山崎 平八郎(やまざき へいはちろう、1911年12月16日… 山崎 平八郎(やまざき へいはちろう、1911年12月16日 - 1989年1月11日 )は、日本の農林官僚、政治家。 国土庁長官(第14代、第2次中曽根内閣)、衆議院議員(7期)などを歴任。福岡県大川市出身。勲一等瑞宝章受章。 山崎四郎の息子として生まれた。幼くして父と死別したため、子供のいない父方の伯父・達之輔(のちに立憲政友会所属代議士、農林大臣・逓信大臣・農商務大臣)に育てられた。自治大臣を務めた山崎巌は父方の叔父にあたる。 旧制佐賀高等学校を経て1939年九州帝国大学農学部農業工学科卒業。 大学卒業後、農林省に入省。九州農政局長を退官後の1969年、前年死去した叔父・巌の後継者として衆議院議員選挙に福岡3区から自由民主党公認で立候補し初当選(当選同期に小沢一郎・羽田孜・梶山静六・渡部恒三・奥田敬和・林義郎・綿貫民輔・塩崎潤・森喜朗・村田敬次郎・松永光・江藤隆美・中山正暉・浜田幸一など)。
平井 正穂(ひらい まさお、1911年12月10日 - 20… 平井 正穂(ひらい まさお、1911年12月10日 - 2005年2月24日)は、日本の英文学者。
松本 七郎(まつもと しちろう、1911年11月15日 ‐ … 松本 七郎(まつもと しちろう、1911年11月15日 ‐ 1990年5月15日)は、日本の政治家。位階は従三位。元衆議院議員(11期)。 福岡県北九州市出身。実業家・松本健次郎の七男。1937年、慶應義塾大学法学部政治科を卒業。同大法学部助手、高等部講師、時事新報記者、黒崎窯業社員を経て1946年、戦後初の総選挙で福岡2区から初当選した。日本社会党では教宣局長、国際局長などに就いた。 1949年、妻であった松尾千代子と離婚。松尾は文化放送でプロデューサーを務めながら引き取った子供を育てた。 日本社会党に属し、1960年の安保国会では飛鳥田一雄・石橋政嗣・岡田春夫・戸叶里子らとともに「安保7人衆」の一人として政府追及の先頭に立った。
麻生 太賀吉(あそう たかきち、1911年〈明治44年〉9月… 麻生 太賀吉(あそう たかきち、1911年〈明治44年〉9月29日 - 1980年〈昭和55年〉12月2日)は、日本の実業家、政治家。麻生セメント会長。衆議院議員(3期)。第92代内閣総理大臣麻生太郎の父。 1911年(明治44年)9月29日、九州の炭鉱王麻生太吉の三男・太郎を父に、子爵加納久朗の妹・夏子を母として福岡県嘉穂郡飯塚町(現・飯塚市)に生まれる。1929年(昭和4年)に旧制福岡中学校(現・福岡県立福岡高等学校)を卒業し、昭和4年から昭和7年まで九州帝国大学(現・九州大学)法文学部聴講生。1931年(昭和6年)に祖父の経営する麻生商店に入社し、1934年(昭和9年)に社長となる。1935年(昭和10年)、帝国軍人後援会福岡県支会経費として2000円寄付により1937年(昭和12年)褒状下賜。
城 秀男(じょう ひでお、1911年9月2日 - 2010年… 城 秀男(じょう ひでお、1911年9月2日 - 2010年1月22日)は、日本の染織家。染織工芸を専門に佐賀大学の名誉教授でもあり、多くの染織家を輩出してきた。 2010年1月22日、肺炎により佐賀市内の病院にて死去。98歳だった。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。 この項目は、布や繊維、それを素材とする製品に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:ファッション/P:技術と産業)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
半田 亘理(はんだ わたり、1911年(明治44年)8月22… 半田 亘理(はんだ わたり、1911年(明治44年)8月22日 - 1948年(昭和23年)10月21日)は、大日本帝国海軍の軍人、戦闘機搭乗員。 操練19期。最終階級は中尉。黒岩利雄とならび、単機格闘戦の名手と謳われた撃墜王である。 福岡県久留米市に生まれる。1928年(昭和3年)、海軍を志し佐世保海兵団入団。艦船勤務を経て1932年(昭和7年)10月、第19期操縦練習生となる。同期生に磯崎千利、高橋憲一、田中平、五島一平。1933年(昭和8年)3月、同課程を修了し、戦闘機専修。空母「龍驤」飛行機隊に配属される。 その後、大村に転属。在任中、愛国号献納式典で祝賀飛行に参加した。当時部下だった田中国義はその練習中、編隊スローロール等で苦労していたが、半田機は「定位置を微動だにしない、ついて行くのに汗をかいた」と回想する。
新原 勇(しんばら いさむ、1911年7月15日 - 198… 新原 勇(しんばら いさむ、1911年7月15日 - 1987年5月18日)は、日本の柔道家(講道館9段)。 昭和初期に日本国内における最高峰の柔道大会であった全日本選士権大会や明治神宮競技大会等で活躍し、指導者としては朝鮮や台湾でその礎を築いたほか日本国内においては福岡県立嘉穂中学校を全国優勝に導いた実績を有す、戦前を代表する柔道家・柔道指導者の1人である。 現在の福岡県飯塚市幸袋に生まれる。県立嘉穂中学校に入学すると、当時福岡県下における柔道の大家であり同校の師範を務めていた榎本本吉より熱心に手解きを受け、 1929年に2段位で卒業して翌年京都の武道専門学校に入学した。武専で磯貝一、田畑昇太郎両範士に師事し、柔道教士であった福島清三郎、栗原民雄、森下勇らの胸を借りて稽古に励んだ新原は1932年に精錬証を受け、翌33年には講道館5段位、1934年の教士号試合では飯山栄作に競り勝って称号を拝受している。
安部 鹿蔵(あべ しかぞう、1911年(明治44年)3月26… 安部 鹿蔵(あべ しかぞう、1911年(明治44年)3月26日 - 1994年(平成6年)10月6日)は、新東宝の第6代社長であり、国際放映の初代社長。福岡県北九州市生まれ。
秀島 乾(ひでしま かん、本名読み:ひでしま つとむ、191… 秀島 乾(ひでしま かん、本名読み:ひでしま つとむ、1911年 - 1973年)は、日本の都市計画家。戦後すぐに日本最初の都市計画のコンサルタントとして活躍した人物。計画士を自称。佐賀県東松浦郡相知町生まれ。 旧制福岡中学校(現福岡県立福岡高等学校)卒業後、1936年早稲田大学理工学部建築学科に入学し佐藤武夫に師事。佐藤は戦時中満州の調査研究を熱心に行い、影響を受ける。大学卒業後、満州国民政部営繕需品局(その後建築局に改名)技師。1940年技佐。同年臨時国都建設局兼任。新京第一期五か年計画など新京の都市計画全般に携わるほか、満州における満州集団住区制理論、都市計画と集団住区制、住宅傾向などについて研究発表する。
足達 襄(あだち じょう、1911年 - 1999年)は、日… 足達 襄(あだち じょう、1911年 - 1999年)は、日本の洋画家。独立美術協会会員。 福岡市に生まれる。1928年福岡県中学修猷館を卒業。上京して、1930年帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)に入学。 1931年独立美術協会が主催する第1回独立展に初入選。以後連続入選を重ね、1943年の第13回独立展において独立賞を受賞し、1948年に独立美術協会会員となる。この間、福岡独立作家協会結成にも参加している。 戦後帰郷し、郷里に近い太宰府のアトリエで36年間創作活動を行い、以降も毎年福岡から出品を続け、精力的な芸術活動を行う。地域の美術振興にも力をそそぎ、福岡県美術協会再興や筑紫芸術院結成に尽力。
入矢 義高(いりや よしたか、1910年(明治43年)12月… 入矢 義高(いりや よしたか、1910年(明治43年)12月13日 - 1998年(平成10年)6月30日)は、日本の中国文学者。中国禅を中心とした仏教学者。専門は中国古典文学。学位は、文学博士。名古屋大学名誉教授、京都大学名誉教授。日本学士院会員。正四位勲二等瑞宝章。 1910年、鹿児島県鹿児島市で英語教師・入矢祐雲の長男として生まれた。1928年、福岡県立小倉中学校を卒業。1932年に福岡高等学校を卒業し、京都帝国大学に進学。ドイツ文学を専攻したいと考えていたが、父の意向で中国文学へと転向し、倉石武四郎の指導を受けた。1936年、京都大学文学部文学科を卒業。 卒業後は、広島県立中学(旧制)の教員となり、県立呉第一中学校に勤務。
中屋 健一(なかや けんいち、1910年12月9日 - 19… 中屋 健一(なかや けんいち、1910年12月9日 - 1987年3月28日)は、日本のアメリカ史研究家。 福岡市生まれ。本名は健弌。1933年、東京帝国大学西洋史学科卒。大学院では高木八尺の研究室にいたが、助手時代の松本重治とは入れ替わりだった。大学院時代に趣味である登山を始め松方三郎の指導を受けた。同盟通信社の岩永裕吉は高木とは同じ新渡戸稲造門下で、松本と松方の兄貴分であった。1936年2月に同盟入社。社会部、ついで外信部にうつって日中戦争で華北戦線に従軍した。当時の前線記者は携帯用無線機の技師、それと連絡員の三人で行動し定時に支局と連絡、記事をモールスで送ったり支局からの指令を受け取っていた。
佐々木 一義(ささき かずよし、1910年8月19日 - 1… 佐々木 一義(ささき かずよし、1910年8月19日 - 1978年7月11日)は、日本の哲学者。 福岡県田川市生まれ。1934年東京帝国大学文学部倫理学科卒、文部省に入省。1961年「ハイデッガーの実存論的空間性論について」で九州大学文学博士。1940年小樽高等商業学校教授、1944年久留米工業専門学校教授、1949年九州大学第三分校助教授、51年第二分校助教授、53年教授、63年教養部教授、70-71年教養部長、75年定年退官、名誉教授、大東文化大学教授。 1978年7月11日、すい臓がんのため神奈川県相模原市の北里大学病院にて死去。67歳。
真藤 恒(しんとう ひさし、1910年7月2日 - 2003… 真藤 恒(しんとう ひさし、1910年7月2日 - 2003年1月26日)は、日本の実業家。福岡県久留米市出身。石川島播磨重工業(現:IHI)の社長、電電公社の最終代総裁、NTT初代社長・会長を務めた。また、ドクター合理化の異名を取った。 中学明善校(現・福岡県立明善高等学校)卒業。1934年春、九州帝国大学工学部造船学科を卒業後、播磨造船所(後の石川島播磨重工業)に入社。戦後はアメリカの「海運王」、ダニエル・ラドウィックと手を組み、当時としては画期的な手法で数々の船舶を建造し、専門の船ではそれまでの常識を破った「ズングリムックリ」型のタンカーを考え出したり、従来の貨物船が一隻ごとにオーナーと仕様を決めるオーダーメイドであったのを、あらかじめ造船所が主要スペックを決めてカタログ販売する標準船を世に送り出した。
光石 介太郎(みついし かいたろう、1910年 6月9日 -… 光石 介太郎(みついし かいたろう、1910年 6月9日 - 1984年2月20日)は、日本の小説家、推理作家。福岡県生まれ。『新青年』や『ぷろふいる』などの雑誌に発表した怪奇幻想ものの探偵小説で知られる。 本名は光石太郎(みついし たろう)。探偵作家としてのペンネームは、「光石介太郎」以外に、鶏山文作(とりやま ぶんさく)、雞山稲平(とりやま いなへい)がある。純文学を志してからは、青砥一二郎(あおと いちじろう)というペンネームも使用したが、晩年には光石介太郎名義を再び使用している。 1910年6月9日、福岡に生まれる。二卵性双生児であり、もう一人は女の子だった。父は鐘淵紡績(後のカネボウ)の取締役や南米拓殖株式会社の社長などを歴任した福原八郎 だが、介太郎は生まれてすぐに岡山に住む遠縁の光石家へ養子に出され、看護婦だった独身の養母のもとで育った。
沖ツ海 福雄(おきつうみ ふくお、1910年5月28日 - … 沖ツ海 福雄(おきつうみ ふくお、1910年5月28日 - 1933年9月30日)は、福岡県宗像郡(現:福岡県宗像市)出身で若藤部屋に所属した大相撲力士。本名は北城戸 福松(きたじょうと ふくまつ)。最高位は東関脇。 1910年5月28日に福岡県宗像郡(現:福岡県宗像市)で生まれる。千田川部屋(大坂相撲)に入門するが龍神事件で師匠が廃業したため、1924年5月場所から東京市内の若藤部屋に移籍した。当初は上ヶ汐の四股名だったが、1926年5月場所より沖ツ海と改名した。1931年1月場所で新入幕を果たすと、この年は1月と5月の東京場所で5勝6敗と負け越したが、3月場所は8勝3敗、10月場所は7勝4敗と勝ち越して番付を上げた。
江上 照彦(えがみ てるひこ、1910年4月25日 - 19… 江上 照彦(えがみ てるひこ、1910年4月25日 - 1990年9月4日)は、日本の翻訳家。テレビ・歴史等の評論家、エッセイスト。 福岡県大牟田市生まれ。東京帝国大学経済学部で河合栄治郎に学び1934年に卒業。 その後渡満し、満洲電業勤務を経て復員後に会社役員を務める傍ら、河合門下生らで結成した社会思想研究会やそれを母体とした出版部門として発足した社会思想社で役員となる。 テレビ放送初期の頃に海外テレビ番組の翻訳や翻案を手掛け、テレビ論や歴史などの執筆活動を行いながら1956年から相模女子大学へ講師として出講、1964年には同大教授となり明治大学や上智大学でも英米演劇を講じた。 また社会思想研究会とのつながりから、民社党系のブレーン的存在となり同党の機関紙や機関誌にエッセーを連載した。
龍王山 光(りゅうおうざん ひかる、1910年3月25日 -… 龍王山 光(りゅうおうざん ひかる、1910年3月25日 - 1948年2月18日)は、福岡県飯塚市出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は高鍋 光。最高位は東前頭2枚目(1941年1月場所)。得意手は突っ張り、叩き。現役時代の体格は180cm、113kg。 1930年3月場所、出羽海部屋から初土俵を踏む。入門が遅かったわりには出世もあまり早くはなく、十両昇進は1936年1月場所だった。その後は上昇気流に乗り、1938年1月場所で十両優勝して5月場所には新入幕、そこでも勝ち越しを続け、入幕3場所目となる1939年5月場所8日目には初日から勝ちっ放しの横綱男女ノ川から金星を挙げる活躍をした。翌1940年1月場所8日目、横綱双葉山に、仕切り1回で立ち合うという奇襲を仕掛けたが、あっさりと上手投げで退けられた。
池田 禎治(池田 禎治、いけだ ていじ、1910年1月22日… 池田 禎治(池田 禎治、いけだ ていじ、1910年1月22日 - 1977年2月26日)は、日本の政治家。衆議院議員(7期)。 福岡県田川郡香春町出身。上京し、東京府立第五中学に学ぶ。総同盟本部書記、社会民衆党書記などを経て、労働運動に加入した。その後、都新聞、読売新聞、時事新報の政治部記者から、時事新報政治部長となった。 戦後、日本社会党の結党に参加し西尾末広系の党内社会党右派に所属。片山内閣で内閣総理大臣秘書官と西尾末広国務大臣秘書官を務めた。福岡県小倉市(現在の北九州市小倉南区蜷田若園近辺)の県営アパートの一室を借りて、かなり手狭な社会党支部を開いている。1960年1月、民主社会党(後の民社党)結党に参加。
麻生 徹男(あそう てつお、1910年(明治43年)1月7日… 麻生 徹男(あそう てつお、1910年(明治43年)1月7日 - 1989年(平成元年)7月11日)は、昭和期の医師、医学博士。大日本帝国陸軍軍医として日中戦争、太平洋戦争に従軍した。 福岡県で産婦人科医・麻生貞の長男として生まれる。福岡中学校(現福岡県立福岡高等学校)、福岡高等学校を経て、1935年(昭和10年)3月、九州帝国大学医学部卒業。産婦人科を専攻。同年4月、医籍登録を行い同大医学部副手となる。 1937年(昭和12年)11月応召。大日本帝国陸軍衛生部見習士官として14号兵站病院に勤務。中国の上海や南京を転勤。1939年(昭和14年)、報告書「花柳病ノ積極的予防法」を作成。この報告書は、戦後、慰安婦問題に関して千田夏光らの著作で度々引用されることになる(後述)。
野田 宇太郎(のだ うたろう、1909年(明治42年)10月… 野田 宇太郎(のだ うたろう、1909年(明治42年)10月28日 - 1984年(昭和59年)7月20日)は、日本の詩人、文芸評論家、文芸誌編集長。三島由紀夫や幸田文を世に送り出した人物である。 福岡県三井郡立石村(現小郡市)出身。朝倉中学卒業後、第一早稲田高等学院英文科に入学するが、病気により中退。1930年(昭和5年)、久留米市で同人誌『街路樹』に参加して詩作を開始する。1933年(昭和8年)、詩集『北の部屋』を出版。1936年(昭和11年)、安西均や丸山豊らと同人誌『糧』を創刊。1940年(昭和15年)に上京し、小山書店に入社。その後第一書房、河出書房を経て、1944年(昭和19年)文芸誌『文藝』の編集長を務めた後、東京出版に入社。
井原 伍郎(いはら ごろう、1909年10月15日 - 19… 井原 伍郎(いはら ごろう、1909年10月15日 - 1974年1月7日)は、日本の経営者。福岡県福岡市出身。 1930年に大倉高等商業学校を卒業し、同年に西部ガスに入社。1958年3月に福岡支店長に就任、取締役、常務、専務、副社長を経て、1970年2月に社長に就任。 1974年1月7日心筋梗塞のために死去。64歳没。
内田 博(うちだ ひろし、1909年10月9日 - 1982… 内田 博(うちだ ひろし、1909年10月9日 - 1982年2月25日)は、日本の詩人。福岡県三池郡大牟田町(現・大牟田市)出身。詩人で童話作家の内田麟太郎は長男。 本名は内田弘喜智。1909年、福岡県大牟田下里(現・大牟田市元町)に3男4女の次男として生まれる。1922年に大牟田町立第二尋常小学校(現・大牟田市立大牟田小学校)を卒業すると進学せず、書店の丁稚奉公や実兄の起こした会社で働いた。 19歳のときに石川啄木の影響で詩作を始める。1929年、処女詩「秋・風景詩」を地元紙に投稿して掲載され、その後も地元紙に「村山三郎」の筆名で投稿をおこなった。その後、1932年に日本プロレタリア作家同盟に加盟。
前田 俊彦(まえだ としひこ、1909年〈明治42年〉9月1… 前田 俊彦(まえだ としひこ、1909年〈明治42年〉9月17日 - 1993年〈平成5年〉4月16日)は、日本の社会運動家。市民運動関係者からは「前田のじいさん」と呼ばれた。 福岡県鞍手郡宮田村(現・宮若市)出身。1917年に父が他界したため、祖父が初代村長をつとめた京都郡延永村(現・行橋市延永)に移り、延永小学校に転校。1926年、福岡県立豊津中学校を卒業して、東京方面へ行く。 労働組合運動に関わり、1931年、日本共産党に入党する。関西地区のオルグを担当する。1932年、治安維持法・陸軍刑法違反で検挙される。懲役7年の実刑判決を受け、福岡刑務所に下獄。1940年に保安処分となり門司市に移り住むが、再度治安維持法違反で起訴され、禁固10ヶ月の判決を受ける。
三原 朝雄(みはら あさお、1909年8月20日 - 200… 三原 朝雄(みはら あさお、1909年8月20日 - 2001年3月7日)は、日本の政治家。位階は正三位、勲一等旭日大綬章(1986年4月)。 衆議院議員(8期)、文部大臣、防衛庁長官、総理府総務長官を歴任した。福原学園元理事。長男は元北九州市議会議員の三原征彦、次男は元衆議院議員の三原朝彦。陸軍軍人の山縣初男は岳父にあたる。 福岡県にて三原幸太郎の次男として生まれる。生家は貧しい農家だった。1927年に旧制東筑中学校(現・福岡県立東筑高等学校)卒業後、上京して明治大学専門部法科に入学する。明大在学中に愛国学生連盟を組織して学生運動を展開する傍ら、当時の著名人を訪問し教えを請うた。この頃から「貧乏からの解放」を終生の政治理念とし、この理念を共有する学生運動関係者、二・二六事件の青年将校、右翼関係者と最後まで付き合いがあった(三原は「右翼・保守思想とは、一言でいえば“優しさと度量”」と考えていた)。
葦津 珍彦(あしづ うずひこ、1909年〈明治42年〉7月1… 葦津 珍彦(あしづ うずひこ、1909年〈明治42年〉7月17日 - 1992年〈平成4年〉6月10日)は、日本の神道家。「神社新報」主筆。 葦津耕次郎の長男として福岡県筥崎(現・福岡市東区箱崎)に生れる。葦津家は筥崎宮の社家の一つである大神家の末裔であり、伯父である葦津洗造は同宮の宮司であった。1922年(大正11年)東京府立第五中学校に入学。この頃から社会主義に憧れ、社会科学研究会に参加し、関連する書物を読み漁ったという。周囲はこれを心配し、卒業後は國學院大學に進んだ[要出典]。別に東京外国語学校(現:東京外国語大学)にも入学するが、いずれも退学した[要出典]。1928年(昭和3年)には福島高等商業学校(現・福島大学)に入学するも、翌年退学。
淺野 五郎(あさの ごろう、1909年6月29日 - 196… 淺野 五郎(あさの ごろう、1909年6月29日 - 1966年3月19日)は、日本の地球科学者。専門は応用地質学・鉱床学。福岡県福岡市生まれ。 1927年福岡県中学修猷館、1930年旧制福岡高等学校理科乙類を経て、1933年3月に東京帝国大学理学部地質学科を卒業。大学院に進むが、同年9月より南満州鉄道嘱託となる。1938年4月より満州国大陸科学院に所属。1946年5月古河鉱業の職員となり、配下の鉱山の調査・探鉱などを行う。1951年4月、東京大学より理学博士の学位を取得。論文表題は「満洲産縞状鉄鉱の造進変成」。1956年3月古河鉱業を退社、4月より国際基督教大学教授となる。1960年4月、木下亀城教授の後任として九州大学工学部教授(採鉱学科応用地質学講座)に就任。
石田 正実(いしだ まさみ、1909年6月26日 - 199… 石田 正実(いしだ まさみ、1909年6月26日 - 1997年4月1日)は、日本の経営者。出光興産社長、会長を務めた。福岡県宗像市出身。 1936年に東北帝国大学法文学部を卒業し、1938年に出光商会に入社した。1947年に出光興産取締役に就任し、常務、専務を経て、1968年に副社長に就任し、1972年に社長に昇格した。1977年に会長に就任し、1981年から取締役相談役を務めた。 1975年から1979年までに石油連盟会長を務め、1980年から1986年までに日経連副会長も務めた。 1987年に勲一等旭日大綬章を受章した。 1997年4月1日急性呼吸不全のために福岡県筑紫野市の自宅で死去。87歳没。
西 亦次郎(にし またじろう、1909年5月28日 - 19… 西 亦次郎(にし またじろう、1909年5月28日 - 1974年11月13日)は、福岡県出身の実業家。元西鉄ライオンズオーナー・社長。日本プロ野球(日本野球機構)におけるドラフト制度の生みの親と言われる。 旧制福岡中学校(現:福岡県立福岡高等学校)、福岡高等学校 (旧制)を経て、1930年九州帝国大学法文学部卒業。西日本鉄道の前身会社の九州電気軌道に入社。小倉営業所長、東京出張所長、西鉄本社運輸局次長、小倉支社副支配人となり、戦前のプロ野球チーム・西鉄軍においてはチームと本社間のパイプ役を務めた。戦後の1950年、前年暮れに創立したばかりの西鉄クリッパース(翌1951年、西日本パイレーツを吸収し西鉄ライオンズに改称)オーナーに就任。
上田 武司(うえだ たけし、1909年4月4日 - 1979… 上田 武司(うえだ たけし、1909年4月4日 - 1979年2月13日)は、日本中央競馬会 (JRA) ・栗東トレーニングセンターに所属していた調教師。福岡県出身。養子に上田三千夫がいる。 1909年、福岡県小倉市北方(現・北九州市小倉南区北方)で生まれる。 1923年、福岡県立中学明善校(現・福岡県立明善高等学校)を中退し、1924年7月、小倉競馬倶楽部(小倉競馬場)の森文一厩舎に入門する。 1927年、騎手兼調教師免許を取得、小倉競馬場に厩舎を構え独立する。 1942年、騎手を引退。騎手成績1066戦160勝。 1946年、調教師免許を取得。 1951年10月14日、チャレンジカップのサチホマレで重賞初制覇。
花田 清輝(はなだ きよてる、1909年〈明治42年〉3月2… 花田 清輝(はなだ きよてる、1909年〈明治42年〉3月29日 - 1974年〈昭和49年〉9月23日)は、作家・文芸評論家。巧みなレトリックを駆使した文体を特徴とし、映画や演劇の評論も多く手がけ、日本のアヴァンギャルド芸術論の先駆的存在であった。 1909年3月29日、福岡県福岡市東公園に生まれ、一人っ子として育つ。先祖は毛利輝元であり、清輝の曽祖父は黒田藩の右筆で、名前には代々「輝」の字を付ける習いだった。旧制福岡中学(現・福岡県立福岡高等学校)時代は柔道に熱中し、また父ともに短歌を新聞等に投稿していた。 1926年4月、鹿児島の第七高等学校甲類に入学、西田哲学に没入、また寮誌『白光』を創刊し長編詩「樹下石上」などを発表。
古賀 杉夫(こが すぎお、1909年(明治42年)3月12日… 古賀 杉夫(こが すぎお、1909年(明治42年)3月12日 - 1996年(平成8年)8月27日)は、昭和時代の政治家。福岡県柳川市長(5期)。 福岡県三潴郡久間田村(現柳川市)出身。 1938年(昭和13年)満州国政庁役員に就任。 1943年(昭和18年)満州国興安省参事官。 1956年(昭和31年)福岡県大川市助役。 1959年(昭和34年)柳川市長就任、以後1979年(昭和54年)までの5期連続で柳川市長に就任する。
小宮 市太郎(こみや いちたろう、1909年(明治42年)2… 小宮 市太郎(こみや いちたろう、1909年(明治42年)2月14日 - 1966年(昭和41年)10月2日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。参議院議員。 福岡県、現在の大牟田市で生まれる。福岡県立三池中学校(現福岡県立三池高等学校)、福岡県八女工業学校(現福岡県立八女工業高等学校)を経て、日本大学で学んだが軍事教練反対で退校処分となり、1928年(昭和3年)長野県師範学校を卒業した。 その後、長野県・福岡県内の公立小学校で勤務。文部省教員検定試験に合格し中等教員免状を取得し、朝鮮公立高等女学校、母校の三池中学校、新制三池高等学校の教員を務めた。 戦後、教職員組合の結成に参画し、福岡県教職員連合会文化部長、福岡県高等学校教職員組合副委員長、大牟田地区労働組合評議会会長などを務めた。
吉川 英史(きっかわ えいし、1909年2月13日 - 20… 吉川 英史(きっかわ えいし、1909年2月13日 - 2006年4月13日)は、日本の音楽学者。文化功労者。 広島県深安郡神辺町(現・福山市)出身。旧姓・佐藤、本名・英士。旧制福岡中学校(現・福岡県立福岡高等学校)を経て、1933年東京帝国大学文学部美学美術史学科卒。1945年東京帝大講師、1946年 - 49年東京音楽学校講師を兼任、東京芸術大学教授。東京芸大邦楽科の新設に尽力。その後武蔵野音楽大学教授、東洋音楽学会会長、義太夫協会会長、琵琶楽協会会長、宮城道雄記念館館長などを歴任した。1972年NHK放送文化賞・紫綬褒章、1979年勲三等瑞宝章、1993年文化功労者、1994年神辺町名誉町民(福山市名誉市民)。
森山 喜由(もりやま きよし、1909年1月25日 - 19… 森山 喜由(もりやま きよし、1909年1月25日 - 1977年2月1日)は、日本の経営者。エスエス製薬社長を務めた。福岡県久留米市出身。 1932年に東京帝国大学経済学部を卒業。髙島屋、秋葉原デパート等での勤務を経て、1960年にエスエス製薬取締役に就任し、1962年に専務、1964年に副社長を経て、1970年には社長に就任。1976年12月に相談役に退いた。 1977年2月1日呼吸不全のために死去。68歳没。
太田 清之助(おおた せいのすけ、1909年(明治42年)1… 太田 清之助(おおた せいのすけ、1909年(明治42年)1月19日 - 1989年(平成元年)2月26日)は、日本の実業家。元・博多大丸会長。元・大日本麦酒技師。 第一徴兵保険(後の東邦生命保険)社長、衆議院議員、貴族院議員などを務めた四代目太田清蔵の四男。東邦生命保険社長五代目太田清蔵の弟。元・自民党衆議院議員太田誠一、ホテル日航福岡社長太田輝幸の実父。妻・俊子は商工大臣、農林大臣、大蔵大臣など歴任した櫻内幸雄の三女。 福岡県福岡市出身。旧制福岡高等学校理科甲類を経て、1933年に九州帝国大学農学部農芸化学科を卒業。大日本麦酒に入り1938年、兵役。1946年香椎農園、1949年日東食品を各経営。
小谷 心太郎(こたに しんたろう、1909年(明治42年)1… 小谷 心太郎(こたに しんたろう、1909年(明治42年)1月18日 - 1985年(昭和60年)6月18日)は、昭和期の歌人。 岡山県出身(大阪市北区出身とも)。福岡中学(現・福岡県立福岡高等学校)卒業後、東京帝国大学へ進み、東大在学中の1932年(昭和7年)に「アララギ」に入会、斎藤茂吉に師事。1936年、サイパンに赴任。戦時中は海軍に従軍し戦場詠を詠んだ。 終戦の後は「新泉」、「アザミ」に入り活動する。1958年、「童牛」創刊。1977年に「宝珠」で第4回日本歌人クラブ賞を受賞。1985年死去、享年76。
亀井 光(かめい ひかる、1909年(明治42年)1月1日 … 亀井 光(かめい ひかる、1909年(明治42年)1月1日 - 1986年(昭和61年)9月26日)は、日本の内務・労働官僚、政治家。参議院議員(1期、自由民主党)、福岡県知事(第6代-第9代)。陸軍司政官。 自由民主党元衆議院議員の太田誠一は女婿。 福岡県小倉市(現在の北九州市小倉北区)古船場町出身。藤吉の三男。 旧制小倉中学、旧制福岡高等学校を経て、1935年(昭和10年)東京帝国大学法学部卒業。内務省に入省。社会局属。労働省労働基準局長、労政局長などを歴任し、1960年(昭和35年)労働事務次官。1962年(昭和37年)参議院議員に当選、大蔵政務次官をつとめた。 1967年(昭和42年)4月、保守・中道統一候補として福岡県知事選挙に出馬し当選。
松下 久道(まつした ひさみち、1908年9月30日 - 1… 松下 久道(まつした ひさみち、1908年9月30日 - 1980年9月3日)は、日本の地球科学者。専門は石炭地質学。福岡県福岡市生まれ。 1934年に京都帝国大学理学部地質学鉱物学科を卒業。同学部大学院に進学して、中村新太郎のもとで炭田地質学の研究を始める。同年山根新次の招きで九州帝国大学工学部採鉱学教室副手に採用となり、翌年助手に昇任。1939年、九州帝国大学に理学部が新設されると同時に、同学部地質学教室の助教授になり、渡辺久吉・杉健一・吉村豊文を助けて、松本達郎とともに地質学教室の基礎づくりに尽力。1949年に同教室に国内ではじめて石炭地質学講座が開設され、初代担当教授に就任した。同年、「九州北部に於ける古第三紀層の層序学的研究」により、京都大学より理学博士の学位を取得。
井上 良夫(いのうえ よしお、1908年9月3日 - 194… 井上 良夫(いのうえ よしお、1908年9月3日 - 1945年4月25日)は、日本の探偵小説評論家、翻訳家。1930年代のいわゆる「本格ミステリの黄金時代」の海外作品を、日本に多数紹介した。戦前における最もすぐれた探偵小説評論家といわれる。 1908年(明治41年)9月3日、福岡県若松市(現・北九州市)に生まれる。 1926年(大正15年)、愛知県立熱田中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)卒業。名古屋高等商業学校(現・名古屋大学経済学部)に進学し、1930年(昭和5年)に卒業。バス会社に入社するが、名古屋市営バスと併合されて解散になったため、1937年(昭和12年)から名古屋市立白鳥尋常高等小学校(現・名古屋市立白鳥小学校)教員、1941年(昭和16年)から名古屋女子商業学校(現・名古屋経済大学市邨中学校・高等学校)教師(英語担当)。
藤林 甲(ふじばやし こう、1908年5月25日 - 197… 藤林 甲(ふじばやし こう、1908年5月25日 - 1979年8月21日)は、日本の照明技師である。牧野省三のマキノ・プロダクションにキャリアを始め、東宝を経て戦後、日活の製作再開とともに新東宝から移籍、石原裕次郎主演作のほとんどすべての照明を設計した。テレビ映画では、ユニオン映画の初期作品を手がけたことで知られる。本名は同じで読みが「ふじばやし まさる」。初期別名藤林 まさる(ふじばやし まさる)。日本映画テレビ照明協会の第5代・第7代会長を歴任した。 1908年(明治41年)5月25日、福岡県福岡市に生まれる。 1921年(大正10年)3月、旧制小学校を卒業、同年4月、福岡県筑紫郡堅粕町(現在の同県福岡市博多区堅粕)の福岡県立福岡中学校(現在の福岡県立福岡高等学校)に入学するも、のちに中途退学する。
鑓水 速太(やりみず はやた、1908年4月14日 - 20… 鑓水 速太(やりみず はやた、1908年4月14日 - 2017年9月10日)は、日本の政治家。浮羽町長(6期)を務めた。 1908年4月14日、福岡県浮羽郡浮羽町(現うきは市)に生まれる。1935年、福岡師範学校(現福岡教育大学)専攻科卒業。1941年3月、文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験日本史東洋史に合格し、1942年1月より、福岡県学務部社会教育課兼学務課勤務となった。その後、三井地方事務所教育課長、教育庁三井出張所長、糟屋出張所長、福岡県教育委員会社会教育課長を歴任し、1963年8月に福岡県国民健康保険課長在職時に退職した。1969年12月、浮羽町長に無投票で初当選した。1981年11月21日、無投票で6選を果たした。
花村 仁八郎(はなむら にはちろう、1908年3月30日 -… 花村 仁八郎(はなむら にはちろう、1908年3月30日 - 1997年1月4日)は、日本の財界人。従三位。 福岡県飯塚市生まれ。嘉穂中学校 (旧制)、山口高等学校 (旧制)を経て、1932年東京帝国大学経済学部を卒業。 卒業後、国立福岡少年院教官を経て、1942年に東大経済学部時代の同期であった帆足計に誘われ、経団連の前身である重要産業協議会に入り、1946年経済団体連合会(経団連)の設立に伴い、総務部次長となる。 1953年から1954年の海運造船疑獄事件で政治献金への世間の不信が高まったのをきっかけに、当時、経団連副会長であった植村甲午郎の下でそれまでの個々の企業からの献金をやめ、経団連を通じての自由民主党への献金システム作りを担当、企業献金に関わるようになり、後に財界政治部長の異名を取る。
具島 勘三郎(ぐしま かんざぶろう、1908年1月4日 - … 具島 勘三郎(ぐしま かんざぶろう、1908年1月4日 - 1970年9月24日)は、日本の経営者。福岡県福岡市出身。 1930年に東京帝国大学法学部法科を卒業し、1932年10月に福岡日日新聞社に入社。1943年に西日本新聞社に転じ、1949年に取締役に就任し、1957年に常務、1959年に専務を経て、1969年5月に社長に就任。 1970年9月24日、慢性膵臓炎のために死去。62歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 12008年3月で終刊。 2資本・友好関係のあるテレビ局・ラジオ局。
毛利 輝夫(もうり てるお、1907年11月30日 - 19… 毛利 輝夫(もうり てるお、1907年11月30日 - 1931年3月20日)は、日本の俳優である。本名は毛利 隆(もうり たかし)。旧芸名は毛利 多加志(読み同じ)。松竹蒲田撮影所のサイレント映画で活躍した二枚目俳優であったが、早世した。 1907年(明治40年)11月30日、福岡県門司市新町(現在の同県北九州市門司区)に生まれる。実父は歯科医を営んでいた。 豊国中学校(現在の豊国学園高等学校)を卒業して上京し、法政大学予科に入学するが、病気のため中退。1927年(昭和2年)、本名の毛利隆名義で阪妻・立花・ユニヴァーサル連合映画に入り大部屋俳優となる。その後、毛利多加志を名乗って小澤映画聯盟、岡田嘉子・竹内良一一座を経て、1929年(昭和4年)7月、松竹蒲田撮影所へ入社。
大伴 麟三(おおとも りんぞう、1907年10月20日 - … 大伴 麟三(おおとも りんぞう、1907年10月20日 - 1944年12月9日)は、日本の映画監督、脚本家である。本名小島 武夫(こじま たけお)、大伴 龍三(おおとも りゅうぞう、新漢字表記大伴 竜三)とも名乗った。 1907年(明治40年)10月20日、佐賀県杵島郡(現在の同県武雄市)に生まれる。 旧制・福岡県立中学明善校(現在の福岡県立明善高等学校)卒業後、帝国キネマ演芸に入社、古海卓二に助監督として師事する。 1927年(昭和2年)、20歳にして、奈良の市川右太衛門プロダクションあやめ池撮影所製作の市川右太衛門主演作『笑ふな金平 後篇』で監督としてデビュー、同作は同年9月15日に公開された。
川津 尚彦(かわづ なおひこ、1907年5月11日 - 19… 川津 尚彦(かわづ なおひこ、1907年5月11日 - 1962年11月10日)は、日本のラグビー選手・功労者。福岡県のラグビー先駆者の一人。 東京都に生まれる。1925年福岡県中学修猷館、1927年旧制福岡高等学校文科甲類を経て、慶應義塾大学法学部へ進学し、ラグビー部において全日本東西対抗選手として活躍した。 1930年慶應義塾大学を卒業し、東邦電力福岡支店に入社。東邦電力ラグビーチームの主力として、福岡県ラグビーの普及とレベルアップに貢献した。 戦後は、山本太郎、松隈保、安武一道、速見伝吉らと共に、九州ラグビーフットボール協会設立に尽力し、九州ラグビーフットボール協会の理事長から会長、日本ラグビーフットボール協会専務理事を務めた。
生野 初子(いくの はつこ、1907年〈明治40年〉4月27… 生野 初子(いくの はつこ、1907年〈明治40年〉4月27日 - 1967年〈昭和42年〉)は、日本の女優である。本名は出生名が生野 静子(いくの しずこ)、俳優の高木新平と結婚して高木 静子(たかぎ しずこ)となった。 1907年4月27日、福岡県浮羽郡吉井町(現在の同県うきは市吉井町)に「生野静子」として生まれる。 満12歳になる1919年(大正8年)に女歌舞伎の一座に入団し、熊本市内にあった旭座で初舞台を踏む。1924年(大正13年)1月、京都のマキノ映画製作所等持院撮影所に入社、阪東妻三郎主演、寿々喜多呂九平脚本、後藤秋声監督のサイレント映画『山猫の眼』に阪東の相手役として出演し、「生野初子」の名で映画界にデビューした。
大日方 傳(おびなた でん、明治40年(1907年)3月16… 大日方 傳(おびなた でん、明治40年(1907年)3月16日 – 昭和55年(1980年)8月21日)は日本の映画俳優。常用漢字では「大日方 伝」と表記する。 福岡県小倉市堺町の地元の料理家で指月館という敷地が一丁四方ある裕福な名家に生まれたが、父の時代には家は衰えていたという。少年時代からよく喧嘩をしていて顎に傷が残った。中学校卒業後に家族で東京府に移り、東京府立園芸学校(現・東京都立園芸高等学校)を卒業後、しばらく園芸好きの兄の農園を手伝ったが東洋大学社会科へ進む。 昭和5年(1930年)、大学卒業後に日活の専属俳優として『至誠の輝き』で銀幕デビュー。デビュー後に日活で数作に出演した後、松竹(松竹蒲田撮影所)へ移籍し同社の専属俳優となる。
柳田 桃太郎(やなぎだ ももたろう、1907年(明治40年)… 柳田 桃太郎(やなぎだ ももたろう、1907年(明治40年)2月13日 - 2004年(平成16年)8月8日)は、日本の政治家。参議院議員(2期)、門司市長。 福岡県門司市大字畑(現北九州市門司区畑)で、農業・柳田春太郎、ミチ夫妻の三男として生まれる。福岡県立小倉中学校を経て、1928年、長崎高等商業学校を卒業。 1928年、大連市の国際運輸(株)に入社。1933年、満洲国官吏に転じ、ハルビン市、国務院官需局、同興農部、同経済部で勤務し、地方行政、農林行政、鉱山行政担当の部課長を歴任した。 1946年、満洲から引揚げて、故郷で農業を営む。農業協同組合理事を経て、1949年、中央経済調査庁に入庁し、監査部の部課長を務めた。