黒川 兼三郎(くろかわ かねざぶろう、1893年11月30日… 黒川 兼三郎(くろかわ かねざぶろう、1893年11月30日 - 1948年5月1日)は日本の電気工学者、早稲田大学教授、工学博士。音響学の功績も大きく、大隈講堂の音響設計を担当したことでも知られる。黒川兼行は長男。
早稲田大学:8,590人
黒川 兼三郎(くろかわ かねざぶろう、1893年11月30日… 黒川 兼三郎(くろかわ かねざぶろう、1893年11月30日 - 1948年5月1日)は日本の電気工学者、早稲田大学教授、工学博士。音響学の功績も大きく、大隈講堂の音響設計を担当したことでも知られる。黒川兼行は長男。
高橋 文五郎(たかはし ぶんごろう、1893年11月28日 … 高橋 文五郎(たかはし ぶんごろう、1893年11月28日 - 1978年3月19日)は、日本の実業家、政治家、参議院議員(2期、自由民主党)。 宮城県栗原郡若柳町(現・栗原市)出身。1915年早稲田大学商学部卒。卒業後は七十七銀行に入り、支店長となる。その後、家業の醸造業を継ぎ、のち栗原鉄道(株)を創立、社長に就任する。 若柳町長(1935.11.28-1943.8.15)を務めたが、戦時中に地元の大政翼賛会の役員をしていたため、戦後、公職追放となる。 宮城県議を5期務め、議長を2期務める。1965年、高橋進太郎の宮城県知事選出馬による参議院補欠選挙で当選。同年春の叙勲で勲四等瑞宝章受章。1968年の第8回参議院議員通常選挙で再選した。
谷口 雅春(たにぐち まさはる、1893年〈明治26年〉11… 谷口 雅春(たにぐち まさはる、1893年〈明治26年〉11月22日 - 1985年〈昭和60年〉6月17日)は、新宗教「生長の家」創始者・初代総裁。旧名は同訓異字の“正治”。兵庫県八部郡烏原村東所(現:兵庫県神戸市兵庫区烏原町)に生まれ、大阪市港区の大阪府立市岡中学(旧制)出身。早稲田大学文学部英文科中退。同学科には青野季吉、木村毅、坪田譲治らが在学していた。 著作は400冊以上に及び、主著『生命の實相』は通算1,900万部を超える。他に『新版真理』全11巻、『新選谷口雅春選集』全20巻、『新選谷口雅春法話集』全12巻等、多数の著書(聖典)がある。他にも、彼が受けたとした33の神示(総称:『七つの燈臺の點燈者の神示』)や自由詩の形態を取る「聖経」として『甘露の法雨』『天使の言葉』『続々甘露の法雨』等がある。
永田 衡吉(ながた こうきち、1893年11月20日 - 1… 永田 衡吉(ながた こうきち、1893年11月20日 - 1990年2月27日)は、日本の劇作家、民俗芸能研究家。 和歌山県新宮出身。1917年早稲田大学英文科卒、東京帝国大学で美学美術史を学ぶ(卒業未確認)。21年から戯曲を発表、27年柳田國男、折口信夫らの民俗芸術の会の結成に参加、28年「信州義民伝」が6代目尾上菊五郎によって上演、「源義朝」が沢田正二郎によって上演される。30年菊五郎の日本俳優学校の設立に参加し講師となる。
野田 高梧(のだ こうご、1893年(明治26年)11月19… 野田 高梧(のだ こうご、1893年(明治26年)11月19日 - 1968年(昭和43年)9月23日)は、日本の脚本家。シナリオ・ライター協会初代会長。 次兄は日本画家の野田九甫、娘は脚本家の立原りゅう、その夫は同じく脚本家の山内久。また、幕末の漢学者・野田笛浦は祖父にあたる。 税官吏・野田鷹雄の子として北海道函館市に生まれ、長崎県・名古屋市で育つ。愛知一中(現・愛知県立旭丘高等学校)、早稲田大学英文科を卒業後、映画雑誌記者・東京市職員を経て、1924年に松竹蒲田撮影所に入所。以後、蒲田および移転した大船撮影所で、現代劇の中心的脚本家として活躍し、小市民の生活を味わい深く描いたいわゆる「大船調」の代表的存在となる。
犀川 長作(さいかわ ちょうさく、1893年11月5日 - … 犀川 長作(さいかわ ちょうさく、1893年11月5日 - 1931年9月3日)は、大正から昭和期の日本の弁護士、法学者、教育者、立教大学教授。 富山県東礪波郡出身。早稲田大学卒業。大正から昭和にかけて弁護士を務めた。 1925年(大正14年)には衆議院議員選挙法(普通選挙法)改正によって男子普通選挙が実現されたが、この際、犀川は同改正法のほか、改正貴族院令及び同時に制定された治安維持法の解説書を出版するなど、法律学に関する執筆活動も行った。 大正期には立教大学経済学部教授を兼務し、細野三千雄とともに民法と刑法を講じた。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
張 沢相(チャン・テクサン、1893年10月22日 - 19… 張 沢相(チャン・テクサン、1893年10月22日 - 1969年8月1日)は、大韓民国の政治家、独立運動家。字は致雨(チウ、치우)。号は滄浪(チャンナン、창랑)。 朝鮮時代の学者の張顕光(朝鮮語版)の直系の子孫である。朝鮮末期の慶尚道観察使の張承遠(朝鮮語版)は父、教育者・歴史学者の張炳恵(朝鮮語版)は娘。元奎章閣直閣の張吉相(朝鮮語版)、元善山郡郡守の張稷相(朝鮮語版)は兄。 慶尚北道漆谷郡北三面呉太洞(現・亀尾市呉太洞)に生まれる。本貫は仁同張氏。15歳で日本へ渡り、1909年に早稲田大学へ入学したが、同年10月に起きた安重根による伊藤博文暗殺事件を受けて、翌1910年に中国・上海へ亡命し、独立運動に身を投じることとなる。
今井 五六(いまい ごろく、1893年〈明治26年〉10月1… 今井 五六(いまい ごろく、1893年〈明治26年〉10月14日 - 1969年〈昭和44年〉10月31日)は、日本の実業家、政治家、教育者。 片倉製糸紡績株式会社取締役、財団法人片倉学園理事長、片倉磐城製糸株式会社代表取締役、昭和興業株式会社取締役、株式会社美篶商会取締役、日東紡績株式会社取締役、長崎製糸株式会社取締役、昭和絹靴下株式会社取締役、片倉米穀肥料株式会社取締役、東邦石油株式会社取締役、富国火災海上保険株式会社監査役、極東化学工業所社長(初代)、片倉合名会社出資社員、埼玉県大宮市長(初代・第4代)、片倉工業株式会社取締役、東亜ゴム工業株式会社社長(第2代)、トーテックス株式会社社長(初代)などを歴任した。
長尾 秀太郎(ながお ひでたろう、1893年(明治26年)1… 長尾 秀太郎(ながお ひでたろう、1893年(明治26年)10月11日 - 1948年(昭和23年)6月24日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。弁護士。 香川県鵜足郡宇多津村(現在の綾歌郡宇多津町)出身。香川商業学校を経て、1920年(大正9年)、早稲田大学専門部法律科を卒業した。弁護士を開業し、高松弁護士会副会長、同会長を歴任した。香川県会議員、同参事会員に選出された。 1936年(昭和11年)7月、衆議院補欠選挙で当選を果たした。
斎藤 佐次郎(さいとう さじろう、1893年(明治26年)9… 斎藤 佐次郎(さいとう さじろう、1893年(明治26年)9月26日-1983年(昭和58年)12月11日)は、出版社金の星社の創業者。児童雑誌『金の船』(後『金の星』と改題)主宰者。 1893年(明治26年)父佐次郎(佐次郎と同名)の5男として生まれる。父親は人力車の防水幌や雨合羽の防水加工で財を成した。佐次郎が成人する前に両親と死別するが、父親の遺産により裕福な青年時代を送る。早稲田大学英文科卒業。在学中には坪内逍遥や島村抱月らの指導を受け、文学への道を志す。 1918年(大正7年)鈴木三重吉が児童雑誌『赤い鳥』を創刊したのに触発され、出版社キンノツノ社社長横山寿篤と児童雑誌創刊を決意。島崎藤村、若山牧水、西條八十、有島生馬らの賛同を得、さらに西條八十から野口雨情の紹介を受け、1919年(大正8年)11月、児童雑誌『金の船』を創刊、自ら執筆にも関わる。
池田 豊(いけだ ゆたか、1893年9月24日 - 1952… 池田 豊(いけだ ゆたか、1893年9月24日 - 1952年10月21日)は、東京府北多摩郡武蔵野村(現:武蔵野市)出身のプロ野球監督・審判。 早稲田中学校を経て、早稲田大学卒業。早大時代は三塁手。卒業後東京六大学野球連盟の審判となる。 1936年、大学の先輩河野安通志が総監督をつとめる大日本野球連盟名古屋協会(名古屋軍)の初代監督に就任。河野が後楽園イーグルスを設立すると同時に辞任した。 名古屋軍では後に公式戦の基点となる東京の職業野球連盟発足記念トーナメントで優勝を果たし(ただし、大阪では阪急に、名古屋では大阪にさらわれた。)、「プロ野球選手は自前で養成しよう」との信念から、少年野球から西沢道夫を発掘し、後に中日の大選手になる道筋を作っている。
西村 久之(にしむら ひさゆき、1893年(明治26年)9月… 西村 久之(にしむら ひさゆき、1893年(明治26年)9月23日 - 1964年(昭和39年)2月4日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・牟田。 長崎県南松浦郡岐宿町(現・五島市)出身。牟田久蔵の二男に生まれ、力之助の養子となる。早稲田大学商科で学び、1914年に中退した。漁業を営む。 南松浦郡岐宿町会議員となり、また長崎県会議員にも選出されて、同参事会員、同議長も務めた。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に長崎県選挙区から日本自由党公認で立候補して初当選。以後、第24回総選挙まで長崎県第2区から立候補して再選された。1952年(昭和27年)10月の第25回総選挙では次点で落選したが、1953年(昭和28年)4月の第26回総選挙で再選され、衆議院議員に通算4期在任した。
伊藤 貴麿(いとう たかまろ、1893年9月5日 - 196… 伊藤 貴麿(いとう たかまろ、1893年9月5日 - 1967年10月30日)は、日本の児童文学作家、翻訳家。 兵庫県神戸市生まれ。1920年早稲田大学英文科卒。1924年新感覚派の同人誌『文藝時代』に参加し、のち文芸春秋系の作家となる。その後児童文学界の重鎮となり、『西遊記』の再話などで知られた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
下村 千秋(しもむら ちあき、男性、1893年9月4日 - … 下村 千秋(しもむら ちあき、男性、1893年9月4日 - 1955年1月31日)は、日本の作家。 茨城県信太郡朝日村(稲敷郡朝日村を経て、現在の阿見町)生まれ。1908年、茨城県立土浦中学校(現在の茨城県立土浦第一高等学校)へ進む。1919年、早稲田大学英文科卒業後、読売新聞社に入社し社会部記者となるが同年12月に退社し、文筆活動に入る。小説・短歌・戯曲などを発表するほか、ゴーリキー全集の翻訳も行う。1923年、結婚を機に東京市役所労務課翻訳係に就職するが、8ヵ月で退職して再び作家生活に入る。主に『赤い鳥』などに童話を発表した。 昭和時代に入ると、私娼を描いた「天国の記録」(『中央公論』1930年7月)で有名となり、「ルンペン小説」の作家として有名となる。
石田 善佐(いしだ ぜんさ、1893年(明治26年)8月17… 石田 善佐(いしだ ぜんさ、1893年(明治26年)8月17日 - 1947年(昭和22年)9月8日)は、日本の衆議院議員。ジャーナリスト。 新潟県東頸城郡顕聖寺村(現在の上越市浦川原区)出身。1917年(大正6年)、早稲田大学政治経済科を卒業。高田日報社主筆、高田時事新報社社長、高田毎日新聞社社長、上越新聞社顧問を歴任。高田市会議員、新潟県会議員に選ばれた。 1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙に翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬し、当選を果たした。戦後は日本進歩党の結成に参加するが、公職追放を受ける。追放中の1947年(昭和22年)、死去。
原田 謙次(はらだ けんじ、1893年8月8日 - 1971… 原田 謙次(はらだ けんじ、1893年8月8日 - 1971年2月3日)は、日本の歌人、小説家。 長崎県生まれ、大村中学校卒業、第一高等学校中退、東京外国語学校イタリア語専修を経て、1920年早稲田大学英文科卒。吉江喬松、島崎藤村に師事し、歌人、詩人となる。近代琵琶作詞、小説一編のほかイタリア文学の翻訳もある。
肝付 兼英(きもつき かねふさ、1893年(明治26年)7月… 肝付 兼英(きもつき かねふさ、1893年(明治26年)7月29日 - 1974年(昭和49年)11月22日)は、大正から昭和期の農林技師、政治家、華族。貴族院男爵議員。 海軍士官・肝付兼行の長男として生まれる。父の死去に伴い、1922年(大正11年)2月10日、男爵を襲爵した。 1923年(大正12年)早稲田大学理工学部を卒業した。同年、農商務技手に就任。以後、商工技手、資源局技師などを務めた。 1929年(昭和4年)4月27日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで3期在任した。同年の第1回参議院議員通常選挙に全国区から立候補したが落選した。
浜田 広介(はまだ ひろすけ、旧字体:濱田 廣介、1893年… 浜田 広介(はまだ ひろすけ、旧字体:濱田 廣介、1893年〈明治26年〉5月25日 - 1973年〈昭和48年〉11月17日)は、日本の童話作家。本名は濱田 廣助。日本児童文芸家協会初代理事長。代表作に『泣いた赤鬼』『椋鳥の夢』『竜の目の涙』などがあり、一連の作品は「ひろすけ童話」と称される。坪田譲治、小川未明とともに「児童文学界の三種の神器」と呼ばれた。次男濱田滋郎は音楽評論家になった。 山形県東置賜郡高畠町の農家に生まれた。幼少時から巖谷小波を愛読。米沢中学(現山形県立米沢興譲館高等学校)、早稲田大学英文科卒。中学時代は大熊信行や上泉秀信と同人誌を作っていた。 1914年(大正3年)大学入学の年に『萬朝報』の懸賞小説に短編小説『零落』が入選したのを皮切りに、何作かの小説を著す。
浜田 広介(はまだ ひろすけ、旧字体:濱田 廣介、1893年… 浜田 広介(はまだ ひろすけ、旧字体:濱田 廣介、1893年(明治26年)5月25日 - 1973年(昭和48年)11月17日)は、日本の童話作家。本名は廣助。日本児童文芸家協会初代理事長。代表作に『泣いた赤鬼』『椋鳥の夢』『竜の目の涙』などがある。坪田譲治、小川未明とともに「児童文学界の三種の神器」と呼ばれた。既婚。息子は音楽評論家の濱田滋郎である。
3代 諸橋 久太郎(もろはし きゅうたろう、1893年(明治… 3代 諸橋 久太郎(もろはし きゅうたろう、1893年(明治26年)5月3日 - 1973年(昭和48年)2月12日)は、昭和時代の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。福島県平市長。旧名・守次。位階は正五位。勲三等旭日中綬章。 福島県磐前郡平町(石城郡平町、平市を経て現いわき市)の金物商、釜屋商店の2代諸橋久太郎の嗣子として生まれる。1916年(大正5年)早稲田大学政治経済科を卒業。1930年(昭和5年)3代久太郎を襲名した。1931年(昭和6年)石城郡農会長に就任したのを皮切りに、平市農会長、信用組合平庶民金庫理事長、諸橋合名会社代表、磐城水産工業、片倉磐城製糸、植田水力電気、福島県農工銀行、相馬塩業などの重役を歴任した。
中野 泰介(なかの やすすけ、1893年5月 - 没年不詳)… 中野 泰介(なかの やすすけ、1893年5月 - 没年不詳)は、日本のジャーナリスト、実業家、政治家。玄洋社社員。 中野泰次郎の二男として福岡県に生まれる。政治家中野正剛は兄。1912年福岡県立中学修猷館を経て、1917年早稲田大学政治経済学科を卒業。 九州日報社常務取締役を経て、1933年福岡市会議員に挙げられる。 長男は読売テレビ社長を務めた中野達雄。
高津 正道(たかつ まさみち、1893年4月20日 - 19… 高津 正道(たかつ まさみち、1893年4月20日 - 1974年1月9日)は、日本の社会運動家、政治家。衆議院議員(5期)、衆議院副議長などを歴任した。 広島県御調郡羽和泉村(現・三原市)生まれ。真宗本願寺派南光寺住職の長男で、18歳のときに京都に移り、京都予備学校(のちの京都商業)で学ぶ。卒業後は実家に戻り、1914年に住職を継ぐが、仏教改革を志して檀家と対立した結果、仏教を捨てるに至る。 1918年、妻多代子(のち日本初の女性社会主義グループ「赤瀾会」創立メンバー、28歳で早逝)と共に上京し、早稲田大学文学部哲学科に入学。在学中「暁民会」を組織するなど、活発な社会主義運動を展開した。そのため大学を追われ、日本社会主義同盟を設立するが、1921年に暁民共産党事件で有罪判決を受ける。
小岩井 貞夫(こいわい さだお、1893年〈明治26年〉4月… 小岩井 貞夫(こいわい さだお、1893年〈明治26年〉4月14日 - 没年不明)は、日本の政治家(神奈川県会議員、横浜市会議員)、地主、神奈川県多額納税者。早稲田大学評議員。 神奈川県人・小岩井義八の長男。1917年、早稲田大学大学部商科卒業。茂木合名会社機械部に勤務した。県会議員、全関東連盟野球団会長、国民同盟県支部総務をつとめた。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。 趣味は運動、政治、釣。宗教は真宗。住所は横浜市中区(現・南区)三春台、同区南太田町。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
山浦 貫一(やまうら かんいち、1893年(明治26年)3月… 山浦 貫一(やまうら かんいち、1893年(明治26年)3月20日 - 1967年(昭和42年)9月26日)は新聞記者、政治評論家。 長野県小県郡川辺村(上田市)出身。旧制上田中学(長野県上田高等学校)から早稲田大学政治経済学部卒業。1919年時事新報記者となり、1924年東京日日新聞に転じ、1927年新愛知東京支社、ついで国民新聞、読売新聞各論説委員を務め、1948年読売新聞を定年退社。1946年には憲法普及会理事を務めた。 その後、東京新聞編集顧問、NHK中央番組審議委員、中央選挙管理委員会委員などを務めた。晩年は東京新聞のコラム「放射線」に池上五六のペンネームで反共評論を書いた。森恪、鳩山一郎らと親交があった。
高木 常七(たかぎ つねしち、1893年〈明治26年〉3月1… 高木 常七(たかぎ つねしち、1893年〈明治26年〉3月15日 - 1975年〈昭和50年〉8月15日)は、日本の裁判官。最高裁判所判事。富山県出身。 富山中学校を経て、1916年(大正7年)に早稲田大学法科を卒業。1917年(大正8年)7月にいったん検事となるが、1923年(大正12年)6月に弁護士に転身した。 1946年(昭和21年)2月に法曹一元制度のため、岩田宙造司法大臣に口説かれ、静岡地裁所長となる。その後、横浜地裁所長、東京家裁初代所長、札幌高裁長官、広島高裁長官、名古屋高裁長官を歴任。 1958年(昭和33年)6月に最高裁判所裁判官となる。八海事件の第二次上告審では有罪説を取る破棄差戻しの多数意見に反対し、無罪説の上告棄却の少数意見を述べた。
松原 至大(まつばら みちとも、1893年3月3日 - 19… 松原 至大(まつばら みちとも、1893年3月3日 - 1971年3月15日)は、日本の童話作家・翻訳家。 千葉県千葉市辰州町出身。別姓・村山。 1910年千葉県立千葉中学校卒。 1915年早稲田大学文学部英文科卒。 1916年頃より少女小説を書く。 1918年東京日日新聞(現・毎日新聞)に入り、「小学生新聞」編集長を務める。 1926年童話作家協会創立に参加した。 1954年に制定された、母校である千葉県立千葉高等学校(旧千葉県立千葉中学校)の校歌を作詞している。
鈴木 茂三郎(すずき もさぶろう、1893年2月7日 - 1… 鈴木 茂三郎(すずき もさぶろう、1893年2月7日 - 1970年5月7日)は、日本の政治家、第2代日本社会党委員長。ジャーナリスト、エッセイストとしても知られた。
島田 孝一(しまだ こういち、1893年(明治26年) - … 島田 孝一(しまだ こういち、1893年(明治26年) - 1987年(昭和62年))は、日本の交通経済学者。商学博士。 早稲田大学名誉教授。第6代早稲田大学総長(1946年 - 1954年)、流通経済大学初代学長(1965年-1974年)、日本交通学会初代会長(1941年-1973年)。初代日本私立大学連盟会長(1951年 - 1955年)。 東京麹町の番町(現・千代田区四番町)で生まれた。島田三郎の長男。父・三郎は民権運動の功労者で、衆議院議長に挙げられた。 1906年に東京高等師範学校附属小学校(現、筑波大学附属小学校)、1911年に東京高等師範学校附属中学校(現、筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。
鄭 顕模(チョン・ヒョンモ、朝鮮語: 정현모/鄭顯模、189… 鄭 顕模(チョン・ヒョンモ、朝鮮語: 정현모/鄭顯模、1893年または1901年6月27日 - 1965年1月1日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の独立運動家、ジャーナリスト、官僚、政治家、実業家。制憲韓国国会議員、初代慶尚北道知事、第4代忠清北道知事を歴任した。 本貫は東萊鄭氏(朝鮮語版)。号は白下(ペカ、백하)。 慶尚北道安東郡出身。早稲田大学卒。新幹会安東支会長を経て、解放後は朝鮮日報主筆、時代日報主筆を務めた。1948年の初代総選挙で当選したが、同年10月19日に慶尚北道知事に任命されたため議員を辞職した。以後初代慶尚北道知事(1948年10月18日~1950年1月23日)、第4代忠清北道知事(1952年9月~1953年11月)、自由党政務委員長、民友党結党発起人を務めた。
上野 伊三郎(うえの いさぶろう、1892年(明治25年)1… 上野 伊三郎(うえの いさぶろう、1892年(明治25年)12月9日 - 1972年(昭和47年)5月23日)は、建築家。ブルーノ・タウトとの関係で知られる。 1892年京都府生まれ。祖父は京都の宮大工、父・伊助は上野工務店を経営していた。宮大工の修業をしていたが東京へ出て、早稲田大学高等予科理工科を経て早稲田大学理工学部建築学科で学び、1922年(大正11年)に卒業。ドイツのシャルロッテンブルク工科大学、オーストリアのウィーン大学へ留学し、ヨーゼフ・ホフマンのウィーン工房に入所(1924年)。ここで所員の工芸家・リチ(Felice Lizzi Rix、1893年 - 1967年)と出会い、結婚する。
信太 儀右衛門(しだ ぎえもん、1892年11月29日 - … 信太 儀右衛門(しだ ぎえもん、1892年11月29日 - 1970年4月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(5期)。 秋田県山本郡金岡村(現:三種町)出身。早稲田大学政治経済科を経て、札幌農学校に学ぶ。その後は金岡村長、秋田県議を歴任し、1924年の第15回衆議院議員総選挙で憲政会公認で立候補して初当選する(後立憲民政党)。以来当選5回。秋田魁新報社監査役や能代酒造社長などを務めた。 戦後、大政翼賛会の推薦議員のため、公職追放となる。追放解除後は政界に再び立候補することは無かった。 1970年4月6日、自宅の風呂場から出火、妻を助けようと家の中に入り、焼死した。
田村 新蔵(たむら しんぞう、前名・章四郎、1892年〈明治… 田村 新蔵(たむら しんぞう、前名・章四郎、1892年〈明治25年〉11月13日 - ?)は、日本の政治家、資産家、実業家、埼玉県多額納税者。粕壁町会議員(立憲政友会)。東武商事代表取締役。粕壁町学務委員。粕壁町体育会会長。 埼玉県南埼玉郡粕壁町(現・春日部市)出身。先代・田村新蔵の四男。1910年、粕壁中学校(現・春日部高等学校)を卒業。1914年、早稲田大学大学部商科を卒業。同年麻布入隊、従七位陸軍二等主計。 粕壁銀行専務取締役、同行取締役を務め、一切の行務を統宰する。1936年、父・退隠の後を承け家督を相続し、前名・章四郎を改め襲名した。 農業並びに洋紙、砂糖、小麦粉販売業を営む傍ら、東武商事代表取締役および公職を務めた。
平林 初之輔(ひらばやし はつのすけ、1892年11月8日 … 平林 初之輔(ひらばやし はつのすけ、1892年11月8日 - 1931年6月15日)は、日本の文芸評論家・推理作家・翻訳家。プロレタリア文学運動の理論家として知られる。 京都府竹野郡深田村字黒部(後の竹野郡弥栄町黒部、現在の京丹後市弥栄町黒部)に生まれる。1917年9月、早稲田大学文学部英文科に入学、片上伸や吉江喬松らに親しんだ。また、アテネ・フランセでフランス語を学ぶ。早稲田大学卒業後、やまと新聞に入社、同紙の文芸時評欄を担当するとともに、ヴィクトル・ユゴーなどフランス文学の小説を翻訳して掲載する。1920年、労働争議を契機に同新聞を退社、この前後に、青野季吉、市川正一と知り合い交際が始まり、ともに国際通信社に就職する。
倉田 太一(くらた たいち、1892年10月28日 - 19… 倉田 太一(くらた たいち、1892年10月28日 - 1969年2月2日)は、日本の柔道家(講道館9段)。 京都武専にて柔道修行に励んだのち、広島高等師範学校や旧制広島文理科大学にて後進の指導に当たって広島における柔道の普及・振興に尽力。また選手としては昭和天覧試合へ名誉ある出場を果たした。 広島県の仁保に生まれた。三重県立第一中学校(現・三重県立津高校)を卒業後、既に柔道3段の倉田は京都の武道専門学校本科に1期生として進学し、同期の尾形源治らと共に磯貝一・永岡秀一・田畑昇太郎の元で稽古に励んだ。極度の近視であった倉田は、稽古の際に眼鏡を外すと常に眉間に皺を寄せて睨み付けるような形相であった事から、同級生らから“鬼瓦”と呼ばれたという。
森口 多里(もりぐち たり、1892年8月7日 - 1984… 森口 多里(もりぐち たり、1892年8月7日 - 1984年5月5日)は、日本の美術史家・美術評論家、民俗学者。本名は多利(たり)。 岩手県胆沢郡水沢町大町(現:奥州市)にて金物商を営む父森口伊三郎、母カネヨの次男として生まれる。一関中学校(現:岩手県立一関第一高等学校)を経て、1910年(明治43年)に早稲田大学文学部予科に入学。在学中、佐藤功一から美術品の調査を依頼される。また、日夏耿之助主宰の同人誌『假面』同人となる。1914年に早稲田大学文学部英文科を卒業した。卒業後は美術評論活動を行い、『ミレー評伝(ロマン・ロラン著)』の翻訳や『恐怖のムンク』といった評論文を執筆した。森口の多彩な文筆活動は、美術史・美術評論に留まらず、戯曲、建築、そして民俗など多岐にわたり、生涯で50冊余の書作を世に送り出している。
藤井 新一(ふじい しんいち、1892年(明治25年)8月2… 藤井 新一(ふじい しんいち、1892年(明治25年)8月2日 – 1971年(昭和46年)3月4日)は、大正末から昭和期の政治学者、法学者、政治家。参議院議員(1期)。 香川県三木郡平井村井上(木田郡平井村、平井町を経て現三木町井上)で、藤井宇平の三男として生まれる。平井村北尋常小学校、木田郡五ケ村組合立白山高等小学校高等科、香川県立大川中学校(現香川県立三本松高等学校)を経て、1917年(大正6年)7月、早稲田大学高等師範部英語科を卒業した。アメリカ合衆国に留学し、同年9月、語学習得のためカリフォルニア州サンタバーバラ郡ユバチノ公立小学校第1学年に入学し、1918年(大正7年)1月に同州サンノゼ市公立ヘスター第1小学校に転校し、同年7月、小学課程を9ヶ月で卒業した。
山口 馬城次(やまぐち まきじ、1892年(明治25年)8月… 山口 馬城次(やまぐち まきじ、1892年(明治25年)8月6月 - 1987年(昭和62年)6月17日)は、大正から昭和期の山林地主、実業家、政治家。衆議院議員、大分県宇佐郡麻生村長、初代旧宇佐市長、宇佐市名誉市民。 大分県宇佐郡麻生村大字山口(四日市町を経て現宇佐市)で、山口格の二男として生まれる。大分中学校(現大分県立大分上野丘高等学校)を経て、1914年(大正3年)早稲田大学専門部政治経済科を卒業した。帰郷して1924年(大正13年)父の隠居に伴い家督を相続し農業を営む。 1930年(昭和5年)麻生村長に就任し4期在任。1931年(昭和6年)大分県会議員に選出され3期在任し、同副議長を務め、1940年(昭和15年)同議長に就任した。
武谷 甚太郎(たけたに じんたろう、1892年(明治25年)… 武谷 甚太郎(たけたに じんたろう、1892年(明治25年)7月16日 - 1976年(昭和51年)2月28日)は、大正から昭和期の新聞編集者、実業家、政治家。衆議院議員、金沢市長、石川県会議長。 石川県石川郡鶴来町(現白山市)で、武谷久太郎、イトの二男として生まれる。1914年(大正3年)早稲田大学に入学し政治経済科で学んだ。政治運動に参加して検束され、1917年(大正6年)12月に早大を中退した。 その後、太平洋通信記者となり、1918年(大正7年)6月、中国民報(現山陽新聞)記者、さらに1922年(大正11年)3月、帰郷して北陸毎日新聞(現北國新聞)主筆に就任し、編輯長、取締役を歴任した。
飯塚 知信(いいづか とものぶ、1892年(明治25年)6月… 飯塚 知信(いいづか とものぶ、1892年(明治25年)6月29日 - 1965年(昭和40年)3月12日)は、昭和時代の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。衆議院議員(1期)。 新潟県刈羽郡日高村新道(高田村新道を経て現柏崎市新道)で、素封家、実業家、政治家・飯塚弥一郎の二男として生まれる。1918年(大正7年)早稲田大学政治経済科を卒業し、1921年(大正10年)欧米を視察する。1924年(大正13年)柏崎銀行頭取、ついで柏崎瓦斯取締役、第四銀行監査役、柏崎農業倉庫組合長、早稲田大学評議員、新潟県山林会顧問、新潟地方裁判所陪審委員長、高田村長、百三十九銀行取締役、上条郷農業振興会長、柏崎販売購買利用組合長、新潟県農会特別議員、刈羽郡乾繭組合長、高田村農協組合長などを歴任した。
二木 保幾(ふたつぎ やすき、1892年6月29日 - 19… 二木 保幾(ふたつぎ やすき、1892年6月29日 - 1934年9月21日)は、日本の経済学者。 長野県南安曇郡明盛村(現安曇野市)生まれ。旧制順天堂中学校を経て、明治43年(1910年)早稲田大学高等科に入学し、大正3年(1914年)早稲田大学政治経済学部卒業。同年朝日新聞社に入社し、政治経済部の記者を経て、外務省担当記者を担当した。同4年(1915年)第2次大隈内閣が全国遊説を試みた際には後援会遊説部を組織し、その会長となった。同8年(1919年)、早稲田大学第2代総長塩澤昌貞から、母校留学生としてアメリカ、ドイツ、フランスへの留学を命じられ、帰国後は、同12年(1923年)同大学政治経済学部教授、同13年(1924年)教務主任等を勤め、日本の経済学界の重鎮と謳われたが、昭和9年(1934年)に病没した。
大塚 博紀(おおつか ひろのり、1892年6月1日 - 19… 大塚 博紀(おおつか ひろのり、1892年6月1日 - 1982年1月29日)は、日本の空手家。昭和期を代表する空手家の一人であり、和道流空手道の開祖。また、自身が修行した柔術に空手を加味して和道流柔術拳法も開いた。 1892年(明治25年)、医師・大塚徳次郎の嫡男として茨城県真壁郡下館町(後の下館市、現在の筑西市)に生まれた。本名は大塚孝(こう)。1897年(明治30年)、江橋長次郎から為我流柔術の手ほどきを受けた。1905年(明治38年)、大塚は茨城県立下妻中学校(現在の茨城県立下妻第一高等学校)に入学、剣術師範でもあった中山辰三郎(神道揚心流第3代目師範)に師事して、神道揚心流柔術と為我流柔術を学んだ。
永川 俊美(ながかわ としみ、1892年6月 - 没年不詳)… 永川 俊美(ながかわ としみ、1892年6月 - 没年不詳)は、日本のジャーナリスト。 永川越太郎の長男として福岡県に生まれる。1912年福岡県立中学修猷館を経て、1916年早稲田大学政治経済学科を卒業。 1916年東京朝日新聞(現・朝日新聞東京本社)政治部に入社し、1923年同次長に進み、政治経済部次長を経て、1930年連絡部長に就任。その後、朝日新聞名古屋支社(現・朝日新聞名古屋本社)編集局長に転じ、1939年同支社長も兼任、1940年に名古屋支社が中部本社となるとその社長兼編集局長となる。
澤田 正二郞(さわだ しょうじろう、新字体:沢田 正二郎、1… 澤田 正二郞(さわだ しょうじろう、新字体:沢田 正二郎、1892年〈明治25年〉5月27日 - 1929年〈昭和4年〉3月4日)は、大正から昭和初期に活躍した大衆演劇の人気役者。劇団新国劇を創設して座長を務め、澤正(さわしょう)と呼ばれて広く親しまれた。 澤田正弘・寿々子の第3子として、滋賀県大津市の三井寺の近くに生まれる。父は土佐藩士で維新後は収税吏を務めていたが、2歳のときに没してしまった。その後一家は上京し、1898年(明治31年)、車坂(現:東京都台東区上野七丁目)にあった下谷小学校(1990年に台東区立上野小学校へ統合)へ入学した。 1903年(明治36年)、開成中学校へ進み、翌年の陸軍中央幼年学校の受験は、近視により失敗した。
鷲尾 雨工(わしお うこう、本名:鷲尾 浩、1892年4月2… 鷲尾 雨工(わしお うこう、本名:鷲尾 浩、1892年4月27日 - 1951年2月9日)は日本の小説家。 新潟県西蒲原郡黒鳥村(現・新潟市西区黒鳥)生まれ。新潟県立小千谷中学校、早稲田大学英文科卒業。 作家を志し、学生時代にはダヌンツィオの『フランチェスカ・ダ・リミニ』を翻訳出版。卒業後、直木三十五と冬夏社を立ち上げ経営するも関東大震災により半年で倒産。 『吉野朝太平記』で第二回直木賞受賞。代表作に『明智光秀』『甲越軍記』などの歴史小説がある。 ペンネームは夫人が『南総里見八犬伝』から得たもの。
2代 浜口 吉兵衛(はまぐち きちべえ、1892年4月22日… 2代 浜口 吉兵衛(はまぐち きちべえ、1892年4月22日 - 1975年6月26日)は、日本の経営者。第一生命保険社長を務めた。和歌山県出身。幼名・麟蔵。 1914年に早稲田大学商学科を卒業し、1944年6月に第一生命保険に入社し、監査役に就任。1950年7月に取締役、1954年5月に副社長を経て、1959年5月には社長に就任。1964年5月に取締役に就任し、1969年5月に顧問に退いた。その他、銚子醤油(現ヒゲタ醤油)社長を務めた。 1975年6月26日腸間膜血栓症のために死去。83歳没。
原 善一郎(はら ぜんいちろう、1892年4月21日 - 1… 原 善一郎(はら ぜんいちろう、1892年4月21日 - 1937年8月6日)は大正、昭和の実業家。 横浜の大生糸商の原富太郎(原三渓)の長男として生まれた。東京府立第三中学校を経て早稲田大学卒業。1921年アメリカ留学。 祖父の原善三郎の養子となり、原合名会社の副社長となる。横浜興信銀行、帝国蚕糸の重役を務める。 芥川龍之介とは東京府立第三中学校(現在の東京都立両国高等学校)における同級生で友人であった。他にも美術、文学の後援者として知られ、岸田劉生、阿部次郎、矢代幸雄、和辻哲郎、安倍能成との親交が知られる。
妹尾 韶夫(せのお あきお、1892年3月4日 ‐ 1962… 妹尾 韶夫(せのお あきお、1892年3月4日 ‐ 1962年4月19日)は、日本の翻訳家・探偵小説作家。創作では妹尾アキ夫名義での活動が多い。 岡山県津山市生まれ。早稲田大学英文科卒業後、1922年(大正11年)頃から雑誌『新青年』等で英米中心の探偵小説の翻訳を手がける。ステイシー・オーモニア(英語版)、L.J.ビーストン、R.A.フリーマン、ハリス・バーランド、ブリットン・オースティン、アガサ・クリスティーの短編が特に多かった。1925年(大正14年)以降はアキ夫名義で創作も手がけ、30作から40作ほどの短編を発表している。 また、『新青年』で月評を担当していた胡鉄梅、『宝石』で月評を担当していた小原俊一は、共に妹尾の変名だといわれている。
佐伯 達夫(さえき たつお、1892年2月27日 - 198… 佐伯 達夫(さえき たつお、1892年2月27日 - 1980年3月22日)は、大阪府出身の野球選手。元・大鋼運輸社長。1967年から1980年まで日本高等学校野球連盟の会長を務めた。
宮島 新三郎(みやじま しんざぶろう、1892年1月28日 … 宮島 新三郎(みやじま しんざぶろう、1892年1月28日 - 1934年2月27日)は、日本の文芸評論家、英文学者。 埼玉県出身。早稲田大学英文科卒。大学の同じクラスには植村宗一(直木三十五)、青野季吉、田中純、西条八十、細田民樹、細田源吉、木村毅らがいた。島村抱月に師事し、各国文学の翻訳を行うほか現代日本文学の評論も行い、1927年早大教授。 1934年2月27日、死去。42歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。
細田 民樹(ほそだ たみき、1892年1月27日 - 197… 細田 民樹(ほそだ たみき、1892年1月27日 - 1972年10月5日)は、日本の小説家。 東京府生まれ。早稲田大学英文科卒。大学の同じクラスには宮島新三郎、植村宗一(直木三十五)、青野季吉、田中純、西条八十、細田源吉、木村毅など、後に文壇などで活躍する錚々たるメンバーが居た。1924年に軍隊生活を素材にした『或兵卒の記録』で反響を呼び、プロレタリア文学の作家として活躍した。弾圧以後は通俗小説に転ずるが、戦後は民主主義作家として活動した。 1972年10月5日、死去。80歳没。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。