渡辺 千尋(わたなべ ちひろ、1944年 - 2009年8月… 渡辺 千尋(わたなべ ちひろ、1944年 - 2009年8月18日)は、日本の版画家、装丁家、著作家。東京都出身。 1944年東京都生まれ。高校卒業まで長崎市で育つ。1963年桑沢デザイン研究所に入学。その後グラフィックデザインや装丁に携わる。1978年にエングレービングと呼ばれる手法での銅版画制作を始め、1979年に日本版画協会展に初めて出品し日本版画協会奨励賞を受賞。以後、個展を通じて作品を発表し続けた。1989年には「象の風景」シリーズがプラハ国立美術館に収蔵された。同世代の版画家・門坂流とは交流があり、2人展や公開対談を行っている。 また、版画家としてだけはでなく文筆家としても活動した。
福島 昭英(ふくしま あきひで、1944年 - )は、長崎県… 福島 昭英(ふくしま あきひで、1944年 - )は、長崎県佐世保市生まれ。
若島 征四郎(わかしま せいしろう、1943年7月5日 - … 若島 征四郎(わかしま せいしろう、1943年7月5日 - 1998年2月1日)は政治結社正氣塾名誉塾長。民族主義者。 関東州大連市出身。海星高等学校中退後、院外団に所属して民族主義運動に入る。1981年4月、文天祥の詩「正氣の詩」に触れて感動し、正氣の気風を青少年に伝える目的で正氣塾を創立。1990年の長崎市長銃撃事件の後、長崎市長の本島等を批判する立場から1991年・1995年の統一地方選挙長崎市長選挙に立候補したが、いずれも落選し供託金没収となった(1995年の市長選挙では本島も落選した)。1998年、心不全で死去。
田中 森一(たなか もりかず、1943年(昭和18年)6月8… 田中 森一(たなか もりかず、1943年(昭和18年)6月8日 - 2014年(平成26年)11月22日)は、日本の検察官、弁護士(1988年2月 弁護士登録〈大阪弁護士会〉、2008年1月に禁錮以上の刑の確定により法曹資格喪失)。 長崎県平戸市(現)出身。生家は貧しく、苦学の末に岡山大学法文学部在学中に司法試験に一発合格し、検察官となった。 上司の土肥孝治(後に検事総長)から検事としての捜査能力を評価され、出世コースである大阪地検特捜部検事、東京地検特捜部検事を歴任し、「特捜のエース」と謳われて数々の汚職事件を担当した。 1987年(昭和62年)のバブル景気絶頂期に弁護士へ転身。山口組などの暴力団幹部や仕手筋、総会屋など、いわゆる裏社会の人間の顧問弁護士を多く務めたほか、許永中や中岡信栄などの裏社会の人物との親交も深く、「闇社会の守護神」、「闇社会の代理人」などと呼ばれていた。
大庭 清(おおば きよし、1943年5月14日 - )は、長… 大庭 清(おおば きよし、1943年5月14日 - )は、長崎県出身の元プロ野球選手。 佐世保北高校から1962年に西鉄ライオンズへ入団。 武末コーチの指導でサブマリン投手を志したが、未完成のまま、1965年に引退。 兄は元高橋ユニオンズ投手の大庭宏である。
仲吉 昭治(なかよし しょうじ、1943年4月6日 - )は… 仲吉 昭治(なかよし しょうじ、1943年4月6日 - )は、日本の実業家。株式会社ジー・エフ社長のち会長、グリーン・シップ代表取締役社長などを歴任。長崎県出身。 満州生まれ。対馬市出身。長崎県立対馬高等学校、1966年駒澤大学経済学部経営学科卒業。同年4月バンダイ入社。玩具事業部を経て、1972年静岡工場開発営業部長。1978年特機事業部長、玩具キャラクター事業部商品部長。1980年新規事業部事業部長。1983年新規事業部統括事業部長。1991年3月同社退社 。 1991年テレマーケティングの株式会社ジー・エフ・シー(のち株式会社ジー・エフ)を設立し代表取締役社長に就任。2004年10月、東証マザーズに株式上場。
和田 征子(わだ まさこ、1943年 - )は、日本原水爆被… 和田 征子(わだ まさこ、1943年 - )は、日本原水爆被害者団体協議会事務局次長。長崎県長崎市生まれ。活水中学校・高等学校卒業。明治学院大学文学部英文学科卒業。 展望や軍縮を議論する国際シンポジウムにて被爆者としてはじめて英語で演説した[要出典]。 8・15朗読・収録プロジェクト実行委員会『私の八月十五日(6) 戦後七十三年目の証言』今人舎、2018年
得永 祥男(とくなが よしお、 1943年頃- 2003年2… 得永 祥男(とくなが よしお、 1943年頃- 2003年2月1日)は、日本の高校野球指導者。佐世保工業高校・波佐見高校野球部を率いて春夏合わせて6回の甲子園出場を果たした。 長崎県西彼杵郡大瀬戸町(現:西海市)松島出身。長崎市立桜馬場中学校、長崎県立長崎東高等学校から日本体育大学に進み、1965年に同大学を卒業後、保健体育教諭として長崎県立佐世保工業高等学校に赴任した。併せて同校野球部監督に就任したが、当時は海星高校をはじめとした長崎市内の高校が県代表を独占していた。そこで得永は「打倒海星」をスローガンに掲げ、合理的な練習を取り入れたほか多数の県外試合を組んで強化に努めた。1966年西九州大会決勝、1968年長崎大会決勝と甲子園出場をかけた試合でいずれも海星に敗れたが、1974年の西九州大会決勝で海星を破り優勝、県北勢として初めて甲子園出場を決めた。
岡田 幸喜(おかだ ゆきよし、1942年11月5日 - )は… 岡田 幸喜(おかだ ゆきよし、1942年11月5日 - )は、長崎県出身の元プロ野球選手。
隆昌山 勝茂(りゅうしょうやま かつしげ、1942年10月2… 隆昌山 勝茂(りゅうしょうやま かつしげ、1942年10月20日-没年不明)は、小野川部屋、出羽海部屋に所属した元力士。本名は平戸 茂(ひらと しげる)。現在の長崎県西海市出身。177cm、98kg。最高位は西十両7枚目。得意技は左四つ、寄り。 大工の子として生まれ、中学校2年生だった1956年に出羽海部屋の一行が巡業に来た時に小結・成山が親戚の家に宿泊した。翌1957年に父親と一緒に11月場所を観戦して成山を訪ねると勧誘され、自分の力を試してみたかったので進学させる予定だった父親を説得して、中学校卒業後に小野川部屋へ入門した。1958年3月場所に初土俵。序二段を通過するのに約2年の年月を費やしたが、それ以降は順調に出世し、1964年9月場所に十両に昇進(この時の四股名は「宝満山 茂」)。
山崎 泉(やまざき いずみ、1942年10月8日 - )は、… 山崎 泉(やまざき いずみ、1942年10月8日 - )は、日本の政治家。元民主党衆議院議員(1期)。 長崎県南松浦郡出身。1961年上五島高校卒。民間会社勤務を経て、1966年郵便局に務める。全逓に入り、1990年全逓長崎地区本部委員長と県評センター副議長に就任。1993年の総選挙に日本社会党から旧長崎2区で当選。1期務めた。その後社会民主党を経て1996年に民主党に参加する。同年の総選挙で長崎4区から立候補したが落選。1998年西岡武夫の長崎県知事選挙に伴う補欠選挙に長崎1区から立候補したが落選した。
友広 郁洋(ともひろ いくひろ、1942年9月25日 - )… 友広 郁洋(ともひろ いくひろ、1942年9月25日 - )は、日本の政治家。長崎県松浦市長(3期)。
神近 義邦(かみちか よしくに 1942年8月21日 - 2… 神近 義邦(かみちか よしくに 1942年8月21日 - 2020年9月5日)は、日本の実業家。株式会社エコ研究所代表取締役会長。長崎オランダ村・ハウステンボス創業者。 現在の長崎県西海市西彼町出身。長崎県立西彼農業高等学校定時制2年生のときに神近家に養子に行き(旧姓・島田)、高校卒業後、1962年に西彼町役場へ就職。農業指導を担当して実績を上げた。長崎県庁出向(1971年~1972年)後、1973年3月町役場を退職。長崎県庁時代に西彼町内の土地買収を計った東京永田町の料亭「一條」と関係を築く。西彼町の自然休養村事業事務局長に就任した1973年に「一條」の相談役として20万平方メートルの敷地で観光果樹園建設事業に着手した。
北原 健雄(きたはら たけお、1942年8月14日 - 20… 北原 健雄(きたはら たけお、1942年8月14日 - 2013年9月16日)は、日本のアニメーター。東京ムービーや日本アニメーションに所属していた。長崎県平戸市出身。 「北原 匠」「きたはら たてお」と表記されることもある。本名は「きたはら たけかつ」。 『ルパン三世 (TV第2シリーズ)』ではキャラクターデザインや作画監督を務めた。その後も『シティーハンター』で名を残す。 長崎県立猶興館高等学校卒業後は絵の世界に入りたいと上京し、多摩美術大学油絵科を受験するも不合格、そのうち画家で生活していくのは「夢のまた夢」と認識するようになり、グラフィックデザイナーを目指そうと方向転換、東京ムービーにアルバイトで入社する傍らでデザインスクールにも通う。
稲田 直治(いなだ なおじ、1942年7月14日 - )は、… 稲田 直治(いなだ なおじ、1942年7月14日 - )は、日本の実業家。元あおみ建設社長。長崎県出身。 1942年長崎県生まれ。1967年京都大学工学部土木工学科卒業後、同年国土総合開発入社。1977年国土総合建設に入社し、取締役九州支店長、常務取締役技術本部長などを経て、2002年6月同社代表取締役社長に就任した。2008年4月、国土総合建設と佐伯建設工業の合併によって誕生した佐伯国総建設(同年7月「あおみ建設」に社名変更)の社長に就任。佐伯建設工業の大谷昭義社長が会長に就いた。収益基盤の安定化を目的として組織再編や人員削減などを進めたが、景気の冷え込みを受けて業績が悪化し、2009年2月に会社更生法の適用を申請、同年3月に社長を辞任した。
池田 克忠(いけだ かつただ、1942年4月1日 - )は、… 池田 克忠(いけだ かつただ、1942年4月1日 - )は、日本の労働官僚。元東京労働基準局長。労働省退職後はものつくり大学の設立に携わった。佐賀県出身。 1942年、佐賀県生まれ。長崎県立長崎東高等学校を経て、1964年に東京大学経済学部経済学科卒業。1965年に国家公務員上級職試験合格、翌年労働省に入省。職業安定局雇用保険課長、兵庫労働基準局長、労働基準局安全衛生部長、東京労働基準局長などを歴任し、1995年に退職した。 労働省退職後、ものつくり大学設立準備財団事務局長を務め、同大学の設立に関わった。開校を翌年に控えた2000年に、設立財団の母体であるケーエスデー中小企業経営者福祉事業団(KSD)における汚職事件が発覚し、大学設置・学校法人審議会に設立条件としてKSDとの関係排除を提示される事態に見舞われたが、調整を重ね翌年の開学に漕ぎつけた。
水田 祥代(すいた さちよ、1942年3月16日 - )は、… 水田 祥代(すいた さちよ、1942年3月16日 - )は、日本の医師、医学者。九州大学名誉教授、学校法人福岡学園理事長。専門は小児外科。旧帝国大学系の医学部で初の女性外科教授となった。 大分県出身。6歳のとき九州大学病院に入院したが、その際の医師らによる親切な対応に感銘を受け、九州大学への進学と医師になることを志すようになった。長崎県立長崎東高等学校を経て、九州大学医学部に進学。同在学中に米軍病院でのインターンを経験し、そこでの体験をもとに外科志望となった。大学院在学中の1968年にはイギリスへ留学し、リバプール大学病院付属アルダーヘイ小児病院で臨床に従事した。帰国後の1974年に医学博士号を取得。
田中 聡子(たなか さとこ、現・竹宇治聡子(たけうじ さとこ… 田中 聡子(たなか さとこ、現・竹宇治聡子(たけうじ さとこ)、1942年2月3日 - )は、日本の元競泳選手でのちにコーチ。1960年ローマオリンピック女子100m背泳ぎ銅メダリスト。長崎県佐世保市生まれ、熊本県上益城郡育ち。 嘉島町立嘉島中学校・筑紫女学園高等学校を経て八幡製鐵所に入社。 1959年から1963年までおよそ4年間に渡り女子200m背泳ぎの世界記録を更新し続けたが、当時のオリンピックにおける競泳では女子200m背泳ぎは正式種目ではなかった(正式種目となったのは1968年メキシコシティーオリンピックから)。このため、100m背泳ぎでの出場を余儀なくされたが、ローマ五輪で銅メダルを獲得し、日本では前畑秀子以来二人目の女子競泳メダリストとなった。
前田 三男(まえだ みつお、1942年1月5日 - )は、日… 前田 三男(まえだ みつお、1942年1月5日 - )は、日本の光学者、レーザー科学者。九州大学名誉教授。久留米工業高等専門学校名誉教授、元校長。工学博士(九州大学、1971年)。元日本工学アカデミー正会員。 長崎県長崎市出身。長崎県立長崎東高等学校を経て、1964年九州大学工学部電気工学科卒業後、1969年同大学大学院工学研究科電気工学専攻博士課程修了。 1969年に九州大学工学部講師となり、1971年助教授、1981年教授。同大学では先端科学共同研究センター長(1997年 - 2000年)、大学院システム情報科学研究院長(2001年 - 2005年)を務め、レーザー装置の開発やその応用に関する研究に取り組んだ。
佐護 誉(佐護 譽、さご たかし、1942年 - )は、日本… 佐護 誉(佐護 譽、さご たかし、1942年 - )は、日本の経営学者。経済学博士(論文博士・1987年)(学位論文「ドイツ経営労務論史」)。九州産業大学名誉教授・元学長。 長崎県対馬市出身。長崎県立長崎工業高等学校、九州産業大学卒。1973年九州大学大学院経済学研究科博士課程修了。1987年「ドイツ経営労務論史」で経済学博士の学位を取得。 九州産業大学経営学部講師、助教授、教授、経営学研究科長、学長。2012年定年、名誉教授。1976-1977年西ドイツ・マンハイム大学客員研究員、1991年韓国・ソウル大学校経営大学客員教授。専門は経営学総論、人的資源管理論。
古澤 忠彦(ふるさわ ただひこ、1941年〈昭和16年〉12… 古澤 忠彦(ふるさわ ただひこ、1941年〈昭和16年〉12月 - )は、日本の海上自衛官。最終階級は海将。舞鶴地方総監、統合幕僚会議事務局長、横須賀地方総監を歴任した。長崎県出身。 1941年(昭和16年)12月、長崎県佐世保市生まれ。長崎県立長崎東高等学校を経て1964年(昭和39年)3月、防衛大学校第8期卒業、海上自衛隊入隊。護衛艦「まきぐも」艦長、第34護衛隊司令、大湊地方総監部幕僚長、海上幕僚監部人事教育部長などを経て、1994年(平成6年)7月、舞鶴地方総監に就任。1996年(平成8年)3月には統合幕僚会議事務局長に就任し、日米防衛協力のための指針見直し問題に絡み、秋山昌廣(当時防衛局長)とともに中国を訪問して傅全有(中国人民解放軍総参謀長)らとの会談を行った。
福田 伸光(ふくだ のぶみつ、1941年11月22日 - )… 福田 伸光(ふくだ のぶみつ、1941年11月22日 - )は、日本のピアニスト。平成音楽大学音楽学部教授・元学部長、福岡教育大学名誉教授。日本演奏連盟会員。 1941年、長崎県生まれ。1960年、長崎県立長崎東高等学校卒業。1964年、長崎大学学芸学部卒業。田中希代子に師事し、ウィーン国立音楽大学に入学。同大学ではヴァルター・パンホーファー(Walter Panhoffer)に師事し、1968年卒業。オーストリアピアノ教授国家資格を取得した。1969年より福岡教育大学に勤務し、1969年助手、1972年講師、1976年助教授、1984年教授。後進の指導に取り組む一方で、自身もリサイタルやオーケストラとの共演など幅広く活動。
谷川 弥一(谷川 彌一、たにがわ やいち、1941年〈昭和1… 谷川 弥一(谷川 彌一、たにがわ やいち、1941年〈昭和16年〉8月12日 - )は、日本の実業家、政治家。 衆議院議員(7期)、文部科学副大臣(第2次安倍内閣)、長崎県議会議員(5期)、自由民主党長崎県支部連合会長、自由民主党総務副会長を歴任した。 長崎県南松浦郡岐宿町(現・五島市)出身。親元を離れ、五島から長崎市の長崎県立長崎東高等学校に進学し、下宿生活を送る。 1971年に株式会社谷川建設を設立。同社社長、会長を務めた。 1987年、長崎県議会議員選挙に立候補し、初当選する。以後、県議を5期17年にわたって務め、2003年に長崎県議会議長に就任。 2003年、第43回衆議院議員総選挙に、長崎3区から自由民主党公認で立候補。
森 光昭(もり みつあき)(1941年6月26日 - 201… 森 光昭(もり みつあき)(1941年6月26日 - 2017年2月16日)は、日本のドイツ文学者。熊本大学名誉教授・顧問、元副学長、理事。同大学における男女共同参画を推進し、他大学でも講演を行っている。正四位、瑞宝中綬章。 長崎県立長崎東高等学校を経て、1965年東京大学文学部独語独文学科卒業後、1967年同大学大学院文学研究科独語独文学専攻修了。1967年金沢大学法文学部助手、1968年同講師を経て、1970年に熊本大学へ異動、教養部講師となる。1972年同助教授、1980年同教授を経て、1997年法学部教授。 1992年に日本独文学会西日本支部長を務めるなど研究に取り組む傍ら、1998年10月から2000年4月まで熊本大学学生部長、2000年4月から同年11月まで初めて設置された副学長を務めた。
市川 森一(いちかわ しんいち、1941年(昭和16年)4月… 市川 森一(いちかわ しんいち、1941年(昭和16年)4月17日 - 2011年(平成23年)12月10日)は、日本の脚本家、劇作家、小説家、コメンテーター。日本放送作家協会の会長を務めた。長崎県諫早市出身。 妻は『マキちゃん日記』で知り合った女優の柴田美保子。妹は放送作家の市川愉味子(井上愉味子)。実質的なデビュー作は円谷プロ製作『快獣ブースカ』。代表作は『傷だらけの天使』『ウルトラセブン』『帰ってきたウルトラマン』『ウルトラマンA』『コメットさん』『露玉の首飾り』『TAJOMARU』など多数。 実家の呉服屋を継がずに旧海軍大村航空隊の教官となった父・市川一郎(同志社専門学校高等商業部出身)と、寛政5年(1793年)創業の老舗の諫早名物おこし屋の娘であった母との間に1941年(昭和16年)誕生。
押川 壽夫(おしかわ としお、Berard Toshio O… 押川 壽夫(おしかわ としお、Berard Toshio Oshikawa, O.F.M. Conv., 1941年3月25日-)は、日本のカトリック教会聖職者でカトリック那覇教区第2代司教。コンベンツァル聖フランシスコ修道会士で、洗礼名は「べラルド」。 1941年3月25日、鹿児島県名瀬市(現奄美市名瀬)で生まれる。奄美大島で宣教の傍ら約半世紀に渡り社会福祉に貢献したゼローム・ルカゼウスキー神父の指導により司祭職を目指して、中学校3年生で長崎県長崎市の聖母の騎士学園に入学。高校3年生時には小神学校の生徒代表プレゼスとなった。東京都王子のコンベンツァル会大神学校に進学し、ローマの同修道会大神学院に留学。
木村 一童(きむら いちどう、本名:入枝 政次、1941年3… 木村 一童(きむら いちどう、本名:入枝 政次、1941年3月3日 -没年不詳)は大相撲の元三役格行司。春日野部屋→北の湖部屋所属。長崎県五島市出身。血液型O型。 1958年5月場所に木村 真佐也の名で初土俵。1972年3月場所に木村 孔一と改名。以後三役格まで進み、2005年11月場所よりに木村一童と改名する。 能の研究家でもあったため、それゆえ所作は非常に凝っていた。また、掛け声や呼び上げ、口上にもその影響が見られ、美声には定評があった。一童の行司ぶりだけを見に来る客もいたと言う。 三段目格時代の1963年1月場所では木村浩士(のち幕下格)を、幕下格行司時代の1974年1月場所(当時の武藏川理事長よって行司選抜制度が導入された場所)では木村忠雄(のちの三役格・10代式守錦太夫)を抜いたが、いずれも年齢差調整や相手の差し違え数によるものであり、1975年3月場所では式守勝治(のちの11代式守与太夫→34代木村庄之助)及び再び忠雄に序列で抜かれている。
石橋 一彦(いしばし かずひこ、1941年2月 - )は日本… 石橋 一彦(いしばし かずひこ、1941年2月 - )は日本の構造学者。長崎県出身。東京大学工学部建築学科卒。専門は建築構造・材料、鉄筋コンクリート構造、耐震構造。千葉工業大学工学部教授。千葉県耐震判定協議会委員長。建築の学生からは、同学科の橋本篤秀教授、長橋純夫教授とあわせて、”構造の三橋(こうぞうのさんばし)”と呼ばれ親しまれている。
由佐 悠紀(ゆさ ゆうき、1941年 - )は日本の地球物理… 由佐 悠紀(ゆさ ゆうき、1941年 - )は日本の地球物理学者。京都大学名誉教授。温泉資源の保護と適正利用に業績があった。 長崎県出身。長崎県立長崎東高等学校卒業。1964年3月京都大学理学部地球物理学科卒業、1966年3月同大学大学院理学研究科修士課程修了。1966年5月京都大学助手、1979年10月助教授を経て、1987年10月に教授就任。大学院修了後は大分県別府市にある京都大学大学院理学研究科附属地球熱学研究施設で研究を行っていた。1970年から1982年にかけては南極ビクトリアランドの塩湖の調査・観測活動に参加した。2000年度・2001年度には日本温泉科学会長を務めた。理学博士(京都大学、1976年)。
筒井 茅乃(つつい かやの、1941年〈昭和16年〉 - 2… 筒井 茅乃(つつい かやの、1941年〈昭和16年〉 - 2008年〈平成20年〉2月2日)は、日本の作家。父は医学博士の永井隆。長崎原爆で被爆しながらも負傷者救護や長崎の復興のために尽くした父の遺志を引き継ぎ、日本各地を講演で回り、平和への願いを訴え続けた。父の顕彰活動に取り組む市民団体「長崎如己(にょこ)の会」相談役としても活動した。長崎県長崎市出身。旧姓は永井。 1941年、長崎市で誕生した。1945年(昭和20年)8月9日、長崎県に原子爆弾が投下された。自身は兄と共に郊外に疎開していたために直撃を免れたものの、母が焼死し、父の永井隆も被爆した。1951年(昭和26年)、父の死を看取った。
久間 章生(きゅうま ふみお、1940年〈昭和15年〉12月… 久間 章生(きゅうま ふみお、1940年〈昭和15年〉12月4日 - )は、日本の政治家、農林官僚。昭和ホールディングス社外取締役(監査等委員)。 防衛大臣(初代)、防衛庁長官(第59・73代)、運輸政務次官(竹下内閣)、衆議院議員(9期)、長崎県議会議員(3期)、自由民主党総務会長、同幹事長代理、同副幹事長、同国会対策副委員長などを歴任した。 長崎県南高来郡加津佐町(現・南島原市)の農家に生まれる。両親は教育者(父は高校教員、母は中学教員)。 長崎県立口加高等学校・東京大学法学部卒業後、農林省に入省。農林省退職後に長崎県庁に入庁し、長崎県議会議員を経て、1980年に衆議院議員に初当選。第2次橋本内閣で防衛庁長官として初入閣。
中野 寛成(なかの かんせい、1940年〈昭和15年〉11月… 中野 寛成(なかの かんせい、1940年〈昭和15年〉11月26日 ‐ )は、日本の政治家。 衆議院議員(11期)、大阪府豊中市議会副議長、民社党書記長、新進党政策審議会長、新党友愛代表(初代)、民主党幹事長、衆議院副議長(第62代)、国家公安委員会委員長(第84代)、拉致問題担当大臣(菅直人再改造内閣)、公務員制度改革担当大臣(菅直人再改造内閣)などを歴任した。 現在[いつ?]は、大阪民社協会常任顧問、吉本興業特別顧問、世界連邦運動協会会長代行、関西大学政治学会顧問を務めている。 長崎県長崎市生まれ。4歳の時に原爆投下を経験している。後に大阪府へ転居し、大阪府立豊中高等学校、関西大学法学部卒業。
峰 国安(みね くにやす、1940年10月18日 - )は、… 峰 国安(みね くにやす、1940年10月18日 - )は、長崎県西彼杵郡野母崎町出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ。 幼少期の1945年8月9日、たまたま塀に登って眺めていた「夕日のような景色」は、長崎市内に投下された原子爆弾であった。 戦後は海に沈む鉄クズを拾っては換金し、軍艦島にも上り、コンクリートだらけの廃墟で草木が一つもない異様な光景を目の当たりにした。 実家は漁師で、船乗りであった父を手伝いながら野球に没頭し、中学時代は駐留軍の米兵と草野球をしたこともあった。 海星高校では無敵のエースに成長し、2年次の1957年夏の県大会で優勝するが、西九州大会1回戦で敗れる。3年次の1958年は準決勝へ進出するが、西海学園に延長11回サヨナラ負けで甲子園出場を逃す。
若山 美子(わかやま よしこ、1940年〈昭和15年〉5月1… 若山 美子(わかやま よしこ、1940年〈昭和15年〉5月19日 - 1973年〈昭和48年〉8月3日)は、日本の登山家、彫刻家。1967年(昭和42年)に今井通子と共に、アルプス山脈三大北壁の一つであるマッターホルンの北壁へ、世界初の女性だけのパーティでの登攀を果たした。卓越した登攀技術の持主として将来を期待されていたものの、新婚旅行を兼ねたマッターホルン登山で、夫と共に滑落死した。登山小説『銀嶺の人』のモデルの1人。「若山」は旧姓で、結婚後の本名は「岡本 美子」。満州里市出身。 満洲国に渡って水産会社を興した父のもとに誕生。父の事業成功により家は裕福であったが、終戦直前の1945年(昭和20年)7月に父が召集され、翌月にはソ連軍の侵攻に遭い、逃避行の生活を強いられた。
梶山 千里(かじやま ちさと、1940年5月13日 - )は… 梶山 千里(かじやま ちさと、1940年5月13日 - )は、日本の化学者。九州大学名誉教授。九州大学総長や、独立行政法人日本学生支援機構理事長、公立大学法人福岡女子大学理事長兼学長を歴任。元高分子学会会長。元国立大学協会副会長。マサチューセッツ大学卓越した同窓会会員。マサチューセッツ大学名誉博士。 福岡県直方市で国家公務員の子として生まれる。1956年長崎県立長崎西高等学校に入学。転校し、1959年福岡県立鞍手高等学校卒業。1964年九州大学工学部応用化学科卒業。1966年九州大学大学院工学研究科応用化学専攻修士課程修了。1969年マサチューセッツ大学大学院高分子工学科博士課程修了、Ph.D。
川野 浩一(かわの こういち、1940年 - )は、日本の平… 川野 浩一(かわの こういち、1940年 - )は、日本の平和運動家。原水爆禁止日本国民会議議長。 1940年に朝鮮半島の平安北道(現在の北朝鮮)で生まれ、翌年父の徴兵を機に長崎市へ引き揚げた。1945年8月9日、爆心地から約3km離れた長崎市本紙屋町(現・麹屋町)の自宅付近で被爆。爆心地付近の浦上に住んでいた曽祖母を亡くした。1958年に長崎県立長崎東高等学校を卒業後、結核治療のため入院。当時は60年安保闘争が高まりを見せていた時期であり、病床で何もできない自分に劣等感を抱いたという。1961年に長崎県入庁後は組合活動に没頭し、長崎県職員労働組合青年部長・書記長のほか、長崎県労評センター議長・自治労長崎県本部委員長・連合長崎会長などを歴任した。
芦塚 日出美(あしづか ひでみ、1939年12月27日 - … 芦塚 日出美(あしづか ひでみ、1939年12月27日 - )は、日本の電気技術者、実業家。九州電力代表取締役副社長や、九州通信ネットワーク代表取締役社長、博多座代表取締役社長、九州先端科学技術研究所理事長等を歴任した。 長崎県諫早市出身。福岡県立修猷館高等学校を経て、1962年九州大学工学部電気工学科卒業、九州電力入社。上椎葉水力発電所、北九州支店電力課で計5年現場経験を積んだのち、、本社の工務部給電課に配属された。1973年フランス電力で研修。1982年九州電力本社企画部設備計画課長。1987年電気事業連合会に工務部長として出向。1992年九州電力大分支店長。1995年九州電力工務部長。1996年九州電力企画部長。
水田 かかし(みずた かかし、本名:水田 高明(みずた たか… 水田 かかし(みずた かかし、本名:水田 高明(みずた たかあき)、1939年11月30日 - 2017年12月10日)は、日本の物真似・漫談師。松竹芸能所属。元トンボプロダクション所属。(自身の個人事務所) 実の子がシンガーソングライターの水田達巳。 長崎県の生まれ、島原高校卒業後、役者を志し東映に入る。しかし断念し演芸の世界に転身し1965年に旧なんば花月からギター漫談でデビュー。その後水田とんぼと漫才コンビを組むも解消し再び漫談に戻った。吉本興業を離れフリーで活動後、現在は松竹芸能所属で歌謡物真似等を行う。水田カカシと表記したこともあった。
田中 克佳(たなか かつよし、1939年10月27日 - 2… 田中 克佳(たなか かつよし、1939年10月27日 - 2011年2月18日)は、日本の教育学者、教育史学者。慶應義塾大学名誉教授、元田園調布学園大学教授。江戸っ子に関する研究で知られる。長崎県長崎市出身。 1939年生まれ。慶應義塾大学文学部卒業後、同大学大学院社会学研究科教育学専攻博士課程修了。1968年慶應義塾大学文学部助手、1972年助教授を経て、1984年教授。同大学退職後は田園調布学園大学でも教鞭を執った。
古森 重隆(こもり しげたか、1939年9月5日 - )は、… 古森 重隆(こもり しげたか、1939年9月5日 - )は、日本の実業家。元日本放送協会(NHK)経営委員会委員長。2016年9月より内閣府規制改革推進会議委員。 長崎県出身。長崎県立長崎西高等学校、東京大学経済学部卒業。東京大学運動会アメリカンフットボール部出身(ポジションはOL/DL)。 1963年、当時の富士写真フイルムに入社し、主に営業畑を歩む。1995年取締役営業第二本部長、96年フジフイルムヨーロッパ社長などを経て、2000年に社長就任。2003年から日独協会会長。2006年、グループ再編により、富士フイルムホールディングス株式会社と、傘下の富士フイルム株式会社代表取締役社長・CEO就任。
若林 豪(わかばやし ごう、1939年(昭和14年)9月5日… 若林 豪(わかばやし ごう、1939年(昭和14年)9月5日 - )は、日本の俳優。 長崎県長崎市茂木町出身。 海星高等学校卒、専修大学経済学部中退。 妻は司葉子のいとこ、三男は俳優の若林久弥である。 専修大学中退後の1965年、劇団新国劇に入団。その後フリーになり、若林プロモーションから2006年11月に東宝芸能へ移籍した。のち、2015年ごろから、エ・ネストに所属。 島田正吾の直弟子としてデビュー。芸名は、新国劇に入るより前に仲間内で演じていた三島由紀夫の『近代能楽集』から「源氏葵若林光(げんじのあおいのわかばやしひかる)」というくだりを気に入って「若林」を是非にと決め、豪の名前は新国劇に入った後、「若く猛々しい」というイメージから劇作家の榎本滋民に名付けられた。
宗 肖之介(そう しょうのすけ、1939年8月25日 - 2… 宗 肖之介(そう しょうのすけ、1939年8月25日 - 2011年5月5日)は、日本の文芸評論家・著作家。 本名は重岡 重雄(しげおか しげお)。
光永 久之(みつなが ひさゆき、1939年8月13日 - )… 光永 久之(みつなが ひさゆき、1939年8月13日 - )は、日本の実業家。元三井木材工業社長、三井物産取締役。長崎県出身。 1939年長崎県生まれ。長崎県立長崎東高等学校、長崎大学経済学部を経て、1962年三井物産入社。同社では主に建設資材を担当し、米国における木材取引の拠点であったシアトルに長く駐在した。同社取締役を経て、1998年三井木材工業社長。親会社である三井物産からの社長就任は23年ぶりであった。就任時には、赤字分野の人材配置転換や製造の内製化、非住宅分野の強化を進めるとしていた。2000年、収益不振のサイディング事業について業界トップのニチハに支援を求める形で業務提携を行った。さらに2001年3月、住宅・木質建材・大型木構造の3部門について三井物産に譲渡する一方、窯業系サイディングと繊維板の2部門についてニチハの完全子会社となる方針を発表した。
佐々木 元(ささき げん、1939年7月28日 - 1997… 佐々木 元(ささき げん、1939年7月28日 - 1997年)は、日本の映画監督である。 1939年(昭和14年)7月28日、長崎県北高来郡小野村大字小野島(現在の同県諫早市小野島町)に生まれる。本名は不明であるが、姓は「春野」(はるの)であるという。 1955年(昭和30年)4月、長崎県立諫早高等学校に進学する。2学年下の後輩に、のちに脚本家となる市川森一がいた。1958年(昭和33年)3月、同校を卒業して東京に移り、早稲田大学政治経済学部に進学するも、満23歳を迎える1962年(昭和37年)には同学を中途退学する。その後は、織田良一郎の芸術映画社、大映テレビ室(現在の大映テレビ)等の記録映画、テレビ映画の製作会社で製作部や演出部の助手を務めた。
清水 啓吾(しみず けいご、1939年7月2日 - )は、日… 清水 啓吾(しみず けいご、1939年7月2日 - )は、日本の元競泳選手。長崎県出身。慶應義塾大学卒業。1960年ローマオリンピック競泳では男子100m自由形準決勝敗退したが男子4×100mメドレーリレーで銅メダルを獲得した。 1962年のアジア競技大会競泳男子100m自由形で金メダルを獲得した。
古野 清之(ふるの きよゆき、1939年6月2日 - )は、… 古野 清之(ふるの きよゆき、1939年6月2日 - )は、日本の実業家。元古野電気会長、社長。長崎県出身。 1939年長崎県生まれ。10人兄弟の三男で、兄の古野清孝(長男)と古野清賢(次男)は古野電気の創業者である。長崎県立長崎東高等学校を経て、1962年に甲南大学経営学部経営学科を卒業後、古野電気に入社。1985年5月取締役、1989年5月常務、1990年3月国内本部長、1991年5月専務、1995年3月舶用機器事業部長、1996年5月代表取締役専務、1997年5月副社長を経て、1999年6月社長に就任した。 就任当時、同社の売上と経常利益はいずれも下降していた。そこで、長期的なビジョン(フルノビジョン)や、その実現に必要となる企業としての価値観(フルノバリューズ)の策定に取り組み、社内の意識改革に努め、同社の業績回復を実現させた。
栗林 慧(くりばやし さとし、1939年5月2日 - )は、… 栗林 慧(くりばやし さとし、1939年5月2日 - )は、日本の写真家、映像作家。 満洲国奉天市(現在の中華人民共和国瀋陽)生まれ、長崎県北松浦郡田平町(現:平戸市)出身。東京綜合写真専門学校中退。昆虫などの生物写真が専門。息子は現代美術家の栗林隆。 生物の撮影を元々の動機とした機材と技法の研究・開発は、生物写真の枠を超えて評価が高い。昆虫を大写しにするほどの接写であるにもかかわらず背景の無限遠までボケがわずかな、極端に被写界深度の深い「虫の目レンズ」や、飛び出す(ballistic dispersal)花粉等の 1/50000 秒を撮影するシステムの実現などがある。技術やノウハウはスチルにとどまらず動画でもその威力を発揮しており、これまでNHKの番組制作等に活用された。
畑地 正憲(はたち まさのり、1939年 - )は、日本の東… 畑地 正憲(はたち まさのり、1939年 - )は、日本の東洋史学者、教育者。山口大学名誉教授、萩国際大学・山口福祉文化大学元学長。文学博士(九州大学、2012年)。 1939年、長崎県長崎市出身。1957年に長崎県立長崎東高等学校卒業、1961年に長崎大学学芸学部を卒業後、長崎県公立学校の教諭となる。後に九州大学大学院へ進み、1970年同文学研究科史学・東洋史専攻修了、1972年同東洋史学専攻博士課程中途退学。1981年に山口大学人文学部教授となり、同大学共通教育センター長などを歴任し、2002年に定年退官。1999年から萩国際大学国際学科教授となり、2003年副学長を経て、2004年に学長就任。
三留 理男(みとめ ただお、1938年12月1日 - 202… 三留 理男(みとめ ただお、1938年12月1日 - 2022年3月22日)は、日本の報道写真家。国連から恒久IDカードを発行された世界でも数少ないジャーナリストの一人。 1938年、日本統治下の朝鮮北部・沙里院(現在は北朝鮮・黄海北道沙里院市)に生まれる。1948年に長崎県佐世保市に引き揚げる。山口県立萩高等学校在学中に、元朝日新聞のカメラマンであった角川政治に師事、写真を学ぶ。 1958年に日本大学藝術学部写真学科に入学。在学中の1961年には写真集「Document 小児マヒの記録」(法政大学出版局)を出版した。同年には初の個展「どんづまり―筑豊の女たち」を開催し、各方面より高い評価を得る。
清島 傳生(きよしま ただお、1938年11月15日 - 2… 清島 傳生(きよしま ただお、1938年11月15日 - 2004年10月3日)は、日本の警察官僚。元東北管区警察局長。山形県、熊本県、静岡県の警察本部長などを歴任した。長崎県長崎市出身。 1938年長崎県生まれ。1963年に中央大学法学部を卒業後、警察庁に入庁。 刑事局保安部保安課経済調査官を務めていた1982年頃から豊田商事による悪徳商法が社会問題化していたことを受けて、警察庁で対策会議を開くなど捜査に取り組んだ。詐欺容疑の可能性が早くから指摘されていたが確証は得られなかったといい、豊田商事への強制捜査は1985年まで実施されなかった。豊田商事事件被害者らによる国を相手取った訴訟では、行政による対応の遅れが被害拡大を招いたとして関係機関の担当者とともに批判を受けた。