金 炳魯(キム・ビョンノ、1888年1月27日(旧暦1887… 金 炳魯(キム・ビョンノ、1888年1月27日(旧暦1887年12月15日) - 1964年1月13日)は、韓国の独立運動家・弁護士・政治家。大韓民国初代大法院長。許憲・李仁と並んで、日本統治下での三大民族弁護士のひとりとして名を馳せた。本貫は蔚山金氏。号は街人(カイン)。 全羅北道淳昌郡の郷班の家に生まれる。 父の金相熹は漢城府の司諫院に正三品で仕官していたため、祖父から儒学の薫陶を受けた。1904年には全羅南道潭陽の日新學校で西洋人宣教師から算術や西洋史などの新学問を学び、1905年の乙巳条約をきっかけに、崔益鉉のもとを訪ねて義兵闘争に参加した。1906年に金性洙の昌興學校に入学し、留学を決意、1910年に渡日し、明治大学法学部(夜間部)に入学、1912年に明治大学高等研究科の3年次に編入し、1915年に卒業した。
斎藤 巌(さいとう いわお、1887年(明治20年)12月2… 斎藤 巌(さいとう いわお、1887年(明治20年)12月22日 - 1934年(昭和9年)2月5日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 熊本県合志郡合志村(現在の合志市)出身。1909年(明治42年)に明治大学法科を卒業した後、長崎市で九州日の出新聞記者となり、1911年(明治45年)に弁護士を開業した。 長崎県会議員、同副議長を経て、1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。また長崎市会議員も兼ねた。
長野 国助(ながの くにすけ 1887年(明治20年)6月1… 長野 国助(ながの くにすけ 1887年(明治20年)6月11日 – 1971年(昭和46年)4月12日)は、日本の弁護士。第3代日本弁護士連合会会長。 1887年、現在の愛媛県今治市生まれ。1912年、明治大学を卒業。1918年、弁護士登録。1921年、自由法曹団の結成に参加。1952年、第3代日本弁護士連合会会長に就任。1964年、学校法人明治大学理事長に就任。 全国人権擁護委員連合会会長も務めるなど、人権擁護活動においても功績を残す。また、裁判官任命諮問委員会委員、国際弁護士団の首席弁護士、日本国際法律家連絡協会会長、日ソ交流協会理事長、日朝協会会長なども務めた。1971年、死去。83歳。
許 憲(ホ・ホン、きょ けん、1885年7月22日 – 19… 許 憲(ホ・ホン、きょ けん、1885年7月22日 – 1951年8月16日)は、朝鮮の政治家、弁護士、独立運動家。 朝鮮王朝時代の咸鏡北道明川郡に生まれる。普成専門学校を経て、日本の明治大学法学部を卒業し、1907年には大韓帝国の弁護士試験に合格した。 1919年の三・一独立運動では、抗日派の代表的な弁護士として活躍した。その後は、朝鮮共産党の創党に参加し、コミンテルンの承認を得るために送られた曺奉岩が1928年2月に上海で日本の領事館警察に逮捕された事に伴い、京城地方裁判所において無償で彼の弁護を担当した。光州学生事件後のデモに関与して逮捕され、弁護士資格を剥奪、1943年には禁止されていた海外の短波放送を聴取した廉で逮捕され、1945年8月の解放まで収監された。
小野寺 章(おのでら あきら、1884年(明治17年)12月… 小野寺 章(おのでら あきら、1884年(明治17年)12月10日 - 1935年(昭和10年)2月3日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、実業家、弁護士。 岩手県東磐井郡黄海村(藤沢町を経て現一関市)に小野寺治平の二男として生まれる。1909年(明治42年)、明治大学を卒業。卒業後は「刑法研究会」をおこして、研究調査に励んだ。1913年(大正2年)、弁護士試験に合格し、法律事務所を開いた。また日本林産株式会社を創業して取締役に就任し、さらに京浜窯業株式会社の監査役も兼ねた。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第17回・第18回と当選を重ねた。その間、東北振興会幹事として、昭和東北大凶作や昭和三陸地震の救済に尽力した。
森田 政義(もりた まさよし、明治17年(1884年)9月2… 森田 政義(もりた まさよし、明治17年(1884年)9月29日 - 昭和14年(1939年)3月21日)は、日本の弁護士、政治家。元衆議院議員(立憲政友会)。大阪府平民。実業家・タレント大屋政子の父。 熊本県の森田實政の弟。 大正3年(1914年)明治大学法科を卒業。弁護士試験合格。大正9年(1920年)分家する。大正13年(1924年)から衆議院議員を6期務め、立憲政友会総務となった。昭和4年(1929年)12月、選挙法違反により衆議院議員を退職。翌昭和5年(1930年)の第17回総選挙で復帰。昭和12年(1937年)の第20回総選挙で落選するが、翌昭和13年(1938年)同じ選挙区の西尾末広が議会から除名されたため、繰り上げ当選となる。
谷原 公(たにはら いさお、1884年(明治17年)9月2日… 谷原 公(たにはら いさお、1884年(明治17年)9月2日 - 1982年(昭和57年)11月6日)は、日本の政治家、弁護士。 徳島県海部郡、のちの川上村(海南町を経て現海陽町)出身。1914年、明治大学法科卒業。小学校校長、川上村長、徳島県会議員等を経て、1924年5月の第15回衆議院議員総選挙において徳島3区(小選挙区制)から政友本党公認で立候補して初当選。以来1945年12月までの間、徳島1区(1928年の第16回衆議院議員総選挙から)から衆議院議員に4期当選。衆議院懲罰委員長を歴任した。所属は立憲民政党を経て、1945年の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)では翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選。
朴 海克(パク・ヘグク、朝鮮語: 박해극/朴海克、1882年… 朴 海克(パク・ヘグク、朝鮮語: 박해극/朴海克、1882年(高宗19年)2月14日 - 1952年5月7日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の判事、弁護士、実業家、政治家。制憲韓国国会議員。 慶尚南道密陽または慶尚北道大邱出身。明治大学法学部卒。1915年より朝鮮総督府裁判所傘下釜山地方法院統営支庁書記課書記兼通訳生を経て、1918年11月に光州地方法院順天支庁判事となった。1921年10月、慶尚北道道弁護士として北京の国際弁護士会議に朝鮮人弁護士代表を務め、朝鮮弁護士協会創立総会議員を務めた。その後は大邱で活動し、大邱嶠南キリスト教青年会教育部夜学法律講習所講師、朝鮮民立大学期成会地方部大邱地域委員、大邱府水害問題市民大会委員を務めた。
小穴 喜一(おあな きいち、1881年〈明治14年〉6月26… 小穴 喜一(おあな きいち、1881年〈明治14年〉6月26日 - 1953年〈昭和28年〉6月18日)は、日本の弁護士。書家。号は雨堂。1907年に弁護士登録してから約46年にわたり弁護士として活動した。 1881年(明治14年)6月26日、長野県南安曇郡温村楡(現在の安曇野市三郷温)に小穴善平とちよの二男として生まれた[要出典]。小穴家は、貞享騒動に加担して処刑された小穴善兵衛の末裔家である。 若くして、松本の弁護士界の重鎮であり親戚筋でもある森山儀文治の書生となる[要出典]。 1901年(明治34年)9月、森山儀文治の支援により上京して明治法律学校(明治大学の前身校の一つ)に入学する。1904年(明治37年)7月、明治大学法科(1903年3月専門学校令に基づき明治法律学校から名称変更)を卒業した。
岡本 実太郎(おかもと じつたろう、明治14年(1881年)… 岡本 実太郎(おかもと じつたろう、明治14年(1881年)6月25日 - 昭和27年(1952年)4月30日)は日本の官僚、政治家、弁護士。 愛知県西加茂郡猿投村(現豊田市)出身。明治法律学校を卒業し第10回高等文官試験に合格し、1904年に大蔵省入省。 司法官試補、専売局事務官、広島専売局長などを歴任し、1920年退官。 弁護士としては、日本弁護士連合会理事、税務弁理士会監事(民政・愛知)などを務めた。 1924年の第15回衆議院議員総選挙で当選(以後、第16回・第17回・第19回・第20回・第22回と計6回当選)。立憲政友会政務調査会長や立憲民政党総務、農林参与官などを歴任した。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
布施 辰治(ふせ たつじ、1880年(明治13年)11月13… 布施 辰治(ふせ たつじ、1880年(明治13年)11月13日 - 1953年(昭和28年)9月13日)は、宮城県出身の弁護士・社会運動家である。日本人として初めて大韓民国建国勲章を受章した。 宮城県牡鹿郡蛇田村(現在の石巻市の一部)の農家に生まれる。少年時代には墨子の兼愛思想に触れ、長じては正教会の洗礼を受け神田ニコライ堂付属の神学校へ入学するなど、若くから平和主義に親しんだが、神学校自体は3か月で退学し、以降は社会運動への参画においてはキリスト教系のトルストイ運動に共感し生涯これを範とし続けたものの、宗教上の立場は結婚を機に妻の信仰である日蓮正宗に改宗した。 初めは東京専門学校(現在の早稲田大学)に入り、次いで明治法律学校(現在の明治大学)に移って1902年に卒業し、22歳で判事検事登用試験に合格、司法官試補となった。
松谷 與二郎(略字表記「松谷与二郎」、まつたに よじろう、1… 松谷 與二郎(略字表記「松谷与二郎」、まつたに よじろう、1880年6月4日 - 1937年3月17日)は、日本の政治家、衆議院議員、弁護士、社会活動家。 石川県金沢市生まれ。1903年、明治法律学校卒業。 1914年に弁護士を開業し、虎の門事件で難波大助の国選弁護人を引き受けるなど、社会運動、小作争議の弁護活動に活躍する。 1926年、日本労農党創立に参加、全国大衆党、全国労農大衆党の顧問を務める。1930年、第17回衆議院議員総選挙において東京6区から日本大衆党の候補として出馬し、衆議院議員に初当選する。その後全国大衆党・全国労農大衆党を経て、1932年には社会大衆党の顧問に就く。しかし満州事変の評価をめぐって社大党と対立して離党し、以後新日本建設同盟・国民同盟・日本国家社会党を経て、1934年に勤労日本党総理となった。
井本 常作(いもと じょうさ / つねさく、1880年〈明治… 井本 常作(いもと じょうさ / つねさく、1880年〈明治13年〉4月18日 - 1969年〈昭和44年〉6月1日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(当選3回)。司法参与官。 群馬県多野郡神流村岡之郷(現在の藤岡市)出身。井本孫市の二男。1902年(明治35年)、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業。判事検事登用試験に合格し、司法官試補となった。官を辞して卜部喜太郎の事務所に入り、在野法曹界の人となって実務の練習に努めた。1908年(明治41年)、弁護士を開業した。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。立憲民政党に所属。濱口内閣で司法参与官を務めた。本郷区学務委員、同委員長、本郷区教育会商議員等にも挙げられた。
則井 万寿雄(のりい ますお、1879年(明治12年)10月… 則井 万寿雄(のりい ますお、1879年(明治12年)10月24日 - 1936年(昭和11年)10月26日)は、衆議院議員(立憲政友会)であり、弁護士でもある。 1879年(明治12年)岡山県上房郡川面村(現:高梁市)出身で農業・土木請負業の則井兼十郎の次男に生まれる。川面小学校、旧制高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)を卒業後上京し、昼間郵便局でアルバイトをしながら明治大学夜間部、明治大学高等研究科で法学の研究を続け1904年(明治37年)7月修了した。 1904年(明治37年)に判事検事登用試験に合格し、高松地方裁判所に勤務したが、1年で辞した。その後、東京で弁護士を開業したが、岡山に戻って高梁で開業した。
門脇 孝一(かどわき こういち、1879年〈明治12年〉4月… 門脇 孝一(かどわき こういち、1879年〈明治12年〉4月20日 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家、弁護士。族籍は鳥取県平民。 鳥取県西伯郡手間村大字天萬(のち会見町天萬、現・南部町天萬)出身。門脇休三郎の長男、あるいは三男。1900年、家督を相続する。1902年、明治法律学校(現・明治大学)を卒業、同年判検事試験に合格し、松江地方裁判所検事に任ぜられて在官1年余に及んだ。 1904年、弁護士となり米子市五十人町に法律事務所を設けて弁護事務に従事する。弁護士事務の傍ら各種の事業に関係し、銀行会社の重役である。三好英之を助けて山陰日日新聞の経営に当たる。 日本産業貯蓄銀行代表取締役・同専務取締役、伯陽電鉄代表取締役、山陰日々新聞社代表取締役・同副社長、山陽銀行、米子電気軌道、六甲越有馬鉄道各取締役、博愛病院監査役、山陰実業信託出資社員(代表)などをつとめる。
平出 修(ひらいで しゅう、1878年〈明治11年〉4月3日… 平出 修(ひらいで しゅう、1878年〈明治11年〉4月3日 - 1914年〈大正3年〉3月17日)は、日本の小説家・作家・歌人・弁護士。幸徳事件(大逆事件)で弁護人をつとめた。 新潟県中蒲原郡石山村(現・新潟県新潟市)に庄屋・児玉家の八男として生まれる。幼少期は虚弱だったが、小学校では記憶力に優れ、1892年に亀田町高等小学校を卒業する。1894年、旧制中学校進学を前提に新潟市の質店の養子となったが、進学の約束が果たされなかったことで1895年10月に縁組みを解消して、亀田町高等小学校の代用教員となる。翌年小学校準教員検定試験に合格した。 文芸に興味を抱いた平出は、1897年ごろから活動を始め、短歌・俳句を制作した。
山崎 今朝弥(やまざき けさや、旧漢字表記:山崎 今朝彌、1… 山崎 今朝弥(やまざき けさや、旧漢字表記:山崎 今朝彌、1877年9月15日 - 1954年7月29日)は、明治・大正・昭和期の弁護士である。社会主義者の事件を多く扱った。 1877年、現在の長野県岡谷市(旧・諏訪郡川岸村)出身。上京後、明治法律学校(現・明治大学)に学び、1901年卒業。同年第1回判事検事登用試験に合格(弁護士試験にも合格)、司法官試補となり甲府区裁判所詰となるも翌年依願免官し、1903年渡米。赤羽一、岩佐作太郎、幸徳秋水らと知り合った。 1907年に帰国し、東京弁護士会に入会して弁護士となった。 1913年、合同法律事務所の先駆けとなる東京法律事務所を設立。1916年、平民法律所開設。
井上 源一(いのうえ げんいち、1876年(明治9年)6月1… 井上 源一(いのうえ げんいち、1876年(明治9年)6月15日 – 没年不詳)は、日本の弁護士。愛媛県宇和島市長。 愛媛県出身。1903年(明治36年)、明治大学を卒業。同年、弁護士試験に合格し、弁護士業務に従事した。宇和郡会議員、宇和島市会議員、同議長に選出された。 1933年(昭和8年)に宇和島市長に選出された。 その後、第二十九銀行取締役、宇和島材木会社取締役、南予文化協会理事などを務めた。
安村 竹松(やすむら たけまつ、1873年(明治6年)10月… 安村 竹松(やすむら たけまつ、1873年(明治6年)10月16日 - 1946年(昭和21年)12月2日)は、日本の政治家、弁護士。 1873年(明治6年)10月、和歌山県日高郡南部町(現在のみなべ町)にて出生。 1901年(明治34年)、明治法律学校卒業。第9回文官高等試験に合格し、司法省に入省。司法官試補に任ぜられる。 1903年(明治36年)、司法省を退職し、東京で弁護士を開業。大逆事件の弁護人などを務めた。 1910年(明治43年)、横浜市に移り、1912年(明治45年)5月に神奈川県郡部から第11回衆議院議員総選挙に当選。立憲政友会所属の衆議院議員として活動した。 横浜弁護士会常議員議長、同会長を歴任した。
岡田 庄作(おかだ しょうさく、1873年(明治6年)3月6… 岡田 庄作(おかだ しょうさく、1873年(明治6年)3月6日 - 1937年(昭和12年)5月4日)は、日本の裁判官、弁護士、法学博士。 1873年3月、島根県邇摩郡波積村生まれ。 島根県師範学校を卒業後、小学校校長となるが、1900年に上京し、1902年に明治法律学校を卒業。大分、熊本、水戸、東京の各地方裁判所検事を歴任。1909年、ドイツに留学してミュンヘン大学に学び、帰国後東京控訴院判事となる。 1919年、裁判所を退職して弁護士を開業。東京弁護士会会長となり、のちに明治大学教授。1924年、明治大学より法学博士号を取得(論文タイトルは『錯誤論』)。 1937年5月4日死去。65歳。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
工藤 吉次(くどう きちじ、明治5年9月29日(1872年1… 工藤 吉次(くどう きちじ、明治5年9月29日(1872年10月31日) - 昭和11年(1936年)1月9日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 山形県西村山郡溝延村(現在の河北町)に、工藤浅吉の二男として生まれる。1893年(明治26年)、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業し、1897年(明治30年)に判事検事登用試験に合格した。判事となったが、やがて官を辞して、盛岡市で弁護士を開業した。後に盛岡弁護士会長を務めた。 盛岡市会議員を経て、1912年(明治45年)の第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は3回を数えた。墓所は多磨霊園。
宮崎 三之助(みやざき さんのすけ、1872年10月22日〈… 宮崎 三之助(みやざき さんのすけ、1872年10月22日〈明治5年9月20日〉 – 1941年〈昭和16年〉9月1日)は、日本の裁判官、弁護士、政治家(立憲政友会)。 富山県富山市に出生。1892年(明治25年)、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業。判事検事登用試験に合格し、判事として七尾、木更津の各地方裁判所と千葉区裁判所に勤務した。後に弁護士を開業し、本所区会議員を務めた。また第12代本所区会議長も務めた。1911年(明治44年)6月から本所区選出の東京市会議員を3期務めた。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に立憲政友会から東京府第6区で立候補し、当選。1921年(大正10年)4月26日付で市議を辞職した。
櫛部 荒熊(くしべ あらくま、1871年 - 1950年)は… 櫛部 荒熊(くしべ あらくま、1871年 - 1950年)は山口県出身の弁護士。納税額の多寡によらない普通選挙の実現を目指し、全国普選連合会の幹部を務め、後に衆議院議員(静岡県第2区、当選1回)に選出された。 長門国萩(後の山口県萩市)で1871年2月23日(明治4年1月5日)出生。山口県士族・櫛部善人の長男。川島小学校より萩中学校及び山口中学校を経て司法省文部省認定。1886年(明治19年)に家督を相続。1903年(明治36年)、明治法律学校(後の明治大学)を卒業し、翌年弁護士試験に合格した。 東京弁護士会評議員、台湾台中弁護士会長、日本弁護士協会理事などを務める。 荒熊は全国普選連合会の幹部を務めるなど普選運動に深く関わった論客の一人であり、連合会員の先頭に立って原敬首相邸へ辞職勧告デモも行った。
野添 宗三(のぞえ そうぞう、明治3年3月30日(1870年… 野添 宗三(のぞえ そうぞう、明治3年3月30日(1870年4月30日) - 大正8年(1919年)8月28日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党)、弁護士。 丹波国氷上郡和田村(現在の兵庫県丹波市)出身。1896年(明治29年)、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業すると、司法官試補として神戸区裁判所に配属された。1898年(明治31年)に検事となり、1900年(明治33年)には判事となった。1901年(明治34年)に退官すると、神戸市で弁護士事務所を開き、神戸弁護士会会長も務めた。 神戸市会議員を経て、1910年(明治43年)の衆議院議員補欠選挙に当選。以後、4回の当選回数を数えた。
森下 亀太郎(もりした かめたろう、旧字体: 森下 龜太郞、… 森下 亀太郎(もりした かめたろう、旧字体: 森下 龜太郞、1869年12月5日(明治2年11月3日) - 1946年(昭和21年)4月26日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(当選1回)。族籍は岡山県士族。 備中国上房郡高梁町(現在の岡山県高梁市)生まれ。岡山県士族・森下良諒の三男。 有終館で荘田霜渓より漢学を学ぶ。1894年(明治27年)、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業。 甲府・前橋・大阪・大津の各地方裁判所判事、大阪控訴院検事などを歴任。 1905年(明治38年)、退官して大阪市で弁護士を開業。 大阪市会議員を経て、1920年(大正9年)に衆議院議員に当選し、庚申倶楽部に所属した。
磯田 粂三郎(いそだ くめさぶろう、1869年6月28日(明… 磯田 粂三郎(いそだ くめさぶろう、1869年6月28日(明治2年5月19日) - 1934年(昭和9年)8月17日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。旧姓・米田。 大和国吉野郡六田村(現在の奈良県吉野郡吉野町)に米田六右衛門の二男として生まれ、弁護士・衆議院議員の磯田和蔵の養子となった。1890年(明治23年)、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業し、翌年に代言人試験に合格した。1892年(明治25年)に和蔵と共同で奈良市に事務所を開いた。商法が施行されて以降、破産管財人を務めた。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
山隈 康(やまくま やすし、1869年6月24日(明治2年5… 山隈 康(やまくま やすし、1869年6月24日(明治2年5月15日)- 1953年(昭和28年)5月10日)は、明治後期から昭和前期の弁護士、政治家。貴族院多額納税者議員、熊本市長。 肥後国菊池郡合志村(現在の熊本県合志市)出身。1898年(明治31年)3月、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業し、翌年に弁護士試験に合格した。熊本市に事務所を開業し、後には熊本弁護士会長に選出された。さらに市会議員に選ばれ、議長に就任した。 1932年(昭和7年)熊本県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日に就任し、研究会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任。さらに1934年(昭和9年)5月には熊本市長に選出され、1942年(昭和17年)5月まで在任した。
蔵園 三四郎(くらその さんしろう、旧姓・瀬戸川、1869年… 蔵園 三四郎(くらその さんしろう、旧姓・瀬戸川、1869年2月24日〈明治2年1月14日〉 - 1939年〈昭和14年〉4月6日)は、日本の政治家、弁護士、会社役員。衆議院議員(鹿児島県第一区選出、当選6回)。族籍は鹿児島県平民。鉄道政務次官、鉄道会議議員、南洋拓殖設立委員、薩摩製糸取締役などを務めた。 薩摩国日置郡田布施村(のち鹿児島県日置郡金峰町、現在の南さつま市)出身。鹿児島県平民・瀬戸川利右衛門の長男で、1876年、先代次郎の養子となった。元より富裕ではない家庭であったため、少年時代より人生の苦を味わわされた。14歳の時小学校の先生となり其の報酬として地所三段五畝歩を贈られた。 17歳の時の1886年、大阪に出て、大阪開成中学館、三一学校で学んだ。
山田 福三郎(やまだ ふくさぶろう、1868年11月30日(… 山田 福三郎(やまだ ふくさぶろう、1868年11月30日(明治元年10月17日) - 1914年(大正3年)5月18日)は、日本の弁護士、特許弁理士、政治家。 埼玉県北埼玉郡小曽根村(現・熊谷市小曽根)出身。山田充八の息子。熊谷中学校に学ぶ。1885年に上京し、東京電信学校の官費生として入学する。卒業後逓信技手となり函館郵便電信局に在勤し、傍ら英米人に就き英学を修め兼ねて哲学法律学を独修する。 1894年、明治法律学校(現・明治大学)卒業。判検事試験に及第し、司法官試補に任ぜられる。横浜地方裁判所の判事を経て、渡米してコロンビア大学に学び、帰国後横浜で弁護士を開業する。大日本共同運輸監査役、横浜市会議員、横浜英語学校校長、横浜商業会議所特別議員などをつとめる。
井戸 文四郎(いど ぶんしろう、明治元年7月11日(1868… 井戸 文四郎(いど ぶんしろう、明治元年7月11日(1868年8月28日) - 昭和9年(1934年)3月14日)は、日本の衆議院議員(憲政会)、弁護士。 讃岐国(香川県)高松の村上家に生まれ、井戸利平の養子となった。1890年(明治23年)、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業して、弁護士を開業した。高松市会議員、同議長、香川県会議員に選出された。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他に高松木材株式会社社長、高松電灯株式会社監査役を務めた。
阿部 徳三郎(あべ とくさぶろう、慶応3年9月22日(186… 阿部 徳三郎(あべ とくさぶろう、慶応3年9月22日(1867年10月19日) - 1918年(大正7年)5月14日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 陸奥国磐井郡弥栄村(現在の岩手県一関市)出身。明治法律学校(現在の明治大学)を卒業。1890年(明治23年)、弁護士試験に合格し、一関に法律事務所を構え、後に盛岡弁護士会常務員に選ばれた。 1898年(明治31年)、一関町会議員に選ばれた。1903年(明治36年)、第8回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は6回を数えた。 その他、破産管財人、第八十八銀行法律顧問、一関葉煙草仲買株式会社監査役、東北印刷株式会社取締役などを務めた。
渡邊 正清(わたなべ まさきよ、慶応2年9月9日(1866年… 渡邊 正清(わたなべ まさきよ、慶応2年9月9日(1866年10月17日) – 昭和3年(1928年)9月3日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、検事、弁護士。 1866年、長門国阿武郡萩町(現在の山口県萩市)に出生。1895年、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業。同年に判事検事登用試験に合格し、司法官試補を経て、宇都宮地方裁判所・大分地方裁判所・福岡地方裁判所・大阪地方裁判所の検事を務めた。徳島地方裁判所の次席検事に昇進したが、1906年に退官し徳島市で弁護士を開業した。徳島市会議員、徳島毎日新聞社監査役、日本化学工業株式会社取締役等を歴任。 1927年の衆議院補欠選挙に憲政会より立候補して当選し、憲政会と政友本党が合同して立憲民政党が成立すると、徳島支部顧問となった。
石田 仁太郎(いしだ じんたろう、慶応2年4月8日(1866… 石田 仁太郎(いしだ じんたろう、慶応2年4月8日(1866年5月22日) - 昭和15年(1940年)12月31日)は、日本の政治家、弁護士。栃木県宇都宮市長、衆議院議員などを歴任した。 肥後国託麻郡、のちの熊本県託麻郡大江村(飽託郡大江村を経て現熊本市)出身。明治法律学校を卒業し弁護士となる。1899年(明治32年)9月から1903年(明治36年)9月まで河内郡選出の栃木県会議員を務め、1899年11月からは県会副議長を務めた。1904年(明治37年)の第9回衆議院議員総選挙で栃木県郡部選挙区から立候補して当選。衆議院議員は連続3期務め当初は憲政本党に所属したが後に立憲国民党に参加している。
中原 清(なかはら きよし、慶応元年4月23日(1865年5… 中原 清(なかはら きよし、慶応元年4月23日(1865年5月17日) - 大正11年(1922年)1月3日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 日向国那珂郡檍村(現在の宮崎県宮崎市)出身。1888年(明治21年)、明治法律学校(現在の明治大学)に入学して法学を学び、1890年(明治23年)に卒業した後は弁護士業務に従事した。1901年(明治34年)には宮崎県弁護士会長に選出された。 1899年(明治32年)、宮崎県会議員に当選し、さらに1902年(明治35年)の第7回衆議院議員総選挙に当選した。
岡元 直熊(おかもと なおぐま、1865年3月7日(慶応元年… 岡元 直熊(おかもと なおぐま、1865年3月7日(慶応元年2月10日)- 1912年(大正元年)9月9日)は、明治期の弁護士、政治家。衆議院議員。 薩摩国薩摩郡入来郷浦之名村(鹿児島県薩摩郡入来郷浦之名、入来村、入来町を経て現薩摩川内市入来町浦之名)で、岡元九左衛門、かね の長男として生まれた。入来郷校で学び、教師不足のため14歳で生徒兼助教を務めた。1881年(明治14年)鹿児島県師範学校に入学し、卒業して入来小学校で教員を務めた。その後、上京して明治法律学校(現明治大学)で学び、1887年(明治20年)に卒業して、代言人試験に合格し、1890年(明治23年)鹿児島市で代言人(弁護士)を開業した。
青山 鉞四郞(あおやま えつしろう、1864年12月24日(… 青山 鉞四郞(あおやま えつしろう、1864年12月24日(元治元年11月26日) - 1933年(昭和8年)6月7日)は、日本の弁護士。 旧尾張藩士青山重威の子であり、1864年(元治元年)11月、父の任地であった尾張国海西郡鵜多須村の鵜多須代官所において産声を上げた。3歳のころ、名古屋正木町に移る。父は漢学者であったためその薫陶を受け、小学校修学ののち、森村義民、佐藤牧山を仰ぎ、3冊の著書をなした。 1883年(明治16年)、19歳のとき、二松学舎に入るが、1885年(明治18年)に大学古典講習科漢学部に転じる。しかし、1886年(明治19年)に明治法律学校に移り、3か月で代言人試験(弁護士試験)を受験する。
高橋 庄之助(たかはし しょうのすけ、1864年7月3日(元… 高橋 庄之助(たかはし しょうのすけ、1864年7月3日(元治元年5月30日)- 1930年(昭和5年))は、明治から昭和初期の弁護士、政治家。衆議院議員。 上野国甘楽郡野上村(群馬県北甘楽郡額部村野上を経て現富岡市野上)で、高橋曽米吉の末子として生まれた。高橋玄硯、新井又右衛門から漢学を学び、1887年(明治20年)に上京して明治法律学校に入学し、1889年(明治22年)同校を卒業。 同年、代言人試験に合格して代言人(弁護士)となる。東京市下谷区西町(現東京都台東区東上野)に住み、弁護士会常議員会長となり、下谷区会議員、東京市会議員なども務めた。1897年(明治30年)専売特許製瓦 (株) を設立して社長に就任し、その他、日本漁獵監査役、海産貿易監査役などに在任。
田中 藤次郎(たなか とうじろう、元治元年2月12日(186… 田中 藤次郎(たなか とうじろう、元治元年2月12日(1864年3月19日) - 明治43年(1910年)5月16日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 陸奥国津軽郡樽沢村(現在の青森市)出身。青森県師範学校を卒業し、小学校の訓導を務めた。その後、訓導を辞して上京し、1886年(明治19年)に明治法律学校(現在の明治大学)に入学。1888年(明治21年)に卒業し、代言人の資格を得て、青森に弁護士事務所を開いた。 1895年(明治28年)、青森県会議員に当選。さらに県参事会員や青森市会議員も歴任した。1901年(明治34年)には青森商業会議所特別会員に選出された。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
矢野 力治(やの りきじ、1864年3月9日(元治元年2月2… 矢野 力治(やの りきじ、1864年3月9日(元治元年2月2日)- 1936年(昭和11年)9月10日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(1期)。 日向国臼杵郡坪谷村(宮崎県東臼杵郡東郷村、東郷町を経て現日向市)で生まれた。1890年(明治23年)明治法律学校法律科及び政治科卒。代言人から弁護士となり、山林業従事する。東臼杵郡会議員、宮崎県会議員、同産業調査委員、同協賛会評議員となる。 1928年(昭和3年)第16回衆議院議員総選挙において宮崎県全県区(当時)から立憲政友会公認で立候補して当選した。1929年(昭和4年)6月14日、業務上横領被告事件において大審院で上告が棄却され、長崎控訴院での懲役8月の判決が確定し、衆議院議員を1期目途中で退職した。
望月 長夫(もちづき おさお、文久4年1月10日(1864年… 望月 長夫(もちづき おさお、文久4年1月10日(1864年2月17日) - 1920年(大正9年)2月10日)は、日本の衆議院議員(憲政本党→立憲国民党)、弁護士。 近江国甲賀郡水口村(現在の滋賀県甲賀市)出身。1878年(明治11年)に大津師範学校に入学したが、家の事情で中途退学を余儀なくされた。1887年(明治20年)、東京に出て明治法律学校(現在の明治大学)に入学した。1889年(明治22年)に卒業した後、1892年(明治25年)に弁護士の資格を得た。1894年(明治27年)、大津弁護士会副会長に選出され、翌年には会長に就任した。 また1894年には、滋賀県会議員に選出された。1898年(明治31年)、第6回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
利光 鶴松(としみつ つるまつ、1864年2月6日(文久3年… 利光 鶴松(としみつ つるまつ、1864年2月6日(文久3年12月29日) - 1945年(昭和20年)7月4日)は、日本の政治家、弁護士、実業家。衆議院議員(当選2回、東京府第五区選出)。小田原急行鉄道(現・小田急電鉄)創業者。星亨の側近。 豊後国(現大分県)生まれ。1879年、家督を相続。岡山に出て漢学塾に於いて陽明学を修め、上京し、明治法律学校に入学(1900年に推薦校友となる)。代言人試験に合格し、代言人(弁護士)となる。その後、東京市会議員、衆議院議員を務めたのち実業界に転身。小田原急行鉄道(現・小田急電鉄)を創業した。 1864年2月6日(文久3年12月29日)、豊後国大分郡稙田村字粟野(現・大分県大分市大字稙田)にて利光市松、シン子夫妻のもとに生まれる。
宮下 一清(みやした いっせい、文久3年10月4日〈1863… 宮下 一清(みやした いっせい、文久3年10月4日〈1863年11月14日〉 - 1945年〈昭和20年〉2月18日)は、明治から昭和初期にかけて活動した日本の弁護士、政治家である。政界では長野県会議員・長野市会議員や衆議院議員(当選1回)を歴任し、他に実業界で長野新聞初代社長を務めた。 文久3年10月4日(新暦:1863年11月14日)、信濃国更級郡今里村(現在の長野県長野市)に生まれる。村の小学校を卒業したのち高井鴻山の高矣義塾で漢学を修める。1881年(明治14年)には長野県師範学校に入学するも年内に退学し、翌年より明治法律学校(明治大学の前身)法律学科に入学、1884年(明治17年)に卒業した。
国井 庫(くにい くら、文久3年7月16日(1863年8月2… 国井 庫(くにい くら、文久3年7月16日(1863年8月29日) - 大正8年(1919年)5月27日)は、衆議院議員(憲政本党→立憲国民党)、弁護士。 上山藩、出羽国村山郡上山町(現上山市)出身。1874年(明治7年)に上山町小学校を卒業し、1878年(明治11年)まで私塾で漢学を学んだ。1879年(明治12年)から1884年(明治17年)まで小学校の教員を務めた。1885年(明治18年)に明治法律学校(現在の明治大学)に入学し、卒業後に代言人の資格を得た。1894年(明治27年)より1902年(明治35年)まで山形新聞社の社長を務めた。 1902年の第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。4回連続当選を果たした。
米田 実(米田 實、よねだ みのる、1863年8月28日(文… 米田 実(米田 實、よねだ みのる、1863年8月28日(文久3年7月15日) - 1926年(大正15年)9月16日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(奈良県奈良市選出、当選2回)。族籍は奈良県平民。 大和国奈良(現在の奈良県奈良市)出身。生家は代々農業を営む。米田新八の長男。米田奈良吉の兄。 漢学を修めた後、教職に従事していたが、奈良市内衛生委員・町役場委員などの公吏の職に就いた。1887年(明治20年)に明治法律学校(現在の明治大学)に入学し、在学中に代言人試験に合格した。東京で弁護士事務所を開き、東京組合弁護士会評議員に選出された。後に公証人に転じた。 1904年(明治37年)、第9回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
久保田 与四郎(くぼた よしろう、文久3年1月11日(186… 久保田 与四郎(くぼた よしろう、文久3年1月11日(1863年2月28日) - 大正8年(1919年)4月24日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員。 文久3年(1863年)、信濃国小県郡長瀬村(現長野県上田市)で出生。旧姓は高柳。 16歳にして長野師範学校を出て小学校教員となる。明治14年(1881年)1月辞して、翌年慶應義塾に入るが、2年にして帰郷。後に再度上京して明治法律学校に入学。代言人(弁護士)免許を得て、明治19年(1886年)卒業。 明治20年(1887年)1月、東京にて弁護士を開業。後にロンドンに留学して、法学、政治学を学ぶ。 英船ノルマントン号事件の名誉回復訴訟における原告代理人などを務めた。
加藤 重三郎(かとう じゅうさぶろう、文久2年5月29日〈1… 加藤 重三郎(かとう じゅうさぶろう、文久2年5月29日〈1862年6月26日〉 - 1933年〈昭和8年〉6月19日)は、明治後期から大正にかけての日本の弁護士・政治家である。 司法官を経て名古屋市で弁護士を開業したのち名古屋市会議員に選ばれ、市会議長や第6代名古屋市長(1906年-1911年)を歴任。その後衆議院議員にも当選した(当選1回)。 現在の名古屋市出身。文久2年5月29日(新暦:1862年6月26日)、高木鉄蔵の次男として生まれる。1880年(明治13年)に加藤成章の養子となり、1883年(明治16年)8月に加藤家を相続した。高木家・加藤家ともに尾張藩士の家である。明治維新後は一時巡査として働くが、上京して明治大学の前身である明治法律学校に学んだ。
武部 其文(たけべ きぶん、1862年3月27日(文久2年2… 武部 其文(たけべ きぶん、1862年3月27日(文久2年2月27日) - 1929年(昭和4年)4月12日)は、富山県出身の政治家、弁護士。 文久2年(1862年)2月に、旧加賀藩十村役で1883年(明治16年)に富山県会初代議長を務めた武部尚志(文政12年(1829年) - 明治44年(1911年))の二男として出生。その弟で富山県会議員であった武部堅の養子となった。 富山の岡田呉陽を経て、二松学舎(現・二松學舍大学)、明治法律学校(現・明治大学)に学び、1885年(明治18年)8月に金沢において代言免許を取得し、富山で代言活動を行った。 内務省による選挙干渉によって死者まで出したことで知られる1892年(明治25年)2月の第2回衆議院議員総選挙(富山第四区)では、北陸自由党から出馬し、立憲改進党の島田孝之を破って当選したが、その後1893年(明治26年)6月に当選無効訴訟が確定して失職。
則元 由庸(のりもと なおつね、1862年3月21日〈文久2… 則元 由庸(のりもと なおつね、1862年3月21日〈文久2年2月21日〉 – 1931年〈昭和6年〉8月6日)は、日本の政治家、弁護士。勲等は勲三等。位階は従五位。 熊本市生まれ。明治法律学校(現・明治大学)中退。 長崎県で弁護士を開業し、1899年(明治32年)長崎市会議員となった。1901年(明治34年)3月11日から1908年(明治41年)1月14日までと、1909年(明治42年)1月21日から1910年(明治43年)4月8日までの2度に亘り、市会議長を務める。 また、国政にも進出し、1912年(明治45年)に衆議院議員となり、以後、立憲民政党などから計7回当選する。 1917年(大正6年)に長崎日日新聞社長に就任した。
織田 了(おだ りょう、1861年10月12日(文久元年9月… 織田 了(おだ りょう、1861年10月12日(文久元年9月9日) - 1939年(昭和14年)3月24日)は、衆議院議員(立憲同志会→憲政会)、弁護士。 尾張国中島郡日下部村(愛知県中島郡日下部村、大里村、稲沢町を経て現稲沢市)出身。織田文信の長男として生まれた。 1879年(明治12年)、中島郡役所雇となり、1885年(明治18年)に準判任官に昇進し、1888年(明治21年)には郡書記に任じられた。しかし翌年辞職して、明治法律学校(現在の明治大学)に入学し、卒業後の1893年(明治26年)に判事検事登用試験に合格した。司法官試補、検事、判事を歴任したが、1902年(明治35年)に農商務省に移り、林務官、林務課長、主計課長、特許局審査官、特許局事務官を歴任した。
江間 俊一(えま しゅんいち、文久元年5月10日(1861年… 江間 俊一(えま しゅんいち、文久元年5月10日(1861年6月17日) - 昭和8年(1933年)5月31日)は、日本の弁護士、政治家。 1861年6月(文久元年五月)、遠江国磐田郡の東海道見附宿(現静岡県磐田市)の豪家山本幸七の子として生まれる。後に江間忠五郎の娘つねの入婿となる。1889年(明治22年)明治法律学校(現在の明治大学)卒業後、弁護士となり、東京弁護士会常議員、議長を歴任した。 1903年(明治36年)に明治大学雄弁会が発足した際に名誉会員となる。この雄弁会は一度活動休止状態となるが1908年(明治41年)に復活し、このとき会長に就任した。 政治家としては東京府会議員、東京市会議員・議長などを務め、1902年(明治35年)には第7回衆議院議員総選挙に立憲政友会から出馬して当選し、その後も第10回衆議院議員総選挙(無所属)、第12回衆議院議員総選挙(立憲同志会)に当選した。