根岸 東一郎(ねぎし とういちろう、1899年〈明治32年〉… 根岸 東一郎(ねぎし とういちろう、1899年〈明治32年〉10月 - 1970年〈昭和45年〉)は、日本の元俳優、元映画監督、元脚本家である。本名同じ。 1899年(明治35年)10月、群馬県前橋市紅雲町に生まれる。 1917年(大正6年)旧制前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)卒。明治学院から早稲田大学商学部へ進学して、卒業後は新劇団金星座に入り初舞台を踏む。1925年(大正14年)2月、日活京都撮影所に入社。同年、同撮影所第二部で製作された村田実・三枝源次郎共同監督による現代劇のサイレント映画『法を慕ふ女』に出演して映画デビューした。同社では現代劇俳優であった。 1928年(昭和3年)4月、マキノ・プロダクションに移籍。
尾島庄太郎(おじま しょうたろう、1899年〈明治32年〉9… 尾島庄太郎(おじま しょうたろう、1899年〈明治32年〉9月28日 - 1980年〈昭和55年〉3月24日)は、英文学者、早稲田大学名誉教授。 富山県出身。早稲田大学英文科卒。オックスフォード大学卒。早稲田大学助教授、1949年教授。1952年「イギリス文学におけるセルト的要素」(鷲尾 1952)で早大文学博士。1970年定年退任、名誉教授、立正大学教授、明星大学教授。アイルランド文学、イェーツを研究。日本イェイツ協会初代会長。
池見 茂隆(いけみ しげたか、1899年(明治32年)9月1… 池見 茂隆(いけみ しげたか、1899年(明治32年)9月18日 - 1973年(昭和48年)12月19日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 福岡県糟屋郡仲原村(現粕屋町)で、実業家・池見辰治郎の長男として生まれる。幼少期に福岡市博多柳町に転居した。福岡市立福岡商業学校(現福岡市立福翔高等学校)を経て、早稲田大学商科で学んだ。 その後、家業の池見合資会社社員、酒精会社重役となる。その他、大日本酒精監査役、大日本酒類醸造取締役、文化味噌社長、池見(合)代表社員、九州製作所社長なども務めた。 政界では福岡市会議員に在任した。1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙で福岡県第1区から民主自由党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
室原 知幸(むろはら ともゆき、1899年9月10日 - 1… 室原 知幸(むろはら ともゆき、1899年9月10日 - 1970年6月29日)は、松原・下筌ダムの建設反対運動(いわゆる蜂の巣城紛争)を主導した住民運動家である。 1899年(明治32年)9月10日に熊本県阿蘇郡小国町で生まれる。1923年(大正12年)に早稲田大学専門部政治学科を卒業後、郷里で家業であった山林業を継ぐ。小国町町議会議員を3期務め、戦後には小国町の公安委員会の委員長も務めた。 1953年(昭和28年)の西日本水害を受け、建設省は筑後川治水対策の一環として1957年(昭和32年)に熊本・大分県境に下筌ダムの建設を計画。これに対して、室原は「暴には暴」「法には法」をスローガンに掲げて、実力闘争、法廷闘争の両面で反対運動を主導した。
杉山 亮太郎(すぎやま りょうたろう、1899年 <明治32… 杉山 亮太郎(すぎやま りょうたろう、1899年 <明治32年> 9月5日 - 1974年 <昭和49年> 11月12日)は、日本の経営者、銀行家。清水銀行頭取を務めた。位階は従五位。 静岡県出身。1923年に早稲田大学商学部商学科を卒業し、同年9月に駿州銀行(のちの清水銀行)に入行。 1940年4月に常務を経て、1947年2月には頭取に就任した。1971年4月には会長に就任。 1960年5月に黄綬褒章を受章し、1969年11月に勲四等瑞宝章を受章した。 1974年11月12日、心筋梗塞のため死去した。75歳没。死没日付をもって従五位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
鈴木 正文(すずき まさふみ / まさぶみ、1899年〈明治… 鈴木 正文(すずき まさふみ / まさぶみ、1899年〈明治32年〉8月30日 - 1978年〈昭和53年〉5月25日)は、日本のジャーナリスト、政治家。位階は従三位、勲等は勲二等。 衆議院議員(3期)、労働大臣。 山梨県北巨摩郡出身。1925年(大正14年)、早稲田大学政治経済学部を卒業。 朝日新聞社に入社し海外特派員となる。京城支局長を経て、1940年(昭和15年)、論説委員に就任し1941年(昭和16年)に退社。その後、日本印刷文化協会理事、山梨日日新聞論説委員を務める。 戦後、1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙に日本自由党から山梨県全県区(当時)で立候補するが落選した。1947年(昭和22年)4月の第23回総選挙に山梨県全県区で立候補し当選。
川石 酒造之助(かわいし みきのすけ、1899年8月13日 … 川石 酒造之助(かわいし みきのすけ、1899年8月13日 - 1969年1月30日)は日本の柔道家。講道館柔道七段。兵庫県飾磨郡手柄村(のちの姫路市)出身。フランス柔道の父と称され、日本よりも日本以外で著名な柔道家である。 「川石メソッド」 (Méthode de Judo Kawaishi) 、「メトードK」と呼ばれる。パリの道場に迎えられた川石は柔道の技の系統的分類を、従来の講道館五教の技よりも多い147の技数でまとめた。川石は技の分類の上で、技毎に番号をつけ記号化したものを教えることで外国人に教授することに奏功した。ボルドー大学教授ミッシェル・ブルースの研究によると川石メソッドは科学者でありヨーロッパで最初の黒帯取得者と言われているモーシェ・フェルデンクライスの影響を受けていることが言及されている。
篠田 弘作(しのだ こうさく、1899年7月27日 - 19… 篠田 弘作(しのだ こうさく、1899年7月27日 - 1981年11月11日)は、日本の政治家。衆議院議員(11期)、自治大臣、国家公安委員会委員長を務めた。1974年、勲一等旭日大綬章受章。北海道苫小牧市名誉市民(1981年)。 富山県富山市に、篠田信宣の二男として生まれる。1900年の富山大火による自宅の焼失、信宣の死亡など不幸が相次ぎ、1908年に一家は樺太へ移住、貧困の中で少年時代を過ごした。その後商店の小僧、小学校教諭などを経て、1927年早稲田大学専門部政治経済科を卒業、東京朝日新聞記者となる。山形支局長、千葉支局長を歴任し、1940年経済部長丹波秀伯の強引な勧めにより、水野成夫・南喜一が経営していた「大日本再生製紙」(日本製紙の前身の一つ)に入社する。
浅見 淵(あさみ ふかし、1899年〈明治32年〉6月24日… 浅見 淵(あさみ ふかし、1899年〈明治32年〉6月24日 - 1973年〈昭和48年〉3月28日)は、日本の小説家、文芸評論家。 兵庫県神戸市に生まれる。1926年早稲田大学文学部国文科卒業。在学中に「朝」の同人に加わり、初めて書いた小説「山」が下村千秋に推賞される[要出典]。1933年尾崎一雄や丹羽文雄らとともに「小説」を創刊。1934年尾崎と丹羽、田畑修一郎と「世紀」を創刊。1935年尾崎と小田嶽夫らと「木靴」を創刊。同年、砂子屋書房の創業に参加。戦中は満洲国で文学活動を行った。1949年早稲田大学高等学院講師、翌年同学院専任教員。1960年早稲田大学商学部に出講、1970年定年退職。 戦後は井伏鱒二や上林暁らの「阿佐ヶ谷会」の主要メンバーで、尾崎一雄と親しく、随筆『単線の駅』や、回想記『あの日この日』によく出ている[要出典]。
渡辺 邦男(わたなべ くにお、1899年6月3日 - 198… 渡辺 邦男(わたなべ くにお、1899年6月3日 - 1981年11月5日)は、大正・昭和期の俳優、映画監督。 静岡県田方郡三島町(現:三島市)出身。 旧制静岡県立沼津中学(現:静岡県立沼津東高等学校)卒業後、早稲田大学商学部に入学し、浅沼稲次郎らと建設者同盟を結成し、左翼運動家として活躍。卒業後はコネで朝日新聞社の営業部に入るが、部長から「もぐり入社」と言われ憤然し退社。劇団に加わり地方巡業に出るが、解散の憂き目を見る。 仕事を求めて日活大将軍撮影所長・池永浩久に紹介される機会を持ち、面接で監督志望を伝えるが「3年間は俳優をしろ」と命じられ、初任給30円で雇われる。 1924年、『青春の歌』(村田実監督)で、運動会の応援団の旗手役で映画デビュー。
石川 準十郎(いしかわ じゅんじゅうろう、1899年(明治3… 石川 準十郎(いしかわ じゅんじゅうろう、1899年(明治32年)6月1日 - 1980年(昭和55年)2月22日)は、日本の思想家、活動家。戦前・戦後にかけ、一貫して国家社会主義者として活動した[要出典]。 岩手県盛岡近郊に生まれた石川は、日清戦争の戦災者の関係者として成長し、兄・石川金次郎の援助の下、早稲田大学政経学部に入学。在学中に高畠素之の知遇を得、以後、高畠門下として国家社会主義運動に没頭した。高畠の死後も国家社会主義理論を発展させ、1931年に赤松克麿、津久井龍雄らとともに日本社会主義研究所を創設、『日本社会主義』『国家社会主義』を刊行。次いで日本主義に傾倒した赤松らと袂を分かち、1934年(昭和9年)3月10日、大日本国家社会党を設立、総理(党首)となる。
中村 紅果(なかむら こうか、1899年5月7日 - 196… 中村 紅果(なかむら こうか、1899年5月7日 - 1961年1月29日)は、日本の俳優である。本名中村 縣三(なかむら けんぞう)、別芸名中村 憲三(なかむら けんぞう)。 1899年(明治32年)5月7日、秋田県雄勝郡弁天村(現在の同県湯沢市弁天地区)に、旧家の主である父・中村一徳の三男として生まれる。 旧制・秋田縣立横手中學校(現在の秋田県立横手高等学校)を卒業し、1917年(大正6年)に東京に移り、出版社の雑誌記者や旧制小学校の教師などの職を経て、早稲田大学文科に入学、坪内逍遙の新文藝協会に入って新劇運動に参加する。1920年(大正9年)に明治座での『法難』で岡田嘉子、加藤精一らと共演、初舞台を踏んだ。
髙野 孫左衛門(たかの まござえもん、明治32年(1899年… 髙野 孫左衛門(たかの まござえもん、明治32年(1899年)5月2日 - 昭和43年(1968年)2月25日)は、山梨県出身の実業家、政治家。山梨県会議員、衆議院議員を歴任した。幼名は髙野 毅(たかの つよし)。 山梨県甲府市柳町(現在の甲府市中央4丁目)に、父「孫左衛門(第15代目)」、母「とも」の三男として生まれる。山梨師範学校付属小学校を経て大正5年(1916年)3月に市立甲府商業学校(現在の甲府市立甲府商業高等学校)を卒業。 早逝した兄「孫親」の妻、義姉の「喜代」と大正11年(1922年)5月に結婚し、油と塩を商いする甲府有数の老舗である家業の吉字屋を継ぐ。大正12年(1923年)4月に単身上京して早稲田大学政治経済学科に入学したが、同年9月1日に発生した関東大震災のため帰郷し、大正14年(1925年)1月に第16代目高野孫左衛門を襲名した。
小川 勝次(おがわ かつじ、1899年(明治32年))4月1… 小川 勝次(おがわ かつじ、1899年(明治32年))4月16日 - 1988年(昭和63年)9月7日)は、新潟県高田市(現・上越市)出身のスキー選手・指導者。第3代全日本スキー連盟会長。 1911年、郷里でレルヒ少佐の講習会を見学して以来、スキーに親しむようになる。旧制高田中学校を経て、1923年早稲田大学商学部卒。中学・大学を通じクロスカントリースキーの選手として活躍し、1923年の第1回全日本スキー選手権大会にも出場している。大学卒業後、安田銀行(現・みずほ銀行)に入行し、1937年まで勤務。この間、1923年に大日本体育協会のスキー部員となり、さらに1925年に全日本スキー連盟が設立されると常務委員となる。
川俣 清音(川俣 淸音、かわまた せいおん、1899年(明治… 川俣 清音(川俣 淸音、かわまた せいおん、1899年(明治32年)4月15日 - 1972年(昭和47年)12月7日)は、大正、昭和期の社会運動家、農民運動家、政治家。衆議院議員(8期) 1899年4月15日、北海道余市郡余市町に生まれる。1923年(大正12年)早稲田大学を卒業する。大学在学中から農民運動に参加し、1924年(大正13年)秋田県で日本農民組合(日農)支部を組織する。日農では中央委員を務め、小坂銅山争議では、加藤勘十、浅沼稲次郎、三輪寿壮らとともに現地に赴き争議を指導する。 1930年(昭和5年)地方無産党から衆議院選挙に立候補するものの落選。1936年(昭和11年)社会大衆党から衆議院議員に初当選する。
武野 藤介(たけの とうすけ、1899年4月3日 - 196… 武野 藤介(たけの とうすけ、1899年4月3日 - 1966年7月25日)は、日本の小説家。本名は武野真寿太。 岡山市生まれ。岡山中学校在学中、回覧雑誌などを作り文学に没頭。二度落第し、中学卒業に7年かかる。1919年上京、編入試験を受けて早稲田大学予科入学、ロシア文学科に進んだが、1923年中退。新聞記者、雑誌記者となり、文壇ゴシップやコントが評判となる。 戦時下は時局的な小説を書いたが、戦後1950年頃から『あまとりあ』などカストリ雑誌の常連となり、以後艶笑小説を専らとする。小説に「嘘」「ぬれつばめ」、ゴシップをもとにした「文壇余白」「武野藤介風流文学自選集」などがある。
板倉 乾(いたくら けん、明治32年(1899年)4月 - … 板倉 乾(いたくら けん、明治32年(1899年)4月 - 昭和58年(1983年)4月4日)は日本の実業家。元鳥取缶詰社長。元境港商工会議所副会頭。元鳥取県貿易振興会顧問。元境港水産加工団地顧問。 鳥取缶詰会長板倉周二の岳父。鳥取缶詰社長板倉良多の祖父。 鳥取県米子市西町出身。 大正10年(1921年)早稲田大学卒業後、合資会社板倉商店代表社員、鳥取合同缶詰社長を経て昭和29年(1954年)鳥取缶詰社長に就任。昭和57年(1982年)同社会長に就任。 県貿易振興会会長、日本いわし・あじ缶詰輸出水産業組合理事長などを歴任。
富ノ澤 麟太郎(とみのさわ りんたろう、本名:富澤 麟太郎、… 富ノ澤 麟太郎(とみのさわ りんたろう、本名:富澤 麟太郎、1899年3月25日 - 1925年2月24日)は、日本の小説家。 山形市生まれ。幼い頃に宮城県へ移り、仙台市の木町通小学校、仙台第二中学校(宮城県仙台第二高等学校の前身)に学んだ。 1918年に上京して、早稲田大学予科に学び、佐藤春夫に師事するとともに、横光利一、中山義秀と交友関係をもった。大学は結局、中退となった。 1921年に横光利一や古賀龍視などとともに同人誌『街』を立ち上げ、続く1922年には、横光利一、中山義秀、小島勗などと同人誌『塔』の創刊に参加した。 富ノ澤の作風は「新感覚派の先駆け的存在」とも評され、代表作としては、自伝的作品とされる『流星』などが挙げられる。
岡 延右衛門(延右エ門、おか のぶえもん、1899年(明治3… 岡 延右衛門(延右エ門、おか のぶえもん、1899年(明治32年)3月15日 - 1970年(昭和45年)12月1日)は、大正末から昭和期のジャーナリスト、政治家。衆議院議員(1期)。カトリック教徒。 長崎県北松浦郡黒島村(現佐世保市黒島町)でカトリックの家に生まれる。1924年(大正13年)早稲田大学専門部政治経済科を卒業した。同年、母校にカトリック研究会を設立し、公教青年会のメンバーとしても活躍した。 大学卒業後、『萬朝報』の記者となり、社会部長、政治部長、整理部長、編集局長を歴任。戦時下に内閣情報部嘱託、情報局嘱託、内閣嘱託となり、情報局から日・満・支のカトリック統合の使命を帯びて北京に派遣された。
藤原 啓(ふじわら けい、1899年2月28日 - 1983… 藤原 啓(ふじわら けい、1899年2月28日 - 1983年11月12日)は、日本の陶芸家。本名は敬二。同じく陶芸家の藤原雄は長男、藤原敬介は次男。岡山県名誉県民。1970年に人間国宝に認定。 岡山県備前市穂浪(当時の和気郡伊里村穂浪)出身。農業藤原伊三郎、世為の三男として生まれる。 少年期から俳句や小説の才能を発揮しており、1915年に博文館が手がける『文章世界』に応募した短編が1等を獲得する。これを機に1919年に上京し博文館編集部に勤務、『文章世界』の編集を担当する。同郷の正宗白鳥、徳富蘆花の影響を強く受け詩の執筆も始める。そのかたわら早稲田大学英文科の聴講生となり、ロシア・ドイツ文学やシェイクスピアを学ぶが1年あまりで中退。
小林 中(こばやし あたる、1899年〈明治32年〉2月17… 小林 中(こばやし あたる、1899年〈明治32年〉2月17日 - 1981年〈昭和56年〉10月28日)は、日本の実業家。初代日本開発銀行(現・日本政策投資銀行)総裁、日本航空会長、東急電鉄社長、富国生命保険社長などを歴任。戦後の財界において影の財界総理と称されるほどの実力者であった。愛称はコバチュー。初代石和町名誉町民。位階は正三位。勲等は勲一等旭日大綬章。 1899年(明治32年)2月17日、山梨県中巨摩郡源村(現・南アルプス市)の村長を務めた矢崎貢と、小林伝右衛門の三女ふくの間に、次男として出生。伝右衛門の要請で両親とともに石和町に移り、同年12月に伝右衛門の養子となった。1901年(明治34年)9月には小林家の家督を相続した。
両角 政人(もろずみ まさと、まさんど、1899年1月25日… 両角 政人(もろずみ まさと、まさんど、1899年1月25日 - 1988年12月30日)は、日本の新聞記者、スケート指導者。 長野県諏訪郡宮川村(現茅野市)出身。旧制諏訪中学(長野県諏訪清陵高等学校の前身)から早稲田大学政治経済学部に進み、1923年に体育会スケート部を創設し、第1回の学生選手権大会の組織などにあたり、1925年には日本学生氷上競技連盟を設立した。また、大学時代に学生新聞の編集に参画し、1926年に政治学科を卒業すると、報知新聞に入社し、運動部の設置に関わった。新聞記者として、報知新聞運動部長、読売新聞機報部長などを歴任するかたわら、1929年に発足した日本スケート連盟の運営に永く関わり、1937年以降、永く理事長を務めた。
佐久間 徹(さくま とおる、1899年(明治32年)1月24… 佐久間 徹(さくま とおる、1899年(明治32年)1月24日 - 1977年(昭和52年)1月27日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 千葉県市原市出身。佐久間信太郎の長男として生まれる。1923年(大正12年)早稲田大学商学部を卒業した。 帝国火災保険に入社し、直営課長、福岡支店長、横浜支店長などを歴任。帝国火災保険が合併して日本火災海上保険(のち日本興亜損害保険)になると文書部長、取締役兼地方営業部長を務めた。その他、房総漁業監査役、千葉県漁網取締役、川崎定徳取締役、関東天然瓦斯開発取締役、高砂交通会長、千葉工業大学理事、同理事長などを務めた。 1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙で千葉県第1区から民主自由党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
田辺 泰(たなべ やすし、1899年1月14日 - 1982… 田辺 泰(たなべ やすし、1899年1月14日 - 1982年4月1日)は、日本の建築史・美術史学者。工学博士(1939年)。早稲田大学の建築史担当教授を伊東忠太、佐藤功ーより引き継ぐ。昭和初期に関東地域の社寺建築の調査を行ない、関東系の建築史を大成する。後年は古建築の復元・創作、文化財保護に活躍した。 岡山県倉敷市生まれ。広島県出身。 1924年早稲田大学理工学部建築学科卒、同助手、1925年助教授、1939年「関東地方に於ける古建築の研究」で工学博士の学位を取得。1941年教授。1969年定年、名誉教授。1930 (昭和5) 年、中国および沖縄の建築調査(1931まで、1934-35)。1964(昭和39)年、日本建築大工技能士会会長。
十河 佑貞(そごう すけさだ、1899年(明治32年) 1月… 十河 佑貞(そごう すけさだ、1899年(明治32年) 1月4日 - 1989年(昭和64年) 1月7日 )は、日本の西洋史学者。専門は、ドイツ近世史。 香川県高松市出身。生家は旧高松藩の御用商人を務めた旧家の次男として生まれる。雅号は悠亭。父の忠貞(襲名権三郎)は、中川愛山に学んだ画人でもあり自由民権運動団体「博文社」の会頭の一人でもあった。 郷里の高松中学時代は、1歳で父親を癌で亡くしたこともあり、身体を鍛えるために海水浴、武徳会での柔道、ボートなど勉強そっちのけで遊んだという。不勉強がたたり浪人を強いられたが、方丈記、徒然草、夏目漱石を耽読し勉強に気が入らなかったという。 2年間の浪人の末、早稲田大学高等予科の文学科に入学した。
田中 剛二(たなか ごうじ、1899年 - 1979年4月1… 田中 剛二(たなか ごうじ、1899年 - 1979年4月11日)は、日本の牧師。 日本キリスト改革派教会の牧師として、神戸改革派神学校で長年教鞭をとった神学校教師。新改訳聖書のヨハネの福音書を翻訳する。 現代の改革派の講解説教のスタイルを確立した説教者とされる。 日本基督教会伝道者田中日出海の次男として広島県に生まれる。小学生の時に父を失い。上京して早稲田中学に入学する。そのまま早稲田大学予科に進む。アナーキズムに触れ傾倒して、中退する。大阪で労働者になり、革命を目指す。満洲に渡り、革命下のロシアに入国しようとして失敗する。 1922年 神戸神学校に入学(第17期)。在学中に、正統主義的な改革派神学と信仰に目覚める。
岡田 益吉(おかだ ますきち、1899年 - 1981年4月… 岡田 益吉(おかだ ますきち、1899年 - 1981年4月10日)は、日本のジャーナリスト。 東京府出身。1923年早稲田大学卒。 読売新聞、東京日日新聞政治部記者、満洲国情報課長、防衛総司令部調査室。 戦後、河北新報記者、1954年より著述業。
三浦 義武(みうら よしたけ、1899年 - 1980年2月… 三浦 義武(みうら よしたけ、1899年 - 1980年2月8日)は、日本の喫茶店店主、政治家である。缶コーヒーの発明者。息子は小説家の三浦浩。 1899年(明治32年)、島根県那賀郡井野村(現・浜田市)で豪農の家に生まれる。浜田中学校卒業後、上京して早稲田大学法科に進学。在学中は茶に親しみ、卒業後は東京郊外で茶の販売店を営む。昭和に入り、日本橋の白木屋でコーヒー豆を挽き売りするようになる。三浦のコーヒー狂ぶりは相当なもので、研究のために銀座や丸の内の有名コーヒー店を飲み歩き、中毒のようになって倒れたこともままあったという。研鑽を積み、ネルを使った独自の手法で濃厚で香り高いコーヒーを作り出した。
浅沼 稲次郎(あさぬま いねじろう、旧字体:淺沼 稻次郞、1… 浅沼 稲次郎(あさぬま いねじろう、旧字体:淺沼 稻次郞、1898年(明治31年)12月27日 - 1960年(昭和35年)10月12日)は、日本の政治家。東京府三宅村(現在の東京都三宅村)出身。日本社会党書記長、委員長を歴任。
東海林 太郎(しょうじ たろう、1898年(明治31年)12… 東海林 太郎(しょうじ たろう、1898年(明治31年)12月11日 - 1972年(昭和47年)10月4日)は、秋田県秋田市出身の流行歌手。位階は正五位。 戦前から戦後にかけて活躍し、ロイド眼鏡をかけて燕尾服を着用して直立不動の姿勢で歌う特徴があった。 東海林は1898年(明治31年)に秋田県秋田市台所町(現:千秋矢留町)で生まれた。保戸野尋常小学校を卒業後、1908年(明治41年)に父・大象が秋田県庁を退職して南満洲鉄道へ入社するのに伴い、両親が満洲へ向かう中、太郎は秋田に残って祖母・カツの下で生活する。 秋田県立秋田中学校在学時にヴァイオリンに魅せられ、満洲に滞在する父・大象に懇願するが逆鱗に触れてしまい、断念している[要検証 – ノート]。
萩原 恭平(はぎわら きょうへい、1898年11月19日 -… 萩原 恭平(はぎわら きょうへい、1898年11月19日 -1969年7月13日 )は、日本の言語学者。ロンドン大学客員教授、早稲田大学教育学部英語英文学科教授等を歴任した。稲村松雄、竹沢啓一郎との共著『Jack and Betty』は発行部数4,000万部を超えるベストセラーとなり、戦後日本の中・高等教育課程における代表的な英語教科書となった。埼玉県上里町出身。墓所は寛永寺第3霊園。 埼玉県児玉郡賀美村(現:上里町)大字黛にて出生。旧制高崎中学校を経て早稲田大学高等師範部卒業。千葉県立大多喜中学校教諭、東京府立第五中学校教諭、早大高師部講師等を経て1935年に早大教授に就任。同校を1969年に定年退職するまでの間に、1938年に渡英しロンドン大学で客員教授を務め、1960年代に跡見学園女子大学で客員教授を務めた際には同大学英文科開設に尽力した。
門脇 勝太郎(かどわき かつたろう、1898年(明治31年)… 門脇 勝太郎(かどわき かつたろう、1898年(明治31年)10月18日 - 1969年(昭和44年)11月19日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 鳥取県東伯郡倉吉町越中町(現倉吉市越中町)で資産家、酒造業の門脇猪蔵の長男として生まれる。早稲田大学政治学科卒。 「菊水」の銘柄で酒造業を営む。その他、大東京小売市場組合主事、東京婦人子供服小売商業組合理事長、東京都繊維製品統制理事、全国繊維製品小売商連合会理事長、全国衣料品小売商協会理事長、全装商事社長、日本洋装協会会長、中央技能検定協会理事などを務めた。 1949年(昭和24年)1月、第24回衆議院議員総選挙に鳥取県全県区から民主自由党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
矢島 恭介(やじま きょうすけ、1898年10月10日 - … 矢島 恭介(やじま きょうすけ、1898年10月10日 - 1979年11月11日)は、 帝室博物館調査官、歴史学者。 1898年に長野県に生まれる。1925年、早稲田大学文学部を卒業。同年 帝室博物館勤務。1938年、帝室博物館鑑査官。1954年、東京国立博館考古課長。1961年、同館退職。 1979年から東京芸術大学、明治大学、国学院大学、立教大学講師、文化庁文化財保護審議会専門委員をつとめた。 1972年、勲四等瑞宝章。
久慈 次郎(くじ じろう、1898年〈明治31年〉10月1日… 久慈 次郎(くじ じろう、1898年〈明治31年〉10月1日 - 1939年〈昭和14年〉8月21日)は、昭和初期にアマチュア野球で活躍した日本の野球選手(捕手)。 函館のクラブチーム・函館太洋倶楽部で活躍したが、試合中に送球を頭に受け死亡した。 岩手県盛岡市出身(青森県青森市生まれ)。盛岡中学を卒業後、早稲田大学商科に進学。身長5尺9寸(約179cm)の恵まれた体格と強肩の持ち主で、在学中からリーダーシップを発揮。また、野球部監督の飛田穂洲に心酔し、「一球入魂」を座右の銘としていた。既に大学時代にはまだプロ入りすらしていなかった段階にも拘らず「捕手の神様」と評された。 1922年(大正11年)大学卒業後は北海道函館市の函館水電に入社、同社に勤めながら函館太洋倶楽部(函館オーシャン)でプレーした。
降旗 徳弥(ふるはた とくや、1898年9月18日 - 19… 降旗 徳弥(ふるはた とくや、1898年9月18日 - 1995年9月5日)は、日本の政治家、実業家。信濃日報社長、信越放送取締役、長野放送社長、衆議院議員、第2次吉田内閣の逓信大臣、松本市長などを歴任した。映画監督の降旗康男は三男。
明石 潮 (あかし うしお、1898年9月11日 - 198… 明石 潮 (あかし うしお、1898年9月11日 - 1986年11月26日)は、日本の俳優。本名は明石 義仁。
水野 敏行(みずの としゆき、1898年 <明治31年> 8… 水野 敏行(みずの としゆき、1898年 <明治31年> 8月30日 - 1987年 <昭和62年> 1月5日)は、日本の経営者。電気化学工業(現・デンカ)社長を務めた。位階は正四位。 東京都出身。1923年に早稲田大学応用科学科を卒業し、同年に電気化学工業に入社。1948年12月に取締役に就任し、1949年12月に常務、1956年12月に専務、1960年5月に副社長を経て、1968年5月から1970年11月までに社長を務めた。 1964年5月に藍綬褒章を受章し、1970年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1987年1月5日、老衰のために死去。88歳没。死没日付をもって正四位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
宮本 正清(みやもと まさきよ、1898年8月16日 - 1… 宮本 正清(みやもと まさきよ、1898年8月16日 - 1982年11月16日)は、日本のフランス文学者。 高知県高岡郡奈路に農民の子として生まれる。1914年台湾総督府勤務の叔父長曽我部重親に伴われ台湾に渡る。1916年神戸へ移り関西学院中等部編入、1924年早稲田大学仏文学科卒業。1926年まで大学院に在籍し吉江喬松の指導を受ける。1927年日仏文化協会、関西日仏文化学館設立に参加し書記長兼教授。1930年仏国政府より勲章授与、以後数次にわたり授与される。1939年立命館大学予科教授、1942年立命館大学教授、1945年6月15日京都府警察に連行され敗戦まで監禁される。1950年大阪市立大学教授、同年渡仏。
吉田 一穂(よしだ いっすい、1898年8月15日 - 19… 吉田 一穂(よしだ いっすい、1898年8月15日 - 1973年3月2日)は、大正・昭和期の詩人、評論家、童話作家。本名、由雄。
和田 巌 (わだ いわお、1898年〈明治31年〉7月9日 … 和田 巌 (わだ いわお、1898年〈明治31年〉7月9日 - 1923年〈大正12年〉2月14日)は日本の社会運動家、農民運動家。早稲田大学の学生運動団体であった民人同盟会および建設者同盟の中心人物。 青森県上北郡三本木村(現在の十和田市)出身。父・足也が畜産技師として岐阜県庁に赴任した関係で、旧制岐阜中学校(現在の岐阜県立岐阜高等学校)に進み、柔道部にて平野力三や三宅正一と知り合う。旧制中学時代の和田は、トゥルゲーネフやトルストイを好んで読んでいたという。その後、早稲田大学に進学する。 1919年(大正8年)2月、早稲田大学の学生を中心とした社会運動団体・民人同盟会の創立に参加する。しかし、まもなく中心メンバーの高津正道と和田の間で路線対立が生じる。
田中 勝雄(たなか かつお、1898年7月1日 - 1995… 田中 勝雄(たなか かつお、1898年7月1日 - 1995年3月2日)は、大阪府出身の野球選手。
伊藤 幟 (いとう のぼり、1898年〈明治31年〉6月23… 伊藤 幟 (いとう のぼり、1898年〈明治31年〉6月23日 - 1963年〈昭和38年〉3月22日)は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(1期)、画家。従五位勲四等。 1898年(明治31年)6月、福島県安達郡本宮町(現:本宮市)に生まれた。福島縣立安積中學校を経て、早稲田大学を卒業。本宮町長や全国町村会長を務めて、馬匹・畜産を盛んにすることに貢献した。1949年(昭和24年)、全国町村長大会に出席した首長が皇居を訪問した際には、町村会会長として昭和天皇に御礼言上する役を担った。 1930年(昭和5年)、福島県美術協会を創設。石井柏亭と親交が深く、美術協会の審査委員長招いて十数年にわたり公募展を開いた。
木村 吉太郎(きむら きちたろう、1898年(明治31年)5… 木村 吉太郎(きむら きちたろう、1898年(明治31年)5月23日 - 1937年(昭和12年)4月4日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。サッカー選手。 大阪市南区(現在は浪速区)出身。早稲田大学に学ぶ。大阪サッカー倶楽部部長を務め、極東選手権競技大会・明治神宮競技大会に出場した。大阪府会議員に3度、同参事会員に2度選ばれ、大阪市会議員・同参事会員にも選出された。 1936年(昭和11年)、第19回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 また若槻礼次郎立憲民政党総裁秘書も務めた。
能島 武文(のじま たけふみ、1898年5月15日 - 19… 能島 武文(のじま たけふみ、1898年5月15日 - 1978年3月10日)は、日本の演劇評論家、劇作家、翻訳家。 大阪府大阪市北区出身。早稲田大学英文科卒。 在学中の1922年(大正11年)市村座脚本部に入り、かたわら「劇と評論」を創刊。同年に戯曲「秋の心」「波紋」を発表。のち「演劇新潮」編集同人となり、劇評・劇論を担当。また第一書房の『近代劇全集』の編集にも従事した。他に「東京小景」「詩人の靴」などの作品がある。 戦後は、主に推理小説などの翻訳などをおこなった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
井上 房一郎(いのうえ ふさいちろう、1898年〈明治31年… 井上 房一郎(いのうえ ふさいちろう、1898年〈明治31年〉5月13日 - 1993年〈平成5年〉7月27日)は、日本の実業家。井上工業社長・会長。 ブルーノ・タウトを招聘しての工芸運動や、群馬交響楽団の創設、群馬音楽センターの建設といった文化活動によっても知られている。 1898年(明治31年)群馬県西群馬郡高崎町新町(現・高崎市八島町)に生まれる。高崎白衣大観音の建立に力を尽くした井上工業社長・井上保三郎の長男。母は戸ウ(こう)。実母は1904年(明治37年)に死去した。 高崎市立南尋常小学校、旧制高崎中学校を経て、1916年(大正5年)に早稲田大学へ進学する。同時に川合玉堂の塾に通い、山本鼎・北原白秋・片上伸らの知遇を得る。
福井 康順(ふくい こうじゅん、1898年4月27日 - 1… 福井 康順(ふくい こうじゅん、1898年4月27日 - 1991年1月21日)は、日本の仏教学者、中国学者。元大正大学学長、早稲田大学名誉教授。天台宗の僧籍を持ち、日光山輪王寺内にある唯心院の住職を経て、妙法院の門跡となる。 1898年(明治31年)、長野県小県郡長久保新町(現長和町)で生まれた。父は町役場に勤める公務員で、母は寺院の生まれであった。1910年に日光の輪王寺で得度。早稲田大学文学部哲学科で学び、1924年に卒業。同大学大学院に進み、津田左右吉に師事した。 1928年(昭和3年)に大正大学文学部講師に着任。翌1929年には文学部講師に昇任。1932年から1934年まで中国に留学。
佐生 正三郎(さしょう しょうざぶろう、1898年4月9日 … 佐生 正三郎(さしょう しょうざぶろう、1898年4月9日 - 1971年9月21日)は、日本の映画会社経営者、実業家である。東洋汽船、ユニヴァーサル映画東京支社、パラマウント映画支配人を経て、東宝映画取締役、映画配給社理事、東宝常務取締役、太泉スタヂオ専務取締役、新東宝初代社長、日米映画社長、新外映配給社長を歴任した。「配給の神様」の異名をとり、フリーブッキング制(自由配給制度)の立案者として知られる。 1898年(明治31年)4月9日、千葉県に生まれる。父の元治郎は、君津郡青堀町に所在した南総銀行の大貫支店長を務めていた。 早稲田大学理工学部(現在の早稲田大学理工学術院)を卒業し、東洋汽船に入社、文書課長を務める。
小林 竜雄(こばやし たつお、1898年3月27日 - 19… 小林 竜雄(こばやし たつお、1898年3月27日 - 1976年1月17日)は、フランス文学者、早稲田大学名誉教授。 熊本県生まれ。早大仏文科卒。1968年まで早大商学部教授。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
外岡 茂十郎(とのおか もじゅうろう、1898年3月25日 … 外岡 茂十郎(とのおか もじゅうろう、1898年3月25日 - 1986年8月27日)は、日本の法学者。学位は法学博士。静岡県出身。 静岡県賀茂郡三坂村(現在の賀茂郡南伊豆町)入間に生まれる。賀茂郡立中学豆陽学校から早稲田大学に進学し、1925年に早稲田大学教授に就任。 1942年から1964年まで早稲田大学野球部部長を務める。あわせて東京六大学野球連盟理事長も務め、1943年には出陣学徒壮行早慶戦を敢行している。 戦後はオール早慶戦の開催、1946年春の六大学野球再開を実現させ、12月に日本学生野球協会が結成されると副会長として30年間アマチュア野球の発展に尽力した。その後は中京大学へと移り、1966年の同大学法学部の開設に関わり、1975年まで法学部長を務めた。
宮田 重文(みやた しげふみ、1898年(明治31年)3月1… 宮田 重文(みやた しげふみ、1898年(明治31年)3月17日 - 1973年(昭和48年)12月6日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員(2期)、茨城県久慈郡太田町長、常陸太田市長、同名誉市民。旧姓は立川。 茨城県久慈郡太田町(現常陸太田市)で、立川義之の三男として生まれる。茨城県立太田中学校(現茨城県立太田第一高等学校・附属中学校)を経て、1921年(大正10年)早稲田大学政治経済科を卒業した。 1921年、明治屋に入社し、1926年(大正15年)に丸の内支店次長で退職して帰郷した。書籍・学用品販売業の宮田家の養子となった。茨城新聞社に入社し、営業局外交部長に就任。1928年(昭和3年)2月の第16回衆議院議員総選挙に大学の恩師五来欣造が茨城県第2区から立候補した際に、選挙事務長を務めたが五来は落選した。