佐藤 信吉(さとう しんきち、1911年 - 2004年)は… 佐藤 信吉(さとう しんきち、1911年 - 2004年)は、日本の経営学者。横浜国立大学名誉教授。日本経営数学会名誉会長。 神奈川県出身。1935年東京商科大学(現一橋大学)学部卒業。1942年山口高等商業学校教授。1950年横浜国立大学経済学部助教授。 1951年久武雅夫らと商業数学研究会(のちの日本経営数学会)を設立。1952年横浜国立大学経済学部教授、企業会計審議会臨時委員。1958年論文「単利計算の数理的研究」で名古屋大学より経済学博士の学位を取得。 1963年に横浜国立大学経済学部が経済学科と経営学科の2学科制になると、経営学科の教授に就任。1967年に経営学部が新設されると同教授に就任。
武野 義治(たけの よしはる、1911年 - 1989年)は… 武野 義治(たけの よしはる、1911年 - 1989年)は、日本の外交官。初代駐イスラエル特命全権大使、駐ブルガリア特命全権大使、アジア・太平洋国会議員連合事務総長。 東京府(現・東京都)出身。1936年東京商科大学(現一橋大学)卒業、外務省入省。大学在学中は同期の大平正芳(のちに内閣総理大臣)や小島太作(のちに駐インド特命全権大使)、吉永榮助(のちに一橋大学名誉教授)、富樫総一(のちに労働事務次官)らと、憲法の田上穣治講師や国際法の大平善梧教授が中心となっていた研究会で勉強し、高等試験外交科に合格した。 1949年外務省特別資料部第一課長。同年外務省管理局引揚渡航課長。1950年外務省管理局引揚課長。
菊池 信(きくち しん、1911年(明治44年) - 198… 菊池 信(きくち しん、1911年(明治44年) - 1981年(昭和56年)1月4日)は、日本のホッケー選手。1936年ベルリンオリンピックに日本代表として出場した。 1924年に旧制盛岡中学校に入学。在学中はフットボールに親しんだ。 1929年に中学を卒業し、東京商科大学予科(現・一橋大学)に進学。大学在学中にフィールドホッケーに転向し、全日本選手権で連覇を達成するなど頭角を現した。得点の6割を占めるポイントゲッターとしてチームを牽引した。 1936年に開催された1936年ベルリンオリンピックに日本代表として出場。グランドホッケー競技で予選リーグを戦い、2勝1敗の成績を収めたが、決勝トーナメント進出はならなかった。
末松 玄六(すえまつ げんろく、1910年12月25日 - … 末松 玄六(すえまつ げんろく、1910年12月25日 - 1993年8月30日)は、日本の経営学者。専門は中小企業適正規模論。名古屋大学名誉教授。日経・経済図書文化賞受賞、日本中小企業学会初代副会長。 その学術論ゆえに、信用金庫整理において小原鐵五郎に敗北したことでも有名。 岐阜県出身。東京商科大学(現一橋大学)卒。上田貞次郎門下。1961年「中小企業の成長に関する経営経済学的研究」で名古屋大学より経済学博士の学位を取得。彦根高等商業学校教諭、山口高等商業学校助教授、名古屋経済専門学校教授、名古屋大学経済学部助教授、教授、1974年定年退官し名誉教授となり、愛知大学法経学部教授を務めた。1980年から1986年まで山中篤太郎初代会長等の下で日本中小企業学会初代副会長。
天利長三(あまり ちょうぞう、1910年(明治43年)10月… 天利長三(あまり ちょうぞう、1910年(明治43年)10月9日 - 2000年(平成12年)7月10日)は、日本の経済学者。専門は金融論。 滋賀県長浜市出身。1936年東京商科大学卒、1961年「貨幣経済と実物経済」で一橋大学より経済学博士の学位を取得。彦根高等商業学校教授、東京商科大学経済研究所参事、小樽商科大学教授、東京女子大学教授、東京都立大学教授、青山学院大学経済学部教授を務め、1980年定年、名誉教授となり、東海大学教授を務めた。
中倉 清(なかくら きよし、1910年〈明治43年〉9月24… 中倉 清(なかくら きよし、1910年〈明治43年〉9月24日 - 2000年〈平成12年〉2月9日)は、日本の剣道家。段位は剣道範士九段、居合道範士九段(全日本剣道連盟)。流派は神道無念流剣術、夢想神伝流居合。職業は警察官(宮内省皇宮警察、鹿児島県警察)。 鹿児島県出身。大道館武道専修学校を第一期生として卒業後、上京して中山博道の道場・有信館に入門する。剣道の公式戦で69連勝を打ち立て、「昭和の武蔵」、「戦うに敵なし」と謳われた。第二次大戦後は全日本東西対抗剣道大会で9人を勝ち抜く記録を打ち立て、「東西対抗の鬼」の異名をとった。 関東管区警察学校教授、一橋大学、中央大学、防衛医科大学校剣道部師範、鹿児島県剣道連盟理事長、全日本剣道連盟審議員などを歴任した。
佐野 嘉吉(さの かきち、1910年(明治43年)8月30日… 佐野 嘉吉(さの かきち、1910年(明治43年)8月30日 - 1993年(平成5年)3月7日)は、日本の元政治家。元自由民主党衆議院議員(3期)。
島田 賢一(しまだ けんいち、1910年5月24日 - 19… 島田 賢一(しまだ けんいち、1910年5月24日 - 1978年2月20日)は、日本の実業家。チッソ代表取締役社長として、水俣病患者との交渉にあたった。 和歌山県田辺市出身。1934年、東京商科大学(現・一橋大学)卒業。同年、日本窒素肥料(現・チッソ)入社。1949年、日本窒素肥料水俣工場総務部長。同年、日本窒素肥料営業部長。1950年、新日本窒素肥料営業部長。1952年、第二営業部長。1955年、繊維部長。1956年、ミナロン営業部長。1959年、取締役。1963年、常務取締役。1967年11月、副社長。 1971年5月26日に開かれた株主総会は一株運動との対決で大きな騒動となり、チッソは世論の厳しい批判を浴びた。
国弘 員人(くにひろ かずひと、1910年5月20日 - 2… 国弘 員人(くにひろ かずひと、1910年5月20日 - 2002年以前)は、日本の経営学者。 山口県柳井市生まれ。1934年東京商科大学卒業。増地庸治郎の指導を受けた。1940年東京外国語学校教授、1952年旧・東京都立大学教授、1961年東北大学経済学部教授、1961年「収支分岐点」で東北大学経済学博士。1974年定年退官、名誉教授、専修大学教授。81年退職。
小田部 謙一(おたべ けんいち、1910年3月19日 - 2… 小田部 謙一(おたべ けんいち、1910年3月19日 - 2008年3月17日)は、日本の外交官。駐ベルギー特命全権大使、欧州共同体(EC)政府代表部特命全権大使。 東京出身。1929年東京商科大学(現一橋大学)予科修了。1934年同大学学部卒業、外務省入省、調査部。1945年終戦連絡中央事務局総裁官房翻訳課長。1949年通商産業省輪出局雜貨課長。1951年外務省連絡局長心得。同年外務省経済局次長。1954年外務省経済局長心得。在アメリカ合衆国日本国大使館参事官を経て、1959年外務省経済局経済協力部長事務取扱。同年外務省アジア局賠償部長。1962年外務省大臣官房審議官。同年駐ビルマ特命全権大使。
戸崎 誠喜(とざき せいき、1910年(明治43年)3月18… 戸崎 誠喜(とざき せいき、1910年(明治43年)3月18日 - 2006年(平成18年)7月3日)は、日本の実業家、伊藤忠商事社長・会長を歴任。 1910年(明治43年)熊本市新町に末吉の長男として生まれる。1934年(昭和9年)東京商科大学(現 一橋大学)卒、伊藤忠商事へ入社。繊維製品担当として大阪船場で活動。1939年(昭和14年)オーストラリア駐在。1941年(昭和16年)8月帰国。1945年(昭和20年)ハノイ支店長代理。1947年(昭和22年)福岡支店。1948年(昭和23年)8月東京支店繊維課長、穀物部長代理、東京支店長代理。1952年(昭和27年)米国ポートランド駐在。 1954年(昭和29年)伊藤忠アメリカ社長兼ニューヨーク事務所長。
小平 久雄(こだいら ひさお、1910年2月22日 - 19… 小平 久雄(こだいら ひさお、1910年2月22日 - 1998年8月12日)は、日本の政治家。位階は正三位。総理府総務長官・労働大臣・衆議院副議長。栃木県小山市名誉市民(1982年)。 栃木県下都賀郡石橋町(現下野市)に、初の公選栃木県知事を務めた小平重吉の長男として生まれる。1927年、旧制栃木県立栃木中学校を卒業。1934年、東京商科大学(のち一橋大学)を卒業後、三井鉱山勤務を経て、1939年に家業である「小平重工業」(のち小平産業)の常務取締役に就任。ほかグループ企業各社の役員を務める。 1947年、第23回衆議院議員総選挙に民主党から旧栃木2区にて立候補し当選(当選同期に田中角栄・鈴木善幸・中曽根康弘・増田甲子七・中山マサ・倉石忠雄・荒木万寿夫・松野頼三・石田博英・園田直・原田憲・櫻内義雄・根本龍太郎・佐々木秀世・中村寅太など)。
南須原 静也(なすはら しずや、1910年 <明治43年> … 南須原 静也(なすはら しずや、1910年 <明治43年> 1月12日 - 1990年 <平成2年> 12月8日)は、日本の経営者。三井倉庫社長、会長を務めた。位階は従四位。 静岡県出身。1932年に東京商科大学を卒業し、同年に三井倉庫に入社。1960年5月に取締役に就任し、1995年5月に常務、1968年5月に専務を経て、1972年5月に社長に就任。1981年6月に会長を経て、1985年6月から相談役を務めた。 1974年11月に藍綬褒章を受章し、1980年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1990年12月8日急性呼吸不全のために死去。80歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
山下 秀明(やました ひであき、1910年(明治43年)1月… 山下 秀明(やました ひであき、1910年(明治43年)1月1日 - 1995年(平成7年)5月7日)は、日本の実業家。旭硝子(現AGC)社長や、同社会長、旭硝子財団理事長等を務めた。 長野県上伊那郡箕輪町生まれ。1932年東京商科大学(現一橋大学)附属商学専門部卒業、旭硝子入社。経理部長等を経て、1959年取締役に昇格。1967年常務取締役。1971年専務取締役。1973年社長。1981年会長。1987年取締役相談役。1989年旭硝子工業技術奨励会理事長。1990年から旭硝子財団理事長を務め、1992年にはブループラネット賞を創設した。ファインセラミックス技術研究組合理事長等も務めた。1995年5月7日、腎不全のため死去。
檜山 廣(ひやま ひろ、1909年(明治42年)12月18日… 檜山 廣(ひやま ひろ、1909年(明治42年)12月18日 - 2000年(平成12年)12月25日)は、日本の実業家である。丸紅の社長や会長を歴任し、同社中興の祖と言われる。国際派の論客でもあったが、ロッキード事件における中心人物のひとりとして有罪となった。 茨城県那珂郡那珂町(現在の那珂市)生まれ。旧制水戸中学校を経て、東京商科大学(現在の一橋大学)卒業。大学在学中は柔道部のエースであった。 大学を卒業した1932年(昭和7年)に大同貿易入社、1952年(昭和27年)に丸紅飯田(現在の丸紅)取締役、1957年(昭和32年)常務、専務、副社長を経て、1964年(昭和39年)に同社長、1975年(昭和50年)に丸紅会長、1976年(昭和51年)に同取締役相談役。
槇田 久生(まきた ひさお、1909年12月13日 - 19… 槇田 久生(まきた ひさお、1909年12月13日 - 1989年4月24日)は、日本の実業家。元日本鋼管社長・会長。
番場 嘉一郎(ばんば かいちろう、1909年(明治42年)1… 番場 嘉一郎(ばんば かいちろう、1909年(明治42年)10月28日 - 1989年(平成元年)5月30日)は、日本の会計学者。一橋大学名誉教授、千葉商科大学名誉教授。元青山学院大学教授。第4代千葉商科大学学長(1975年4月 - 1987年3月)。太田哲三門下。中村忠(一橋大学名誉教授)、山浦久司(第29代会計検査院長)は門下生。従三位。 1909年10月28日、東京都渋谷区初台に生まれる。生涯にわたりこの地で暮らした。 東京府立第一商業学校、東京商科大学(現在の一橋大学)附属商学専門部を経て、1931年4月、同大学本科に入学。 太田哲三のゼミナールに所属し、1934年3月に卒業する。卒業論文は『経営分析研究』。
廣田 宗(ひろた そう、1909年(明治40年)10月20日… 廣田 宗(ひろた そう、1909年(明治40年)10月20日 - 1986年(昭和61年)11月29日)は、日本の実業家。小田急電鉄社長、日本民営鉄道協会会長等を務めた。 大分県出身。1932年旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒業後、三菱銀行入行。 四日市、熱田各支店長を経て、本店営業部長、審査第二部長、福岡支店長、取締役、審査第一部長を歴任。 1963年にその人格・識見を見込んだ小田急電鉄社長の安藤楢六が、当時の三菱銀行頭取だった宇佐美洵に懇請し、小田急グループに迎えられ、小田急百貨店専務に就任。 1964年、小田急電鉄に転じ取締役、翌年専務、1969年社長。 1981年には会長に退き、ホテル小田急社長を兼務した。
本間 重三(ほんま じゅうぞう、1909年(明治42年)10… 本間 重三(ほんま じゅうぞう、1909年(明治42年)10月5日 - 1964年(昭和39年)11月4日)は、昭和時代の政治家。山形県酒田市長。 酒田本間氏の一族、本間鐐吉の二男として生まれ、兄鉄之助の跡を継ぐ。山形県立酒田中学校を経て東京商科大学を卒業し、1933年(昭和8年)より酒田市役所にて勤務する。庶務課長、考査役、総務課長と歴任したのち、1946年(昭和21年)青塚恒治前市長が公職追放となると市長代行者に選任された。翌年の1947年(昭和22年)4月には公選初代酒田市長に就任。3期12年に渡り務め、1959年(昭和34年)に退任した。 市長在任中は、戦後復旧、酒田病院設立などに尽瘁した。
諸葛 義夫(もろくず よしお、1909年8月16日 - 19… 諸葛 義夫(もろくず よしお、1909年8月16日 - 1983年8月21日)は、日本の経営者。住友海上火災保険社長、会長を務めた。 東京都出身。1933年に東京商科大学本科を卒業し、同年に住友海上火災保険に入社。1960年6月に取締役に就任し、1965年6月に常務、1968年6月に専務を経て、1969年6月には社長に就任。1974年9月に会長を経て、1978年7月には相談役に就任。 1973年9月に藍綬褒章を受章し、1979年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1983年8月21日、急性心不全のために死去。74歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
秋草 篤二(あきくさ とくじ、1909年〈明治42年〉7月7… 秋草 篤二(あきくさ とくじ、1909年〈明治42年〉7月7日 - 2001年〈平成13年〉11月22日)は、日本の逓信官僚、実業家。日本電信電話公社総裁。 群馬県山田郡矢場川村(現・栃木県足利市)に生まれる。旧制太田中学校(現・群馬県立太田高等学校)を経て、1934年(昭和9年)に東京商科大学(現・一橋大学)を卒業。卒業後、日本無線電信に入る。 戦後逓信省に入り、1947年(昭和22年)総務局監理課長。1949年(昭和24年)AT&T留学、電気通信省経理局会計課長となる。1952年(昭和27年)日本電信電話公社が発足すると同社に移り、資材部長、経理局長、理事、総務理事を経て1965年(昭和40年)副総裁。
柴田 勝見(しばた かつみ、1909年(明治42年) - 1… 柴田 勝見(しばた かつみ、1909年(明治42年) - 1942年(昭和17年)8月8日)は、日本のフィールドホッケー選手。1932年ロサンゼルスオリンピックに出場し、銀メダルを獲得した。1942年に再召集を受けて出征した中国で戦死。「戦没オリンピアン」の一人である。 名前については「勝巳」と表記もされるが、「一橋いしぶみの会」によると、本人は「勝見」を使っていたという。 愛知県生まれ。1926年に東京商科大学(現在の一橋大学)に入学。同大学のホッケー部を全国レベルの強豪に押し上げたという。 1932年に東京商科大学卒業をして間もなく、1932年ロサンゼルスオリンピックにホッケー競技のメンバーとして参加。
馬場 啓之助(ばば けいのすけ、1908年11月23日 - … 馬場 啓之助(ばば けいのすけ、1908年11月23日 - 1988年11月2日)は、日本の経済史学者、一橋大学名誉教授。一橋大学経済学部長、一橋大学学長(事務取扱)、社会保障研究所所長等を務めた。 福井市生まれ。横浜育ち。福井市足羽小学校、横浜小学校、第二横浜中学校(現神奈川県立横浜翠嵐高等学校)を経て、1931年東京商科大学(現一橋大学)本科卒。山内得立に師事。 東亜研究所副調査員などとして研究。外務省嘱託として香港への派遣や、大日本帝国陸軍比島軍政監部付を務め、村田省蔵の比島調査委員会で杉村広蔵委員の下、補助委員として調査に従事した。 杉村が理事を務めた交易営団で総務部総務課長代理などを経て、戦後は農林省農業総合研究所計画部長を経て、1952年学習院大学教授、56年一橋大学教授、61年経済学部長、「近代経済学方法論」で一橋大経済学博士。
大川 一司(おおかわ かずし、1908年11月16日 - 1… 大川 一司(おおかわ かずし、1908年11月16日 - 1993年11月13日)は、日本の経済学者。一橋大学名誉教授。1950年日本農学賞受賞。従四位勲二等旭日重光章。文化功労者。 1908年、静岡県生まれ。1933年に東京帝国大学農学部を卒業。卒業後は、宇都宮高等農林学校教授、東京商科大学教授となった。 戦後の1949年、経済安定本部調査課長となる。1950年より一橋大学教授。1952年、学位論文『食糧経済の理論と計測 』を提出して農学博士号を取得。1958年、経済企画庁経済研究所(のち内閣府経済社会総合研究所)初代所長となる。1969年より一橋大学経済研究所所長。1972年に一橋大学を定年退職し、名誉教授となった。
伊大知 良太郎(いおち りょうたろう、1908年〈明治41年… 伊大知 良太郎(いおち りょうたろう、1908年〈明治41年〉11月8日 - 1985年〈昭和60年〉5月26日)は、日本の経済学者。一橋大学名誉教授。一橋大学経済研究所長、日本統計学会会長等を歴任した。 東京出身。1931年旧制東京商科大学(現一橋大学)卒業。1934年同研究科修了。台北高等商業学校教授、総理府統計局、横浜国立大学教授を経て、一橋大学経済研究所教授を務めた。1963年から高橋長太郎の後任として第8代一橋大学経済研究所長を務めた。1965年に所長を退任し都留重人と代わる。1971年から1972年まで第10代日本統計学会会長。1973年一橋大学定年退官、一橋大学名誉教授、東海大学教授。
白 斗鎮(ペク・トゥジン、はく とちん、1908年10月31… 白 斗鎮(ペク・トゥジン、はく とちん、1908年10月31日 - 1993年9月5日)は、大韓民国の政治家。黄海道信川郡出身。本貫は水原白氏。第4・10代国務総理、第8・10国会議長などを歴任した。日本名白川 實。 1934年旧制東京商科大学(現:一橋大学)を卒業して朝鮮銀行に入行。理事にまでなった。大学の先輩にあたる具鎔書に引き上げられ、独立後も韓国銀行理事を務め、1948年に外資庁長官・1951年財務部長官に就任。この時重石ドル事件への関与で野党から追及を受けるが、これを切り抜けて1952年に財務部長官兼務のまま国務総理代理となり、同時に米韓合同経済委員会の代表を務める。翌1953年に正式に国務総理となった、 4月革命後の国会議員補欠選挙に出馬・当選して政界入りするが、直後に5・16軍事クーデターが勃発。
尾本 信平(おもと しんぺい、明治41年(1908年)10月… 尾本 信平(おもと しんぺい、明治41年(1908年)10月17日 - 平成11年(1999年)4月19日)は、三井金属(現・三井金属鉱業)社長・会長・名誉相談役。位階は従三位。
増田 四郎(ますだ しろう、1908年(明治41年)10月2… 増田 四郎(ますだ しろう、1908年(明治41年)10月2日 - 1997年(平成9年)6月22日)は、日本の歴史学者。一橋大学名誉教授。第5代一橋大学学長、東京経済大学理事長。日本学士院会員。文化勲章受章者。位階は従三位。日本学術振興会会長、国立大学協会副会長等を歴任。 専門は西洋史、西洋経済史。西洋社会・経済史の変遷を、実証研究と比較社会史・地域史の方法論を用いて研究した。 1908年、奈良県山辺郡波多野村(後の山添村)生まれ。旧制上野中学校(後の三重県立上野高等学校)卒業後、東京商科大学付属商業教員養成所入学。1932年東京商科大学(後の一橋大学)卒業。学部では日本経済史を専攻し、幸田成友の指導を受ける。
関 守三郎(せき もりさぶろう、1908年(明治41年)7月… 関 守三郎(せき もりさぶろう、1908年(明治41年)7月 - 1990年(平成2年)8月7日)は、日本の外交官。外務省経済局長、駐スペイン特命全権大使、駐メキシコ特命全権大使、アジア生産性機構事務総長、外務省顧問。 新潟県長岡市出身。1926年第四高等学校理科乙類入学許可取消。1929年東京商科大学(現一橋大学)予科修了。1932年同大学本科卒業。山岳部出身。 在英国大使館外務書記生、在ドイツ大使館外交官補、外務省通商局事務官、在中華民国大使館三等書記官、上海領事兼支那派遣軍渉外審判所検察官、徐州総領事等を経て、1945年中華民国三級同光勲章受章。同年外務省政務局第三課長。1946年終戦連絡中央事務局第二部第二課長。
関 好美(せき よしとみ、1908年6月19日 - 1996… 関 好美(せき よしとみ、1908年6月19日 - 1996年3月7日)は、日本の経営者。明治生命保険社長、会長を務めた。 徳島県出身。1931年に東京商科大学本科を卒業し、同年に明治生命保険に入社した。1953年に取締役に就任し、常務、専務を経て、1967年に社長に就任し、1974年4月には会長に就任した。1979年7月から相談役を務めた。 1971年8月に生命保険協会会長に就任し、相談役も務めた。 1971年に藍綬褒章を受章した。 1996年3月7日、肺炎のために神奈川県鎌倉市の病院で死去。87歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
小峰 柳多(小峯 柳多、こみね りゅうた、1908年〈明治4… 小峰 柳多(小峯 柳多、こみね りゅうた、1908年〈明治41年〉6月5日 - 1974年〈昭和49年〉5月29日)は、日本の政治家。衆議院議員(6期)。 群馬県碓氷郡松井田町松井田(現・安中市松井田町松井田)に、食料品店を営む勝重郎・たせ夫婦の長男として生まれる。誕生日は戸籍上9月3日となっているが、実際の生まれは6月5日で、役場の吏員が手続を忘れていたため父母が催促した日が届出上の日付になっているのだとされる。地元の松井田尋常高等小学校を経て、高崎商業学校(現・群馬県立高崎商業高等学校)に進学。高崎商業学校の同期には後に高崎市長を務める反町(沼賀)健次がいる。1926年(大正15年)に東京商科大学専門部(現・一橋大学)に入学し、1929年(昭和4年)卒業。
山田 栄一(やまだ えいいち、1908年5月10日 - 19… 山田 栄一(やまだ えいいち、1908年5月10日 - 1995年1月10日)は、第三代シチズン時計社長(1946年 - 1981年)。静岡市出身。旧姓鈴木。 1908年、横浜に生まれる[要出典]。静岡県立静岡中学校を経て、1931年、東京商科大学卒業。同年、三井生命入社、1937年、シチズン時計入社、1941年、シチズン時計取締役、1944年、シチズン時計常務取締役、1945年、シチズン時計専務取締役、1946年、シチズン時計代表取締役社長。1968年、藍綬褒章受章、1978年、勲三等旭日中綬章受章、1981年、シチズン時計会長。1986年、シチズン時計取締役相談役、1987年、シチズン時計相談役。
中川 英造(なかがわ えいぞう、1908年(明治41年)3月… 中川 英造(なかがわ えいぞう、1908年(明治41年)3月23日 - 1999年(平成11年)10月14日)は、日本の実業家。朝日新聞社で業務部門を歩み、代表取締役専務を経てテレビ朝日第7代社長。広島県出身。 1930年(昭和5年)東京商科大学(現一橋大学)本科卒業後、東京朝日新聞社入社。大学時代は、漕艇部に所属し、のちに日本漕艇協会(現日本ローイング協会)の顧問なども務めた。 庶務、販売、会計各部長、業務局次長、経理総務などを歴任。1959年(昭和34年)2月には、新設の北海道支社の初代支社長となり、翌年取締役となる。1963年の村山事件の折には、矢島八洲夫、横田武夫らともに辞表を提出し、業務関係の役員不在という異常事態に陥るが、村山長挙が社長を辞任したことで同事件は収束し復職した。
大橋 貞雄(おおはし さだお、1908年3月13日 - 20… 大橋 貞雄(おおはし さだお、1908年3月13日 - 2009年3月28日 )は、日本の経営者。共同印刷社長、会長を務めた。 東京都出身。1930年に東京商科大学を卒業し、同年に帝国教育会出版部に入社。1944年に国民図書刊行会に転じ、1947年に東京インキ社長に就任。1957年5月には共同印刷社長に就任。1977年8月に会長に就任し、1988年6月に取締役兼名誉会長に就任し、1990年6月から相談役兼名誉会長を務めた。 1968年10月に藍綬褒章を受章し、1978年11月に勲三等瑞宝章を受章した。 2009年3月28日、老衰のために死去。101歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
宇佐美 敏夫(うさみ としお、1908年(明治41年)2月2… 宇佐美 敏夫(うさみ としお、1908年(明治41年)2月22日 - 1991年(平成3年)6月1日)は、愛知県出身のフィールドホッケー選手。 1931年(昭和6年)東京商科大学本科を卒業。 1932年にロサンゼルスオリンピックに日本代表として選出され、出場した3チーム中2位で銀メダルを獲得した。フォワードとして2試合に出場した。 戦後、日本ホッケー協会名誉副会長、鳴海陶器会長を務めた。 浅川増幸 | 猪原淳三 | 宇佐美敏夫 | 小西健一 | 小林定義 | 今治彦 | 酒井義雄 | 柴田勝見 | 左右田秋雄 | 永田寛 | 中村英一 | 浜田駿吉 | 三浦四郎 | 監督: 広瀬藤四郎
中野 藤吾(なかの とうご、1908年1月27日 - 199… 中野 藤吾(なかの とうご、1908年1月27日 - 1990年7月9日)は、日本の経済思想史学者、歌人。立川短期大学学長、明星大学経済学部教授などを歴任した。地元の立川市では、著名な文化人として知られていた。 中野藤吾は、当時の東京府砂川町の素封家・中野家の当主であった中野田郎吉の長男として生まれた。 東京商科大学に学んで教職に進み、巣鴨経済専門学校(千葉商科大学の前身)、日本経済専門学校(亜細亜大学の前身)の教員を歴任した。 1947年に、義兄・中野喜介が理事長となった学校法人立川学園によって、(旧制)立川専門学校が開校した際には、初代校長となった。同校は1950年に短期大学に昇格し、さらに1950年には都立へ移管されたが、その間、中野は学長であり続け、初代の東京都立立川短期大学学長となった 歌人としては、1950年代から1960年代にかけて多くの短歌を発表した。
三宅 喜二郎(みやけ きじろう、1908年1月27日 - 2… 三宅 喜二郎(みやけ きじろう、1908年1月27日 - 2001年8月27日)は、日本の外交官。駐チェコスロヴァキア特命全権大使や、外務省研修所長、駐スウェーデン特命全権大使などを務めた。 京都市出身。1930年高等試験行政科合格。1931年に東京商科大学(現一橋大学)本科卒業後、研究科で経済学及び法学を研究した。1934年高等試験外交科合格。同年外務省入省、在英国外務書記生。1935年在英国外交官補。1937年在シドニー領事館補。1939年外務省欧亜局第三課外務事務官。1940年外務省南洋局第一課外務事務官。 1946年外務省調査局第一課長。1949年外務大臣官房文書課長、国立国会図書館支部外務省図書館長、司法試験考査委員。
相京 光雄(あいきょう みつお、1908年1月3日 - 19… 相京 光雄(あいきょう みつお、1908年1月3日 - 1984年4月29日)は、日本の経営者。神奈川県横浜市出身。 1932年に東京商科大学本科を卒業し、同年4月に三菱鉱業に入社。1957年5月に三菱金属鉱業取締役に就任し、1959年8月に常務を経て、1963年5月に副社長に就任し、1967年5月には社長に昇格した。1973年5月に三菱鉱業セメント会長に就任し、1977年6月から相談役を務めた。日本鉱業協会会長も務めた。 1969年10月に藍綬褒章を受章し、1979年4月に勲一等瑞宝章を受章。 1984年4月29日急性心不全のために死去。76歳没。
石黒 四郎(いしぐろ しろう、1908年1月1日 - 196… 石黒 四郎(いしぐろ しろう、1908年1月1日 - 1968年7月24日)は、日本の外交官。位階は正三位。 外務省特殊財産局長や、賠償庁次長、駐ニュージーランド特命全権大使等を経て、駐メキシコ特命全権大使在任中病死した。 愛知県知多郡河和町(現・美浜町)出身。1930年(昭和5年)高等試験外交科合格。1931年(昭和6年)に東京商科大学(現一橋大学)を卒業して、外務省に入省し、在英国大使館や外務省東亜局第一課で勤務した。 1938年(昭和13年)から在中華民国大使館三等書記官及び在上海領事を務め、上海ユダヤ避難民に関し、犬塚惟重海軍大佐、安江仙弘陸軍大佐と現地調査会で調査を行い、上海ゲットーの整備などを進めた。
田中 西二郎(たなか せいじろう、1907年11月28日 -… 田中 西二郎(たなか せいじろう、1907年11月28日 - 1979年1月15日)は、日本の翻訳家。 東京生まれ。東京商科大学卒。1930年中央公論社入社。文芸家協会、華北綜合調査研究所、一橋大学経済研究所などに勤務。文芸評論を志し「知識階級の文学論」、「鴎外と露伴」(『群像』1954年5月号)、「露伴に帰れ」(『群像』1954年8月号)などを発表。 また、英米文学の翻訳家としてハーマン・メルヴィル『白鯨』、グレアム・グリーン『情事の終り』など多くの翻訳を残した。初期の筆名は佐木狷介。白木茂、中村能三らと大久保康雄の元で下訳を担当し翻訳工場と呼ばれた。 『情事の終り』は映画化の際の邦題だが、田中はあえて『愛の終り』と訳し、そのまま文庫化されたが、その後改題した。
磯野 計蔵(いその けいぞう、1907年(明治40年)9月2… 磯野 計蔵(いその けいぞう、1907年(明治40年)9月29日 - 1966年(昭和41年)6月27日)は、日本の実業家、登山家。元明治屋代表取締役社長。元日本商品学会顧問。 東京出身。磯野長蔵の長男。1931年、東京商科大学(現一橋大学)卒業。同大学山岳部出身で、在学中冬の鹿島槍ヶ岳登頂に成功。1933年からイギリスで商社実務研修を受け、ウォルター・ウェストンと交流を持った。明治屋取締役を経て、1944年、明治屋取締役副社長。1950年、日本商品学会顧問。1959年、明治屋代表取締役社長、キリンビール監査役。1966年6月27日、膀胱癌のため慶應義塾大学病院で死去。 1987年、磯野文庫創設。
川本 信正(かわもと のぶまさ、1907年9月22日 - 1… 川本 信正(かわもと のぶまさ、1907年9月22日 - 1996年6月17日)は、日本のスポーツジャーナリスト、新聞記者、スポーツ評論家。オリンピックを初めて「五輪」と表記したことで知られる。
玉置 実(實、たまき みのる、1907年(明治40年)9月1… 玉置 実(實、たまき みのる、1907年(明治40年)9月12日 – 没年不詳)は、昭和期の商工官僚、実業家、弁護士、政治家。衆議院議員。 香川県小豆郡草壁村(草壁町、内海町草壁本町を経て現小豆島町)で生まれる。1931年(昭和6年)10月、高等試験行政科試験に合格。1932年(昭和7年)東京商科大学を卒業した。 横浜専門学校(現神奈川大学)教授、大倉高等商業学校(現東京経済大学)講師を務めた。三菱商事勤務を経て、1937年(昭和12年)企画院事務官に任官。同調査官を経て、1938年(昭和13年)商工事務官に転じた。以後、物価局事務官、近畿地方総監府副参事官、内務省調査局第一課長、商工省賠償実施局第一課長などを歴任。
中村 盛太郎(なかむら もりたろう、1907年9月6日 - … 中村 盛太郎(なかむら もりたろう、1907年9月6日 - 没年不明)は、日本の経営者。山之内製薬社長、会長を務めた。 東京都出身。1928年に東京商科大学商学専門部を卒業し、同年4月に住友銀行に入行。1962年5月に山之内製薬に転じ、同年8月に常務に就任し、1968年8月に副社長を経て、1974年8月には社長に就任した。1977年3月に会長を経て、1980年3月には相談役に就任。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
田部 文一郎(たなべ ぶんいちろう、1907年(明治40年)… 田部 文一郎(たなべ ぶんいちろう、1907年(明治40年)9月5日 - 2002年(平成14年)2月7日)は、日本の実業家。三菱商事社長・会長、日本商工会議所副会頭。 広島県広島市出身。名前は文一郎だが男女9人兄弟姉妹の四番目。一郎・二郎・三郎の繰り返しで文一郎となった。実家は中級の燃料商で、当時から広島ガスや三菱商事などとも石炭で取引があった。両親はサラリーマンが嫌いで息子はみな商売人となるよう教育した。父親はさほど仕事に熱心でなく、よく仕事を休んでいたという。広島市立本川小学校6年の頃から集金をやらされたが子供の集金に取引先はお金を払わず。子供ながら絶対商売人にはなりたくないと強く願い、他の男兄弟はみな商業学校に行った中で一人だけ広島県立一中(現・広島国泰寺高校)へ進学した。
江沢譲爾(江澤譲爾、えざわ じょうじ、1907年5月20日 … 江沢譲爾(江澤譲爾、えざわ じょうじ、1907年5月20日 - 1975年1月23日)は、日本の地理学者。専門は経済地理学。学位は、経済学博士(一橋大学・論文博士・1955年)。経済地理学会初代会長。江澤譲爾とも表記される。
渡辺 文蔵(わたなべ ぶんぞう、1907年5月20日 - 2… 渡辺 文蔵(わたなべ ぶんぞう、1907年5月20日 - 2002年11月4日)は日本の実業家。味の素社長を1973年から8年務めた。敬虔なクリスチャンとしても知られ東京女子大学理事長などを務めた。食品産業功労賞。
北町 一郎(きたまち いちろう、明治40年(1907年)3月… 北町 一郎(きたまち いちろう、明治40年(1907年)3月7日 - 平成2年(1990年)9月4日)は、日本の小説家。 新潟県中蒲原郡小須戸町(現新潟市)小向生まれ。福島高等商業学校(現福島大学)特待生を経て、1932年に東京商科大学(現一橋大学)卒業後、婦女界社に入社。記者や、婦女界編集長を務めた。 1935年に「賞与日前後」でサンデー毎日大衆文芸入選。小説家として活動し、太平洋戦争中は大日本帝国陸軍報道班員としてスマトラ島で従軍取材を行い、昭南新聞マレー語版の編集責任者を務めた。 1948年に「健康教室」を創刊し78歳まで編集長を務めたほか、婦女界編集顧問、文部省嘱託、日本学校衛生会主事、日本文芸著作権保護同盟理事などを務めた。
高橋 長太郎(たかはし ちょうたろう、1907年2月28日 … 高橋 長太郎(たかはし ちょうたろう、1907年2月28日 - 1991年3月29日)は、日本の経済学者。経済学博士(一橋大学・1960年)。一橋大学名誉教授。一橋大学経済研究所長、専修大学学長等を歴任。正四位勲二等瑞宝章。東京生まれ 1927年旧制東京商科大学(現一橋大学)予科修了。1930年同大学学士。1932年同大学研究科修了。哲学者の山内得立教授に師事した。1934年法政大学商業学校教諭。1947年大蔵省内閣統計官。1949年東京商科大学経済研究所教授。一橋大学経済研究所国民所得・再生産研究部門主任教授として倉林義正らと国民経済計算を行い、1959年から小原敬士の後任として第6代一橋大学経済研究所長を務めた。
末吉 俊雄(すえよし としお、1907年(明治40年)2月1… 末吉 俊雄(すえよし としお、1907年(明治40年)2月13日 - 1977年(昭和52年)1月24日)は、日本の実業家。三井東圧化学(現三井化学)社長や、日本硫安工業協会会(現日本肥料アンモニア協会)会長を務めた。 1930年東京商科大学(現一橋大学)卒業、三井鉱山入社。1931年三池窒素工業入社。1937年東洋高圧工業入社。東洋高圧工業営業課長等を経て、1947年東洋高圧工業取締役に昇格。1955年東洋高圧工業常務取締役。1957年東洋高圧工業専務取締役。1963年東洋高圧工業取締役副社長。1970年三井東圧化学取締役社長。1973年三井石油開発取締役。1974年日本硫安工業協会会長。日本原子力産業会議理事等も務めた。