坂本 和也 (さかもと かずや、1985年5月14日 - )… 坂本 和也 (さかもと かずや、1985年5月14日 - )は、日本の画家・アーティスト。鳥取県米子市出身。2004年に米子西高等学校を卒業後、名古屋芸術大学へ進学、同大学院美術研究科を修了。その後、主に「水草」をイメージの源泉とした作品制作に取り組んでいる。海外のアートフェアに多数出展し、現代美術コレクターや企業が収蔵するなど、若手の中でも注目される画家である。nca | nichido contemporary art(日動画廊)所属。
はり たつお(畭 辰雄、1974年 - )は、日本の版画家・… はり たつお(畭 辰雄、1974年 - )は、日本の版画家・絵本作家・キャラクターデザイナー・グラフィックデザイナー・イラストレーター。 幼少の頃から漫画家の中島たを、画家の清家文博に師事。大阪の高等学校を卒業後、地元のデザイン会社に就職。 その後、全国に農業公園を展開する企業家 久門渡と出会い、久門が手掛ける観光開発のデザイン開発に従事。デザインの他に、店舗設計やプランニングを数多く手掛けている。近年では、兄でありシンガーソングライターの畭正義(はりまさよし)の遺作の詩をテーマに版画作品を発表。全国販売となる。 デザインの代表作としては、堺市ハーベストの丘、岐阜県美濃加茂市日本昭和村、横須賀市ソレイユの丘等のCI計画、キャラクターデザイン等がある。
渡辺 修渡舟(わたなべ おさむとしゅう、1935年6月25日… 渡辺 修渡舟(わたなべ おさむとしゅう、1935年6月25日 - 2007年3月2日)は、日本の画家、彫刻家。 武者小路実篤が「人間らしく生きる」「自己を生かす」ことができる社会を目指して提唱し、その同志が建設した理想郷「新しき村」で義務労働の傍ら、絵画や彫刻の制作に励む。村で毎日絵筆をとる生活をし、絵画教室も開いていた。渡辺登州(わたなべ としゅう)と名乗ることもあった。本名、渡辺修(わたなべ おさむ)。武者小路実篤や高田博厚に師事した。 鳥取県東伯郡中山村(現・西伯郡大山町)で生まれ、中学生の頃から絵を描きたいという思いを持ち、武者小路実篤の作品も熱心に読んでいた。将来は教員でもやりながら絵を描こうと思っていたが、高校教師だった兄の話を聞いて教師との両立に疑問を抱く。
徳吉 英雄(とくよし ひでお、1921年10月25日 - 1… 徳吉 英雄(とくよし ひでお、1921年10月25日 - 1958年9月21日)は、日本の画家。1946年(昭和21年)から1948年(昭和23年)にかけて倉吉で民藝の同人誌『意匠』を発行。同時期に、鳥取中部の芸術団体「砂丘社」の機関誌『砂丘』復刊に尽力した。 1921年(大正10年)生まれ。1934年(昭和9年)倉吉中学(現倉吉東高校)に入学し、中井金三に教わる。京都高等工藝学校(現京都工芸繊維大学)図案科に進学。卒業後は、鉄道本省に勤める。兵役を経て敗戦後は倉吉に戻る。 1946年(昭和21年)、私家版として同人誌『意匠』を発行する。『意匠』は郷土の工藝を育み向上させることを意図した雑誌であり、第1号から第4号まで発行された。
浜田 台児(はまだ たいじ、旧字体: 濱田 臺兒、1916年… 浜田 台児(はまだ たいじ、旧字体: 濱田 臺兒、1916年(大正5年)11月15日 - 2010年(平成22年)9月1日)は、鳥取市出身の日本画家。本名は浜田 健一(はまだ けんいち)。 鳥取県気高郡正条村(現・鳥取市気高町浜村)に生まれる。伊東深水、橋本明治に師事する。1935年(昭和10年)、19歳の時に深水に入門、日展に出品を重ねる。鮮明な色彩による人物・花鳥画を得意とする。1975年(昭和50年)日展文部大臣賞、1980年(昭和55年)日本芸術院賞受賞、1989年(昭和59年)日本芸術院会員。日展顧問。1990年(平成2年)気高町名誉町民。 画集に『浜田台児画集』(邦画会、1961年)がある。
前田 直衞(まえだ なおえ、1915年(大正4年)4月28日… 前田 直衞(まえだ なおえ、1915年(大正4年)4月28日 - 2008年(平成20年)12月23日)は、日本の日本画家。京都の町屋造りの老舗を描いた「京の老舗」シリーズで知られる。
長谷川 富三郎(はせがわ とみさぶろう、1910年6月27日… 長谷川 富三郎(はせがわ とみさぶろう、1910年6月27日 - 2004年8月19日)は日本の版画家。号は無弟。棟方志功とともに民藝運動を支えた板画家である。 1910年(明治43年)に兵庫県姫路市に生まれる。1929年(昭和4年)に鳥取県師範学校を卒業し、倉吉市の明倫小学校に勤務する傍、1934年(昭和9年)に倉吉の文化団体「砂丘社」同人になり油絵を描くようになる。 そのころに吉田璋也と出会い民藝運動に参加する。そして同運動に関わっていた柳宗悦、河井寛次郎らに師事するようになり、1940年(昭和15年)より棟方志功との交友が始まる。戦後、その棟方のすすめで板画を始める。1954年(昭和29年)には、柳宗悦、濱田庄司、バーナード・リーチを明倫小学校に招いて講演会を開催した。
伊藤 宝城(いとう ほうじょう、本名:伊藤 博、1909年6… 伊藤 宝城(いとう ほうじょう、本名:伊藤 博、1909年6月28日 - 1961年12月27日)は、日本の医師、詩人、版画家、彫刻家。 俳号は鉄庵。別名:ジョージ・ウーラン。戦後日本の抽象彫刻の先駆者の一人である。 弟に洋画家の伊藤彰、染色家の吉田たすくがいる。 1909年、鳥取県倉吉市広瀬町で病院を開業している伊藤琢郎・久代の子として八人兄弟の長男として大連で生まれる。1921年3月、明倫小学校卒業。1927年3月、県立倉吉中学校 (現在の鳥取県立倉吉東高等学校)卒業。1936年3月、私立岩手医学専門学校 (現・岩手医科大学)を卒業。同年4月、京都府立医科大学付属病院外科教室に入る。1940年2月に京都府立医大を退職し、中津川町立中津川病院(現・総合病院中津川市民病院)外科主任となる。
伊谷 賢蔵(いだに けんぞう、明治35年(1902年)2月2… 伊谷 賢蔵(いだに けんぞう、明治35年(1902年)2月23日 - 昭和45年(1970年)3月27日)は、鳥取県鳥取市出身の洋画家、書家。人類学者・霊長類学者の伊谷純一郎は息子。 伊谷平蔵の二男として、鳥取市川端に生まれる。 大正13年(1924年)京都高等工芸(現京都工芸繊維大学)を卒業後、同校研究室と関西美術院で洋画の研究に専念し、そのころ黒田重太郎に師事した。 大正14年(1925年)春陽会、翌年二科展に入選し、以後、昭和18年(1943年)の二科展解散まで出品を続け、その間に二科会員となった。 昭和14年(1939年)に従軍画家として北支戦線に派遣され、翌年から華北交通嘱託として計6回中国を訪問。
前田 寛治(まえた かんじ、1896年10月1日 - 193… 前田 寛治(まえた かんじ、1896年10月1日 - 1930年4月16日)は、日本の洋画家。鳥取県出身。 人物写実画の名手として知られ、満33歳という若さで早逝し10年に満たない短い活動期間であったが、彼の古典的構図でのフォーヴィスム的筆致が「前寛ばり」という流行語を生むなど当時の芸術家に多大な影響を与えた。なお、名字の読みは「まえた」である。 1896年10月1日、鳥取県東伯郡北条町(現:北栄町)国坂の豪農の次男に生まれる。1914年に倉吉中学(現:倉吉東高等学校)を卒業。第三高等学校(現:京都大学)の受験に失敗して画家を志し、美術教師の中井金三に1年間絵を学ぶ。さらに上京して白馬会葵橋洋画研究所で学び、1916年に東京美術学校(現:東京芸術大学)に入学を果たす。
井江 耕宗(いえ こうそう、明治23年〈1890年〉 - 昭… 井江 耕宗(いえ こうそう、明治23年〈1890年〉 - 昭和42年〈1967年〉)とは、明治時代から昭和時代にかけての日本画家。 尾形月耕の門人で本名は宗市。耕宗と号す。鳥取県勝谷村今市(現在の鳥取市鹿野町今市)に井江藤三郎の子として生まれる。明治36年(1903年)、14歳のときに上京し月耕の内弟子となり、美人画や人物画を学んだ。月耕から風景、花木、鳥獣の写生をするよう勧められ、西日本各地を回る。昭和2年(1927年)から昭和5年にかけては朝鮮京城(現ソウル)に滞在し画家としての生活を送った。その後東京に帰ったが、再び朝鮮や中国、九州、鹿野など各地を漫遊しながら絵を描く。昭和30年(1955年)ごろ鹿野町に滞在し、絵筆を振るったのが画家生活の終わりであったといわれる。
橋浦 泰雄(はしうら やすお、1888年(明治21年)11月… 橋浦 泰雄(はしうら やすお、1888年(明治21年)11月30日 - 1979年(昭和54年)11月21日)は、日本の社会運動家、民俗学者、画家である。 鳥取県岩美郡大岩村(現在の岩美町)に生まれる。鳥取高等小学校(現在の鳥取市立久松小学校)卒業後、実家で経営していた養蚕業蚕や雑貨商売に携わった。後に実弟である橋浦時雄と共に片山潜らと親交を持ち、社会運動活動を始める。これによって1918年(大正9年)には弟と共に日本社会主義同盟の創設に携わるが、翌1919年(大正10年)に発生した第2回メーデーに関与したとして、約2か月間拘留される処分を受けた。 1923年(大正14年)には日本プロレタリア文芸連盟の結成にも携わり、その1928年(昭和3年)には日本プロレタリア美術家同盟となりその画家や委員長としての活動も始める。
菅 楯彦(すが たてひこ、明治11年(1878年)3月4日 … 菅 楯彦(すが たてひこ、明治11年(1878年)3月4日 - 昭和38年(1963年)9月4日)は、日本画家。鳥取県鳥取市出身。本名は藤太郎。号は、初め盛虎、のち静湖、静香。大阪美術会会員。大阪市名誉市民、倉吉市名誉市民。浪速の風俗を愛し「浪速御民(なにわみたみ)」と標榜、はんなりとした情趣ある浪速風俗画で「最も大阪らしい画家」と呼ばれた。 明治11年(1878年)、鳥取市で菅大治郎(画号・盛南)の長男として生まれる。本名は藤太郎。父は元倉吉藩士の日本画家であり、塩川文麟の門下で岸派を折衷したという。5歳頃まで、父母の郷里・倉吉で過ごす。陶器の絵付を指導する父と共に姫路、ついで赤穂へ転居。明治14年(1881年)、京都へ向かう途中大阪の身内に引き留められ、ここに住むことになる。
田江 泰造(たごう たいぞう、1871年1月17日(明治3年… 田江 泰造(たごう たいぞう、1871年1月17日(明治3年11月27日)- 1939年(昭和14年)6月5日)は、明治から昭和前期の農業経営者、政治家、日本画家。衆議院議員、鳥取県会議長、鳥取県東伯郡下北条村長。号・素堂、素道、素翁。 伯耆国久米郡弓原村(鳥取県久米郡下北条村、東伯郡下北条村弓原、北条町を経て現北栄町弓原)で、大庄屋田江弥三郎の長男として生まれる。父が設けた自邸内の家塾・択善学舎で学んだ。 農業を営み、牧畜、蚕業の改良に尽力した。また製糸工場を経営した。下北条村会議員に就任。1896年(明治29年)東伯郡会議員となる。同年、鳥取県会議員に選出され7期30年間在任。1927年(昭和2年)県会議長に就任した。
嗒然(とうぜん、本姓・八幡、1796年〈寛政8年〉 - 18… 嗒然(とうぜん、本姓・八幡、1796年〈寛政8年〉 - 1862年1月5日〈文久元年12月6日〉)は、日本の僧侶、画家。 伯耆国会見郡皆生村(現・鳥取県米子市)の漁家に生まれる。11歳の時に大山寺に入り、台腎に師事し、剃髪して名を台貫と改める。詩文書画に堪能である。「千枚書き」と呼ばれるほど数多くの書画をこの世に残す。 「朝比奈三郎、曽我五郎の草摺りを曳く図」を描いて貴布禰神社に奉納する。晩年は大山寺を出て、山麓八幡に草庵を結び、迎嶽観主人太虚と号し、専ら風流三昧の境涯に浸り、十神山から発掘の古銅印を落款に用いる。文久元年12月6日に66歳で寂滅する。
河村 芳舟(かわむら ほうしゅう、明治12年(1879年) … 河村 芳舟(かわむら ほうしゅう、明治12年(1879年) - 昭和38年(1963年)は、日本画家。鳥取県邑美郡今町(現・鳥取県鳥取市)出身。 河村鉄二郎の二男として生まれる。名は正吉。 早くから狩野派の画法を学び、のちに東京に出て、狩野派の橋本雅邦の門に入る。兄弟子に川合玉堂がいた。 大正12年(1923年)、鳥取市掛出町の妙円寺本堂の左右それぞれ3枚の襖に半年を費やして墨絵の大作を描いている。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。