品川 弥二郎(しながわ やじろう、旧字体: 品川 彌二郞、天… 品川 弥二郎(しながわ やじろう、旧字体: 品川 彌二郞、天保14年閏9月29日〈1843年11月20日〉- 明治33年〈1900年〉2月26日)は、日本の官僚・政治家。栄典は正二位勲一等子爵。名は省吾、弥吉。号は扇洲。別称に橋本八郎、松本清熊などがある。 天保14年(1843年)、長州藩の足軽・品川弥市右衛門と池田六左衛門の長女・まつの長男として生まれた。安政5年(1858年)、松下村塾に入門して吉田松陰から教えを受けるが、安政6年(1859年)に安政の大獄で松陰が刑死すると、高杉晋作らと行動を共にして尊王攘夷運動に奔走し、英国公使館焼き討ちなどを実行している。元治元年(1864年)の禁門の変では八幡隊長として参戦し、のちに太田市之進、山田顕義らと御楯隊を組織した。
古谷 新作(ふるや しんさく、1843年10月8日(天保14… 古谷 新作(ふるや しんさく、1843年10月8日(天保14年9月15日) - 1921年(大正10年)5月1日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(3期)。 周防国佐波郡植松村(のち華城村、現・防府市)に生まれる。漢籍を学ぶ。剣術と砲術を修め、さらに西洋兵学を学ぶ。1868年藩の砲兵隊長、花陽丸砲艦司令として乗り組み、蝦夷地に派遣される。1869年藩の砲兵塾舎長、兵学寮助教を命じられ、1871年山口県一番砲隊少尉となるが、翌年、解散となる。1974年陸軍武庫司十等出仕となり、翌年陸軍十等出仕となる。1876年陸軍上等監護となるが、病気のため辞職する。 陸軍を辞職した後は佐波郡大区代議人、山口県会議員、同副議長、同常置委員、同議長となる。
佐藤 與三(さとう よぞう、天保14年8月23日〈1843年… 佐藤 與三(さとう よぞう、天保14年8月23日〈1843年9月16日〉 - 没年不詳)は、明治期の商工官僚。官選群馬県知事。 長門国阿武郡萩平安湖町(現萩市)に生まれる。 明治5年(1872年)工部省五等出仕に任官。さらに鉄道助・燈台権守を務めた。1873年、燈台頭に昇進。以後、工部大書記官として、鉱山権頭、鉱山局長、内国勧業博覧会審査部長、工作局長、総務局鉱山課長、品川硝子製造所長、参事院員外議官補などを歴任。 1884年7月30日、群馬県令に就任。1886年7月19日、地方官官制改正に伴い同県知事となる。明治21年(1888年)6月限りで廃止とされた公娼について、同年5月に廃娼延期令を発布し、世論の反発を受けて廃止の期限を限るなどの妥協を行うが、県会から辞職を迫られ議会解散を行う。
内海 忠勝(うつみ ただかつ、1843年9月12日〈天保14… 内海 忠勝(うつみ ただかつ、1843年9月12日〈天保14年8月19日〉- 1905年〈明治38年〉1月20日)は、日本の武士、官僚、政治家。内務大臣(第16代)、長崎県令、三重県令、兵庫県知事(第9代)、長野県知事(第2代)、神奈川県知事(第3代)、大阪府知事(第8代)、京都府知事(第8代)、会計検査院長、貴族院議員などを歴任。吉田治助の四男。長州藩士である。従三位勲三等、死後に従二位勲一等旭日大綬章。男爵。 周防国吉敷郡吉敷村(現在の山口県山口市)出身。長州藩士として禁門の変に参加。維新後新政府に登用され、岩倉使節団に大使随行員として参加。地方官として長崎、三重、兵庫、長野、神奈川、大阪、京都の各県令・知事を歴任。
井上 勝(いのうえ まさる、天保14年8月1日(1843年8… 井上 勝(いのうえ まさる、天保14年8月1日(1843年8月25日) - 明治43年(1910年)8月2日)は、日本の幕末から明治にかけて活躍した武士(長州藩士)、官僚。正二位勲一等子爵。幼名は卯八(うのはち)、通称は弥吉(やきち)。鉄道発展に寄与し、日本の鉄道の父と呼ばれる。長州五傑の1人。ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン卒業。
有地 品之允(ありち しなのじょう、1843年4月14日〈天… 有地 品之允(ありち しなのじょう、1843年4月14日〈天保14年3月15日〉- 1919年〈大正8年〉1月17日)は、日本の陸軍軍人、海軍軍人、華族、政治家。貴族院議員、第2代連合艦隊司令長官。爵位は男爵。最終階級は海軍中将。別名は信政。 長州藩士で武術指南役を務め、禄高1千石の大身である有地信敏(通称は藤馬)の長男として生まれる。戊辰戦争では干城隊士として奥羽に出陣した。 明治2年(1869年)から同4年(1871年)まで欧州へ出張して普仏戦争を視察。帰国後に陸軍少佐、御親兵6番大隊長となり、同年から明治6年(1873年)まで侍従を務める。同年に海軍に転じ、海軍少佐となって提督府分課に勤務。
寺島 秋介(てらしま あきすけ / てらじま あきすけ / … 寺島 秋介(てらしま あきすけ / てらじま あきすけ / てらじま しゅうすけ、1842年11月17日(天保13年10月15日)- 1910年(明治43年)7月30日)は、日本の官僚・政治家。諱・直方、通称・秀之助。 周防国熊毛郡原村(現周南市)で長州藩士・寺島太次郎直一、沢夫妻の長男として生まれる。下関戦争、禁門の変に参加した。 慶応4年1月12日(1868年2月6日)浪華隊隊長に就任。同年2月27日(3月20日)東征大総督・有栖川宮熾仁親王の副参謀を命ぜられ江戸に下り、上野戦争では団子坂口の諸藩兵の総指揮を担当した。同年7月2日(8月19日)奥羽鎮撫総督九条道孝の参謀に任じられ奥州を転戦し、明治元年11月1日(1868年12月14日)京都に帰還した。
田村 寛一(たむら かんいち、1842年10月23日〈天保1… 田村 寛一(たむら かんいち、1842年10月23日〈天保13年9月20日〉- 1899年〈明治32年〉3月4日)は、幕末の長州藩士、明治期の大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 長門国阿武郡萩城下(現山口県萩市)で長州藩士の家に生まれた。江戸に遊学し江川英龍の江川塾で砲術を学び、帰藩して萩調製方に出仕した。四境戦争、戊辰戦争に従軍した。 1871年(明治4年)御親兵として上京。佐賀の乱、西南戦争に従軍した。 1885年(明治18年)5月、参謀本部副官に就任。1886年(明治19年)5月、歩兵第6連隊長となり、1888年(明治21年)11月、陸軍歩兵大佐に昇進。近衛歩兵第1連隊長、陸軍省人事課長を歴任し、1894年(明治27年)10月、陸軍少将に進み歩兵第8旅団長に就任。
野村 素介(のむら もとすけ、1842年6月26日(天保13… 野村 素介(のむら もとすけ、1842年6月26日(天保13年5月18日)- 1927年(昭和2年)12月23日)は、幕末から昭和初期にかけての日本の武士(長州藩士)、官僚、政治家、書家。正二位勲一等 男爵。幼名は範輔、字は絢夫、号は右仲、素軒。 1842年(天保13年)5月18日に長州藩士 有地留之助の次男として周防国吉敷郡長野村(現在の山口県山口市)に生まれる。はじめ、萩の藩校明倫館で学ぶ。1859年(安政6年)4月、江戸へ行き、長州藩上屋敷内の有備館で学ぶ。さらに儒学者 塩谷宕陰から漢籍・経書・歴史を、書家 小島成斎から書道を学ぶ。1862年(文久2年)に帰国して明倫館舎長となる。 1863年(文久3年)10月に同じく長州藩士 野村正名の養子となり、1866年(慶応2年)2月、家督を継ぐ。
藤田傳三郎(ふじた でんざぶろう、1841年7月3日(天保1… 藤田傳三郎(ふじた でんざぶろう、1841年7月3日(天保12年5月15日) - 1912年(明治45年)3月30日)は、日本の商人、実業家、華族。明治時代の大阪財界の重鎮で、藤田組(後の藤田財閥、現・DOWAホールディングス)の創始者。男爵。 建設、土木、鉱山、電鉄、電力開発、金融、紡績、新聞などの経営を手がけ、今日の多くの名門企業の前身を築いた。また有能な経営者を多数育て、美術品の収集家、慈善事業家、数寄者としても名高い。号を香雪と称す。現在の山口県萩市出身。元奇兵隊士だとされるが詳細は不詳。 長州藩の萩(現・山口県萩市)で醸造業を営む藤田半右衛門常徳の四男に生まれる。家業は醸造業の他、藩の下級武士に融資を行う掛屋を兼営していた。
国貞 廉平(くにさだ れんぺい、天保12年3月22日〈184… 国貞 廉平(くにさだ れんぺい、天保12年3月22日〈1841年5月12日〉 - 1885年〈明治18年〉1月18日)は、日本の武士(長州藩士)、官僚。愛知県令。諱は景孝、景廉、景行。通称は鶴之進、直之進、直人、晩年には廉平。変名は逸水清助。雅号は韓山。 天保12年3月(1841年5月)、長門国萩城下松本村で長州藩士・国貞要助の嫡男として生まれた。藩校・明倫館で学び、万延元年(1860年)江戸の有備館に入り、大橋訥庵の指導も受けた。文久2年(1862年)藩世子・毛利元徳の近侍となる。 慶応2年正月(1865年)、鎮静会議員に加わり内乱の収拾に尽力。慶応2年5月(1866年)、干城隊頭取兼文学寮都講となり、さらに国政方を務めた。
国重 正文(くにしげ まさぶみ、天保11年10月15日〈18… 国重 正文(くにしげ まさぶみ、天保11年10月15日〈1840年11月30日〉 - 1901年〈明治34年〉10月27日)は、幕末の長州藩士、明治期の内務官僚・教育者・神職。官選富山県知事。通称・徳次郎、篤次郎。漢詩・書に堪能で、半山と号した。 長門国阿武郡萩土原(現山口県萩市)で、安芸武田氏の流れを汲む長州藩大組士・国重三郎兵衛恒升の長男として生まれた。藩校・萩明倫館で学ぶとともに、吉田松陰からも山鹿流兵学を学んだ。文久元年(1861年)家督を継ぎ浜崎代官に就任。さらに、当島代官、大組物頭御軍制総掛、山口明倫館頭人役を歴任した。 維新鴻業で果たした役割として夙に知られる事跡は少ないものの、滋賀県大津市の円満院門跡坊官西坊家では、第8代当主暹胤の後室由里の実兄で第9代当主七造の実父が国重正文であるとしており、西坊家に伝わる口伝として①京都の池田屋事件の時には新選組より逃れた一人である②明治維新の頃には桂小五郎と一緒に行動していた――等の秘話を伝えている。
松本 鼎(まつもと かなえ、1839年5月27日(天保10年… 松本 鼎(まつもと かなえ、1839年5月27日(天保10年4月15日) - 1907年(明治40年)10月20日)は、幕末の長州藩士、明治期の内務官僚・政治家。和歌山県知事、衆議院議員、貴族院議員、元老院議官、男爵。通称・鼎造。 周防国、現在の山口県防府市三田尻出身。生家は農家で仏門に入る。松下村塾に入り吉田松陰に学んだ。還俗し長州藩士となり、禁門の変に従軍し、敗戦後、御楯隊に加わった。第二次長州征伐、戊辰戦争に従軍。明治元年12月(1869年1 - 2月)、箱館府監事に就任。 明治4年2月28日(1871年4月17日)、大阪府大属となり、権典事、典事、権参事、小書記官、大書記官と昇進した。1878年8月、熊本県大書記官に転じ、さらに和歌山県大書記官を務めた。
山縣 有朋(やまがた ありとも、新字体:山県 有朋、1838… 山縣 有朋(やまがた ありとも、新字体:山県 有朋、1838年6月14日〈天保9年閏4月22日〉- 1922年〈大正11年〉2月1日)は、日本の政治家・軍人。最終階級・称号は元帥陸軍大将。位階・勲等・功級・爵位は従一位大勲位功一級公爵。 内務卿(第9代)、内務大臣(初代)、内閣総理大臣(第3・9代)、司法大臣(第7代)、枢密院議長(第5・9・11代)、陸軍第一軍司令官、貴族院議員、陸軍参謀総長(第5代)を歴任した。 幼名辰之助、通称は小助、1864年以降は狂介・小輔・狂助・狂輔。変名として萩原鹿之助の名も用いた。1871年以降に有朋の諱を称した。号は1871年まで素狂、以降は無隣庵主、含雪。 長州藩の蔵元付仲間だった下級武士の家に生まれ、学問と槍の稽古に励んだ。
堀 真五郎(ほり しんごろう、天保9年閏4月11日〈1838… 堀 真五郎(ほり しんごろう、天保9年閏4月11日〈1838年6月3日〉 - 1913年〈大正2年〉10月25日)は、幕末の長州藩の志士で、明治時代の大審院判事、貴族院勅選議員。諱は義彦。変名は有田又四郎。姓は藤原とも。号は水石・風民・白鷺夫・斜石。 天保9年(1838年)4月11日、長門国阿武郡萩町において、妙玖寺の臣・堀文左衛門松園の子として生まれる。年少の頃から軍談を好んで、功名心旺盛だったため、脱藩して各国の志士達、特に久坂玄瑞・高杉晋作らと交友を深めて尊皇攘夷活動に加わった。文久2年(1862年)11月に高杉晋作らの英国公使館焼き討ち事件にも参加し、文久3年(1863年)に八幡隊が結成されると初代総管に就任した。
吉富 簡一(よしとみ かんいち、旧名: 吉富 藤兵衛(よしと… 吉富 簡一(よしとみ かんいち、旧名: 吉富 藤兵衛(よしとみ とうべえ)、天保9年1月19日(1838年2月13日) - 大正3年(1914年)1月18日)は、日本の江戸時代末期(幕末)から明治時代の実業家、政治家。幼名は美之助。 周防国矢原村(現・山口県山口市湯田)の裕福な豪農・庄屋に生まれ、井上聞多(後の井上馨)の幼馴染でもあり、尊王攘夷運動及び倒幕運動に参加。農民ではあるが大地主として裕福だった吉富は高杉晋作の奇兵隊に資金提供する他、鴻城軍(長州藩諸隊)を組織し井上を総裁に据える。 明治維新後は長州閥の一員として活動。木戸孝允に認められて明治3年(1870年)に上京して官吏となり士族に列せられ吉富簡一と改名するが、翌明治4年(1871年)に廃藩置県のあおりで長州藩への多額の貸し付けが焦付き、家計の立て直しの為に山口県に帰る。
山尾 庸三(やまお ようぞう、1837年11月5日〈天保8年… 山尾 庸三(やまお ようぞう、1837年11月5日〈天保8年10月8日〉- 1917年〈大正6年〉12月22日)は、日本の政治家。子爵。 長州藩重臣で寄組繁沢氏の給領地庄屋であった山尾忠治郎の二男。周防国吉敷郡二島村(現:山口県山口市秋穂二島)出身。木戸幸一(太平洋戦争時の昭和天皇側近)の外祖父(長女の寿栄が木戸の母)に当たる。 萩藩寄組である繁沢石見に経理の才を認められ奉公(陪臣)に上がる。1852年(嘉永5年)、江戸に赴き、同郷の桂小五郎に師事し、その後江川塾の門弟となる。 1861年(文久元年)、幕府の船・亀田丸に乗船し、アムール川流域を査察。帰国後は箱館に滞在して武田斐三郎に師事した。1862年(文久2年)、英国公使館焼き討ち事件に参加したほか、塙忠宝を伊藤博文とふたりで暗殺した。
磯部 十蔵(十藏、いそべ じゅうぞう、1837年8月28日(… 磯部 十蔵(十藏、いそべ じゅうぞう、1837年8月28日(天保8年7月28日)- 1905年(明治38年)5月24日)は、幕末の徳山藩士、明治期の政治家・農業指導者。衆議院議員。 周防国都濃郡河内村出合(山口県都濃郡河内村、久保村を経て現下松市)で生まれた。文学、武術を学んだ。幕末、国事に奔走。徳山藩山崎隊司令官、同藩新隊招募掛兼政府御用掛を務めた。 1879年(明治12年)山口県会議員に選出された。県下の公共事業の推進に尽力。1894年(明治27年)3月、第3回衆議院議員総選挙(山口県第4区、無所属)で初当選。同年9月の第4回総選挙(山口県第4区、無所属)でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
井上 馨(いのうえ かおる、1836年1月16日〈天保6年1… 井上 馨(いのうえ かおる、1836年1月16日〈天保6年11月28日〉- 1915年〈大正4年〉9月1日)は、日本の政治家。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵。 長州藩の藩主側近から尊王攘夷運動に参加し、イギリスへの密航をきっかけに開国論者となり、長州藩における倒幕運動の中心人物として活動した。太政官制時代に外務卿、参議などを歴任し、長州閥の重要人物となった。第1次伊藤内閣成立により外務卿改め外務大臣を務め、「鹿鳴館外交」を展開し不平等条約改正に臨み、黒田内閣で農商務大臣、第2次伊藤内閣で内務大臣、第3次伊藤内閣では大蔵大臣など要職を歴任、元老の一人として政財界に多大な影響を与えた。 幼名は勇吉、通称は初め文之輔だったが、長州藩主・毛利敬親から拝受した聞多(ぶんた)に改名した。
境 二郎(さかい じろう、天保7年8月〈1836年〉 - 1… 境 二郎(さかい じろう、天保7年8月〈1836年〉 - 1900年〈明治33年〉2月9日)は、幕末の長州藩士、明治期の官僚。島根県令(現在の知事)。旧名・斎藤栄蔵。名・建直(たてなお)、字・子(士)彦。 長門国萩土原村(現・山口県萩市)の長州藩士の斎藤貞順の二男として生まれる。当時の名前は斎藤栄蔵、のち境与三兵衛の養子となり、明治初年に境二郎と改名。 15歳の嘉永3年(1850年)藩校明倫館で教授する吉田松陰の門人となる。18歳のとき江戸に遊学後いったん帰郷、21歳の安政3年(1856年)、松下村塾に入門して門下生になる。その後、塩谷宕陰にも師事した。文久3年(1863年)、明倫館文章掛等を歴任。
杉 孫七郎(すぎ まごしちろう、1835年2月13日〈天保6… 杉 孫七郎(すぎ まごしちろう、1835年2月13日〈天保6年1月16日〉- 1920年〈大正9年〉5月3日)は、日本の宮内官僚。諱は重華。字は子華。通称は徳輔・忠次郎・少輔九郎。号は松城・聴雨。 植木五郎右衛門の次男として周防国吉敷郡御堀村(現:山口県山口市)で生まれる。母は周布政之助の姉である。杉考之進盛倫の養子となり、藩校明倫館で学んだ他、吉田松陰にも師事した。藩主の小姓を務めた後、1861年(文久元年)、藩命により江戸幕府の遣欧使節である竹内保徳・松平康英らに従って欧米諸国を視察する。正式の使節団員ではなく、賄方並小使雇人の杉徳輔としての同行だった。帰国後、下関戦争では井上馨と共に和議に尽くし、元治の内乱では高杉晋作を支持しつつも、保守派との軍事衝突には最後まで反対した。
長松 幹(ながまつ つかさ / みき、1834年2月9日〈天… 長松 幹(ながまつ つかさ / みき、1834年2月9日〈天保5年1月1日〉 - 1903年〈明治36年〉7月16日)は、幕末の長州藩士、明治期の歴史学者・政治家。元老院議官、貴族院勅選議員、男爵、錦鶏間祗候。諱・文仲、字・子固。通称・大蔵、文助、文輔。号・秋琴。 周防国吉敷郡矢原村(現山口市矢原)で医者・長松玄厚の長男として生まれる。大田稲香の指導を受け、嘉永6年(1853年)京都に遊学し、山本読書室に入り山本亡羊から本草学を学ぶ。安政5年(1858年)以降、久坂玄瑞らと国事に奔走。元治元年(1864年)帰藩し右筆に登用され、その後、儒役雇、雇医員を経て、編輯局で尊王事績の編集に従事。鴻城隊に加わり、戊辰戦争中は軍中日誌を担当した。
木戸 孝允(きど たかよし/きど こういん、天保4年6月26… 木戸 孝允(きど たかよし/きど こういん、天保4年6月26日〈1833年8月11日〉- 明治10年〈1877年〉5月26日)は、日本の幕末の長州藩士、勤王志士、明治時代初期の政治家。雅号は松菊、木圭、広寒、猫堂、老梅書屋、竿鈴(干令)。明治維新の元勲として、大久保利通、西郷隆盛とともに維新の三傑の一人に数えられる。幕末期には桂 小五郎(かつら こごろう)の名で活躍した。 長州藩出身。同藩藩医和田家の生まれだが、7歳で同藩藩士桂家の養子となる。1852年には江戸に留学して斎藤弥九郎の道場で剣術を学び、また洋式の砲術や兵術、造船術、蘭学などを学んだ。 1858年の安政の大獄以降、薩摩藩、水戸藩、越前藩、会津藩など諸藩の尊王攘夷の志士たちと広く交わるようになり、周布政之助・久坂玄瑞・高杉晋作らと結び、藩の尊王攘夷派における指導者的立場となった。
東 沢瀉(ひがし たくしゃ、天保3年10月9日〈1832年1… 東 沢瀉(ひがし たくしゃ、天保3年10月9日〈1832年11月1日〉 - 明治24年〈1891年〉3月28日)は、幕末の岩国藩士・儒学者(陽明学者)。諱は正純、通称は崇一郎、号は白沙、沢瀉。沢瀉の号は、明治になってから用いている。 天保3年(1832年)10月9日、周防国岩国錦見に生まれる。藩校養老館では、大草馨堂、南部五竹と並んで学内の三博士と称せられた。その後、江戸に出て佐藤一斎らに陽明学を学ぶ。文久3年(1863年)3月、養老館の助教に任用されるが、朱子学中心の学風と合わず、1年で辞任した。岩国藩の佐幕的姿勢に満足せず、尊王攘夷を唱えて必死組を組織し、栗栖天山や南部五竹らと共に兵制改革を進める。
伊藤 房次郎(いとう ふさじろう、1831年8月12日〈天保… 伊藤 房次郎(いとう ふさじろう、1831年8月12日〈天保2年7月5日〉 - 1907年〈明治40年〉2月3日)は、日本の実業家・地方政治家。山口県赤間関市(現・下関市)の初代市長。慶長から代々薬種商を営む亀屋伊藤家の当主。 下関市成立期において公職・要職を歴任。商業活動、地方自治、商工会、社会事業など、老舗の家業運営と並行し多方面で活動。地域社会の行政・経済に広く携わった人物である。 伊藤房次郎は、山口県出身。山口市中市古熊・河野善九郎の次男。伊藤源左衛門の養子となり、薬種商の老舗「亀屋喜三郎商店」の家督を相続。当家は鎌倉時代の嘉禎年間に、祖先が長門國目代として京都から下向したことに始まり、慶長から薬舗を開業したと伝わる亀屋伊藤家である 1863年(文久3年)攘夷の令にあたり、赤間関在番所の用務を任命される。
伊藤 助太夫(いとう すけだゆう、天保元年(1830年) -… 伊藤 助太夫(いとう すけだゆう、天保元年(1830年) - 明治5年11月19日(1872年12月19日))は、幕末から明治にかけての下関の豪商。別名、九三(きゅうぞう)。 長府藩赤間関の大年寄であり、大名に宿舎を提供する東の本陣伊藤家の当主であった。諱は盛正、号は自然居士、静斎。 下関を代表する豪商であり、幕末の攘夷志士らを様々な側面から支援した。特に志士の代表とも言える坂本龍馬との関係は深いものであった。伊藤邸は慶応元年(1865年)の初対面以来、龍馬の止宿先であった。邸は広く、高杉晋作らが結成した奇兵隊も一時、邸内にある阿弥陀寺(赤間神宮)に本陣を移したこともある。 現存する龍馬が書いた手紙のうち、助太夫宛の手紙が2番目に多い(14通)ことからも龍馬との関係が深かったことが覗える。
狩野 芳崖(かのう ほうがい、文政11年1月13日〈1828… 狩野 芳崖(かのう ほうがい、文政11年1月13日〈1828年2月27日〉 - 明治21年〈1888年〉11月5日)は、幕末から明治期の日本画家。近代日本画の父と称される画家のひとり。幼名は幸太郎。名は延信()、雅道()。号は松隣、皐隣。 盟友たる橋本雅邦と共に、日本画において江戸時代と明治時代を橋渡しする役割を担うと共に、河鍋暁斎、菊池容斎らと狩野派の最後を飾った。 1828年長府印内(現・下関市長府印内町)で、長府藩狩野派の御用絵師だった狩野晴皐の家に生まれる。芳崖の狩野家は、桃山時代に狩野松栄から狩野姓を許された松伯に起源を発し、3代洞晴(どうせい)のとき長府藩御用絵師となり、5代察信(さつしん)の時代に長府に移り住んだ。
島田 蕃根(しまだ ばんこん/みつね、1827年12月25日… 島田 蕃根(しまだ ばんこん/みつね、1827年12月25日(文政10年11月8日)- 1907年(明治40年)9月2日)は、幕末から明治時代に活躍した僧、仏教学者である。法名は円真。別名に如縄道人等。 役藍泉(島田浄観)の孫として周防の徳山に生まれる。幼年期より徳山藩に仕え、儒教や神道等宗教に関する事を多く学んだ。後に天台宗本山派修験道教学院の住職となる。 後に藩主の命によって上洛し興譲館で教鞭を執り、勤皇説を唱えた。維新後の1872年(明治5年)に廃藩置県に携わるため還俗し同時期に活躍した福田行誡、獅岳快猛らと共に『大蔵経』の編纂に携わった。その後、教部省や内務省内の社寺局等に勤めるなど現代における仏教の興隆に貢献した。
玉乃 世履(たまの よふみ、文政8年7月21日(1825年9… 玉乃 世履(たまの よふみ、文政8年7月21日(1825年9月3日) - 1886年(明治19年)8月8日)は、日本の司法官。剛毅果断・清廉潔白な精神の持ち主で、裁判官としての公正な裁きにより、「明治の大岡」と称賛された。号は五龍。大審院長在職中に自殺した。通称は泰吉郎、東平。 この項目は、法曹に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
大村 益次郎(おおむら ますじろう、 文政8年5月3日〈18… 大村 益次郎(おおむら ますじろう、 文政8年5月3日〈1825年6月18日〉 - 明治2年11月5日〈1869年12月7日〉)は、幕末期の日本の官僚・洋学者。維新の十傑の一人。旧姓は村田(むらた)、幼名は宗太郎、通称は蔵六(ぞうろく)、良庵(または亮庵)、のちに益次郎(ますじろう)。雅号は良庵・良安・亮安。諱は永敏(ながとし)。位階は贈従二位。家紋は丸に桔梗。 戊辰戦争では東征大総督府補佐として勝利への立役者となった。太政官制において兵部省初代大輔(次官・長官の卿は皇族が就いたため、事実上の最高責任者)を務め、日本陸軍の創始者、陸軍建設の祖とされる。兵部省は陸軍省・海軍省の前身であり、教え子からは伊藤雋吉ら海軍の重鎮も輩出しており、近代日本軍全体に対する創業の功績も大きい。
山根 孝中(やまね こうちゅう、文政6年(1823年) - … 山根 孝中(やまね こうちゅう、文政6年(1823年) - 明治31年(1898年))は、幕末から明治時代にかけて活躍した医師。 文政6年(1823年)、周防国吉敷郡矢原村(現在の山口市)にて医家・重嶺泰安の次男として出生。後に藩の一代雇医で叔父の山根文季の養子となる。安政5年(1858年)、吉田松陰の松下村塾に36歳で入塾。吉田松陰時代の松下村塾の塾生としては最年長だった。しかし同年に萩にもコレラが流行し、コレラに罹患した文季が1858年8月に57歳で他界。このため家督を継ぎ、萩・香川津の自宅に村医者として開業した。文久3年(1863年)眼科医としての評判により、養父と同じく藩から一代雇医に取り立てられる。
富永 有隣(とみなが ゆうりん、文政4年5月14日(1821… 富永 有隣(とみなが ゆうりん、文政4年5月14日(1821年6月13日) - 明治33年(1900年)12月20日)は、江戸時代末期(幕末)の長州藩士・儒学者。諱は徳、後に悳彦。通称は弥兵衛。有隣は字で、『論語』の「徳は孤ならず必ず隣あり」から命名したとされる。 文政4年(1821年)、周防国吉敷郡陶村(現在の山口県山口市)にて誕生。 幼少の頃に天然痘にかかり右目を失明する。9歳で長州藩藩校・明倫館に入り、13歳で藩世子(藩主嫡男)に『大学』を講じた。成人後、小姓を務めるが、他人と打ち解けなかったために、同僚・親族らに憎まれ、嘉永5年(1852年)に冤罪で見島に流され、嘉永6年(1853年)には萩野山獄に移された。
白根 多助(しらね たすけ、文政2年5月6日〈1819年6月… 白根 多助(しらね たすけ、文政2年5月6日〈1819年6月27日〉 - 1882年〈明治15年〉3月15日)は、幕末の長州藩士、明治期の内務官僚。埼玉県令。旧姓・太田、諱・翼、通称・多助、変名・大田翼、号・梅園。 周防国吉敷郡吉敷村佐畑(現山口県山口市)で、長州藩士・太田直猷の七男として生まれ、白根兼清の養子となる。藩では美禰郡宰として出仕し、さらに大坂藩邸で勤務した。文久3年(1863年)3月、中山忠光らの長州移送に尽力した。文久4年(1864年)正月、帰藩後に所帯方役に就任し会計を担当。以後、会計庶務方、美禰部署管事(代官)、山口藩会計大属などを歴任し、藩財政の維持に尽力した。 明治政府に出仕し、明治4年(1871年)11月、埼玉県権参事に就任。
小幡 高政(おばた たかまさ、1817年12月26日(文化1… 小幡 高政(おばた たかまさ、1817年12月26日(文化14年11月19日) - 1906年(明治39年)7月27日)は、幕末の長州藩士。明治時代の官吏。実業家。銀行家。宇都宮県参事、小倉県参事、同権令。諱は高政、通称は又介、蔵人、図書、彦七、雅号は缾山、并山。本姓は祖式。 長州藩士。祖式正良の子として周防国吉敷郡恒富村(山口県吉敷郡黒川村、平川村を経て、現山口市)に生まれ、1844年(弘化元年1月)小幡定一の養子となる。1850年(嘉永3年8月)家督を相続し、非常手当表番頭、1851年(嘉永4年)大組物頭弓頭役、1856年(安政3年)手廻物頭鉋砲頭役、1858年(安政5年)萩町奉行役、江戸留守居役などを歴任した。
佐藤 信寛(さとう のぶひろ、文化12年12月27日(181… 佐藤 信寛(さとう のぶひろ、文化12年12月27日(1816年1月25日) - 明治33年(1900年)2月15日)は、江戸時代後期の長州藩藩士。幼名は三郎、のち通称を寛作、諱を信寛と名乗る。号は蝦洲。正五位。佐藤家第10代当主。 子孫に首相を務めた岸信介(姓が違うのは岸家へ養子に出されたため)・佐藤栄作の兄弟(曾孫)、および安倍晋三(来孫)がいる。 現在の山口県熊毛郡田布施町に、萩藩士・佐藤源右衛門(佐藤家第9代当主)の長子として生まれる。源右衛門の弟には坪井九右衛門がいる。 藩校明倫館に入り山県太華に学び、江戸にて清水赤城につき長沼流兵学を修め、吉田松陰に兵要禄を授けた。井上馨や伊藤博文、木戸孝允らとも親交があったという。
森 寛斎(もり かんさい、1814年3月2日〈文化11年1月… 森 寛斎(もり かんさい、1814年3月2日〈文化11年1月11日〉 - 1894年〈明治27年〉6月2日)は、日本の幕末から明治時代に京都を中心に活躍した絵師、日本画家。本姓は石田。幼名は幸吉、のち尚太郎。諱は公粛。字は子容、または寛仲。寛斎は号で、別号に桃蹊、晩山、造化室、天開図画楼。 森狙仙、森徹山、森一鳳・寛斎と続く森派の絵師。若い頃は攘夷運動に熱中したのとは裏腹に、温和で情趣的な画風で、「明治の応挙」と評された。 長州藩士、石田傳内道政の三男として生まれる。父道政は藩の分限帳などに名が無く、家督を継いだ長兄は『金禄券根帳』に「給禄米壱石八斗」とあることから、微禄の下級藩士だったようだ。
林 勇蔵(はやし ゆうぞう、文化10年7月16日(1813年… 林 勇蔵(はやし ゆうぞう、文化10年7月16日(1813年8月11日) - 明治32年(1899年)9月24日)は幕末明治期の長州藩/山口県の豪農。 文化10年(1813年)7月16日、周防国吉敷郡矢原村(現山口市)に生まれ、13歳で同郡上中郷(現山口市小郡町)の林家の養子となる。林家は、延宝7年(1679年)に四代・文左衛門が初めて上郷村庄屋役を勤めたのを契機に、以後代々庄屋役および小郡宰判大庄屋役などを歴任して幕末に至った。勇蔵は林家第十代当主にあたり、天保12年(1841年)上中郷庄屋、安政2年(1855年)小郡宰判大庄屋となった。 元治元年(1864年)12月15日、高杉晋作らが功山寺で挙兵すると、勇蔵はこれを金銭的に支援する。
白石 正一郎(しらいし しょういちろう、文化9年3月7日(1… 白石 正一郎(しらいし しょういちろう、文化9年3月7日(1812年4月18日)- 明治13年(1880年)8月31日)は、奇兵隊のスポンサー、長府藩の支藩である清末藩の御用商人。名は資風。通称は駒吉。または熊之助。号は橘円。商人の自由を求めて、家が破滅するまで奇兵隊へ財政支援し明治維新をバックアップした。明治政府より感謝を込めて正五位を贈られた。 文化9年(1812年)、長門国赤間関竹崎に萬問屋(荷受問屋)小倉屋を営んでいた白石卯兵衛・艶子の長男(8代目)として生まれた。米、たばこ、反物、酒、茶、塩、木材等を扱い、ほかに質屋を営み酒もつくった。もともと下関は西国交通の要衝であったため、長州藩など多くの藩から仕事を受けて、資金は豊富であった。
近藤 芳樹(こんどう よしき、享和元年5月25日〈1801年… 近藤 芳樹(こんどう よしき、享和元年5月25日〈1801年7月5日〉 - 1880年〈明治13年〉2月29日)は、幕末から明治時代の国学者、歌人、長州藩士である。本姓は田中、初名は裕。通称は源吾後に晋一郎。字は子潜、真蔭。号は寄居子庵、風月史生等。 周防国吉敷郡岩淵(現・山口県防府市)の百姓・田中源吉の長男として生まれる。猪飼敬所や原古処が周防を訪れた際に教えを受ける。文政6年()上方へ赴き、村田春門に歌学を、本居大平に国学を、山田以文に有職故実を学んだ。その後広島に居住。 天保10年()長州藩主・毛利敬親に召されて萩へ移る。翌年長州藩士近藤家を継承し近藤芳樹と改める。萩で家塾・抄宗寮を開いて弟子を育てる。
新 美香(あらた みか、10月3日 - )は、ライブ制作、音… 新 美香(あらた みか、10月3日 - )は、ライブ制作、音楽制作、マネージメント業務を行う傍ら、作詞家としても活動している。アメリカ合衆国イリノイ州出身、山口県岩国市育ち。日本とアメリカのハーフで、バイリンガルである。 (株)キョードー東京、(株)MSエンタテインメント、ビクターエンタテインメント(株)、(株)バッドニュースを経て独立。(株)スノーホワイトミュージックを設立。 Cocco、氷室京介、JUJU、Chara、aiko、中島美嘉、Carole King、Boyz II Men、Leah Dizon、白石蔵ノ介、幸村精市、他 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。
芝尾 よしこ(しばお よしこ、9月11日)は、日本の女性声優… 芝尾 よしこ(しばお よしこ、9月11日)は、日本の女性声優。山口県出身。山口県立宇部高等学校卒業。青二プロダクション附属俳優養成所青二塾東京校第30期生。
三宅 あみ(みやけ あみ、6月17日 - )は、日本のモデル… 三宅 あみ(みやけ あみ、6月17日 - )は、日本のモデル、リポーター、司会者。アイミング所属。 山口県下関市出身。山口県立下関西高等学校卒業。身長158cm。スリーサイズ:B80・W55・H80。靴:22.5cm。血液型:O型。 趣味:音楽鑑賞、読書、ライブに行くこと。特技:テニス。
田川 ヒロアキ(たがわ ひろあき、6月9日 - )は、日本の… 田川 ヒロアキ(たがわ ひろあき、6月9日 - )は、日本のギタリスト、キーボーディスト、シンガーソングライター。先天性の全盲で、ギターのネックを上から持つ独特の演奏スタイル。山口県下関市出身。 生まれて間もなく医師から先天性の視覚障害の可能性を告げられる。田川の記憶では3歳の頃は、うっすらと光と色を感じ取れていたという。幾度も治療を試みるも改善の兆しはなく徐々に視力が失われ、13歳で光を感じることもなくなり全盲となったが、不思議と精神的ダメージはなかったという。 幼少期の田川は、輪ゴムを空の菓子箱に嵌め、和音として弾き始め、その音を楽しむ一人遊びに夢中であった。その様子を見た両親が、音楽に興味を示していると思い、5歳からピアノを 8歳で琴を習わせてくれた。
田丸 楓(たまる かえで、5月15日 - )は、日本の声優・… 田丸 楓(たまる かえで、5月15日 - )は、日本の声優・ナレーターである。山口県下関市出身。パインズ所属。勝田声優学院卒業生。血液型はB型。 趣味はダンス、旅行、犬。ボカロダンスを踊っては動画サイトに投稿するのが楽しみであるという。イタリアン・グレイハウンド2匹を溺愛している。特技は整理整頓。筋金入りの捨て魔で、断捨離を大得意としている。
井上 トモノリ(いのうえ トモノリ、1月11日生)は、日本の… 井上 トモノリ(いのうえ トモノリ、1月11日生)は、日本のソングライター、編曲家、ギタリスト。山口県宇部市出身。ハイキックエンタテインメント所属。 自身のバンドはTAYNTON(テイントン)。福岡で活動の後、東京で活動。 幼い頃に母親の影響でビートルズとカーペンターズを聴いて育ちBOØWYを聴きバンドに目覚める。高校時代、ハードロック、ヘヴィメタルに明け暮れる。大学でギターポップのバンドを組み福岡で活動、後に上京。自身のバンドの活動と共に作家として活動中。 おはガールちゅ!ちゅ!ちゅ! かと*ふく(加藤英美里、福原香織) CRAYON POP Gothic×Luck SWEET CUTIE LOVELY DELUXXX DOKUMO BOYS!&GIRLS! 名古屋おもてなし武将隊 ハマトラ (アニメ) BOYS AND MEN 研究生 ミス・モノクローム(cv.堀江由衣)
山下 やよい(やました やよい)は、山口県岩国市出身の打楽器… 山下 やよい(やました やよい)は、山口県岩国市出身の打楽器・マリンバ奏者、吹奏楽指導者。 所属事務所は、ハラヤミュージックエンタープライズ。 打楽器・マリンバを松嶋秀男、佐藤正二郎、佐藤須美子、吉岡考悦に師事。 吹奏楽指導者としては、母校である山口県立岩国工業高等学校吹奏楽部のコーチとして小編成ながらコンクールにて中国大会にほぼ毎年導いている。
小山田 経子 は、日本の政治活動家、行政書士、元タレント。
藤本 晶子 は、東海テレビ放送の元アナウンサー。
國重 友美 は、日本の書家、芸術家、元タレント。山口県山口市… 國重 友美 は、日本の書家、芸術家、元タレント。山口県山口市出身。神戸松蔭女子学院大学文学部卒。
佐々木 萌 は、日本の元女子バレーボール選手。