鴨田 宗一(かもだ そういち、1906年(明治39年)9月1… 鴨田 宗一(かもだ そういち、1906年(明治39年)9月17日 - 1979年(昭和54年)2月8日)は、日本の政治家、実業家。位階は従三位勲一等。衆議院議員(7期)、熊谷市長(3期)。熊谷市名誉市民。1953年3月熊谷商工信用組合を設立し、初代理事長に就任。その後、自由民主党より国政へ進出し、商工部会長、中小企業調査会長、政調審議委員、副幹事長、池田内閣建設省政務次官、佐藤内閣経済企画政務次官、衆議院大蔵委員長などを歴任。専門は中小企業問題、経済企画。地元、熊谷駅への新幹線開通を実現した。衆議院議員の鴨田利太郎は息子。
飯田 房太郎(いいだ ふさたろう、1906年(明治39年)8… 飯田 房太郎(いいだ ふさたろう、1906年(明治39年)8月7日 - 1975年(昭和50年)5月8日)は、昭和時代の土木工学者、実業家。 神奈川県に生まれる。1930年(昭和5年)東京帝国大学工学部土木工学科を卒業し、間組に入社。各出張所次長、土木部次長、取締役、常務および専務をへて1967年(昭和42年)副社長、1969年(昭和44年)社長に就任した。この間、大井川千頭堰堤や久野脇発電所の建設、羽田飛行場の拡張工事などに携わり、1952年(昭和27年)大井川水系の開発が始まると井川ダム、奥泉ダム、畑薙ダム(第一、第二)などを次々と完成させた。 ほか、日本土木工業協会・日本建設業連合会・日本経済団体連合会・海外建設協会などの理事、日本建設機械化協会・土木学会各会長などを歴任した。
松田 武(まつだ たけし、1906年(明治39年)8月3日 … 松田 武(まつだ たけし、1906年(明治39年)8月3日 - 1988年(昭和63年)9月4日)は、日本の陸軍軍人、航空自衛官、旧軍需省官僚、実業家である。第4代航空幕僚長。
刈谷 亨(かりや とおる、1906年7月8日 - 2003年… 刈谷 亨(かりや とおる、1906年7月8日 - 2003年12月18日)は、日本の経営者。蝶理社長を務めた。 新潟県出身。1931年に東京帝国大学火薬科を卒業し、同年に旭化成に入社。1946年に旭化成に転じ、1947年に常務を経て、1963年7月から1975年5月までに副社長を務め、1975年5月には蝶理社長に就任。1978年6月から常任相談役を務めた。 1971年11月に藍綬褒章を受章し、1981年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 2003年12月18日慢性呼吸不全のために死去。97歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
岩越 忠恕(いわごし ただひろ、1906年 <明治39年> … 岩越 忠恕(いわごし ただひろ、1906年 <明治39年> 7月4日- 1981年 <昭和56年> 3月19日)は、日本の経営者。日産自動車社長。位階は正四位。 鳥取県出身。旧制仙台一中、旧制弘前高校を経て、1931年に東京帝国大学経済学部商業学科を卒業。東京乗合自動車での勤務を経て、1937年に日産自動車に転じ、1952年11月に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1973年11月から1977年6月までに社長を務めた。 1971年4月に藍綬褒章を受章し、1976年11月に勲二等旭日重光章を受章した。 1981年3月19日、肝不全のために死去。74歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
春山 泰雄(はるやま やすお、1906年4月4日 - 198… 春山 泰雄(はるやま やすお、1906年4月4日 - 1987年6月17日)は、東京都出身の会社役員、新聞記者、サッカー選手である。
小山 荘之助(こやま そうのすけ、1906年3月17日 - … 小山 荘之助(こやま そうのすけ、1906年3月17日 - 1993年11月26日 )は、日本の経営者。キャタピラー三菱社長を務めた。 東京都出身。1931年に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業し、同年に三菱航空機名古屋製作所に入社した。1965年5月に三菱重工業取締役に就任し、1966年8月にはキャタピラー三菱社長に就任し、1970年1月までに務めた。 1993年11月26日、急性心不全のために死去。87歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
吉田 忠一(よしだ ちゅういち、1906年(明治39年)3月… 吉田 忠一(よしだ ちゅういち、1906年(明治39年)3月13日 - 1993年(平成5年)10月22日)は、日本の内務・厚生官僚、実業家。最後の官選鳥取県知事。 兵庫県明石市出身。大阪高等学校を卒業。1928年10月、高等試験行政科試験に合格。1929年、東京帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し、石川県属となる。 以後、労働局事務官、島根県書記官・警察部長、厚生省会計課長、同勤労局長などを歴任。 1947年2月、鳥取県知事に就任。昭和22年度当初予算を編成し、知事選挙を執行して、同年4月に退任。その後、埼玉県副知事に就任した。 1950年、警察予備隊に参加し第1管区総監となるが、部下の不祥事の責任を取り辞職。
日向 方齊(新字: 日向 方斉、ひゅうが ほうさい、明治39… 日向 方齊(新字: 日向 方斉、ひゅうが ほうさい、明治39年〈1906年〉2月24日 - 平成5年〈1993年〉2月16日)は、日本の実業家。住友金属工業名誉会長、第8代関西経済連合会会長(1977年 - 1987年)。山梨県出身。 新日鐵会長、経団連会長の稲山嘉寛が「ミスター・カルテル」と呼ばれ、企業経営にもつねに「協調哲学」を打ち出したのに対し、日向は、市場経済思想に基づく「競争哲学」の信奉者として知られ、政府との対決も辞さなかった。勲一等旭日大綬章受章。 山梨県西八代郡下部町(現・南巨摩郡身延町)出身。生家は極貧であったが、篤志家の森家(日向の妻は森家の長女である)の援助と奨学金により、旧制東京高等学校を経て、1931年東京帝国大学法学部卒業。
岩佐 凱実(いわさ よしざね、1906年2月6日 - 200… 岩佐 凱実(いわさ よしざね、1906年2月6日 - 2001年10月14日)は、日本の実業家、銀行家。経済同友会代表幹事、安田銀行常務、富士銀行頭取、経団連副会長。(財)日本心臓財団会長。
南部 政二(なんぶ まさじ、1906年1月3日 - 1987… 南部 政二(なんぶ まさじ、1906年1月3日 - 1987年7月4日)は、日本の経営者。東亜燃料工業社長を務めた。 東京都出身。1930年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業。大和鉱業、小倉石油での勤務を経て、1944年8月に東亜燃料工業に転じ、1950年1月に取締役に就任し、1951年11月に常務、1959年9月に専務、1963年8月に副社長を経て、1965年9月には社長に就任した。1976年3月に会長を経て、1984年3月には相談役に就任。 1966年10月に藍綬褒章を受章。 1987年7月4日、脳梗塞のために死去。81歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
北島 織衛(きたじま おりえ、1905年〈明治38年〉12月… 北島 織衛(きたじま おりえ、1905年〈明治38年〉12月31日 - 1980年〈昭和55年〉4月27日)は、昭和期の日本の実業家。大日本印刷元会長。大平電工元社長。東邦紙業元取締役。 1905年12月31日、大日本印刷元社長・青木弘の三男として東京に生まれ、北島吉兵衛の養子となる。1923年、東京府立四中卒業。1929年、東京帝国大学法学部英法科を卒業し、大日本印刷の前身・秀英舎に入社。1955年に同社社長就任、1979年、同社会長。経営陣の刷新や労使関係の調整に強気の姿勢であたり、事業の拡大と多角化に努めた。 大日本印刷を世界最大の印刷会社にするとともに、インテリア、清涼飲料、電気部品などに進出、多角化をはかった。
杉 豊(すぎ ゆたか、1905年12月1日 - 1981年7… 杉 豊(すぎ ゆたか、1905年12月1日 - 1981年7月19日 )は、日本の経営者。日本光学工業(のちのニコン)社長を務めた。 東京都出身。1929年に東京帝国大学工学部造兵科を卒業し、同年に日本光学工業に入社。1949年7月に取締役に就任し、1961年5月に常務を経て、1969年5月に社長に就任。1973年4月に会長に就任。 1976年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1981年7月19日肝不全により、死去。75歳没。
神部 健(かんべ けん、1905年11月29日 - 1982… 神部 健(かんべ けん、1905年11月29日 - 1982年5月27日)は、日本の経営者である。オリンパス光学工業(のちのオリンパス)社長・会長を務めた。神奈川県出身。 1930年に東京帝国大学経済学部商業学科を卒業し、同年に日本生命保険に入社。1963年に専務を経て、1964年から1970年までに監査役を務めた。1964年にオリンパス光学工業に就任し、1967年に副社長を経て、1971年に社長に就任。その後は、1973年12月に会長を経て、1976年1月に相談役に就任。 1982年5月27日、心不全のために死去。76歳没。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
大村 英之助(おおむら えいのすけ、1905年10月13日 … 大村 英之助(おおむら えいのすけ、1905年10月13日 - 1986年3月23日)は、日本の映画プロデューサー、実業家。 1935年、芸術映画社社長となり、文部大臣賞を受けた石本統吉監督の記録映画『雪國』、瀬尾光世監督・撮影の長編アニメーション映画『桃太郎の海鷲』のプロデューサーとしても知られる。戦後も1961年、持永只仁、松本酉三とともに、人形アニメの会社「MOMプロダクション」(後にビデオ東京プロダクションに再編)を設立。第7回モスクワ国際映画祭児童映画部門銀賞、1972年度教育映画祭最高賞を受賞した人形アニメーション『てんまのとらやん』の企画を担当した。 一方、東京帝国大学経済学部在学中に日本共産党に入党し、地下活動に入り、何度も検挙され、戦後は一時、日本共産党の文化部長を務める。
錢高 輝之(銭高、ぜにたか てるゆき、1905年 <明治38… 錢高 輝之(銭高、ぜにたか てるゆき、1905年 <明治38年> 10月9日 - 1984年 <昭和59年> 11月22日 )は、日本の経営者。錢高組社長を務めた。位階は従四位。 岡山県出身。1927年第六高等学校 (旧制)文科甲類卒業。1930年に東京帝国大学経済学部を卒業し、1934年に錢高組に入社。1936年に取締役に就任し、1942年に専務を経て、1945年に社長に就任。1980年から会長を務めた。経済団体連合会理事なども歴任した。1960年に藍綬褒章を受章し、1973年1月に勲三等旭日中綬章を受章。 1984年11月22日急性肺炎で死去。79歳没。死没日付をもって従四位に叙された。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
石井 一郎(いしい いちろう、1905年10月4日 - 19… 石井 一郎(いしい いちろう、1905年10月4日 - 1980年6月18日)は、日本の経営者。日産化学工業社長を務めた。 熊本県玉名市出身。1929年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に日本興業銀行に入行。1950年4月に取締役に就任し、1951年5月に常務、1961年11月に副頭取を経て、1964年11月には日産化学工業社長に就任。1971年6月に会長を経て、1972年12月には取締役相談役に退いた。 1973年4月に藍綬褒章を受章。 1980年6月18日、心筋梗塞のために死去。。74歳没。
高林 敏巳(たかばやし としみ、1905年9月26日 - 1… 高林 敏巳(たかばやし としみ、1905年9月26日 - 1993年7月26日 )は、日本の経営者。三井金属鉱業社長を務めた。静岡県浜松市出身。 旧制静岡県立榛原中学校、旧制第八高等学校を経て、1928年に東京帝国大学工学部鉱山学科を卒業し、同年に三井鉱山に入社。1951年に三井金属鉱業に転じ、1952年に取締役に就任し、1956年に常務を経て、1958年11月に副社長に就任し、1964年5月には社長に昇格した。1970年4月に会長に就任し、1974年5月までに務めた。経済団体連合会、日本経営者団体連盟各常任理事も務めた。 1965年10月に藍綬褒章を受章し、1976年11月に勲一等瑞宝章を受章した。
足羽 則之(あしば のりゆき、1905年〈明治38年〉9月2… 足羽 則之(あしば のりゆき、1905年〈明治38年〉9月22日 - 1966年〈昭和41年〉2月2日)は、日本の鉄道官僚、運輸官僚、実業家。小田急百貨店副社長。 鳥取県鳥取市西町の鳥取士族で、衆議院議員(鳥取市選出)、鳥取市会議長、鳥取県会議員などをつとめた木下義之の三男。足羽家に入る。1926年に第三高等学校文科乙類卒業。1928年に高等試験行政科合格。1929年に東京帝国大学法学部法律学科卒業。 鉄道省に入り鉄道事務官兼企画院・外務省各書記官、運輸大臣官房人事課長を経て1946年に新潟鉄道局長となり1949年に運輸省鉄道監督局長に転じ、1952年4月に退官、私鉄経営者協会専務理事事務局長に就任、関東鉄道協会常任理事事務局長の後1956年5月に小田急取締役に挙げられ、1959年2月に常務に推される。
黒沢 三郎(くろさわ さぶろう、1905年6月21日 - 1… 黒沢 三郎(くろさわ さぶろう、1905年6月21日 - 1996年2月22日)は、日本の経営者。八十二銀行頭取を務めた。 長野県南佐久郡八千穂村(現・佐久穂町)出身。1929年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に第十九銀行(のちの八十二銀行)に入行。1937年に常務を経て、1951年に副頭取に就任し、1973年5月には頭取に昇格。1975年12月に会長、1985年6月に取締役相談役を経て、1989年6月から相談役を務めた。 1977年4月に勲四等瑞宝章を受章し、1987年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1996年2月22日肺炎のために死去。90歳没。
寺尾 威夫(てらお たけお、1905年4月5日 - 1974… 寺尾 威夫(てらお たけお、1905年4月5日 - 1974年5月25日)は、日本の実業家。大和銀行元頭取、会長。奈良県吉野郡十津川村出身。 1929年に東京帝国大学法学部を卒業し、野村銀行(のちの大和銀行、統合により、現在はりそな銀行となる。)に入行した。 1947年1月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1950年8月には社長に就任し、1951年11月からは大和銀行頭取を務め、1973年4月からは会長を務めた。頭取在職中に、1965年に大蔵省から行政指導により、信託業務を分離するように命令を受けたが、これを拒否し、信託併営を堅持した。 その一方で、関西経済同友会幹事、大阪商工会議所副会頭などを歴任した。
上野 次郎男(うえの じろうお、1905年 <明治38年> … 上野 次郎男(うえの じろうお、1905年 <明治38年> 3月29日 - 1971年 <昭和46年> 8月25日)は、日本の経営者。積水化学工業社長、積水ハウス産業代表取締役を務めた。位階は正五位。勲三等瑞宝章。 鹿児島県川内市(現在の薩摩川内市)出身。1927年に東京帝国大学経済学部を卒業。報知新聞社での勤務を経て、日本窒素肥料に転じた。1947年に取締役に就任し、1951年2月に再び取締役に就任し、同年9月に積水化学工業社長に就任し、1960年8月に積水ハウス産業代表取締役に就任した。その一方で、讀賣テレビ放送取締役、関西経済連合会理事も務めた。 1957年に紺綬褒章を受章し、1963年に藍綬褒章を受章した。
秋元 順朝(あきもと なおとも、1905年3月13日 - 1… 秋元 順朝(あきもと なおとも、1905年3月13日 - 1967年9月18日)は、日本の経営者、銀行家。埼玉銀行頭取を務めた。群馬県館林市出身。 秋元春朝子爵の長男として生まれる。1928年に東京帝国大学経済学部商業学科を卒業し、同年に高文行政科に合格し、1929年には大蔵省に入省。 1932年に茨木税務署長、大阪税務監督局管内茨木税務署所轄内相続税審査委員。1933年に淀川税務署長、大阪税務監督局轄内淀川税務署所轄内相続税審査委員。1934年に北税務署長、大阪税務監督局管内北税務署所轄内相続税審査委員。 1940年に関税等不服審査会幹事、阿片委員会幹事、台湾関税等不服審査会委員、不当廉売委員会幹事。
日高 輝(ひだか てる、1905年(明治38年)2月22日 … 日高 輝(ひだか てる、1905年(明治38年)2月22日 - 1987年(昭和62年)9月25日)は昭和期の日本の経営者。日本興業銀行常務、日産化学工業社長、山一證券社長・会長、国際電信電話会長を務めた。義父は元住友総理事・大蔵大臣の小倉正恒。
田辺 友太郎(たなべ ともたろう、1905年(明治40年)2… 田辺 友太郎(たなべ ともたろう、1905年(明治40年)2月17日 - 1970年(昭和45年)3月3日)は、日本の経営者、銀行家。北陸銀行頭取を務めた。 富山県出身。1929年(昭和4年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業。電力会社を興し、商工会議所会頭を務めた田辺貫一と、西田牧三の三女の和子の次男として生まれる。1935年7月、祖父甚三郎や父が務めた十二銀行取締役に就任し、1957年3月には北陸銀行頭取に就任。1946年5月から1957年3月までに東洋精機社長を務めた。妻は密田良太郎の次女の節子。 1970年3月3日、尿毒症のために死去。65歳没。墓所は富山の光厳寺にある。
遠藤 幸吉(えんどう こうきち、1905年1月10日 - 1… 遠藤 幸吉(えんどう こうきち、1905年1月10日 - 1998年12月14日)は、日本の経営者、電気技術者。 東京エレクトロン研究所(現・東京エレクトロン)初代社長をつとめた。 北海道小樽市出身。1930年に東京帝国大学工学部電気科を卒業。電通での勤務を経て、1952年にラジオ東京に入社し、取締役を経て、1956年1月に常務取締役テレビ技術局長に就任。 1963年にラジオ東京などの出資により東京エレクトロン研究所が設立されると、同社の初代社長に就任。1974年には会長に就任。 1980年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1998年12月14日老衰のために死去。93歳没。
林 大作(はやし だいさく、1905年〈明治38年〉1月2日… 林 大作(はやし だいさく、1905年〈明治38年〉1月2日 - 1985年〈昭和60年〉11月26日)は、昭和期の実業家、弁護士、政治家。衆議院議員。 愛知県八名郡賀茂村(双和村を経て現豊橋市)出身。1928年(昭和3年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業した。 三井物産に入社し、ボンベイ(現ムンバイ)支店、ニューヨーク支店で勤務。その後、商工省嘱託、重要物資管理営団企画課長、交易営団上海連絡部次長、同営団総務部次長などを務めた。 戦後、弁護士となり片山哲の法律事務所で勤務。1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙で愛知県第5区から日本社会党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
伊藤 啓介(いとう けいすけ、1904年(明治37年)12月… 伊藤 啓介(いとう けいすけ、1904年(明治37年)12月31日 - 没年不明)は、日本の実業家。高岳製作所元取締役。三井銀行(現・三井住友銀行)元常任監査役。東京光学機械(現・トプコン)元監査役。 埼玉県大里郡寄居町の吉田正治の次男として生まれた。早くに父を亡くし、義兄の医師・幾瀬量(娘は幾瀬マサ)の世話になる。幾瀬の先輩の伊藤新作(日本煉瓦製造営業部長)を紹介され懇意になり、望まれて伊藤の末期養子及びその妻伊藤乃ふの養子となる。 旧制熊谷中学、旧制松本高校文科乙類を経て、1928年(昭和3年)に東京帝国大学経済学部を卒業。大学卒業後、三井銀行(現・三井住友銀行)に入行。同行にて監査役・常任監査役を歴任。
蟻川 五二郎(ありかわ ごじろう、1904年11月21日 -… 蟻川 五二郎(ありかわ ごじろう、1904年11月21日 - 1989年7月23日)は、日本の経営者、銀行家。東京都新宿区出身。 1931年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に日本銀行に入行。 1955年5月に福岡銀行頭取に就任し、1973年11月に会長を経て、1977年12月には顧問に就任。1974年1月から1980年5月までに福岡商工会議所会頭を務めた。 1960年11月に藍綬褒章を受章し、1975年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1989年3月22日心不全のために死去。84歳没。
安西 正夫(あんざい まさお、1904年11月12日 - 1… 安西 正夫(あんざい まさお、1904年11月12日 - 1972年4月24日)は、日本の実業家。商学博士。 東京瓦斯会長を務めた安西浩の弟である。 この項目は、経済に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 経済学、プロジェクト 経済)。
細井 倞(ほそい りょう、1904年10月23日 - 198… 細井 倞(ほそい りょう、1904年10月23日 - 1987年10月18日)は、日本の経営者。同和火災海上保険社長、会長を務めた。北海道出身。 1929年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年4月に神戸海上火災保険に入社。1944年3月に同和火災海上保険に転じ、1950年6月に取締役に就任し、1958年6月に常務、1962年12月に専務を経て、1968年6月には社長に就任。1978年7月から1979年7月までに会長を務めた。 1978年7月に藍綬褒章を受章し、1979年9月に勲四等旭日小綬章を受章。 1987年10月18日心不全のために死去。82歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
佐竹 義利(さたけ よしとし、1904年10月2日 - 19… 佐竹 義利(さたけ よしとし、1904年10月2日 - 1989年1月19日)は、日本の実業家・華族(男爵)。東洋製作所社長。 佐竹東家(旧出羽秋田藩主・佐竹氏の分家)第23代当主・佐竹義準男爵の長男として東京府(現・東京都)に生まれた。1924年、父の死に伴い家督を継ぎ、男爵を襲爵。 東京高等師範学校附属中学校、旧制水戸高等学校を経て、1930年に東京帝国大学工学部航空工学科を卒業し、三菱航空機名古屋製作所に入社した。就職先に三菱系の企業を選んだのは妹の操子が三菱財閥の創業者一族・岩崎彦弥太に嫁いでいることが関係していたと考えられている。三菱重工業、東洋機器製作所勤務を経て東洋製作所の社長に就任。
岡崎 忠(おかざき ちゅう、1904年10月1日 - 199… 岡崎 忠(おかざき ちゅう、1904年10月1日 - 1990年2月10日)は、昭和後期から平成期の実業家。岡崎財閥の2代目総帥で、神戸商工会議所会頭等を務めた岡崎忠雄の婿養子。元海軍中将川島令次郎の四男。東京都出身。 旧制静岡高校を経て、1929年東京帝国大学を卒業後、三菱倉庫に勤務していたが、1931年岡崎忠雄の婿養子となり、1933年神戸岡崎銀行(後の神戸銀行、現在の三井住友銀行)に入行した。 1936年に神戸銀行が誕生して以降は、支店次長、支店長、本店営業部長などを歴任、1945年に常務、1947年1月に当時の経営陣が公職追放を受けて銀行を去ると、その翌月に頭取に就任。戦後の混乱の中、都市銀行としての確固たる地位を築き上げた。
赤尾 稔(あかお みのる、1904年9月13日 - 1988… 赤尾 稔(あかお みのる、1904年9月13日 - 1988年5月2日)は、日本の経営者。東京出版販売(現在のトーハン)社長、会長を務めた。福井県福井市出身。 1931年に東京帝国大学経済学部を卒業。東京堂、日本出版配給で取締役を務め、東京出版販売で常務、専務を務めた。1964年5月に副社長に就任し、1969年には社長に昇格。1977年に会長に就任し、1981年6月には顧問に就任。 1976年11月に勲四等瑞宝章を受章。 1988年5月2日肺炎のために死去。83歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
靱 勉(うつぼ つとむ、1904年9月5日 - 1970年1… 靱 勉(うつぼ つとむ、1904年9月5日 - 1970年12月15日)は、日本の官僚、実業家。次女はバレリーナのゆうきみほ(本名:靭啓子)。 東京出身。1929年(昭和4年)、東京帝国大学卒業後、逓信省入省。電気通信省次官となり、1952年(昭和27年)8月から1958年(昭和33年)9月まで日本電信電話公社初代副総裁を務める。その後国際電信電話株式会社(KDDIの前身の1つ)代表取締役社長となり、電気通信の発展に貢献した。1965年(昭和40年)12月から1967年(昭和42年)6月まで、NHK経営委員長を務めた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
北川 一栄(きたがわ かずえ、1904年7月26日 - 19… 北川 一栄(きたがわ かずえ、1904年7月26日 - 1978年11月17日)は、日本の実業家、工学博士。住友電気工業元社長。 大阪府大阪市出身。1927年に東京帝国大学工学部を卒業し、住友電線製造所(のちの住友電気工業)に入社した。 1956年11月から社長を務め、1966年11月から会長を務めた。 その一方で、原子力委員会委員、通産省電子情報処理振興審議会会長、産業構造審議会情報産業部会長、関西経済同友会幹事、日本電線工業会会長、関西情報センター理事長なども歴任した。大阪大学工学部電気工学科で非常勤講師も務めた。1956年に紫綬褒章を受章し、1967年に藍綬褒章を受章し、1974年に勲一等瑞宝章を受章。
梅島 貞(うめじま さだし、1904年7月8日 - 2004… 梅島 貞(うめじま さだし、1904年7月8日 - 2004年4月8日)は、日本の経営者。毎日新聞社社長を務めた。 岡山県岡山市出身。1929年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に毎日新聞社に入社。1954年1月に取締役に就任し、1958年7月に常務、1961年1月に専務を経て、1968年1月に社長に就任。1972年1月から1977年12月までに最高顧問を務めた。 1974年11月に勲一等瑞宝章を受章。 2004年4月8日に脳梗塞のために死去。99歳没。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
有田 二郎(ありた じろう 1904年7月1日 - 1980… 有田 二郎(ありた じろう 1904年7月1日 - 1980年10月28日)は、昭和期の政治家、実業家。衆議院議員(5期)。名村汽船取締役。 性病薬の有田ドラッグを経営し言論活動でも名を馳せた有田音松の次男として生まれる。東京帝国大学倫理科を卒業し、大阪薬学専門学校講師、終戦連絡大阪事務局参与などを歴任。1946年総選挙(大阪府第1区)に日本自由党公認で初当選、その後民主自由党→自由党に所属し当選5回(大阪1区)。衆議院運輸・人事委員長や民主自由党総務・自由党副幹事長を歴任し、第3次吉田内閣では商工政務次官→通産政務次官を務めた。1953年の国会予算審議では、社会党右派の堤ツルヨから「断末魔の自由党」と野次られたのに対して「パン助だまれ」と応え、女性蔑視の暴言として問題になった。
弘世 現(ひろせ げん、1904年(明治37年)5月21日 … 弘世 現(ひろせ げん、1904年(明治37年)5月21日 - 1996年(平成8年)1月10日)は、日本の実業家、日本生命社長。同社の「中興の祖」と呼ばれた弘世助太郎の娘婿。 三井合名会社理事・成瀬隆蔵の六男として、東京市麴町区(現・東京都千代田区)に生まれる。成瀬家は二条関白藤原良基の末裔で、尾張犬山城の城主だった成瀬隼人正を先祖とする門閥である。隆蔵の長男の成瀬達は日本生命4代目社長、三男の成瀬雄吾は第一火災海上社長を務めた。 現は、初等科から高等科まで学習院に学び、1928年(昭和3年)東京帝国大学経済学部卒業後、三井物産に入社。同年日本生命社長・弘世助太郎の婿養子となる。弘世家は嵯峨源氏の流れを汲むとされており、旧彦根藩の御用商人であった。
橋本 鐵彦(はしもと てつひこ、1904年5月5日 - 20… 橋本 鐵彦(はしもと てつひこ、1904年5月5日 - 2001年4月9日)は、吉本興業社長。興行師、芸能プロモーター。 東京大学出身。大学時代にはドイツ文学と新劇運動に没頭。インテリを買われ浅草で芝居の台本や芝居の現場監督をしていた。この頃に芝居を見に来た吉本の林正之助と知り合い、後に東京吉本の社長になる林弘高と3人でお茶屋で食事をする、林弘高の紹介で1931年12月に吉本興行部(のちの吉本興業)に入社。入社後は文藝部、宣伝部、映画部を立ち上げる。その後文藝部の部長になり秋田實、長沖一、吉田留三郎らを入社させる。1933年に宣伝部が創設されのちに部長となり「吉本演藝通信」「ヨシモト」などの広報誌を発表。
金成 増彦(かなり ますひこ、1904年5月4日 - 200… 金成 増彦(かなり ますひこ、1904年5月4日 - 2003年9月10日)は、日本の経営者。富士電機社長、会長、福島放送会長を務めた。福島県出身。 1928年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に富士電機に入社。1947年12月に取締役に就任し、1949年8月に常務、1956年5月に専務を経て、1958年5月には社長に就任。1964年11月に常任相談役に就任。 1960年11月に藍綬褒章、1974年11月に勲二等旭日重光章を受章。 2003年9月10日心不全のために死去。99歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
横田 武夫(1904年(明治37年)4月8日 - 1992年… 横田 武夫(1904年(明治37年)4月8日 - 1992年(平成4年)5月10日)は、日本の実業家。朝日新聞社で経理部門を歩み、代表取締役ののち、日本教育テレビ(NET、現テレビ朝日)第5代社長を務めた。三重県出身。 旧制第二高等学校、東京帝国大学法学部政治学科卒業後、東京朝日新聞社入社。 会計、経理各部長、業務局次長、総務経理などを歴任し、1953年(昭和28年)12月、取締役に選任される。 1963年(昭和38年)の村山事件の際、矢島八洲夫(常務、総務・労務担当)、中川英造(取締役)、安井桂三郎(名古屋本社業務局長)らとともに辞表を提出。同事件収束後の翌年1月、代表取締役に就任したが、3月、元社長で大株主の村山長挙は、横田ら復職した5人の取締役の職務執行停止の仮処分申請を裁判所に提出した。
松浦 薫(まつうら かおる、1904年(明治37年)4月4日… 松浦 薫(まつうら かおる、1904年(明治37年)4月4日 - 1975年(昭和50年)7月23日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、香川県坂出市長。 香川県綾歌郡松山村(現坂出市大屋冨町)出身。1930年(昭和5年)3月、東京帝国大学工学部土木工学科を卒業した。 兄・伊平の創業した松浦組に入り、同支配人、満州松浦組専務取締役、松浦工業専務取締役、四国瓦斯取締役などを務めた。 1946年(昭和21年)4月、第22回衆議院議員総選挙で香川県選挙区から出馬して当選し、衆議院議員を1期務めた。この間、日本自由党幹事に就任した。 その後、高松市助役を務め、1969年(昭和44年)7月12日、坂出市長に就任した。
武藤 富男(むとう とみお、1904年(明治37年)2月20… 武藤 富男(むとう とみお、1904年(明治37年)2月20日 - 1998年(平成10年)2月7日)は、昭和戦前期日本の裁判官および満洲国の官僚、昭和戦後期日本の実業家、名誉法学博士、教育者、日米会話学院院長、キリスト教牧師、伝道師、名誉神学博士。キリスト新聞社長・会長。教文館専務・社長・会長。明治学院院長。明治学院東村山高等学校の創設者 (P1~5) で、同高校初代校長。恵泉女学園理事長、東京神学大学理事長、敬和学園理事長、キリスト教文書センター理事長、日本聾話学校理事長、東京サフランホーム理事長、雲柱社理事長なども歴任した。ペンネームに大賀 捨二。 4歳の時に生家が破産し、さらに父親が他界。
降旗 三七男(ふりはた みちお、1904年2月10日 - 1… 降旗 三七男(ふりはた みちお、1904年2月10日 - 1965年8月27日)は、日本の経営者。東亜燃料工業社長を務めた。 長野県出身。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)、旧制松本高等学校理科を経て、1927年に東京帝国大学工学部応用化学科を卒業。小倉石油での勤務を経て、1939年に東亜燃料工業取締役に就任し、1944年に常務、1952年2月に副社長を経て、1962年2月には社長に就任した。 1965年8月27日、心不全のために在任中に死去。61歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
溝口 周次(みぞぐち しゅうじ、1904年2月7日 - 1… 溝口 周次(みぞぐち しゅうじ、1904年2月7日 - 1986年3月13日)は、日本の経営者。住友海上火災保険社長、会長を務めた。 東京都出身。1928年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に住友海上火災保険に入社。1949年6月に取締役に就任し、1951年1月に常務、1958年6月に専務を経て、1962年6月には社長に就任。1969年6月に会長を経て、1972年6月には相談役に就任。 1968年9月に藍綬褒章を受章し、1974年5月に勲三等瑞宝章を受章。 1986年3月13日、心不全のために死去。82歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
船越 義房(ふなこし よしふさ、1904年〈明治37年〉2月… 船越 義房(ふなこし よしふさ、1904年〈明治37年〉2月4日 - 没年不明)は、日本の会社役員、工学博士。熊谷組顧問。旧姓・北垣。 島根県能義郡大塚村(現・安来市)出身。北垣仁之助の三男。1925年、松江高等学校理科卒業、同年に鳥取県米子市紺屋町、船越作一郎の養子となる。1929年、東京帝国大学工学部建築学科卒業。同大学院にて建築音響学を専攻する。 日本大学講師、教授。藤原工業大学、東京府立高校、成蹊高校各講師、厚生科学研究所員、三星産業技術部長。1952年、日建設計工務常務取締役。1969年、熊谷組入社、同社専務取締役、のちに同社顧問。 宗教は仏教。趣味は写真、庭球、ゴルフ。住所は東京都杉並区上荻2丁目。
岩本 清(いわもと きよし、1904年1月31日 - 197… 岩本 清(いわもと きよし、1904年1月31日 - 1976年10月5日)は、日本の実業家。共同通信社元専務理事。東京都出身。 1926年に東京帝国大学法学部を卒業し、国際通信社に入社した。 共同通信社渉外部長、編成局長などを経て、1959年12月から1966年3月までに専務理事を務めた。 電通取締役なども歴任した。1976年に勲一等瑞宝章を受章した。 1976年10月6日急性心不全のために死去。72歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
館林 三喜男(舘林 三喜男、たてばやし みきお、1904年1… 館林 三喜男(舘林 三喜男、たてばやし みきお、1904年1月25日 - 1976年10月22日)は、日本の内務官僚、政治家、実業家。 佐賀県副知事、衆議院議員(4期)、三愛石油株式会社社長(第2代)、株式会社リコー社長(第2代)などを歴任した。 内務省に入省し要職を歴任するも、太平洋戦争後は公職追放となる。第25回衆議院議員総選挙で当選を果たし、以降2回の落選を挟みながら4期務めた。第31回衆議院議員総選挙にて3度目の落選となる。以降はリコー三愛グループの事業に携わり、三愛石油の副社長を経て社長に就任し、のちにリコーの社長も務めた。 佐賀県西松浦郡有田町出身。第五高等学校を経て、1928年東京帝国大学法学部政治学科卒。
森 美徳(もり よしのり、1904年1月21日 - 1985… 森 美徳(もり よしのり、1904年1月21日 - 1985年10月5日)は、日本の経営者。井関農機社長を務めた。 香川県出身。1929年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に日本勧業銀行に入行。1953年に取締役に就任し、1960年に常務を経て、1969年12月に井関農機顧問に就任し、1970年1月には社長に昇格した。1977年12月には会長に就任。 1985年10月5日、脳梗塞のために死去。81歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。