析学会には大槻は入会していない。
松嶋 喜作(まつしま きさく、1891年(明治24年)10月… 松嶋 喜作(まつしま きさく、1891年(明治24年)10月7日 - 1977年(昭和52年)2月17日)は、日本の政治家。実業家。参議院副議長(第2代)。参議院議員(1期)。 兵庫県明石市出身。1918年京都帝国大学卒業。卒業後は日本興業銀行に入る。1941年理事に就任。戦後の1946年大和証券の会長となる。翌1947年第1回参議院議員通常選挙で全国区から立候補して当選(3年議員)。自由党政調会長を務める。1949年参議院副議長に就任した。議員を1期で退任後、1952年日本製鋼や東京螺子の社長に就任。1956年国鉄諮問委員、翌年に富士航空社長を務めた。 1965年春の叙勲で勲二等瑞宝章受章。 1977年2月17日死去、85歳。
藤森 真治(眞治、ふじもり しんじ、1891年(明治24年)… 藤森 真治(眞治、ふじもり しんじ、1891年(明治24年)8月5日 - 1957年(昭和32年)5月17日)は、大正から昭和期の医師、政治家。参議院議員、医学博士。 兵庫県姫路市出身。1913年(大正2年)岡山医学専門学校を卒業。1915年(大正4年)耳鼻咽喉科医院を開業する。その後、ベルン大学を卒業して医学博士となる。 姫路市本町に藤森病院を開業し院長に就任、藤森医療財団理事長となる。また兵庫県医師会姫路市支部長、姫路市公職適否審査委員などを務め、姫路市議会議員にも選出された。ほか日本医療法人協会理事長、日本耳鼻咽喉科学会評議員、日本気管食道科学会顧問、社会保障制度審議会委員を歴任した。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙で兵庫県地方区から出馬して当選し、緑風会に所属して参議院議員に1期在任した。
宇敷 赳夫(うしき たけお、1891年(明治24年)7月24… 宇敷 赳夫(うしき たけお、1891年(明治24年)7月24日 - 没年不明)は兵庫県出身の土木技術者。台湾総督府の技師として、日本統治時代の台湾で様々な公共建築物を手がけた。 明治24年に姫路市で出生、本籍地は同県神戸市上筒井通。兵庫県立第一神戸中学校(現在の兵庫県立神戸高等学校)を経て、その後の経歴は以下のとおり。 総督府の技師として以外にも当時の民間組織『台湾建築會』で井手薫などとともに常議員を務めていた。 関東大震災(1923年)や新竹台中地震(1935年)を経た耐震強化など、当時の設計思想の変化を盛り込んだ簡素な設計を多く採用している。多くの建築物が木造建築から鉄筋コンクリートで再建される課程で宇敷が担当した物件は以下の通り。
大城戸 三治(おおきど さんじ、1891年(明治24年)4月… 大城戸 三治(おおきど さんじ、1891年(明治24年)4月28日 - 1962年(昭和37年)3月22日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 兵庫県出身。農業・大城戸卯市の三男として生まれる。柏原中学校(現兵庫県立柏原高等学校)卒業を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第40連隊付となる。1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を優等で卒業。 1925年(大正14年)1月、歩兵第40連隊中隊長となり、参謀本部付勤務(支那班)、参謀本部員、参謀本部付(支那研究員)を務め、1930年(昭和5年)12月から1931(昭和6年)11月まで陸大で専攻学生として学んだ。
小林 浅三郎(こばやし あささぶろう、1891年(明治24年… 小林 浅三郎(こばやし あささぶろう、1891年(明治24年)4月1日 - 1974年(昭和49年)3月7日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 兵庫県出身。農業・小林荘助の三男として生れる。鳳鳴中学校卒を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第70連隊付となる。陸士生徒隊付などを経て1922年(大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を卒業。 1923年(大正12年)1月、歩兵第70連隊中隊長に就任。陸軍歩兵学校教官を経て、1927年(昭和2年)3月から1929年(昭和4年)6月までイギリスに駐在。この間、1927年12月、歩兵少佐に昇進した。
秋山 徳三郎(あきやま とくさぶろう、1891年(明治24年… 秋山 徳三郎(あきやま とくさぶろう、1891年(明治24年)2月22日 - 1968年(昭和43年)2月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 兵庫県青垣町(現:丹波市)おいて[要出典]、秋山宝右衛門の二男として生まれる。柏原中学校卒を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、工兵少尉に任官し工兵第10大隊付となる。1915年(大正4年)12月、陸軍砲工学校高等科を卒業。さらに陸軍派遣学生として東京帝国大学工科大学土木科で学び1919年(大正8年)7月に卒業した。その際、南清博士奨励記念賞を受賞している。 1920年(大正9年)4月、陸軍築城本部員となり、英仏駐在を経て、1924年(大正13年)10月、イギリス工兵校を卒業。
中村 白葉(なかむら はくよう、1890年11月23日 - … 中村 白葉(なかむら はくよう、1890年11月23日 - 1974年8月12日)は、ロシア文学者。
小林 篤一(こばやし とくいち、1890年(明治23年)11… 小林 篤一(こばやし とくいち、1890年(明治23年)11月5日 - 1972年(昭和47年)11月23日)は、大正・昭和期の産業組合活動家、政治家。参議院議員(1期)。ホクレン農業協同組合連合会の創立者とされる。 兵庫県城崎郡、のちの日高町(現豊岡市)で生まれる。8歳で北海道に移住し、現在の岩見沢市峰延町で農業を営む。1914年(大正3年)峰延産業組合(現峰延農業協同組合)を設立し理事に就任し、組合長を30年務めた。1919年(大正8年)北海道信用購買販賣組合聯合會(北聯、現ホクレン農業協同組合連合会)を設立し理事に就任。1936年(昭和11年)北聯会長に就任。北海道食糧営団理事長、同農業会長、同青果物配給公社社長、北海道販売農協連会長、道購買農協連合会会長、道農協中央会会長、全販連理事、全購連理事などを歴任。
土方 成美(ひじかた せいび、明治23年(1890年)7月1… 土方 成美(ひじかた せいび、明治23年(1890年)7月10日 - 昭和50年(1975年)2月15日)は、日本の経済学者。東京帝国大学教授、経済学部長。統制経済の第一人者。専攻は理論経済学、財政学。結婚前の旧姓は、「町田 成美」(まちだ せいび)。 1890年、兵庫県姫路市に生まれる。父は姫路市会議長を経て1903年に衆議院議員となった町田猛郎(たけし)。祖先は代々酒井家に仕える武士であったという。兵庫県立姫路中学校を卒業後、父の意向で旧制高等学校の中では姫路に一番近い岡山の第六高等学校に進学する。東京帝国大学法科大学経済学科を首席で卒業。 在学中に高等文官試験に合格していたが、大学に残る。
岩田 愛之助(いわた あいのすけ、1890年1月3日 - 1… 岩田 愛之助(いわた あいのすけ、1890年1月3日 - 1950年3月15日)は、日本の右翼活動家。兵庫県姫路市出身。 右翼団体・愛国社(1928年)、国体擁護連合会(1932年)等の創設者。 陸軍幼年学校を中退後、神戸の乾行義塾で中国語を学ぶ。1910年、中国に渡り、大陸浪人として武漢革命に参加する。しかし後になって川島浪速・佐々木安五郎と知り合い、清朝復辟運動に転じた。 1913年に帰国し、頭山満・内田良平・田中弘之(舎身)らに接近し、対支外交問題を論じる。同年9月に発生した外務省政務局長・阿部守太郎暗殺事件で自首し、1914年5月、殺人教唆の罪で無期懲役の判決を受ける。 1925年、恩赦を受け釈放され再び中国に渡ったが、1927年に帰国。
船橋 榮吉(ふなばし えいきち、本名船橋正二郎、1889年(… 船橋 榮吉(ふなばし えいきち、本名船橋正二郎、1889年(明治22年)12月15日 - 1932年(昭和7年)12月22日)は、日本の声楽家(バリトン)、作曲家、音楽教育者。東京音楽学校声楽科主任教授。新字体で船橋栄吉と表記されることが多い。舟橋栄吉という表記もみられる。姓の読みを「ふなはし」としているものもある。 兵庫県明石市出身。2歳で父を失う。小学校卒業後、家業の旅館を手伝いながら独学し、小学校教員及び中等学校教員免許を取得。また母が長唄をよくしたことから、自身も音楽に関心を持つようになり、特に瀧廉太郎の『荒城の月』『箱根八里』などの唱歌を好んだ。やがて音楽を志して上京、東京帝国大学事務局で給仕として働く傍ら、外山國彦に師事。
魚澄惣五郎(うおずみ そうごろう、明治22年(1889年)1… 魚澄惣五郎(うおずみ そうごろう、明治22年(1889年)11月17日 - 昭和34年(1959年)3月26日)は、日本の日本史学者。広島大学名誉教授。 明治22年(1889年)11月17日、兵庫県神戸市兵庫区宮前町において、魚澄惣一郎・くま夫妻の次男として生まれる。 明治41年(1908年)3月25日、第八高等学校第一部乙類に入学する。 明治44年(1911年)2月に『八高校友会雑誌第二号』に最初の論文「政治家としての新井白石」を発表し、7月1日に第八高等学校を卒業。8月31日に東京帝国大学文科大学史学科に入学し国史学を専攻する。 大正3年(1914年)7月10日、東京帝国大学文科大学史学科を卒業し、9月1日に京都帝国大学大学院に入学する。
三木 露風(みき ろふう、1889年6月23日 - 1964… 三木 露風(みき ろふう、1889年6月23日 - 1964年12月29日)は、日本の詩人、童謡作家、歌人、随筆家。本名は三木 操(みき みさお)。異父弟に映画カメラマンの碧川道夫がいる。国木田独歩の曾祖母が三木家出身。その縁もあり1912年『独歩詩集』を刊行した。早稲田詩社結成に加わり、『廃園』(1909年)を刊行。ほかに詩集『寂しき曙』(1910年)、『白き手の猟人』(1913年)など。 近代日本を代表する詩人・作詞家として、北原白秋と並んで「白露時代」を築いた。若き日は日本における象徴派詩人でもあった。 1889年(明治22年)6月23日、兵庫県揖西郡龍野町(現・たつの市)に父・三木節次郎、母・かたの長男として生まれた。
飯田 壽作(飯田 寿作、いいだ じゅさく、1889年〈明治2… 飯田 壽作(飯田 寿作、いいだ じゅさく、1889年〈明治22年〉5月 - 1962年[要出典])は、日本の実業家。西宮酒造取締役。前名・卓三。 兵庫県西宮市出身。先代壽作の長男。1912年、大阪高等商業学校卒業。西宮酒造会社員となる。1930年、家督を相続し、前名・卓三を改め襲名する。 著書に『酒都遊観記』がある。趣味は和歌、俳句、絵画。宗教は真宗。住所は兵庫県西宮市松原町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
横山 勇(よこやま いさみ、1889年(明治22年)3月1日… 横山 勇(よこやま いさみ、1889年(明治22年)3月1日 - 1952年(昭和27年)4月21日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 歩兵第51連隊長を務めた陸軍大佐横山新治の長男として東京市牛込区で生まれる。母ヨシは山路一善の妹。祖父は会津藩士の横山直助であるため、福島県若松市出身という説もある。 姫路中学校、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校(21期)を卒業。卒業成績は8番/418名。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第3連隊付となる。1915年(大正4年)12月、陸軍大学校(27期)を卒業した。 1919年(大正8年)4月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員(鉄道班)、陸軍省軍務局課員を経て、1924年(大正13年)8月、歩兵少佐に昇進し陸軍兵器本廠付となる。
和辻 哲郎(わつじ てつろう、1889年〈明治22年〉3月1… 和辻 哲郎(わつじ てつろう、1889年〈明治22年〉3月1日 - 1960年〈昭和35年〉12月26日)は、日本の哲学者・倫理学者・文化史家・日本思想史家。『古寺巡礼』『風土』などの著作で知られ、その倫理学の体系は和辻倫理学と呼ばれる。法政大学教授・京都帝国大学教授・東京帝国大学教授を歴任。日本倫理学会会員。文化勲章受章。 兵庫県出身。東大哲学科卒。ニーチェなど西洋哲学を研究。奈良の寺院建築や仏像の美を再発見し、『古寺巡礼』(1919年)も人気を博す。『人間の学としての倫理学』(1934年)で新しい倫理学の体系を構築。『風土』(1935年)、『面とペルソナ』(1937年)も名高い。 日本的な思想と西洋哲学の融合、あるいは止揚とでもいうべき境地を目指した稀有な哲学者と評価される。
川西 實三(かわにし じつぞう、1889年(明治22年)1月… 川西 實三(かわにし じつぞう、1889年(明治22年)1月2日 - 1978年(昭和53年)3月3日)は、日本赤十字社社長などを務めた内務官僚。労働問題の権威として知られた。息子は英文学者・東京大学名誉教授の川西進。義兄に、三谷隆正と三谷隆信。新渡戸稲造を師と仰いだ。
川西 實三(かわにし じつぞう、1889年(明治21年)1月… 川西 實三(かわにし じつぞう、1889年(明治21年)1月2日 - 1978年(昭和53年)3月3日)は、日本赤十字社社長などを務めた内務官僚。労働問題の権威として知られた。息子は英文学者・東京大学名誉教授の川西進。義兄に、三谷隆正と三谷隆信。新渡戸稲造を師と仰いだ。
友田 一郎(ともだ いちろう、1888年〈明治21年〉11月… 友田 一郎(ともだ いちろう、1888年〈明治21年〉11月24日 - 1966年〈昭和41年〉7月13日)は、日本の政治家、実業家、友田酒造工場主。第46代兵庫県会議長。外交官の弟・友田二郎の孫に憲仁親王妃久子がいる。 兵庫県城崎郡日高町江原(現・豊岡市)出身。友田俊蔵の長男。1920年、家督を相続した。但馬銀行、甲子銀行各監査役などをつとめた。兵庫県参事会員であった。 兵庫県会議員に推され、1943年12月から1944年12月まで兵庫県会議長を務める。住所は兵庫県城崎郡日高町江原(現・豊岡市)。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
深尾 須磨子(ふかお すまこ、1888年〈明治21年〉11月… 深尾 須磨子(ふかお すまこ、1888年〈明治21年〉11月18日 - 1974年〈昭和49年〉3月31日)は、日本の詩人、作家、翻訳家。本名は荻野志げの(おぎの しげの)。 兵庫県氷上郡大路村(現・丹波市)の旧家の生まれ。京都師範学校中退、1907年京都菊花高等女学校卒。与謝野晶子に師事する。大正元年(1912年)詩人で技師の深尾贇之焏と結婚するが、大正9年(1920年)に死別。夫の遺稿集『天の鍵』を出版、その附録に深尾須磨子作として掲載した詩54篇と散文「最終の旅」が処女作となる。 大正14年(1925年)詩集『斑猫』を上梓すると神戸港から箱根丸で初めてフランスに渡り、シドニー=ガブリエル・コレットの知遇を得ている。
大内 兵衛(おおうち ひょうえ、1888年〈明治21年〉8月… 大内 兵衛(おおうち ひょうえ、1888年〈明治21年〉8月29日 - 1980年〈昭和55年〉5月1日)は、大正・昭和期の日本のマルクス経済学者。法政大学総長(第8代)、社会保障制度審議会会長(初代)、統計審議会会長(初代)などを歴任。 東京大学経済学部が特に優れた卒業論文に贈る大内兵衛賞の由来にもなっている。 兵庫県三原郡高田村(町村制後:松帆村、現:南あわじ市松帆脇田)出身。旧制洲本中学校(当時の在校生に川路柳虹、高木市之助がいた)、第五高等学校を経て東京帝国大学法科大学経済学科(現:経済学部)を首席で卒業(1913年に銀時計受領)。 東京帝大卒業後は大蔵省に書記官として入省(大臣官房銀行課〈後:銀行局、現:金融庁監督局〉配属)。
樋口 季一郎(ひぐち きいちろう、1888年〈明治21年〉8… 樋口 季一郎(ひぐち きいちろう、1888年〈明治21年〉8月20日 - 1970年〈昭和45年〉10月11日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。兵庫県淡路島出身。歩兵第41連隊長、第3師団参謀長、ハルビン特務機関長、第9師団長等を経て、第5方面軍司令官兼北部軍管区司令官。 第二次世界大戦前夜、ドイツによるユダヤ人迫害を逃れた避難民に満洲国通過を認めたとされ、これは「ヒグチ・ルート」と呼ばれたと言われる。[ヒグチ・ルート]からはかつて「2万人を救出した」と喧伝されたこともあったが、実態は不明な部分も多い。 太平洋戦争中、アッツ島の戦いにおいて樋口の命によりアッツ島守備隊は玉砕、その後の南方諸島で続発する日本軍守備隊玉砕の引き金となった。
賀川 豊彦(かがわ とよひこ、旧字体:豐彥、1888年〈明治… 賀川 豊彦(かがわ とよひこ、旧字体:豐彥、1888年〈明治21年〉7月10日 - 1960年(昭和35年)4月23日)は、大正・昭和期のキリスト教社会運動家・社会改良家。戦前日本の労働運動、農民運動、無産政党運動、生活協同組合運動、協同組合保険(共済)運動において、重要な役割を担った人物。日本農民組合創設者。「イエス団」創始者。キリスト教における博愛の精神を実践した「貧民街の聖者」として日本以上に世界的な知名度が高く、戦前は現代の「三大聖人」として「カガワ、ガンジー、シュヴァイツァー」と称された。 茅ヶ崎の平和学園の創始者である。墓は東京都の多磨霊園にある。 妻の賀川ハルも社会運動家。息子の賀川純基は教会音楽家で東京の賀川豊彦記念松沢資料館の初代館長。
岡本 帰一(おかもと きいち、1888年6月12日 - 19… 岡本 帰一(おかもと きいち、1888年6月12日 - 1930年12月29日)は、童画家。兵庫県洲本に新聞社勤務の父・岡本甚吉と母・もとの長男として生まれ、東京で育った。1906年、東京市立第一中学校卒業。白馬会葵橋洋画研究所で油絵を学ぶ。1912年に岸田劉生や木村荘八らによって設立されたフュウザン会に創設メンバーとして参加。その後、童話雑誌「金の船(のちに「金の星」に改題)」、「コドモノクニ」に挿絵を描き始めた。1930年12月、腸チフスにより死去。弟子にまつやまふみお、岩岡とも枝、川島はるよらがいる。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
松嶋 鹿夫(まつしま しかお、1888年1月16日 - 19… 松嶋 鹿夫(まつしま しかお、1888年1月16日 - 1968年11月28日)は、日本の外交官。外務次官や終戦連絡中央事務局次長、貴族院議員等を務めた。
雀部 昌之介(ささべ まさのすけ、1887年12月4日 - … 雀部 昌之介(ささべ まさのすけ、1887年12月4日 - 1977年4月30日)は、日本の経営者。兵庫県出身。 1907年に神戸商業学校を卒業し、同年3月に阪東調帯護謨(現在のバンドー化学)に入社。1937年1月に取締役に就任し、1952年12月には社長に就任。1962年5月に会長を経て、1970年6月には相談役に就任。 1956年に藍綬褒章を受章し、1965年に勲五等双光旭日章を受章。 1977年4月30日老衰のために死去。89歳没。
芦田 均(あしだ ひとし、1887年〈明治20年〉11月15… 芦田 均(あしだ ひとし、1887年〈明治20年〉11月15日 - 1959年〈昭和34年〉6月20日)は、日本の外交官、政治家。位階は従二位。勲等は勲一等。同国47代内閣総理大臣。 衆議院議員(11期)、厚生大臣(第13代)、外務大臣(第67・68代)を歴任した。 外交官を経て政界入り。立憲政友会に所属して外務省とのパイプ役を務めた。軍国主義が広まる議会においてリベラリストとして活動した。戦後は自由党の結成に関与した後、離党して民主党を結党し、副総理を経て芦田内閣を首班した。 芦田は1887年11月15日、京都府天田郡宮村(後に中六人部村を経て現在の福知山市)に生まれた。生家は豪農であった。社会・民主・国民協同3党連立内閣のパートナーであり、大学時代の同級生でもあった片山哲は、芦田の死後まもなく衆議院本会議で行った追悼演説で、芦田が政界に入るまでをこのように述べている。
深田 千代子(ふかた ちよこ、1887年〈明治20年〉10月… 深田 千代子(ふかた ちよこ、1887年〈明治20年〉10月3日 - 1925年〈大正14年〉1月6日)は、日本の宗教家、円応教教祖。兵庫県氷上郡小川村字井原(現・丹波市山南町井原)出身。法名は「慈照院圓應智覺大姉(じしょういんえんのうちかくだいし)」。 1887年(明治20年)10月3日、兵庫県氷上郡小川村字井原(現・丹波市)の茶屋店主深田難吉・カルの長女として生まれた。千代子は家計を助けるため子守り奉公などをして育ち、1907年(明治40年)に笹倉三治と結婚。翌1908年(明治41年)3月25日には長男の長治(1908年3月25日 - 1976年(昭和51年))4月3日)を儲けるも、同年、三治が旅先で金品を奪われ毒殺されるという不幸に見舞われ、1909年(明治42年)、長治を深田家に残し、村に巡業に来た旅役者の河合静雄と大阪市で再婚した。
田中 静壱(たなか しずいち、1887年(明治20年)10月… 田中 静壱(たなか しずいち、1887年(明治20年)10月1日 - 1945年(昭和20年)8月24日)は、日本の陸軍軍人。官位は陸軍大将、従三位、勲一等瑞宝章、功三級金鵄勲章。 子息には光祐(陸士46期)、俊資(48期)、祐輔(51期)、静雄(53期)がおり、いずれも陸軍少佐(終戦時)であった。また、第三次ソロモン海戦にて戦艦「比叡」艦長として戦った海軍大佐西田正雄(海兵44期)は義弟である。田中、西田両名とも陸大・海大の軍刀組であったことから、『郷土龍野の誉れ』と地元の新聞にその逸材ぶりを報道された。 1887年(明治20年)10月1日、田中菊太郎の次男として兵庫県揖保郡揖西村(現たつの市)に生まれた。
小林 卯三郎(こばやし うさぶろう、1887年(明治20年)… 小林 卯三郎(こばやし うさぶろう、1887年(明治20年)9月6日 ‐ 1981年(昭和56年)11月2日)は、日本の教育者、盲学校創設者、点字出版社編集者、社会事業家である。視覚障害当事者として視覚特別支援教育に尽力し、奈良県視覚障害者教育の始祖と称される。 1887年(明治20年)、兵庫県朝来郡生野町(現在の朝来市)の商家に生まれる。1891年(明治24年)前後、4歳あるいは5歳で失明。琴三絃を習う。1899年(明治32年)、12歳で叔母の勧めにより京都市立盲唖院入学。按摩・マッサージ技術、中等普通科科目を習得した。1907年(明治40年)3月、京都市立盲唖院を卒業し、同年4月から東京盲唖学校教員練習科入学。
川端 千枝(かわばた ちえ、1887年(明治20年)8月9日… 川端 千枝(かわばた ちえ、1887年(明治20年)8月9日 - 1933年(昭和8年)7月4日)は、大正・昭和期の歌人。 1887年(明治20年)に神戸市で生まれた。父は神戸又新日報副社長を務めた炬口又郎。神戸市の親和女学校卒業。その年、淡路島の川畑隆平と結婚。 結婚3年目を迎えた頃、ひとり娘の母となり、加寿と名付ける。後の歌人・杉村けい子である。しかし、加寿が3歳になったばかりの1909年(明治42年)、夫と死別する。 1913年(大正2年)、亡夫の友人前田夕暮主宰の『詩歌』に入門する。同じく『詩歌』同人であった清水白花との相聞歌で誌面を騒がせた。また娘の杉村けい子は、別の同人、田中白夜を恋人に擬した作品を引用している。
永井 幸太郎(ながい こうたろう、1887年4月4日 - 1… 永井 幸太郎(ながい こうたろう、1887年4月4日 - 1983年1月23日)は、日本の実業家。高畑誠一とともに日商を設立し、同社代表取締役社長や、貿易庁長官、学校法人甲南学園理事長、日本発条代表取締役社長等を歴任した。藍綬褒章受章。 兵庫県氷上郡(現丹波市)山南町下滝出身。柏原中学校(現兵庫県立柏原高等学校)首席卒業を経て、1909年神戸高等商業学校(現神戸大学)卒業。同期には高畑誠一や出光佐三、和田恒輔がいた。卒業後スタンダード石油入社。その後高畑の誘いを受け鈴木商店に入社。本店穀肥主任、取締役本店総支配人等を経て、日本商業に出向。鈴木商店破綻後、台湾銀行の森広蔵頭取や三菱財閥の各務鎌吉などの支援を得て、高畑らとともに日本商業を分離して日商を設立し取締役に就任した。
三木 良英(みき よしひで、1887年(明治20年)3月31… 三木 良英(みき よしひで、1887年(明治20年)3月31日 - 1970年(昭和45年)2月18日)は、日本の陸軍軍人、内科医。最終階級は陸軍軍医中将。 兵庫県出身。三木駿三の長男として生まれる。姫路中学校(現兵庫県立姫路西高等学校)、第三高等学校を経て、1912年(明治45年)6月に東京帝国大学医科大学を卒業し、二等軍医に任官し歩兵第20連隊付となる。1913年(大正2年)8月、東京第二陸軍病院(現国立成育医療研究センター)付となる。1914年(大正3年)8月、東京帝大大学院に入学。1915年(大正4年)8月、一等軍医に昇進し、歩兵第71連隊付、青島病院付、スイス駐在を務め、1921年(大正10年)3月、三等軍医正に進級しドイツ駐在となる。
赤木 正雄(あかぎ まさお、1887年(明治20年)3月24… 赤木 正雄(あかぎ まさお、1887年(明治20年)3月24日 - 1972年(昭和47年)9月24日)は、日本の農学博士・政治家。位階は正三位、勲等は勲一等。文化勲章受章者。 日本において砂防の重要さをいち早く説いた人物で「砂防の父」や「砂防の神様」と称される。 兄は中筋村(現豊岡市)村長の赤木一雄、甥に画家の赤木蘇夫二(そぶじ)、政治学者の赤木須留喜(するき)、子供は1男4女、三女(玲子)の岳父はドイツ語学者の武内大造、四女(淑子)の夫は生物学者の太田次郎。 兵庫県城崎郡中筋村(現豊岡市)引野に生まれる。父甚太夫、母たみの四女二男の末っ子で、地方の豪農であった赤木家は甚太夫で11代目に当たる。
高堂 国典(、1887年(明治20年)1月29日 - 196… 高堂 国典(、1887年(明治20年)1月29日 - 1960年(昭和35年)1月22日)は、日本の俳優。本名は谷川 佐市郎()。一時は高堂 黒天の芸名で活動していた。通り名は「こくてん」。 戦前は帝国キネマと市川右太衛門プロダクションで活躍し、戦中から戦後にかけて東宝に出演した。老け役として個性を発揮し、様々な作品に脇役で活躍。黒澤明作品の常連の一人でもある。 兵庫県高砂市に生まれる。 関西学院中学部中退後の1901年(明治34年)新派の村田正雄の門下に入り、大阪横井座で初舞台を踏んだ後地方巡業で各地を回る。 1923年(大正12年)帝国キネマ小阪撮影所現代劇部に入社後本格的に映画俳優として活動を始め、『呪いの船』『復讐鬼』『星は乱れ飛ぶ』といった作品に出演する。
関 亀治(せき かめはる、1886年(明治19年)11月3日… 関 亀治(せき かめはる、1886年(明治19年)11月3日 - 1969年(昭和44年)4月5日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 兵庫県出身。柏原中学校を経て、1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第20連隊付となる。陸士生徒隊付などを経て、1918年(大正7年)11月、陸軍大学校(30期)を卒業した。 参謀本部付勤務、参謀本部員(兵站班)、陸軍兵器本廠付、アメリカ駐在、兵器本廠付、陸軍省整備局課員などを歴任し、1927年(昭和2年)7月、歩兵中佐に進級。1929年(昭和4年)12月、兵器本廠付に発令され陸大専攻学生となった。
黒田 徳米(くろだ とくべい、1886年10月17日 - 1… 黒田 徳米(くろだ とくべい、1886年10月17日 - 1987年5月15日)は、日本の博物学者・貝類学者。日本の貝類研究の第一人者。日本で初めての貝類総目録を完成させ、日本貝類学会の創設者の一人でもある。発見した貝の新種は650種に及ぶ。 兵庫県三原郡福良浦(現:南あわじ市福良向谷)出身。学歴は小学校卒業のみである。1901年(明治34年)、京都の平瀬與一郎の丁稚奉公をしながら、彼の貝類の研究を手伝う。1919年(大正8年)、平瀬貝類博物館閉鎖に伴い、2年間にわたって残務処理を行う。1921年京都帝国大学助手。1928年(昭和3年)、日本貝類学会の創設にかかわり、のち会長となる。日本産貝類の分布や種類をあきらかにし、「日本産海棲貝類目録」などを刊行した。
片岡 平八郎(かたおか へいはちろう、前名・郁三、1886年… 片岡 平八郎(かたおか へいはちろう、前名・郁三、1886年〈明治19年〉10月 - 没年不明)は、日本の政治家(兵庫県会議員、兵庫県城崎郡城崎町長)、旅館業者、銀行家。弟に終戦時の第一師団長を務めた片岡董中将が居る。 兵庫県出身。先代・平八郎の二男。1921年(大正10年)、家督を相続、前名・郁三を改め襲名した。豊岡中学校(現・兵庫県立豊岡高等学校)を卒業した。「三木屋」と称し、温泉旅館業を営み、傍ら銀行重役であった。但馬貯蓄銀行取締役、三共銀行監査役などをつとめた。 1894年(明治27年)2月から1896年(明治29年)10月、同年12月から1899年(明治32年)7月、同年9月から1903年(明治36年)9月、1937年(昭和12年)3月から1939年(昭和14年)9月まで城崎郡選出の兵庫県会議員を務めた。
磯谷 廉介(いそがい れんすけ、1886年〈明治19年〉9月… 磯谷 廉介(いそがい れんすけ、1886年〈明治19年〉9月3日 - 1967年〈昭和42年〉6月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。太平洋戦争期に日本占領下の香港で総督を務めた。 兵庫県出身。旧篠山藩士・磯谷次郎の三男として生れる。私立尋常中学鳳鳴義塾、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1904年(明治37年)10月、陸軍士官学校(第16期)を卒業。同期に板垣征四郎・土肥原賢二がいる。翌月、歩兵少尉に任官し歩兵第20連隊付となった。1915年(大正4年)12月、陸軍大学校(27期)を卒業し歩兵第20連隊中隊長に就任。 1916年(大正5年)8月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、参謀本部付(広東駐在)、歩兵第13連隊付(広東駐在)、歩兵第13連隊大隊長を歴任し、1922年(大正11年)12月に帰国。
勝沼 精蔵(かつぬま せいぞう、1886年(明治19年)8月… 勝沼 精蔵(かつぬま せいぞう、1886年(明治19年)8月28日 - 1963年(昭和38年)11月9日)は、兵庫県神戸市生まれの医学者。専門は血液学、神経病学。医学博士。名古屋帝国大学医学部教授、第三代名古屋大学総長、第三代国立名古屋病院院長を務めた。 1926年(大正15年) に学士院賞を受賞、1954年(昭和29年)に文化勲章を受章した。1953年(昭和28年)にノーベル生理学・医学賞の候補に挙がったが受賞を逸している。 父・五郎は日本郵船の船長であったが澎湖諸島沖で海難死し、母・顕子の実家の静岡県へ移住した。静岡県立静岡中学校、第一高等学校を経て、1911年(明治44年) 、東京帝国大学医学部卒業。
水守 亀之助(みずもり かめのすけ、1886年(明治19年)… 水守 亀之助(みずもり かめのすけ、1886年(明治19年)6月22日 - 1958年(昭和33年)12月15日)は兵庫県出身の小説家。 兵庫県若狭野村(現・相生市)生まれ。大阪の医学校を中退して1906年に上京し、1907年には田山花袋に入門。春陽堂で編集者となる。1914年、徳田秋声の紹介で中央公論社に入るも1日で退職。1919年、中村武羅夫の紹介で新潮社に入社。『新潮』編集部に入る。編集者生活の傍ら、自然主義の影響下に『末路』『帰れる父』などを発表。中村武羅夫や加藤武雄と共に新潮三羽烏と称された。1923年には文学雑誌『随筆』を主宰し、八木隆一郎を書生とする。1924年、1925年に『少女倶楽部』で連載した「涙の握手」「残月の曲」で人気を集める。
駒井 卓(こまい たく、1886年5月9日 - 1972年7… 駒井 卓(こまい たく、1886年5月9日 - 1972年7月9日)は、動物学者。日本学士院会員。動物遺伝学、動物系統学、進化論を研究。 三毛猫にオスが少ないことを発見したことで知られる。 1886年、兵庫県姫路市に生まれる。旧姓・福田。東京高等師範学校卒業後、大阪府立富田林中学校で教諭を務めた。その後、東京帝国大学で動物学を学び、1917年(大正6年)に選科修了。コロンビア大学留学ののち、1925年(大正14年)京都帝国大学、東京帝大兼任教授、1947年(昭和22年)東大定年退官、1948年(昭和23年)学士院会員、1949年(昭和24年)国立遺伝学研究所部長。 1924年(大正13年)2月 東京大学 理学博士「Studies on two aberrant ctenophores, Coeloplana and Gastrodes(二種の異状なる櫛水母シロープラナ及びガストロデスの研究)」。
堀内 謙介(ほりのうち けんすけ、1886年〈明治19年〉3… 堀内 謙介(ほりのうち けんすけ、1886年〈明治19年〉3月30日 - 1979年〈昭和54年〉11月1日)は、日本の外交官。1930年代後半に外務次官及び駐米大使、戦後は駐中華民国(台湾)大使を務めた。 兵庫県多紀郡篠山町(のち丹波篠山市)にて旧篠山藩士堀内令順の次男として生まれる。私立尋常中学鳳鳴義塾、旧制山口高等学校、第一高等学校を経て、1910年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。東京帝大在学中の1909年に文官高等試験合格、さらに1911年10月の外交官及領事官試験に合格(同期は重光葵・芦田均・縫田栄四郎・栗野昇太郎・村上義温・酒匂秀一・桑島主計)、翌11月に外交官補に任じられ清国在勤を命じられた。
藤江 恵輔(ふじえ けいすけ、1885年(明治18年)11月… 藤江 恵輔(ふじえ けいすけ、1885年(明治18年)11月8日 - 1969年(昭和44年)2月27日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。