村上 静人(むらかみ せいじん、1884年-1960年)は、… 村上 静人(むらかみ せいじん、1884年-1960年)は、日本の作家・翻訳家。 静岡県の代々医師の家に生まれ、上京して医師となろうとするが、長田秀雄、木下杢太郎らと知り合い文学の道を進み、明治大学文学部で学ぶ。赤城正蔵の「アカギ叢書」の創刊に手を貸し、西洋文学の再話、人情本の注釈などの仕事をし、のちには釣りの本を書いた。
明治大学:2,998人
村上 静人(むらかみ せいじん、1884年-1960年)は、… 村上 静人(むらかみ せいじん、1884年-1960年)は、日本の作家・翻訳家。 静岡県の代々医師の家に生まれ、上京して医師となろうとするが、長田秀雄、木下杢太郎らと知り合い文学の道を進み、明治大学文学部で学ぶ。赤城正蔵の「アカギ叢書」の創刊に手を貸し、西洋文学の再話、人情本の注釈などの仕事をし、のちには釣りの本を書いた。
陳 曽栻(ちん そうしょく、1884年〈光緒10年2月〉 –… 陳 曽栻(ちん そうしょく、1884年〈光緒10年2月〉 – 没年不明)は、清末民初の官僚・政治家。別号は矩亭。冀東防共自治政府・中華民国臨時政府・南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会で各職を歴任し、特に河北省公署(河北省政府)で長い官歴を持つ。最後は河北省省長代理や華北政務委員会農務総署督弁にまで昇進した。 清末に日本へ留学し、1909年(宣統元年/明治42年)に明治大学政治科を卒業した。1910年(宣統2年)3月、湖北省清丈局専弁となる。中華民国成立後は、呉興県知事、中東鉄路路警処秘書主任、灤県県長などを歴任している。 1935年(民国24年)12月に冀東防共自治政府が成立すると、陳曽栻は自治政府秘書処処長に任命された。
利光 永松(としみつ ながまつ、1883年(明治16年)12… 利光 永松(としみつ ながまつ、1883年(明治16年)12月 - 没年不明)は、日本の実業家。鬼怒川水力電気取締役。小田急電鉄常務取締役。 大分県・利光幸太郎の二男。1907年、明治大学法科卒業。1911年、甥・勇平方より分家した。1918年、鬼怒川水力電気会社に入り、調度課長に進み、1934年、取締役に挙げられた。 1941年、合併改称により、小田急電鉄会社常務取締役に選ばれた。趣味は飼犬。宗教は仏教。 東京市北多摩郡狛江村和泉 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
高山 勝司(たかやま かつじ、1883年〈明治16年〉11月… 高山 勝司(たかやま かつじ、1883年〈明治16年〉11月10日 - 1961年〈昭和36年〉9月30日)は、大正から昭和時代の関東庁官僚。千葉県長生郡豊岡村長。旅順市長。 千葉県長生郡弓渡村(豊岡村、本納町を経て、現茂原市)出身。高山粂蔵の次男として生まれる。1907年(明治40年)明治大学専門部法律科卒業後、関東都督府(1919年(大正8年)関東庁に改組)警察部に出仕する。警部補、警部、警視と進み、旅順、大連、安東、新京各警察署長を歴任し、1935年(昭和10年)3月退官。翌月、旅順市助役を経て、1936年(昭和11年)1月25日、旅順市長に就任した。ほか、旅順市会議長を務めた。 戦後は、豊岡村長を歴任した。
佐々木 武生(ささき たけなり、1883年(明治16年)9月… 佐々木 武生(ささき たけなり、1883年(明治16年)9月 – 1936年(昭和11年)1月4日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。 島根県隠岐郡西郷町(現在の隠岐の島町)出身。1903年(明治36年)、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業。隠岐汽船株式会社書記を経て、判事検事登用試験に合格し司法官試補となった。のち、弁護士を開業した。 1919年(大正8年)、衆議院議員に補欠当選を果たした。 その他、徳田洋行顧問、福松商会顧問、内海商会顧問を務めた。
東三条 実敏(東三條、ひがしさんじょう さねとし、1883年… 東三条 実敏(東三條、ひがしさんじょう さねとし、1883年5月5日 - 1935年3月13日)は、明治から昭和期にかけての華族。正四位、男爵。 太政大臣などを務めた三条実美の養嗣子三条公恭の長男として生まれた。1886年、浪費癖などにより公恭が廃嫡処分となったため、実美の実子で分家の東三条家を興していた公美が三条家の嗣子となった。このため、実敏は公美の養嗣子になって東三条家を継ぎ、幼いながらも襲爵した。実父公恭は東三条家の厄介となったが、後に平民籍に編入されている。1908年、明治大学法律科卒業。
青木 泰助(あおき たいすけ、1883年3月14日 - 19… 青木 泰助(あおき たいすけ、1883年3月14日 - 1952年9月26日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 千葉県出身。1909年明治大学法科選科修了。1913年(財)警務協会経営警察官練習所卒。千葉県野田、佐原、北条の各警察署長、同県刑事課長を歴任。千葉県議、同参事会員、同議長、県労務調停委員会委員長となる。 1946年の第22回衆議院議員総選挙において千葉県から日本進歩党公認で立候補して当選する。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙において千葉3区から民主党公認で立候補したが落選した。 このほか白井自動車(株)取締役、土木建築(資)松井組常任顧問を務めた。1952年死去。
澤部 元信(さわべ もとのぶ、1883年(明治16年)3月1… 澤部 元信(さわべ もとのぶ、1883年(明治16年)3月10日 - 1973年 <昭和48年> 4月6日)は、日本の政治家。初代茨城県下妻市長(2期)。勲五等双光旭日章。位階は正六位。 ハライチの澤部佑の曽祖父。 1903年(明治36年)、明治法律学校を修了する。1921年(大正10年)真壁郡下妻町会議員となる。その後、1933年(昭和8年)と1939年(昭和14年)に下妻町長に就任。町長は1943年(昭和18年)まで務めた。 戦後公職追放となり、追放解除後の1952年(昭和27年)下妻町長に復帰する。1954年(昭和29年)下妻町は真壁郡上妻村・結城郡総上村・豊加美村・筑波郡高道祖村を編入し、下妻市が発足し、町長から初代市長となった。
曺 晩植(チョ・マンシク、そう・ばんしょく、1883年2月1… 曺 晩植(チョ・マンシク、そう・ばんしょく、1883年2月1日 - 1950年10月18日)は、朝鮮の独立運動家、教育者、政治家である。雅号は古堂(コダン、고당)。日本へ留学し明治大学法学部を卒業している。 平安南道江西郡に生まれ、1905年に平壌のミッション系スクールである崇実学校に入学し、在学中にキリスト教に入信した。 1908年に崇実学校を卒業した後は、日本へ留学し、1910年まで正則英語学校において英語を学び、1911年には明治大学法学部へ進学した。その際、インドのマハトマ・ガンディーが主唱した「非暴力・不服従」に関する論文に共感、これが後の独立運動における思想の礎となり、「朝鮮のガンジー」と呼ばれる所以となった。
匂坂 春平(さきさか しゅんぺい、1883年〈明治16年〉1… 匂坂 春平(さきさか しゅんぺい、1883年〈明治16年〉1月30日 – 1953年〈昭和28年〉8月19日)は、日本の陸軍法務官(1942年以降は陸軍法務部将校)。最終階級は陸軍法務中将。 五・一五事件、二・二六事件に関する軍法会議において、各々主席検察官を務めた。 1883年(明治16年)、静岡県城東郡横地村(現:菊川市)の農家の長男として出生。16歳で上京し、1902年(明治35年)に明治法律学校(現在の明治大学)を卒業した。 日露戦争中の1904年(明治37年)、近衛歩兵第四連隊に補充召集され、奉天会戦要員として軍務に服した。応召中、判事検事登用試験に合格し、司法官試補(東京)に任じられた。
宇土 照蔵(うど てるぞう、1883年(明治16年)1月 -… 宇土 照蔵(うど てるぞう、1883年(明治16年)1月 - 1912年(明治45年)7月15日)は、日本の大陸浪人である。 大分県宇佐郡豊川村(現在の宇佐市)に生まれる。明治大学卒業後、朝鮮人の行動を調査するため李氏朝鮮(のち大韓帝国)に渡る。1910年の韓国併合後、清国に移住。 その後は同地で活動していた川島浪速らとともに満蒙独立運動や満洲に亡命していた朝鮮人の行動等に携わった。しかし、この頃奉天省の海龍(現在の遼寧省朝陽市龍城区)付近にて中国軍からの砲撃により死去した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
鈴木 憲太郎(すずき けんたろう、1882年(明治15年)9… 鈴木 憲太郎(すずき けんたろう、1882年(明治15年)9月21日 - 1953年(昭和28年)1月17日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員、延岡市長。 宮崎県臼杵郡、現在の延岡市で、衆議院議員・小林乾一郎の二男として生まれる。1901年(明治34年)、鈴木シマの入夫となり家督を相続した。 1904年(明治37年)明治法律学校(現明治大学)卒業。陸軍三等主計、岡富村議、宮崎県議、県農会長等を経て、1928年(昭和3年)第16回衆議院議員総選挙で宮崎県より衆議院議員に初当選(民政党)。以後3回当選した。また、第2,3,7代の延岡市長を務めた。実業界に於いては、延岡電気・神都電気興業各取締役等を務めた。
斎藤 鷲太郎(さいとう わしたろう、1882年〈明治15年〉… 斎藤 鷲太郎(さいとう わしたろう、1882年〈明治15年〉3月18日 - 1936年〈昭和11年〉8月3日)は、衆議院議員(立憲政友会→政友本党)。弁護士。 愛知県額田郡幸田村(現在の幸田町)出身。1902年(明治35年)、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業。1906年(明治39年)から8年間、関東都督府で警部や属官を務める。1915年(大正4年)に弁護士試験に合格。翌年に大連市に事務所を開業し、1919年(大正8年)より関東州弁護士会長を3回務めた。さらに大連市会議員に選出された。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し当選を果たした。
朴 海克(パク・ヘグク、朝鮮語: 박해극/朴海克、1882年… 朴 海克(パク・ヘグク、朝鮮語: 박해극/朴海克、1882年(高宗19年)2月14日 - 1952年5月7日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の判事、弁護士、実業家、政治家。制憲韓国国会議員。 慶尚南道密陽または慶尚北道大邱出身。明治大学法学部卒。1915年より朝鮮総督府裁判所傘下釜山地方法院統営支庁書記課書記兼通訳生を経て、1918年11月に光州地方法院順天支庁判事となった。1921年10月、慶尚北道道弁護士として北京の国際弁護士会議に朝鮮人弁護士代表を務め、朝鮮弁護士協会創立総会議員を務めた。その後は大邱で活動し、大邱嶠南キリスト教青年会教育部夜学法律講習所講師、朝鮮民立大学期成会地方部大邱地域委員、大邱府水害問題市民大会委員を務めた。
武川 佳海(たけかわ よしみ、1882年(明治15年)2月 … 武川 佳海(たけかわ よしみ、1882年(明治15年)2月 - 没年不明)は、日本の判事。従四位勲三等。下妻区裁判所監督判事兼水戸地方裁判所下妻支部部長。 息子は音楽評論家の武川寛海、孫はゴダイゴのメインボーカル、タケカワユキヒデ(本名:武川行秀)。族籍は福島県士族。 福島県・武川重信の長男として生まれる。1906年(明治39年)に明治大学卒業後、判事検事登用試験に合格。1912年(大正元年)、任判事東京地方兼同区沼津区・静岡地方兼同区・宇都宮地方各裁判所判事、宇都宮栃木各区裁判所監督判事、東京区裁判所兼民事地方裁判所判事を歴任。1940年(昭和15年)3月、下妻区裁判所監督判事兼水戸地方裁判所下妻支部部長に就任。
長谷川 太一郎(はせがわ たいちろう、明治14年(1881年… 長谷川 太一郎(はせがわ たいちろう、明治14年(1881年)12月1日 - 昭和43年(1968年)11月25日)は最高裁判所判事。弁護士。第一東京弁護士会会長。
一瀬 一二(いちのせ いちじ、1881年(明治14年)11月… 一瀬 一二(いちのせ いちじ、1881年(明治14年)11月25日 – 1935年(昭和10年)8月5日)は、衆議院議員(立憲政友会)、ジャーナリスト。 熊本県玉名郡小田村(現在の玉名市)に一瀬彦四郎の長男として生まれる。明治大学に学ぶ。国民新聞社社長徳富蘇峰の門下にあり、後に独立して大日本新聞社を経営した。 1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第18回衆議院議員総選挙でも再選された。 その他、財団法人青山会館常任理事を務めた。
小穴 喜一(おあな きいち、1881年〈明治14年〉6月26… 小穴 喜一(おあな きいち、1881年〈明治14年〉6月26日 - 1953年〈昭和28年〉6月18日)は、日本の弁護士。書家。号は雨堂。1907年に弁護士登録してから約46年にわたり弁護士として活動した。 1881年(明治14年)6月26日、長野県南安曇郡温村楡(現在の安曇野市三郷温)に小穴善平とちよの二男として生まれた[要出典]。小穴家は、貞享騒動に加担して処刑された小穴善兵衛の末裔家である。 若くして、松本の弁護士界の重鎮であり親戚筋でもある森山儀文治の書生となる[要出典]。 1901年(明治34年)9月、森山儀文治の支援により上京して明治法律学校(明治大学の前身校の一つ)に入学する。1904年(明治37年)7月、明治大学法科(1903年3月専門学校令に基づき明治法律学校から名称変更)を卒業した。
岡本 実太郎(おかもと じつたろう、明治14年(1881年)… 岡本 実太郎(おかもと じつたろう、明治14年(1881年)6月25日 - 昭和27年(1952年)4月30日)は日本の官僚、政治家、弁護士。 愛知県西加茂郡猿投村(現豊田市)出身。明治法律学校を卒業し第10回高等文官試験に合格し、1904年に大蔵省入省。 司法官試補、専売局事務官、広島専売局長などを歴任し、1920年退官。 弁護士としては、日本弁護士連合会理事、税務弁理士会監事(民政・愛知)などを務めた。 1924年の第15回衆議院議員総選挙で当選(以後、第16回・第17回・第19回・第20回・第22回と計6回当選)。立憲政友会政務調査会長や立憲民政党総務、農林参与官などを歴任した。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
松島 肇(まつしま はじめ、1881年(明治14年)5月15… 松島 肇(まつしま はじめ、1881年(明治14年)5月15日 - 1969年(昭和44年)2月7日)は、日本の政治家、実業家。徳島県阿波市出身。明治大学法学部卒業。 松島素敬の息子として板野郡土成村土成(現在の阿波市土成町土成)で生まれる。京都の中学校を卒業後、1901年(明治34年)に上京して明治大学法科に入学し、卒業後は同大学の学生部長を務めた。 1906年(明治39年)に共同火災保険会社(現在のあいおいニッセイ同和損害保険の前身)に入社し、1910年(明治43年)には早稲田大学校友会に推薦された。 昌栄貯蓄銀行、日本資金信託、第一倉庫、安全印刷、摂津煉瓦、大阪計器製作所、中央インキ、東海市場、東亜フェルト各株式会社の社長、美馬郡是製糸、カルチウム鉱泉、東亜織布、常盤商工、黒崎電機製作所、市岡電気工業、東京絹綿紡績、大阪造船所(現ダイゾー)各株式会社の取締役、東京リベット製造、日東炭鉱、日本鋼管シャフト、城南土地各株式会社の監査役などに就いた。
林 連(はやし れん、1881年(明治14年)4月14日 -… 林 連(はやし れん、1881年(明治14年)4月14日 - 1950年(昭和25年)3月26日)は、衆議院議員(日本進歩党→民主党)、内務政務次官。弁護士。 福岡県上座郡朝倉村(現在の朝倉市)出身。1910年(明治43年)、明治大学法科を卒業し、弁護士試験に合格した。弁護士業務のかたわら、南千住町会議員、南千住町長、東京府会議員、同郡部会副議長、同参事会員、東京市会議員、同副議長、東京都議会議員、同副議長を歴任した。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に東京都第1区から出馬して当選。1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙でも東京都第6区から出馬して再選された。
高 元勲(コ・ウォンフン、고원훈、日本名:高元 勲(たかもと… 高 元勲(コ・ウォンフン、고원훈、日本名:高元 勲(たかもと いさお)、1881年2月29日 - 1950年)は、日本統治時代の朝鮮の官僚、企業家である。 慶尚北道聞慶郡山陽面(朝鮮語版)薪田里(신전리)で生まれた。日本の明治大学に留学し、1910年7月に同大学法科を卒業し、1911年8月に朝鮮総督府の警部として採用され、1913年に普成法律商業学校(보성법률상업학교:後の高麗大学校の前身)に移って教授として在職し、1920年からはこの学校の校長も務めた。普成法律商業学校は1921年に専門学校認定を受けて普成専門学校に昇格し、高元勲は朝鮮人が建てた最初の専門学校の校長となった。一方、1920年7月には朝鮮体育会(조선체육회:大韓体育会の前身)の初代理事長に選出され、1921年には会長となった。
金 始顕(キム・シヒョン、朝鮮語: 김시현/金始顯、1881… 金 始顕(キム・シヒョン、朝鮮語: 김시현/金始顯、1881年または1882年または1883年 - 1966年1月3日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の政治家。大韓民国臨時政府委員、東洋工科大学学長、第2・5代韓国国会議員。 本貫は安東金氏。字は九和(クファ、구화)、号は何求(ハグ、하구)、鶴右(ハグ、학우)。独立運動家の権愛羅(朝鮮語版)は妻。 慶尚道安東大都護府(現・慶尚北道安東市豊山面)出身。明治大学法学部卒。三・一運動に参加後、満州の吉林省に亡命し、義烈団に入団した。1922年、モスクワに開催された極東革命団体代表大会に金奎植・呂運亨らとともに韓国代表として参加した。1923年、義烈団の密命を受けて朝鮮に潜入し、日本の朝鮮統治機関の破壊や大日本帝国の要人の暗殺などを計画したが、京畿道警察部の黄鈺(朝鮮語版)と連携して爆弾を朝鮮に輸入し挙事しようとして逮捕され、懲役10年の刑を言い渡された。
布施 辰治(ふせ たつじ、1880年(明治13年)11月13… 布施 辰治(ふせ たつじ、1880年(明治13年)11月13日 - 1953年(昭和28年)9月13日)は、宮城県出身の弁護士・社会運動家である。日本人として初めて大韓民国建国勲章を受章した。 宮城県牡鹿郡蛇田村(現在の石巻市の一部)の農家に生まれる。少年時代には墨子の兼愛思想に触れ、長じては正教会の洗礼を受け神田ニコライ堂付属の神学校へ入学するなど、若くから平和主義に親しんだが、神学校自体は3か月で退学し、以降は社会運動への参画においてはキリスト教系のトルストイ運動に共感し生涯これを範とし続けたものの、宗教上の立場は結婚を機に妻の信仰である日蓮正宗に改宗した。 初めは東京専門学校(現在の早稲田大学)に入り、次いで明治法律学校(現在の明治大学)に移って1902年に卒業し、22歳で判事検事登用試験に合格、司法官試補となった。
小峰 満男(おみね みつお、1880年〈明治13年〉7月18… 小峰 満男(おみね みつお、1880年〈明治13年〉7月18日 - 1935年〈昭和10年〉10月3日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。旧姓・島村。 茨城県東茨城郡水戸上市備前町(現水戸市)で島村新一の三男として生まれ、多賀郡松原町の酒造業・小峰くりの入夫となり家督を相続した。 1907年(明治40年)明治大学法律経済科、翌年同大学の高等研究科を卒業。松原町議、多賀郡会議員、茨城県会議員となる。また高萩運送、常盤商事、茨城無煙炭礦、水戸ツウリング自動車各(株)取締役社長、多賀製塩所、多賀銀行、多賀電気、久慈川電気工業、東部電力、茨城電力、小里川電気、茨城醤油各(株)取締役を務める。 1928年(昭和3年)第16回衆議院議員総選挙において茨城2区から立憲民政党公認で立候補してトップ当選し1930年(昭和5年)第17回総選挙で再選し、衆議院議員を2期務めた。
松谷 與二郎(略字表記「松谷与二郎」、まつたに よじろう、1… 松谷 與二郎(略字表記「松谷与二郎」、まつたに よじろう、1880年6月4日 - 1937年3月17日)は、日本の政治家、衆議院議員、弁護士、社会活動家。 石川県金沢市生まれ。1903年、明治法律学校卒業。 1914年に弁護士を開業し、虎の門事件で難波大助の国選弁護人を引き受けるなど、社会運動、小作争議の弁護活動に活躍する。 1926年、日本労農党創立に参加、全国大衆党、全国労農大衆党の顧問を務める。1930年、第17回衆議院議員総選挙において東京6区から日本大衆党の候補として出馬し、衆議院議員に初当選する。その後全国大衆党・全国労農大衆党を経て、1932年には社会大衆党の顧問に就く。しかし満州事変の評価をめぐって社大党と対立して離党し、以後新日本建設同盟・国民同盟・日本国家社会党を経て、1934年に勤労日本党総理となった。
井本 常作(いもと じょうさ / つねさく、1880年〈明治… 井本 常作(いもと じょうさ / つねさく、1880年〈明治13年〉4月18日 - 1969年〈昭和44年〉6月1日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(当選3回)。司法参与官。 群馬県多野郡神流村岡之郷(現在の藤岡市)出身。井本孫市の二男。1902年(明治35年)、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業。判事検事登用試験に合格し、司法官試補となった。官を辞して卜部喜太郎の事務所に入り、在野法曹界の人となって実務の練習に努めた。1908年(明治41年)、弁護士を開業した。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。立憲民政党に所属。濱口内閣で司法参与官を務めた。本郷区学務委員、同委員長、本郷区教育会商議員等にも挙げられた。
高倉 篤麿(たかくら あつまろ、1880年〈明治13年〉2月… 高倉 篤麿(たかくら あつまろ、1880年〈明治13年〉2月15日 - 1964年〈昭和39年〉2月1日)は、日本の宮内官、神職、華族。貴族院子爵議員、伊勢神宮大宮司。旧姓・藪。1936年(昭和11年)2月、高倉に復姓(中国語版)した。 東京府で華族・藪実休(さねたる)の二男として生まれる。1882年(明治15年)10月7日、祖父・藪実方の隠居に伴い家督を相続。1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した。1907年(明治40年)明治大学政治科を卒業し、さらに東京外国語学校仏語専修科で学んだ。 1890年(明治23年)侍従職出仕となり、1898年(明治31年)主猟官に転じた。1914年(大正3年)1月24日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し1940年(昭和15年)2月20日に辞任した。
立花 種忠(たちばな たねただ、1880年(明治13年)1月… 立花 種忠(たちばな たねただ、1880年(明治13年)1月30日 - 1963年(昭和38年)10月14日)は、大正から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員、東京府荏原郡入新井町長。旧名・恭忠。 旧三池藩主・立花種恭の八男として東京府深川区深川東元町(現江東区)で生まれる。父の死去に伴い種忠と改名し、1905年(明治38年)2月13日、子爵を襲爵した。 学習院を経て、明治大学を修了した。1907年(明治40年)12月、一年志願兵として騎兵第1連隊に入隊。1911年(明治44年)5月、陸軍騎兵少尉となり、さらに同中尉に昇進した。 1914年(大正3年)7月25日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1946年(昭和21年)4月8日に辞職するまで五期在任した。
尾佐竹 猛(おさたけ たけき、1880年〈明治13年〉1月2… 尾佐竹 猛(おさたけ たけき、1880年〈明治13年〉1月20日 - 1946年〈昭和21年〉10月1日)は、日本の法学者(専門は法制史)、明治文化研究者。学位は法学博士。大審院判事。号は雨花子。 1880年1月20日、石川県金沢に旧加賀藩の儒者の子として生まれる。上京後、明治法律学校(現:明治大学法学部)に学び、1899年に卒業。同年、第1回判事検事登用試験に合格し、1924年、司法官試補。福井地方裁判所、東京控訴院・名古屋控訴院の判事を務める。1924年から1942年まで大審院判事。 判事の地位に留まらず、憲政史や刑罰史など法制史の研究を手がけた。研究姿勢は、史料を重視した実証主義、洒脱な着眼点、談話調で達意な文章を特徴とする。
古屋 慶隆(ふるや よしたか、1879年12月18日 - 1… 古屋 慶隆(ふるや よしたか、1879年12月18日 - 1945年3月10日)は、戦前日本の政治家。岐阜県恵那市出身。古屋家は典型的な地方の名望家であり、慶隆の父・善造も衆議院議員を1期務めた。 1903年明治大学法律科卒業。恵那郡大井町(現在の恵那市)会議員、所得税調査委員を経て1915年第12回衆議院議員総選挙で無所属で立候補し初当選。当選後立憲同志会に入党。その後憲政会、立憲民政党に所属。1928年の第16回衆議院議員総選挙に落選したのを唯一の例外として、1942年の翼賛選挙まで連続9回当選した。加藤高明内閣及び第1次若槻内閣で鉄道参与官を務めたのち、1931年1月民政党総務に就任し、同年4月には第2次若槻内閣の内務政務次官となった。
倉元 要一(くらもと よういち、1879年(明治12年)12… 倉元 要一(くらもと よういち、1879年(明治12年)12月17日 - 1942年(昭和17年)11月12日)は、日本の政治家、立憲政友会所属の衆議院議員。 福岡県宗像郡上西郷村(現・福津市)出身。明治大学法科専門部卒業。大阪府属、滋賀県警部、鳥取県警部、福井県今立郡長、坂井郡長、福井県理事官、静岡県浜名郡長、静岡県理事官・産業課長を歴任した。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、6回の当選を重ねた。その間、浜松市会議員を兼ね、文部大臣秘書官を務め、平沼内閣では司法政務次官に就任した。 1939年(昭和14年)の政友会分裂に際しては中島知久平総裁が率いる政友会革新同盟に所属し、政党解消後は翼賛議員同盟に加わらず興亜議員同盟に所属。
則井 万寿雄(のりい ますお、1879年(明治12年)10月… 則井 万寿雄(のりい ますお、1879年(明治12年)10月24日 - 1936年(昭和11年)10月26日)は、衆議院議員(立憲政友会)であり、弁護士でもある。 1879年(明治12年)岡山県上房郡川面村(現:高梁市)出身で農業・土木請負業の則井兼十郎の次男に生まれる。川面小学校、旧制高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)を卒業後上京し、昼間郵便局でアルバイトをしながら明治大学夜間部、明治大学高等研究科で法学の研究を続け1904年(明治37年)7月修了した。 1904年(明治37年)に判事検事登用試験に合格し、高松地方裁判所に勤務したが、1年で辞した。その後、東京で弁護士を開業したが、岡山に戻って高梁で開業した。
長井 村太(ながい むらた、1879年〈明治12年〉9月25… 長井 村太(ながい むらた、1879年〈明治12年〉9月25日 - 没年不明)は、明治から昭和期の三井財閥の実業家、銀行家。 長野県生まれ。1902年(明治35年)、明治法律学校(現・明治大学)卒業。判事検事登用試験に合格し判事となる。後に三井財閥に転じ、三井銀行に入行。同期に万代順四郎(全国銀行協会連合会会長、三井銀行会長)など。米山梅吉(貴族院勅選議員、三井信託初代社長)の薫陶を受け、京都支店、大阪西支店、門司支店、下関支店などの各支店長を務める。更に三井本社にて「重役待遇」となり、当時の三井家の最高議決機関である三井家同族会の主事を務めた他、三井生命保険、富士写真フイルムなどの監査役、上田日本無線会長など、三井財閥系企業の要職を歴任した。
門脇 孝一(かどわき こういち、1879年〈明治12年〉4月… 門脇 孝一(かどわき こういち、1879年〈明治12年〉4月20日 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家、弁護士。族籍は鳥取県平民。 鳥取県西伯郡手間村大字天萬(のち会見町天萬、現・南部町天萬)出身。門脇休三郎の長男、あるいは三男。1900年、家督を相続する。1902年、明治法律学校(現・明治大学)を卒業、同年判検事試験に合格し、松江地方裁判所検事に任ぜられて在官1年余に及んだ。 1904年、弁護士となり米子市五十人町に法律事務所を設けて弁護事務に従事する。弁護士事務の傍ら各種の事業に関係し、銀行会社の重役である。三好英之を助けて山陰日日新聞の経営に当たる。 日本産業貯蓄銀行代表取締役・同専務取締役、伯陽電鉄代表取締役、山陰日々新聞社代表取締役・同副社長、山陽銀行、米子電気軌道、六甲越有馬鉄道各取締役、博愛病院監査役、山陰実業信託出資社員(代表)などをつとめる。
田邊 七六(たなべ しちろく、1879年3月1日 - 195… 田邊 七六(たなべ しちろく、1879年3月1日 - 1952年8月1日)は、日本の政治家、実業家。「カミソリ将軍」とあだ名されたほどの切れ者であった。衆議院議員選挙に7回当選。 山梨県出身。帝国拳闘協会会長で後楽園スタヂアム社長を務めた田邊宗英は実弟、第一勧業銀行理事の田邊加多丸も兄弟、阪急東宝グループの創業者である小林一三は異母兄である。一部人名辞典では「田邊七六は小林一三の義弟」となっているものもあるが、これは田邊と小林は兄弟とはいえ腹違いであることが事由であると考えられる。息子の田邊圀男も政治家で山梨県知事(第3代知事)を務めた。 立憲政友会→政友会革新派(中島派、革新同盟ともいう。総裁は中島知久平)→翼賛議員同盟→翼賛政治会→大日本政治会→日本進歩党
平出 修(ひらいで しゅう、1878年〈明治11年〉4月3日… 平出 修(ひらいで しゅう、1878年〈明治11年〉4月3日 - 1914年〈大正3年〉3月17日)は、日本の小説家・作家・歌人・弁護士。幸徳事件(大逆事件)で弁護人をつとめた。 新潟県中蒲原郡石山村(現・新潟県新潟市)に庄屋・児玉家の八男として生まれる。幼少期は虚弱だったが、小学校では記憶力に優れ、1892年に亀田町高等小学校を卒業する。1894年、旧制中学校進学を前提に新潟市の質店の養子となったが、進学の約束が果たされなかったことで1895年10月に縁組みを解消して、亀田町高等小学校の代用教員となる。翌年小学校準教員検定試験に合格した。 文芸に興味を抱いた平出は、1897年ごろから活動を始め、短歌・俳句を制作した。
崔 麟(チェ・リン、1878年 – 1958年)は、日本統治… 崔 麟(チェ・リン、1878年 – 1958年)は、日本統治時代の朝鮮における天道教の幹部。独立運動家から親日派へ転向した人物として知られている。号は古友(コウ、고우)、天道教道号は如庵(ヨアム、여암)。創氏改名時の日本名は佳山麟(かやま・りん)。
前田 卯之助(まえだ うのすけ、1877年(明治10年)11… 前田 卯之助(まえだ うのすけ、1877年(明治10年)11月18日 - 1937年(昭和12年)7月13日)は、日本の実業家、政治家。立憲民政党所属の衆議院議員。 兵庫県二方郡居組村(現:美方郡新温泉町居組)で前田利助の二男として生まれる。1903年、明治法律学校を卒業。 1905年12月、函館に移り、尼崎汽船会社を経て、函館商船 (株) を設立して社長となるが、1917年に倒産。その後、函館時事新聞社社長となる。 政界では、北海道会議員、同参事会員、函館市会議員、同参事会員を歴任。1918年7月、第13回衆議院議員総選挙補欠選挙で北海道庁函館外三支庁管内から出馬して初当選し、さらに1930年2月の第17回総選挙で北海道第3区から出馬して当選し、衆議院議員を二期務めた。
山崎 今朝弥(やまざき けさや、旧漢字表記:山崎 今朝彌、1… 山崎 今朝弥(やまざき けさや、旧漢字表記:山崎 今朝彌、1877年9月15日 - 1954年7月29日)は、明治・大正・昭和期の弁護士である。社会主義者の事件を多く扱った。 1877年、現在の長野県岡谷市(旧・諏訪郡川岸村)出身。上京後、明治法律学校(現・明治大学)に学び、1901年卒業。同年第1回判事検事登用試験に合格(弁護士試験にも合格)、司法官試補となり甲府区裁判所詰となるも翌年依願免官し、1903年渡米。赤羽一、岩佐作太郎、幸徳秋水らと知り合った。 1907年に帰国し、東京弁護士会に入会して弁護士となった。 1913年、合同法律事務所の先駆けとなる東京法律事務所を設立。1916年、平民法律所開設。
森 勇(もり いさむ、1876年(明治9年)11月3日 - … 森 勇(もり いさむ、1876年(明治9年)11月3日 - 1958年(昭和33年)10月)は、日本の検事。富山市長。 岐阜県羽島郡中屋村(現在の各務原市)出身。1900年(明治33年)、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業した。1902年(明治35年)、判事検事登用試験に合格し、司法官試補として金沢地方裁判所に勤務した。1905年(明治38年)に検事となり、高松区裁判所検事、大津区裁判所検事、大阪地方裁判所検事、大津地方裁判所検事、広島区裁判所検事、山口地方裁判所検事、呉区裁判所検事、広島地方裁判所検事、広島控訴院検事を歴任した。1928年(昭和3年)に那覇地方裁判所検事正となり、以後、富山地方裁判所検事正、奈良地方裁判所検事正、金沢地方裁判所検事正を務め、1939年(昭和14年)に退官した。
水内 吉藏(1876年(明治9年)10月21日 – 不明)は… 水内 吉藏(1876年(明治9年)10月21日 – 不明)は、日本の裁判官。
阿部 茂雄(あべ しげお 1876年(明治9年)10月14日… 阿部 茂雄(あべ しげお 1876年(明治9年)10月14日 – 没年不明)は、日本の裁判官。
櫻田 壽(さくらだ ひさし、1876年(明治9年)10月6日… 櫻田 壽(さくらだ ひさし、1876年(明治9年)10月6日 – 1944年(昭和19年)6月19日)は、日本の裁判官。宮城控訴院長、広島控訴院長。
井上 源一(いのうえ げんいち、1876年(明治9年)6月1… 井上 源一(いのうえ げんいち、1876年(明治9年)6月15日 – 没年不詳)は、日本の弁護士。愛媛県宇和島市長。 愛媛県出身。1903年(明治36年)、明治大学を卒業。同年、弁護士試験に合格し、弁護士業務に従事した。宇和郡会議員、宇和島市会議員、同議長に選出された。 1933年(昭和8年)に宇和島市長に選出された。 その後、第二十九銀行取締役、宇和島材木会社取締役、南予文化協会理事などを務めた。
栗延 敬太郎(くりのぶ けいたろう、1876年6月10日 -… 栗延 敬太郎(くりのぶ けいたろう、1876年6月10日 - 1949年3月24日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 広島県出身。1903年、明治大学法律科卒。農業を営み、村長、郡会議員を務める。西備織物同業組合副組合長、備後水力電気、両備軽便鉄道、芦品製糸、備後銀行各(株)取締役となる。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において広島12区から憲政会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務めた。1928年の第16回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1949年死去。
中野 浩(なかの こう、1876年(明治9年)6月3日 -… 中野 浩(なかの こう、1876年(明治9年)6月3日 - 没年不明)は日本の政治家。青森県青森市長。 青森県中津軽郡弘前に生まれる。青森県立弘前中学校(現・青森県立弘前高等学校)を経て、明治大学法科を卒業する。卒業後は台湾総督府官吏となったが、風土病により短期間で辞職した。その後は、時事新報、東京毎日新聞の各記者を経て、東京市に入り、赤坂(1920年4月から1925年8月まで)、深川(1925年8月1日から1926年8月7日まで)の各区長を務めた。 1926年、青森市長に就任。在任中に東津軽郡滝内村と造道村の一部を編入。練兵場の移転と青森港の拡張問題には苦慮した。1930年に市長を退任。東京に戻り、碑衾町最後の町長(1931年10月17日から1932年9月30日まで)を務めた後に淀橋(1932年10月1日から1933年11月2日まで)、板橋(1933年11月から1934年6月まで)の各区長を務めた。
寺田 市正(てらだ いちまさ、1876年〈明治9年〉4月25… 寺田 市正(てらだ いちまさ、1876年〈明治9年〉4月25日 - 1958年〈昭和33年〉8月21日)は、日本の衆議院議員(政友本党→立憲民政党→立憲政友会)、拓務政務次官。川内市長。 鹿児島県高城郡水引郷五代村(現在の薩摩川内市五代町)に寺田宗七の長男として生まれた。小学校教師を務めた後、上京して明治法律学校(現在の明治大学)で学び、1900年(明治33年)に卒業した。卒業後の2年間、明治法律学校の舎監を務め、やがて時事新報の記者となった。1915年(大正4年)、時事新報社を退社し、自由通信社の主幹となった。 1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。以後、連続当選回数は7回を数えた。
長谷川 如是閑(はせがわ にょぜかん、1875年(明治8年)… 長谷川 如是閑(はせがわ にょぜかん、1875年(明治8年)11月30日 - 1969年(昭和44年)11月11日)は、日本のジャーナリスト、文明批評家、評論家、小説家。明治・大正・昭和と三代にわたり、新聞記事・評論・エッセイ・戯曲・小説・紀行と約3000本もの作品を著した。大山郁夫らとともに雑誌『我等』(後に『批判』)を創刊し、大正デモクラシー期の代表的論客の一人。「如是閑」は雅号、本名は萬次郎。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 東京府深川区深川扇町(現在の東京都江東区木場)で、山本金蔵(幼名・徳治郎)・たけの次男として生まれる。山本家は江戸城築城に携わった棟梁の家系で、代々幕府から俸禄を受けていたが、金蔵の代からは材木商を営んでいた。
戸部 良祐(とべ りょうすけ、1875年7月6日 - 193… 戸部 良祐(とべ りょうすけ、1875年7月6日 - 1934年12月19日)は、日本の実業家・政治家。衆議院議員(1期)。 石川県出身。1900年、陸軍教導団歩兵科卒。のちに明治法律学校で学ぶ。日露戦争に従軍し、帰国後は小学校訓導、石川県立第二中学校(現・石川県立金沢錦丘中学校・高等学校)助教諭心得、第四高等学校助教授となり、区長、七尾町助役、鹿島郡会議員、七尾町議、石川県議となる。また、能登部銀行監査役、七尾無尽(株)取締役社長、能登藁工品同業組合、鹿島郡蚕糸同業組合各組合長を務めた。 1930年の第17回衆議院議員総選挙において石川2区から立憲民政党公認で立候補して当選し、衆議院議員を1期務めた。