坂本 嘉治馬(さかもと かじま、慶応2年3月11日(1866… 坂本 嘉治馬(さかもと かじま、慶応2年3月11日(1866年4月25日) - 昭和13年(1938年)8月23日)は、日本の実業家。明治、大正期を代表する出版社、冨山房を神田神保町に設立した。土佐国(高知県)宿毛村出身。 1866年、土佐国(高知県)宿毛村坂ノ下で生まれる。1884年に酒井融をたよって上京、同郷の小野梓が経営する東洋館に勤務する。1886年、東洋館が終焉をむかえたため、小野の義兄小野義眞の援助を受け冨山房を設立。1900年、吉田東伍『大日本地名辞書』の刊行を開始。1915年、上田萬年、松井簡治『大日本国語辞典』の刊行を開始。1920年、内外印刷株式会社を設立。1929年、出身地に私立坂本図書館(現:宿毛市立坂本図書館)を設立。
岩崎 久弥(いわさき ひさや、1865年10月14日〈慶応元… 岩崎 久弥(いわさき ひさや、1865年10月14日〈慶応元年8月25日〉 - 1955年〈昭和30年〉12月2日)は、日本の実業家。三菱財閥3代目総帥。正四位、男爵。 久弥は岩崎弥太郎・喜勢夫妻の長男として土佐国安芸郡井ノ口村(現・高知県安芸市)に生まれた。父・弥太郎は三菱財閥の創設者。明治8年に福澤諭吉の慶應義塾に幼稚舎から入塾。3年後に父が開設した三菱商業学校(明治義塾)に転じ、英語や簿記、法律、経済を学んだ。慶應義塾普通部を卒業後、明治19年に米国留学し、1888年(明治21年)にアメリカのペンシルベニア大学ウォートン・スクールに入学。 1891年(明治24年)に帰国後、副社長として三菱社に入り、1894年(明治27年)、三菱社の合資会社転換と共に、叔父・岩崎弥之助に代わって社長に就任。
武田 秀雄(たけだ ひでお、1863年1月5日(文久2年11… 武田 秀雄(たけだ ひでお、1863年1月5日(文久2年11月16日) - 1942年(昭和17年)2月16日)は、日本の海軍軍人、実業家。最終階級は海軍機関中将。 文久2年(1863年)11月、土佐国香美郡野市村(現:香南市)に生まれる。土佐藩家老の武田秀友の長男。 大阪英語学校を経て上京。当時満15歳であったが、同郷の海軍中秘史楠目正幹の斡旋により辛うじて証明を得て1878年(明治11年)8月、海軍兵学校機関科に入校 。1883年(明治16年)10月、海軍機関学校(旧2)を卒業。1886年(明治19年)4月、海軍少機関士(少尉相当官)に任官した。 1890年(明治23年)7月から1894年(明治27年)6月までフランスに留学。
西原 清東(さいばら せいとう、さいばら きよき、1861年… 西原 清東(さいばら せいとう、さいばら きよき、1861年10月11日(文久元年9月8日) - 1939年(昭和14年)4月11日)は、高知県出身の衆議院議員、同志社第4代社長(現在の総長)。のちに日本を離れてアメリカや南米で農場を経営した。 土佐国高岡郡出間村(現・土佐市)で十寸弥と金の長男として生まれる。1875年陶冶学校、1876年立志学舎、1880年茂松法学校で学ぶ。1881年、請われて福島県三春の正道館講師を務める。1883年、山脇泰子と結婚、翌年息子清顕が生まれる。1886年、代言人試験に合格。1887年、代言業を始める。1890年神戸に転居、多聞協会で受洗。 板垣退助や片岡健吉などに従って、自由民権運動に参加。
宇田 友四郎(うだ ともしろう、1860年4月15日(万延元… 宇田 友四郎(うだ ともしろう、1860年4月15日(万延元年3月25日) - 1938年(昭和13年)10月9日)は、明治から昭和時代初期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員、衆議院議員。 宇田家は香宗我部氏の重臣の末裔で、代々家老職を務めた名家。江戸時代に香宗の城下より故郷の岸本浦(現在の高知県香南市香我美町岸本)に戻った。岸本浦にて半農半漁の生活を営んだのち、江戸時代後期頃に「増田屋」の屋号を名乗るようになった。 2代宇田長蔵、久満子の二男として土佐国香美郡岸本に生まれる。1866年(慶応2年)村の寺子屋である柳瀬塾へ入り、柳瀬清治(別名近森孝策)に学ぶ。当時、「大鼻水垂れ」とのあだ名で塾中の評判となり、読書よりも習字を好む少年だった。
竹内 明太郎(たけうち めいたろう、1860年3月20日(万… 竹内 明太郎(たけうち めいたろう、1860年3月20日(万延元年2月28日) - 1928年(昭和3年)3月23日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(高知県第五区選出、当選3回)。族籍は東京府士族。 現在の高知県宿毛市出身。竹内綱の長男。父に従い大阪、東京に赴き、同人社で英語、仏学塾でフランス語を学び、父と一緒に自由党に尽くし、『東京絵入自由新聞』の経営に従事したが、鉱山業、鉄工業に転じて、父の経営する佐賀県の芳谷炭鉱の主宰となる。1901年(明治34年)欧米を漫遊して鉱山業を視察し、新式の機械を購入して帰国。 1902年(明治35年)には遊泉寺銅山の開発に着手すると、1917年に遊泉寺銅山の附属施設として小松鉄工所(後の小松製作所)を設立した。
北川 貞彦(きたがわ さだひこ、1856年7月6日(安政3年… 北川 貞彦(きたがわ さだひこ、1856年7月6日(安政3年6月5日)- 1903年(明治36年)11月8日)は、代言人(弁護士)、自由民権運動家、民権結社「発陽社」社長。憲法草案『日本憲法見込案』の起草者。 安政3年6月5日(1856年7月6日)、土佐藩士(四人扶持切符15石)・北川貞詮(忠蔵)の次男として、高知城下に生まれる。幼名は「熊治」。 初め藩校・致道館、廃藩置県以降は共立学舎英学校に学ぶ。東京に遊学して、明治9年(1876年)、代言人(弁護士)の免許を取得した。 自由民権運動に身を投じ、明治10年(1877年)、「立志社」の下部組織として民権結社「発陽社」(跡地・高知県高知市天神町14)を興す。
川田 龍吉(かわだ りょうきち、1856年4月18日(安政3… 川田 龍吉(かわだ りょうきち、1856年4月18日(安政3年3月14日) - 1951年(昭和26年)2月9日)は日本の実業家。男爵。「男爵いも」の名称の由来となった人物として知られる。 土佐藩士・川田小一郎(後の日本銀行総裁、男爵)と妻・美津の長男として、1856年(安政3年)土佐郡杓田村(後の高知市元町)に生まれる。英米系医学を教える慶應義塾医学所(後の慶應義塾大学医学部)に入塾するが一年たらずで中退。1877年(明治10年)から7年間、英国スコットランドに留学、グラスゴー大学で船舶機械技術を学ぶ。造船業の盛んな同地で実地修行すると共に、イギリス式の農業にも触れる。 帰国後、三菱製鉄所や日本郵船を経て1893年(明治26年)横浜船渠会社取締役となり、1897年(明治30年)社長に就任。
沢本 楠弥(さわもとくすや、正字体:澤本 楠彌、1856年1… 沢本 楠弥(さわもとくすや、正字体:澤本 楠彌、1856年1月22日(安政2年12月15日) - 1904年10月1日)は、高知県出身の日本の地方政治家、実業家。 高知県で自由民権運動や村政にかかわった後、北海道北見市の開拓に貢献した。土佐藩の沢本盛弥は同族。 土佐国長岡郡介良村良野(現・高知市)に生まれる。沢本家の祖は彦右衛門といい、大津城 (土佐国) 城主天竺孫四郎に仕えていたと伝わる。一族は長宗我部家が伸張するまで、介良の在地支配者であったとみられる[要出典]。のち武士から農家に転じ、土地を持つ豪農となった。家系図が残る。楠弥は長男(姉2人あり)で、家族で唯一の男児だった。1歳年下の従姉妹と結婚して19歳(満年齢か数え年かは不明)のときに長男をもうけている。
島田 糺(しまだ ただす、1853年2月22日(嘉永6年1月… 島田 糺(しまだ ただす、1853年2月22日(嘉永6年1月15日)- 1914年(大正3年)5月2日)は、幕末の土佐藩士、明治期の政治家・自由民権運動家・実業家。衆議院議員、高知県会議長。 土佐国吾川郡秋山村(高知県吾川郡秋山村、平和村、春野村、春野町を経て現高知市春野町秋山)で、土佐藩士・島田佐一、亀の長男として生まれる。藩校致道館で学んだ。 1868年(明治元年)致道館砲術取立役に就任し、次いで藩兵小隊司令となる。1875年(明治8年)区会議員となり、同議長、区長兼学区取締を歴任。1880年(明治13年)高知県会議員に選出され、同常置委員、同副議長、同議長を務めた。1887年(明治20年)三大事件建白運動で上京して保安条例違反として退去命令を受けた。
岩崎 弥之助(いわさき やのすけ、1851年2月8日(嘉永4… 岩崎 弥之助(いわさき やのすけ、1851年2月8日(嘉永4年1月8日) - 1908年(明治41年)3月25日)は、日本の実業家で、三菱財閥の2代目総帥。男爵。三菱の創業者・岩崎弥太郎の弟にあたる。 岩崎弥次郎・美和夫妻の三男として土佐国安芸郡井ノ口村(現在の高知県安芸市)に生まれた。 1867年(慶応3年)、満16歳のときに土佐藩校の致道館に入学。この時、岩崎家は郷士の地位を失って地下浪人に没落しており、武士の教育を受けられる身分ではなかったが、兄の弥太郎が吉田東洋の知遇を受けて下級役人に出世していたため、入学することができた。 1869年(明治2年)には大阪に出て、重野安繹の私塾成達書院に入門し、この時に英語を学んだ。
坂本 則美(さかもと のりみ、または のりよし、1848年1… 坂本 則美(さかもと のりみ、または のりよし、1848年1月2日(弘化4年11月26日) - 1913年9月15日)は、明治時代の日本の実業家、政治家。土佐藩出身。貧困児童救育事業で明治初頭に活躍し、高知県会議員を務めた。その後、琵琶湖疏水建設事業に携わり、さらに衆議院議員を務めた。さらにその後、実業界に転身し、総武鉄道社長、夕張炭鉱社長などを務めた。 1848年1月2日(弘化4年11月26日)、高知県土佐郡一宮村(現在の高知市)に生まれる。高知藩士坂本覚次郎の三男。明治7、8年ごろから貧児救育事業を始め、貧児救育事業団体の詵々社の社長となり、高知慈善協会の設立にも関わった。1879年に高知県会議員に当選し、議会副議長などに選ばれ、1882年まで議員を務めた。
竹内 綱(たけうち(たけのうち) つな、1840年1月30日… 竹内 綱(たけうち(たけのうち) つな、1840年1月30日〈天保10年12月26日〉 - 1922年〈大正11年〉1月9日)は、日本の実業家、政治家。内閣総理大臣を務めた吉田茂は五男、麻生太郎と寬仁親王妃信子は外曾孫。 天保10年(1840年)、土佐藩家老・山内氏(伊賀氏、宿毛領主)の家臣竹内庄右衛門吉管の子として土佐国宿毛に生まれる。 目付役として大坂に宿毛蔵屋敷を建てるなど、主家の財政再建に尽力した。 慶応2年7月(1866年8月)、宿毛から16kmほど離れた阿満地浦(現在の安満地浦)にイギリス軍艦が停泊したことがあった。対応に苦慮した宿毛領主・山内氏理は、竹内に小銃200丁を備えた歩兵2個小隊を付けて接触させた。
小野 義眞(おの ぎしん / よしざね、1839年5月20日… 小野 義眞(おの ぎしん / よしざね、1839年5月20日〈天保10年4月8日〉 - 1905年〈明治38年〉5月9日)は、明治時代の実業家。通称は強一郎。従五位。岩村通俊、岩村高俊、林有造は従兄弟にあたる。 旧暦天保10年4月8日(1839年5月20日)、土佐藩宿毛(現高知県宿毛市)の大庄屋の家に生まれた。 慶応2年(1866年)宿毛領仕置役小頭として、大坂と宿毛の間を帆船「宿毛丸」で往来するようになった。慶応3年12月(1868年1月)には、高野山挙兵に参加した陸援隊士大江卓から金を調達して高野山へ送付するよう依頼されたという。 明治3年(1870年)、後藤象二郎が設立した商社蓬萊社の組合員となる。
4代 桜木 嘉右衛門(櫻木、さくらぎ かえもん、1838年8… 4代 桜木 嘉右衛門(櫻木、さくらぎ かえもん、1838年8月20日〈天保9年7月1日〉 - 1914年〈大正3年〉1月8日)は、幕末から明治時代の醸造家、政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。名は正義。前名は馬之助。族籍は高知県平民。 3代目桜木嘉右衛門正利、鹿の二男として高知城下種崎町(現・高知市はりまや町)に生まれ、のち前名を改めて襲名する。藩政下、町内総組頭を務め、廃藩後は町内取締役となる。本業は酒造業で「葉柳」の醸造元。 1877年(明治10年)第七国立銀行が設立すると同取締役に就任。1881年(明治14年)帆走船運漕営業会社天佑社を設立し、相談役を経て社長に就任。1886年(明治19年)土佐郡酒造家連合会を設立し同会長に就任。
後藤 象二郎(ごとう しょうじろう、1838年4月13日〈天… 後藤 象二郎(ごとう しょうじろう、1838年4月13日〈天保9年3月19日〉 - 1897年〈明治30年〉8月4日)は、日本の政治家、実業家。名は象次郎とも表記される。栄典は正二位勲一等伯爵。土佐三伯の1人(他に板垣退助、佐佐木高行)。 土佐藩士・後藤正晴(馬廻格・150石)の長男として高知城下片町に生まれる。母は大塚勝従の長女。幼名は保弥太(やすやた)。通称は良輔(りょうすけ)だったが、後に象二郎と改名。諱は正本(まさもと)、後に元曄(もとはる)。字は日曄、暢谷、雲濤、不倒翁など。雅号に暘谷、雲濤、光海、鷗公など。 板垣退助とは竹馬の友で互いに「いのす(猪之助=板垣の幼名)」と「やす(保弥太=後藤の幼名)」と呼び会う仲であった。
川田 小一郎(かわだ こいちろう、1836年10月4日(天保… 川田 小一郎(かわだ こいちろう、1836年10月4日(天保7年8月24日) - 1896年(明治29年)11月7日)は、日本の実業家、政治家。男爵。創業期の三菱の幹部であり、貴族院議員、第3代日本銀行総裁。 天保7年(1836年)8月24日 、土佐国土佐郡旭村(現在の高知県高知市)にて土佐藩の郷士・川田家に生まれた。正規の教育はまったく受けていないが、その理財の才を認められ、藩の会計方に登用される。藩営土佐商会で勧業・鉱山・通商の事務を担当。明治維新に際しては、難題であった伊予松山藩所有の別子銅山接収を平和裡に収拾している。 明治3年(1870年)、藩営の海運業社九十九商会の民営化に伴い、高級幹部(管事)として、石川七財と共に社主の岩崎弥太郎を補佐した。
岩崎 弥太郎(いわさき やたろう、旧字体: 岩崎 彌太郞、天… 岩崎 弥太郎(いわさき やたろう、旧字体: 岩崎 彌太郞、天保5年12月11日〈1835年1月9日〉- 1885年〈明治18年〉2月7日)は、日本の実業家。土佐藩(現在の高知県)出身で、34歳の時、大阪府大阪市西区の土佐稲荷神社付近の堀江の辺りの大地主だった。現在の三菱財閥(現:三菱グループ)の源流企業であるが、明治政府が設立した共同運輸会社と話し合いの上合併し日本郵船が創設された。その年に岩崎彌太郎は50才で病死した。弟である三菱財閥2代目の岩崎弥之助とともに岩崎家の中心的人物であった。 天保5年12月(1835年1月)、土佐国安芸郡井ノ口村一ノ宮(現在の高知県安芸市井ノ口甲一ノ宮)の地下浪人・岩崎弥次郎と美和の長男として生まれる。
石川 七財(いしかわ しちざい)は日本の武士、実業家。初名は… 石川 七財(いしかわ しちざい)は日本の武士、実業家。初名は七左衛門、号は花渓。 土佐藩士の石川唯七(ただしち)の子として土佐国土佐郡小高坂村(現・高知県高知市)に生まれる。幼名及び初名は七左衛門。 父の唯七は馬丁を務めており、足軽のまま死去。それに継いで七財も足軽であったが土佐藩士で参政の吉田東洋に仕え、下横目役(目付の補佐役)となる。 1870年(明治3年)に九十九商会(後の三菱商会)の岩崎弥太郎の偵察を願われる。その際に弥太郎の人柄に憧れ部下となる。後に幹部となり川田小一郎らと共に活動。 1877年(明治10年)の西南戦争では軍事輸送を務めた。その後コレラによって倒れ死去。墓は谷中霊園。 1828年5月21日(文政11年4月8日)に土佐藩士・石川唯七の子として土佐国土佐郡小高坂村(現・高知県高知市)に生まれる。
川崎 幾三郎(かわさき いくさぶろう)は高知県出身の実業家、… 川崎 幾三郎(かわさき いくさぶろう)は高知県出身の実業家、川崎幾三郎(初代)の家系で当主に受け継がれる名である。特に二代目川崎幾三郎の高知県下に与えた影響は大きい。 (1828年2月29日(文政11年1月15日) - 1887年(明治20年)5月21日) 現在の高知県出身の豪商。名は篤信。 1848年(嘉永元年)に川崎家に婿入り。陶器、呉服、金物などを取り扱った。1870年(明治3年)、立用米の売買が空取引であるとして、家財の没収処分を受ける。1877年(明治10年)に第七国立銀行の設立に携わり、取締役となった。 (1855年12月8日(安政2年10月29日) - 1921年(大正10年)11月10日) 土佐の豪商・初代川崎幾三郎の二男。