小嶋 源作(こじま げんさく、1905年1月1日 - 198… 小嶋 源作(こじま げんさく、1905年1月1日 - 1989年8月7日)は、日本の実業家。中部日本放送 (CBC) の事実上の創業者で、第4代代表取締役社長。中日新聞社取締役。 石川県石川郡野々市村(現:野々市市)に生まれる。 明治大学を卒業後、1929年に名古屋新聞社に入社。1942年に新愛知新聞社との合併で中部日本新聞社(1971年より中日新聞社)となった後の1946年に社会部長、1949年に出版局長となる。その傍ら、「民主国家として言論の自由を取り戻すためのフリーラジオを」という強い願いを持ち、民間放送の創設に熱意を燃やす。 1950年4月、中部日本放送の創立委員に就任。当時の杉山虎之助中部日本新聞社社長、中部財界、さらには許認可権者である逓信省やGHQを説得し、初代社長に佐々部晩穂を据え、自身は代表取締役常務に就任。
関 忠志(せき ただゆき、1905年 - 1987年)は、日… 関 忠志(せき ただゆき、1905年 - 1987年)は、日本の著述家、ボーイスカウト運動の指導者。 少年時代からボーイスカウト運動に参加し、明治大学に入学し日本最初の大学スカウト体を創設する。第二次世界大戦後ボーイスカウト運動再建のためにボーイスカウト日本連盟総主事に就任する。その後日本ユネスコ協会連盟事務局長を歴任する。この間米国へ青年教育視察に赴き、インド、東南アジアにユネスコ世界青年会議のために渡航する。その他ギリシャや欧州に渡航しボーイスカウト世界大会の開催に尽力する。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
長谷川 耕南(はせがわ こうなん、1905年〈明治38年〉 … 長谷川 耕南(はせがわ こうなん、1905年〈明治38年〉 - 1977年〈昭和52年〉)は、日本の書道家。勲四等 瑞宝章。
櫛部 喜男(くしべ よしお、1905年 - 1928年)は陸… 櫛部 喜男(くしべ よしお、1905年 - 1928年)は陸軍依託第3期操縦生の一等飛行機操縦士。明治神宮体育大会の飛行競技で一位を取るなどしたが、航空事故で早世した。 喜男は東京市小石川区戸崎町で旧会津藩士・吉田喜八郎と妻ヨシの二男として、1905年(明治38年)3月24日に出生。生後間もない七ヶ月の頃、静岡県沼津で弁護士をしていた櫛部荒熊と妻きくの養子となる。 1912年(明治45年)4月、東京市赤坂区の氷川尋常小学校に入学。1917年(大正6年)3月に同校を卒業した喜男は私立明治中学校に進学。1921年(大正10年)4月に明治大学英法学部予科に入学したが、翌年には陸軍依託第3期操縦生の試験に合格し、12月1日付けで所沢陸軍航空学校へ入校した。
横沢 三郎(よこざわ さぶろう、1904年12月16日 - … 横沢 三郎(よこざわ さぶろう、1904年12月16日 - 1995年11月28日)は、プロ野球選手・監督。後年には国民野球連盟理事長を経て、パシフィック・リーグの審判部長を務めた。妻は元宝塚歌劇団の花野春子。 東京セネタースでプレーした横沢四郎・七郎は実弟(七郎は戦後セネタースでもプレーした)。 1904年12月16日に当時日本の領土であった台湾で生まれ、東京府東京市(現:東京都特別区)で育つ。旧制荏原中学校時代は遊撃手、旧制明治大学時代は二塁手。大学卒業後、社会人クラブチーム・東京倶楽部の内野手としてプレーし、都市対抗野球4度の優勝に貢献。 1936年にプロ野球球団の東京セネタースが設立されると初代の監督として招聘され、1937年秋季リーグ戦では選手としても1試合に出場したが、同年秋季途中で監督を辞任。
堀内 悦夫(ほりうち えつお、1904年(明治37年)11月… 堀内 悦夫(ほりうち えつお、1904年(明治37年)11月25日 – 1970年(昭和45年)12月19日)は、日本の実業家。 1904年、静岡県に出生。明治大学卒業後、マスメディア業界に進み、東京日日新聞、時事新報、新潟新聞などを経て、1950年新潟日報専務に就任。1952年、ラジオ新潟(現新潟放送)の設立に参画し、1961年社長に就任。日本民間放送連盟副会長なども務めた。1970年、新潟馬主協会の2代目会長に就任したが、同年12月19日に死去。66歳没。
古賀 政男(こが まさお、1904年(明治37年)11月18… 古賀 政男(こが まさお、1904年(明治37年)11月18日 - 1978年(昭和53年)7月25日)は、昭和期の代表的作曲家であり、ギタリスト。国民栄誉賞受賞者。栄典は従四位、勲三等瑞宝章、紫綬褒章。明治大学商学部(旧制)卒業。本名は古賀正夫(読み同じ)。 少年時代に弦楽器に目覚め、青年期はマンドリン・ギターのクラシック音楽を研鑽しつつ、大正琴を愛した。その後は、プレクトラム音楽家の「古賀正男」から流行歌王の「古賀政男」になり、昭和期を代表する国民的作曲家としての地位を確立し、数多くの流行歌をヒットさせた。生涯で制作した楽曲は5,000曲ともいわれ、「古賀メロディー」として親しまれている。 1904年(明治37年)、福岡県三潴郡田口村(現・大川市)に8人きょうだいの6番目として誕生。
三浦 芳聖(みうら よしまさ、1904年〈明治37年〉9月1… 三浦 芳聖(みうら よしまさ、1904年〈明治37年〉9月17日 - 1971年〈昭和46年〉3月30日)は、第二次世界大戦で日本が降伏した後に、南朝正統の皇胤であることを主張した「自称天皇」の一人。三浦天皇、または芳聖天皇、号神龍。[要出典] 南朝には、1336年(延元元年)10月に後醍醐天皇から皇位を継承して北陸に落ちた内伝の皇統(北陸朝廷)と、後醍醐天皇が陽動作戦のために吉野に設けた偽装朝廷である副統の「正副二統」が存在した。擬天皇である後亀山天皇(熙成王)が、足利義満の謀略による南北一統で上洛後、最後の内伝の天皇(美良親王)は愛知県岡崎市牧平町大門に於て三種の神器を封印して地下深く埋蔵し、天之岩戸籠りとし、皇后三浦佐久姫の姓「三浦」を名乗って三浦藤太夫と称し農民となった。
近藤 東(こんどう あずま、1904年〈明治37年〉6月24… 近藤 東(こんどう あずま、1904年〈明治37年〉6月24日 - 1988年〈昭和63年〉10月23日)は、日本の詩人。 1904年東京京橋に生まれる。岐阜中学時代より短歌を作り始め、15歳で窪田空穂に年少の才能を賞賛される早熟ぶりを示した。明治大学在学中に「謝肉祭」を創刊。明大卒業後、鉄道省に入り、その一方で詩作をし、春山行夫、竹内隆二、棚夏針手、佐藤一英などと交友をもった。北原白秋に認められ、「詩と音楽」「近代風景」などで新進詩人として出発。27年上海外遊。28年雑誌『詩と詩論』創刊に編集同人として参加、以後「MADAME BLANCHE」「文学」「詩法」「新領土」と戦前戦中のモダニズム詩運動の中心で活動した。
山田 丈夫(やまだ たけお、1904年〈明治37年〉3月31… 山田 丈夫(やまだ たけお、1904年〈明治37年〉3月31日 – 1971年〈昭和46年〉1月19日)は、日本の弁護士・実業家。 1904年(明治37年)3月31日、岐阜県岐阜市に生まれた。岐阜県岐阜中学校の同期には、岐阜市長を務めた松尾吾策などがおり、松尾とは大学も一緒だった。 1927年(昭和2年)に明治大学法学部を卒業し、1928年(昭和3年)に弁護士を開業した。1943年(昭和18年)には岐阜県弁護士会会長に就任した。 1946年(昭和21年)、『東海夕刊新聞』を創刊して自身が社長に就任した。1954年(昭和29年)、『岐阜タイムス』(現・『岐阜新聞社』)の社長に迎えられると、1959年(昭和34年)には社名を岐阜日日新聞社に変更し、1960年(昭和35年)には紙名を『岐阜日日新聞』に変更した。
曺 奎甲(チョ・ギュガプ、朝鮮語: 조규갑、1904年3月2… 曺 奎甲(チョ・ギュガプ、朝鮮語: 조규갑、1904年3月27日 - 1994年10月3日)は、大韓民国の政治家。昌原郡亀山面長、制憲韓国国会議員などを歴任した。 本貫は昌寧曺氏(朝鮮語版)。漢字表記は曺圭甲とも。独立運動家の曺正煥は父、曺誠煥は叔父。 慶尚南道金海郡菉山面(現・釜山広域市江西区美音洞)出身。同郡進礼面の講習所での漢文修学を経て、明治大学政経科卒、早稲田大学卒業または中退、北京大学聴講・東洋哲学科中退。営農を経て、亀山面長、慶尚南道政治工作隊隊長、鎮海中学校父兄会長、鎮海漁業組合長、鎮海金融組合長、大韓独立促成国民会鎮海支部長・昌原郡支部長、昌原郡農会評議員、無所属の制憲国会議員、反民族行為特別調査委員会調査委員などを務めた。
山口 勇(やまぐち いさむ、1904年3月4日 - 1982… 山口 勇(やまぐち いさむ、1904年3月4日 - 1982年)は、日本の俳優である。本名同じ。成瀬巳喜男の現存する最古の監督作『腰辨頑張れ』の主演俳優であり、戦後も東映京都撮影所の脇役俳優として知られる。 1904年(明治37年)3月4日、東京府東京市麻布区麻生竹谷町(現在の東京都港区南麻布)に生まれる。小林信彦によれば、赤坂区青山(現在の港区青山1丁目付近)出身の小林の母は、山口の従姉妹にあたるといい、つまり山口からみて小林は従甥にあたる。 麻布区内の東京市立南山尋常小学校(現在の港区立南山小学校)を卒業し、旧制・高輪中学校(かつての第一仏教中学校、現在の高輪高等学校)に進学する。2学年上にのちの俳優の江川宇礼雄がいた。
瀬戸山 三男(せとやま みつお、1904年1月7日 - 1… 瀬戸山 三男(せとやま みつお、1904年1月7日 - 1997年6月23日)は、日本の政治家。位階は正三位。 元衆議院議員(当選11回)。都城市長・建設大臣・法務大臣・文部大臣を歴任。 熊本県天草郡下津浦村(現・天草市)に、村の収入役を務めた河内寿松の三男として生まれる。熊本通信生養成所を卒業後、天草の郵便局での電信技術者、下津浦村書記を経て、向学心に燃え上京。苦学しながら開成中学校夜間部(のちの昌平高校)、さらに明治大学法学部に進み、1932年卒業。司法省に入り、岡山・山口等の各地裁判事を歴任する。1933年宮崎県都城市の金物商瀬戸山徳蔵の一人娘香代と結婚したが、後に瀬戸山家の血筋が絶えたため、1942年瀬戸山家の婿養子となる。
富田 常雄(とみた つねお、1904年(明治37年)1月1日… 富田 常雄(とみた つねお、1904年(明治37年)1月1日 - 1967年(昭和42年)10月16日)は、日本の小説家。柔道五段。東京府生まれ。明治大学商学部卒。初め心座文芸部に入って新劇運動に参加したのち、『姿三四郎』が大変な人気を呼んで流行作家となる。戦後『面』『刺青』で直木賞受賞。映画化、ドラマ化された作品も多く、大衆文学の大家として人気を博した。 柔道家富田常次郎の子として東京府に生まれる。永田町小学校(現千代田区立麹町小学校)、旧制日本大学中学校(現在の日本大学第一高等学校)卒業、明治大学商学部。在学中、詩誌『感情革命』を創刊する。1928年、河原崎長十郎らの心座文芸部に参加する。他のメンバーに舟橋聖一、村山知義らがいた。
天知 俊一(あまち しゅんいち、1903年12月30日 - … 天知 俊一(あまち しゅんいち、1903年12月30日 - 1976年3月12日)は、兵庫県西宮市出身の元野球選手(捕手)・コーチ・監督、解説者・評論家。 旧制甲陽中学校2年時に攻玉社中学校へ転校した後、明治大学予科へ進学するが、当時の中学校3年修了では資格が無いとして下野中学校へ再入学させられる。下野中で中学校4年修了となり、晴れて明治大学予科進学の資格を得られ、再度進学する。天知の学生生活は波乱に富んだものであったが、明大時代は捕手で、後に毎日オリオンズで監督を務める湯浅禎夫とバッテリーを組んだ。また、大学野球の審判を充実させる必要性を感じていた一学年先輩の二出川延明から野球のルールについての難問が毎朝10問、「宿題」として天知に出され、練習開始時間までに全問解く訓練を受けた。
吉沢一郎(よしざわ いちろう、1903年11月6日 – 19… 吉沢一郎(よしざわ いちろう、1903年11月6日 – 1998年1月22日)は、日本の登山家。一橋大学山岳部出身。1977年、吉沢が総指揮を取った日本登山隊はK2登頂を試みて成功し、これが世界で2番目のK2登頂成功例となった。 麹町小学校卒業後、旧・明治中学校(現明治大学付属明治高等学校・中学校)中退を経て、1928年旧制東京商科大学(現一橋大学)卒業。電通映画社専務取締役。 元社団法人日本山岳会副会長。望月達夫、深田久弥、諏訪多栄蔵らとともに日本のヒマラヤ研究の第一人者であった。英国山岳会会員でもある。1980年には公共広告機構(現:ACジャパン)のCMに起用された。
瀬木 博信(せき ひろのぶ、1903年〈明治36年〉11月3… 瀬木 博信(せき ひろのぶ、1903年〈明治36年〉11月3日- 1971年〈昭和46年〉11月10日)は、日本の実業家。博報堂の元社長。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
中 助松(なか すけまつ、1903年(明治36年)10月25… 中 助松(なか すけまつ、1903年(明治36年)10月25日 - 1953年(昭和28年)7月31日)は、日本の衆議院議員(自由党→分党派自由党→自由党)、内務参与官。 富山県下新川郡浦山村(現在の黒部市)出身。1927年(昭和2年)、明治大学政治経済科を卒業し、農林省大臣官房や山林局に勤務した。1932年(昭和7年)より神奈川県会議員に選出され、同参事会員、同副議長を務めた。 1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙において神奈川1区(当時)から翼賛政治体制協議会推薦で出馬し、当選。幣原内閣で内務参与官を務めた。その後、公職追放となった。追放中の1948年(昭和23年)、政治資金に関する問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された。
鶴田 義行(つるた よしゆき、1903年(明治36年)10月… 鶴田 義行(つるた よしゆき、1903年(明治36年)10月1日 - 1986年(昭和61年)7月24日)は、日本の水泳選手。1928年アムステルダムオリンピック並びに1932年ロサンゼルスオリンピックの男子200m平泳ぎの金メダリスト(競泳競技における日本人初の金メダリスト)。日本人初のオリンピック連覇者。男子200メートル平泳ぎの元世界記録保持者。鹿児島県鹿児島郡伊敷村大字上伊敷字飯山(現在の鹿児島市伊敷八丁目の一部)出身。 IOC(国際オリンピック委員会)が公認する記録
楠田 匡介(くすだ きょうすけ、1903年8月23日 - 1… 楠田 匡介(くすだ きょうすけ、1903年8月23日 - 1966年9月23日)は、日本の推理作家、時代小説家。 1903年8月23日、北海道厚田郡厚田村(現・石狩市)に生まれる。本名は小松保爾(こまつ やすじ)。 高等小学校卒業後、中学校の代用教員や札幌郵便局の電信係を経て、1924年に樺太の恵須取町(現・ウグレゴルスク)に渡り、パルプ工場に勤務。1927年、北海道に戻る。1934年に上京し、さまざまな職業を転々とする。職も30件以上変えた経験があるという。 1938年に結婚し、能率研究所につとめ、明治大学などの講師をつとめる。1943年、千葉県市川市に転居(1941年頃から市川市真間に住んだとする文献もある)。
大河内信敬 (おおこうち のぶひろ、1903年 (明治36年… 大河内信敬 (おおこうち のぶひろ、1903年 (明治36年) 8月21日 - 1967年 (昭和42年) 12月1日) は、日本の画家。東京府東京市下谷区(現東京都台東区下谷)出身。物理学者・子爵の大河内正敏の次男。母は大河内信古の娘・一子。娘に女優の河内桃子がいる。号は清水丁三。 明治大学商科卒業。水彩画を板倉賛治、版画を小泉癸巳男、その他岡田三郎助や寺内萬治郎に師事。1933年、「画室の一隅」で第14回帝展に入選。1937年より1年間ヨーロッパに渡り、各地の美術を視察した。1940年、光風会会員となる。1947年、朝井閑右衛門らと新樹会を結成。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
久保 信(くぼ まこと、1903年8月19日 - 1991年… 久保 信(くぼ まこと、1903年8月19日 - 1991年6月29日)は、日本の男性フィギュアスケート選手(男子シングル)。北海道出身。明治大学政治経済学部卒。 第1回全日本選手権(1929年度)の優勝者である。 札幌商工会議所会頭を務めた久保兵太郎の三男として北海道に生まれる。札幌商業学校時代の1923年、日本スケート会(日本スケート連盟の前身の一つ)主催のフィギュアスケート選手権に出場。明治大学に入学し、1926年から1930年(1927年は中止)まで日本学生氷上競技選手権(インカレ)で4大会連続2位となる。同大会の1928年から1930年までの優勝者は、金子諭吉(慶大)であった。 1929年のフィギュアスケート選手権(日本スケート会主催)では、金子を抑えて優勝する。
肥田 広司(ひだ ひろし、1903年(明治36年)6月16日… 肥田 広司(ひだ ひろし、1903年(明治36年)6月16日 - 1987年(昭和62年)6月4日)は、日本の政治家。広島県議会議員、広島県海田市町長。日米民間外交の第一人者で、広島から始まった親善運動は全国へ広まり、アメリカ本国でも報道された。父・肥田辰之助は広島県議会議長、兄・肥田琢司は衆議院運輸委員長。豊臣四天王として知られる木村重成一族の末裔。 1929年(昭和4年)、明治大学法学部卒業。1931年(昭和6年)から衆議院議長秘書を務め、1933年(昭和8年)に広島県議会議員として初当選後、1935年(昭和10年)と1939年(昭和14年)に連続当選。辰之助及び琢司らと共に父子兄弟連携して政治活動を行い、広島県政で望月派と肥田派の二大派閥として台頭していた。
丸山 邦雄 (まるやま くにお、1903年〈明治36年〉6月… 丸山 邦雄 (まるやま くにお、1903年〈明治36年〉6月2日 - 1981年〈昭和56年〉10月17日)は、日本の経済学者、社会運動家、明治大学教授。 終戦直後、安全の確保や飢餓、流行病に苦しむ旧満洲在留邦人救済のため新甫八朗、武蔵正道らとともに日本国政府や連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)などとの交渉や働きかけに奔走。旧満洲に取り残された旧満洲在留邦人の祖国引揚げ(葫芦島在留日本人大送還)に貢献する。(170万人のうち実際に引き揚げできた者は約105万人とされる )。 長野県下水内郡柳原村(現 飯山市)に生まれる。旧制高校卒業と同時に明治大学法科に入学、法律を学ぶ。 1930年(昭和5年) 明治大学卒業。
市川 謙一郎(いちかわ けんいちろう、1903年5月15日 … 市川 謙一郎(いちかわ けんいちろう、1903年5月15日 - 1972年12月4日)は、日本の経営者。長崎新聞社社長を務めた。 長野県長野市出身。明治大学を卒業し、1922年に信濃毎日新聞社に入社。 1934年に読売新聞社に転じ、1950年に北海タイムス主筆を経て、1958年1月から1961年4月までに長崎新聞社社長を務めた。 1972年12月4日、肺炎で死去した。69歳没。
松尾 吾策(まつお ごさく、1903年(明治36年)1月6日… 松尾 吾策(まつお ごさく、1903年(明治36年)1月6日 - 1988年(昭和63年)6月16日)は、日本の政治家。元岐阜市長。父は元岐阜市長で貴族院議員であった松尾国松。
金 奉斗(キム・ボンドゥ、朝鮮語: 김봉두、1903年または… 金 奉斗(キム・ボンドゥ、朝鮮語: 김봉두、1903年または1906年4月8日 - 1972年7月22日または9月22日)は、大韓民国の実業家、政治家。制憲韓国国会議員。 全北長水またはソウル出身。明治大学法学部卒。長水郡で輸出糧穀の搗精業と肥料販売業を営んだほか、株式会社三重社重役、大韓土建株式会社・大地産業株式会社・大地土建株式会社社長、韓国民主党中央常務委員、無所属の制憲国会議員を務めた。1954年の第3代総選挙、1958年の第4代総選挙と1960年の第5代総選挙(参議員)にも出馬し、政界引退後は貞陵山荘を開墾して農業を営んだ。 1972年7月22日、長水郡渓内面の自宅で持病により死去。享年67。
大野 修司(おおの しゅうじ、1902年(明治35年)12月… 大野 修司(おおの しゅうじ、1902年(明治35年)12月8日 - 1970年(昭和45年)2月3日)は、日本の実業家。トヨタ自動車工業(現・トヨタ自動車)で25年にわたり役員を務め、代表取締役副社長在任中に死去した。 1902年、栃木県に出生。 1925年、明治大学法学部卒業。豊川順弥(豊川良平(三菱財閥)の長男)が設立した白楊社に入社後、東京ブレス工業顳問、支配人などを歴任。 1937年、豊田喜一郎に招聘され、豊田自動織機製作所に入社。豊田が推進した「ジャスト・イン・タイム」構想を支え、協豊会設立や部品メーカー育成に貢献。 1939年、原材料の量・価格が統制されていた当時の自動車業界において、協力工場の代表者と意見交換を行う場として、第1回が開かれた「トヨタ自動車下請懇談会」(国産自動車下請工業確立助成座談会、現在の「協豊会」)は、大野の貢献により継続的に実施されることになり、会社と協力工場の緊密な関係の源泉となった。
岩澤 誠(いわさわ まこと、1902年(明治35年)11月9… 岩澤 誠(いわさわ まこと、1902年(明治35年)11月9日 - 1984年(昭和59年)5月6日)は、日本の弁護士、学校経営者。札幌弁護士会会長。学校法人札幌大学理事長。 千葉県出身。万治郎の次男。 1927年(昭和2年)明治大学法科卒業。北海道庁に入る。 1932年(昭和7年)弁護士を開業。札幌法務局、北海道石炭鉱業連盟、札幌信用組合、東銀、北海道石炭、日本ゴム、北海道購買農協連、北海道販売農協連、北海道漁業協組連合、各顧問となる。1953年(昭和28年)日弁連副会長に就任。 趣味は野球、写真。宗教は真言宗。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
野間 繁(のま しげる、1902年10月15日 - 1978… 野間 繁(のま しげる、1902年10月15日 - 1978年8月12日)は、日本の法学者、裁判官、弁護士。明治大学名誉教授。民事訴訟法が専門。勲二等正四位。 1902年、広島県広島市生まれ。1921年明治大学予科に入学。雄弁部に所属する。1926年明治大学法学部を卒業。卒業後は裁判官となり、東京区裁判所判事、東京地方裁判所部長判事、函館地方裁判所部長判事、東京控訴院判事・勅任部長、裁判官訴追委員会事務局長を歴任、1958年に退官。 1947年、「上訴法の基礎理論」を明治大学に提出して法学博士号を取得。1958年明治大学教授となる。國學院大學教授も兼任。1974年、明治大学を定年退職し、名誉教授となった。
宮森 和夫(みやもり かずお、1902年9月17日 - 19… 宮森 和夫(みやもり かずお、1902年9月17日 - 1988年1月9日)は、日本の実業家。元丸善石油(現コスモ石油)社長、会長。広島県三原市出身。1971年、藍綬褒章受章。
木村 武雄(きむら たけお、1902年8月30日 - 198… 木村 武雄(きむら たけお、1902年8月30日 - 1983年11月26日)は、日本の政治家。位階は正三位勲一等、勲章は旭日大綬章。 衆議院議員選挙に12回当選し、建設大臣、行政管理庁長官、北海道開発庁長官、国家公安委員会委員長なども務めた。ニックネームは木村元帥、放言居士。 山形県会議員を務めた木村忠三の次男として、山形県米沢市に生まれる。 1926年に明治大学法学部法律学科卒業後、同大学政治経済学部に学士入学し、1928年に卒業。米沢市議会議員、山形県議会議員を経て1936年の第19回衆議院議員総選挙に当時最年少の32歳で初当選。当初中立倶楽部に所属していたが、その後中野正剛率いる東方会に入党。
矢田 不二郎(やだ ふじろう、1902年(明治35年)8月2… 矢田 不二郎(やだ ふじろう、1902年(明治35年)8月20日 - 1981年(昭和56年)1月29日)は、大和生命の5代目取締役社長。実妹は小説家の矢田津世子。妹の人生、文学に大きな影響を与えた。 秋田県南秋田郡五城目町出身。五城目町助役の父鉄三郎、母チヱ夫妻の次男として出生。秋田中学に進学したが父の退職と秋田市転居、1916年の上京にともなって明治中学(現・明治大学付属明治高等学校・中学校)に転校した。その後、第一高等学校から1923年には東京帝国大学法学部法律学科へ進学した。 大学卒業後、1926年大和生命の前身・日本徴兵保険株式会社に就職。翌年から1932年まで名古屋支店に勤務。名古屋の同人誌「第一文学」に妹津世子とともに加入。
笹村 越郎(ささむら えつろう、1902年7月27日 – 1… 笹村 越郎(ささむら えつろう、1902年7月27日 – 1981年8月23日)は、日本の鉄道官僚、実業家。 1902年生れ。山口県出身。 明治中学(現・明治大学付属明治高等学校・中学校)卒業後、1927年京都帝国大学工学部卒業。同年鉄道省に入り、四国鉄道局長、運輸総局車輛局長などを経て、1951年日本国有鉄道理事、1952年工務局長、総裁室勤務などを歴任。1955年に汽車製造(現・川崎重工業)に移り、専務を経て、東海道新幹線の開通と東京オリンピックが開催された1964年に社長に就任。資本金を26億5200万円に増資した。
疋田 敏男(ひきた としお、1902年(明治35年)5月27… 疋田 敏男(ひきた としお、1902年(明治35年)5月27日 - 1989年(平成元年)6月2日)は、日本の政治家。 山口県下関市出身。明治大学専門部法律科卒業。実業界に進み、親和興産社長を務めた。また、政治家として、1946年4月の戦後1回目の総選挙(第22回衆議院議員総選挙)に山口県から立候補して当選し、衆議院議員を一期務めた。早川崇(国家公安委員会委員長、労働大臣等)らと青壮クラブを発足させ、新政同志会と合流するなど、諸派・無所属議員を中心とした国民党の結成に参画し、党執行部役員(中央常任委員)などを務めた。
藤田 三郎(ふじた さぶろう、1902年〈明治35年〉4月1… 藤田 三郎(ふじた さぶろう、1902年〈明治35年〉4月12日 ‐ 1990年〈平成2年〉1月2日)は、全国農業協同組合中央会会長。 高知県香美郡香我美町出身。1930年、明治大学専門部を卒業し、農林省に入省。満州国に赴任し、北安省開拓科長や錦州省盤山県副県長を歴任し、1946年に盤山県日本民留民会会長として引揚者を引率して帰国。1947年に高知県農地委員となり、その後高知県農協中央会、高知県信用農業協同組合連合会の会長を務め、1975年、全国農業協同組合中央会会長に就任し、2期6年務めた。 1966年藍綬褒章、1974年勲三等瑞宝章、1982年勲二等旭日重光章受章。
八島 健三(やしま けんぞう、1902年(明治35年)4月6… 八島 健三(やしま けんぞう、1902年(明治35年)4月6日 - 1979年(昭和54年)10月17日)は、日本の長距離走選手。 北海道出身。稲穂小学校に学ぶ。小樽中学校(現在の北海道小樽潮陵高等学校)在学中に、1920年アントワープオリンピックにマラソンで出場。2時間57分20秒0で21位だった。北海道出身者としては初のオリンピック選手である。1921年には第5回極東選手権競技大会のマラソンに出場。 のち明治大学に進み、箱根駅伝に出場。1923年から1928年まで6年連続出場、5年連続(1928年を除く)で各区間賞を獲得した。1924年の第5回大会では、往路優勝の東京高師に明大が追い上げをかける展開となったが、10区を任された八島は鈴ヶ森で東京高師の選手を抜き、明大の3年ぶり2回目の優勝に貢献した。
寺田 栄吉(てらだ えいきち、1902年(明治35年)3月2… 寺田 栄吉(てらだ えいきち、1902年(明治35年)3月29日 - 1993年(平成5年)8月1日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員、大阪府泉北郡高石町長。号・青胡。 1902年(明治35年)大阪府で寺田財閥創業者寺田甚与茂の四男として生まれる。1929年(昭和4年)明治大学商科卒業。 1940年(昭和15年)兄(寺田甚吉)の後を継ぎ、岸和田紡の社長となり、戦争時の要請により、岸和田紡績を大日本紡績(現ユニチカ)に合併した後はその専務まで務めた他、寺田財閥系企業などの経営に関与した(オーツタイヤ社長、 朝日火災海上保険常務など)。 また、大日本紡績常務のときに、経済同友会が発足し、幹事に就任した。
渡部 喜十郎(わたなべ きじゅうろう、1902年(明治35年… 渡部 喜十郎(わたなべ きじゅうろう、1902年(明治35年)3月20日 – 2004年(平成16年)10月11日)は、日本の弁護士、第22代日本弁護士連合会会長。 1902年、愛媛県温泉郡難波村(現・松山市)にて出生。 1920年、北予中学卒業後、上京し働きながら明治大学にて学ぶ。 1929年、高等試験司法科に合格。弁護士となる。 1966年、東京弁護士連合会会長に就任。 1968年、東京都弁護士協同組合の設立を提唱し、初代理事長に就任。 1971年、日本弁護士連合会会長に就任。 1984年、全国弁護士協同組合連合会の初代理事長に就任。 2004年、死去。102歳。
山縣 勝見(やまがた かつみ、1902年(明治35年)2月1… 山縣 勝見(やまがた かつみ、1902年(明治35年)2月18日 - 1976年(昭和51年)10月29日)は、日本の実業家、政治家。辰馬財閥の大番頭。
佐藤 虎次郎(さとう とらじろう、1902年(明治35年)1… 佐藤 虎次郎(さとう とらじろう、1902年(明治35年)1月20日 - 1983年(昭和58年)3月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(5期) 、清水市長(3期) 。位階は従四位。勲二等瑞宝章。 静岡県出身。明治大学中退。沼津市議に二回当選し、副議長などを務めた。1946年(昭和21年)から1963年(昭和38年)まで衆議院議員を5期務めた (自民党)。 1965年(昭和40年)から清水市長を3期を務め、この間静岡県柑橘振興会長なども歴任。実業家としては東洋パイルヒューム管製作所会長なども務めた。
井染 道夫(いそめ みちお、1901年(明治34年)12月1… 井染 道夫(いそめ みちお、1901年(明治34年)12月10日 - 没年不詳)は、日本のサッカー選手、サッカー指導者。大日本蹴球協会(現・日本サッカー協会)理事。 井染祿朗(陸軍中将)、好美の長男として生まれた。1925年(大正14年)明治大学商学部を卒業した。大倉商事電気課長、居初電解精油取締役、北東漁業取締役などを務めた。 1917年(大正6年)に日本初のサッカー・クラブチームとして発足した、東京蹴球団に選手として参加。 1921年(大正10年)、上海で行われた第5回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出され、選手として出場。この時の代表チームは日本サッカー史上初めての選抜チームとされている。
五十嵐 吉蔵(吉藏、いがらし きちぞう、1901年〈明治34… 五十嵐 吉蔵(吉藏、いがらし きちぞう、1901年〈明治34年〉10月1日 - 1959年〈昭和34年〉6月24日)は、大正・昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(5期)。蚕糸の第一人者。 群馬県佐波郡豊受村大字上蓮沼(現・伊勢崎市上蓮町)で、農業・五十嵐栄三郎の長男として生まれる。1918年(大正7年)群馬県立安中蚕糸学校(現・群馬県立安中総合学園高等学校)を卒業し、明治大学に進んだが中退。 組合製糸群馬社副社長、同代表理事、全国共栄蚕糸組合副理事長、日本蚕糸業会理事、刀洋織物社長、群馬県蚕種協同組合長などを務め、蚕糸行政に尽くした。 政界では、1933年(昭和8年)群馬県会議員に当選し3期在任。
川合 貞吉(かわい ていきち、1901年9月15日 - 19… 川合 貞吉(かわい ていきち、1901年9月15日 - 1981年7月31日)は、日本の社会運動家、著述家である。21世紀になって公開された資料により、第二次世界大戦後は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)参謀第2部(G2)のエージェントとなっていたことが判明している。 岐阜県大垣出身。1925年明治大学専門部政治経済科卒業。 1928年中国にわたり、上海で日支闘争同盟を組織した。1931年春、同盟の会合に出席した際、満鉄調査部上海満鉄公処の小松重雄の紹介で、尾崎秀実と出会う。リヒャルト・ゾルゲとも知りあい、情報活動に参加した。1941年10月22日ゾルゲ事件で検挙され、のち懲役10年の判決が下された。
二出川 延明(にでがわ のぶあき、1901年8月31日 - … 二出川 延明(にでがわ のぶあき、1901年8月31日 - 1989年10月16日)は、日本のプロ野球選手(外野手)・審判員、野球解説者、実業家、京阪電気鉄道OB。兵庫県出身。
渡辺 大陸(わたなべ たいりく、1901年7月8日 - 19… 渡辺 大陸(わたなべ たいりく、1901年7月8日 - 1955年12月11日)は、兵庫県出身のプロ野球監督。 神戸二中を経て1920年(大正9年)に明治大学予科へ入学し、野球部の剛球投手として活躍。しかし大学生活4年目の1923年(大正12年)に学歴詐称が発覚して明大を退学する。 台北交通団ではエースとして1931年の第5回全日本都市対抗野球大会で準優勝に貢献。 戦後は1946年シーズン終了後、宇高産業社長の宇高勲から宇高レッドソックス監督として迎えられるが、チームは日本野球連盟に加盟を拒否された。その後は宇高が会長となった国民野球連盟の発足に尽力。1950年、大洋ホエールズの総監督(初代監督)に就任したが、総監督の立場にとどまり実際の指揮は中島治康に任せていたという。
山代 吉宗(やましろ よしむね、1901年7月7日 - 19… 山代 吉宗(やましろ よしむね、1901年7月7日 - 1945年1月14日)は、日本の労働運動家。 福島県石城郡磐崎村(現いわき市)生まれ。1922年、明治大学政経科卒業。父親の跡を継いで常磐炭田で飯場頭となった。1926年、日本労働総同盟日本坑夫組合磐城支部を、続いて同常磐地方連合会を結成、このため解雇された。1927年1月に起こった磐城炭礦争議を指導、同年5月の入山炭礦争議を支援した。また労働農民党磐城支部を結成、支部長・中央執行委員に選任された。磐城炭礦争議で敗北、茨城県で地下活動に入った。この頃、日本共産党に入党。田中ウタをハウスキーパー (日本共産党)にする。 1929年(昭和4年)の四・一六事件で検挙。
今井 はつ(いまい はつ、1901年(明治34年)5月3日 … 今井 はつ(いまい はつ、1901年(明治34年)5月3日 – 1971年(昭和46年)4月6日)は、日本初の女性国会議員の一人。 1901年、福井県大野郡勝山町(現在の勝山市)に出生。私立水田高等技芸学校卒。結婚後四国に渡り、高等小学校の代用教員や新聞記者をした。その後、上京し、裁縫塾を開き、戦災で故郷の福井に戻った。 男女普通選挙制度が採用されて初の選挙である1946年の第22回衆議院議員総選挙に日本自由党から立候補し、日本初の女性国会議員の一人となった。しかし、当選後、大阪府立清水谷高女中退を卒業としていた学歴詐称が発覚、書類送検となった。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙で福井県(全県1区)から日本自由党で立候補したが落選した。
晋 直鉉(チン・ジッキョン、朝鮮語: 진직현/晉直鉉、190… 晋 直鉉(チン・ジッキョン、朝鮮語: 진직현/晉直鉉、1901年3月29日 - 没年不詳)は、大韓民国の法曹、政治家。制憲韓国国会議員。 親族に国会議員が多い。李坰鎬は娘婿、李玲愛(朝鮮語版)は外孫娘、金賛鎮(朝鮮語版)はその夫、孫周恒は甥(姉妹の息子)。 全羅北道任実郡出身。京城中学校、京城法学専門学校、普成専門学校、明治大学高等研究科卒。1922年に日本の弁護士試験に合格後は弁護士を開業した。解放後は大韓独立促成国民会所属の国会議員のほか、大韓独立促成国民会任実郡支部委員長、任実警察後援会長、任実公立国民学校後援会長、任実郡畜産協会長、任実郡厚生協会副会長などを務めた。1950年の第2代総選挙と1954年の第3代総選挙では民国党から出馬したが、当選できなかった。
松本 瀧藏(まつもと たきぞう、松本 滝蔵、Takizo F… 松本 瀧藏(まつもと たきぞう、松本 滝蔵、Takizo Frank Matsumoto、1901年3月20日 - 1958年11月2日)は、日本の政治家、教育者。衆議院議員、外務政務次官、内閣官房副長官(政務担当)、明治大学教授などを歴任した。広島県佐伯郡廿日市町(現廿日市市)生まれ。 私生児として生まれる。家族とともに2、3歳からアメリカに渡り、カリフォルニア州フレズノで育つ。アメリカに落ち着くまもなく父が他界。母はレストランを経営する日本人とすぐに再婚。瀧藏はフランク・ナルシマを名乗るようになった。1919年、高校を卒業すると「the Fresno Athletic Club(フレズノ・アスレチック・クラブ)」に日系アメリカ人野球チームを創設した。