榎本 よしたか(えのもと よしたか、1977年2月2日 - … 榎本 よしたか(えのもと よしたか、1977年2月2日 - )は、日本のイラストレーター、漫画家、法廷画家。和歌山県和歌山市出身。東京都小平市在住。本名、榎本 祥孝(読み同じ)。 中学校在学中の1991年、カプコンの人気アクションゲーム、『ロックマン4』のボスキャラコンテストに応募し入賞(キャラクター名:ブライトマン)。 高校卒業後の1995年3月、家具製造メーカーにデザイナーとして入社。CAD(microCADAM)による家庭用家具、公共用家具の設計開発業務を務める傍ら、ウェブサイト制作、地方紙の4コマ漫画執筆及び広告カットの制作、近鉄カルチャーセンター和歌山にて風景絵画教室の講師も担当する。
成願 義夫(じょうがん よしお、1955年6月10日 - )… 成願 義夫(じょうがん よしお、1955年6月10日 - )は、日本の着物図案家、伝統文様研究家、和装研究家、壁面装飾画家、アートディレクター、グラフィックデザイナー、伝統産業商品開発アドバイザー。 和文化デザイン思考講師。株式会社京都デザインファクトリー社長。
岸野圭作(きしの けいさく、本名:同じ、1953年9月8日 … 岸野圭作(きしの けいさく、本名:同じ、1953年9月8日 - )は、日本画家。和歌山県御坊市出身。日展会員。 和歌山県立日高高等学校卒業、専修大学経営学部中退。 改組新第1回日展審査員 2018年(平成30年)7月 『第1回安曇野涼風扇子公募展』を実行委員長として、初める2018年 (平成30年) 日本橋高島屋 個展 「岸野圭作日本画展 安曇野春秋」
東野 光生(とうの こうせい、1946年5月21日 - )は… 東野 光生(とうの こうせい、1946年5月21日 - )は、日本の水墨画家、小説家。
浜口 陽三(はまぐち ようぞう、1909年4月5日 - 20… 浜口 陽三(はまぐち ようぞう、1909年4月5日 - 2000年12月25日)は、和歌山県有田郡広村(現・有田郡広川町)出身の版画家。 銅版画の一種であるメゾチントを復興し、カラーメゾチント技法の開拓者となった。同じく版画家の南桂子は妻。本名は濱口 陽三(はまぐち ようぞう)だが、筆名としては新字体の「浜」を用いていた。 1909年(明治42年)4月5日、和歌山県有田郡広村(現・有田郡広川町)に生まれた。生家の濱口儀兵衛家はヤマサ醤油の創業家であり、陽三は濱口梧洞(10代目濱口儀兵衛)の三男である。幼少時に一家で千葉県銚子市に転居した。 東京美術学校(現・東京藝術大学)では彫刻科塑造部に入学したが、2年で退学しパリへ渡航した。
五十嵐 醇三(いがらし じゅんぞう、1909年 - 1973… 五十嵐 醇三(いがらし じゅんぞう、1909年 - 1973年)は、日本の技術者、都市計画家。土地評価の基準となっている区画整理の根幹である土地評価の定型化を図るため、路線評価方式を考案した。 1909年、和歌山県和歌山市に生まれる。旧制和歌山県立和歌山中学校、旧制大阪高等学校を経て、1932年に東京帝国大学工学部土木工学科を卒業。同年東京府に入った後、1934年に内務省に移り都市計画課に勤務。1941年に内務省国土局計画課に勤務する。荒川上流改修事務所戸田工場主任として戸田ボートコース新設に従事。その後北支建設給署で都市局技術と計画の各課長をつとめる。 1946年、戦災復興院に移籍し土地局工務課勤務。
逸見 享(へんみ たかし、1895年(明治28年)1月29日… 逸見 享(へんみ たかし、1895年(明治28年)1月29日 - 1944年(昭和19年)10月19日)は、大正時代から昭和時代戦前にかけての版画家、装幀家。 和歌山県和歌山市生まれ。1913年(大正2年)に和歌山市立和歌山商業学校を出て上京し、1914年(大正3年)中央大学に入学する。1915年(大正4年)12月に同郷で3学年先輩に当たる田中恭吉の遺作展覧会を東京・日比谷美術館で見て感銘を受ける。 1916年(大正7年)に小林富次郎商店(後のライオン歯磨本舗小林商店)に入社し、同社意匠部に勤めるかたわら木版画を始めた。詩人の大手拓次が小林商店広告部の文案係に入ると彼と知り合い、共に詩や短歌を作りながら詩集『異香』(1917年)、『あをちどり』(1918年)、『詩情』(1924年)、後に大手の遺作となる『藍色の蟇』(1936年)などの装幀を手がけるようになった。
大亦 観風(おおまた かんぷう、1894年(明治27年)9月… 大亦 観風(おおまた かんぷう、1894年(明治27年)9月27日 - 1947年(昭和22年)10月22日)は、日本画家、南画家、歌人。本名は新治郎(しんじろう)。和歌山県和歌山市出身。はじめ洋画を学び、のち日本画に転向。寺崎広業、のちに小室翠雲に師事。大東南宗院の設立に参加。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
石垣 栄太郎(いしがき えいたろう、1893年12月1日 -… 石垣 栄太郎(いしがき えいたろう、1893年12月1日 - 1958年1月23日)は、日本の洋画家。 1893年、和歌山県東牟婁郡太地町で船大工を生業とする石垣政治の子として生まれた。1901年、町立太地小学校に入学し、1907年に県立新宮中学校へ進学したが、1909年には1901年にアメリカへ移民していた父の呼びかけで退学して渡米した。1910年からカリフォルニア州ベーカーズフィールドでボーイなどとして働き、また日本人キリスト教会で英語を学び、聖書や社会主義の本などにも親しんだ。 1914年から絵画をサンフランシスコ美術学校やニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグで学び、1916年頃より絵画制作を始めたという。
川口 軌外(かわぐち きがい、1892年〈明治25年〉11月… 川口 軌外(かわぐち きがい、1892年〈明治25年〉11月10日 - 1966年〈昭和41年〉6月5日)は、日本の洋画家。和歌山県生まれ。1920年代、パリでアンドレ・ロート、フェルナン・レジェ、マルク・シャガールらに学ぶ。帰国後の1930年代、独立美術協会の結成に参加。幻想的で色彩豊かな作風で評価を得た。戦後は国画会に所属し、抽象的な作風へと展開した。東京都で没した。
川端 龍子(かわばた りゅうし、1885年〈明治18年〉6月… 川端 龍子(かわばた りゅうし、1885年〈明治18年〉6月6日 - 1966年〈昭和41年〉4月10日)は、日本画家、俳人。弟(異母弟)は『ホトトギス』の俳人川端茅舍(ぼうしゃ)であり、龍子も『ホトトギス』同人であった。本名は川端 昇太郎。 現在の和歌山県和歌山市で生まれる。幼少の頃、空に舞う色とりどりの鯉のぼりを見て、風にゆらめく圧倒的な鯉の躍動感に心引かれた龍子は、職人の下に通いつめると、その描き方を何度も真似をした。自分もこんな絵を描けるようになりたい、とこのとき思ったのが、画家龍子の原点であった。1895年(明治28年)、10歳の頃に家族とともに東京へ転居した。 城東高等小学校から東京府立第一中学校入学。
谷井 翠山(やつい すいざん、1878年4月20日 - 没年… 谷井 翠山(やつい すいざん、1878年4月20日 - 没年不明)は、明治から昭和初期にかけて活動した日本画家。本名は藤楠、旧姓は津本。資産家であり、公募展への出品は少ない。同じ雅号の三木翠山と混同される事がある。 1878年(明治11年)4月に和歌山県日高郡御坊村(現和歌山県御坊市)の蝋燭商の大黒屋の津本家に生まれた。16才から文人画家の筑紫翠雲に学び、20才で上京し、川端玉章の画塾に入った。 後に和歌山市雑賀村関戸(現和歌山市関戸)の大地主の谷井家に婿養子として入った。その頃の当主の谷井勘蔵は翠山の誕生翌年の明治12年には地租221円持、貴族院多額納税者議員互選人だった。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
鈴木 錦泉(すずき きんせん、1867年‐1945年)は、明… 鈴木 錦泉(すずき きんせん、1867年‐1945年)は、明治から昭和にかけての挿絵画家、口絵画家。 1867年に和歌山市に生まれる。本名は為之丞。または尚俊とも号している。父は和歌山藩士であったが、明治維新によって職を失い、その後に始めた事業にもことごとく失敗、錦泉は和歌山にいる頃から筑紫翠雲に師事、南画を習い、雲溪という号をもっていた。その後、錦泉は大阪に出て絵を描こうとしたが、大阪という商業都市では南画は受け入れられなかった。そこで、生活のため、独学で浮世絵を学び、夥しい数に上る講談本の口絵や『神戸新聞』の挿絵を描くようになった。勤勉な性格で有職故実を習得、間違いのない時代考証に基づいた木版口絵を描くことに努めたほか、文筆面においても達筆であった。
神中 糸子(じんなか いとこ、1860年12月2日(万延元年… 神中 糸子(じんなか いとこ、1860年12月2日(万延元年10月20日) − 1943年(昭和18年)2月4日)は、日本の洋画家。 和歌山県海草郡雑賀村(現・和歌山市)生まれ。父は紀州藩士・陸軍士官学校教官を務めた神中義次、母は紀州藩御用絵師の笹川遊泉の娘・増で、7人きょうだいの4番目(三女)。 1877年工部美術学校に入学するが、1880年退学。1881年より小山正太郎の私塾で学んだ。1887年明治女学校で洋画講師嘱託となり、1894年まで勤めた。また、戸田伯爵家の絵画の家庭教師も務めている。1907年から私立日本女子美術学校(東京都立忍岡高等学校の前身)で西洋画科講師嘱託となり、1910年から1914年までは東京女子高等師範学校図画講師嘱託を務めた。