野依 秀市(のより ひでいち、1885年(明治18年)7月1… 野依 秀市(のより ひでいち、1885年(明治18年)7月19日 - 1968年(昭和43年)3月31日)は、日本のジャーナリスト、思想家、歴史家、評論家、政治家。本名同じ。旧名義は野依 秀一(のより しゅういち)。筆名は不屈生。 明治・大正・昭和の3つの時代にわたって活動し、雑誌『実業之世界』、日刊紙『帝都日日新聞』、仏教雑誌『真宗の世界』等を創刊・運営した。また、「右翼ジャーナリスト」、「言論ギャング」、「ブラック・ジャーナリズムの祖」等の異名を持った。敗戦後のGHQ検閲(プレスコード)による没収図書は個人では断トツであり、表の言論史では抹殺された存在である。慶應義塾で机を並べた石山賢吉とは表と裏の関係になった。
渡辺 七郎(渡邊 七郎、わたなべ しちろう、1885年(明治… 渡辺 七郎(渡邊 七郎、わたなべ しちろう、1885年(明治18年)4月8日 - 1933年(昭和8年)4月26日)は、大正・昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。 会計検査院長・渡邊昇の長男として生まれる。父の死去に伴い、1913年(大正2年)12月10日、子爵を襲爵した。 1915年(大正4年)慶應義塾大学部法律科を卒業。1921年(大正10年)大日本武徳会商議員に就任した。 1924年(大正13年)3月8日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し死去するまで3期在任した。 1933年(昭和8年)に七郎が没した後は、長男の武宣が襲爵。さらに1938年(昭和13年)に武宣が没すると、弟の武治が襲爵した。
大和田 健三郎(おおわだ けんざぶろう、1884年(明治17… 大和田 健三郎(おおわだ けんざぶろう、1884年(明治17年)12月 - 1943年(昭和18年)8月4日)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。 茨城県新治郡石岡(現・石岡市)出身。渡邊盛作の三男として生まれ、大和田三郎左衛門の養子となる。慶應義塾大学部理財科で学んだ。 1917年(大正6年)より石岡町会議員のほか、新筑酒造、新筑醤油醸造各組合長、鹿島参宮鉄道、北総電気、茨城電気の各取締役などを歴任する。 のち茨城県多額納税者として貴族院議員に互選され、1932年(昭和7年)9月29日から1939年(昭和14年)9月28日まで1期在任し、同成会に所属した。
原 泰一(はら たいいち、1884年(明治17年)11月 -… 原 泰一(はら たいいち、1884年(明治17年)11月 - 1977年(昭和52年)7月23日)は、貴族院勅選議員、日本赤十字社副社長。救護法の大家であり、方面委員(現在の民生委員制度)を考案した。旧姓・大藪。 江戸南町奉行所与力・原胤昭の養子。岐阜県安八郡大藪の庄屋青木松三郎の長男として生まれる。1908年(明治41年)に慶應義塾大学理財科を卒業後、三井銀行に入社。1921年(大正10年)に米国留学。 1923年(大正12年)に欧米を視察し、1924年(大正13年)以降司法省事務嘱託、少年保護司、内務省社会局事務嘱託、保険調査会委員、中央社会事業委員会委員、軍事保護院専門委員等のほか、中央社会事業委員会理事、東京盲人会副会長、国際社会事業会議日本委員会常任理事等となり、社会保険制度調査会委員、日本赤十字社副社長となる。
秋山 孝之輔(あきやま こうのすけ、1884年10月5日 -… 秋山 孝之輔(あきやま こうのすけ、1884年10月5日 - 1970年10月23日)は、日本の経営者。栃木県栃木市出身。 1905年に慶應義塾大学法学部政治科を卒業し、1910年に大日本製糖に入社。常務、専務、副社長を経て、1949年6月には日本専売公社総裁に就任し、1953年5月までに務めた。慶應義塾大学理事も務めた。 1964年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1970年10月23日心不全のために死去。86歳没。
山田 又司(やまだ またじ、1884年9月3日 - 1963… 山田 又司(やまだ またじ、1884年9月3日 - 1963年7月21日)は、日本の政治家。衆議院議員(5期)。 新潟県出身。1908年(明治41年)、慶応義塾大学政治科卒。鉱業に従事する。長岡市議、新潟県会議員を務め、長岡市青年会長、新潟港湾調査会顧問、長岡商業会議所特別議員、日本金鉱、会津石膏各(株)社長、大阪機械製作所、日蘭公司、北越新報、中央証券取引所各(株)取締役、長岡鉄道、北越印刷各(株)監査役となる。 1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙において新潟2区(小選挙区制)から憲政会公認で立候補して初当選。1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙において新潟3区(当時)から立憲民政党公認で立候補して再選。
岡崎 忠雄(おかざき ただお、1884年(明治17年)5月2… 岡崎 忠雄(おかざき ただお、1884年(明治17年)5月20日 - 1963年(昭和38年)5月1日)は、大正、昭和期の実業家、企業経営者。岡崎財閥の創業者で、神戸財界の雄と呼ばれた岡崎藤吉の婿養子。佐賀県出身。慶應義塾大学部理財科卒業。 岡崎財閥の創業者岡崎藤吉には男子がいなかったため、岡崎藤吉の兄である石丸忠英の息子・石丸忠雄を婿養子に迎えた。これが後の岡崎忠雄である。忠雄は大学卒業後、養父岡崎藤吉が設立した岡崎汽船で海運業に従事したが、一方で1913年(大正2年)7月、神戸財界の有力者によって内外ゴムが創業された際、出資者の一人として名を連ね、更には1917年(大正6年)5月、養父が神戸岡崎銀行を設立した際は、常務に就任するなど、若いうちから後継者として育てられた。
杉 道助(すぎ みちすけ、1884年(明治17年)2月20日… 杉 道助(すぎ みちすけ、1884年(明治17年)2月20日 - 1964年(昭和39年)12月14日)は、日本の実業家。第二次世界大戦後における大阪・関西財界の代表者。曽祖父は吉田松陰の父である杉常道、祖父は松陰の兄の杉民治。 八木商店社長となり、大阪商工会議所会頭を23年間務め、日本商工会議所副会頭、新日本放送(現・MBSメディアホールディングス)社長、海外市場調査会(現・日本貿易振興機構(略称:JETRO(ジェトロ)を設立後、理事長となる。鳩山一郎内閣において日ソ交渉全権顧問、日韓会談首席代表として政界にも関与した。位階は正三位、勲等は勲一等。 山口県山口市に生まれた。父の相次郎は県庁勤めをしていた。
桜井 弥一郎(さくらい やいちろう、旧字体: 櫻井 彌一郞、… 桜井 弥一郎(さくらい やいちろう、旧字体: 櫻井 彌一郞、1883年12月2日 - 1958年5月17日)は、長野県出身の野球選手。 旧制上田中学から1902年慶應義塾大学へ進学。1年先輩には同じく上田中学校から進学した宮原清がいる。 1903年11月21日に行われた第1回早慶戦では慶應のエースとして先発投手に抜擢された。試合は早稲田の河野安通志と投げ合った結果11-9で慶應が勝利し、早慶戦最初の勝利投手となった。河野とは早慶戦で6試合先発として対決し、通算成績は3勝3敗だった。 大学卒業後は豊国銀行に入行。三田倶楽部の会長に就任し、後世の育成に尽力した。1911年第一回慶應野球部アメリカ遠征チーム監督。
広瀬 哲士(ひろせ てつし、1883年〈明治16年〉9月9日… 広瀬 哲士(ひろせ てつし、1883年〈明治16年〉9月9日 - 1952年〈昭和27年〉7月26日)は、日本のフランス文学者。慶應義塾大学教授。岡山県津山市出身。 1883年(明治16年)岡山県勝田郡河辺村瓜生原(現:津山市瓜生原)にて出生する。生家は、曽祖父に書家で有名な広瀬台山がいる。地元の旧制岡山県津山尋常中学(現:岡山県立津山高等学校)へ1期生として入学する。1900年(明治33年)に同校を卒業し、その後、東京にある旧制第一高等学校へ進学する。1904年(明治37年)7月に同校を卒業する。 この後、同年、東京帝国大学文科大学へ進学し、東大ではフランス語を専攻、1907年(明治40年)7月に同大学を卒業した。
鷲沢 与四二(わしざわ よしじ、1883年(明治16年)8月… 鷲沢 与四二(わしざわ よしじ、1883年(明治16年)8月14日 - 1956年(昭和31年)10月1日)は、衆議院議員(立憲民政党→国民同盟)。ジャーナリスト。実業家。 長野県小県郡上田町(現在の上田市)出身。鷲沢由太郎の長男として生まれる。旧制上田中(現在の長野県上田高等学校)を経て、1908年(明治41年)、慶應義塾大学政治科を卒業。慶大在学中は野球部監督を務めた。毎日電報社記者、慶應義塾大学講師を務めた後、時事新報社北京特派員として中国に渡る。北京で日刊英字新聞『ノース・チャイナ・スタンダード』を創刊したほか、北京新聞社社長、北京燕塵社社長、時事新報社顧問を務めた。その後、雑誌『ベースボール』を発行し、社長を務めた。
三船 久蔵(みふね きゅうぞう、1883年〈明治16年〉4月… 三船 久蔵(みふね きゅうぞう、1883年〈明治16年〉4月21日 - 1965年〈昭和40年〉1月27日)は、日本の柔道家。段位は講道館柔道十段。大日本武徳会柔道範士。 身長159 cm、体重55 kg。小柄な体型ながら空気投げなどの新技をあみ出し、1945年(昭和20年)最高位の十段を授けられ名人の称を受ける。「理論の嘉納、実践の三船」といわれ、柔道創始者である嘉納治五郎の理論を実践することに力をいれたことから柔道の神様とあがめられた。出身地の岩手県久慈市に三船十段記念館が建てられた。 1883年(明治16年)岩手県九戸郡久慈町(のちの久慈市)に生まれる。久慈尋常高等小学校卒業後、郡役所に勤めるも数日で退職。
土屋 興(つちや おき、1883年〈明治16年〉2月25日 … 土屋 興(つちや おき、1883年〈明治16年〉2月25日 - 1927年〈昭和2年〉12月1日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 静岡県駿東郡、のちの沼津町(現沼津市)出身。1910年、慶應義塾大学政治科卒。卒業後はイギリスに留学し、1914年、ロンドン大学政治経済科卒。大阪毎日新聞に入り、記者となる。その後、東洋加工紙、富士護謨工業、富士川製紙、関東紡績各(株)取締役、富士薬品工業(株)監査役、土屋(資)代表社員、荏原郡議、大崎町(現・品川区)議となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において東京13区から立憲政友会公認で立候補して当選する。1924年の第15回衆議院議員総選挙では政友本党公認で立候補して再選した。
島津 健之助(しまづ けんのすけ、1883年(明治16年)1… 島津 健之助(しまづ けんのすけ、1883年(明治16年)1月5日 - 1937年(昭和12年)8月24日)は、明治末から昭和前期の実業家、政治家、華族。貴族院議員、男爵、従四位。 伯爵・島津忠亮の二男に生まれ、明治42年(1909年)12月20日、分家して祖父・佐土原藩主島津忠寛の勲功により男爵を叙爵する。その後、慶應義塾大学部理財科を修了。 1910年(明治43年)国光生命保険相互会社監査役となり、のち同社取締役社長を務めた。 1918年(大正7年)7月10日に貴族院男爵議員に選出され、1925年(大正14年)6月24日まで在任した。
宮原 清(みやはら きよし、1882年12月4日 - 196… 宮原 清(みやはら きよし、1882年12月4日 - 1963年10月16日)は、日本の実業家。日本社会人野球協会初代会長。
伊藤 保平(いとう やすへい、1882年〈明治15年〉8月2… 伊藤 保平(いとう やすへい、1882年〈明治15年〉8月26日 - 1965年〈昭和40年〉6月7日)は、明治末から昭和期の酒造家、実業家、政治家。西宮酒造(現・日本盛)社長、参議院議員。旧姓・大岡、幼名・佐吉郎。 兵庫県武庫郡西宮町浜之町(現・西宮市)で、酒樽製造業・大岡佐平治の二男として生まれる。1892年(明治25年)4月、西宮町三号地の酒造業・伊藤米蔵の養嗣子となり、同年、保平に改名した。1906年(明治39年)4月、慶應義塾大学部理財科を卒業した。 同年4月、共同火災保険(現在のあいおいニッセイ同和損害保険の前身のひとつ)に入社。1912年(明治45年)5月に家督を相続し、6月に西宮酒造取締役に就任した。
塩田 忠左衛門(しおた ちゅうざえもん、前名・賢二郎、188… 塩田 忠左衛門(しおた ちゅうざえもん、前名・賢二郎、1882年〈明治15年〉8月5日 - 1963年〈昭和38年〉6月24日)は、日本の政治家、実業家、香川県多額納税者、地主。香川県三豊郡仁尾町長。仁尾塩田(現・仁尾興産)社長。 衆議院議員を務めた塩田忠左衛門の三男。 香川県三野郡仁尾村(現・三豊市)出身。塩田忠左衛門の三男。1903年4月、慶應義塾大学部理財科卒業。慶應では福沢諭吉に師事してその薫陶を受けた。貿易商森村組(現・日本陶器)に入社した。 1908年10月、森村組を退社して帰省。1925年、家督を相続し前名・賢二郎を改め襲名した。農業、金銭貸付業を営んだ。1927年1月、仁尾塩田株式会社の取締社長に就任した。
大倉 喜七郎(おおくら きしちろう、1882年〈明治15年〉… 大倉 喜七郎(おおくら きしちろう、1882年〈明治15年〉6月16日 - 1963年〈昭和38年〉2月2日)は、大倉財閥2代目総帥。男爵。東京(赤坂区葵町、現東京都港区虎ノ門)生まれ。長唄の名を聴松。 父は大倉財閥創始者の大倉喜八郎。異母弟の大倉雄二(1919年〈大正8年〉 -1991年〈平成3年〉)は父喜八郎・兄喜七郎の回想・評伝を3冊執筆している。 父喜八郎の事業を引き継いで財閥の発展につとめ、戦後の公職追放、財閥解体などの難局に直面しながらも、特にホテルオークラ、川奈ホテル、赤倉観光ホテルをはじめとする、日本のホテル業に大きな足跡を残した。 気さくで気前がよく、派手好みなハイカラ男爵だったため、周囲からは「バロン・オークラ」と呼ばれて親しまれていた。
守田 保太郎(もりた やすたろう、1882年〈明治15年〉3… 守田 保太郎(もりた やすたろう、1882年〈明治15年〉3月27日 - 1959年〈昭和34年〉12月12日)は、日本の実業家。ラヂウム製薬社長。守田商店代表。族籍は東京府平民。 東京府・守田重次郎の長男。守田治兵衛の従兄。1918年、家督を相続した。大成中学卒業。慶應義塾大学に学んだ。武田長兵衛商店に勤務した。ラヂウム製薬会社に入り専務取締役を経て社長となる。 宗教は真宗、あるいは浄土宗。趣味は読書。住所は東京大森区新井宿、牛込市谷本村町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
村瀬 末一(むらせ すえいち、1882年(明治15年)1月2… 村瀬 末一(むらせ すえいち、1882年(明治15年)1月27日 - 1953年(昭和28年)3月24日)は、大正から昭和にかけて活動した日本の実業家。主として電気事業に関係し、当時の大手電力会社である大同電力の副社長などを務めた。岐阜県出身。 村瀬末一は1882年(明治15年)1月27日、村瀬与平の次男として生まれた。出身は岐阜県本巣郡網代村(現・岐阜市)。生家の村瀬家は江戸時代は士分であったが、明治に入り家禄を失い、末一が生まれた頃には所有の山林田畑を売り払って没落していた。 先に勤めに出た兄の支援で上京し慶應義塾普通部に入学。次いで大学部法律科へ進み、1907年(明治40年)、26歳のとき慶應義塾を卒業した。
石山 賢吉(いしやま けんきち、1882年〈明治15年〉1月… 石山 賢吉(いしやま けんきち、1882年〈明治15年〉1月2日 - 1964年〈昭和39年〉7月23日)は、日本の実業家、ジャーナリスト、政治家。ダイヤモンド社創業者であり、東宝劇場や理研電線の役員、東京市会議員、衆議院議員、日本雑誌協会会長、日本読書推進協会会長、東京新潟県人会会長などを歴任した。位階勲等は従四位勲三等。 新潟県西蒲原郡曽根村(現在の新潟市西蒲区)生まれ。出生直後に父と死別し、同県中蒲原郡白根町(後の白根市、現在の新潟市南区)にあった母方の実家にて幼年期~青少年期を過ごした。白根尋常高等小学校卒業後、白根郵便局、加茂郵便局勤務を経て 22歳の時上京。日本大学別科中退後、慶應義塾商業学校(慶大の夜間商業学校)を卒業した。
海江田 準一郎(かいえだ じゅんいちろう、1881年(明治1… 海江田 準一郎(かいえだ じゅんいちろう、1881年(明治14年)10月23日 - 1935年(昭和10年)12月22日)は、明治末から昭和前期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、衆議院議員(1期)、陸軍歩兵少尉。 海江田平治の長男として鹿児島県日置郡市来郷湊村(西市来村、市来町を経て現いちき串木野市)に生まれる。1906年(明治39年)に慶應義塾大学部法律科を卒業。同年、一年志願兵として陸軍に入隊し、陸軍歩兵少尉で除隊した。西市来村会議員を経て、日置郡米穀商同業組合長、海江田銀行頭取、明正社、鹿児島化学研究所、日本橋商事各取締役、東海化学工業監査役などを務めた。 1914年(大正3年)鹿児島県多額納税者として補欠選挙で貴族院多額納税者議員に互選され、同年9月7日から、1918年(大正7年)9月28日まで1期在任。
津田 信吾(つだ しんご、1881年(明治14年)3月29日… 津田 信吾(つだ しんご、1881年(明治14年)3月29日 - 1948年(昭和23年)4月18日)は、大正・昭和期の実業家。鐘紡の第2代社長を務めた。鐘紡争議を収束させ社長となる。昭和初期のインド綿花不買運動で知られる。旧姓西山。 愛知県額田郡岡崎能見町(現・岡崎市)に岡崎藩士・西山芳六の四男として生まれる。7歳の時に福井県庁の土木課長を務めていた津田於菟の養子となる。福井県立福井小学師範学校から福井県尋常中学校に進む。2年浪人したのち慶應義塾大学予科に入学。同大学卒業後、鐘淵紡績に工員として入社。1911年(明治44年)、西大寺工場長に就任。ついで淀川工場長となる。1930年(昭和5年)に副社長となり、同年4月から6月にかけて八つの工場で発生した労働争議(いわゆる鐘紡争議)の解決にあたる。
平野 光雄(ひらの みつお、1881年(明治14年)1月1日… 平野 光雄(ひらの みつお、1881年(明治14年)1月1日 - 1958年(昭和33年)7月26日)は、日本のジャーナリスト・政治家。政治家としては憲政会→立憲民政党に所属し、衆議院議員選挙に通算6回当選し逓信参与官を務めた。 静岡県庵原郡由比町(現在の静岡市清水区)出身。1910年(明治43年)、慶應義塾大学部政治科を卒業。『時事新報』記者を務めた。 1922年(大正11年)、衆議院議員補欠選挙に出馬し当選。第20回衆議院議員総選挙に至るまで6回当選を果たした。その間、岡田内閣で逓信参与官を務めた。 1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙では大政翼賛会の推薦を受けたが落選した。 戦後、公職追放となる。
田中 長一郎(たなか ちょういちろう、1881年 - 196… 田中 長一郎(たなか ちょういちろう、1881年 - 1969年)は、日本近代製鉄の礎を築いた二代目・田中長兵衛の長男。父を補佐し家業である製鉄・鉱山業を支えた。 東京は京橋区にて二代目長兵衛と母・よきの間に長男として生まれる。弟・長五郎(1883年生)あり。1896年(明治29年)4月に慶應義塾入社、幼稚舎を経て大学部に進む。1つ年上の従兄弟・横山長次郎と共に1901年(明治34年)の慶應大学庭球部創立メンバーの一人となり、同年秋に一橋大学と行った対抗戦にも出場。学業よりも実地を重んずる厳格な祖父(初代長兵衛)の方針に従い慶應義塾を退学すると、1907年(明治40年)頃から佐渡や生野、足尾、別子など全国の鉱山を視察して回った。
浜田 精蔵(濱田 精藏、はまだ せいぞう、1880年(明治1… 浜田 精蔵(濱田 精藏、はまだ せいぞう、1880年(明治13年)12月9日 - 1926年(大正15年)9月8日)は、明治末から大正期のジャーナリスト、実業家、政治家。衆議院議員、福岡市会議長。清蔵の表記有り。 鹿児島県 姶良郡、のちの加治木村(加治木町を経て現姶良市)で、浜田清四郎の二男として生まれた。1905年(明治38年)慶應義塾大学政治科を卒業した。 時事新報記者となりロンドン特派員、経済部長などを務めた。千代田生命保険に転じ、福岡支部長などを務めた。その後、博多商業会議所副会頭、諏訪炭礦専務取締役、西部合同瓦斯会社(現西部ガスホールディングス)社長、日本水電取締役などを務めた。 政界では、福岡市会議員に選出され、同議長にも在任した。
島本 信二(しまもと しんじ、1880年12月2日 - 19… 島本 信二(しまもと しんじ、1880年12月2日 - 1927年12月31日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 熊本県出身。慶應義塾大学で学び、アメリカへ留学する。帰国後、熊本県会議員となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において熊本6区から立憲政友会公認で立候補して当選する。1924年の第15回衆議院議員総選挙では政友本党公認で立候補して再選した。のち政友会に戻り、衆議院議員を2期務めた。1927年在職中に死去した。
青木 知四郎(あおき ちしろう、明治13年(1880年)9月… 青木 知四郎(あおき ちしろう、明治13年(1880年)9月7日 - 昭和50年(1975年)2月22日)は、衆議院議員(1期)、鉄道実業家。藍綬褒章受章者。 岐阜県羽島郡、後の上中島村(現羽島市)出身。明治41年(1908年)慶應義塾大学部法律科卒業。1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙で岐阜県四区から選出され、立憲民政党に所属。加藤六蔵(愛知)、東郷実(鹿児島)、三橋四郎次(静岡)ら9名と共に農民党議員として知られた。 岐阜県会議員、同参事会員、岐阜県農会議員、同農事協会副会長、羽島郡農会会長、同農事協会長。岐阜製氷、日本絹布会社、濃飛農工銀行各監査役。竹鼻銀行、竹鼻鉄道取締役を経て赤坂通運社長などを歴任した。
板倉 卓造(いたくら たくぞう、明治12年(1879年)12… 板倉 卓造(いたくら たくぞう、明治12年(1879年)12月9日 - 昭和38年(1963年)12月23日)は、日本の法学者、ジャーナリスト、新聞経営者、政治家。慶應義塾大学法学部教授。時事新報社長。貴族院勅選議員。広島県比婆郡庄原村(現庄原市)生まれ。息子は三井銀行(現・三井住友銀行)社長を務めた板倉譲治。 庄原英学校を経て1895年、慶應義塾普通部に入学。その後大学部理財科に進んだが政治科に転じ、卒業後の1903年、普通部の英語教師となる。1905年恩師の福沢諭吉が創立した「時事新報」に入り社説を担当。自由主義の論陣を張り、福沢亡きあとの「時事新報」の論壇を支えた。1907年米英仏に留学し、コロンビア大学でウィリアム・アーチボルド・ダニング(英語版)に、イギリスでラサ・オッペンハイムに師事した。
松野 喜内(まつの きない、1879年〈明治12年〉9月15… 松野 喜内(まつの きない、1879年〈明治12年〉9月15日 - 1954年〈昭和29年〉10月30日)は、大正から昭和期の教育者、政治家。慶應義塾大学教授、参議院議員などを務めた。 岐阜県本巣郡、のちの西郷村(現在の岐阜市)で松野喜一の三男として生まれる。1915年(大正4年)慶應義塾大学部理財科を卒業し、さらに渡米して1920年(大正9年)コロンビア大学経済学科を卒業した。 小学校教員、明治生命保険会社社員、国際労働会議臨時嘱託などを経て、慶應義塾大学教授に就任した。その他、東京高等工芸学校講師、立教大学講師、武蔵高等工業学校(現在の東京都市大学)講師、聖徳学園保姆養成所(現在の聖徳大学幼児教育専門学校)所長、日米文化りばてい塾長などを務めた。
小寺 源吾(こでら げんご、1879年(明治12年)9月7日… 小寺 源吾(こでら げんご、1879年(明治12年)9月7日 - 1959年(昭和34年)6月15日)は、日本の実業家。大日本紡績(ニチボー・ユニチカの前身)元社長。旧姓は西松。養家・小寺家共々岐阜県出身。(『小寺源吾別荘 (「世界の有名な別荘地#日本#兵庫県」の節)』、「日本一の富豪村・住吉村の本邸」も参照) 岐阜県平民西松権兵衛の三男にして西松喬の実弟。兵庫県及岐阜県士族・小寺成蔵の婿養子となった。1903年4月、慶應義塾大学部理財科を卒業。 同年尼崎紡績に入社。1918年、大日本紡績取締役となる。 1936年、綿業会館(日本綿業倶楽部)で開催された臨時株主総会の決議により同社社長に就任した(58歳)。
高石 真五郎(たかいし しんごろう、1878年(明治11年)… 高石 真五郎(たかいし しんごろう、1878年(明治11年)9月22日 - 1967年(昭和42年)2月25日)は、日本のジャーナリスト、実業家。国際オリンピック委員会(IOC)委員。毎日新聞社最高顧問。特殊法人日本自転車振興会第2代会長。 千葉県鶴舞町(現在の市原市)で高石四郎治の五男として生まれた。1901年(明治34年)に慶應義塾大学法学部を卒業すると共に、紹介により小松原英太郎の秘書となるが、7月に小松原が当時社長を務めていた大阪毎日新聞社に外国通信部員として入社する。 1902年(明治35年)に三井家から援助を受け、社籍を置いたままイギリスに留学するが、1904年(明治37年)の日露戦争開戦によりデイリー・エクスプレスの嘱託記者となり、翌年末には大阪毎日の特派員としてロシアのサンクトペテルブルクに赴いて半年以上現地に滞在し、その状況を日本に伝えた。
岡本 癖三酔(おかもと へきさんすい、明治11年〈1878年… 岡本 癖三酔(おかもと へきさんすい、明治11年〈1878年〉9月16日 - 昭和17年〈1942年〉1月12日)は、戦前日本の俳人、画家。有季自由律を代表する俳人で、俳画の先覚者としても非常に評価が高い。本名は簾太郎、別号に笛声、碧山水など。 父親は小田原藩士の岡本貞烋で、家庭は厳格を極めた。父の赴任先である群馬県高崎で生まれる。出生地は高崎とも前橋とも。幼稚舎から慶應義塾普通部に進み、慶應義塾大学を卒業。日本画を川端玉章に師事。 芸術としての俳句は正岡子規・河東碧梧桐に至って完成されたとの観点から、慶大在学中から正岡子規に師事。俳句、俳文、連句を学び、日本派、秋声会系の俳人として出発し、26歳の若さで第一期黄金時代の『ホトトギス』、『時事新報』の俳句選者を務め、松根東洋城、高浜虚子らと共に「俳諧散心(「日盛会」とも称した)」を唱える。
今城 定政(いまき さだまさ、1878年(明治11年)7月1… 今城 定政(いまき さだまさ、1878年(明治11年)7月19日 - 1958年(昭和33年)12月3日)は、明治後期から昭和前期の政治家、華族。貴族院議員。従二位勲二等、研究会所属。初名・棄彦。 旧堂上家の中山家から分家した今城家(子爵)の当主である。中山孝麿の長男で、今城定徳の婿養子。 学習院や同人社の童子科を中退し、1889年(明治22年)、慶應義塾幼稚舎へ転ずる。1892年(明治25年)12月12日に定政と改名した。1901年(明治34年)に慶應義塾大学部政治科第一回の卒業生となる。同窓には、堀内輝美、久田宗作、松村松太郎らがいる。 1902年(明治35年)、イギリス国王・エドワード7世戴冠式に明治天皇の名代として派遣された小松宮彰仁親王に父が随行した際、通弁役として渡英し、さらにヨーロッパを視察して回る。
里見 純吉(さとみ じゅんきち、1878年(明治11年)7月… 里見 純吉(さとみ じゅんきち、1878年(明治11年)7月5日 - 1952年(昭和27年)8月3日)は、日本の実業家、社会教育家。大丸社長、大阪ユネスコ協会会長などを務めたほか、大阪夕陽丘学園高等学校および大阪夕陽丘学園短期大学の源流となる大丸洋裁研究所を創設した。 現在の千葉県山武市松尾町に生まれる。1882年、日本基督教会で受洗する。1903年、慶應義塾大学部理財科を卒業。同大学部助手に就き、直後、助手兼舎監となる。 1908年、三越に入社。1919年、業界視察のために欧米に出張する。1921年、三越を退社し、国際労働機関の会議に商業使用人顧問として出席する。 1923年、大丸の上席専務取締役として入社。
籾山 梓月(もみやま しげつ、明治11年〈1878年〉1月1… 籾山 梓月(もみやま しげつ、明治11年〈1878年〉1月10日 - 昭和33年〈1958年〉4月28日)は、明治後期から戦前にかけての日本の俳壇の重鎮。旧姓は吉村、本名は仁三郎(じんざぶろう)。俳号に庭後、江戸庵など。茶道では宗仁と称す。 俳書堂・籾山書店の経営者であり、俳句総合雑誌の草分け『俳諧雑誌』の創刊者・主宰者。他、『時事新報社』、昭和化学などの取締役を歴任。 東京府日本橋区呉服町にて、代々飛脚屋と両替屋を兼ねる吉村家の9代目・吉村甚兵衛の長男として生まれる。父の吉村甚兵衛が始めた陸運元會社は現在の日本通運の前身である。陸運元會社は東京日本橋佐内町の和泉屋邸内に股立され、江戸時代から続く旧来の飛脚業者の再編成を行い、その元締めをしていた。
植松 雅道(うえまつ まさみち、1877年10月23日 - … 植松 雅道(うえまつ まさみち、1877年10月23日 - 1941年6月3日)は子爵植松家の第3代当主であり、松月堂古流家元。宮内庁式部官を務めた。 植松家は権大納言・千種有能の末子、植松雅永を祖とする旧公卿家。植松雅平の二男として1877年(明治10年)10月に東京で生まれた雅道は、大正天皇の六人の御学友の一人として学習院初等科で学び、1891年(明治24年)7月に卒業。1899年(明治32年)5月に慶應義塾へ入社するも、翌1900年11月に退学し、本籍地である京都へ移った。また一時、岩手県にあって日本で最初にコークス銑を産出した製鉄所として知られた釜石鉱山田中製鉄所に勤めている。 宮内省では主殿寮出張所の殿掌を務め、1915年(大正4年)4月に父・雅平が没すると翌月家督と爵位を継ぐ。
角田 正喬(つのだ まさたか、1877年〈明治10年〉10月… 角田 正喬(つのだ まさたか、1877年〈明治10年〉10月18日 - 没年不詳)は、大正から昭和戦前期にかけての日本の実業家である。主として電気事業に関与し、名古屋電灯やその後身東邦電力で常務を務めた。群馬県出身。 角田正喬は、1877年(明治10年)10月18日、角田徳太郎の長男として生まれた。出生地は群馬県利根郡沼須村(のちの利南村、現・沼田市)。上京して慶應義塾大学部に学び、1903年(明治36年)5月理財科を卒業した。卒業後はまず横浜の石川商会に入るが、翌1904年(明治37年)8月、大阪の商社日本綿花へと転じる。1905年(明治38年)8月からは同社上海支店勤務となった。 1910年(明治43年)に日本綿花を退職し帰国。
森竹 邦彦(もりたけ くにひこ、1877年9月9日 - 没年… 森竹 邦彦(もりたけ くにひこ、1877年9月9日 - 没年不詳)は、日本の実業家。森竹商店経営者、京新聯合会(現・銀座通連合会)初代会長。銀座繁栄の立役者で、銀座通連合会共通商品券の発行等を進めた。 1877年9月9日、機械金物商と熱海にて植林事業を営み公共の為尽くした森竹五郎の長男として生まれる。 慶應義塾、立教大学で学ぶ。その後、横浜にて機械商の見習いを務める。 1898年、英国マンチェスター工業学校(Manchester Technical School、現・マンチェスター大学)で学び、帰国後、家業に従事し、森竹商店の経営者を務める。 森竹商店は、小売りもしていたが、東京市営の水道敷設工事に使用する材料一般を請け負い、水道局へ納入していた。
柴田 常恵(しばた じょうえ、1877年〈明治10年〉7月1… 柴田 常恵(しばた じょうえ、1877年〈明治10年〉7月18日 - 1954年〈昭和29年〉12月1日)は、日本の考古学者。慶應義塾大学講師・文化財専門審議会委員などを歴任。 1877年、愛知県春日井郡大曽根村(現・名古屋市東区)の浄土真宗・瑞忍寺の住職の三男として生まれた。1897年に上京し、苦学しながら私立真宗東京中学高等科に入り、さらに私立郁文館内の史学館で歴史学を学んだ。この頃、坪井正五郎の講演を聴き、考古学に興味を持ったという。1902年に東京帝国大学雇となり、理学部人類学教室に勤務し、1906年には理科大学助手となった。坪井を助け、『東京人類学雑誌』の編輯にあたり、各地の遺跡・遺物の調査に従事した。
加藤 武男(かとう たけお、1877年〈明治10年〉6月5日… 加藤 武男(かとう たけお、1877年〈明治10年〉6月5日 - 1963年〈昭和38年〉10月17日)は、日本の銀行家。吉田内閣経済最高顧問。 栃木県上都賀郡落合村(現・日光市)に、父・昇一郎の長男として生まれる。加藤家は代々の庄屋で広大な山林を所有していた。 旧制宇都宮中学(現在の栃木県立宇都宮高等学校)を経て、1901年(明治34年)慶應義塾大学部理財科卒業。就職先の第一志望は横浜正金銀行であったが、父の薦めにより、同年、三菱合資会社銀行部に入社。 京都支店長、大阪支店長を歴任。1919年(大正8年)に銀行部が独立して三菱銀行となった際に、春藤和などと共に常務取締役に就任。加藤は、1919年(大正8年)の三菱銀行創設と同時に常務となっているが、翌年の恐慌に始まり関東大震災、金融恐慌、満州事変、金輸出再禁止等の激動の時代に身を置き銀行の経営に携わってきた。
朝吹 常吉(あさぶき つねきち、1877年(明治10年)5月… 朝吹 常吉(あさぶき つねきち、1877年(明治10年)5月28日 - 1955年(昭和30年)3月10日)は、日本の実業家。元三越社長。元帝国生命保険(現・朝日生命保険)社長。 長男朝吹英一は木琴(シロフォン)の研究家で日本木琴協会(現 日本マリンバ協会)創立者、三男朝吹三吉は元慶應義塾大学法学部教授(フランス文学)、長女朝吹登水子は翻訳家として知られる。フランス文学者で詩人の朝吹亮二は孫。小説家で第144回芥川龍之介賞を受賞した朝吹真理子は曾孫。2001年、ノーベル化学賞を受賞した野依良治とは親族関係である。 実業家朝吹英二の子として東京府(現・東京都)に生まれた。慶應義塾幼稚舎を経て1893年12月、慶應義塾正科を卒業。
李 堈(り こう、朝鮮語: 이강〈イ・ガン〉、1877年3月… 李 堈(り こう、朝鮮語: 이강〈イ・ガン〉、1877年3月30日 - 1955年8月16日)は、大韓帝国の皇族(王)、のち大日本帝国の公族。朝鮮第26代国王・大韓帝国初代皇帝高宗の五男。 朝鮮国王高宗の五男として誕生する。母は貴人張氏(出産当時は承恩尚宮だった)。異母兄に純宗、異母弟に皇太子・李王となった李垠がいる。幼名は平吉(ピョンギル)。朝鮮王朝の慣例では、国王の庶子は世子が10歳になるまで宮中に入ることはできなかったため、哲宗の女婿朴泳孝のもとで育てられた。その後も興宣大院君の反対でなかなか王子として認知されず、庶民的な生活を強いられた。素行は荒れ、市中の無頼とも付き合うようになったという。
板谷 順助(いたや じゅんすけ、1877年(明治10年)3月… 板谷 順助(いたや じゅんすけ、1877年(明治10年)3月12日 - 1949年(昭和24年)12月20日)は、貴族院勅選議員、衆議院議員、参議院議員。研究会所属。旧姓・山田。 新潟県出身。山田六右衛門の息子として生まれ、初代・板谷宮吉の養子となる。慶應義塾大学卒業後、明治45年(1912年)板谷商船副社長、小樽商業会議所顧問、北海道農友会会頭、札幌電気軌道、渡島海岸鉄道、沙流鉄道、洞爺湖電気鉄道、帝国自動車工業各社長。樺太銀行、平和生命、十合百貨店、日本電気冶金、羽田精機各取締役。 昭和2年(1927年)に栗林五朔急死に伴う北海道5区の補欠選挙において政友会は室蘭から適当な候補者を絞れず小樽の板谷が推薦されることになり、民政党の候補者と争い衆議院議員に当選した。
吉田 長三郎(よしだ ちょうざぶろう、1877年 - 没年不… 吉田 長三郎(よしだ ちょうざぶろう、1877年 - 没年不明)は二代目・田中長兵衛の実弟。兄を補佐し田中鉱山の取締役を務めた。 官省御用達商人として軍への糧食や鉄材の調達を担っていた田中長兵衛の三男として1877年(明治10年)3月17日、後の東京府京橋区に生まれる。長兄の安太郎とは19歳、三姉・きちとも11歳離れた末っ子で、母・みなの実家である吉田家を継いで吉田長三郎を名乗った。慶應義塾幼稚舎より高等科に進み、1897年(明治30年)に卒業。生家田中家の家業である鉱山業に携わる。 1901年(明治34年)11月に実父・長兵衛が死去すると兄の安太郎が家督を相続し二代目・長兵衛を襲名した。長三郎は1904年(明治37年)からその翌年にかけ行われた日露戦争に出征。
山本 清三郎(やまもと せいざぶろう、1876年11月13日… 山本 清三郎(やまもと せいざぶろう、1876年11月13日 - 1933年11月30日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 兵庫県出身。慶應義塾普通部卒。アメリカへ留学し、エール大学とコロンビア大学で学ぶ。燧洋電燈、有馬土地(株)取締役、(株)東洋製鋼所社長となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において愛知6区から立憲政友会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1924年の第15回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1933年に死去した。
高木 利平(たかぎ りへい、1876年(明治9年)10月19… 高木 利平(たかぎ りへい、1876年(明治9年)10月19日 - 1931年(昭和6年)9月7日)は、日本の農業経営者、政治家。衆議院議員、埼玉県北葛飾郡彦成村長。 埼玉県葛飾郡上口村(のち北葛飾郡彦成村、現:三郷市上口)の農家に生まれる。1894年、慶應義塾大学を卒業して家業を継いだ。 彦成村会議員、埼玉県会議員、同参事会員、同副議長、彦成村長などを務めた。 1915年、北葛飾郡の非政友派を取り纏めて北葛飾倶楽部を組織。同年3月、第12回衆議院議員総選挙で埼玉県選挙区から立憲同志会所属で出馬して当選。第13回総選挙では 憲政会所属で出馬して当選したが、1917年10月24日に議員を辞職し、衆議院議員を二期務めた。
田中 徳次郎(たなか とくじろう、1876年(明治9年)5月… 田中 徳次郎(たなか とくじろう、1876年(明治9年)5月15日 - 1933年(昭和8年)5月15日)は、明治末期から昭和初期にかけて活動した日本の実業家。主として電気事業に関与し、戦前期の大手電力会社東邦電力の専務などを務めた。愛知県出身。長男の田中精一は中部電力第4代社長。甥に洋画家の佐分眞がいる。 1876年(明治9年)5月15日、田中嘉七の次男として生まれる。生家は愛知県海西郡弥富町(現・弥富市)で酒造業を営んでいた。1895年(明治28年)慶應義塾理財科を卒業し、横浜の豪商若尾幾造の商店に入る。その後三井銀行に招かれて同社に転じ、1903年(明治36年)より大阪支店にて勤め、支店長代理を経て大阪支店次長まで昇進した。
野口 米次郎(のぐち よねじろう、1875年〈明治8年〉12… 野口 米次郎(のぐち よねじろう、1875年〈明治8年〉12月8日 - 1947年〈昭和22年〉7月13日)は、明治・大正・昭和前期の英詩人、小説家、評論家、俳句研究者。海外の文芸思潮の紹介に携わり、また海外に日本文化を紹介した。イサム・ノグチの父親。内田魯庵からノーベル文学賞の受賞を待望された。 愛知県海部郡津島町(現・津島市)生まれ。雑貨店を営む父・傳兵衛、母・久己(くわ)の四男として生まれた。10歳で英語を学び始める。 1888年(明治21年)生家を離れ名古屋で英学を学び、ユニオン第四読本、スマイルズ著『自助論』を学ぶ。1889年(明治22年)愛知県尋常中学校(現・愛知県立旭丘高等学校)に入学し、ザ・セカンド・ナショナル読本を学ぶも、1890年(明治23年)2月退学し、四日市から海路で上京、伯父である鵜飼大俊和尚旧居である芝・増上寺の通元院に寄寓し、のち現在の銀座に当たる京橋にあった長兄野口秀之助の知人である磯長宅に寄寓。
松永 安左エ門(松永 安左衞門、まつなが やすざえもん、18… 松永 安左エ門(松永 安左衞門、まつなが やすざえもん、1875年(明治8年)12月1日 - 1971年(昭和46年)6月16日)は、「電力王」「電力の鬼」と言われた日本の財界人。政治家(帝国議会衆議院議員1期)。美術コレクター、茶人としても知られ、耳庵(じあん)の号を持つ近代小田原三茶人の一人。氏名は「松永安左ヱ門」と表記されることもある。