牛島 義友(うしじま よしとも、1906年 <明治39年> … 牛島 義友(うしじま よしとも、1906年 <明治39年> 1月19日- 1999年 <平成11年> 8月20日)は、日本の教育心理学者。学位は、文学博士(日本大学・論文博士・1953年)(学位論文「精神発達の規準に関する研究」)。九州大学名誉教授。位階は正四位。 長崎県長崎市生まれ。1923年福岡県立中学修猷館、1925年旧制福岡高等学校文科乙類を経て、1928年東京帝国大学文学部心理学科を卒業。 卒業後、東京帝国大学文学部副手となり、立教大学助手も兼務。1929年立教大学文学部教授、1945年10月東京女子高等師範学校教授、1949年6月校名変更でお茶の水女子大学教授、1949年愛育幼稚園園長、1950年九州大学教育学部教授を兼務、恩賜財団母子愛育会愛育研究所教養部長、1953年「精神発達の規準に関する研究」で日本大学より文学博士の学位を取得。
菊井 維大(きくい つなひろ、旧姓田中、1899年(明治32… 菊井 維大(きくい つなひろ、旧姓田中、1899年(明治32年)2月19日 - 1991年(平成3年)11月15日)は、日本の法学者。専門は民事訴訟法。東京大学名誉教授。日本学士院会員。長崎県長崎市出身。学習院大学教授の水野謙は長女の子(外孫)。加藤正治門下。弟子に三ケ月章、斎藤秀夫、大須賀虔、木澤克之など。 1923年(大正12年)東京帝国大学法学部卒業。 その後、東京帝国大学法学部助教授を経て、1932年(昭和7年)東京帝国大学法学部教授。1947年(昭和22年)東京大学法学部教授。 1959年(昭和34年)4月、立教大学法学部法学科教授に就任。1967年(昭和42年)立教大学総長事務取扱。
鈴木 栄太郎(すずき えいたろう、1894年9月17日 - … 鈴木 栄太郎(すずき えいたろう、1894年9月17日 - 1966年9月20日)は日本の社会学者。農村社会学・都市社会学の泰斗。自然村対行政村の概念を提示。
立石 新吉(たていし しんきち、1894年(明治27)1月 … 立石 新吉(たていし しんきち、1894年(明治27)1月 - 1977年(昭和52)10月31日)は、日本の動物学者。 1894年、長崎県北松浦郡南田平村(現・平戸市)生まれ。1914年(大正3)、長崎師範学校を卒業した。 1919年より滋賀県立大津高等女学校(現・滋賀県立大津高等学校)、翌1920年より愛媛県宇和島中学(現・愛媛県立宇和島東高等学校)で教職に就いた。1923年、県立愛知医科大学(現・名古屋大学)助教授となった。1930年から台北帝国大学理農学部動物学教室(比較形態学・哺乳動物学)に助教授として奉職。「もと台湾の台北大学の青木文一郎教授の下にあって研究をされた立石新吉博士(現長崎大学教授)は哺乳類や昆虫類の染色体の研究(1931-)において独自の境地を開いた。
山口 麻太郎(やまぐち あさたろう、1891年(明治24年)… 山口 麻太郎(やまぐち あさたろう、1891年(明治24年)8月27日 - 1987年(昭和62年)12月26日)は、大正から昭和期に活動した日本の民俗学者、壱岐島の郷土史家。丘 草平(おか そうへい)名義を用いることもあった。 長崎県石田郡武生水村(後に壱岐郡郷ノ浦町を経て、壱岐市)里触で、父・山口中一郎と母・リソの間の長男として生まれた。1906年に、武生水村の壱岐郡盈科尋常小学校を卒業した。 その後、壱岐を離れ、補修学校に学ぶが中退し、1907年に長崎通信伝習生養成所に入って、1909年に卒業した。郷ノ浦郵便局に務め、後には長崎郵便局に転じた。1911年に、台湾に渡り、台湾総督府民政部通信局臨時雇となった後、1912年10月に判任官試験に合格して任官したが、1914年2月に依願免官して、東京府に移り、壱岐出身の弁護士であった長峰安三郎の経営する市町村雑誌社に入った。
古賀 十二郎(こが じゅうじろう、1879年(明治12年)5… 古賀 十二郎(こが じゅうじろう、1879年(明治12年)5月16日 - 1954年(昭和29年)9月6日)は、日本の郷土史家。長崎学の基礎を築いた人物として知られる。 黒田藩長崎屋敷の御用達「万屋」の12代目として生まれる。1895年、長崎市立商業学校を首席卒業。在学中、菅沼貞風『大日本商業史』と呉秀三『シーボルト』を読み、長崎の歴史に興味を持つ。1901年、高商附属外国語学校英語学科(現在の東京外国語大学)を卒業する。東京外国語学校の同級生に永井荷風(中退)がいた。 広島で3年間ほど英語教師を務めた後、長崎に帰郷して家業を継ぐ。1912年に『長崎批評』を創刊し、1913年に第1期長崎史談会を設立するなど、長崎研究を本格化させる。
森 丑之助(もり うしのすけ、1877年1月16日 - 19… 森 丑之助(もり うしのすけ、1877年1月16日 - 1926年7月4日)は日本の人類学者。 京都・五条室町の商家に生まれる。長崎市の長崎商業学校で中国語を学んだ後、1895年(明治28年)9月に台湾駐屯の日本軍の通訳として台湾に渡る。その後台湾総督府の嘱託として台湾先住民の研究にあたった。1896年(明治29年)に台東で、1898年(明治31年)に恒春で鳥居龍蔵と出会い、1900年(明治33年)に鳥居の台湾調査に助手として同行するようになり、生蕃研究に携わるようになる。 日本からの来訪者の案内も務めた。 先住民の生活の調査のために森は台湾全土を移動して先住民の集落を訪れ、人類学・民俗学的に貴重な資料を数多く収集した。
神田 左京(かんだ さきょう、1874年〈明治7年〉7月7日… 神田 左京(かんだ さきょう、1874年〈明治7年〉7月7日 - 1939〈昭和14年〉7月7日)は、日本の生物学者。ホタルの研究で知られる。 1874年(明治7年)7月7日、長崎県北松浦郡佐々村に生まれる。1901年(明治34年)4月、関西学院普通部および高等部を卒業。1901年4月から1907年(明治40年)7月まで東京市牛込区原町の成城学校の英語教師を務める。この頃は心理学を研究しており、1907年9月から1912年(明治45年)6月までアメリカ・マサチューセッツ州のクラーク大学(en:Clark University)に在学、心理学でマスター・オブ・アーツを取得する。 1912年、1913年、1914年(大正3年)の6月から9月の間はマサチューセッツ州のウッズホール臨海実験所で生物学の研究をする。
楠本 海山(くすもと かいざん、1873年(明治6年)3月2… 楠本 海山(くすもと かいざん、1873年(明治6年)3月2日 - 1921年(大正10年)2月5日)は明治から大正にかけての儒学者。楠本端山の子で、楠本正継の父。名は正翼(まさすけ)、字は君翔、別号は晦堂、俟斎主人、遜斎主人、鳶魚斎。 1873年(明治6年)3月2日午後、楠本端山の子として長崎県松浦郡平戸村稗田(平戸市)に生まれた。側室腹だったが、正室には男子がなく、嫡子として育てられた。将来「其の祥翼を正張し、千仞の上に翺翔」することを願って、父に名を正翼、字を君翔と名付けられた。 1881年(明治14年)春、父が松浦詮私塾猶興書院を退職し、故郷針尾島(佐世保市)に移ったため、これに従った。
田崎 慎治(たざき しんじ、1872年5月6日(明治5年3月… 田崎 慎治(たざき しんじ、1872年5月6日(明治5年3月29日) - 1954年(昭和29年)4月3日)は、日本の商学者。村瀬春雄門下で、専門は海運論、海上保険論。神戸大学名誉教授、神戸商業大学(現神戸大学)初代学長。パルモア学院学院長(1944年-1947年)。正三位勲一等。 長崎県西彼杵郡三重村(現長崎市三重)出身。田崎慶治の三男、同周三郎の弟、同武男の兄として生まれ、1910年(明治43年)分家する。 長崎商業学校(現長崎市立長崎商業高等学校)を経て、1901年東京高等商業学校(現一橋大学)専攻部保険科を卒業。日本における保険学の祖である村瀬春雄の最初の門下生となった。村田省蔵は友人。
高野 岩三郎(たかの いわさぶろう、1871年10月15日(… 高野 岩三郎(たかの いわさぶろう、1871年10月15日(明治4年9月2日) - 1949年(昭和24年)4月5日)は、日本の社会統計学者、社会運動家。
朝永 三十郎(ともなが さんじゅうろう、明治4年2月5日〈1… 朝永 三十郎(ともなが さんじゅうろう、明治4年2月5日〈1871年3月25日〉 - 1951年〈昭和26年〉9月18日)は、日本の哲学者。京都大学名誉教授(西洋哲学)、文学博士、日本学士院会員。京都学派を代表する人物の一人。 兄は工学者で京都帝国大学工科大学教授の朝永正三、長男は物理学者で東京教育大学教授の朝永振一郎。 大村藩士・朝長甚次郎の三男として長崎県東彼杵郡川棚町石木郷で生まれる。私立大村中学校(旧制中学校、第一回入学者・現長崎県立大村高等学校)2年修了後に上京して共立学校、東京英語学校、第一高等学校を経て、東京帝国大学で学ぶ。丁酉倫理会会員となり、哲学館事件においては意見書に名を連ねた。
楠本 長三郎(くすもと ちょうざぶろう、1871年3月10日… 楠本 長三郎(くすもと ちょうざぶろう、1871年3月10日(明治4年1月20日) - 1946年(昭和21年)12月6日)は、日本の内科学者。大阪医科大学を昇格させ大阪帝国大学を創設した。その後、大阪帝国大学第二代総長となり、微生物病研究所、産業科学研究所等を設置し、大阪帝国大学拡大に貢献した。位階は正三位。勲等は勲一等。 肥前国大村藩の医家楠本家の四代元正の二男として1871年(明治4年)1月20日、長崎県西彼杵郡七釜村(現在の西海市西海町中浦)に生まれる。幼少の頃から父を失い、3人の妹と共に祖父と母によって養育された。祖父が1882年(明治15年)10月に亡くなってからは、母が長三郎ら4人を女手ひとりで苦労しながら養育した。
倉場 富三郎(くらば とみさぶろう、明治3年12月8日〈18… 倉場 富三郎(くらば とみさぶろう、明治3年12月8日〈1871年1月28日〉- 昭和20年〈1945年〉8月26日)は、日本の実業家、水産学者。英名はトミサブロー・アワジヤ・グラバー(Tomisaburo Awajiya Glover)、ただし、墓標に刻まれた名はトーマス・アルバート・グラバー(Thomas Albert Glover)。苗字の「倉場」は、「グラバー」をもじったもの。 幕末から明治維新にかけて活躍したイギリス人貿易商トーマス・グラバーと淡路屋ツルの長男として1871年1月28日(明治3年12月8日)、長崎に生まれる。母は加賀マキとする説もある。また養子として迎えられたイギリス系日本人(British-Japanese)であったとも言われている。
南 鷹次郎(みなみ たかじろう、安政6年3月16日(1859… 南 鷹次郎(みなみ たかじろう、安政6年3月16日(1859年4月18日) - 1936年8月9日)は、日本の農学者。農学博士。北海道帝国大学名誉教授で、北海道帝国大学総長。肥前国大村(現・長崎県大村市)出身。 肥前国大村藩の藩士南仁兵衛の次男として出生し、幼名を久作といった。伯母の嫁ぎ先であった末松家の養子に入ったが、実兄邦蔵が病弱なため実家に戻った。9歳になって藩校五教館に学んだのち、14歳で半ば出奔するような形で長崎の広運学校に移り、2年後には上京して工学寮(のち工部大学校、現在の東京大学工学部の前身)小学校(予科に相当)へ入学した。1877年(明治10年)4月に工部大学校に入学したが、この年より定員の半数のみが官費生となってその選に漏れたこともあり、9月より札幌農学校(現在の北海道大学)の第2期生となる。
植田 史生(うえだ ふみお)は、日本のスポーツ科学者、剣道家… 植田 史生(うえだ ふみお)は、日本のスポーツ科学者、剣道家。慶應義塾大学体育研究所教授。 長崎県小浜町(現:雲仙市)出身。長崎県立長崎東高等学校を卒業後、慶應義塾大学法学部政治学科に進学。剣道部で活動し、1976年の早慶戦では優秀選手に選出された(同年の優秀選手には早稲田大学の谷藤裕明・元盛岡市長がいる)。大学卒業後、1977年慶應義塾大学体育研究所助手、1987年専任講師、1994年助教授を経て、2004年に教授就任。2005年から2013年まで体育研究所長を務めた。剣道の動作分析に関する研究や、スポーツ選手のレーザー治療に関する研究に従事している。剣道の指導にも取り組んでおり、2001年から2003年まで慶應義塾大学剣道部監督を務めたほか、2002年からハーバード大学剣道部コーチを務めている。
松本 哲哉(まつもと てつや、Tetsuya MATSUMO… 松本 哲哉(まつもと てつや、Tetsuya MATSUMOTO) は、日本の医師、医学者。学位は医学博士(長崎大学・1993年)。国際医療福祉大学大学院医学研究科・教授、国際医療福祉大学成田キャンパス 感染症学・主任教授(兼任)、国際医療福祉大学成田病院 国際臨床感染症センター 感染制御部・部長(兼任)。 日本化学療法学会・理事長、日本臨床微生物学会・理事長なども務める。
田中 健之(たなか たけし)は、日本の医師、医学者。専門は感… 田中 健之(たなか たけし)は、日本の医師、医学者。専門は感染症学、臨床感染症学、呼吸器感染症、結核、薬剤耐性菌(AMR)、感染制御、血管透過性亢進病態。長崎大学熱帯医学研究所教授、長崎大学病院総合感染症科・国際感染症予防診療センターセンター長を務める。 佐世保市出身。2002年に熊本大学医学部を卒業後、長崎大学病院感染症内科(熱研内科)に入局。長崎大学大学院医歯薬学総合研究科にて博士(医学)を取得した。米国での研究留学を経て、長崎大学病院で診療・研究・教育に従事。感染制御教育センター講師・准教授などを歴任し、2025年10月よりの長崎大学熱帯医学研究所臨床感染症学分野教授に就任した。 臨床感染症を基盤とし、結核や薬剤耐性菌(AMR)、重症感染症の病態解明と治療開発に取り組んでいる。
鳥羽 達郎(とば たつろう)は、日本の経営学者。富山大学経済… 鳥羽 達郎(とば たつろう)は、日本の経営学者。富山大学経済学部教授。専攻は、マーケティング論・流通論。長崎県佐世保市出身。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
中村 明夫(なかむら あきお)は、長崎県の音楽家、元高等学校… 中村 明夫(なかむら あきお)は、長崎県の音楽家、元高等学校教諭、現在は長崎短期大学准教授。吹奏楽指導者、講演活動家としても知られる。 長崎県佐世保市出身。中学時代、 吹奏楽部に所属し、チューバを担当。長崎県立佐世保北高等学校卒業。作陽音楽大学(現・くらしき作陽大学)音楽学部音楽学科卒業。 平成7年4月、長崎県立壱岐高等学校講師に着任。フリーランスの期間を経て、平成8年5月、長崎県立猶興館高等学校講師に着任。平成9年4月、長崎県立島原南高等学校 (現・長崎県立島原翔南高等学校) に着任(以後、教諭として)。平成11年4月、長崎県立対馬高等学校に着任。 平成20年4月、長崎県立佐世保東翔高等学校に着任し、2017年の県吹奏楽コンクールで自身が顧問を務めた吹奏楽部を九州大会出場に導く。