前田 隆(まえだ たかし、1967年11月25日 -)は、宮… 前田 隆(まえだ たかし、1967年11月25日 -)は、宮崎県延岡市出身の元プロ野球選手(内野手/外野手)。右投左打。 宮崎県立延岡西高等学校では途中退部するも、素質を見込まれ社会人野球の三菱自動車水島へ進み、1988年のプロ野球ドラフト会議で読売ジャイアンツ(巨人)から5位指名され入団。契約金と年俸はそれぞれ4000万円、450万円(いずれも推定)だった。 現役時代の松本匡史を上回る100m走10秒9の俊足は巨人史上最速と評され、「青い稲妻2世」として1年目から期待されていた。社会人野球では天分だけで盗塁できたが、プロに入って改めてリードやスタートの技術などを学び直したという。1991年のシーズンオフには二軍監督・末次利光の指示で大相撲の玉ノ井部屋に体験入門している。
入来 智(いりき さとし、1967年6月3日 - )は、宮崎… 入来 智(いりき さとし、1967年6月3日 - )は、宮崎県都城市出身の元プロ野球選手(投手)。
中嶋 治彦(なかじま はるひこ、1965年11月30日 - … 中嶋 治彦(なかじま はるひこ、1965年11月30日 - )は、宮崎県出身の元プロ野球選手(投手)。
益田 明典(ますだ あきのり、1965年9月23日 - )は… 益田 明典(ますだ あきのり、1965年9月23日 - )は、宮崎県都城市出身の元プロ野球選手(投手)、野球指導者。左投左打。 2019年2月6日より、愛知学院大学硬式野球部の監督を務める。 都城西高から愛知学院大学に進学。愛知大学リーグでは4年時に2季連続でリーグ優勝に貢献し、最優秀選手とベストナインに選ばれた。明治神宮大会では初戦で近大の山内嘉弘と投げ合って完投勝利。リーグ戦通算35試合登板、23勝7敗、防御率1.95。1987年のNPBドラフト会議で読売ジャイアンツから5位指名を受け入団した。背番号は33。 プロ1年目の1988年に一軍初登板を含む2試合、2年目の1989年に3試合に登板しただけで、その後は一軍登板はなく1991年に現役を引退。
大井 久士(おおい ひさし、1963年10月22日 - )は… 大井 久士(おおい ひさし、1963年10月22日 - )は、宮崎県都城市出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ。 西武ライオンズ入団から現役選手(9年間)・チームスタッフ(17年)・二軍バッテリーコーチ(3年)時代を含め、西武一筋29年間で、黄金期を支えた人物の一人である。 都城西高から、1981年オフにドラフト外で西武ライオンズに入団。1984年には米国1Aサンノゼ・ビーズへの留学を経験したが、常に故障との戦いで一軍出場を果たせず、1990年に現役を引退。 引退後も西武に残り、チームスタッフ(1991年 - 2007年)→二軍バッテリーコーチ(2008年 - 2010年)を務めた。チームスタッフではブルペン捕手を務め、投手の投球練習時におけるサポートや投手の調子を的確に把握した上で必要に応じて、チーム首脳陣に報告などの業務を担当。
本村 信吾(もとむら しんご、1963年8月3日 - )は、… 本村 信吾(もとむら しんご、1963年8月3日 - )は、宮崎県出身の元プロ野球選手(外野手)。
加藤 誉昭(かとう たかあき、1963年4月24日 - )は… 加藤 誉昭(かとう たかあき、1963年4月24日 - )は、宮崎県都城市出身の元プロ野球選手(外野手)。左投左打。 都城商業高3年時の1981年、第63回全国高等学校野球選手権大会に4番打者として出場し、3回戦岡谷工業高戦でのサヨナラ本塁打・1試合2本塁打を含む大会3本塁打を記録。 1981年のプロ野球ドラフト会議でヤクルトスワローズから2位指名を受け入団する。 プロ3年目の1984年に一軍初出場。1988年10月に現役を引退。 引退後はベースボール・マガジン社の記者を経て、プロ野球グッズ企画制作販売等を事業とする有限会社トータルベースボールワークスを設立。同社代表取締役社長となる。その後は九州料理を出す外苑前駅近くの居酒屋に勤める。
井上 祐二(いのうえ ゆうじ、1963年3月2日 - )は、… 井上 祐二(いのうえ ゆうじ、1963年3月2日 - )は、宮崎県日南市出身の元プロ野球選手(投手)、野球指導者。
榊原 聡一郎(さかきばら そういちろう、1962年9月3日 … 榊原 聡一郎(さかきばら そういちろう、1962年9月3日 - )は、宮崎県宮崎市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)。 宮崎日大高では、1979年秋季九州大会県予選決勝に進むが、延岡学園に敗退。翌1980年夏の甲子園県予選は準決勝で延岡高に敗れる。 1980年のプロ野球ドラフト会議で広島東洋カープから2位指名を受け入団。 ウエスタン・リーグで1985年に打点王、1988年に17本塁打・58打点で二冠王を獲得。プロ8年目となった1988年に初めて一軍出場を果たし、6試合に右翼手として先発出場を果たした。 しかしその後は出場機会に恵まれず、1990年途中に西清孝・松井隆昌との2対2の交換トレードで本村信吾と共に福岡ダイエーホークスに移籍し、背番号00を着けた。
佐藤 和史(さとう かずひと、1962年2月6日 - )は、… 佐藤 和史(さとう かずひと、1962年2月6日 - )は、宮崎県出身の元プロ野球選手(外野手)。右投右打。 日南高から、1979年のプロ野球ドラフト会議でロッテオリオンズから3位指名を受け入団。 投手として入団したが、プロ4年目の1983年から内野手に転向し、7年目の1986年に一軍初出場を果たす。初出場した試合は有藤道世の引退試合であり、三遊間を組んだ。 1990年に初スタメンで起用された試合で11年目にしてプロ初ヒットを記録した。1992年のシーズン途中に現役を引退し、二軍コーチに就任し、1994年まで務めた。
森田 芳彦(もりた よしひこ、1962年2月5日 - 201… 森田 芳彦(もりた よしひこ、1962年2月5日 - 2019年)は、宮崎県串間市出身の元プロ野球選手(内野手)。右投右打。 ロサンゼルスオリンピック野球の金メダリスト。 三人兄弟の末っ子で、串間市立有明小学校5・6年時(1972年・1973年)には、少年野球の宮崎県大会で2連覇を経験。串間市立福島中学校への進学を機に校内の軟式野球部へ入ると、1年時の1974年に、小学校時代からの2年先輩である西村徳文主将の下で正二塁手として県大会優勝を果たしている。ちなみに、県大会の会場は当時完成したばかりの宮崎市営球場で、こけら落としの試合からの5連勝で優勝に至った。 中学校卒業後に、野球選手(投手)だった実兄や西村に続いて宮崎県立福島高等学校へ進学。
松浦 英信(まつうら ひでのぶ、1961年2月15日 - )… 松浦 英信(まつうら ひでのぶ、1961年2月15日 - )は、宮崎県出身の元プロ野球選手(外野手)。右投右打。
南牟礼 豊蔵(みなみむれ とよぞう、1960年12月9日 -… 南牟礼 豊蔵(みなみむれ とよぞう、1960年12月9日 - )は、宮崎県都城市出身の元プロ野球選手(外野手)。 1960年12月9日に宮崎県都城市で生まれる。「南牟礼」という名字は鹿児島県東部の大隅半島付近を発祥と言われ、鹿児島県大隅町に多いとされる。全国的には僅か40名ほどしか確認されていないという。 宮崎県立都城工業高等学校では黒原祐二(のちに西武ライオンズ)と同期で、卒業後は電電九州に就職して1980年から2年連続で都市対抗野球大会に出場を果たす。 1981年のドラフト会議で阪急ブレーブスから3巡目で指名されたが、電電九州は他に横浜大洋ホエールズから右田一彦が1巡目、村岡耕一が3巡目で指名されており、同い年かつ同期入社組3名が揃ってプロ入りを果たした。
黒原 祐二(くろはら ゆうじ、1960年8月27日 - )は… 黒原 祐二(くろはら ゆうじ、1960年8月27日 - )は、宮崎県北諸県郡高崎町出身の元プロ野球選手(投手)である。1979年の登録名は黒原 裕二。 1960年8月27日に宮崎県北諸県郡高崎町で生まれる。宮崎県立都城工業高等学校ではエースとして活躍したが甲子園出場は叶わなかった。同期にはのちに阪急ブレーブスに入団する南牟礼豊蔵がいる。 1978年のプロ野球ドラフト会議で、西武ライオンズから4巡目で指名され、入団する。 1982年にはイースタン・リーグで最優秀救援投手のタイトルを獲得する。 1983年に1軍初登板。 1984年には中継ぎとして18試合に登板。 1985年に初勝利を挙げた。 1988年には自己最多の33試合に登板して2勝1セーブを記録し、同年の日本シリーズ(対中日ドラゴンズ戦)では第5戦で初登板を果たした。
福良 淳一(ふくら じゅんいち、1960年6月28日 - )… 福良 淳一(ふくら じゅんいち、1960年6月28日 - )は、宮崎県東臼杵郡北浦町出身の元プロ野球選手(内野手)。
西村 徳文(にしむら のりふみ、1960年1月9日 - )は… 西村 徳文(にしむら のりふみ、1960年1月9日 - )は、宮崎県串間市出身の元プロ野球選手(外野手・内野手、右投両打)・監督・コーチ、野球解説者・評論家。吉本興業所属。 千葉ロッテマリーンズとオリックス・バファローズの両球団で監督とコーチを務めた。現役時代のニックネームは「走る将軍」。 幼少期の西村は、地元・串間の方言で「おちゃかろ」と言われるほどのイタズラ好きな子供だったという。串間市立有明小学校には野球部が存在しなかったため、兄とキャッチボールで遊び、串間市立福島中学校に進学してから本格的に野球を始めている。中学まではそれほど俊足ではなかったが、走り幅跳びでは裸足で6m以上跳んだ。 中学生から野球の練習に励み、1974年には主将を務めて、当時宮崎県中学校体育連盟主催の県大会の会場となる完成直後の宮崎市営球場のこけら落としの試合に逆転勝利したのを皮切りに5勝してこの大会で優勝している。
池田 親興(いけだ ちかふさ、1959年5月17日 - )は… 池田 親興(いけだ ちかふさ、1959年5月17日 - )は、宮崎県宮崎市出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)、野球解説者、野球評論家、YouTuber。 愛称はチカドン、チカ、チカさん。 高鍋高等学校入学時より野球を始める。 1976年、2年生の時にエースとして夏の甲子園県予選準決勝に進出するが、日南高に敗退。翌年も県予選で敗れ、甲子園には出場できなかった。 1977年のドラフト会議では阪神タイガースに4位指名されるが、進学を理由に入団拒否し、スポーツ推薦入学で法政大学に進学。2年上に住友一哉、2年下に和田護(日産自動車)と好投手がおり、東京六大学野球リーグでは4年次の秋季リーグで2勝するにとどまった。
池田 弘(いけだ ひろし、1955年2月27日 - )は、宮… 池田 弘(いけだ ひろし、1955年2月27日 - )は、宮崎県日南市出身の元プロ野球選手(投手)である。 日南商業高等学校から鷺宮製作所に進む。山本良材の控え投手であったが将来性を買われ、1975年のドラフト6位で太平洋クラブライオンズに指名される。会社の意向もあり翌年シーズン後に入団。 1978年は開幕から一軍に上がり、4月9日には初先発を果たす。同年は8試合に先発し3完投、中継ぎでも活躍し3勝を記録する。しかし翌1979年は伸び悩み、同年オフ、大川浩との交換トレードで横浜大洋ホエールズに移籍。1981年には主に中継ぎで46試合に登板した。翌1982年も24試合に起用されるが、同年限りで現役引退。
鳥原 公二(とりはら こうじ、1954年8月29日 - )は… 鳥原 公二(とりはら こうじ、1954年8月29日 - )は、宮崎県宮崎市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。
柳田 豊(やなぎだ ゆたか、1951年8月31日 - )は、… 柳田 豊(やなぎだ ゆたか、1951年8月31日 - )は、宮崎県出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。本名は清音で、柳田(やなぎた) 豊 。従甥にプロ野球選手の柳田悠岐がいる。 延岡商業高校では1968年、2年生の時にチームが第50回全国選手権に初出場している が、控え投手であった柳田は出場メンバーに入れなかった。翌1969年夏の宮崎大会ではエースとして決勝に進出。宮崎商の西井哲夫と投げ合うが完封負け、南九州大会には進めなかった。 1969年のドラフト8位で西鉄ライオンズに入団。1年目の1970年から一軍に上がり1完投を含め3勝、翌1971年も3勝を挙げるが、この年の秋の練習で左膝内側の靭帯を損傷、翌1972年は0勝に終わる。
西井 哲夫(にしい てつお、1951年7月7日 - )は、宮… 西井 哲夫(にしい てつお、1951年7月7日 - )は、宮崎県延岡市出身の元プロ野球選手である。ポジションは投手。右投右打。
高橋 明(たかはし あきら、1950年8月29日 - )は、… 高橋 明(たかはし あきら、1950年8月29日 - )は、宮崎県出身の元プロ野球選手(外野手)。右投右打。 柳川商業からドラフト14位で1969年に西鉄ライオンズに入団。1971年に同姓同名である投手の高橋明が移籍してきたため、スコアボードや新聞では投手の方が高橋明、外野手の方が高橋外と表記された。 一軍ではあまり活躍できず、1972年に引退した。 この項目は、野球選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ野球選手/P野球)。
村上 悦雄(むらかみ えつお、1950年4月10日 - )は… 村上 悦雄(むらかみ えつお、1950年4月10日 - )は、宮崎県東諸県郡綾町出身の元プロ野球選手(投手)。 宮崎工業高校から高島屋製作所を経て、1971年にドラフト外で南海ホークスへ入団。高島屋製作所では軟式をやっており、エースだった。 入団2年目の1973年にオーバースローからサイドスローにモデルチェンジ。カーブ、スライダーに沈む球を織り交ぜて、高低にうまく投げ分ける投球が持ち味。球は速い。 1978年に現役を引退し、マネージャー兼打撃投手として南海に残った。 ニックネームの由来は不明だが、水島新司作の「あぶさん」では主に、南海時代のエピソードに登場するシーンが多く、「村上(えんきょう)」と本名の部分にニックネームがルビで振られている。
三浦 政基(みうら まさき、1949年11月17日 - )は… 三浦 政基(みうら まさき、1949年11月17日 - )は、宮崎県児湯郡都農町出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。 日向工業高校卒業後の1968年にトヨタ自動車へ入社するが、1年で退社して1969年に愛知学院大学へ進学。愛知大学リーグでは中京大の後塵を拝し、在学中2位4回にとどまり優勝には届かなかった。1学年下に小林秀一投手がいた。 1972年春季には敢闘賞を受賞し、リーグ通算28試合登板で8勝5敗を記録。 同年のドラフト2位で東映フライヤーズに入団。 1973年から一軍で起用され、7月には初先発を果たす。同年は右オーバースローの小気味いいノーワインドアップ投法で、カーブを決め球に1完投を含む6勝を挙げ、その後も主に中継ぎとして活躍する。
甲斐 和雄(かい かずお、1949年1月9日 - )は、宮崎… 甲斐 和雄(かい かずお、1949年1月9日 - )は、宮崎県日南市出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。 日南高校では1966年夏の甲子園県予選決勝に進出するが、宮崎大宮高に延長16回の熱戦の末に敗退、南九州大会進出を逸する。1966年第1次ドラフト会議で西鉄ライオンズから3位指名を受け、入団。 大型遊撃手として期待され、1970年には25試合に先発出場を果たす。翌年も一軍で活躍するも、1973年に藤井信行との交換トレードでロッテオリオンズへ移籍。飯塚佳寛、千田啓介と遊撃手の定位置を争うが同年限りで引退した。
水谷 実雄(みずたに じつお、1947年11月19日 - )… 水谷 実雄(みずたに じつお、1947年11月19日 - )は、宮崎県串間市出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)・コーチ、解説者・評論家。
田上 一秀(たのうえ かずひで、1947年7月23日 - )… 田上 一秀(たのうえ かずひで、1947年7月23日 - )は、宮崎県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。
牧 憲二郎(まき けんじろう、1947年7月8日 - )は、… 牧 憲二郎(まき けんじろう、1947年7月8日 - )は、宮崎県出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 高鍋高校ではエースとして活躍。1965年には甲子園に春夏連続出場を果たす。春の選抜では、1回戦で野崎恒男投手を擁する向陽高に敗退。同年夏の選手権は、2回戦(初戦)で保原高の岡正光、準々決勝で東邦高の北角富士雄と投げ合うが、いずれも完封で降し勝ち上がる。準決勝では銚子商と対戦。銚子商のエース木樽正明から1点を先制するが、8回に追いつかれ9回裏サヨナラ負けを喫する。同年の岐阜国体にも出場し準々決勝に進むが、岩崎忠義のいた津久見高に延長10回裏サヨナラ負け。 1965年ドラフト会議で南海ホークスに1位指名で入団。
村田 広光(むらた ひろみつ、1946年11月28日 - 2… 村田 広光(むらた ひろみつ、1946年11月28日 - 2003年5月27日)は日本の陸上選手、プロ野球コーチ。宮崎県児湯郡都農町出身。
山本 真一(やまもと しんいち、1946年4月5日 - )は… 山本 真一(やまもと しんいち、1946年4月5日 - )は、宮崎県出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。
高橋 博士(たかはし ひろし、1946年3月10日 - )は… 高橋 博士(たかはし ひろし、1946年3月10日 - )は、宮崎県宮崎市出身の元プロ野球選手(捕手・内野手)。1966年から1973年までの登録名は「高橋 博」。
小川 亨(おがわ とおる、1945年8月1日 - )は、宮崎… 小川 亨(おがわ とおる、1945年8月1日 - )は、宮崎県宮崎市出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)、野球解説者、野球指導者。
寺岡 孝(てらおか たかし、1942年9月13日 - 201… 寺岡 孝(てらおか たかし、1942年9月13日 - 2011年2月4日)は、宮崎県出身のプロ野球選手(外野手、一塁手)、野球指導者。
山田 忠男(やまだ ただお、1942年8月20日 - 199… 山田 忠男(やまだ ただお、1942年8月20日 - 1999年5月31日)は、宮崎県日南市油津出身の元プロ野球選手。ポジションは捕手。 日南高校では1960年夏の甲子園県予選準決勝に進出するが、都城都島高に敗れ南九州大会へは進めなかった。1961年に大洋ホエールズへ入団。 大洋の捕手陣には土井淳、伊藤勲らがおり、活躍の場は少なかったが、1968年には伊藤に次ぐ二番手捕手として17試合に先発マスクを被る。1971年限りで引退した。 1999年5月31日に死去。享年56。
武上 四郎(たけがみ しろう、1941年4月8日 - 200… 武上 四郎(たけがみ しろう、1941年4月8日 - 2002年8月23日)は、宮崎県宮崎市出身のプロ野球選手(内野手)・コーチ・監督、解説者・評論家。 中学時代から子分を40人も持つガキ大将で、進学校の宮崎大宮高校では100m走を10秒9で走る俊足であった。1年次の1957年に夏の甲子園に出場しているが、自身の出場はなかった。 高校卒業後は1961年に中央大学へ進学し、東都大学野球リーグでは3年次の1963年秋季リーグ、4年次の1964年秋季リーグと2度の優勝を経験。3年時のエースは三浦宏(北海道拓殖銀行)であった。1964年10月には東京五輪デモンストレーションゲームとして開催された日米大学野球選抜試合に二塁手として出場している。
岩下 光一(いわした こういち、1940年3月4日 - )は… 岩下 光一(いわした こういち、1940年3月4日 - )は、宮崎県宮崎市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督、解説者。
友川 賢次(ともかわ けんじ、1935年12月9日 - )は… 友川 賢次(ともかわ けんじ、1935年12月9日 - )は、宮崎県出身の元プロ野球選手。ポジションは外野手。 宮崎大宮高校から1953年に洋松ロビンスへ入団。1955年は開幕直後から一軍に上がるが、40打席無安打と不振を極める。しかし8月16日に中日の杉下茂から初安打。その後は主に中堅手として起用され、同年は49試合に先発出場。その後も準レギュラーとして活躍するが、1958年オフに国鉄スワローズへ移籍。1959年限りで引退した。
岩岡 保宏(いわおか やすひろ、1933年11月17日 - … 岩岡 保宏(いわおか やすひろ、1933年11月17日 - )は、宮崎県児湯郡高鍋町出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。 高鍋高校では1951年夏の甲子園予選東九州大会に進むが、1回戦で大分上野丘高に惜敗。高校同期に大学、プロ野球と行動を共にする黒木弘重がいた、卒業後は黒木とともに明治大学へ進学。東京六大学リーグではエース秋山登を擁し、1953年秋季リーグの戦後初優勝を含め、在学中に3度の優勝を経験。1954年、1955年の全日本大学野球選手権に連続優勝を飾る。1955年春季リーグではベストナイン(遊撃手)に選出された。同年の第2回アジア野球選手権大会日本代表として、日本チームの優勝に貢献。
黒木 弘重(くろき ひろしげ、1933年4月15日 - 20… 黒木 弘重(くろき ひろしげ、1933年4月15日 - 2023年5月17日)は、宮崎県児湯郡高鍋町出身の元プロ野球選手。ポジションは一塁手、外野手。 大洋ホエールズで活躍した黒木基康は実弟に当たり、1960年には大洋でチームメイトとして所属した。 高鍋高校在学中は甲子園出場なし(弟の基康は1954年、3年生の時に一塁手として夏の甲子園に出場している)。1951年夏の甲子園予選東九州大会に進むが、1回戦で大分上野丘高に惜敗。高校同期に大学、プロ野球と行動を共にする岩岡保宏がいた。 高校時代、たまたま宮崎に来ていた明大の原勝彦らの指導を受けた縁で、岩岡とともに明治大学に進学。東京六大学野球リーグではエース秋山登を擁し、1953年秋季リーグの戦後初優勝を含め、在学中に3度の優勝を経験。
大戸 雄記(おおと ゆうき、1930年4月1日 - 2018… 大戸 雄記(おおと ゆうき、1930年4月1日 - 2018年6月4日)は、宮崎県宮崎市出身のプロ野球選手。 宮崎大淀高校から鹿児島鉄道管理局を経て、1954年に南海ホークスへ入団。 南海では代走、守備固め要員として試合途中からの出場がほとんどで、1955年は111試合出場で110試合、1956年は97試合全て途中出場という記録だった。 1957年に引退。引退後は鹿児島鉄道管理局に指導者として復帰し、NHK鹿児島放送局の野球解説者としても活動した。
川畑 亜沙美 は、元女子プロ野球選手。宮崎県都城市出身。捕手… 川畑 亜沙美 は、元女子プロ野球選手。宮崎県都城市出身。捕手。