加藤 守雄(かとう もりお、1913年11月2日 - 198… 加藤 守雄(かとう もりお、1913年11月2日 - 1989年12月26日)は、日本の国文学者。旧姓は土井(どい)。号は杜壮。通称「馬さん」「もり」。 同性愛者である折口から「森蘭丸は織田信長に愛されたということで、歴史に名が残った。君だって、折口信夫に愛された男として、名前が残ればいいではないか」と迫られ、同衾を要求されたため名古屋の実家に帰郷。
慶應義塾大学:5,407人
加藤 守雄(かとう もりお、1913年11月2日 - 198… 加藤 守雄(かとう もりお、1913年11月2日 - 1989年12月26日)は、日本の国文学者。旧姓は土井(どい)。号は杜壮。通称「馬さん」「もり」。 同性愛者である折口から「森蘭丸は織田信長に愛されたということで、歴史に名が残った。君だって、折口信夫に愛された男として、名前が残ればいいではないか」と迫られ、同衾を要求されたため名古屋の実家に帰郷。
横山 康吉(よこやま こうきち、1913年11月 - 没年不… 横山 康吉(よこやま こうきち、1913年11月 - 没年不詳)は、参松工業を設立し、日本で初めて酸糖化法によるブドウ糖生産の事業化に成功した横山長次郎の養嫡子。参松工業の社長職と横山家を継いだ。 田中長兵衛の三男で、母・みなの実家を継ぎ吉田姓となった吉田長三郎(1877年生)の五男として1913年(大正2年)に生まれた。1930年(昭和5年)、親戚筋である横山長次郎(1880年生)とその妻・勝の養子となる。1934年(昭和9年)に慶應義塾高等部を卒業。1936年(昭和11年)8月には、慶應義塾長としてハーバード大学創立300周年記念式典に招かれた伯父の小泉信三と共に横浜港から船で米国に渡り、ボストン・カレッジに入学。
長谷川 吉郎(はせがわ きちろう、1913年(大正2年)10… 長谷川 吉郎(はせがわ きちろう、1913年(大正2年)10月31日 - 1995年(平成7年)5月16日)は、日本の銀行家。元山形銀行頭取、会長。 長谷川吉三郎(吉弥)山形銀行頭取の子として、山形県山形市に生まれる。 慶大卒後、従軍、各社役員を経て、両羽銀行に入行。1972年(昭和47年)には、15年あまり頭取を務めた三浦弥太郎の後任として昇格する。 トップ在任中は経営の近代化に努め、1973年(昭和48年)の東証2部上場(1975年(昭和50年)1部に指定替え)を実現。山形県下の企業としては初の東証上場を成し遂げた。また、第一次オンラインシステムの構築、ファームバンキングシステムの開発、地区センター設置も手がけたほか、いわゆるオイルショックを卓越した経営手腕により無事に乗り切った。
西岡 秀雄(にしおか ひでお、1913年10月6日 - 20… 西岡 秀雄(にしおか ひでお、1913年10月6日 - 2011年8月1日)は、日本の考古学者、人文地理学者。慶應義塾大学名誉教授。 仙台生まれ。1939年に慶應義塾大学文学部史学科卒業。1948年に慶應義塾大学予科講師、1956年に慶大助教授、1964年に教授、1979年に定年退任、名誉教授、大田区立郷土博物館館長に就任。2001年に退任。 1980年に東京都文化功労者。日本トイレ協会名誉会長、大森貝塚保存会名誉会長、日本旅行作家協会名誉会員なども務める。 音楽学者の西岡信雄は長男。
望月 玉三(もちづき たまぞう、1913年(大正2年)10月… 望月 玉三(もちづき たまぞう、1913年(大正2年)10月3日 - 1998年(平成10年)6月24日)は、日本の実業家。東京電業建設、望月証券(現みずほ証券)、九曜社各社長。慶應義塾大学助教授。 東京都出身。九曜社社長望月軍四郎の三男、九曜社取締役望月太郎の弟。父・軍四郎は静岡県富士郡大宮町(現富士宮市)出身。 1936年、慶應義塾大学経済学部卒業、同助手を経て、助教授を務めた。 住所は東京港区赤坂青山南町。趣味は読書、碁、庭球。宗教は仏教、日蓮宗。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
右近 徳太郎(うこん とくたろう、1913年9月23日 - … 右近 徳太郎(うこん とくたろう、1913年9月23日 - 1944年9月15日)は、兵庫県武庫郡住吉村(現:神戸市東灘区)出身のサッカー選手。 豊富な運動量とパスの技術に長けるゲームメーカーで、フォワードからフルバックまでどこでも水準以上のプレーをして見せたという。 1913年9月23日、実業家・資産家の右近福次郎、とき(旧姓小寺)の子として、住吉村にて生まれる。兵庫県立第一神戸中学校(現:兵庫県立神戸高等学校)の4年生だった1930年、第12回全国中等学校蹴球選手権大会で全国優勝を経験。翌1931年に慶應義塾大学に入学し、ソッカー部では予科1年時から主力選手として活躍。在籍中、チームは関東大学リーグなど大学対抗大会において数々の好成績を挙げた。
土井 宏二(どい こうじ、1913年9月19日 - 1993… 土井 宏二(どい こうじ、1913年9月19日 - 1993年10月5日)は、日本の実業家、馬主。 1913年、愛知県出身。1939年に慶應義塾大学法学部を卒業後、日本製鋼所を経て1941年に中央製作所庶務課長に就任。1944年に土井航空機工業を設立したのち翌年に土井産業に改称。1954年に土井商事を設立。1993年10月5日、肝不全のため死去。80歳没。 趣味はゴルフ、野球、競馬。 日本中央競馬会(JRA)に登録した馬主としても知られた。勝負服の柄は水色、袖赤三本輪、冠名には「ヤマニン」を用いた。没後は長男の肇がヤマニンゼファーなどの所有馬と服色を引き継いだ。 後述する土井家の馬主のほか、土井商事としても競走馬を所有し、所有馬には1994年の阪神3歳牝馬ステークスなどを制したヤマニンパラダイスや、種牡馬として活躍したヤマニンスキーがいた。
佐々木 秀一(ささき ひでいち、1913年(大正2年)9月1… 佐々木 秀一(ささき ひでいち、1913年(大正2年)9月17日 - 1996年(平成8年)12月19日)は、日本の実業家。佐々木硝子(現・東洋佐々木ガラス)社長、会長を務めた。 1937年(昭和12年)慶應義塾大学経済学部を卒業後、家業の佐々木硝子店に入社。1947年佐々木硝子に改組し、社長に就任。1957年(昭和32年)にはアジア初となるタンブラーグラス生産の自動化を行い、これにより佐々木硝子は成長した。1983年(昭和58年)に会長に就任。 社業以外では東京商工会議所副会頭を務めたほか、1968年(昭和43年)に藍綬褒章、1984年(昭和59年)に勲二等旭日重光章を受章している。
毛利 松平(もうり まつへい、1913年7月16日 – 19… 毛利 松平(もうり まつへい、1913年7月16日 – 1985年5月24日)は、日本の政治家。第5代環境庁長官。
長谷川 次男(はせがわ つぎお、1913年6月18日 - 没… 長谷川 次男(はせがわ つぎお、1913年6月18日 - 没年不詳)は、日本の男性フィギュアスケート選手。1936年ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック男子シングル日本代表。慶應義塾大学法学部卒業。 1932-1933年シーズンの第4回全日本フィギュアスケート選手権と翌1933-1934年シーズンの第4回全日本フィギュアスケート選手権で3位、第6回大会では2位となった。 1935-1936年シーズン、ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック日本代表に選出され、同じく代表となった片山敏一、老松一吉、渡辺善次郎、稲田悦子ら4人とともに欧州遠征を行った。ベルリンで行われた1936年ヨーロッパフィギュアスケート選手権には片山、老松、稲田とともにエントリーをしたが棄権。
鈴木 聞多(すずき ぶんた、1913年4月1日 - 1939… 鈴木 聞多(すずき ぶんた、1913年4月1日 - 1939年7月10日)は、日本の陸上競技(短距離走)選手。 埼玉県比企郡三保谷村(現在の川島町)に生まれる。父は同村の村長も務めた鈴木庸三で、三人兄弟の末っ子。鈴木家は江戸時代には名主を務めた家で、生家(鈴木家住宅)は国登録有形文化財となっている。 1926年(大正15年)4月、旧制埼玉県立川越中学校(現在の埼玉県立川越高等学校)に入学し、陸上競技に取り組む。旧制中学5年次の1930年(昭和5年)、第16回全国中学校陸上競技選手権大会(インターハイの前身。神戸)に出場、100m(11秒7)と200m(22秒7)で優勝。 1931年(昭和6年)4月、旧制川越中学から慶應義塾大学予科に進学。
渡辺 白泉(わたなべ はくせん、1913年3月24日 - 1… 渡辺 白泉(わたなべ はくせん、1913年3月24日 - 1969年1月30日)は、東京出身の俳人。本名威徳(たけのり)。 昭和初期の新興俳句運動において無季派(超季派)の俳人として活躍。「戦争が廊下の奥に立つてゐた」など、戦争の本質を鋭く突いた「銃後俳句」と呼ばれる無季俳句が特に知られる。 東京市赤坂区青山(現・港区)生。本籍地は山梨県で、父は同地の地主の息子であったが青山で呉服店を営んでいた。白泉は長男で一人っ子だった。青南尋常小学校、慶應義塾普通部を経て、1936年に慶應義塾大学経済学部を卒業。 16歳のとき正岡子規の『子規俳話』を読んで俳句に興味を持つ。大学時代の1933年、水原秋桜子の『俳句の本質』に啓発されて「馬酔木」に投句、翌年より「句と評論」にも投句。
田辺 秀雄(たなべ ひでお、1913年2月27日 - 201… 田辺 秀雄(たなべ ひでお、1913年2月27日 - 2010年9月15日)は、日本の音楽評論家。 音楽学者・田辺尚雄の長男として東京に生まれる。慶應義塾大学法学部卒。日本コロムビア・レコード勤務の後、東海大学教養学部教授となる。父同様に東洋音楽研究のほか、洋楽にも造詣が深く、義太夫協会、日本民謡文化協会会長を務めた。 2010年9月15日、肺炎のため東京都新宿区の自宅で死去。97歳没。 この項目は、音楽に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 音楽/ウィキプロジェクト 音楽)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
横沢 七郎(よこざわ しちろう、1913年1月27日 - 2… 横沢 七郎(よこざわ しちろう、1913年1月27日 - 2002年10月10日)は、台湾生まれの日本のプロ野球選手・プロ野球審判員。 兄・横沢三郎は、戦前の東京セネタース、戦後のセネタースを率いたプロ野球監督(のち国民野球連盟理事長を経てパシフィック・リーグの審判部長を務めた)。もう一人の兄・横沢四郎も東京セネタースで活躍したプロ野球選手。 慶應商工、慶應義塾大学を卒業。マキノキネマ、コロムビア野球部を経て1936年から東京セネタースで四郎とともに活躍。戦時色の濃くなる中1940年にチーム名も「翼軍」に改名。その年で一時引退。戦後は新たに創設されたセネタースに入団し、翌1947年に引退した。通算1770打席で本塁打を一本も打っていない。
塩田 雄次(しおた ゆうじ、1913年(大正2年)1月19日… 塩田 雄次(しおた ゆうじ、1913年(大正2年)1月19日 - 1994年(平成6年)1月8日)は、日本の実業家。羽後銀行頭取、北都銀行初代会長。 塩田団平の次男として、秋田県平鹿郡雄物川町(現:横手市)に生まれる。 秋田県立秋田中学校、慶應義塾大学法学部卒業後、第百銀行(後に三菱銀行に吸収合併、現在の三菱UFJ銀行)に入行。21年あまり在籍し品川支店次長等を歴任する。 1958年には、羽後銀行に転じ、その後頭取に昇格する。頭取在任時には、本店の横手市から秋田市への移転や本店新館の建設、さらにはオンラインシステムの導入、店舗網の整備等、経営の近代化を推進した。1988年には代表取締役会長に退き、1993年に秋田あけぼの銀行との合併で誕生した北都銀行会長に就任した。
高橋 磌一(たかはし しんいち、1913年(大正2年)1月1… 高橋 磌一(たかはし しんいち、1913年(大正2年)1月15日 - 1985年(昭和60年)8月6日)は、昭和期の歴史学者(日本中世史・近世史)。歴史教育者協議会委員長などを歴任した。 東京府に生まれ、三多摩壮士の母方の祖父の下で小学生時代から『日本外史』の素読などに親しむ。 暁星中学校を経て昭和5年(1930年)に慶應義塾大学文学部予科、昭和8年(1933年)に文学部国史学科に入学し幸田成文の薫陶を受ける。昭和11年(1936年)に卒業し、大学院に籍を置く傍ら、錦秋高等女学校で文法を担当。昭和16年(1941年)に暁星中学校教諭となり、昭和17年(1942年)に召集。一度解除されるが、昭和20年(1945年)に再度招集を受け、中国に出征した。
九里 正(くのり ただし、1913年 - 1944年)は、日… 九里 正(くのり ただし、1913年 - 1944年)は、日本の元アマチュア野球選手。父は日本の洋画家・九里四郎。祖父に海軍主計大監・貴族院議員の南郷茂光。伯父に海軍少将・南郷次郎、南郷三郎がいる。
村山 又芳(むらやま またよし、1912年11月13日 - … 村山 又芳(むらやま またよし、1912年11月13日 - 1945年5月)は、日本の競泳・ボート競技選手。1932年ロサンゼルスオリンピックにボート競技の代表選手として出場した。 埼玉県秩父郡野上村(現・長瀞町)に生まれる。旧制野上小学、旧制熊谷中学を経て、慶應義塾大学に進学した。1929年、第5回明治神宮競技大会の水泳大会に出場した。慶應義塾大学ではボート部に所属し、数多の大会で優勝する。また、1932年ロサンゼルスオリンピックでは、ボートかじ付きフォアの日本代表に選ばれる。かじ付きフォア日本代表は、敗者復活戦で敗退する。 1936年3月に慶應義塾大学経済学部を卒業した。 1945年5月に死去した。
山本 登(やまもと のぼる、1912年〈大正元年〉11月5日… 山本 登(やまもと のぼる、1912年〈大正元年〉11月5日 - 1991年〈平成3年〉7月2日 )は、日本の経済学者、慶應義塾大学名誉教授。専門は植民政策学と国際経済学。 1912年、現在の東京都大田区大森で生まれる。1919年に入新井尋常高等小学校に入学、1921年に慶應義塾幼稚舎に編入。慶應義塾普通部を経て、1929年に慶應義塾大学経済学部予科入学。統計学者の寺尾琢磨に師事。 1935年同大学卒業、慶應義塾大学経済学部助手に就任、東南アジア学及び植民政策学、世界経済論を講義を担当する。ジャワ軍政監部調査部調査室主査となり、第二次世界大戦中は南洋経済・南方経済の研究に着手。大日本拓殖学会などに頻繁に論文を掲載し、開発経済学を研究した。
南部 誠治(なんぶ せいじ、1912年10月19日 - 19… 南部 誠治(なんぶ せいじ、1912年10月19日 - 1981年7月1日)は、日本の経営者。山陽電気鉄道社長を務めた。 福井県大野市出身。1936年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に山陽電気鉄道に入社。1957年11月に取締役に就任し、1959年9月に常務、1969年11月に専務、1974年11月に副社長を経て、1977年6月に社長に就任。 1970年6月に運輸大臣表彰を受け、1976年11月に藍綬褒章を受章。 1981年7月1日、急性心不全のために死去。68歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
淡輪 就直(たんのわ なりただ、1912年 <大正元年> 1… 淡輪 就直(たんのわ なりただ、1912年 <大正元年> 10月3日 - 2000年 <平成12年> 4月29日)は、日本の経営者。三井石油化学工業(現・三井化学)社長を務めた。位階は正四位。 福岡県柳川市出身。1937年に慶應義塾大学法学部政治学科を卒業し、同年に三井鉱山に入社。1955年7月に三井石油化学工業に転じ、1963年5月に取締役に就任し、1966年11月に常務、1971年11月に副社長を経て、1977年6月に社長に就任。1982年11月に会長に就任し、1985年6月に相談役を経て、1987年6月に再び会長に就任。 1979年4月に藍綬褒章を受章し、1985年11月に勲二等瑞宝章を受章。
堀内 一彌(ほりうち かずや、1912年10月1日 - 19… 堀内 一彌(ほりうち かずや、1912年10月1日 - 1972年4月11日)は、日本の衛生学者。 慶應義塾大学附属医学専門部教授(1945年9月-1949年3月)、大阪市立医科大学(現・大阪市立大学大学院医学系研究科)教授(1947年3月-1972年4月11日)。重金属による環境汚染、とりわけ鉛中毒を専門とした。衛生学の分野に科学的手法を取り入れた、公害対策の第一人者であった。 東京都出身。1937年慶應義塾大学医学部を卒業し、同年聖路加病院内科に勤務する。1938年に陸軍の召集を受け、軍曹として軍務に付く。1939年6月少尉に任官し、1940年12月中尉に昇進する。1941年4月に召集解除となり、5月に慶應義塾大学医学部衛生学教室助手に就任。
榎並 正一(えなみ しょういち、1912年 <大正元年> 8… 榎並 正一(えなみ しょういち、1912年 <大正元年> 8月23日 - 1990年<平成2年> 2月6日)は、日本の経営者。バンドー化学の社長・会長を務めた。位階は正五位。父はバンドー化学創業者の榎並充造で、正一は次男である。 兵庫県神戸市出身。1935年に慶應義塾大学法学部政治学科を卒業し、同年に日本毛織に入社した。1938年12月に阪東調帯護謨(現在のバンドー化学)に転じた。1942年12月に副社長に就任し、1962年5月には社長に昇格した。1977年6月には会長に就任した。 神戸薬科大学理事長、日本経営者団体連盟理事、神戸商工会議所副会頭なども歴任した。 1983年4月に勲三等瑞宝章を受章した。
清水 正一(しみず しょういち、1912年8月1日 - 19… 清水 正一(しみず しょういち、1912年8月1日 - 1989年7月25日)は、日本の柔道家。 長野県東筑摩郡島立村(現松本市)生まれ。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)を経て、日本体育会体操学校卒業。昭和9年(1934年)母校の体操学校に奉職し、同18年(1943年)教授に就任。同13年(1938年)から慶應義塾大学柔道部師範を兼務。同20年(1945年)から同25年(1950年)まで帰農していたが、同26年(1951年)東京大学講師、慶應義塾大学柔道部師範に復職。同43年(1968年)日本体育大学武道科特任教授、同48年(1973年)学長に就任し、また、柔道整復師養成施設設立を理事会に提案し、日体柔整専門学校初代校長に就任した。
灰山 元治(はいやま もとはる、大正元年(1912年)7月1… 灰山 元治(はいやま もとはる、大正元年(1912年)7月17日 - 昭和62年(1987年)11月27日)は、昭和初期に中等野球他で活躍したアマチュア野球選手、プロ野球選手。投手・内野手。プロ入り後は灰山元章と改名した。広島県佐伯郡廿日市町桜尾(現:廿日市市)出身。
大島 一芳(おおしま かずよし、1912年6月14日 - 1… 大島 一芳(おおしま かずよし、1912年6月14日 - 1983年1月16日)は昭和時代日本のジャーナリスト、新聞経営者。元中日新聞社代表取締役。愛知県出身。 出生名は大島 克巳(おおしま かつみ)で、1952年(昭和27年)3月24日付で「一芳」へ改名した。 1912年(明治45年)、愛知県東春日井郡守山町(現在の名古屋市守山区)で大島寿太郎の長男として出生。祖父の大島竹三郎は小幡大島本家第12代当主で、分家の東大島家第2代当主となった後に新愛知新聞社を創業した大島宇吉は一芳の大叔父に当たる。 1936年(昭和11年)に慶應義塾大学経済学部を卒業して大叔父の宇吉が経営する新愛知新聞社へ入社、戦時中は上海支局駐在。
梅原 文雄(うめはら ふみお、1912年(明治45年)6月6… 梅原 文雄(うめはら ふみお、1912年(明治45年)6月6日 - 1986年(昭和61年)11月14日)は、日本の実業家、合唱指揮者。元共和証券株式会社取締役常務、逝去時同社監査役。 神奈川県に生まれる。慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部を経て、1935年(昭和10年)慶應義塾大学経済学部卒業。在学時は慶應義塾ワグネル・ソサィエティーに所属。バリトンソリスト及び学生指揮者として活躍した。木下保に師事。 1935年(昭和10年)から家業の共和証券株式会社に奉職。 1939年(昭和14年)に、慶應ワグネルの指揮者であった山口雅章が死去し、その後「やむをえず」(第88回定期演奏会(1963年)プログラムにおける梅原の寄稿より)OBの梅原が合唱パートの指揮者を引き継ぐこととなった。
板倉 譲治(いたくら じょうじ、明治45年(1912年)6月… 板倉 譲治(いたくら じょうじ、明治45年(1912年)6月3日 - 平成9年(1997年)4月8日)は、日本の財界人。三井銀行取締役社長、全国銀行協会連合会会長等を歴任。父親は貴族院勅選議員の板倉卓造。東京出身。 慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部卒業。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
山岸 二郎(やまぎし じろう, 1912年〈明治45年〉5月… 山岸 二郎(やまぎし じろう, 1912年〈明治45年〉5月23日 - 1997年〈平成9年〉1月30日)は、福岡県門司市(現在の北九州市門司区)出身の男子テニス選手。慶應義塾大学卒業。主に1930年代後半に活躍し、全日本テニス選手権でシングルス4勝、ダブルス5勝を挙げた。世界的な評価も高く、1938年に世界ランキング8位になった。 1937年全米選手権で4回戦に進出。これは71年後に錦織圭が進出するまで最後の日本人男子全米4回戦以上進出記録だった。 キリンビールの重役などを務めた山岸慶之助の次男として生まれる。兄の成一も三菱商事のテニス選手。慶應大学政治科卒業後、旭硝子勤務。妻の辰子(日比谷平左衛門孫)はスカル選手。
今井 哲夫(いまい てつお、1912年(明治45年)5月20… 今井 哲夫(いまい てつお、1912年(明治45年)5月20日 - 1987年(昭和62年)12月27日)は、日本の政治家。新潟県柏崎市長を2期8年(1979年 - 1987年)務めた。 青年期には陸上競技選手(長距離走)として活躍し、慶應義塾大学在学中に箱根駅伝に出走したほか、3000メートル障害で当時の日本記録を更新した。1936年ベルリンオリンピックに3000メートル障害で出場。 新潟県刈羽郡比角村(現在は柏崎市の一部)出身。1922年(大正11年)、比角尋常高等小学校(現在の柏崎市立比角小学校)5年生の際に、新潟県少年オリンピック大会での総合優勝に貢献する。旧制新潟県立柏崎中学校(現在の新潟県立柏崎高等学校)に進学、近県中学校競技大会で4種目優勝を果たした。
櫻内 義雄(さくらうち よしお、1912年〈明治45年〉5月… 櫻内 義雄(さくらうち よしお、1912年〈明治45年〉5月8日 - 2003年〈平成15年〉7月5日)は、日本の政治家。衆議院議員(18期)、衆議院議長(第67代)、外務大臣(第106代)、建設大臣(第41代)、国土庁長官(第6代)、農林大臣(第44代)、通産大臣(第23-24代)、自由民主党政務調査会長(第20・25代)、自由民主党幹事長(第21・22代)。日蓮宗全国檀信徒協議会会長。位階は従二位、勲等は勲一等。 商工大臣、農林大臣、大蔵大臣などを歴任した櫻内幸雄は父、中国電力会長を務めた櫻内乾雄は兄にあたる。 東京生まれ。幼稚舎から慶應義塾に学び、慶應義塾大学経済学部卒業、鐘紡に入社する。
櫻内 義雄(さくらうち よしお、1912年(明治45年)5月… 櫻内 義雄(さくらうち よしお、1912年(明治45年)5月8日 - 2003年(平成15年)7月5日)は、日本の政治家。衆議院議員(18期)、衆議院議長(第67代)、通産大臣、農林大臣、建設大臣、国土庁長官、自民党政調会長、外務大臣、自由民主党幹事長などを歴任。元日蓮宗全国檀信徒協議会会長。従二位勲一等。
前田 喜代士(まえだ きよし、1912年4月20日 - 19… 前田 喜代士(まえだ きよし、1912年4月20日 - 1938年1月)は、福井県出身のプロ野球選手。 武生中学では主将で4番中堅手だった。卒業後は慶大に進むも病気で中退。その後、ノンプロの呉羽紡績、日本レイヨンでプレーした。 1936年、名古屋軍の結成に参加し、そのまま入団。最初の公式リーグ戦である1936年春の第一回日本職業野球リーグ戦では左翼手として活躍し、5月17日の東京セネタース(鳴海球場)戦では、石原繁三からランニングホームランを打った。これは球団史上初めての本塁打である(日本プロ野球公式戦でも、同年5月4日に本塁打を打った藤井勇(大阪)に次いで第二号本塁打である)。同年秋の第二回日本職業野球リーグ戦においても12月7日の東京セネタース(洲崎球場)戦で、同じ石原繁三から日本プロ野球公式戦史上初の代打本塁打を打つなど、長打力のある打者として、弱小・名古屋軍を支えた。
金森 直一(かなもり なおかず、1912年3月18日 - 1… 金森 直一(かなもり なおかず、1912年3月18日 - 1998年6月30日)は、日本の経営者。長崎県出身。 1934年に慶應義塾高等部を卒業し、1937年に日産火災海上保険に入社。1959年に取締役に就任し、1963年に常務、1966年に専務を経て、1969年6月に副社長に就任し、1974年4月には社長に昇格し、1977年4月までに務めた。 1976年9月に藍綬褒章を受章し、1982年11月に勲四等瑞宝章を受章。 1998年6月30日腎不全のために死去。86歳没。
穴水 清彦(あなみず きよひこ、1912年2月14日 - 1… 穴水 清彦(あなみず きよひこ、1912年2月14日 - 1979年9月29日)は、日本の経営者。相模鉄道社長を務めた。父親は京王電気軌道の社長を務めた穴水熊雄。 山梨県出身。1935年に慶應義塾大学経済学部を卒業。 北海道配電監事を経て、1944年6月に東京急行電鉄取締役と相模鉄道常務に就任し、1947年6月に相模鉄道専務、1962年9月に相模鉄道副社長を経て、1965年11月に相模鉄道社長に就任。1976年6月には会長に就任した。 1970年6月に運輸大臣表彰を受け、1968年に紺綬褒章を受章し、1974年に藍綬褒章を受章。 1979年9月29日、腎不全のために死去。67歳没。墓所は多磨霊園(10-1-7-2)。
岸本 正治(きしもと まさはる、1912年 - 没年不明)は… 岸本 正治(きしもと まさはる、1912年 - 没年不明)は、兵庫県出身の野球選手。
河石 達吾(かわいし たつご、1911年(明治44年)12月… 河石 達吾(かわいし たつご、1911年(明治44年)12月10日 - 1945年(昭和20年)3月17日)は、大日本帝国陸軍の軍人、最終階級は陸軍大尉。水泳選手。1932年ロサンゼルスオリンピック100m自由形銀メダリスト。慶應義塾大学法学部出身。
松本 七郎(まつもと しちろう、1911年11月15日 ‐ … 松本 七郎(まつもと しちろう、1911年11月15日 ‐ 1990年5月15日)は、日本の政治家。位階は従三位。元衆議院議員(11期)。 福岡県北九州市出身。実業家・松本健次郎の七男。1937年、慶應義塾大学法学部政治科を卒業。同大法学部助手、高等部講師、時事新報記者、黒崎窯業社員を経て1946年、戦後初の総選挙で福岡2区から初当選した。日本社会党では教宣局長、国際局長などに就いた。 1949年、妻であった松尾千代子と離婚。松尾は文化放送でプロデューサーを務めながら引き取った子供を育てた。 日本社会党に属し、1960年の安保国会では飛鳥田一雄・石橋政嗣・岡田春夫・戸叶里子らとともに「安保7人衆」の一人として政府追及の先頭に立った。
手塚 豊(てづか ゆたか、1911年〈明治44年〉11月8日… 手塚 豊(てづか ゆたか、1911年〈明治44年〉11月8日 - 1990年〈平成2年〉4月14日)は、日本の法制史学者。慶應義塾大学名誉教授。 愛知県名古屋市出身。1935年慶應義塾大学法学部卒業。1958年「明治初期刑法史の研究」で、法学博士(慶應義塾大学)の学位を取得。慶應義塾大学法学部助教授、教授、1977年定年退任、名誉教授。
千種 義人(ちぐさ よしんど、1911年10月24日 - 2… 千種 義人(ちぐさ よしんど、1911年10月24日 - 2000年9月3日)は、日本の理論経済学者、慶應義塾大学名誉教授、関東学園大学名誉教授。広島修道大学学長。紫綬褒章受章。 1911年、兵庫県で生まれた。慶應義塾大学経済学部に入学し、金原賢之助のゼミナールに所属した。1937年に同大学を卒業し、ドイツ留学。 1937年、慶應義塾大学経済学部助手に採用された。1943年に助教授昇格。1944年からは警察大学校講師も兼任。 戦後も変わらず経済原論を担当した。1949年に教授に昇任。1960年、学位論文『資本主義計画経済の研究』を慶應義塾大学に提出して経済学博士を取得。1959年より1年間、ケンブリッジ大学およびハーバード大学に派遣研究留学。
徳大寺 伸(とくだいじ しん、本名・寺田静夫、1911年〈明… 徳大寺 伸(とくだいじ しん、本名・寺田静夫、1911年〈明治44年〉10月5日 - 1995年〈平成7年〉7月19日)は、日本の俳優、実業家。慶應義塾大学中退。 赤坂の料亭「金林」を営む寺田きんの店に、歌舞伎役者の六代目尾上菊五郎がよく訪れていたのがきっかけで、実弟である後の七世尾上梅幸が養子となる。 慶應義塾大学中退後、1932年に松竹に入社。当初は文芸係兼舞台監事として勤務していたが、松竹社長の大谷竹次郎の推薦で俳優に転向。松竹蒲田撮影所に転籍する。翌年、『大学の若旦那』でデビュー。当初の芸名は大綱豪であったが、名前が強すぎるとのことで、徳大寺伸に変更する。芸名の由来は、徳大寺の大は当時の松竹社長であった大谷社長の大の字をとり、伸は長谷川伸の伸の字をとったとのことである。
安田 潤(やすだ じゅん、本名:安田凖之助 、1911年(… 安田 潤(やすだ じゅん、本名:安田凖之助 、1911年(明治44年)10月5日 - 1989年(平成元年)1月12日)は、日本の口笛奏者。初代安田善次郎が総帥の旧安田財閥一門の出自ながら数奇な運命を辿った末、40歳半ばで趣味の口笛の音楽化を志す。以後、「口笛は詞(言葉)がない歌」を信条にして独学で研鑽を重ね、日本初の口笛ソリストとして活躍した。 口笛は、通常息を吐きながら音を出すが、安田は息を吸い込みながら高音を出す奏法も行ない、その倍音を響かせた音色は聴衆を魅了した。キングレコードで制作・発売されたLPレコード3作のうち2作は国立国会図書館に収蔵されている。なお、2025年(令和7年)2月、LPレコード3作の代表曲がキングレコード㈱の音楽配信で再販復活した(詳細は後掲ディスコグラフィ欄に記載)。
西川 五郎(にしかわ ごろう、1911年(明治44年)10月… 西川 五郎(にしかわ ごろう、1911年(明治44年)10月1日 - 1999年(平成11年)2月14日)は、日本の実業家。西川産業社長、昭和西川社長,大阪西川社長、京都西川会長。 現在の滋賀県近江八幡市出身。貴族院議員や八幡銀行頭取を務めた十二代西川甚五郎の五男として1911年に生まれる。西川産業会長、参議院議員、北海道開発庁長官を務めた十三代西川甚五郎は実の兄。慶應義塾大学経済学部を卒業し、1967年に西川産業の社長に就任した。 1968年にはグッドデザイン賞を初受賞し、1970年には新合繊わたファロンを開発した。他にも、積極的に業界初の試みをしていった。1971年にはデザイナー ウンガロとデザイン提携をし、1972年には森英恵やmarimekko社と提携した。
永田 亮一(ながた りょういち、1911年9月26日 - 1… 永田 亮一(ながた りょういち、1911年9月26日 - 1997年1月13日)は、日本の政治家。位階は従三位。衆議院議員(10期)。 兵庫県三原郡倭文村(現南あわじ市倭文長田)に東京市長などを務めた永田秀次郎の長男として生まれる。1935年慶應義塾大学経済学部卒業。 王子製紙勤務等を経て、1952年の総選挙で旧兵庫2区から立候補し当選。以後、衆議院議員を通算10期務め、自由党→日本民主党→自由民主党に属した。外務政務次官・衆議院外務委員長などを歴任するが、大臣の経験はなかった。 岸信介と行動を共にし、岸派の分裂と共に藤山派に参加。更に水田派から田中派に所属を変えるが、同じ淡路島を地盤とする原健三郎が船田派から中曽根派に転籍すると政治力に圧倒され末期には当落を繰り返した。
本田 親喜(ほんだ ちかよし、1911年8月17日 - 19… 本田 親喜(ほんだ ちかよし、1911年8月17日 - 1989年5月22日)は、アメリカ合衆国ハワイ州出身のプロ野球選手・監督。
白井 震四郎(しらい しんしろう、1911年(明治44年)7… 白井 震四郎(しらい しんしろう、1911年(明治44年)7月15日 - 1982年(昭和57年)10月23日)は、日本の実業家。 日本高周波鋼業元取締役会長。神戸製鋼所元常務取締役。日本発条・尼崎製釘所(現・アマテイ)元各取締役。鋼材倶楽部・日本鉄鋼輸出組合(現・日本鉄鋼連盟)各元理事。 福島県会津若松市出身。衆議院議員を務めた白井新太郎の四男として生まれる。 祖父の白井五郎太夫は林安定とともに藩大砲隊頭を務め、鳥羽・伏見の戦いで討死した。なお父・新太郎の先妻は盛岡藩家老のち外交官の南部次郎(東政図)の次女・恵子、後妻は湯長谷藩の藩主家当主内藤政潔の叔母・董子である。また、兄(父・新太郎の養子)の白井龍一郎は加波山鉄道社長などを務めた実業家であり、龍一郎の妻は子爵山内豊健の姉で、幕末の土佐藩主山内容堂の孫にあたる。
野口 冨士男(のぐち ふじお、1911年7月4日 - 199… 野口 冨士男(のぐち ふじお、1911年7月4日 - 1993年11月22日)は、日本の小説家。戸籍名は平井冨士男。日本文芸家協会理事長。 東京市麹町区生まれ。1913年に両親が離婚。慶應義塾幼稚舎では同級生に岡本太郎、藤山一郎がいた。慶應義塾普通部を経て、慶應義塾大学文学部予科に進むが留年、1930年に文化学院文学部へ転校する。1933年、文化学院卒業。 卒業後は紀伊国屋出版部で『行動』の編集に当たった。1935年、紀伊国屋出版部の倒産にともなって、都新聞社に入社。昭和10年代、『あらくれ』『現代文学』などの同人雑誌に執筆する。1936年から1937年まで河出書房に勤務。1938年、母方の籍に入って平井姓となる。
尾上 清(おのえ きよし、1911年(明治44年)5月23日… 尾上 清(おのえ きよし、1911年(明治44年)5月23日 - 1988年(昭和63年)2月9日)は、日本の実業家。アパレル企業・レナウンの戦後創業者。 レナウンの前身は大阪で佐々木八十八(ささき やそはち)と尾上設蔵(せつぞう)によって1902年に創業されたメリヤス等の繊維卸売業「佐々木営業部」。 1911年、尾上清は同社の支配人、尾上設蔵の長男として大阪市住吉区帝塚山に生まれた。帝塚山学院小学部、住吉中学をへて慶應義塾高等部に進む。卒業と同時に東京佐々木営業部に入社。同期入社に本間良雄、鈴木達雄、尾上俊郎など後の最高幹部たちがいた。 1922年、英国皇太子エドワードが巡洋戦艦レナウンで具奉艦ダーバン(英語版)とともに訪日。
田中 精一(たなか せいいち、1911年(明治44年)4月2… 田中 精一(たなか せいいち、1911年(明治44年)4月26日 - 1998年(平成10年)6月24日)は、昭和から平成にかけて活動した日本の実業家。位階は従三位。 中部電力第4代代表取締役社長(のち会長・相談役)を務め、名古屋財界の重鎮であった。 中部電力以外では東海旅客鉄道(JR東海)代表取締役会長、中部経済連合会会長、日本電気協会会長、西ドイツ名誉領事、中部新国際空港建設促進協議会代表理事、名古屋グランパスエイト会長、ナゴヤドーム会長、財団法人東海産業技術振興財団理事長などを歴任。 勲等は勲一等瑞宝章。西ドイツからドイツ連邦共和国功労勲章大功労十字章、フランス政府からレジオン・ド・ヌール勲章を受章。
田中 昌司(たなか まさじ、1911年3月18日 - 200… 田中 昌司(たなか まさじ、1911年3月18日 - 2002年6月11日)は、日本の経営者。澁澤倉庫社長、会長を務めた。 埼玉県北葛飾郡鷲宮町出身。1935年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に澁澤倉庫に入社。1958年に取締役に就任し、1961年に常務、1964年に専務、1967年11月に副社長を経て、1973年5月には社長に就任。1985年6月に会長を経て、1991年6月には相談役に就任。 2002年6月11日くも膜下出血のために死去。91歳没。