稲葉 通彦(いなば みちひこ、1899年(明治32年)8月2… 稲葉 通彦(いなば みちひこ、1899年(明治32年)8月20日 - 1970年(昭和45年)4月16日)は、日本の実業家。鉄道建設興業(現在の鉄建建設)元社長。 鉄道建設業協会(現在の日本建設業連合会)元会長。位階は正四位。勲四等旭日小綬章受章者。弾丸列車計画に主任技師として任命され、計画のまとめ役となった。 茨城県水戸市出身。茨城県士族、奈良女子高等師範学校名誉教授の稲葉彦六の長男として生まれる。旧制第八高等学校を経て、1923年(大正12年)東京帝国大学工学部土木工学科を卒業し、鉄道省に入省した。 1925年(大正14年)鉄道技師となり、1931年(昭和6年)12月から1933年(昭和8年)8月まで欧米に留学した。
井上 五郎 (いのうえ ごろう、1899年(明治32年)8月… 井上 五郎 (いのうえ ごろう、1899年(明治32年)8月16日 - 1981年(昭和56年)11月18日)は、日本の実業家。中部電力会長、中部経済連合会会長を務めた。 実業家・政治家の井上角五郎の五男として東京府東京市芝区[要出典](現・東京都港区[要出典])三田[要出典]に生まれる。慶應義塾幼稚舎(1912年(明治45年)卒業)を経て、1923年(大正12年)に東京帝国大学工学部を卒業し、東邦電力に入社する。 1951年(昭和26年)に中部電力設立とともに、初代社長に就任する。のち会長に就任する。 1957年(昭和32年)社長時代に推進した井川ダムは施工を担当した間組社長 神部満之助の提案により自身の名「五郎」を冠した「井川五郎ダム」と名付けられた。
山田 秀三(やまだ ひでぞう、1899年6月30日- 199… 山田 秀三(やまだ ひでぞう、1899年6月30日- 1992年7月28日)は、日本のアイヌ語地名研究家、官僚、実業家。
児玉 正雄(こだま まさお、1899年5月16日 - 199… 児玉 正雄(こだま まさお、1899年5月16日 - 1997年7月25日)は、日本の経営者。関西ペイント社長を務めた。山口県出身。 1923年に東京帝国大学工学部応用化学科を卒業し、後に関西ペイントに入社。1937年に取締役に就任し、1945年9月に顧問、1947年12月に再び取締役、1955年5月に常務、1964年5月に副社長を経て、1966年5月から1969年11月までに社長を務めた。1972年11月には名誉顧問に就任。 1964年9月に藍綬褒章を受章し、1969年11月に勲三等瑞宝章を受章した。 1997年7月25日心不全のために死去。98歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
井上 英煕(いのうえ ひでひろ、1899年5月15日 - 1… 井上 英煕(いのうえ ひでひろ、1899年5月15日 - 1979年6月3日)は、日本の実業家。経済同友会代表幹事、日本セメント会長。 香川県出身。1920年第六高等学校二部甲類卒業。1923年東京帝国大学機械学科卒業。同年浅野セメント入社。1949年日本セメントの社長に就任。1966年から会長、相談役を歴任した。セメントの第一人者として知られ、『セメント』などの専門書を著したほか、セメント協会でも要職を歴任した。一方で財界活動でも活躍。1958年、中山素平(日本興業銀行頭取)と組んで経済同友会代表幹事を務めた。同年に同友会は「経営者啓発についての所見」を発表した。1959年には岩佐凱實とコンビを組んで再び経済同友会代表幹事に就任。
高岡 忠弘(たかおか ただひろ、1899年(明治32年)4月… 高岡 忠弘(たかおか ただひろ、1899年(明治32年)4月20日 - 1972年(昭和47年)10月23日)は、昭和期の林業指導者、実業家、政治家。衆議院議員、新潟県中蒲原郡十全村長、同村松町長。 新潟県中蒲原郡十全村別所(村松町別所を経て現五泉市)で、高岡忠興の長男として生まれる。1922年(大正11年)家督を相続。1924年(大正13年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業。農業を営む。 新潟県森林組合連合会長、同林業団体連絡協議会長、新潟木工 (有)専務取締役、北日本航空工業取締役社長、北越木材工業取締役社長などを務めた。 政界では、十全村長、新潟県会議員、同参事会員、大政翼賛会新潟県支部参与、新潟県社会教育委員長などを務めた。
高木 幹夫(たかぎ みきお、1899年3月21日 - 196… 高木 幹夫(たかぎ みきお、1899年3月21日 - 1966年8月14日)は、日本の実業家。元東京海上火災保険社長。 高木磯太郎の長男として、福岡県筑紫郡大野村牛頸(現・大野城市牛頸)に生まれる。1917年、福岡県立中学修猷館、1920年、第一高等学校英法科を経て、1923年、東京帝国大学法学部英法科を卒業し、東京海上火災保険に入社する。なお、東京帝国大学在学中の1922年には、高等文官試験行政科に合格している。 1924年から5年間、海上保険研究のため英国に留学し、将来の最高幹部の基礎を作った。1939年、大阪支店長に抜擢され、その後海上営業部長となる。1944年の明治火災保険、三菱海上火災保険との合併後も、海上部長、総務部長、取締役と進み、1947年1月、常務取締役となり、1957年6月、社長に就任する。
小池 厚之助(こいけ こうのすけ、1899年(明治32年)3… 小池 厚之助(こいけ こうのすけ、1899年(明治32年)3月16日 - 1985年(昭和60年)1月2日)は、日本の実業家。元山一証券社長、元同社会長、元小池銀行頭取、元小池証券社長、元高千穂商科大学(現高千穂大学)理事長。 小池国三の子として1899年(明治32年)山梨県で生まれ、旧制高千穂中学校(第3回卒業)を経て東京帝国大学政治学科を卒業。1943年(昭和18年)9月、厚之助が社長を務めていた小池証券が山一証券に吸収合併。新体制となった山一証券では厚之助が社長となり、山一の社長だった木下茂が会長に就いた。厚之助は小田急電鉄株式会社監査役、東京商工会議所議員、国際商業会議所日本国内委員会財務委員、経済同友会幹事なども務めた。
谷村 敬介(たにむら けいすけ、1899年 <明治32年> … 谷村 敬介(たにむら けいすけ、1899年 <明治32年> 2月15日 - 1993年 <平成5年> 1月30日)は、日本の経営者。大東京火災海上保険社長、会長を務めた。位階は従五位。 富山県出身。1922年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に鴻池銀行に入行。1926年に鴻池信託を経て、1939年に大東京火災海上保険に転じ、1944年に取締役に就任し、1945年に常務、1956年に専務を経て、1957年には社長に就任。1962年6月に会長を経て、1966年には相談役に退いた。 1963年に藍綬褒章を受章し、1966年11月に勲四等旭日小綬章を受章。 1993年1月30日心不全のために死去。93歳没。
山谷 太郎(やまや たろう、1899年(明治32年)2月 -… 山谷 太郎(やまや たろう、1899年(明治32年)2月 - 1952年(昭和27年))は、日本の実業家、俳人。日新書院取締役。脚本家・演出家の倉本聰の父。俳号は春潮。 山谷徳治郎の長男として岡山県津山市に生まれる。第六高等学校及び東京帝国大学工学部応用化学科を卒業し、日清製粉に入社。その後、父が経営する日新医学社に入り、その経営に当たる傍ら月刊雑誌『科学ペン』を主宰した。のち日新医学社社長を経て、自ら日新書院を創業、同社社長ののち取締役。 終戦後、善福寺 (杉並区)にあった三百坪の自宅を進駐軍に接収され、事業も傾いた。晩年は借金に追われ、52歳の若さで没した。 趣味は俳句・鳥・気象・柔道、宗教はキリスト教。
朴 定根(パク・チョングン、朝鮮語: 박정근、1899年 -… 朴 定根(パク・チョングン、朝鮮語: 박정근、1899年 - 1980年1月26日)は、大韓民国の政治家、公務員、実業家。第2・3代韓国国会議員、第9代全羅北道知事。 在フランス韓国人歴史学者の朴炳善(朝鮮語版)は娘。 東京帝国大学(現・東京大学)農学部卒。1950年の第2代総選挙では全羅北道全州市の選挙区から国会議員に初当選し、1952年の釜山政治波動の時は逮捕された11名の議員の1人である。そのほか、1959年5月13日から1960年5月11日までに第9代全羅北道知事を務め、金剛電球社長、全州府邑長、国会農林分科委員長、自由党全州市党委員長などを歴任した。 1980年1月26日にソウル市龍山区の公務員アパートにある自宅で死去。
中野 敏雄(なかの としお、1898年(明治31年)11月2… 中野 敏雄(なかの としお、1898年(明治31年)11月22日 - 1999年(平成11年)11月1日)は、昭和期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、初代佐賀県武雄市長。 佐賀県杵島郡武雄町(現武雄市武雄町)で、温泉旅館・春慶屋経営、中野祐市、いち夫妻の長男として生まれる。1916年(大正5年)慶應義塾大学部理財科に入学したが、志望校ではなかったため両親に内緒で旧制高等学校を受験して合格し、親の許しを受けて1918年(大正7年)4月、第七高等学校造士館に入学。1921年(大正10年)3月、七高を卒業し、同年4月、東京帝国大学文学部社会学科に入学。1925年(大正14年)同大文学部を卒業したが、不況の最中での卒業であったため、じっくり学問に取り組もうと同年4月、同大法学部政治学科に入学し、1928年(昭和3年)3月に卒業した。
堀 武芳(ほり たけよし、1898年11月10日 - 196… 堀 武芳(ほり たけよし、1898年11月10日 - 1968年10月15日)は、日本の経営者、銀行家。日本勧業銀行頭取を務めた。和歌山県出身。 1923年に東京帝国大学独法科を卒業し、同年に日本勧業銀行に入行。1946年に理事に就任し、1950年1月には頭取に就任した。1961年から1962年12月に会長を務めた。1964年には日本銀行政策委員に就任し、全国銀行協会連合会会長も務めた。 1968年10月15日脳血栓のために死去。69歳没。
細川 政之助(ほそかわ まさのすけ、1898年(明治31年)… 細川 政之助(ほそかわ まさのすけ、1898年(明治31年)10月15日 - 1990年(平成2年)4月18日)は、日本の商工官僚、実業家、弁理士。細川特許事務所長。 富山県人・細川次郎左衛門の二男。1924年、東京帝国大学法学部政治科を卒業。商工省に入る。特許局事務官、鉱山監督局書記官等を経て、大阪鉱山監督局長、技術院審判部長等を歴任。 退官後日本金属常務専務を経て1947年、日本歯科機材社長に就任。趣味はゴルフ、旅行。宗教は仏教。東京在籍で、住所は東京大田区田園調布、同区北千束。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
河村 良介(かわむら りょうすけ、1898年10月7日 - … 河村 良介(かわむら りょうすけ、1898年10月7日 - 1993年7月29日)は、日本の経営者。日本クレジットビューロー(のちのJCB)社長を務めた。山口県出身。 1922年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に山口銀行(のちの三和銀行)に入行。1945年9月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1957年5月に監査役に就任。1961年1月に日本クレジットビューロー(のちのJCB)社長に就任し、1970年に会長を経て、後に相談役を務めた。 1958年(昭和38年)11月10日、「世界貝類展」が開催されていた国立科学博物館に昭和天皇が行幸。河村は貝類標本収集家としての一面もあり、説明員の一人として加わった。
佐藤 晴雄(さとう はるお、1898年9月26日 - 198… 佐藤 晴雄(さとう はるお、1898年9月26日 - 1986年12月2日)は、日本の実業家。 山梨県出身。1924年に東京帝国大学政治科を卒業し、同年に満鉄に入社し、東京支社長などを歴任し、1945年までに勤務した。 1964年5月から京浜急行電鉄社長に就任し、1969年11月から会長に就任した。社長在任中は都営地下鉄浅草線との相互乗り入れなど鉄道の輸送力増強に力を入れ、湘南モノレールの開業にも携わった。 1967年から1969年までに日本民営鉄道協会副会長を務め、満鉄会理事長や日本経済団体連合会理事やホテルパシフィック東京社長・会長、日本ホテル協会理事なども務めた。 1974年に勲二等瑞宝章を受章した。
渡辺 忠雄(わたなべ ただお、1898年(明治31年)9月3… 渡辺 忠雄(わたなべ ただお、1898年(明治31年)9月3日 - 2005年(平成17年)4月3日)は、日本の銀行家、実業家。三和銀行元頭取、会長で「三和銀行の中興の祖」と呼ばれる。北海道出身。日本聖公会の信徒。 1924年に東京帝国大学法学部を卒業し、日本銀行に入行。資金調整局審査課長、静岡支店長、文書局長などを歴任した。 1945年には三和銀行に転職し、1947年2月には頭取に就任した。「ピープルズ・バンク」路線をモットーに、金融業界でいち早くコンピュータを導入し、クレジットカード会社のJCBとリース会社のオリックスの創設に携わるなどして、銀行の大衆化を進め、三和銀行を全国有数の都市銀行に育て上げた。
橋本 昂蔵(昻蔵、はしもと こうぞう、1898年(明治21年… 橋本 昂蔵(昻蔵、はしもと こうぞう、1898年(明治21年)4月10日 - 1970年(昭和45年)3月29日)は、日本の大蔵官僚、陸軍司政官、実業家。 鳥取県出身。第一高等学校、東京帝国大学法学部政治学科卒業。1921年(大正10年)11月、高等試験行政科に合格し、1922年、大蔵省に入省(主計局属)。戦時中にはシンガポールへの赴任や南方軍、昭南軍で部長職なども務めた。戦後、公職追放された。退官後は理研鍛造会社で社長や会長などを務めた。墓所は多磨霊園。
白川 一雄(しらかわ かずお、1898年(明治31年)3月2… 白川 一雄(しらかわ かずお、1898年(明治31年)3月25日 - 1957年(昭和32年)5月14日)は、大正末から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。 香川県、のちの丸亀市で、白川友一の二男として生まれる。第四高等学校を経て、1924年(大正13年)東京帝国大学法学部法律学科を卒業した。 父の事業に携わり白川保善社専務取締役を経て、1930年(昭和5)同社長に就任。1931年(昭和6年)12月、名古屋市の三引陶器(株)の経営再建に携わり業績を回復し、1932年(昭和7年)12月、社名を白川製陶に改称して社長に就任。日本興業銀行からの要請で、合板発明家の浅野吉次郎が創業した名古屋合板(株)の経営を1932年(昭和7年)7月から引き継ぎ社長に就任した。
白石 古京(しらいし こきょう、1898年(明治31年)3月… 白石 古京(しらいし こきょう、1898年(明治31年)3月18日 - 1991年(平成3年)1月17日)は、日本の実業家。京都新聞社元社長。京都放送元社長。位階は従三位。1946年に社長就任後から始まり、死後は白石一族が京都新聞の経営者に関与・支配している。 奈良県五條市出身。白石村治の三男。1922年に東京帝国大学経済学部卒業。翌年に京都新聞社の前身である京都日日新聞社に入社した。 1946年3月から1981年までに社長を務め、京都新聞を日本を代表する地方紙に育て上げた。京都新聞の「実力社主」として権勢をふるう。 その一方で、共同通信社理事会副会長、京都放送社長、日本国際連合協会京都本部長、京都商工会議所副会頭、京都市観光協会会長、国際新聞編集者協会理事、日本観光協会副会長などを歴任した。
栗林 友二(くりばやし ともじ、1898年1月3日 - 19… 栗林 友二(くりばやし ともじ、1898年1月3日 - 1977年8月8日)は、日本の実業家・篤志家・馬主。 実業家・政治家の栗林五朔の息子として北海道に生まれる。札幌中学を経て東京帝国大学農学部獣医学科を卒業後、イギリス・ケンブリッジ大学に留学。帰国後は父が興した栗林商船に入社し、後に会長を務めた。本業の傍らで競走馬の馬主としても著名であり「ミスター・ケイバ」と呼ばれ、全日本馬主協会連合会(現・日本馬主協会連合会)会長などを歴任した(後述)。1977年8月8日、肺炎により79歳で死去。 兄は栗林商船や栗林商会社長、政治家などを務めた栗林徳一。弟には南方林業の社長を務めた栗林定四朗がいる。長男・定友は栗林商船、三男・英雄は栗林運輸の社長を務めた。
金子 武麿(かねこ たけまろ、1897年〈明治30年〉12月… 金子 武麿(かねこ たけまろ、1897年〈明治30年〉12月22日 - 1959年〈昭和34年〉1月14日)は、日本の実業家、政治家、華族。貴族院伯爵議員。位階は従四位。勲等は勲六等。 官僚・政治家、金子堅太郎の二男として生まれる。父の死去に伴い1942年(昭和17年)6月1日、伯爵を襲爵した。 1922年(大正11年)、東京帝国大学文学部を卒業。1923年(大正12年)内閣属となる。以後、加藤友三郎内閣・第2次山本内閣・清浦内閣の内閣総理大臣秘書官、田中義一内閣内閣総理大臣秘書官兼外務大臣秘書官、齋藤内閣・中島久万吉商工大臣秘書官、大礼使事務官などを歴任。 実業界では、電気化学工業取締役、台湾電化取締役、日本塗紙工業取締役、東北振興化学監査役、カーバイト共販監査役、東京都商工経済会評議員、日本硫硝酸統制社長などを務めた。
遠藤 常久(えんどう つねひさ、1897年(明治30年)12… 遠藤 常久(えんどう つねひさ、1897年(明治30年)12月15日 - 1989年(平成元年)12月)は、日本の実業家。作家・遠藤周作の父。フジテレビジョン代表取締役社長を務めた遠藤龍之介の祖父。 鳥取市出身。愛媛県温泉郡北吉井村出身の弁護士・和泉漱三の三男として生まれ、東伯郡浅津村下浅津(現・湯梨浜町下浅津)の医師・遠藤河津三の養子となる。遠藤家は鳥取藩の典医を務めた家系で、河津三には後嗣がいなかったため、常久を迎えた。 東京帝国大学法学部(独法科)に進学。在学中の1920年に郁と知り合い、翌1921年に結婚。同年に長男の正介、その2年後に次男の周作が誕生した。 卒業後は第三銀行に就職。第三銀行は1923年に安田銀行に統合されている。
鳥居 忠博(とりい ただひろ、1897年(明治30年)11月… 鳥居 忠博(とりい ただひろ、1897年(明治30年)11月28日 - 1976年(昭和51年)3月25日)は、大正から昭和期の実業家・政治家・華族。貴族院子爵議員。 旧壬生藩主、子爵・鳥居忠文の五男として生まれ、長兄鳥居忠一が京王線に衝突した自動車事故で死去したことで、1939年(昭和14年)2月15日、子爵を襲爵した。 学習院を経て、1923年(大正12年)東京帝国大学経済学部を卒業。三井物産に入社。三洞運輸監査役などを務めた。 1946年(昭和21年)8月22日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に属して活動し1947年5月2日の貴族院廃止まで在任した。
藤村 謙二(ふじむら けんじ、1897年11月1日 - 19… 藤村 謙二(ふじむら けんじ、1897年11月1日 - 1991年3月31日)は、日本の経営者。東京建物社長を務めた。岡山県出身。 1924年に東京帝国大学経済学部商業学科を卒業し、同年に安田銀行に入行。1945年に東京建物に転じ、常務、専務を経て、1948年に社長に就任し、1957年8月には相談役に退いた。 1991年3月31日老衰のために死去。95歳没。
後藤 猛(ごとう たけし、1897年9月20日 - 1982… 後藤 猛(ごとう たけし、1897年9月20日 - 1982年1月19日)は、日本の経営者。近畿車輛社長を務めた。 茨城県出身。1922年に東京帝国大学機械科を卒業し、同年に鉄道省に入省。 1949年5月に関東特殊製鋼常務に就任し、同年6月に近畿車輛専務を経て、1959年11月には社長に就任。1970年6月には相談役に就任した。 1967年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1982年1月19日、心不全のために死去。84歳没。
伊東 郁二(いとう いくじ、1897年(明治28年)8月 –… 伊東 郁二(いとう いくじ、1897年(明治28年)8月 – 没年不明)は、日本の実業家、醸造家。伊東合資会社代表。半田商工会議所会頭。愛知県多額納税者であった。 岐阜県出身。矢橋徳次郎の次男として生まれ、1920年(大正9年)、先代早苗の入夫となり家督を相続する。 1919年(大正8年)に東京帝国大学工学部工科大学機械科を卒業後、酒造業を営み伊東合資会社代表となり、直接国税五千三百三十一円を納め多額納税者となる。 また半田商工会議所会頭、赤坂銀行監査役、衣浦銀行取締役を務めた。
広部 賢二(廣部 賢二、ひろべ けんじ、1897年〈明治30… 広部 賢二(廣部 賢二、ひろべ けんじ、1897年〈明治30年〉8月 - 1985年〈昭和60年〉7月24日)は、日本の会社役員。千代田火災海上(後のあいおい損害保険)専務。 東京出身。広部銀行頭取広部清兵衛の二男。広部鉱業社長広部清一郎の弟。1923年、東京帝国大学経済学部商業学科を卒業。広部合名会社代表社員、広部銀行千駄ヶ谷支店長などをつとめる。千代田火災保険に入り取締役、常務、専務などをつとめる。 東京土地の大株主であった。趣味はスポーツ、運動。宗教は真宗。東京在籍で、住所は東京都大田区馬込町西。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
小田切 武林(おだぎり たけしげ、1897年7月28日 - … 小田切 武林(おだぎり たけしげ、1897年7月28日 - 1965年2月26日)は、日本の経営者。東京都出身。 1922年に東京帝国大学法学部英法科を卒業。日本銀行での勤務を経て、1947年には日本貯蓄銀行(のちの協和銀行)頭取に就任した。1962年には会長に就任。 1958年に藍綬褒章を受章。 1965年2月26日胃癌のために死去。67歳没。
長岡 正男(ながおか まさお、1897年7月7日 - 197… 長岡 正男(ながおか まさお、1897年7月7日 - 1974年11月20日)は、日本の技術者で実業家。第6代日本光学工業(現ニコン)社長。
高橋 冏(たかはし あきら、1897年〈明治30年〉7月7日… 高橋 冏(たかはし あきら、1897年〈明治30年〉7月7日 - 1978年〈昭和53年〉10月18日)は、日本の経営者。東京都出身。 1923年に東京帝国大学経済学部商業科を卒業し、東邦電球取締役を経て、1929年に日本生命保険に入社。1945年に取締役を経て、1948年にオリンパス光学工業常任監査役に就任し、常務、1951年に副社長を経て、1953年6月に社長に就任し、1961年12月までに務めた。 1963年に藍綬褒章を受章し、1967年に勲三等旭日中綬章を受章。 1978年10月18日脳血栓のために死去。81歳没。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
藤山 愛一郎(ふじやま あいいちろう、1897年〈明治30年… 藤山 愛一郎(ふじやま あいいちろう、1897年〈明治30年〉5月22日 - 1985年〈昭和60年〉2月22日)は、日本の政治家、実業家。 外務大臣、経済企画庁長官、衆議院議員(6期)、日本商工会議所会頭、経済同友会代表幹事、初代日本航空会長、自民党総務会長などを歴任した。 藤山コンツェルン二代目。位階は従二位。勲等は勲一等。 東京王子に王子製紙専務取締役藤山雷太(佐賀県士族)の長男として生まれる。慶應幼稚舎時代、当時の官公立崇拝の強い風潮の中、父が福澤諭吉門下直系であるにも拘わらず第一高等学校(現東京大学教養学部)合格者数第一位を誇った府立一中(現東京都立日比谷高等学校)を受験するも失敗、慶應義塾普通部に進学した。
永田 年(ながた すすむ、1897年(明治30年)4月5日 … 永田 年(ながた すすむ、1897年(明治30年)4月5日 - 1981年(昭和56年)12月31日)は、昭和時代の土木工学者、台湾総督府官僚、内務官僚、実業家。 福岡県出身。1922年(大正11年)東京帝国大学工学部土木工学科卒業。台湾総督府、内務省土木局、満州国交通部を経て、電力界へ転じ東北振興電力および日本発送電にて勤務する。1951年(昭和26年)北海道電力副社長、1952年(昭和27年)電源開発理事を経て、1953年(昭和28年)佐久間発電所建設所長を兼務する。ついで、1957年(昭和32年)土木部長、1960年(昭和35年)電源開発顧問を経て、東京電力技術最高顧問に就任した。 ほか、国際大ダム会議副総裁、日本大ダム会議会長、日本ACI会長などの要職を歴任した。
中山 正則(なかやま まさのり、1897年3月28日 - 1… 中山 正則(なかやま まさのり、1897年3月28日 - 1971年11月9日)は、日本の経営者。埼玉県出身。 1921年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業。1926年に石川島造船所に転じ、1943年に常務に就任し、1947年に顧問を経て、1956年5月から1964年4月までに澁澤倉庫社長を務めた。 1971年11月9日閉塞性黄疸のために死去。74歳没。
若槻 有格(わかつき ありのり、明治30年(1897年)3月… 若槻 有格(わかつき ありのり、明治30年(1897年)3月13日 - 昭和46年(1971年)8月19日)は、日本の実業家、元日本銀行証券局長。 第25代および第28代内閣総理大臣若槻禮次郎と若槻徳子の長男。 東京市小石川区(現在の文京区)に生まれる。大正10年(1921年)に東京帝国大学経済学部卒業、日本銀行入行。検査役、静岡支店長、松江支店長、証券局長等を歴任する。昭和20年(1945年)に利久醗酵工業会長、昭和22年(1947年)に同常任監査役となったが、同社が協和醗酵工業との合併を機会に辞任し、セロハン販売興進社社長となる。昭和46年(1971年)没。 趣味は文学。宗教は真宗。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
森田 恵三郎(もりた けいざぶろう、1897年2月28日 -… 森田 恵三郎(もりた けいざぶろう、1897年2月28日 - 1972年5月21日)は、日本の経営者。日鉄鉱業社長を務めた。 群馬県出身。1919年に高文行政科に合格し、1920年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に三井物産に入社。1923年に八幡製鉄所、1934年に日本製鉄を経て、1946年6月に日鉄鉱業社長に就任し、1963年11月には会長に退いた。 1972年5月21日、心衰弱のために死去。75歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
大神 一(おおがみ はじめ、1897年2月15日 - 197… 大神 一(おおがみ はじめ、1897年2月15日 - 1970年10月12日)は、日本の経営者。 長崎県長崎市出身。1921年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に山一合資(のちの山一證券)に入社。1935年に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1954年11月に社長に就任。1964年から1965年までに会長を務めた。 1963年に藍綬褒章を受章。 1970年10月12日慢性腎炎と腸狭窄で死去。73歳没。
安藤 豊禄(あんどう とよろく、1897年1月18日 - 1… 安藤 豊禄(あんどう とよろく、1897年1月18日 - 1990年2月26日)は、日本の経営者。小野田セメント社長を務めた。大分県出身。 1921年に東京帝国大学工学部応用化学科を卒業し、同年に小野田セメントに入社した。1944年に取締役に就任し、1947年に専務を経て、1948年から社長に就任。1966年に取締役相談役を経て、1975年に相談役に就任した。 1990年2月26日心不全のために死去。93歳没。
石坂 禄郎(いしざか ろくろう、1897年1月7日 - 19… 石坂 禄郎(いしざか ろくろう、1897年1月7日 - 1989年2月19日)は日本の実業家、銀行家。 元経団連会長石坂泰三の弟。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
大塚 万丈(萬丈、おおつか ばんじょう、1896年11月24… 大塚 万丈(萬丈、おおつか ばんじょう、1896年11月24日 - 1950年3月8日)は、日本の実業家。元経済同友会代表幹事。発足直後の経済同友会において、「企業民主化試案」を取りまとめた。 愛媛県出身。旧制第一高等学校、東京帝国大学法学部で岸信介元首相と同期であった。学生時代は剣道の達人として鳴らす。1920年卒業後、朝鮮銀行(現在のあおぞら銀行の前身行)に入行。1925年に、設立後間もない大阪野村銀行(現在のりそな銀行の前身行)に移る。銀座支店長、丸の内支店長などを歴任。 大阪野村銀行時代、理化学研究所所長の大河内正敏が、各種の発明を自主的に工業化する方針を打ち出すと、大塚はその意義を認め、積極的に融資を行った。
河野 文彦(こうの ふみひこ、1896年(明治29年)11月… 河野 文彦(こうの ふみひこ、1896年(明治29年)11月22日 - 1982年(昭和57年)8月11日)は、日本の航空技術者、実業家。三菱重工業社長。栃木県大田原市生まれ。次女は岩倉具忠の夫人。 1921年、東京帝国大学工学部機械科を卒業し、三菱内燃機製造に入社する。 三菱内燃機製造では機体設計を担当した。 1937年、陸軍九七式司令部偵察機の主任設計技師を務める(同機の試作機の1機は朝日新聞社に払い下げられ、ロンドンへの飛行を実施した「神風号」として著名になった)。このほか、海軍の九六式艦上戦闘機や零式艦上戦闘機などの軍用機の設計に関与した。 三菱重工第一製作所、川崎機器製作所各所長を経て、1950年に三菱日本重工取締役となる(同年、三菱重工業は財閥解体により3社に分割)。
川田 栄三(榮三、かわた えいぞう、1896年 <明治29年… 川田 栄三(榮三、かわた えいぞう、1896年 <明治29年> 11月17日 - 1985年 <昭和60年> 6月14日)は、日本の経営者、銀行家。位階は従五位。 群馬県出身。1923年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に安田銀行に入行。 1943年に肥後銀行に転じ、取締役に就任し、1945年に常務を経て、1946年に頭取に就任。1971年11月に会長を経て、1976年12月には常任顧問に就任。 1958年に黄綬褒章を受章し、1967年4月に勲四等旭日小綬章を受章。 1985年6月14日心筋梗塞のために死去。88歳没。死没日付をもって従五位に叙された。
岩崎 隆弥(いわさき たかや、1896年11月2日 - 19… 岩崎 隆弥(いわさき たかや、1896年11月2日 - 1983年6月2日)は、日本の実業家。三菱財閥のオーナー・岩崎家の一員で、三菱合資会社社長を務めた岩崎久弥の次男。 東京府(現:東京都)出身。 1909年に東京高等師範学校附属小学校(現:筑波大学附属小学校)、1915年に東京高等師範学校附属中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。1921年に東京帝国大学工学部を卒業。1922年英国グラスゴー大学に留学。 1926年の帰国後三菱製紙に入社。1943年三菱瓦斯(現在の三菱瓦斯化学とは別会社)の会長、1944年三菱製紙の会長に就任。 太平洋戦争後の1947年、財閥解体政策により、父久弥、兄彦弥太、弟恒弥と共に財閥家族に指定され、三菱傘下企業の全役職を辞任。
山内 直元(やまうち なおもと、1896年(明治29年)10… 山内 直元(やまうち なおもと、1896年(明治29年)10月18日 - 1970年(昭和45年)3月9日)は、日本の実業家。住友銀行常務取締役、日本教育テレビ(NET、現:テレビ朝日)社長を務めた。 愛知県尾西市出身。1920年(大正9年)東京帝国大学法学部を卒業後、住友銀行に入行。 ニューヨーク支店長、常務・東京支店長を経て、1947年(昭和22年)2月から統括常務に就任し、事実上のトップとなるが、8月に公職追放となる。1958年(昭和33年)5月に復帰し監査役を務める。 NETにおける大川・赤尾紛争のあと、社長から退陣した大川博に代わる体制を、旺文社、東映、日本経済新聞社、そして首尾よく経営の一角に食い込むことになった朝日新聞社の四社で協議をしたがまとまらなかった。
大西 定彦(おおにし さだひこ、1896年9月13日 - 1… 大西 定彦(おおにし さだひこ、1896年9月13日 - 1969年4月27日)は日本の電気技術者、実業家。日立製作所副社長を務めたほか、電気学会第47代会長、日本オペレーションズ・リサーチ学会第2代会長などを歴任した。 1896年(明治29年)9月13日、当時東京専門学校の教員であった哲学者大西祝の長男として東京府で生まれた。岡山で小中学校に通い、同期に岸信介がいた。1918年(大正7年)第六高等学校二部甲を卒業し、東京帝国大学工科大学電気工学科へ進学した。1921年(大正10年)に同大学を卒業し、日立製作所に入社。 日立製作所副社長を務めた高尾直三郎の海外渡航に随行するなど、経営を学んだ。日立での工場勤務のかたわら、1931年(昭和6年)7月には東北帝国大学工学部講師に任じられた。
渋沢 敬三(しぶさわ けいぞう、正字体:澁澤 敬三、1896… 渋沢 敬三(しぶさわ けいぞう、正字体:澁澤 敬三、1896年〈明治29年〉8月25日 - 1963年〈昭和38年〉10月25日)は、日本の実業家、財界人、民俗学者、政治家。第16代日本銀行総裁、第49代大蔵大臣(幣原内閣)。祖父・渋沢栄一から渋沢子爵家当主及び子爵位を引き継いだ。 1896年(明治29年)8月25日、渋沢栄一の長男・篤二と妻・敦子の長男として生まれる(敬三の下に弟が2人がいる)。「敬三」は論語の一節「言忠信にして行篤敬ならば蛮貊()の邦といえども行われん」(衛霊公第十五)より栄一が命名した。敦子の父(母方の祖父)は羽林家の公卿出身の元老院議官を務めた伯爵橋本実梁。 東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。
栗木 幹(くりき かん、1896年 <明治29年> 7月26… 栗木 幹(くりき かん、1896年 <明治29年> 7月26日 - 1981年 <昭和56年> 12月28日)は、日本の経営者。三井鉱山社長を務めた。位階は正四位。 愛知県出身。1921年に東京帝国大学工学部採掘学科を卒業し、同年に三井鉱山に入社。1947年に取締役に就任し、1949年に常務を経て、1954年5月に副社長に就任し、同年11月には社長に昇格し、1964年5月までに務めた。1968年1月に三井アルミニウム社長に就任し、1971年5月に会長を経て、1976年には相談役に退いた。 1971年に勲二等旭日重光章を受章。 1981年12月28日心不全のために死去。85歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
古川 尚彦(ふるかわ なおひこ、1896年 <明治29年> … 古川 尚彦(ふるかわ なおひこ、1896年 <明治29年> 7月21日 - 1974年 <昭和49年> 9月15日)は、日本の経営者。栃木県出身。位階は従四位。 1923年に東京帝国大学経済学部を卒業し、三菱銀行に入行した。 取締役、常務を経て、1956年11月に三菱レイヨン副社長に就任し、1959年11月には社長に昇格。1967年5月から同年11月までに会長を務めた。 1967年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1974年9月15日老衰により死去。78歳没。死没日付をもって従四位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
加藤 於兎丸(かとう おとまる、1896年(明治29年)7月… 加藤 於兎丸(かとう おとまる、1896年(明治29年)7月19日 - 1983年(昭和58年)8月11日)は、日本の内務・厚生官僚、実業家。官選県知事。 岐阜県益田郡下原村(現下呂市)出身。下原郷16ヶ村兼帯名主10代加藤三郎右衛門雅文の甥である加藤市兵衛の五男として生まれる。万延元年遣米使節随行員の加藤素毛と父の市兵衛とは従兄にあたる。 第一高等学校を卒業。1920年11月、高等試験行政科試験に合格。1921年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し衛生局属となる。 以後、山口県・栃木県・大阪府・京都府・岡山県で勤務、内務省地方局地方債課長、同行政課長、同大臣官房会計課長などを歴任。
渡辺 斌衡(わたなべ としひで、1896年7月13日 - 1… 渡辺 斌衡(わたなべ としひで、1896年7月13日 - 1966年4月10日)は、日本の経営者。日本電気社長を務めた。 東京府北多摩郡三鷹町出身。1922年に東京帝国大学経済学科を卒業し、同年に住友合資に入社。1942年5月に日本電気に転じ、1944年11月に取締役、1945年11月に常務を経て、1947年6月には社長に就任。1964年11月には会長に就任。経済団体連合会、日本経営者団体連盟各理事も務めた。 1961年に藍綬褒章を受章。 1966年4月10日、心筋梗塞のために死去。69歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。