神谷 新一(かみや しんいち、1903年7月 - 1986年… 神谷 新一(かみや しんいち、1903年7月 - 1986年11月8日)は、日本の実業家。竹中工務店副社長などを務めた。 長野県木曽郡大桑村生まれ。松本中学(長野県松本深志高等学校の前身)から、早稲田大学へ進み、建築科に学ぶ。1928年、竹中工務店大阪本社に入り、もっぱら現場管理関係に従事する。満洲竹中工務店常務取締役、竹中工務店専務取締役、大阪支店長、副社長などを歴任し、竹中工務店顧問となった。 現場監督として関わった建物には、1937年竣工の平安中学校(龍谷大学付属平安中学校・高等学校の前身)講堂・教室や、1936年から 1937年にかけて現地に住み込んで担当した、ヴォーリズ建築事務所の設計による豊郷尋常高等小学校(豊郷町立豊郷小学校の前身)などがある。
木村 恵吾(きむら けいご、1903年6月19日 - 198… 木村 恵吾(きむら けいご、1903年6月19日 - 1986年1月20日)は、日本の映画監督、脚本家である。サイレント映画の時代に脚本家、ついで監督としてデビューした。1940年(昭和15年)にオペレッタ映画『狸御殿』を創出、『オペレッタ狸御殿』(2005年)につながる源流をつくった。 1903年(明治36年)6月19日、静岡県三島市に生まれる。 早稲田大学附属早稲田高等学院(現在の早稲田大学高等学院)の2年次終了で日活大将軍撮影所に入社、1926年(大正15年)、オリジナル脚本が採用され、伊奈精一監督、根岸東一郎主演のサイレント映画『神田の下宿』で脚本家としてデビューした。同年、オリジナル脚本第2作『都の西北』が映画化され、伊奈監督、中野英治主演で製作されたが、これには俳優時代ののちの映画監督渡辺邦男が出演している。
芝田 新(しばた あらた、1903年6月16日 - 没年不明… 芝田 新(しばた あらた、1903年6月16日 - 没年不明)は、日本の俳優である。本名川上 勇之進(かわかみ ゆうのしん)。 1903年(明治36年)6月16日、北海道函館市に生まれる。 上京して早稲田大学文科卒業後、大阪市に移る。大阪松竹劇団を経て新声劇の幹部俳優となり、大阪の角座、浪花座などに出演。1933年(昭和8年)には日活太秦撮影所に入社して映画俳優もこなした。映画界入りの最初の年には主演作『峠三里』と『月光人斬橋』を残しているが、以後は脇役に専念。1934年(昭和9年)に第一映画、1936年(昭和10年)には新興キネマへの移籍を経て、のちにフリーとなる。第二次世界大戦中から終戦後にかけてはフリーとして、東宝劇団、東宝撮影所、榎本健一一座、古川緑波一座などで活躍した。
田辺 晃(田邊 晃、たなべ あきら、1903年〈明治36年〉… 田辺 晃(田邊 晃、たなべ あきら、1903年〈明治36年〉5月20日 - 没年不明)は、日本の地主・実業家。神奈川県多額納税者。東土地合名会社代表社員。早稲田大学評議員。 神奈川県横浜市中区中村町、田辺郷左衛門の三男、あるいは四男。1925年、早稲田大学専門部法律科卒業。1936年、家督を相続。貸地業を営む。1938年、蒙疆連合委員会の招聘に応じ渡蒙し、蒙古聯合自治政府嘱託となる。 趣味は自然科学研究、音楽、読書、旅行。宗教は真言宗。住所は神奈川県横浜市中区中村町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
栗田 直躬(くりた なおみ、1903年5月10日 - 199… 栗田 直躬(くりた なおみ、1903年5月10日 - 1998年6月12日)は、日本の中国哲学研究者、中国学者。早稲田大学名誉教授。 1903年、茨城県水戸市で生まれた。第一早稲田高等学院を卒業し、早稲田大学文学部西洋哲学専攻に進学。戸川行男と共に津田左右吉の講義を受講したことを機に、以後、津田に師事。 1933年に早稲田大学文学部助手となった。1937年から2年間北京に留学。1939年に帰国し、早稲田大学文学部専任講師に昇格。1948年に早稲田大学文学部教授となった。1974年に早稲田大学を退職し、名誉教授となった。1998年に死去。 近代的な中国思想研究を日本に導入した先駆者として知られ、特に中国古代思想の分野で優れた業績を上げた。
徐 珉濠(ソ・ミノ、朝鮮語: 서민호、1903年4月27日 … 徐 珉濠(ソ・ミノ、朝鮮語: 서민호、1903年4月27日 - 1974年1月24日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の独立運動家、実業家、政治家。初代光州府尹、米軍政下の全羅南道知事・江原道知事、第2・5・6・7代韓国国会議員、第5代国会民議院副議長を歴任した。 本貫は利川徐氏、号は月坡(ウォルパ、월파)。父は実業家で元南鮮貿易代表の徐和日。 全羅南道高興郡(本籍は東江面魯東里)または宝城郡筏橋邑出身。16歳のときに三・一運動に参加し、半島木鐸紙事件により逮捕され、ソウル刑務所で6ヶ月間服役した。1923年早稲田大学政経学科卒、1925年ウェズリアン大学卒、1927年コロンビア大学大学院政治社会学部修了。
入江 啓四郎(いりえ けいしろう、1903年4月20日 - … 入江 啓四郎(いりえ けいしろう、1903年4月20日 - 1978年8月13日)は、日本の国際法学者・ジャーナリスト。 鳥取県西伯郡春日村(現・米子市)生まれ、上海で育つ。1919年豊浦中学校中退。1921年日本中学校卒業。1923年第一早稲田高等学院卒業。1927年3月、早稲田大学法学部卒業。1927年4月、ジャパンタイムズに記者として入社。その後、日本新聞連合社記者を経て、1936年1月、同盟通信社に勤務、1937年に同社パリ支局長。1939年に同社ジュネーヴ支局長。『ヴェルサイユ体制の崩壊』全3巻を上梓する。1945年同社編集局外信部長。1945年、時事通信社編集局外信部長。1946年、同社時事研究所長。
八住 利雄(やすみ としお、1903年〈明治36年〉4月6日… 八住 利雄(やすみ としお、1903年〈明治36年〉4月6日 - 1991年〈平成3年〉5月22日)は、日本の脚本家。元日本シナリオ作家協会理事長(1965年 - 1968年、1982年 - 1991年)。脚本家の白坂依志夫は長男。 大阪市出身。早稲田大学露文学科卒業。卒業後、しばらくはロシア文学の翻訳家、築地小劇場などの新劇運動を経て。 1928年、春秋社から人生読本というタイトルでトルストイの翻訳書を出版、笹本寅が携わった。 1936年、PCL入社。脚本第一作は『武士道朗らかなりし頃』を発表、1939年(昭和14年)『樋口一葉』で注目され、その後シナリオライターに専念する。 。1947年(昭和22年)、ラジオドラマ『向う三軒両隣』の脚本を伊馬春部、北条誠、北村寿夫とともに交代で執筆。
長谷川 晃一(はせがわ こういち、1903年(明治36年)4… 長谷川 晃一(はせがわ こういち、1903年(明治36年)4月1日 - 1967年(昭和42年)4月25日)は、早稲田大学政治経済学部教授、同学部教養諸学研究会評議員、早稲田大学世界連邦研究会会長、世界連邦建設同盟常任理事・国際部長。 1903年4月1日、長野県上田市に生まれる。 1920年5月、渡米しカリフォルニア州の商業高校に入学し、1923年6月に卒業する。同年9月、オハイオ州のマイアミ大学に入学する。1927年6月に卒業し、政治経済学でB.A.の学位を受ける。同年9月、シンシナティ大学大学院都市行政学科に入学する。1928年6月、修了しM.A.(修士)の学位を受ける。同年9月、コロンビア大学大学院の市政学科に入学する。
森谷 新一(もりたに しんいち、1903年(明治36年)3月… 森谷 新一(もりたに しんいち、1903年(明治36年)3月31日 - 1978年(昭和53年)12月19日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、岡山県和気郡日生町長。旧姓・森下。 岡山県和気郡日生村(日生町を経て現備前市)で、森下元治の長男として生まれ、5歳で母方の森谷虎吉の養子となる。閑谷中学校(現岡山県立和気閑谷高等学校)を経て、1927年(昭和2年)早稲田大学電気科を卒業した。 朝鮮に渡り全羅南道宝城郡筏橋面で、筏橋電気常務取締役兼主任技師として電灯開発を担当した。1930年(昭和5年)ころに帰郷して製綿業、耐火煉瓦工場を営み、児島窯業社長、日生造船造機社長、日生土地取締役、中日生土地取締役、日生町商工会長などを務めた。
金澤 理康(かなざわ まさやす、1903年(明治36年)3月… 金澤 理康(かなざわ まさやす、1903年(明治36年)3月28日 - 1948年(昭和23年)1月17日)は、日本の法学者。早稲田大学教授。専門は日本法制史、西洋法制史、英国法。 1903年3月28日、埼玉県北葛飾郡吉田村(現・幸手町)において、金澤理三郎・あゑの長男として生まれる。吉田小学校尋常科、粕壁中学校、第一早稲田高等学院文科を経て、1926年3月に早稲田大学法学部英法科を卒業する。 1926年4月から早稲田大学法学部大学院に進学して法制史を専攻し、早稲田大学法学部の助手となる。論文『明治初期に於ける消費貸借法の変遷』により学会デビューを果たす。同年、文官高等試験司法科に合格する。 1931年5月から早稲田大学在学研究員として、ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク、フンボルト大学ベルリン、ロストック大学に留学し、西洋法制史を研究する。
沖田 芳夫(おきた よしお、1903年3月28日 - 200… 沖田 芳夫(おきた よしお、1903年3月28日 - 2001年4月28日)は、日本の陸上競技選手・陸上競技指導者。アムステルダムオリンピック陸上男子円盤投・ハンマー投代表。元円盤投・ハンマー投日本記録保持者。元早稲田大学競走部主将、監督、OB会(早稲田アスレチック倶楽部)会長(代表)。元日本陸上競技連盟審議員。広島県広島市向洋大原(現南区向洋大原町)出身。旧制広島一中(現広島県立国泰寺高等学校)、第一早稲田高等学院、早稲田大学商学部卒業。 広島一中で織田幹雄の一学年上で親友、広島一中への登校が一緒になり付き合いが始まった。中学時代はテニス部。しかし72キロの巨漢で駆り出されて全国中等学校大会に出場し砲丸投で優勝、織田と共に一時代を築いた。
井上 八三(いのうえ かずみ、1903年3月12日 - 19… 井上 八三(いのうえ かずみ、1903年3月12日 - 1978年6月6日)は、日本の経営者。三井生命保険社長を務めた。 静岡県出身。1927年に早稲田大学商学部を卒業し、同年に三井生命保険に入社。 1947年17月に常務に就任し、1948年11月には社長に昇格。1965年5月に会長を経て、1968年5月には相談役に就任した。 1963年に藍綬褒章を受章し、1973年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1978年6月6日、脳血栓のために死去。75歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
飛沢 栄三(とびさわ えいぞう、1903年3月11日 - 1… 飛沢 栄三(とびさわ えいぞう、1903年3月11日 - 1967年6月21日)は、北海道古平郡古平町出身の高校野球指導者。 北海中学校・北海高等学校の野球部部長・監督を長く務め、「北海道高校野球の父」と呼ばれた。 北海中学時代の1920年、第6回全国中等学校優勝野球大会に外野手として出場。卒業後早稲田大学に進み、法律家を目指す傍ら母校北海中学のコーチを務めた。卒業後は大蔵省志望だったが、北海中学側の強い懇請により、1929年母校の教員となり、同時に野球部の部長に就任。 以来、緻密な野球をスローガンに、戦前・戦後を通じ38年間部長の地位にあり(断続的に監督も兼任)、春は8回、夏は18回甲子園に出場。
大矢根 文次郎(おおやね ぶんじろう、1903年3月10日 … 大矢根 文次郎(おおやね ぶんじろう、1903年3月10日 - 1981年2月23日)は、日本の漢文学者。 北海道苫前郡苫前町生まれ。1926年北海道函館師範学校卒、同付属小学校訓導、1932年早稲田大学高等師範部国漢科卒、聖学院中学校教諭。1940年早稲田高等学院講師、1945年教授。1949年早大教育学部助教授、1952年教授、1970年「陶淵明研究」で早大文学博士。1973年早大を定年、名誉教授、女子聖学院短期大学教授。1977年定年、勲四等瑞宝章受勲。
板垣 正貫(いたがき まさつら/しょうかん、明治36年(19… 板垣 正貫(いたがき まさつら/しょうかん、明治36年(1903年)2月3日 – 昭和17年(1942年)11月26日)は、板垣退助の孫で土佐板垣氏(乾氏)の第12代当主。 明治36年(1903年)2月3日、板垣鉾太郎の三男として東京府荏原郡品川町大字北品川宿141番地に生まれる。母は松本丑太郎の長女 節子(せつこ)。本名は「まさつら」と読むが、家人をはじめ親しい人からは「しょうかん」と音読みで呼ばれた。 大正15年(1926年)、早稲田大学専門部政治経済科を卒業し、浅野スレート株式会社に勤務する。 同年(1926年)、兄板垣守正が、祖父退助を侮辱するかのような戯曲『自由党異変』を上演しようとして、自由党員らの反発を買い問題化したため、同5月24日付けで東京区裁判所の判決により6月12日に守正が隠居し、正貫が家督を相続することで事態を沈静化させた。
戸川 行男(とがわ ゆきお、1903年2月1日 - 1992… 戸川 行男(とがわ ゆきお、1903年2月1日 - 1992年1月3日)は、日本の臨床心理学者。早稲田大学名誉教授。 東京出身。早稲田大学卒。1945年早稲田大学教授、58年「適応理論及び欲求理論の研究」で早稲田大学より文学博士の学位を取得。73年定年、名誉教授、明星大学教授。臨床心理学を日本に導入。文化についても発言した。
深谷 博治(ふかや ひろはる、1903年1月27日 - 19… 深谷 博治(ふかや ひろはる、1903年1月27日 - 1975年12月15日)は、日本の歴史学者。早稲田大学教授。福島県出身。 1928年に早稲田大学文学部史学科を卒業。宮内省臨時帝室編修局に勤務。1933年に同局廃止の後は、公刊明治天皇御紀編修委員会書記を1938年までつとめる一方で尾佐竹猛に誘われ明治文化研究会に参加。その後、同様に尾佐竹の推薦で貴族院嘱託となって『貴族院五十年史』編纂に関与。1941年から43年まで早稲田大学文学部講師を兼任し、続いて同大学大隈研究室で大隈文書整理にあたる。1949年に早稲田大学第一・第二文学部専任講師、1952年助教授、1955年教授、1973年定年退職。
綿谷 雪(わたたに きよし、1903年〈明治36年〉1月17… 綿谷 雪(わたたに きよし、1903年〈明治36年〉1月17日 - 1983年〈昭和58年〉5月18日)は、日本の作家、時代考証家、日本武術(古武道)史研究家。 和歌山県和歌山市出身。牧師だった父に「キヨシ」と名付けられるも、生後間もなく死別。母の再婚に伴い、綿谷家に入る。旧制神戸二中(現・兵庫県立兵庫高等学校)を経て、1930年に早稲田大学政治経済学部卒。在学中、教授の山口剛から推薦を受け真山青果に師事し、創作、歴史考証を学ぶ。 戸伏 太兵(とぶし たへい)の筆名で小説や戯曲も書き、『戯曲集 天ノ川辻』所収の「天ノ川辻」「十津川秋雨の譜」「遊撃四番隊」の3作が第11回直木賞の候補になっている。
秋笹 政之輔(あきささ まさのすけ、1903年1月16日 -… 秋笹 政之輔(あきささ まさのすけ、1903年1月16日 - 1943年7月15日)は、日本の戦前の政治運動家。日本共産党中央委員、「赤旗」編集長。 埼玉県北足立郡田間宮村(現鴻巣市)出身。本名は正之輔。埼玉県立熊谷中学校を経て早稲田大学附属第二高等学院に進む。同学院在学中に関東学生連合会に加盟、組織部長・常任委員。1926年3月、京都学連事件に連座、軍事教練反対などの運動を指導、退学処分になる。 1927年1月、産業労働調査所に入り機関誌『インターナショナル』の編集発行人。1927年10月、労働農民党に入党、本部書記。1928年7月、日本共産党に入党。1929年4月、四・一六事件で逮捕、懲役5年の判決を受けたが病気を理由に1931年2月に保釈出所。
福田 薫(ふくだ かおる、1903年(明治36年〉1月14日… 福田 薫(ふくだ かおる、1903年(明治36年〉1月14日 - 1968年(昭和43年)12月19日)は、日本の実業家。日本経済新聞社元常務取締役。日本教育テレビ(現:テレビ朝日)元代表取締役副社長。日経映画社(現:日経映像)元取締役。 佐賀県佐賀市出身。東京都新宿区在籍。福田国作の長男に生まれる。1928年(昭和3年)早稲田大学商学部を卒業後、中外商業新報社(現:日本経済新聞社)に入社。相撲部の記事からキャリアをスタートさせた。 社会・通信各部長、編集局長次長を経て、総務局長に昇進。1947年(昭和22年)取締役に就任。1949年(昭和24年)辞任し、夕刊中外新聞社長に就任。 1952年(昭和27年)日本経済新聞社との合併により、同社取締役工務局長に転じ、1954年(昭和29年)3月常務大阪支社長となる。
江家 義男(こうけ よしお、1903年〈明治36年〉1月2日… 江家 義男(こうけ よしお、1903年〈明治36年〉1月2日 - 1958年〈昭和33年〉5月11日)は、日本の法学者。北海道出身。専門は刑法、刑事訴訟法。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、法学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
雨宮 庸蔵(あめみや ようぞう、1903年〈明治36年〉1月… 雨宮 庸蔵(あめみや ようぞう、1903年〈明治36年〉1月1日 - 1999年〈平成11年〉12月2日)は、日本の編集者。 山梨県南巨摩郡鰍沢町(現・富士川町)生まれ。早稲田大学社会哲学科卒。在学中から、早稲田の先輩である嶋中雄作宛に毎月『中央公論』の精細な批評を書き送り、1928年(昭和3年)中央公論社に入社、1929年(昭和4年)7月『中央公論』編集長に就任。谷崎潤一郎を担当し、1932年(昭和7年)出版部長に転じる。1934年(昭和9年)より『谷崎潤一郎訳源氏物語』を担当し、山田孝雄に校閲を頼む傍ら、谷崎との相談で皇室に関する部分の削除を決めた。 1937年『中央公論』編集長に復帰するも、1938年(昭和13年)同誌3月号に石川達三「生きてゐる兵隊」を掲載したことで石川とともに刑事告発され、責任をとって退社。
佐藤 慶二(さとう けいじ、1903年1月1日 - 1998… 佐藤 慶二(さとう けいじ、1903年1月1日 - 1998年6月4日)は、日本の哲学者、早稲田大学名誉教授。 岩手県西磐井郡花泉町(現・一関市)出身。早稲田大学哲学科卒業。1975年まで早大教授。1998年、肺炎のため死去。
竹内 愛一(たけうち よしかず、1903年 - 1972年)… 竹内 愛一(たけうち よしかず、1903年 - 1972年)は、京都府出身のプロ野球選手(投手)、監督。
李 殷相(イ・ウンサン、이은상、1903年 - 1982年)… 李 殷相(イ・ウンサン、이은상、1903年 - 1982年)は韓国の詩人である。慶尚南道の昌原出身。本貫は全州李氏。 雅号は鷺山である。1903年10月22日、馬山で生まれる。1920年、延禧専門学校に入学して2年を修学してから、日本の早稲田大学へ留学した。1928年、帰国して「朝鮮語辞書編纂委員会」で働く。韓国固有の詩である時調の現代化に貢献して、李秉岐とは双璧を成しながら詩調の一つの類型を完成させた。 彼の作品のほとんどは、曲になって歌曲として歌われるほど、伝統の詩調形式を現代的なリズムでとしてうまく消化させている。このような点は、李秉岐とは異なる特徴でもある。
佐伯 孝夫(さえき たかお、1902年11月22日 - 19… 佐伯 孝夫(さえき たかお、1902年11月22日 - 1981年3月18日)は、日本の作詞家。 東京市出身。本名、和泉 孝夫(いずみ たかお)。 早稲田大学文学部仏文科卒業。在学中西條八十に師事し、その主宰する雑誌『白孔雀』『愛誦』に詩を発表していた。1931年に国民新聞社(現:東京新聞社)入社、1937年には東京日日新聞(現:毎日新聞社)へと移る。1939年、ビクターレコード専属作詞家となる。西條八十門下生の1人。 戦前は、佐々木俊一と組み、多くを小畑実や灰田勝彦に作品を提供。戦後は、作曲家・吉田正とコンビを組み、『有楽町で逢いましょう』、『東京ナイト・クラブ』、『潮来笠』、『いつでも夢を』(第4回日本レコード大賞受賞曲)、『恋をするなら』など数々のヒット曲を生み出した。
稲富 稜人(稻富 稜人、いなとみ たかと、1902年10月1… 稲富 稜人(稻富 稜人、いなとみ たかと、1902年10月19日 - 1989年11月6日)は、日本の政治家、農民運動家。位階は従三位、勲等は勲一等。衆議院議員(13期)。 福岡県八女郡岡山村(現八女市)出身。代用教員を経て1925年に早稲田大学政経学部を卒業。卒業後は農民運動に身を投じた。平野力三率いる全日本農民組合同盟に加わり、日本農民党を経て社会民衆党に参加。その後赤松克麿・小池四郎らと日本国家社会党に参加するがこれも脱退して皇道会から東方会に移籍、1935年に浮羽郡から福岡県議に当選し2期。 1946年日本社会党から衆議院議員になったが、公職追放を受け同年6月22日に辞職。追放解除後の1953年に右派社会党から返り咲き(福岡3区)、再統一を経て1960年の民主社会党に参加。
岩津 資雄(いわつ もとお、1902年(明治35年)10月1… 岩津 資雄(いわつ もとお、1902年(明治35年)10月16日 - 1992年(平成4年)3月13日)は、日本の歌人、国文学者。三重県宇治山田市出身。号は不言舎(いわずのや)。斎藤拙堂の外孫である岩津海三郎の長男。 三重県第一中学校(現:三重県立津高等学校)在学中に稲森宗太郎らと文芸活動を始める。1921年早稲田高等学院に入り、早稲田大学国文科に進む。在学中より窪田空穂に師事し、稲垣達郎、尾崎一雄、都筑省吾らと短歌文芸誌『槻の木』創刊に参加。1933年第二早稲田高等学院講師、49年早大教授。73年定年退任、名誉教授。
鈴木 重義(すずき しげよし、1902年10月13日 - 1… 鈴木 重義(すずき しげよし、1902年10月13日 - 1971年12月20日)は、福島県出身のサッカー選手、サッカー指導者。1936年のベルリンオリンピックのサッカー日本代表監督を務めた。 豊島師範附属小学校、東京高等師範学校附属中学校から1920年に早稲田高等学院に入学。同校でサッカー部(ア式蹴球部)を設立した。在学中、ビルマ人留学生チョウ・ディンからショートパス等の蹴球指導を受け、実力を伸ばした。 1923年に早稲田大学に入学。1924年にア式蹴球部を創設した。在学中、野津謙らと全国高等学校ア式蹴球大会を開催した。 1927年、上海で開催された第8回極東大会のサッカー日本代表に選出され、主将としてフィリピン代表戦では先制ゴールを決めるなど、日本代表として最初の国際大会勝利に貢献した。
西川 甚五郎(にしかわ じんごろう、1902年10月6日 -… 西川 甚五郎(にしかわ じんごろう、1902年10月6日 - 1967年5月16日)は、日本の実業家、政治家。西川産業会長、参議院議員(4期)、北海道開発庁長官(第18代)。東京日本橋・西川ふとん店13代。貴族院議員や八幡銀行頭取を務めた十二代西川甚五郎の子。 現在の滋賀県近江八幡市出身。滋賀県立八幡商業学校を経て、1924年、早稲田大学専門部商科を卒業。アメリカに留学し、コーネル大学、ニューヨーク大学で学ぶ。 家業を継ぎ、日本蚊帳統制組合理事長、西川産業社長、近江蚊帳製造社長、滋賀ビル・日本橋西川ビル社長、滋賀銀行取締役などを歴任。 戦時中は日中戦争、太平洋戦争に召集され陸軍主計大尉。 1947年8月、猪飼清六の辞職に伴う滋賀地方区の第1回参議院議員補欠選挙に日本自由党から出馬し当選(任期3年)。
金 洪鏞(キム・ホンヨン、朝鮮語: 김홍용、1902年10月… 金 洪鏞(キム・ホンヨン、朝鮮語: 김홍용、1902年10月3日または1903年 - 1950年8月15日)は、大韓民国の政治家。面長、第2代韓国国会議員を歴任した。 本貫は金海金氏。号は声在(ソンジェ、성재/聲在)。カトリック教徒。元国会議員の金汶鏞と金星鏞(朝鮮語版)は弟、菌類学者の金三純は妹、元国会議員の姜世馨と法曹の李弘圭(朝鮮語版)は妹婿、元国務総理の李会昌は甥。 全羅南道潭陽郡出身。京城第一高等普通学校(現・京畿高等学校)、早稲田大学政経学部卒。面長、国会議員を務めた。朝鮮戦争時、北朝鮮軍に殺害された。 のちに補欠選挙が行われ、弟の金汶鏞が当選した。
半谷 三郎(はんや さぶろう、1902年9月27日 - 19… 半谷 三郎(はんや さぶろう、1902年9月27日 - 1944年3月24日)は、日本の詩人。福島県いわき市出身。早稲田大学高等師範部英語科を卒業し、茨城県立古河商業学校に英語教師として赴任。早大在学時より詩作に励む。教職の傍ら『發足』を出版。その後、三好達治、西脇順三郎らとともに、新詩運動に加わる。従来の抒情詩やシュールレアリスム、ダダイスムなどの詩を批判し、新しい詩の創作を提唱した。それらの集大成が彼の代表作である『現實主義詩論』である。1944年、41歳で急死。 長男の半谷恭一は裁判官として活躍し、ロッキード事件の裁判長を務めた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
高橋 昴(たかはし あきら、1902年8月31日 - 199… 高橋 昴(たかはし あきら、1902年8月31日 - 1992年7月4日)は、北海道出身の元クロスカントリースキー選手。 旧制北海中学校 → 早稲田大学 早大在学中、1925年の第3回全日本スキー選手権大会クロスカントリースキー個人4kmとリレーで優勝。翌年の同大会でも、クロスカントリースキー個人25kmとリレーの2冠を達成した。日本初参加となった1928年サンモリッツオリンピックの代表に選出され、クロスカントリースキー個人長距離(18km)で36位、個人耐久(50km)で25位だった。 引退後は全日本スキー連盟の理事をつとめた。
平原 敬作(ひらはら けいさく、1902年8月20日 - 1… 平原 敬作(ひらはら けいさく、1902年8月20日 - 1947年4月28日)は日本の土木技師。 東京市職員として、同市公園課勤務時代、恩賜上野動物園の猿山や、伊豆大島の黒潮小屋(現・椿資料館)、1941年には西郷隆盛の甥、従徳の渋谷邸を設計。 新潟県西蒲原郡角田村大字四ツ郷屋で生まれる。 平原家は宝暦事件・明和事件で八丈島へ流罪(三宅島にて病死)となった竹内式部の子供の竹内主計が訴追を逃れ、平原家の人別に入り名前を変えたと伝えられているが、菩提寺の火事により資料が焼失してしまった為、詳細は不明。 早稲田大学理工学部建築科卒業。以後東京市公園課に勤務。戦時中は技師であったことにより徴兵は免除された。
臼井 荘一(臼井 莊一、うすい そういち、1902年〈明治3… 臼井 荘一(臼井 莊一、うすい そういち、1902年〈明治35年〉7月26日 - 1987年〈昭和62年〉10月18日)は、大正から昭和期の政治家、実業家。位階は正三位、勲等は勲一等。千葉興行2代目社長。総理府総務長官。衆議院議員(8期)、参議院議員(1期)。千葉市名誉市民。学位は商学士(早稲田大学)。剣道六段。 東京市深川区越中島(現在の東京都江東区越中島)で建築材料商の家に生まれた。1920年(大正9年)3月、旧制・東京府立第三中学校(現在の東京都立両国高等学校)を卒業し、1925年(大正14年)3月、早稲田大学商学部商学科を卒業。大日本麦酒に入社した。 父の病のため1925年11月、大日本麦酒を退職して千葉市に転居。
黒田 辰男(くろだ たつお、1902年7月20日 - 199… 黒田 辰男(くろだ たつお、1902年7月20日 - 1992年12月22日)は、日本のロシア文学者、早稲田大学名誉教授。 1902年、大阪府生まれ。早稲田大学文学部を卒業。駐日ソ連大使館に勤務。 戦後の1946年、母校である早稲田大学教授に着任。1960年「ロシヤ・シンボリズム詩文学の成立過程」を早稲田大学に提出して文学博士号を取得。1962年に雑誌『ソヴェート文学』を創刊。1973年に早稲田大学を定年退任し、名誉教授となった。
植田 清次(うえだ せいじ、1902年7月18日 - 196… 植田 清次(うえだ せいじ、1902年7月18日 - 1963年10月30日)は、日本の哲学研究者。兵庫県出身。早稲田大学卒。早大助教授、1946年、教授。1963年、「プラグマティズムの基礎的研究」で文学博士。授与は死去の日付。英米哲学。
大藤 時彦(おおとう ときひこ、1902年7月16日 - 1… 大藤 時彦(おおとう ときひこ、1902年7月16日 - 1990年5月18日)は、日本の民俗学者。 1902年、山口県生まれ。新潟県古志郡長岡町(現・長岡市)育ち。 早稲田大学文学部を中退。柳田國男に師事し、日本民俗学会を設立し、代表も務めた。大橋図書館に司書として勤務したほか、成城大学教授として教鞭をとり、1973年定年退職し、名誉教授となった。
富澤 赤黄男(とみざわ かきお、1902年(明治35年)7月… 富澤 赤黄男(とみざわ かきお、1902年(明治35年)7月14日 - 1962年(昭和37年)3月7日)は愛媛県出身の俳人。本名富澤正三(とみざわ しょうぞう)。新興俳句の担い手として、現代詩の一分野としてのモダニズム俳句を追求した。代表句に「蝶墜ちて大音響の結氷期」がある。 1902年、愛媛県西宇和郡川之石村(現八幡浜市保内町琴平)に開業医の長男として生まれる。 1920年宇和島中学校卒、1926年早稲田大学政経学部を卒業。在学中、松根東洋城の門人に勧められ松根の主宰誌「渋柿」に投句するも、熱心に打ち込むことはなかった。同4月、国際通運(現在の日本通運)東京本社に入社、1928年国際通運大阪支社に転勤。
阿子島 俊治(あこしま しゅんじ、1902年〈明治35年〉6… 阿子島 俊治(あこしま しゅんじ、1902年〈明治35年〉6月29日 - 1954年〈昭和29年〉4月30日)は、日本のジャーナリスト、政治家。 宮城県刈田郡白石町(現・白石市)生まれ。1927年早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業し、国民新聞社に入社。政治部記者、政治部次長、論説委員を歴任した。 政治ジャーナリストとして活動する一方早くから政界入りを志し、1936年に立憲民政党公認で第19回衆議院議員総選挙に立候補したが落選。その後1942年に行われた翼賛選挙で翼賛政治体制協議会の推薦候補として立候補し初当選、翼賛政治会・大日本政治会に所属した。 阿子島が総選挙に初当選したのは翼賛選挙だったが、落選したとはいえ政党解消前に民政党公認で総選挙に立候補したことがあったことや、ジャーナリスト時代に衆議院議長を務めたこともある民政党の大物政治家・藤沢幾之輔の伝記を上梓したこともあったため、阿子島は翼賛議会においては戦前の民政党の系譜を受け継ぐ政治家とみなされた。
平井 呈一(ひらい ていいち、1902年(明治35年)6月1… 平井 呈一(ひらい ていいち、1902年(明治35年)6月16日 - 1976年(昭和51年)5月19日)は、日本のイギリス文学翻訳者・編集者で、多くの訳書を通じ海外怪奇小説を紹介した。 1902年、神奈川県中郡平塚町(現・平塚市)で生まれる。本名は程一。江戸下町育ちで、没時まで和服で通した。 東京府東京市日本橋区浜町(現・東京都中央区日本橋浜町)の養家で居住。浜町尋常小学校から1920年に日本大学附属中学校(現在の日本大学第一中学校・高等学校)を経て早稲田大学文学部英米文学科中退。河東碧梧桐に師事して俳句に親しむ。永井荷風と佐藤春夫に師事し、江戸文学に造詣が深い翻訳者となった。中菱 一夫の筆名で、小説「真夜中の檻」「エイプリル・フール」を著している。
野村 平爾(のむら へいじ、1902年(明治35年)6月1日… 野村 平爾(のむら へいじ、1902年(明治35年)6月1日 - 1979年(昭和54年)1月22日)は、日本の法学者。専門は労働法。学位は、法学博士(早稲田大学・論文博士・1958年)(学位論文「日本労働法の形成過程と理論」)。早稲田大学名誉教授。 千葉県出身。早稲田大学法学部卒。欧米に留学後早稲田大学法学部助教授、教授。1958年「日本労働法の形成過程と理論」で早稲田大学より法学博士の学位を取得。1973年定年退任、名誉教授、日本福祉大学教授、学監。労働法研究、戦後の労働運動を理論的に支えた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
鳴山 草平(なるやま そうへい、1902年(明治35年)5月… 鳴山 草平(なるやま そうへい、1902年(明治35年)5月30日 - 1972年(昭和47年)3月7日)は、日本の小説家。本名は前田好照。昭和初期に時代小説を数多く手がけるほか、自身の教師体験をもとにしたを「きんぴら先生」シリーズで知られる。
岡沢 秀虎(おかざわ ひでとら、1902年5月13日 - 1… 岡沢 秀虎(おかざわ ひでとら、1902年5月13日 - 1973年3月8日)は、ロシア文学者、評論家。 1902年、山口県生まれ。豊浦中学を卒業して、早稲田大学露文科に進んだ。在学中は早大童話会に所属。1940年、早稲田大学教授に就任。 太平洋戦争後の1946年、復活した露文科の再建にあたる。早稲田大学露文科に米川正夫を迎え、後進の育成に尽くした。研究者としてはスターリン体制の欠陥を指摘していた。
古川 正彦(ふるかわ まさひこ、1902年〈明治35年〉5月… 古川 正彦(ふるかわ まさひこ、1902年〈明治35年〉5月1日 - 1942年〈昭和17年〉9月19日)は、日本の醸造家、実業家、地家主、広島県多額納税者。 山口県出身。男爵・毛利祥久の五男。古川久吉の養子となる。1926年、早稲田大学専門部政治経済科を卒業。1929年、法学部英法科を卒業。 醤油醸造業を営む。藝備鉄道取締役、梅田機械製作所監査役などをつとめる。また地主・家主である。 趣味は碁、釣り。宗教は真宗。住所は広島市舟入幸町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
三好 十郎(みよし じゅうろう、1902年4月23日 - 1… 三好 十郎(みよし じゅうろう、1902年4月23日 - 1958年12月16日)は、昭和初期から終戦後の復興期にかけて活動した劇作家、詩人、小説家。 佐賀県佐賀市八戸町生まれ。戸籍上は父の兄の子で、旧姓は森。孤児として育つ。4歳で三好家の養子になり、12歳で両親と育ててくれた祖母を失う。旧制佐賀中学校(現・佐賀県立佐賀西高等学校)を経て、早稲田大学英文科卒業。早稲田大学在学中の1924年(大正13年)に「早稲田文学」に詩「雨夜三曲」など五篇を発表してデビュー。サンジカリズムからマルクス主義に接近。壺井繁治らと左翼芸術同盟を結成し、ナップの下部組織プロット(日本プロレタリア劇場同盟)に属して、プロレタリア劇の作家として活動。
村上 勇(むらかみ いさむ、1902年4月7日 - 1991… 村上 勇(むらかみ いさむ、1902年4月7日 - 1991年1月28日)は、日本の政治家。位階は正三位。 自由民主党衆議院議員(14期)。郵政大臣(第8・35代)、建設大臣(第18代)などを歴任した。 元参議院議員の村上春蔵は実弟。長男の禎は豊和工業の会長、二男の宏はフジテレビスポーツ部長を務めた。 大分県南海部郡大入島村(現・佐伯市 大入島)に、土建業「村上組」を経営していた村上袈裟松の長男として生まれる。1918年早稲田工手学校(現・早稲田大学芸術学校)を卒業後、飛島組(現・飛島建設)を経て、1944年、村上組の後身「大和土建」社長となる。 1946年の第22回衆議院議員総選挙で日本自由党公認候補として旧大分1区から立候補し当選、以後当選14回(当選同期に小坂善太郎・二階堂進・江﨑真澄・小沢佐重喜・石井光次郎・坂田道太・川崎秀二・井出一太郎・早川崇など)。
南江治郎(なんえ じろう、1902年4月3日 - 1982年… 南江治郎(なんえ じろう、1902年4月3日 - 1982年5月26日、別名筆名、南江 二郎)は京都府亀岡市出身の、大正・昭和期の日本の詩人、人形劇研究家。1934年(昭和9年)NHKに入局、企画部長、編成局長、専務理事を歴任し、1953年(昭和28年)顧問となる。 元財団法人都民劇場理事。元CBC嘱託。元南海電鉄顧問。文部省芸術祭実行委員、文部省「芸術選奨」選衡委員、日本詩人クラブ常任理事、日本文芸家協会員。ITI国際演劇協会日本センター理事。 早稲田大学で坪内逍遙、小山内薫らに学び、中退。1921年(大正10年)に処女詩集「異端者の恋」を出版、1922年(大正13年)に詩誌「新詩潮」を主宰。
川崎 大治(かわさき だいじ(たいじ)、本名:池田 政一(い… 川崎 大治(かわさき だいじ(たいじ)、本名:池田 政一(いけだ まさかず)、1902年3月29日 - 1980年8月8日)は、日本の児童文学作家。プロレタリア児童文学の運動にも関わった。また、紙芝居の制作にも携わり、第二次世界大戦後の民主主義教育の普及にも貢献した。 北海道札幌市生まれ、旭川市出身。幼少期は巖谷小波に関心をもち、図書館に通って巌谷の本を二百冊以上読んでいた。1919年に北海道庁立旭川中学校を卒業後に上京、巌谷小波のもとを訪ねて師事。早稲田第二高等学院を経て早稲田大学文学部英文学科卒業。在学中に大杉栄の全集を読んで影響を受け、早大童話会にも所属していた。また巌谷の翻訳業の下請けをして学費や生活費を稼いでいた。