福原 鐐二郎(ふくはら りょうじろう、1868年8月13日(… 福原 鐐二郎(ふくはら りょうじろう、1868年8月13日(慶応4年6月25日) - 1932年(昭和7年)1月17日)は、明治時代から大正時代にかけての日本の文部官僚。号は蘇洲。 文部次官、東北帝国大学総長、学習院長、帝国美術院(日本芸術院の前身)院長、貴族院議員を歴任した。 桑名藩士・福原資英の二男として生まれる。共立学校、第一高等学校を経て、1892年7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。逓信省試補となり官房兼郵務局勤務。1893年7月、内務省に移り内務属となる。同年11月、社寺局神社課長に就任し、以後、内務省参事官、奈良県参事官、奈良県警察部長、鳥取県警察部長などを歴任。 1897年3月、文部省に転じ参事官に就任。
関 豊太郎(せき とよたろう、1868年8月11日(慶応4年… 関 豊太郎(せき とよたろう、1868年8月11日(慶応4年6月23日) - 1955年(昭和30年)3月20日)は、日本の土壌学者。黒ボク土(火山灰土壌)の組成とその改良方法研究に貢献した。また、盛岡高等農林学校教授時代に、宮沢賢治を指導したことでも知られる。 士族・関定暉の長男として、東京(江戸)市谷に生まれる。1892年帝国大学農科大学農学科を卒業。 1893年(明治26年)6月から福岡県立尋常中学修猷館教諭を皮切りに、広島師範学校教諭、鳥取県立農学校教諭、宮城農学校教諭、山形県立庄内農業学校教諭、広島高等師範学校教授を経て、1905年盛岡高等農林学校(岩手大学農学部の前身)の土壌学の教授に就任。
飯塚 啓(いいづか あきら、慶応4年6月16日〈1868年8… 飯塚 啓(いいづか あきら、慶応4年6月16日〈1868年8月4日〉 - 昭和13年〈1938年〉12月10日)は、日本の動物学者(理学博士)。元学習院大学教授。環虫類の世界的権威として知られた。息子は地理学者の飯塚浩二。 1868年、上野国北群馬郡小野上村(現・群馬県渋川市)に生まれる。初名・熊吉。前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を中退。第二高等中学校を経て、1897年、東京帝国大学動物学科を卒業。 1900年8月第六高等学校教授、翌月東京帝国大学助教授。1910年、学習院大学教授に就任。 1919年、エッセイ集「伊香保みやげ」の中で、榛名湖のシジミの減少を予言した[要出典]。皇太子・裕仁親王への進講も行った。
岡田 朝太郎(おかだ あさたろう、慶応4年5月29日(186… 岡田 朝太郎(おかだ あさたろう、慶応4年5月29日(1868年7月18日) - 昭和11年(1936年)11月13日)は、日本の法学者。専門は刑法。弟子に穂積重遠など。 号は三面子、虚心。川柳の研究家としても知られ、「岡田三面子」名義で『日本史伝川柳狂句』全27巻(遺稿、古典文庫、1972年 - 1981年)などの著作がある。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
湯川 寛吉(ゆかわ かんきち、慶応4年5月24日(1868年… 湯川 寛吉(ゆかわ かんきち、慶応4年5月24日(1868年7月13日) - 昭和6年(1931年)8月23日)は、第5代住友総理事である。 慶応4年(1868年)5月24日、紀伊国東牟婁郡新宮町841番地(現和歌山県新宮市千穂1丁目)で紀伊新宮藩の藩医湯川寛斎と八重の長男として生まれた。新宮小学校を卒業後、和歌山中学校へ入学したが中退し、東京ドイツ協会学校に在籍した。明治15年(1882年)東京大学予備門に入学して医科大学へ進む予定であったが、独法科が設置された法科大学に転学し、明治23年(1890年)東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。 同年逓信省に入り、明治27年(1894年)日清戦争の野戦高等郵便局長として戦地で活躍、明治28年(1895年)東京郵便電信学校の校長となる。
武藤 喜一郎(むとう きいちろう、1868年7月12日(慶応… 武藤 喜一郎(むとう きいちろう、1868年7月12日(慶応4年5月23日) - 1943年(昭和18年)12月14日)は、日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦・戦間期の陸軍軍人。獣医学者・獣医師。陸軍獣医学校長、陸軍獣医総監を歴任した。最終階級は陸軍獣医中将。獣医学博士(1902年)、医学博士(1917年)。馬学の研究で知られた。 静岡県出身。静岡中学に学んだ。1892年(明治25年)、東京帝国大学農科大学獣医科卒業。1902年(明治35年)、獣医学博士(東京帝国大学)、1917年(大正6年)、医学博士を取得。 1892年(明治25年)12月20日、陸軍三等獣医。1895年(明治28年)1月8日、陸軍二等獣医。
加藤 茂苞(かとう しげもと、慶応4年5月17日(1868年… 加藤 茂苞(かとう しげもと、慶応4年5月17日(1868年7月6日) - 1949年(昭和24年)8月16日)は、出羽国鶴岡(現・山形県鶴岡市)出身の農学者。農学博士。九州帝国大学教授。水原高等農林学校教授。東京農業大学教授。 水稲の品種改良に約25年に渡り取り組み続け、数多くの新品種の創出を指導し東北稲作改良の父といわれた。代表的な新品種に「陸羽132号」がある。また、世界に存在する稲を印度型と日本型の2種類の型に分類する事を提案した。著作物に、水稲品種の改良、新品種育成に関する論文25編、講演筆記22編がある。
丹羽 鋤彦(にわ すきひこ、1868年(明治元年6月19日)… 丹羽 鋤彦(にわ すきひこ、1868年(明治元年6月19日) - 1955年〈昭和30年〉1月18日)は、明治時代-昭和初期の土木技術者、工学博士。 1868年(慶応4年)名古屋生まれ、1889年東京帝国大学工科大学土木学科を卒業。内務省に入り内務技師。仙台、大阪、名古屋の土木監督署で勤務。1900年-1901年に欧米出張(横浜港新港埠頭建設のため)。大蔵省臨時建築部第二課長橫浜支部長、同臨時建築課長などを歴任。この間、木曽川、淀川、最上川の治水事業、横浜、神戸の港湾改良事業などに携わる。1915年、工学博士。1919年、依願免官。同年、日本水力株式会社取締役。1921年、東京市道路局長、河川課長・建築課長事務取扱。
江藤 捨三(えとう すてぞう、1868年〈明治元年5月12日… 江藤 捨三(えとう すてぞう、1868年〈明治元年5月12日〉 - 1947年〈昭和22年〉3月31日)は静岡県出身の製鉄技術者であり工学博士。室蘭製鉄所の初代所長を務めた。 駿河国駿東郡金岡村にて平民・江藤俊平の五男として生まれる。1887年(明治20年)7月、第一高等中学校の予科第三級へ入学。東京帝国大学工科大学の採鉱冶金科を1895年(明治28年)7月に卒業し、当時国内唯一の近代式製鉄所として稼働していた釜石鉱山田中製鉄所に勤めた。1896年(明治29年)5月に退職すると、同年7月に官営八幡製鉄所の技手に任官、工務部に所属した。翌1897年には研修のためドイツへ留学し、ベルリン大学で2年間研究したのち帰国。
本多 辰次郎(ほんだ たつじろう、明治元年4月15日(186… 本多 辰次郎(ほんだ たつじろう、明治元年4月15日(1868年5月7日) - 1938年(昭和13年)7月8日)は戦前日本の歴史学者。山形県立山形中学校長、宮内省臨時帝室編修局御用掛、法政大学、立教大学講師。 明治元年(1868年)4月15日愛知県海部郡津島町に七里長兵衛の次男として生まれた。1886年(明治19年)上京して浅草区小島町に住み、大谷教校に通ったが、同年高等科が京都に移転したため、共立学校に入学した。1889年(明治22年)第一高等中学校、1895年(明治28年)東京帝国大学国史科、1898年(明治31年)帝国大学大学院に進んだ。 1898年(明治31年)本多正開の養子となり、1902年(明治35年)家督を相続した。
長島 鷲太郎(ながしま わしたろう、慶応4年4月8日(186… 長島 鷲太郎(ながしま わしたろう、慶応4年4月8日(1868年4月30日) - 昭和9年(1934年)7月27日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。法学博士。キリスト教徒。 安房国安房郡勝山(現在の鋸南町)に安房勝山藩士長島永豊の長男として生まれ、1872年(明治5年)に一家は東京に移住した。1890年(明治23年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、司法省参事官試補となるが、1893年(明治26年)に辞して弁護士を開業し、後には東京弁護士会会長に就任した。また日本法律学校・明治法律学校・和仏法律学校・東京法学院・専修学校で講師を務め、日本法律学校では幹事となった。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
森島 庫太(もりしま くらた、1868年4月29日(明治元年… 森島 庫太(もりしま くらた、1868年4月29日(明治元年4月7日) - 1943年(昭和18年)3月18日)は、日本の医学者、京都帝国大学医学部教授。 医師・森島玄仙の長男として1868年に美濃国(現・岐阜県)で生まれる。1893年東京帝国大学医科大学を卒業。薬物学教室の高橋順太郎教授のもとで助手として採用される。1896年よりドイツ、ベルギーに留学しストラスブール大学(当時ドイツ領)でシュミーデベルク教授に師事した他、ライプチヒ大学、ゲント大学で研究に携わる。 1899年、京都帝国大学医科大学助教授に任じられ、1900年 帰国と同時に薬物学第一講座教授となる。1925年7月21日-1928年4月21日の間医学部長をつとめた後、1928年退官し、名誉教授となった。
玉虫 一郎一(たまむし いちろういち、慶應4年4月6日(18… 玉虫 一郎一(たまむし いちろういち、慶應4年4月6日(1868年4月28日) - 昭和17年(1942年))は、日本の教育者。 宮城県仙台市出身。1895年(明治28年)、東京帝国大学文科大学英文科を卒業し、東京高等師範学校附属中学校英語歴史科講師となる。1896年(明治29年)、愛媛県尋常中学校教諭となり、1898年(明治31年)に宮城県尋常中学校教諭に転じた。1901年(明治34年)、第二高等学校教授となり、1928年(昭和3年)に校長に就任した。1932年(昭和7年)に退官し、名誉教授の称号を受けた。
仁保 亀松(にほ かめまつ、1868年4月24日(慶応4年4… 仁保 亀松(にほ かめまつ、1868年4月24日(慶応4年4月2日)- 1943年(昭和18年)9月26日)は、日本の法学者。京都帝国大学名誉教授。財団法人立命館初代協議員。日本民法典の成立に寄与。 指導教官である穂積陳重の法律進化論の流れを汲み、法理学・法史学・比較法学を近接させた立場であった。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、法学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
小浜 松次郎(こはま まつじろう、1868年4月7日〈慶応4… 小浜 松次郎(こはま まつじろう、1868年4月7日〈慶応4年3月15日〉 - 1946年〈昭和21年〉9月24日)は、日本の内務・警察官僚。官選青森県知事、小倉市長、初代函館市長。 薩摩国姶良郡加治木(現鹿児島県姶良市)で小浜有照の二男として生まれる。 第二高等学校を首席で卒業。1897年7月、東京帝国大学法科大学を卒業。内務省に入省し内務属となり警保局に配属。1898年1月、警視庁警部兼警視属に発令。1900年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。 1901年7月、警視庁警視・小松川警察署長に就任。以後、検疫事務支署長、宮崎県警部長、宮崎県事務官・第四部長、石川県事務官・第四部長、警視庁警視・第二部長、同第一部長、同警務部長などを歴任。
松井 慶四郎(まつい けいしろう、1868年3月28日〈慶応… 松井 慶四郎(まつい けいしろう、1868年3月28日〈慶応4年3月5日〉- 1946年〈昭和21年〉6月4日)は、日本の外交官、政治家。男爵。大阪府出身。松井保蔵二男。 妻の照子は西日本の鉄道王と呼ばれた実業家の今村清之助の娘。長女に日本の洋裁教育と服飾デザインの礎を作った田中千代、二女・貞子は安川電機社長の安川寛(安川敬一郎孫)の妻。長男はフランス大使となった松井明。慶四郎の死後、長男の明は襲爵手続をしなかった。
萩原 守一(はぎわら もりいち/しゅいち、1868年3月20… 萩原 守一(はぎわら もりいち/しゅいち、1868年3月20日〈慶応4年2月27日〉 - 1911年〈明治44年〉5月25日または5月26日)は、明治時代の日本の外交官。位階および勲等は従四位・勲三等。旧姓は石川。 長門国豊浦郡宇賀村(現在の山口県下関市)に生まれる。兄は石川耐蔵。 1893年(明治26年)、萩原明輔の後を継ぎ、萩原に改姓。 1895年(明治28年)7月、帝国大学法科大学法律学科を卒業。同年9月、外交官及領事官試験に合格し外務省に入省して、外交官となった。 1897年からドイツ帝国公使館に勤務する。その後ベルギー、大韓帝国、清、アメリカ合衆国の公使館で書記官を務めた。1906年に奉天総領事館の総領事となる。
河西 健次(かさい けんじ、明治元年2月24日〈1868年3… 河西 健次(かさい けんじ、明治元年2月24日〈1868年3月17日〉 - 昭和2年〈1927年〉5月14日)は日本の医師。陸軍軍医、満鉄大連医院院長、武蔵野病院創設者。 長野県小県郡和田村の医者の家系に長男として生まれる。1890年(明治23年)帝国大学医科大学在学中に陸軍医官候補生に採用され、日清戦争に出征した。1894年(明治27年)大学卒業後、京都帝国大学大学院を経て、伏見衛生病院、台北衛生病院付となり、日露戦争時には三等軍医正となる。1906年(明治39年)ドイツ駐在となり、1908年(明治41年)現役のまま南満洲鉄道衛生課長兼大連医院長に就任した。 1911年(明治44年)、奉天における国際ペスト会議に列席し、軍医正に進み、1912年(大正元年)南満医学堂の初代堂長を兼任した。
斎藤 阿具(さいとう あぐ、1868年3月11日(慶応4年2… 斎藤 阿具(さいとう あぐ、1868年3月11日(慶応4年2月18日) - 1942年(昭和17年)3月1日)は、日本の歴史学者。夏目漱石の友人として知られる。 武蔵国足立郡尾間木村(現・埼玉県さいたま市)出身。1890年第一高等中学校卒業。1893年東京帝国大学史学科卒業、大学院に進む。1897年第二高等学校教授。1903年から3年間ドイツ、オランダに留学。留学中に本郷区駒込千駄木町の家を夏目漱石に貸した。漱石はここで『吾輩は猫である』を書いたため、「夏目漱石旧宅跡」として区指定史跡とされ旧居記念碑が建っており、旧居は明治村に移築された。 帰国後第一高等学校教授となり、芥川龍之介、久米正雄、山本有三らを教えた。
鶴田 賢次(つるた けんじ、1868年3月1日(慶応4年2月… 鶴田 賢次(つるた けんじ、1868年3月1日(慶応4年2月8日) - 1918年(大正7年)6月10日)は、日本の物理学者。東京帝国大学教授。勲五等。理学博士。 ニコンの前身である東京計器製作所の光学計器部の設立にもかかわった、明治-大正期におけるガラス・光学レンズの第一人者で、三角型体温計の発明者。
村上 直次郎(むらかみ なおじろう、1868年2月26日(慶… 村上 直次郎(むらかみ なおじろう、1868年2月26日(慶応4年2月4日) - 1966年(昭和41年)9月17日)は、明治時代から昭和時代にかけての日本の歴史学者。文学博士。帝国学士院会員、勲一等瑞宝章受章。日欧通交史、日本・東南アジア関係史の権威。 豊後玖珠(大分県玖珠町)出身。1878年(明治11年)から1884年(明治17年)の6年間を同志社英学校に学び、同余科(神学科)卒業後は東京府に移る。第一高等学校を経て1895年(明治28年)帝国大学文科大学史学科を卒業。その後東京帝国大学講師、東京外国語学校(現:東京外国語大学)校長、東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)校長、台北帝国大学文政学部長、上智大学第4代学長などを歴任。
丸山 嵯峨一郎(まるやま さがいちろう、慶応4年1月21日(… 丸山 嵯峨一郎(まるやま さがいちろう、慶応4年1月21日(1868年2月14日) - 昭和19年(1944年)2月5日)は、日本の衆議院議員(自由党→憲政党→立憲政友会→政友本党)、弁護士。 越後国魚沼郡馬場村(現在の新潟県十日町市)出身。1887年(明治20年)に第一高等中学校に入学し、1891年(明治24年)に卒業。同年、東京帝国大学法科大学に入学し、1894年(明治27年)に卒業した。卒業後は弁護士事務所を新潟市に開いた。 1898年(明治31年)、第5回衆議院議員総選挙に出馬し当選。以後、第6回、第9回、第13回、第14回の計5回当選を果たした(第9回は補欠当選)。 その他、新潟商業会議所特別会員、新潟県弁護士会長、新潟県競馬倶楽部会長を務めた。
水野 錬太郎(みずの れんたろう、1868年2月3日〈慶応4… 水野 錬太郎(みずの れんたろう、1868年2月3日〈慶応4年1月10日〉- 1949年〈昭和24年〉11月25日)は、日本の内務官僚、政治家。勲等は勲一等。内務大臣、朝鮮総督府政務総監、文部大臣、貴族院議員などを歴任した。 江戸詰の秋田藩士水野立三郎の子として1868年2月3日(慶應4年1月10日)、江戸浅草鳥越町の秋田藩邸で生まれた。立三郎は秋田の出でなく埼玉の出で、江戸で取り立てられた武士である。立三郎は秋田藩主佐竹義堯の弟佐竹義諶(よしつま)に仕えた。佐竹義諶は秋田藩の支藩岩崎藩主で、1869年(明治2年)義諶(1870年死去)、13歳の佐竹義理(よしただ)が継いだ。 立三郎は戊辰戦争で官軍についた秋田藩のために、妻生後間もない水野と2人の姉を連れて現在の秋田県湯沢市岩崎に避難。
宮尾 舜治(みやお しゅんじ、1868年2月1日〈慶応4年1… 宮尾 舜治(みやお しゅんじ、1868年2月1日〈慶応4年1月8日〉- 1937年〈昭和12年〉4月3日)は、日本の官僚、外地行政官、政治家。官選県知事、貴族院議員、錦鶏間祗候。新潟県出身。 越後国頸城郡広島村の名主・宮尾権九郎の長男として生まれた。父はこののち同村の助役となるが、この村は宮尾家の祖先が開いた地として知られていた。1881年(明治14年)、小島荷裳塾に入塾。1886年(明治19年)、第一高等中学校予科に入学、1889年(明治22年)には本科に進学する。下宿の隣家に寄寓していた神戸の瓦煎餅の職人が店の出資者を探しているとの話に興味を持ち、実家の父を説得して資金を出してもらい翌年11月には両国でせんべい屋「紀文堂」を開業したところ、これが大当たりとなって多忙を極めるようになり、そのため学校の方は欠席がかさんで1891年(明治24年)に本科2年を落第の憂き目に遭う。
松波 仁一郎(まつなみ にいちろう、1868年1月25日(慶… 松波 仁一郎(まつなみ にいちろう、1868年1月25日(慶応4年1月1日) - 1945年(昭和20年)11月3日)は、日本の法学者。専門は海商法。大阪府出身。民法典・商法典起草補助委員の一人。 1868年(慶応4年)岸和田藩士の松波仁右衛門と、妻・八重の長男として大阪岸和田並松町に生まれる。1881年(明治14年)同志社英学校普通科に入学。1886年(明治19年)卒業。キリスト教に対しては批判的だったが、新島襄はそういったことを理由に学生を差別するようなことは全くなく深い感銘を受けたという。同志社卒業後は帝国大学予備門に進学。東京帝国大法科大学に進み、卒業後は1893年(明治26年)に法典調査会起草委員補助に任命され梅謙次郎を補佐、日本民商法典成立に貢献した。
山下 啓次郎(やました けいじろう、1868年1月12日〈慶… 山下 啓次郎(やました けいじろう、1868年1月12日〈慶応3年12月18日〉- 1931年〈昭和6年〉2月6日)は明治・大正期に司法省の建築家として五大監獄を設計した。族籍は鹿児島県士族。 妻の直子は「日本のミスコン優勝者第一号」の末弘ヒロ子の姉。孫(二男・啓輔の子)のジャズピアニスト山下洋輔は啓次郎の事跡を訪ね、小説『ドバラダ門』を書いた。 1868年(慶応3年)、薩摩国鹿児島郡鹿児島近在西田村(後の鹿児島市西田町)に、薩摩藩士・山下房親の次男として生まれる。1876年(明治9年)、上京。第一高等中学校を経て1892年(明治25年)、帝国大学工科大学造家学科(後の東京大学工学部)卒業。辰野金吾のもと建築を学んだ。
尾崎 紅葉(おざき こうよう、1868年1月10日(慶応3年… 尾崎 紅葉(おざき こうよう、1868年1月10日(慶応3年12月16日) - 1903年(明治36年)10月30日)は、日本の小説家。本名、徳太郎。「縁山」「半可通人」「十千万堂」「花紅治史」などの号も持つ。 帝国大学国文科中退。1885年(明治18年)、山田美妙らと硯友社を設立し「我楽多文庫」を発刊。『二人比丘尼色懺悔』で認められ、『伽羅枕』『多情多恨』などを書き、幸田露伴と並称され(紅露時代)、明治期の文壇に重きをなした。 泉鏡花、田山花袋、小栗風葉、柳川春葉、徳田秋声など優れた門下生がいる。 俳人としても角田竹冷らとともに秋声会を興し、正岡子規と並んで新派と称された。 1868年1月10日(慶応3年12月16日)、江戸(現東京都)芝中門前町(現在の芝大門)に生まれる。
関野 貞(せきの ただし、1868年1月9日(慶応3年12月… 関野 貞(せきの ただし、1868年1月9日(慶応3年12月15日)- 1935年(昭和10年)7月29日)は、日本の建築史学者、建築家・美術史・考古学者。東京帝国大学名誉教授。 高田藩士関野峻節とヤエの次男として生まれた。旧制一高を経て、1895年に東京帝国大学工科大学造家学科(建築学科)を卒業。卒業論文は平等院の研究であった。辰野金吾の指揮下に日本銀行の工事に参加する。古社寺保存法が立案された1896年に伊東忠太の勧めで内務省技師、奈良県技師となり、奈良の古建築を調査し、建築年代を判定していった。 1889年に平城宮址を発見した。1922年、国の史跡(のちに特別史跡・特別名勝)に指定された。
瀧澤 又市(たきざわ またいち、1868年〈明治元年9月〉 … 瀧澤 又市(たきざわ またいち、1868年〈明治元年9月〉 - 1937年〈昭和12年〉)は、日本の教育者。長野県出身。 翠嵐高校の自由な校風として「大平凡主義」というものを掲げていた。
野村 一郎(のむら いちろう、1868年 - 1942年7月… 野村 一郎(のむら いちろう、1868年 - 1942年7月28日)は、日本の建築家。 大阪と台湾、朝鮮を拠点に、旧台湾総督官邸(現台北賓館)、旧朝鮮総督府庁舎などの設計を手がけた。また、台湾総督府に在任中、台北市の都市計画にも携わった。
藤田 精一(ふじた せいいち、1868年(慶応4年) - 1… 藤田 精一(ふじた せいいち、1868年(慶応4年) - 1938年(昭和13年)7月5日)は、日本の歴史学者。 山城国綴喜郡田辺村興戸(現・京都府京田辺市)出身。号・南山。1894年帝国大学文科大学史学科卒。1898年陸軍教授。広島中学校(現・広島県立広島国泰寺高等学校)校長、大阪陸軍幼年学校教頭、広島陸軍幼年学校教頭。1938年、「新田氏研究」で東京帝国大学文学博士。妻は戸水寛人の妹。長男・法学士・藤田春太郎、次男・農学士・藤田二郎は、1926年頃相次いで死去。五男は日本史学者の藤田五郎。
三橋 四郎(みつはし しろう、1867年12月27日(慶応3… 三橋 四郎(みつはし しろう、1867年12月27日(慶応3年12月2日) - 1915年(大正4年)11月5日)は、明治期から大正初期の日本の建築家。領事館をはじめとする多くの官庁建築の設計に携わるとともに、鉄網コンクリート工法を考案したことで知られる。 幕臣鈴木庸正の四男として、江戸に生まれる。 1893年、帝国大学工科大学造家学科(後の建築学科)を卒業、陸軍省に入る。 1898年に逓信省技師となり、郵便局舎の建築にあたった。 1906年、東京市技師となり、営繕課長となる。しかし2年後の1908年には東京市を退職し、三橋建築事務所を東京に開設した。以後、外務省の嘱託として、中国東北部やロシア極東部において多くの領事館を設計した。
中村 是公(なかむら よしこと、通称: なかむら ぜこう、な… 中村 是公(なかむら よしこと、通称: なかむら ぜこう、なかむら これきみ、1867年12月20日〈慶応3年11月25日〉- 1927年〈昭和2年〉3月1日)は、日本の官僚・実業家・政治家である。南満洲鉄道株式会社(満鉄)総裁、鉄道院総裁、東京市長、貴族院議員などを歴任した。 作家・夏目漱石の親友としても知られ、官僚出身らしからぬ豪放磊落な性格で、「べらんめい総裁」「フロックコートを着た猪」「独眼龍」などの異名をとった。 安芸国佐伯郡五日市村(五日市町を経て現:広島県広島市佐伯区)に酒造業・柴野宗八の五男として生まれる。柴野家の墓は現在でも広島市佐伯区五日市の光禅寺にある。兄は大審院検事・鈴木宗言。
小野 瓢郎(おの ひさごろう、1867年12月18日(慶応3… 小野 瓢郎(おの ひさごろう、1867年12月18日(慶応3年11月23日) - 1921年(大正10年)10月19日)は、日本の薬学者。従四位勲四等。薬学博士。富山薬学専門学校校長。愛知薬学校校長。族籍は愛知県平民。 江戸出身。北海道平民・小野新之丞の五男。1893年7月、帝国大学医科大学薬学科を卒業して薬学士の称号を得た。1898年、愛知医学専門学校教諭、愛知病院薬剤科長、1908年、愛知薬学校長。1915年7月、薬学博士の学位を授与された。同年9月、富山県技師および富山県立薬学専門学校長兼教授。1921年10月19日死去。享年55。 人柄は温厚篤実、気宇闊達と評された。部下を大切にし、死の前日にも再び校務に就くことを願うほど、仕事に忠実であった。
塩田 泰介(しおた たいすけ、1867年12月5日(慶応3年… 塩田 泰介(しおた たいすけ、1867年12月5日(慶応3年11月10日) ‐ 1938年2月5日)は、日本の造船工学者、実業家。工学博士。 三菱造船常務取締役。 備前国赤坂郡今井村(現・岡山県赤磐市今井)に正好家の四男として生まれる。眞徳小学校に在籍していた1878年、松田金次郎の書生として上京する。 泰介は上京後すぐに松田の転勤に伴って大阪に行き、1881年(明治14年)に大阪商船学校に入学。数学や航海術を本格的に学び、造船製図手になる。 1887年に帝国大学工科大学造船学科に入学。端連の長男である花房義質子爵の書生となる。 帝大卒業後は三菱合資会社に造船技師として入社し、長崎に赴任。1895年、端蓮の妹である塩田鶴の養子となり塩田姓を名乗る。
清水 釘吉(しみず ていきち、慶応3年11月10日(1867… 清水 釘吉(しみず ていきち、慶応3年11月10日(1867年12月5日) - 1948年(昭和23年)9月7日)は、日本の実業家。清水組代表取締役社長。旧姓は小野。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
脇水 鉄五郎(わきみず てつごろう、慶応3年11月9日(18… 脇水 鉄五郎(わきみず てつごろう、慶応3年11月9日(1867年12月4日) - 昭和17年(1942年)8月10日)は、明治から昭和前期の地質学者、土壌学者。東京帝国大学名誉教授。 美濃大垣(現:岐阜県大垣市)に生まれる。1893年(明治26年)東京帝国大学地質学科卒業。1896年(明治29年)同大学農科大学助教授を経て、1917年(大正6年)東京帝国大学教授となる。1911年から1915年頃に掛けてヨーロッパおよびアメリカに留学し、オーストリアで森林土壌学、イタリアで砂防学を研究。帰国すると地質学や森林土壌学講座を担当した。樺太および北海道にて気候的植生の土壌に対する影響を調査し、表層地質学の新天地を開拓した。
岸上 鎌吉(きしのうえ かまきち、ローマ字表記:Kamaki… 岸上 鎌吉(きしのうえ かまきち、ローマ字表記:Kamakichi Kishinouye、慶応3年11月4日(1867年11月29日) - 昭和4年(1929年)11月22日)は、日本の動物学者・水産学者。日本の水産学黎明期の学者であり、水産上の重要生物を中心に日本に於ける動物分類学の基礎を築いた学者の一人として位置づけられる。 慶応3年、尾張国知多郡横須賀村(後の愛知県知多郡横須賀町、現在の東海市)に生まれる。明治13年(1880年)に愛知県立旭丘高等学校の前進である愛知県中学校へ入学、明治16年(1883年)東京大学予備門へと進む。帝国大学理科大学動物学科へ入学後、箕作佳吉に師事する。丘浅次郎とは動物学科での同期であるが、岸上は本科生であり丘は撰科生である。
橋爪 捨三郎(はしづめ すてさぶろう、1867年11月29日… 橋爪 捨三郎(はしづめ すてさぶろう、1867年11月29日(慶応3年11月4日)- 1930年(昭和5年)9月15日)は、日本の実業家である。 陸奥国会津郡若松城郭内(現会津若松市)で、会津藩士・橋爪清助の三男として生まれる。帝国大学(現在の東京大学)法科大学政治学科を卒業後、三井物産に入社しその後転々と多くの企業に転勤する。後に上海紡績に転勤するが、同会社の合併により鐘淵紡績(後のカネボウ、現在のクラシエホールディングス)に移った。 これにより同会社の副支配人を経て支配人としての職にあたり、1918年(大正7年)に取締役として就任した。1927年(昭和2年)には常務取締役に昇格し、同年副社長に就任する。
伊東 忠太(いとう ちゅうた、慶応3年10月26日〈1867… 伊東 忠太(いとう ちゅうた、慶応3年10月26日〈1867年11月21日〉 - 1954年〈昭和29年〉4月7日) は、明治から昭和期の建築家、建築史家である。号は紅雲。位階・勲等・学位・称号は、正三位・勲二等瑞宝章・工学博士・東京帝国大学名誉教授・早稲田大学教授。出羽国米沢(現山形県米沢市)出身。米沢市名誉市民第1号。 少年時代を東京、佐倉で過ごす。帝国大学工科大学(現在の東京大学工学部)を卒業して同大学大学院に進み、のちに工学博士・東京帝国大学名誉教授となる。 西洋建築学を基礎にしながら、日本建築を本格的に見直した第一人者で、法隆寺が日本最古の寺院建築であることを学問的に示し、日本建築史を創始した。
鈴木 喜三郎(すずき きさぶろう、1867年11月6日〈慶応… 鈴木 喜三郎(すずき きさぶろう、1867年11月6日〈慶応3年10月11日〉- 1940年〈昭和15年〉6月24日)は、日本の司法官僚、政治家。立憲政友会第7代総裁。旧姓は川島。鳩山和夫の長女カヅと結婚し、鳩山一郎は義弟にあたる。司法官僚から、貴族院議員、清浦奎吾内閣の司法大臣、田中義一内閣の内務大臣を歴任し、衆議院議員から再度貴族院議員となった。犬養毅暗殺後の立憲政友会第7代総裁(在任、昭和7 - 昭和12、1932年 - 1937年)を務めた。位階勲等は従二位勲一等。 慶応3年10月11日(1867年11月6日)、武蔵国橘樹郡大師河原村(後の神奈川県川崎市)の川島富右衛門の三男に生まれる。
高橋 作衛(たかはし さくえ、1867年11月5日(慶応3年… 高橋 作衛(たかはし さくえ、1867年11月5日(慶応3年10月10日)- 1920年(大正9年)9月12日)は、日本の法学者・政治家。専門は国際法。学位は、法学博士。東京帝国大学名誉教授。帝国学士院会員、貴族院議員、法制局長官。 信濃国高遠藩儒で、維新後に長野県立長野中学教諭となった高橋白山の長男として肥前国(長崎県)に生まれる。第一高等学校を経て、1894年9月、帝国大学法科大学政治学科を首席で卒業。海軍教授となり、日清戦争に際し常備艦隊司令長官付の幕僚(法律顧問)、さらに旅順口根拠地司令長官付(通訳)に異動。1895年5月、海軍大学校勤務となり1896年3月まで務めた。1897年9月から英仏独に留学。
吾妻 勝剛(あづま かつたけ、1867年11月1日〈慶応3年… 吾妻 勝剛(あづま かつたけ、1867年11月1日〈慶応3年10月6日〉- 1923年〈大正12年〉9月1日)は、明治から大正時代の産婦人科医。 生家は出羽久保田藩医。1875年(明治8年)上京し普通学を修めたのち、1880年(明治13年)より同人社および独逸学校などに学び、1884年(明治17年)9月、大学予備門に入り、1890年(明治23年)9月に帝国大学医科大学に入学し、1893年(明治26年)11月、卒業した。卒業後、医科大学産科婦人科学教室助手となり、1898年(明治31年)2月には文部省の命によりドイツに留学する。帰朝後の1899年(明治32年)12月、京都帝国大学医科大学助教授となり、再度の留学を経て、1901年(明治34年)6月に帰朝した。
中山 巳代蔵(なかやま みよぞう、1867年10月27日(慶… 中山 巳代蔵(なかやま みよぞう、1867年10月27日(慶応3年10月1日) - 1921年(大正10年))は、日本の内務官僚、実業家。官選栃木県知事。 備前国邑久郡、のちの岡山県邑久郡豊原村(現瀬戸内市)出身。中山壮左衛門の長男として生まれる。第一高等学校を卒業。1894年、帝国大学法科大学を卒業。1895年、内務省に入省し土木局属となる。1906年12月、文官高等試験行政科試験に合格した。以後、長崎県参事官、土木監督署事務官兼内務事務官、内務書記官、京都府事務官などを歴任。 1906年12月、栃木県知事に就任。谷中村在留民の強制立ち退き、渡良瀬川改修を推進した。1911年8月、知事を休職となった。
平沼 騏一郎(ひらぬま きいちろう、1867年10月25日〈… 平沼 騏一郎(ひらぬま きいちろう、1867年10月25日〈慶応3年9月28日〉- 1952年〈昭和27年〉8月22日)は、日本の司法官僚、政治家。位階勲等爵位は正二位勲一等男爵。学位は法学博士。号は機外。 大審院検事局検事総長(第8代)、大審院長(第11代)、日本大学総長(第2代)、大東文化学院総長(初代)、財団法人大東文化協会会頭(第3代)、司法大臣(第26代)、貴族院議員、枢密院副議長(第11代)、枢密院議長(第17・21代)、内閣総理大臣(第35代)、国務大臣、内務大臣(第62代)を歴任。 美作国津山藩士平沼家に生まれる。東京帝国大学法科卒業後、明治21年から司法省に入省し、東京控訴院検事に補せられて以降、検事畑を進み、1905年(明治38年)には大審院検事、1906年(同39年)には司法省民刑局長に就任した。
外山 亀太郎(とやま かめたろう、慶応3年9月26日(186… 外山 亀太郎(とやま かめたろう、慶応3年9月26日(1867年10月23日) - 1918年(大正7年)3月29日)は、日本の遺伝学者。カイコにおいてメンデルの法則を実証した功績で知られる。細菌学者の青木薫は実弟。 相模国愛甲郡上古沢村(現・神奈川県厚木市上古沢)に生まれる。1885年に東京農林学校(1890年に帝国大学農科大学となる)に入学。1892年の卒業後も無給助手として数年留まった。1896年に同年創立された福島県蚕業学校(現・福島県立福島明成高等学校)の初代校長に就任しているが、研究に熱中するあまり排斥運動がおこり、1899年に辞任して東京帝国大学へ大学院学生として戻る。1902年、シャムより蚕業指導者の招聘があり、これに応じるため農科大学の助教授に任ぜられ、農務省蚕業技師長として3年間バンコクに赴任した。
正岡 子規(まさおか しき、1867年10月14日〈慶応3年… 正岡 子規(まさおか しき、1867年10月14日〈慶応3年9月17日〉 - 1902年〈明治35年〉9月19日)は、日本の俳人、歌人、国語学研究家。名は常規(つねのり)。幼名は処之助(ところのすけ)で、のちに升(のぼる)と改めた。 正岡 子規(まさおか しき、1867年10月14日〈慶応3年9月17日〉 - 1902年〈明治35年〉9月19日)は、日本の俳人、歌人、国語学研究家。名は常規(つねのり)。幼名は処之助(ところのすけ)で、のちに升(のぼる)と改めた。
島田 剛太郎(嶋田、しまだ ごうたろう / こうたろう、18… 島田 剛太郎(嶋田、しまだ ごうたろう / こうたろう、1867年10月12日(慶応3年9月15日)- 1945年(昭和20年)2月28日)は、日本の農商務・内務官僚。官選県知事。 越前国勝山藩士・島田静虎、つるの長男(4男3女)として生まれる。京都で旧制中学校の教育を受けて上京し、大学予備門を経て、1890年、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年7月15日、農商務省に入省し試補となり参事官室に配属された。 1902年、農商務省参事官に就任。以後、林務官、鉱山監督兼農商務省参事官、臨時葉煙草取扱所建築事務官、林野整理局書記官、林務官兼山林局書記官兼農商務書記官などを歴任し、1907年1月、京都府事務官・第一部長兼第三部長となる。
門野 重九郎(かどの じゅうくろう/ちょうきゅうろう、186… 門野 重九郎(かどの じゅうくろう/ちょうきゅうろう、1867年10月6日(慶応3年9月9日) - 1958年(昭和33年)4月24日)は、明治から昭和時代前期の実業家。実兄に千代田生命保険、日本徴兵保険創立者兼社長で勅撰貴族院議員の門野幾之進がいる。 志摩鳥羽藩の家老・門野亘理の二男として鳥羽(現三重県鳥羽市)に生まれる。1884年(明治17年)慶應義塾大学部理財学および法律学を修了後、1891年(明治24年)帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、アメリカのペンシルバニア鉄道に入る。4年間に渡る鉄道敷設工事に従事したのち退社し、欧米の工業事情を視察後、1896年(明治29年)帰朝した。山陽鉄道で新線工事長として勤務後、大倉喜八郎の知遇を得て、1897年(明治30年)大倉組に入り、ロンドン支店長を長く務めたのち1909年(明治42年)に大倉組副頭取、1914年(大正3年)大倉土木(現大成建設の前身)会長となり、1937年(昭和12年)まで在任した。
平山 信(ひらやま しん、1867年10月6日(慶応3年9月… 平山 信(ひらやま しん、1867年10月6日(慶応3年9月9日) - 1945年(昭和20年)6月2日)は、日本の天文学者。名前の「信」は「まこと」と読まれることもある。同姓の天文学者・平山清次(天体力学、古暦の研究及び小惑星の族の発見で有名)とともに、月の裏側にあるクレーター「ヒラヤマ」の名前の由来となっている。 幕臣平山詮の子として江戸(現・東京都)に生まれた。兄に海軍教授・海軍大学校教官の平山順。寺尾寿に師事した。1888年7月に東京帝国大学理科大学星学科(現・東京大学理学部天文学科)を卒業、蘆野敬三郎と共に同学科の第1回卒業生となった。1890年、グリニッジへ留学、その数か月後にはポツダムへと移り、ヘルマン・カール・フォーゲルの下で当時勃興しつつあった天体物理学を学んだ。