折田 兼至(おりた かねたか、1858年3月11日(安政5年… 折田 兼至(おりた かねたか、1858年3月11日(安政5年1月26日) - 1923年(大正12年)6月5日)は、明治から大正期の政治家・実業家。衆議院議員(4期)。 薩摩国給黎郡知覧郷(鹿児島県給黎郡知覧村、川辺郡知覧村、知覧町を経て現南九州市)で、神職・折田丹江の長男として生まれた。1882年(明治15年)2月、家督を相続する。私学校に学ぶ。和漢学、英学を修めた。1882年(明治15年)熊本に九州進歩党を創立した。ほか、学務委員、徴兵参事員、衛生会委員、県教育会副会長などを歴任した。 1883年(明治16年)7月、鹿児島県会議員に選出され、1887年(明治20年)6月、県会副議長、1888年(明治21年)3月、第6代県会議長に就任し、同常置委員も務めた。
田中 省三(たなか せいぞう、1858年2月20日(安政5年… 田中 省三(たなか せいぞう、1858年2月20日(安政5年1月7日)- 1925年(大正14年)6月29日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 大隅国囎唹郡福山郷福山村小廻(現鹿児島県霧島市福山町福山)で生まれる。町田実有から漢学を学んだ。1876年(明治9年)福山小学校を卒業。1876年(明治9年)西南戦争で西郷軍に加わり、宮崎で官軍に捕らえられ細島に流罪となった。その後赦免されて帰郷し、1882年(明治15年)鹿児島師範学校を卒業。福山小学校の教師を務め、1885年(明治18年)同郷で当時石川県庁勤務の川上親晴の推薦で能登半島の小学校長に就任。1年ほどで辞職して、奈良県五条の看守長、大阪地方裁判所書記などを歴任。
厚地 政敏(あつち まさとし、1858年(安政5年1月)- … 厚地 政敏(あつち まさとし、1858年(安政5年1月)- 1921年(大正10年)2月11日)は、明治から大正期の政治家、実業家。衆議院議員、鹿児島県会議長。 薩摩国谿山郡谷山郷、のちの鹿児島県谿山郡谷山村(鹿児島郡谷山村、谷山町、谷山市を経て現鹿児島市)で生まれた。15歳で上京しバラ塾で英語を学んだ後に大学予備門に入学。病のため帰郷し、九州改進党鹿児島部の結成に参画し、政治活動と共に青年の指導を行う。谷山小学校(現鹿児島市立谷山小学校)の初代校長を務めた。 1883年(明治16年)1月、鹿児島県会議員に当選し、鹿児島同志会が発足し理事に就任して自由民権運動を進めた。第7代県会議長に就任。その後、吏党派の独立クラブに転じた。
平田 二郎(ひらた じろう、1857年4月24日(安政4年4… 平田 二郎(ひらた じろう、1857年4月24日(安政4年4月1日)- 1910年(明治43年)3月31日)は、明治期の政治家、銀行家。衆議院議員、鹿児島県会議長。 大隅国囎唹郡国分郷(鹿児島県西囎唹郡国分村、姶良郡国分村、国分町、国分市を経て現霧島市)で、平田祐拙、みよ の長男として生まれる。 折田兼至、長谷場純孝らと共に自由民権運動に参加した。1882年(明治15年)九州改進党の結成に加わり、その後、鹿児島同志会が組織され委員となった。国分村会議員に就任。1886年(明治19年)10月、鹿児島県会議員に選出された。同常置委員となり、1892年(明治25年)3月に副議長、1898年(明治31年)11月に第11代県会議長に就任。
鮫島 相政(さめしま すけまさ、安政4年1月18日(1857… 鮫島 相政(さめしま すけまさ、安政4年1月18日(1857年2月12日) - 明治44年(1911年)12月12日)は、日本の衆議院議員(同志倶楽部→立憲政友会)、弁護士、検事。 薩摩国揖宿郡頴娃村(現在の鹿児島県南九州市)出身。1877年(明治10年)、警視局(のち警視庁)警部補として出仕し、山梨県と石川県で警部を務めた。1884年(明治17年)、代言人免許を取得し、弁護士として活動した。 1892年(明治25年)、鹿児島県会議員に当選し、4期務めた。その間、2回議長に選出された。1898年(明治31年)、第5回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、第6回・第7回と当選を重ねた。議員引退後は検事として活動した。
山崎 良純(やまさき よしずみ、1856年12月7日(安政3… 山崎 良純(やまさき よしずみ、1856年12月7日(安政3年11月10日)- 1918年(大正7年)10月4日)は、明治期の政治家、実業家。衆議院議員、鹿児島県会議長。旧姓・平川。 薩摩国高城郡水引郷宮内村(鹿児島県高城郡水引郷水引村、東水引村、薩摩郡東水引村、川内町、川内市宮内町を経て現薩摩川内市宮内町)で、鹿児島県会議員を務めた山崎良尚の息子として生まれた。兄・良弼と共に西南戦争で薩摩軍として従軍したが、戦後に父の勧めで上京した。その後、帰郷して平川家の養嗣子となるが、兄が病死したため山崎家に復籍した。 1885年(明治18年)1月、鹿児島県会議員に選出され、1894年(明治27年)4月、第9代県会議長に就任した。
龍岡 信熊(たつおか しんくま、安政2年12月16日〈185… 龍岡 信熊(たつおか しんくま、安政2年12月16日〈1856年1月23日〉 - 1940年〈昭和15年〉7月27日)は、日本の警察官、政治家。函館区長(第8代)、函館支庁長(初代)、小樽区長、小倉市長(第4代)などを務めた。 薩摩国薩摩郡平佐村(現薩摩川内市)に生まれる。明治8年、警察官(四等巡査)になり第五方面勤務となる。西南戦争では植木口警視が率いる一番小隊の伍長を任される。明治17年に28歳で那覇警察署長となると、さらに2年後の明治19年には沖縄県警察 トップの警部長(本部長)にまでに昇りつめ、以後、宮崎県警察部、岡山県警察部、滋賀県警察部、佐賀県警察部各部の警部長を歴任した。その後は石川県書記官及び石川県参事会員を経て台湾へ渡り、台北県書記官や台湾総督府法院の高等法院検察官などを務めた。
蒲生 仙(かもう せん、1856年(安政2年12月)- 19… 蒲生 仙(かもう せん、1856年(安政2年12月)- 1908年(明治41年)3月10日)は、明治期の官僚、政治家。衆議院議員。 薩摩国鹿児島郡荒田村(現在の鹿児島県鹿児島市)出身。1876年(明治9年)司法省法学校に入り法律と経済を学んだ。参事院議官補となり、1885年(明治18年)に伊藤博文が清に派遣された際に随行員を務めた。その後、法制局参事官に転じた。 1890年(明治23年)第1回衆議院議員総選挙に出馬し当選。4期務めた。この間、自由党、立憲革新党、立憲改進党、進歩党に所属した。 その後、拓殖務省参事官、同北部局長、内務省北海道局長を務めた。憲政本党常議員を務めた後、島津家経営の山ヶ野金山館長に就任した。
川上 親晴(かわかみ ちかはる、1855年7月6日(安政2年… 川上 親晴(かわかみ ちかはる、1855年7月6日(安政2年5月23日) - 1944年(昭和19年)5月12日)は、日本の内務官僚、政治家。県知事、京都市長、警視総監、貴族院議員。 大隅国姶良郡、のちの鹿児島県姶良郡加治木村(加治木町を経て現姶良市)において、加治木島津家家臣で書役を務める川上正兵衛の長男として生まれる。 私学校に入学したが軍事教練一辺倒とその閉鎖性に嫌気がさし退学する。その際に生徒の自主性を理解しない西郷隆盛に罵倒され、故郷で村八分となった。 西南戦争時の1877年4月、警視庁警部補に任官した。沖縄県十等警部、大阪府十等警部を経て、1882年8月、石川県に転じ、警部補・高岡警察署詰となる。
有村 連(ありむら むらじ、1855年5月23日(安政2年4… 有村 連(ありむら むらじ、1855年5月23日(安政2年4月8日)- 1931年(昭和6年)8月29日)は、明治から大正期の養蚕家・政治家。衆議院議員。 大隅国桑原郡粟野郷木場村(鹿児島県粟野郷木場村、栗野村、姶良郡粟野村、栗野町を経て現湧水町)で、蚕業を営む有村家に生まれた。漢学を修めた。薩摩藩兵小頭を務めた。私学校で学び西郷隆盛の薫陶を受け、西南戦争に従軍。 1885年(明治18年)粟野郷戸長に就任。鹿児島県会議員に選出され3期在任。その他、鹿児島県郷教教授、学務委員、鹿児島授産学校長などを務めた。 河島醇の辞職に伴い、1897年(明治30年)7月に実施された第4回衆議院議員総選挙鹿児島県第5区補欠選挙で初当選し、その後、第6回総選挙まで再選され、最後は立憲政友会に所属し、衆議院議員に連続3期在任した。
寺原 長輝(てらはら おさてる / ながてる、1855年3月… 寺原 長輝(てらはら おさてる / ながてる、1855年3月2日(安政2年1月14日)- 1912年(大正元年)12月23日)は、日本の内務官僚、政治家。官選県知事、貴族院勅選議員、錦鶏間祗候。幼名・研輔。一時期、園田姓。 薩摩国伊佐郡大口郷(現:伊佐市)で、寺原用右衛門の三男として生まれる。園田家の養子となり一時期その姓を名乗るが、1878年から元の寺原に姓を戻した。 1874年8月、陸軍省十五等出仕となり、台湾出兵収拾のため渡清した大久保利通に随行。1875年3月、警視庁十四等出仕となる。以後、少警部、中警部と昇進。鹿児島で私学校生徒の暴発の危険性が伝えられ、1876年1月、同郷の同僚である高崎親章、中原尚雄ら20名と共に帰郷したが、私学校の生徒らに捕らえられ拷問を受けた。
有馬 要介(ありま ようすけ、1855年(安政2年10月)-… 有馬 要介(ありま ようすけ、1855年(安政2年10月)- 1937年(昭和12年)10月31日)は、明治期の政治家。衆議院議員。 薩摩国鹿児島郡鹿児島城下(現鹿児島県鹿児島市)で生まれた。自由民権運動に加わり、三州社長を務めた。 1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙(鹿児島県第1区、同志倶楽部)で初当選し、同年8月の第6回総選挙(鹿児島県第1区、無所属)でも再選され、その後立憲政友会に所属し衆議院議員に連続2期在任した。
長谷場 純孝(はせば すみたか、1854年4月27日〈嘉永7… 長谷場 純孝(はせば すみたか、1854年4月27日〈嘉永7年/安政元年4月1日〉- 1914年〈大正3年〉3月15日)は、日本の政治家。衆議院議員(11期)、衆議院議長(第14代・第17代)、文部大臣(第22代)を歴任。 薩摩国串木野郷(後に鹿児島県日置郡串木野村、串木野町、串木野市を経ていちき串木野市)上名の麓集落(現:いちき串木野市麓)に生まれる。父は鹿児島藩の郷士。1869年(明治2年)、薩摩藩校造士館の学寮に入り学ぶ。 1871年(明治4年)に東京に上京し西郷隆盛、川路利良の知遇を受ける。1872年(明治5年)、警視庁の羅卒(巡査)となり、翌年権少警部、少警部に進む。1874年(明治7年)、依願退官し鹿児島県に帰り、鹿児島県教授に任じられる。
大山 綱昌(おおやま つなまさ、1853年12月24日(嘉永… 大山 綱昌(おおやま つなまさ、1853年12月24日(嘉永6年11月24日) - 1934年(昭和9年)10月18日)は、日本の官僚、政治家、警察官、陸軍軍人。貴族院議員、錦鶏間祗候。位階および勲等は正三位・勲二等。4県の知事を務めた。幼名・勘助。 陸軍元帥の大山巌の父大山綱昌とは同姓同名だが、直接的な血縁関係はない。 薩摩国鹿児島郡鹿児島近在西田村(現鹿児島県鹿児島市)で、鹿児島藩士、大山探賢の長男として生まれる。1875年(明治8年)、警視庁13等出仕となる。1877年(明治10年)、陸軍中尉に任官し西南戦争に出征。階級は陸軍憲兵大尉まで昇り、一等警視補に転じた。次いで、農商務省に移り、権少書記官、書記官、参事官、工務局次長、商工局次長、権大書記官を歴任。
上村 精之助(かみむら せいのすけ、1853年12月1日(嘉… 上村 精之助(かみむら せいのすけ、1853年12月1日(嘉永6年11月1日)- 1929年(昭和4年)2月1日)は、明治から大正期の農業経営者・政治家。衆議院議員、鹿児島県肝属郡花岡村長。 薩摩国鹿児島郡鹿児島城下(現鹿児島県鹿児島市)で生まれた。漢学を修めた。海軍兵学校、大阪英語学校で学んだ。 1881年(明治14年)犬童英輔らと博愛社を結成し、県下各地で演説会を催した。三州社が結成され博愛社はこれに合同した。九州改進党に加わらなかったが、鹿児島同志会が結成されると加入して委員となる。 その後、肝属郡花岡村(現鹿屋市花岡)に移り農業を営み、1887年(明治20年)8月、鹿児島県会議員に選出された。
大島 信(おおしま しん、1853年10月18日(嘉永6年9… 大島 信(おおしま しん、1853年10月18日(嘉永6年9月16日)- 1899年(明治32年)3月14日)は、明治期の日本の内務官僚、政治家。衆議院議員。 琉球国薩摩藩領大島郡瀬名方中勝村(鹿児島県大島郡中勝村、龍郷村を経て現龍郷町中勝)で生まれた。造士館、駒場農学校、専修学校で学んだ。 埼玉県属に就任。その後、内務属に転じ、佐賀県東松浦郡長に就任した。 1887年(明治20年)、奄美大島の黒砂糖を鹿児島商人が独占していることを批判した「大島郡糖業意見」を発表した。 1892年(明治25年)2月、第2回衆議院議員総選挙(鹿児島県第7区)で初当選し、以後、第4回総選挙まで再選され、最後に公同会に所属して衆議員議員に連続3期在任した。
高崎 親章(たかさき ちかあき/しんしょう、1853年6月7… 高崎 親章(たかさき ちかあき/しんしょう、1853年6月7日(嘉永6年5月1日) - 1920年(大正9年)12月27日)は、日本の江戸~大正時代の武士(鹿児島藩士)・警察官(警察官僚)・政治家。貴族院議員。幼名は半十郎。 薩摩国日置郡市来郷の湊町(鹿児島県日置郡西市来村、市来町を経て現いちき串木野市内)生まれ。高崎親廣の長男。内務省警視庁に入庁。初任は警部補。1876年(明治9年)、同郷の同僚である中原尚雄らと共に、墓参のため帰郷した。実際は、下野していた西郷隆盛の実情を視察するため川路利良大警視の密命を受けたものであった。ところが、西郷の私学校から武器・弾薬を勝手に持ち出したため、私学校の生徒らに捕らえられた。
坂本 元明(さかもと げんめい、1853年3月5日(嘉永6年… 坂本 元明(さかもと げんめい、1853年3月5日(嘉永6年1月26日)- 1919年(大正8年)7月6日)は、明治から大正初期の農業経営者、政治家、衆議院議員(1期)。 大隅国大島郡、現在の鹿児島県大島郡和泊町で生まれた。1877年(明治10年)鹿児島師範学校卒。小学校訓導、和泊村会議員、同糖業議員、戸長、郵便局長心得となる。 1908年(明治41年)の第10回衆議院議員総選挙において大島選挙区から立憲政友会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1912年(明治45年)の第11回総選挙には出馬しなかった。その後、農業に専念し、1919年に死去した。
海江田 平治(かいえだ / かえだ へいじ、1852年7月2… 海江田 平治(かいえだ / かえだ へいじ、1852年7月26日(嘉永5年6月10日) - 1913年(大正2年)7月22日)は、明治時代の政治家。貴族院多額納税者議員。 廻船問屋「かねひら」の当主海江田平右衛門の長男として薩摩鹿児島藩領日置郡市来郷湊村東町(西市来村、市来町を経て現いちき串木野市)に生まれる。家督を継いだ後、1895年(明治28年)西市来村の第3代村長に就任した。商家の子弟教育のための共立学舎の創設に尽力した。 1897年(明治30年)鹿児島県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1904年(明治37年)9月28日まで在任した。
樺山 資美(かばやま すけよし、1852年(嘉永5年3月) … 樺山 資美(かばやま すけよし、1852年(嘉永5年3月) - 1897年(明治30年)2月16日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(1期)。 薩摩国鹿児島郡鹿児島城下(現鹿児島県鹿児島市)出身。私学校に学ぶ。西南戦争に従軍した。のち河野主一郎らとともに政治結社三州社を創立し、同社長となり政治教育や殖産に尽くした。 1890年(明治23年)4月、鹿児島県会議員に選出された。1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では鹿児島県第1区から出馬し当選。弥生倶楽部に所属し衆議院議員を1期務めた。1892年(明治25年)2月、第2回衆議院議員総選挙(鹿児島県第1区、自由党)では、官憲からの選挙干渉を受けて次点で落選した
佐藤 通代(さとう みちしろ、1851年5月(嘉永4年4月)… 佐藤 通代(さとう みちしろ、1851年5月(嘉永4年4月)- 1914年(大正3年)11月22日)は、明治期の農業経営者、政治家。衆議院議員。旧姓・河野。 日向国諸県郡志布志郷帖村(現・志布志市志布志町帖)で河野家に生まれた。 西南戦争に中隊長として従軍。戦後に刑を受けた。佐藤家に入籍し、農業を営む。内之倉村戸長、蓬原村戸長を務めた。 1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙(鹿児島県第6区)で当選し、その後、第6回総選挙でも再選され、最後は立憲政友会に所属し衆議院議員に連続2期在任した。 その後、郷里の子弟の教育、産業振興に尽力した。1914年11月、郷里で病のため死去した。
柏田 盛文(かしわだ もりぶみ / もりふみ、1851年4月… 柏田 盛文(かしわだ もりぶみ / もりふみ、1851年4月23日(嘉永4年3月22日) - 1910年(明治43年)6月20日)は明治時代の日本の政治家、教育者。号は天颷。 鹿児島県会(鹿児島県議会の前身)議長、第四高等中学校(金沢大学の前身の一つ)校長、衆議院議員、文部次官、千葉・茨城・新潟の各県知事を歴任した。 薩摩国薩摩郡平佐郷平佐村(現在の薩摩川内市平佐町)出身の武士であり、部屋には東郷平八郎から送られた日本刀が飾ってあった。 鹿児島時代は漢学を修め武芸に秀でていた。薩長土の御親兵を務め上京。小松原英太郎、美澤進、鎌田栄吉、神津国助らと同志で、1874年(明治7年)慶應義塾で同窓の薩摩藩士・奥田直之助と学び、在学中から曙新聞に政策論を発表し、そうした関係で国会期成同盟会員となる。
安楽 兼道(あんらく かねみち、1851年1月13日〈嘉永3… 安楽 兼道(あんらく かねみち、1851年1月13日〈嘉永3年12月12日〉- 1932年〈昭和7年〉4月12日)は、日本の内務官僚、政治家。県知事、貴族院議員、警視総監、実業家、錦鶏間祗候。 薩摩藩士・新納一角の二男として薩摩国給黎郡喜入郷中名村麓(現在の鹿児島市喜入中名町)に生まれ、安楽兼通の養子となる。1871年(明治4年)4月、御親兵徴士として上京。1873年(明治6年)10月に除隊し帰郷したが、1874年(明治7年)11月に再上京した。 1875年(明治8年)3月、警視庁警部補に任官。以後、石川県三等警部兼金沢警察署長、石川県警察本署長、警視庁品川警察署長、高知県警察部長、熊本県警察部長、熊本県書記官などを歴任。
大浦 兼武(おおうら かねたけ、1850年6月15日〈嘉永3… 大浦 兼武(おおうら かねたけ、1850年6月15日〈嘉永3年5月6日〉- 1918年〈大正7年〉9月30日)は、明治・大正期の日本の内務官僚、政治家。 島根県知事(第10代)、山口県知事(第4代)、熊本県知事(第4代)、宮城県知事(第6代)、警視総監(第12・14代)、貴族院議員(勅選)、逓信大臣(第14代)、農商務大臣(第22・26代)、内務大臣(第24・27代)、大日本武徳会会長を歴任した。 薩摩藩主島津家の分家である宮之城島津家の家臣の大浦源太夫の長男として宮之城屋地に生まれる。幼名は均。戊辰戦争では19歳で、薩摩藩軍に参加し、奥羽会津城方面に出征。1869年、宮之城町に藩の常備隊が置かれると、二番小隊の小頭に任じられた。
池田 惟貞(いけだ これさだ、1849年9月26日(嘉永2年… 池田 惟貞(いけだ これさだ、1849年9月26日(嘉永2年8月10日) - 1929年(昭和4年)10月1日)は、明治から大正期の養蚕家、政治家。衆議院議員(3期)。旧姓・溝口。 薩摩国出水郡出水郷武本村(鹿児島県出水郡上出水村、出水町を経て現出水市武本)で、薩摩藩郷士・溝口庄兵衛の四男として生れ、1866年(慶応2年)池田家の養嗣子となった。漢学を修めた。蚕糸業に従事する。 戊辰戦争後、大阪に留まっていたが帰藩を命ぜられた。1869年(明治2年)郷立撥奮館の教師となる。出水郡役所書記などを経て、1881年(明治14年)4月、鹿児島県会議員に選出され4期在任し、同副議長、地方森林会議員も務めた。
和泉 邦彦(いずみ くにひこ、1849年3月12日(嘉永2年… 和泉 邦彦(いずみ くにひこ、1849年3月12日(嘉永2年2月18日)- 1913年(大正2年)6月6日)は、明治期の日本の政治家。衆議院議員。旧姓・児島。 薩摩国伊佐郡宮之城郷屋地村(鹿児島県伊佐郡宮之城郷屋地村、南伊佐郡宮之城郷屋地村、宮之城村、宮之城町を経て現さつま町)で薩摩藩士・児島七郎右衛門の長男として生まれ、1868年(明治元年)和泉少左衛門の養子となり家督を相続した。藩校造士館で学んだ。 明治維新後、東京愛宕下警察区長に就任。台湾出兵に参加。明治六年政変で下野した西郷隆盛に従い帰郷。西南戦争に参加し、戦後、東京の市谷監獄に入獄。出獄後、郷友会・三州会の設立に参画。1882年(明治15年)10月、『麑城新報』を創刊した。
伊瀬知 好成(いせち よしなり、1848年11月23日(嘉永… 伊瀬知 好成(いせち よしなり、1848年11月23日(嘉永元年10月28日)- 1922年(大正11年)9月29日)は、明治から大正期の日本陸軍軍人、政治家。貴族院議員。陸軍中将正三位勲一等功四級男爵。 薩摩藩士。薩摩国鹿児島郡鹿児島城下で伊瀬知勇四郎の息子として生まれる。戊辰戦争に出征し戦傷を受けた。 1871年9月10日(明治4年7月25日)、陸軍少尉に任官。西南戦争に従軍。1886年(明治19年)5月、歩兵第8連隊長となり、1890年(明治23年)6月、歩兵大佐に昇進して近衛歩兵第3連隊長に異動。1894年(明治27年)9月、歩兵第2連隊長に就任。 日清戦争に出征し、旅順攻略戦に参加。1895年(明治28年)1月、大寺安純少将の後任として第1師団参謀長となった。
実吉 安純(さねよし やすずみ、1848年4月23日(嘉永元… 実吉 安純(さねよし やすずみ、1848年4月23日(嘉永元年3月20日) - 1932年(昭和7年)3月1日)は、日本の医学者、海軍軍人、政治家。最終階級は海軍軍医中将。正二位 勲一等 功二級 子爵 医学博士。海軍軍医学校校長、海軍省医務局長、大本営海軍医務部長、東京慈恵会医院専門学校(現、東京慈恵会医科大学)校長、貴族院議員などを歴任した。慈恵医大の創設者である高木兼寛と共に、海軍の脚気撲滅に尽力したことで知られている。 薩摩国阿多郡伊作郷(後の日置郡伊作村、伊作町、吹上町、日置市)生まれ。薩摩藩士・実吉安福の二男として生まれる。戊辰戦争に参戦の後、明治2年(1869年)6月、順天堂に入塾し、のち大学校に移る。
河島 醇(かわしま あつし / じゅん、弘化4年3月6日(1… 河島 醇(かわしま あつし / じゅん、弘化4年3月6日(1847年4月20日) - 明治44年(1911年)4月28日)は、幕末から明治時代に活躍した武士(薩摩藩士)、官僚、政治家。衆議院議員、貴族院議員。幼名・新之丞。 薩摩藩士・河島新五郎長寛の長男として鹿児島長田町に生まれる。藩校造士館で学ぶ。戊辰戦争に従軍。明治2年(1869年)、昌平学校に入り、さらに川田甕江塾で学び、明治3年12月(1871年1-2月)にドイツへ留学し、ローレンツ・フォン・シュタインに学ぶ。 明治7年(1874年)3月に帰国。同年8月、外務省に入り八等出仕となる。9月、一等書記生に発令され、ドイツ公使館在勤を命ぜられた。
折田 平内(おりた へいない、1847年1月23日(弘化3年… 折田 平内(おりた へいない、1847年1月23日(弘化3年12月7日) - 1905年(明治38年)5月6日)は、明治時代の日本の政治家。薩摩藩士。開拓大書記官、内務書記官、警視総監を務め、山形県令、福島・栃木・広島・滋賀県知事など多くの官選知事を歴任。後に貴族院勅選議員となる。 薩摩国鹿児島城下山下町(現在の鹿児島県鹿児島市山下町)に生まれる。勤皇を志して、 諸国の名士と交流を持ち、黒田清隆の門下であった。1872年12月に開拓使八等出仕となる。1872年8月に開拓大主典、1873年10月に七等出仕となり、1875年8月8日に開拓幹事。1877年1月に開拓権少書記官となり、翌1878年11月に権大書記官となる。
東 一左右(ひがし いつそう、1845年2月18日(弘化2年… 東 一左右(ひがし いつそう、1845年2月18日(弘化2年1月12日) - 1914年(大正3年)11月22日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 鹿児島県出身。肝属郡高隈郷(後の高隈村、鹿屋市に編入)生まれ。薩摩藩校造士館で学ぶ。戸長、高隈村長、肝属郡会議員、同参事会員、鹿児島県会議員、同参事会員、所得税調査委員、鹿児島県教育会諮問委員、同授産学校常議員、高隈村農会長となる。 1904年の第9回衆議院議員総選挙において鹿児島県郡部から立憲政友会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1908年の第10回衆議院議員総選挙は不出馬。1914年に死去した。
中村 博愛(なかむら ひろなり / ひろやす、天保14年12… 中村 博愛(なかむら ひろなり / ひろやす、天保14年12月29日〈1844年2月17日〉 - 1902年〈明治35年〉10月30日)は、幕末の薩摩藩士、明治期の外交官・官僚・政治家。元老院議官、貴族院勅選議員、錦鶏間祗候。旧名・宗見、変名・吉野清左衛門。 根占郷の麓集落(現鹿児島県肝属郡南大隅町根占川北)生まれ。薩摩藩士の家に生まれる。長崎の長崎養生所でオランダ軍医・アントニウス・ボードウィンから医学を学ぶ。帰藩し開成所で英学を学ぶ。薩摩藩第一次英国留学生に選ばれ、元治2年3月22日(1865年4月17日)吉野清左衛門と変名して鹿児島から密出国し、イギリスで化学を学ぶ。慶応2年1月(1866年)シャルル・ド・モンブラン伯爵の勧めで田中静洲と共にフランスへ留学。
小牧 昌業(こまき まさなり / しょうぎょう、1843年1… 小牧 昌業(こまき まさなり / しょうぎょう、1843年10月5日(天保14年9月12日)- 1922年(大正11年)10月25日)は、幕末から大正期の薩摩藩士、漢学者、官僚、政治家。内閣書記官長、官選県知事、貴族院議員。学位は、文学博士。幼名・善次郎、字・偉卿、号・桜泉。 大隅国大隅郡田代郷大禰田村(鹿児島県南大隅郡田代村、肝属郡田代村、田代町を経て現錦江町)で、薩摩藩士・小牧良助の二男として生まれた。江戸で塩谷宕陰に学び、藩校造士館の教員を務めた。 1869年(明治2年)議政官史官試補に就任し、小史、権大史を歴任。その後、官僚として黒田清隆に仕え、開拓幹事、文部大臣秘書官、内閣総理大臣秘書官、内閣書記官長などを歴任。
大山 巌(おおやま いわお、旧字体: 大山 巖、1842年1… 大山 巌(おおやま いわお、旧字体: 大山 巖、1842年11月12日〈天保13年10月10日〉- 1916年〈大正5年〉12月10日)は、日本の政治家、陸軍軍人。陸軍大臣(初代・第3代)、陸軍参謀総長(第4・6代)、大警視(第2代)、文部大臣(臨時兼任)、内大臣(第4代)、元老、貴族院議員を歴任した。称号・階級は元帥陸軍大将。栄典は従一位大勲位功一級公爵。雅号は赫山、瑞岩。字は清海。西郷隆盛・従道兄弟は従兄弟。 薩摩国鹿児島城下加治屋町柿本寺通(下加治屋町方限)に薩摩藩士・大山綱昌(彦八)の次男として生まれた。幼名は岩次郎。通称は弥助。家紋は佐々木源氏大山氏として典型的な「丸に隅立て四つ目」である。
樺山 資紀(かばやま すけのり、1837年12月9日〈天保8… 樺山 資紀(かばやま すけのり、1837年12月9日〈天保8年11月12日〉- 1922年〈大正11年〉2月8日)は、日本の海軍軍人、政治家。階級は海軍大将、陸軍少将。栄典は従一位大勲位功二級伯爵。薩摩藩士・橋口与三次の三男。 警視総監(第3代)、海軍大臣(第2代)、海軍軍令部長(第6代)、台湾総督(初代)、枢密顧問官、内務大臣(第15代)、文部大臣(第14代)を歴任した。 天保8年(1837年)薩摩国鹿児島城下加治屋町二本松馬場(高見馬場方限)に薩摩藩士・橋口与三次の三男に生まれ、覚之進(かくのしん)と名づけられ育てられる。文久3年(1863年)同藩士・樺山四郎左衛門の養子となり、樺山姓を名乗る。
川崎 正蔵(かわさき しょうぞう、1837年8月10日〈天保… 川崎 正蔵(かわさき しょうぞう、1837年8月10日〈天保8年7月10日〉- 1912年12月2日)は、日本の実業家、政治家。神戸川崎財閥の創設者。川崎造船所(現:川崎重工業)創業者。美術蒐集家。川崎美術館(日本で最初の私立美術館)建設。貴族院議員。幼名:磯治。別名:利右衛門。従五位。隠居後は米寿まで生きることを願って「川崎米年蔵」を名乗った。 薩摩国鹿児島城下下町大黒町(現:鹿児島県鹿児島市大黒町)生まれ。父は呉服商、川崎利右衛門。15歳頃から家系を助けるため、幕末に廻船・海運業で活躍した薩摩藩御用商人・浜崎太平次の経営する山木屋の店員として就職する。17歳となった嘉永6年(1853年)に山木屋の長崎支店に赴任する。
寺島 宗則(てらしま むねのり、1832年6月21日〈天保3… 寺島 宗則(てらしま むねのり、1832年6月21日〈天保3年5月23日〉- 1893年〈明治26年〉6月6日)は、日本の外交官・政治家。元は松木 弘安(まつき こうあん)、別字に弘菴、弘庵、洪庵。通称は寺島改姓後に陶蔵と名乗った。日本の電気通信の父と呼ばれる。第4代外務卿として活躍した。 天保3年(1832年)、薩摩国出水郡出水郷脇本村字槝之浦(現:鹿児島県阿久根市脇本字槝之浦)の郷士・長野成宗の次男として生まれる(幼名徳太郎、後に藤太郎)。5歳のとき、跡継ぎがいなかった伯父で蘭方医の松木宗保の養嗣子となり、長崎で蘭学を学ぶ。 弘化2年(1845年)、江戸に赴き伊東玄朴、川本幸民より蘭学を学び、安政2年(1855年)より中津藩江戸藩邸の蘭学塾(慶應義塾の前身)に出講する。
海江田 信義(かいえだ のぶよし、1832年3月13日〈天保… 海江田 信義(かいえだ のぶよし、1832年3月13日〈天保3年2月11日〉 - 1906年〈明治39年〉10月27日)は、日本の政治家、官僚。通称は武次(たけじ)。幕末期は有村俊斎の名で活動した。雅号は黙声、静山、孤松。 天保3年(1832年)、薩摩藩士・有村仁左衛門の長男として高麗町に生まれた。幼名は太郎熊。11歳の時、島津斉興の茶頭に出仕して茶坊主となり、俊斎と称した。 はじめ東郷実明に示現流剣術を学び、次いで薬丸兼義に薬丸自顕流剣術を学んだ。薬丸自顕流の伝承では道場破りに来たものの大山綱良に敗れて入門したとなっているが、俊斎は当時わずか15歳であり、史実かどうかは不明。 嘉永2年(1849年)、薩摩藩の内紛(お由羅騒動)に巻き込まれた有村父子は一時藩を追われ家は貧困の極みに陥るが、嘉永4年(1851年)、新藩主・島津斉彬によって藩に復帰、このとき俊斉は西郷吉之助(のち西郷隆盛)、大久保正助(のち大久保利通)、伊地知龍右衛門(のち伊地知正治)、税所喜三左衛門(のち税所篤)、吉井仁左衛門(のち吉井友実)長沼嘉兵衛(早世)らと『近思録』を輪読する会、いわゆる「精忠組」を結成、幕政改革や日本の近代化を考えるようになった。
大久保 利通(おおくぼ としみち、文政13年8月10日〈18… 大久保 利通(おおくぼ としみち、文政13年8月10日〈1830年9月26日〉- 明治11年〈1878年〉5月14日)は、日本の政治家、武士(旧薩摩藩士)。幼名は正袈裟、通称は正助、一蔵、諱は利済、のち利通、号は甲東。位階・勲等は贈従一位勲一等。 明治維新の元勲であり、西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称され、「維新の十傑」のひとりでもある。初代内務卿で、内閣制度発足前の日本国政府(太政官)の実質的・事実上の初の日本の首相。 文政13年8月10日(1830年9月26日)、薩摩国鹿児島城下高麗町(現:鹿児島県鹿児島市高麗町)に、薩摩藩士・大久保利世と福の間に長男として生まれる。幼名は正袈裟(しょうけさ)。
篠田 政龍(政竜、しのだ まさたつ、1829年5月(文政12… 篠田 政龍(政竜、しのだ まさたつ、1829年5月(文政12年4月)- 1893年(明治26年)5月31日)は、明治期の政治家。衆議院議員、鹿児島県南諸県郡大崎村長。 日向国諸県郡大崎郷仮宿村(現・鹿児島県曽於郡大崎町)で生まれた。漢学を修めた。 1862年(文久2年)大崎郷組頭に就任。以後、大崎常備隊小隊長、都城県第11大区長、第10大区長、第2大区長などを務めた。1880年(明治13年)鹿児島県会議員に選出され、同常置員にも在任。1890年(明治23年)第2代大崎村長に就任した。 1892年(明治25年)2月、第2回衆議院議員総選挙(鹿児島県第6区、中央交渉会)で当選し、その後、議員倶楽部に所属して衆議院議員に1期在任した。
安藤 則命(あんどう そくめい / のりみち、1828年4月… 安藤 則命(あんどう そくめい / のりみち、1828年4月19日(文政11年3月6日) - 1909年(明治42年)11月23日)は、幕末の薩摩藩士、明治期の警察官僚・政治家。元老院議官、貴族院勅選議員、錦鶏間祗候。通称・十郎。従三位勲一等。 薩摩国鹿児島城下で薩摩藩士・安藤十郎の息子として生まれる。英学を修めて子弟に教授した。 明治維新後、新政府に出仕し、明治元年10月2日(1868年11月15日)東京府市中取締隊長に就任。以後、東京府監察、同大属、兼同第二大区総長、同第一大区総長、同権典事、同典事、同邏卒総長、警保助、司法中検事、権大警視、大警視、中警視、権中警視などを歴任。西南戦争に際し、新撰旅団の編成に尽力した。
岩下 方平(いわした みちひら / ほうへい、文政10年3月… 岩下 方平(いわした みちひら / ほうへい、文政10年3月15日(1827年4月10日) - 明治33年(1900年)8月14日)は、日本の武士(薩摩藩士)、政治家。勲一等子爵。通称は左次右衛門、左二。 文政10年(1827年)、薩摩藩士・岩下亘の長男として鹿児島城下の下加治屋町に生まれる。その後、岩下典膳道格の養子となる。安政3年(1856年)、相良長基の紹介により30歳で平田銕胤の国学塾気吹舎の門人となった。 安政5年より始まる安政の大獄では、江戸において水戸浪士と結託して幕政打開を図ったが、挫折して帰藩する。安政6年(1859年)11月、精忠組に参加。文久2年(1862年)、伏見において銕胤嫡男平田延胤と面会し、島津久光挙兵上京の目的や寺田屋騒動の顛末について延胤に報告した。
基 俊良(もとい しゅんりょう、1826年(文政9年3月) … 基 俊良(もとい しゅんりょう、1826年(文政9年3月) - 1904年(明治37年)5月15日)は、幕末から明治時代の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 薩摩国大島郡金久村(鹿児島県大島郡名瀬村、名瀬町、名瀬市を経て現奄美市)に生まれる。薩摩藩島吏を務め、明治維新を経て鹿児島県に出仕する。大島郡書記、金久支庁御用掛、同庁属を歴任する。ほか、大島興業社長、大阪七十九銀行大島支店支配人を務めた。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では鹿児島県第7区から出馬し当選。弥生倶楽部に所属し衆議院議員を1期務めた。
大迫 貞清(おおさこ さだきよ、1825年6月22日(文政8… 大迫 貞清(おおさこ さだきよ、1825年6月22日(文政8年5月7日) - 1896年(明治29年)4月27日)は、幕末の薩摩藩士、明治の官僚・政治家。元老院議官、貴族院議員、子爵。 薩摩国鹿児島城下平之町に薩摩藩士・山之内立幹の四男として生まれ、大迫貞邦の養子となる。万延元年(1860年)から京都警備に従事。戊辰戦争では、二番遊撃隊隊長、そして東山道先鋒総督本営付として従軍した。 明治に入り薩摩藩の藩政改革に参政、権大参事として取り組む。明治5年(1872年)に陸軍少佐に任官し、中佐まで進み第1経営部司令官に就任。1874年(明治7年)1月に静岡県令に転じ、以後、文官として歩んだ。 1883年(明治16年)12月、警視総監に就任し、1885年(明治18年)12月、元老院議官を兼務した。
前田 祝成 は、日本の政治家。鹿児島県枕崎市長(3期)。
太 栄志 は、日本の政治家。
伊地知 正治(いじち まさはる / しょうじ)は、日本の武士… 伊地知 正治(いじち まさはる / しょうじ)は、日本の武士(薩摩藩士)、官僚、政治家、華族。諱は季靖。通称は龍右衛門、後に正治。正三位勲一等伯爵。家紋は宝結び。 戊辰戦争の白河口の戦いでは、わずか700の兵で、4倍弱にあたる2500名の幕府軍を撃破したことなどにより、「類いまれな軍略家」などという異名がある。また、片眼と片脚が不自由がなのにも関わらず新政府軍参謀として活躍したことにより、「薩摩の山本勘助 」などという異名もある。 薩摩藩士伊地知季平の次男として鹿児島城下千石馬場町に生まれる。幼名は竜駒。3歳の時に文字を読んで「千石の神童」と呼ばれるが、幼い頃に大病を患ったために片目と片足が不自由となる。
打越 明司 は、日本の政治家。鹿児島県指宿市長(2期)。