真珠子(しんじゅこ、1976年 - )は、熊本県天草郡苓北町… 真珠子(しんじゅこ、1976年 - )は、熊本県天草郡苓北町出身の画家、イラストレーター、映像作家、美術家。
熊本県:20人
真珠子(しんじゅこ、1976年 - )は、熊本県天草郡苓北町… 真珠子(しんじゅこ、1976年 - )は、熊本県天草郡苓北町出身の画家、イラストレーター、映像作家、美術家。
エスパー伊東(エスパーいとう、本名:伊東 万寿男〈いとう ま… エスパー伊東(エスパーいとう、本名:伊東 万寿男〈いとう ますお〉、1960年〈昭和35年〉12月26日 - 2024年〈令和6年〉1月16日)は、日本のお笑いタレント、画家。熊本県阿蘇郡南小国町出身(公式プロフィールでは東京都出身)。 上半身裸に黒スパッツ姿がトレードマークである。 自らを「高能力者」「高能力パフォーマー」と称して、体育会系の学生が先輩に強要されてやる様な怪しい芸を実行し、失敗しては笑いを取っている天然ボケキャラクターである。口下手のため、ソロではイジられ役に徹している。 顔だけ外に出して、ボストンバッグ等の中に全身を入れたまま登場することが多い。「高能力」を披露する際のテーマ曲は『バロック・ホウダウン』(いわゆる「エレクトリカルパレード」のテーマ)。
鶴田 一郎(つるた いちろう、1954年4月13日 - )は… 鶴田 一郎(つるた いちろう、1954年4月13日 - )は日本の画家。独特のタッチで描かれた日本女性の美人画で有名である。 1987年5月から1998年5月まで続いたノエビアのCM「コスメティックルネッサンス」シリーズで起用されたことで有名となった。近年は美人画のみならず、現代の鶴田流琳派をテーマに「雪」「月」「花」や「海を渡る」、仏画などの大作にも挑んでいる。 独特の一重で切れ長の美人画は仏教美術に影響を受けたものだという。京都下京区に事務所兼ギャラリーを兼ねる仕事場を持つ。
恒松 正敏(つねまつ まさとし、1952年8月3日 - )は… 恒松 正敏(つねまつ まさとし、1952年8月3日 - )は、日本の音楽家、画家。1978年から1980年までフリクションのギタリストとして在籍。以降は、自身のバンドや画家としての活動に力を置いている。熊本県人吉市出身。 熊本県立人吉高等学校卒業後、東京芸術大学に入学。同大学院に在学中の1978年にツネマツマサトシ名義で、1stシングル「Do You Wanna Be My Dog・g・g!」をゴジラレコードより発表。 その後、フリクションにギタリストとして加入し、バンド初のフルアルバム「軋轢」の制作に携わる。1980年に脱退後は、自身がボーカル・ギターを務めるE・D・P・S、町田康+THE GLORYにギタリストとして参加する。
八代 亜紀(やしろ あき、1950年〈昭和25年〉8月29日… 八代 亜紀(やしろ あき、1950年〈昭和25年〉8月29日 - 2023年〈令和5年〉12月30日)は、日本の演歌歌手、女優、タレント、画家。熊本県八代郡金剛村出身。 幼少の頃から父親の歌う浪曲を子守唄代わりに聴きながら育つ。この影響もあり歌が好きで、地元の歌唱コンクールに出場していた。 八代亜紀が小学5年生の時、たまたま父親が買ってきたジュリー・ロンドンのレコードを聴き、そのハスキーボイスに魅せられる。ハスキーボイスの持ち主だった八代は、その声に若干のコンプレックスがあったが、ジュリーの声質に勇気づけられ、クラブ歌手になることを意識するようになる。 八代市立第六中学校卒業後、九州産業交通にバスガイドとして就職する。
葉 祥明(よう しょうめい、1946年7月7日 - )は、日… 葉 祥明(よう しょうめい、1946年7月7日 - )は、日本の絵本作家、画家、詩人。本名、葉山祥明。 熊本県熊本市出身。九州学院高等学校、立教大学経済学部、セツ・モードセミナー卒業後、ニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグに留学、油絵を学ぶ。 多くの絵本の作者として知られ、2014年の時点で、絵本・詩集など書籍の出版数は300点に上る。 福建省福清県にルーツを持つ華僑2世で中華料理店「紅蘭亭」の創業者である葉菊華の子。7人兄弟の6番目、三男として育つ。長兄の葉山祥泰(しょうたい)は「紅蘭亭」グループ前代表、SWISS洋菓子店創業者。次兄の葉祥栄は建築家、実弟の葉山祥鼎(しょうてい)は童話作家・エッセイスト・写真家で"葉祥明 阿蘇高原絵本美術館"の館長。
大野 勝彦(おおの かつひこ、1944年2月3日 - )は、… 大野 勝彦(おおの かつひこ、1944年2月3日 - )は、日本の詩人・画家。熊本県菊池郡菊陽町出身。 1989年、不慮の事故により両手を切断、それより詩人・画家となる。 普段の大野は、朝から絵画をスタートするときに両腕に義手をつけ、義手で絵画を行う。 絵画の内容は、地蔵、阿蘇山の自然、動植物など。 大野が主宰する「やまびこ塾」でははがきに絵を書く「はがき絵」の教室を行っている。 ※大野勝彦美術館は平成28年熊本地震で壊滅的な被害を受けるも、翌29年4月14日に復興し再オープンしている。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
マナブ 間部(まなぶ まべ、1924年(大正13年)9月14… マナブ 間部(まなぶ まべ、1924年(大正13年)9月14日 - 1997年(平成9年)9月22日)は、日系ブラジル人の画家。日本生まれであるが後にブラジルに移住し、同国を中心に活動した。マナブ・マベ、間部 学とも表記される。ブラジルを代表する文化人。 熊本県出身。10歳で家族と共にブラジルへ移住。コーヒー農園での過酷な労働に従事しながら、独学で絵画を学んだ。1950年代後半、コーヒー園を売り払いサンパウロへ転居。看板描きなどで生計を立てる極貧生活の中、1959年にサンパウロ・ビエンナーレで国内大賞、パリ青年ビエンナーレで受賞し、一躍世界的に「時の人」となった。 「クワを捨てて2年」で世界の頂点へ登り詰めたその成功は、当時のメディアから「シンデレラ・マン」と称賛された。
浜田 知明(はまだ ちめい、本名の読みはともあき、1917年… 浜田 知明(はまだ ちめい、本名の読みはともあき、1917年(大正6年)12月23日 - 2018年(平成30年)7月17日)は、日本の版画家・彫刻家。日本の版画家が国際的に注目されはじめたのは1950年代からであるが、浜田も棟方志功、浜口陽三、駒井哲郎らと並び、第二次大戦後の日本を代表する版画家の一人に数えられる。 1917年(大正6年)、熊本県上益城郡高木村(現・御船町)生まれ。教育者の次男である。旧制御船中学校(現在の熊本県立御船高等学校)では、東京美術学校を卒業後すぐに美術教師として赴任していた富田至誠に指導を受ける。16歳の時には飛び級で東京美術学校(現・東京藝術大学)油画科に入学し、洋画家藤島武二の指導を受けた。
井手 宣通(いで のぶみち、1912年〈明治45年〉2月1日… 井手 宣通(いで のぶみち、1912年〈明治45年〉2月1日 - 1993年〈平成5年〉2月1日)は、日本の洋画家。熊本県上益城郡御船町出身。 帝展、新文展、日展、光風会などを中心に活躍。その後、自ら「日洋会」を組織し、戦後の洋画壇の刷新と、日本人の感性による新たな具象絵画の可能性を追求した。 熊本市現代美術館に、井手宣通記念ギャラリーがある。
坂本 善三(さかもと ぜんぞう、1911年3月15日 - 1… 坂本 善三(さかもと ぜんぞう、1911年3月15日 - 1987年10月14日)は、日本の洋画家。 「グレーの画家」と呼ばれる。グレーと黒を主体にした独自の抽象画は、東洋の寡黙、沈黙の錬金術などとも評じられる。1986年のFIEST展(フランス、パリ)で、リトグラフィ「構成80」が専門家賞(Prix Professionnel)を受賞するなど、国際的にも評価が高い。 作品の収蔵は文化庁、栃木県立美術館、熊本県立美術館、福岡市美術館、北九州市立美術館、坂本善三美術館ほか。熊日社会賞、西日本文化賞、第1回長谷川仁記念賞、熊本県文化懇話会賞受賞。熊本県近代文化功労者。 熊本県阿蘇郡小国町には、坂本善三の作品など約500点を収蔵、展示する坂本善三美術館がある。
浦田 正夫(うらた まさお、1910年5月1日 - 1997… 浦田 正夫(うらた まさお、1910年5月1日 - 1997年11月30日)は、日本画家、日本芸術院会員。 熊本県山鹿市生まれ。浦田家は祖父から続く画家の家系で、伯父に高橋廣湖がいる。松岡映丘らに師事。東京美術学校日本画科卒。1973年日展文部大臣賞受賞、1978年日本芸術院賞受賞、1988年芸術院会員。1993年、勲三等瑞宝章受章。 代表作に「蔓(かずら)」、「松」など。北関東や東北の自然を描いた。
野田 英夫(のだ ひでお、1908年7月15日 - 1939… 野田 英夫(のだ ひでお、1908年7月15日 - 1939年1月12日)は、洋画家。アメリカ合衆国生まれの日系人。 1908年(明治41年)、カリフォルニア州サンタクララ郡アグニュー村(Agnew, 現・サンタクララ市)で、熊本県出身の日本人移民・野田英太郎とセキの二男(第二子長男?)として生まれる。英語名はベンジャミン・ノダ。当時、アグニューや近隣のアルビソなどサンノゼ郊外は、ベリーなどの農産物耕作に携わる日本人移民の中心地だった。 3歳のときに父の郷里熊本の叔父・羽島徳次に預けられ、熊本師範付属小学校、旧制熊本県立熊本中学校卒業後に帰国し、1929年にアラメダ郡のビードモント高校を卒業、アメリカ人家庭のスクールボーイとして働きながら絵を学び、カリフォルニア・ファイン・アーツを中退、1931年にニューヨークに出てウッドストック芸術村で開かれていたアート・ステューデンツ・リーグの夏季講座に参加し、同校教授アーノルド・ブランチ(英語版)や国吉康雄の支援を受け、壁画・テンペラ画を研究した。
川本 末雄(かわもと すえお、1907年(明治40年)3月1… 川本 末雄(かわもと すえお、1907年(明治40年)3月16日 - 1982年(昭和57年))は、熊本県玉名村(現玉名市玉名)出身の日本画家。 現代的解釈による大和絵の世界を展開し、郷里の菊池川周辺の自然風景をモチーフに、現代日本画の新境地を開いた。 1907年(明治40年)、熊本県玉名村に生まれる。旧制玉名中学校(現熊本県立玉名高校)を経て1929年、東京美術学校(現東京芸術大学)へ入学、1933年卒業。松岡映丘に師事する。1938年の松岡映丘の死去により翌1939年より山口蓬春に師事。 1948年、第4回日展(日本美術展覧会)にて「水辺薄日」が初入選、翌1949年第5回日展で「夕映」特選、1953年第9回日展で「朝の渓谷」が特選・白寿賞・朝倉賞を受賞。
竹中英太郎(たけなか えいたろう 1906年(明治39年)1… 竹中英太郎(たけなか えいたろう 1906年(明治39年)12月18日 - 1988年4月8日)は、日本の挿絵画家、労働運動家、実業家。 長男は評論家の竹中労。『琉球共和国』、『仮面を剥ぐ』、『左右を斬る』、『浪人街 天明餓鬼草紙』などの労の著作や、労が制作したレコードのジャケットなどの装画を数多く手掛けた。次女の金子紫は「竹中英太郎記念館」館長。 福岡県福岡市上名島(現・福岡市中央区大名)の没落士族の家庭に生まれる。心臓逆位症で心臓が右、十二指腸が左にある珍しい体の持ち主であったと竹中労は伝えているが、金子紫はこの説を否定している。1歳で父を亡くし、極貧の中で育つ。11歳で熊本に移住。熊本中学夜間部に学びつつ警察で給仕として働いている時、押収された社会主義関係の文書を読んで社会主義者となる。
牛島 憲之(うしじま のりゆき、1900年8月29日 - 1… 牛島 憲之(うしじま のりゆき、1900年8月29日 - 1997年9月16日)は、洋画家。熊本県熊本市二本木町生まれ。 世田谷区在住であったが、多摩川近郊、特に府中によくスケッチに出かけた縁から、東京都府中市の府中市美術館に遺族が寄贈した作品100点が収蔵されている。 風景画の作品が多く、柔らかな線と穏やかな色彩を特徴とする。牛島の描くモティーフの種類はある程度限定され、同じ風景が数多く繰り返し描かれる。 熊本の裕福な地主の息子に生まれ、東京芸大の講師になるまで勤め人になったことが無かったという。日展に入選後も絵を売らず、また華やかな場に参列することも少なく、画家とは名誉ではなく描き続けることであるという立場を貫いた。
田代 順七(たしろ じゅんしち)1900年(明治33年)3月… 田代 順七(たしろ じゅんしち)1900年(明治33年)3月13日 - 1985年(昭和60年)10月11日)は、昭和期の洋画家。現在の熊本県玉名市出身。 教員を務める傍ら熊本在住者として初めて帝展入選を果たし、以後1985年まで、文展(文部省美術展覧会、現在の日展)、日展に連続出品。具象絵画団体東光会支部としての銀光会を結成し、熊本の洋画史をリードしながら郷土熊本の自然の美をテーマに一貫して具象絵画の世界を追求、熊本における美術振興に寄与した。 その絵画精神は自然観照にもとづく美学の実践であり、力強く表現されている。 画業60余年、とりわけ1950年代中頃から展開する「球磨川」「天草」そして晩年の「阿蘇」シリーズの作品は、田代芸術の写実観を如実に物語っている。
富田 至誠(とみた しせい、1897年(明治30年)3月6日… 富田 至誠(とみた しせい、1897年(明治30年)3月6日 - 1949年(昭和24年)5月31日)は、日本の洋画家であり、美術教師。熊本県出身。 旧姓松尾至誠。東京美術学校西洋画科、(現東京藝術大学油画専攻)卒業後すぐに、新設された熊本県立御船中学校、現在の熊本県立御船高等学校に図画教師(美術教師)として赴任。以後、学制改革により御船中学校が御船高等学校となった翌年(昭和24年)に病没するまでの間、同校で教鞭をとり続ける。昭和6年11月の天皇行幸、陸軍大演習に際して休憩所に飾る天覧の絵を描くなど優れた画力を持ちながら、文展、帝展等の公募展には一切出展せず、生涯一美術教師を通す。 井手宣通・浜田知明ら、日本を代表する美術家や美術教師を多数育てる。
堅山 南風(かたやま なんぷう、1887年〈明治20年〉9月… 堅山 南風(かたやま なんぷう、1887年〈明治20年〉9月12日 - 1980年〈昭和55年〉12月30日)は、熊本県熊本市出身の日本画家。本名は堅山 熊次。 横山大観に認められ、院展、日展などで活躍した。花鳥画、特に鯉を中心とする秀逸な魚類を描いた。1914年(大正3年)の日本芸術院再興にも加わり、同芸術院常務理事、日展参事などを務めた。ほか、熊本市名誉市民、文化功労者、文化勲章受章者であり、大正から昭和にかけての日本画界を支える中核だった。代表作に「白雨」。 1887年9月12日、熊本県熊本市に三男として生まれる。1888年に母を、1893年に父をと早くに父母を失い、以後祖父によって養育された。
高橋 廣湖(たかはし こうこ、明治8年(1875年)4月1日… 高橋 廣湖(たかはし こうこ、明治8年(1875年)4月1日 - 大正元年(1912年)6月2日)は、日本の明治時代に活動した日本画家。 熊本県鹿本郡山鹿町松坂(現在の熊本県山鹿市)に、浦田長次郎と登喜の長男として生まれる。本名は久馬記(くまき)。長次郎は熊本藩御用絵師の矢野良敬に師事、雪舟の流れをくむ雲谷派に学び、地元山鹿で画塾「観松堂」を開いていた。雪翁・雪長の号を持ち、今でも山鹿周辺の寺社には長次郎が描いた絵馬が多く残っている。初めは父に絵の手ほどきを受け、同じく次弟の一二(号は天鹿)、四男の四郎(号は湖月・廣香)も日本画家になっている。明治25年(1892年)17歳で熊本在住の南画家・犬塚松琴に弟子入りする。