大内 暢三(おおうち ちょうぞう、1874年(明治7年)3月… 大内 暢三(おおうち ちょうぞう、1874年(明治7年)3月15日 - 1944年(昭和19年)12月31日)は、衆議院議員(憲政本党→立憲国民党→革新倶楽部→立憲政友会)、東亜同文書院院長・同大学学長。 福岡県八女郡白木村(現在の八女市)に、大内精一郎の長男として生まれる。1890年(明治23年)に東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学して政治学を専攻し、1894年(明治27年)からはアメリカ合衆国のコロンビア大学に入学して、政治学と憲法学を学んで法学修士の称号を得た。帰国後、早稲田大学の講師を務めたが、貴族院議員・公爵近衛篤麿の知遇を得、1899年(明治32年)に近衛の欧米歴訪に随行した。また近衛が東亜同文会を創設するのに協力した。
清 崟太郎(せい きんたろう、1874年〈明治7年〉3月3日… 清 崟太郎(せい きんたろう、1874年〈明治7年〉3月3日 - 1921年〈大正10年〉5月29日)は、衆議院議員(立憲政友会)。 静岡県富士郡柚野村(現在の富士宮市)で酒造業を営む清家の四男として生まれた。1903年(明治36年)に東京専門学校(現在の早稲田大学)を卒業後、中央新聞の記者となった。その後、東京市長尾崎行雄の知遇を得、市長秘書役に抜擢された。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は5回を数えた。その他、東京市会議員も務めた。
繁野 天来(しげの てんらい、1874年〈明治7年〉2月16… 繁野 天来(しげの てんらい、1874年〈明治7年〉2月16日 - 1933年〈昭和8年〉3月2日)は、日本の詩人、英文学者。早稲田大学で4人目となる博士号授与者。本名は繁野 政瑠(しげの まさる)、他の筆名に繁野 狂美がある。 1874年2月16日、現在の徳島市下助任町に、徳島藩士の繁野傑()・イサ夫妻の長男として生まれる。 徳島市立助任尋常小学校、川島尋常小学校、公立寺島小学校、徳島市立徳島高等小学校を経て、1889年に徳島県立徳島尋常中学校に入学。祖母の死を機に大阪に移り、1891年に大阪市立尋常中学校に転学。在学中に熊本謙二郎から英語を教わる。1893年9月に第三高等学校に入学するも、後に病気退学。
朝河 貫一(あさかわ かんいち、1873年(明治6年)12月… 朝河 貫一(あさかわ かんいち、1873年(明治6年)12月20日 - 1948年(昭和23年)8月10日)は、日本の歴史学者。日本人初のイェール大学教授。 福島県二本松市出身。父は旧二本松藩士朝河正澄、母は旧田野口藩士の長女杉浦ウタ(ウタは貫一が2歳の時に亡くなったため、その後は父正澄と継母エヒに育てられる)。 1874年(明治7年)、父正澄が「伊達郡立子山村小学校」(現福島市立立子山小学校)の校長格として赴任するため、現在の福島県福島市立子山にある天正寺に移住した後、新校舎とともに建設された校長住宅へ移る。天正寺には朝河が4歳の時に描いた馬の絵が現存する。 1878年(明治11年)、立子山小学校初等科に入学後、初等科首席卒業し、飛び級により同校普通科・高等科(3級まで)を修了する。
森 肇(もり はじめ、1873年(明治6年)10月11日 -… 森 肇(もり はじめ、1873年(明治6年)10月11日 - 1959年(昭和34年)10月28日)は、日本の衆議院議員(政友本党→立憲民政党→立憲政友会→昭和会)、農林参与官。ジャーナリスト。 長崎県北松浦郡御厨村(現在の松浦市)出身。小学校教員を経て、1901年(明治34年)に東京専門学校政治経済科を卒業。長崎新報記者、長崎日日新聞記者、同編集長、長崎新聞主筆、同専務取締役を歴任した。また長崎県会議員、同参事会員に選ばれた。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第21回衆議院議員総選挙に至るまで6回当選を果たし、その間岡田内閣で農林参与官を務めた。1935年(昭和10年)には昭和会の結党に参加している。
津田 左右吉(つだ そうきち、1873年〈明治6年〉10月3… 津田 左右吉(つだ そうきち、1873年〈明治6年〉10月3日 - 1961年〈昭和36年〉12月4日)は、日本の歴史学者・思想史家。早稲田大学文学部教授。記紀を史料批判の観点から古代史研究したことで知られ、日本における実証史学の第一人者。1947年帝国学士院会員選出。1949年(昭和24年)に文化勲章受章。従三位勲一等。 1913年(大正2年)の『神代史の新しい研究』、1919年(大正8年)の『古事記及び日本書紀の新研究』を刊行(のちに、それぞれ1924年(大正13年)に『神代史の研究』、『古事記及び日本書紀の研究』として補訂再刊)が代表的な初期の研究成果である。それらの研究では、記紀神話の記述について神話と歴史とを峻別し、古典に対する徹底した史料批判を通して歴史的事実を考察した。
赤司 繁太郎(あかし しげたろう/はんたろう、1873年9月… 赤司 繁太郎(あかし しげたろう/はんたろう、1873年9月17日-1965年1月9日)は、日本のキリスト教伝道者。 福岡県久留米出身。号は嚼花。1887年上京、東京英語学校入学。1889年東京専門学校に入り、ドイツ普及福音教会のスピンナー・シュミーデルに接し、宗教家を志す。1890年普及福音教会の神学校入学、翌年ユニバーサリストの神学校に入り1894年卒業。1906年成美英語女学校の校長となった。1908年木下尚江と雑誌「新天地」を発行。1909年ユニバーサリスト教会を離脱、自由キリスト教会として東京・東郷坂に普及福音教会を設立した。
紫安 新九郎(むらやす しんくろう、1873年(明治6年)8… 紫安 新九郎(むらやす しんくろう、1873年(明治6年)8月17日 – 1952年(昭和27年)7月8日)は、衆議院議員(立憲国民党→公友倶楽部→憲政会→立憲民政党→翼賛議員同盟→翼賛政治会→無所属→日本自由党)、ジャーナリスト。号は蘇山。 兵庫県城崎郡田鶴野村(現在の豊岡市)出身。1897年(明治30年)、東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学し、在学中に雑誌『二十世紀』を発刊した。1900年(明治33年)に卒業した後は博文館の編集局に入った。1901年(明治34年)から鎮西日報の主筆となり、1903年(明治36年)からは萬朝報で筆を執った。1907年(明治40年)、大阪市役所に入って商工課長となり、後に南区長に転じた。
綱島 梁川(つなしま りょうせん、1873年(明治6年)5月… 綱島 梁川(つなしま りょうせん、1873年(明治6年)5月27日 - 1907年(明治40年)9月14日)は、日本の宗教思想家、評論家。 岡山県上房郡有漢村(現高梁市)生まれ。本名・栄一郎。明治23年に岡山の高梁教会で古木虎三牧師より洗礼を受ける。 明治25年(1892年)に東京専門学校(後の早稲田大学)に入学する。坪内逍遥、大西祝の教えを受ける。逍遥の『早稲田文学』の編輯に加わり、文藝・美術評論を書く。 横井時雄の本郷教会や植村正久の一番町教会に出席する。この頃正統的な神学に懐疑的になり、倫理に傾倒するようになった。 肺結核で神田の吉田病院に入院しているときに、副院長の橋本善次郎、神戸教会牧師の海老名弾正と出会って信仰を回復する。
伊東 知也(いとう ともや、1873年(明治6年)4月10日… 伊東 知也(いとう ともや、1873年(明治6年)4月10日 - 1921年(大正10年)11月26日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(3期)。号は明、士徳、懐亭、鳳南、別名に正基。 酒田本町(現酒田市)の医師伊東清基の長男として生まれる。上京し、東京専門学校で政治学を修め、1896年(明治29年)卒業し台湾総督府旧慣調査会嘱託となる。はじめ佐田白茅、須田古龍について漢学を学んだが、のち札幌の露清学校に転じ中国語、ロシア語を習得し、1898年(明治31年)から東部シベリア、満州、福建、広東などを巡遊し対外問題の処理に尽瘁した。中国、朝鮮には十数回に渡り赴き、1911年(明治44年)の辛亥革命の折には孫文らと交わり「支那浪人」と称された。
関戸 寅松(せきと とらまつ、1873年(明治6年)1月17… 関戸 寅松(せきと とらまつ、1873年(明治6年)1月17日 - 1945年(昭和20年)1月14日)は、日本の衆議院議員(立憲同志会→憲政会)。弁護士。 石川県能美郡金野村(現在の小松市)出身。1895年(明治28年)、東京専門学校行政科(現在の早稲田大学)を卒業。1897年(明治30年)、弁護士試験に合格。東京で弁護士を開業するが、後に静岡県に移り、1912年(大正元年)には小笠郡会議員に選ばれた。1914年(大正3年)、金沢市に事務所を開き、石川県会議員に選出された。 1915年(大正4年)、第12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 1927年(昭和2年)より再び石川県会議員を務めた。
泉川 白水(いずみかわ はくすい、1872年(明治5年)10… 泉川 白水(いずみかわ はくすい、1872年(明治5年)10月18日 - 1965年(昭和40年)2月4日)は秋田県出身の俳人で南画家。短歌や書道にも優れた。本名は良之助。 秋田県平鹿郡横手町(現:横手市)四日町下丁に生まれる。幼時に尾崎行雄邸に預けられた。早稲田大学政治科を中退。郡会議員、郡参事員、町会議員を歴任した。1925年(大正14年)に武者小路実篤らと日本画の「煙雲倶楽部」を結成した。翌1926年には新南画を提唱、東京髙島屋で個展をひらく。総理大臣賞受賞。県の国宝重要美術調査委員でもあった。一方で吉川五明の系統をひく俳人でもあり、湯沢市鷹の湯に、高さ10mの巨大な句碑が建っている。横手市文化功労賞、県の文化功労賞を受けた。
江藤 哲蔵(えとう てつぞう、明治5年8月3日(1872年9… 江藤 哲蔵(えとう てつぞう、明治5年8月3日(1872年9月5日) - 大正8年(1919年)6月24日)は、衆議院議員(立憲政友会)。 熊本県合志郡、のちの菊池郡陣内村(現在の大津町)に江藤禎治の長男として生まれる。14歳で家督を相続する。神田共立学校で英学を学んだ後、1899年(明治32年)に東京専門学校(現在の早稲田大学)を卒業した。 1904年(明治37年)、第9回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。 1908年(明治41年)から翌年にかけて欧米諸国を視察。 1912年、第11回衆議院議員総選挙で再選。第12回・第13回と連続当選を果たした。その間、第1次山本内閣では逓信省勅任参事官に任命された。
川上 常郎(かわかみ つねろう、1872年8月13日〈明治5… 川上 常郎(かわかみ つねろう、1872年8月13日〈明治5年7月10日〉 - 1954年〈昭和29年〉11月16日[要出典])は、明治時代後期から昭和時代初期の朝鮮総督府官僚。大蔵官僚。実業家。平安北道長官。東洋拓殖理事。正四位。勲三等瑞宝章。 川上與吉の三男、川上楽次の弟として、愛媛県宇摩郡、のちの二名村大字余木(川之江町、川之江市を経て現四国中央市)に生まれる。小学校高等科四級を卒業し、宇摩郡役所雇となり、1890年(明治23年)上京する。1897年(明治30年)東京専門学校邦語政治科を卒業し、大蔵省に奉職。高等文官試験に合格し税務官となり税務監督局長に累進した。のち朝鮮総督府に出仕し土地整理局長を経て、平安北道長官に就任した。
瀬黒 幸市(せぐろ こういち、1872年7月31日〈明治5年… 瀬黒 幸市(せぐろ こういち、1872年7月31日〈明治5年6月26日〉 - 1944年〈昭和19年〉1月24日)は、明治末期から昭和戦前期にかけて活動した日本の実業家である。長野県東筑摩郡寿村(現・松本市)出身で、家業は養蚕業。松本電灯の監査役に就任したのを機に電気事業に関係し、中央電気専務取締役や同社から派生した日本ステンレスの初代専務取締役を務めた。 瀬黒幸市は、明治5年6月26日(新暦:1872年7月31日)、長野県東筑摩郡寿村(現・松本市)在住の瀬黒庄平の長男として生まれた。1886年(明治19年)に県立松本中学校へ入るが1890年(明治23年)9月中途退学して上京、東京専門学校(早稲田大学の前身)で政治法律学を修めた。
浜口 檐(はまぐち たん、1872年7月7日(明治5年6月2… 浜口 檐(はまぐち たん、1872年7月7日(明治5年6月2日)– 1939年(昭和14年)10月2日)は、明治後期から昭和前期の実業家・政治家。衆議院議員。 和歌山県有田郡広村(広町を経て現広川町)で、実業家・7代濱口儀兵衛(濱口梧陵)の末子として生まれた。1891年(明治24年)慶應義塾普通部を、1894年(明治27年)東京専門学校(現早稲田大学)英語政治科を卒業。円覚寺に2年参禅して イギリスに留学し、1902年(明治35年)ケンブリッジ大学を卒業した。 1904年(明治37年)3月、第9回衆議院議員総選挙に和歌山県郡部から無所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。この間、議員歳費を辞退して話題となる。
紀 淑雄(きの としお、1872年5月28日(明治5年4月2… 紀 淑雄(きの としお、1872年5月28日(明治5年4月22日) - 1936年(昭和11年)4月15日)は、日本の美術学者、美術評論家、早稲田大学講師・教授、本願寺文学寮講師、女子美術学校講師、日本美術学校校長。号は星峰(星峯)。 1872年5月28日(明治5年4月22日)、元津軽藩お抱えの能楽師(喜多流)である紀淑真の子として、東京市本所区(現・東京都墨田区)に生まれる。 東京専門学校普通科(1888年9月入学、1890年7年卒業)、東京専門学校文学科(1890年9月入学、1893年7月卒業)を経て、1893年(明治26年)9月から本願寺文学寮講師となり、国文学・英文学を担当する。1896年(明治29年)4月から早稲田尋常中学校教員、同年9月から東京専門学校講師となる。
藤戸 達吾(ふじと たつご、1872年5月10日(明治5年4… 藤戸 達吾(ふじと たつご、1872年5月10日(明治5年4月4日) – 1920年(大正9年)7月27日)は、日本の新聞人。地方政治家。 1872年(明治5年)[西暦年要検証]4月4日高知県安芸郡土居村(現在の安芸市土居)に堀内弁次の子に生まれた。1895年(明治28年)東京専門学校(現在の早稲田大学)英文科卒業。黒岩涙香の万朝報社に入社。 安芸の瓦製造業藤戸家の養子となり帰郷。土陽新聞に入社。以後松月の号で南海文壇に重きをなした。1905年(明治38年)高知新聞創設に参加し、文筆を持って活動する。岡本社長亡き後は野中楠吉、杉駸三郎とともに新聞社の元老格となる。 1919年(大正8年)県会議員に当選した。
北山 一郎(きたやま いちろう、1872年4月10日(明治5… 北山 一郎(きたやま いちろう、1872年4月10日(明治5年3月3日) - 1949年(昭和24年)2月12日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員、青森市長。 青森県津軽郡浅瀬石村(現黒石市)で北山長作の長男として生まれる。南津軽郡中学校を経て、1897年、東京専門学校政治科(現早稲田大学政治経済学部)を卒業。卒業後に帰郷し郡青年団を組織した。実業界では、リンゴ輸出商社・(株) 青浦商会社長、日出セメント (株) 取締役、(株) 青森映画劇場社長、青森商工会議所特別議員を務めた。 政界では、1900年に青森県会議員に選出され、県会議長を二度務めた。1920年5月、第14回衆議院議員総選挙で青森県第一区から立憲政友会所属で出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。
中島 半次郎(なかじま はんじろう、1872年2月1日(明治… 中島 半次郎(なかじま はんじろう、1872年2月1日(明治4年12月23日)- 1926年(大正15年)12月21日)は、日本の教育者。 熊本県出身。東京専門学校(現在の早稲田大学)文学科を卒業し、東京高等師範学校(後の東京教育大学、筑波大学の前身)研究科を修了した。『教育学術界』『教育時論』などの記者となったが、1900年(明治33年)に東京専門学校教授となり、東京高等商業学校(後の東京商科大学)講師も兼ねた。 明治末にヨーロッパに留学し教育学を学んだ。帰国後、早稲田大学高等師範部長、早稲田大学高等学院長を歴任した。 教育学説として人格的教育論を唱えた。
大森 慶次郎(おおもり けいじろう、1871年11月23日(… 大森 慶次郎(おおもり けいじろう、1871年11月23日(明治4年10月11日) - 1962年(昭和37年)5月11日)は、大正から昭和時代の政治家、銀行家。貴族院多額納税者議員。弟 大森国平の親戚は貴族院議員 小林八右衛門。 大森嘉四郎の長男として山梨県東八代郡南八代村(八代村、八代町を経て現笛吹市八代町南)に生まれ、1896年(明治29年)家督を相続する。早稲田大学文学科を卒業し、南八代村会議員、東八代郡会議員を歴任。1896年(明治29年)甲府市柳町に大森銀行を創立し、のち頭取となる。 1918年(大正7年)山梨県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から翌年の7月8日まで在任した。
佐藤 理吉(さとう りきち、1871年10月19日(明治4年… 佐藤 理吉(さとう りきち、1871年10月19日(明治4年9月6日) - 1959年(昭和34年)11月9日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 山形県最上郡西小国村(現・最上町)出身。1894年、東京専門学校政治科卒。醸造業を営み、最上郡会議員、山形県議、同参事会員、最上郡農会議員、同会長、山形県農会副会長となる。ほか最上酒造(株)取締役社長、最上銀行取締役を務める。 1932年の第18回衆議院議員総選挙において山形2区(当時)から立憲民政党公認で立候補したが、無投票で当選。1936年の第19回衆議院議員総選挙では国民同盟から立候補したが落選した。1959年死去。
信夫 淳平(しのぶ じゅんぺい、明治4年9月1日(1871年… 信夫 淳平(しのぶ じゅんぺい、明治4年9月1日(1871年10月14日) - 昭和37年(1962年)11月1日)は、日本の外交官・法学者。専門は国際法。学位は、法学博士(東京帝国大学・論文博士・1925年)。早稲田大学教授、学士院会員、中華民国顧問等を歴任。1943年学士院恩賜賞受賞、従三位勲一等瑞宝章。 1871年、鳥取県生まれ。父・恕軒には男の子が3人あり、それぞれ寛一郎、淳平、敬造といった。5歳か6歳のときに生母・いとが恕軒と離別した。そのためどういう母親だったかの記憶はない。 旧制鳥取県中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)、開成中学校を経て、1894年東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業。
佐伯 好郎(さえき よしろう、明治4年8月1日(1871年9… 佐伯 好郎(さえき よしろう、明治4年8月1日(1871年9月15日)広島県 - 1965年6月26日)は、日本の言語学者・英語学者・西洋古典学者・ローマ法学者・東洋学者・東洋宗教史家。キリスト者でもある。英語名は「ピーター・(ヨシロウ・)サエキ」。 言語学・法学・歴史学など複数分野にまたがる西洋古典学の研究・教育で大きな業績を残したが、特にネストリウス派キリスト教(景教)の東伝史に関する研究で国際的に有名になり「景教博士」と称された。また日本人とユダヤ人が同祖であるとする日ユ同祖論の最初期の論者としても知られ、独自の歴史観を唱えた。戦後は故郷・廿日市の町長を務めるなど、戦災や原爆で荒廃した広島県の再建に尽くした。
国木田 独歩(くにきだ どっぽ、1871年8月30日(明治4… 国木田 独歩(くにきだ どっぽ、1871年8月30日(明治4年7月15日) - 1908年(明治41年)6月23日)は、日本の小説家、詩人、ジャーナリスト、編集者。千葉県銚子生まれ、広島県広島市、山口県育ち。 幼名を亀吉、後に哲夫と改名した。筆名は独歩の他、孤島生、鏡面生、鉄斧生、九天生、田舎漢、独歩吟客、独歩生などがある。田山花袋、柳田國男らと知り合い「独歩吟客」を発表。詩や小説を書き、次第に小説に専心した。「武蔵野」「牛肉と馬鈴薯(じゃがいも)」といった浪漫的な作品の後、「春の鳥」「竹の木戸」などで自然主義文学の先駆とされる。また現在も続いている雑誌『婦人画報』の創刊者であり、編集者としての手腕も評価されている。
岩佐 善太郎(いわさ ぜんたろう、1871年8月7日〈明治4… 岩佐 善太郎(いわさ ぜんたろう、1871年8月7日〈明治4年6月21日〉 - 1932年〈昭和7年〉6月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 肥後国飽田郡熊本(現熊本県熊本市)で熊本藩士・岩佐善門の長男として生まれた。1894年(明治27年)東京専門学校英語政治科卒。日本新聞、憲政本党党報、二六新報、万朝報の各記者となる。 1917年(大正6年)第13回衆議院議員総選挙において熊本県郡部から憲政会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1920年(大正9年)第14回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1932年死去。
堀 榮助(ほり えいすけ、1871年7月13日(明治4年5月… 堀 榮助(ほり えいすけ、1871年7月13日(明治4年5月26日) - 1940年(昭和15年)7月19日)は、日本の地主、神奈川県多額納税者、資産家。族籍は神奈川県平民。前名・三郎。 神奈川県横浜市出身。先代榮助の長男。1892年、東京専門学校(現早稲田大学)邦語政治科卒業。同期卒業生46人中第4位であった。1902年、父が病没したため家督を相続し、三郎を改め襲名した。 貸地業を営んだ。北海道、朝鮮に土地を有し、多額納税者であった。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。 宗教は日蓮宗。趣味は読書、俳句。住所は神奈川県横浜市中区英町、同市神奈川区浅間町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
2代 大浜 忠三郎(大濱、おおはま ちゅうざぶろう、1871… 2代 大浜 忠三郎(大濱、おおはま ちゅうざぶろう、1871年5月19日(明治4年4月1日)- 1925年(大正14年)11月24日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、横浜市会議長。幼名・茂七郎。 武蔵国久良岐郡、現在の横浜市で、洋糸織物商・初代大浜忠三郎の長男として生まれる。横浜商業学校(現横浜市立横浜商業高等学校)を経て、1888年(明治21年)東京専門学校(現早稲田大学)英語本科を卒業し、欧米諸国を遊歴した。 家業を継承して洋織物商「信濃屋」を経営し、1904年(明治37年)10月、家督を相続し忠三郎を襲名した。横浜取引所理事長、横浜商業会議所議員、横浜生命保険社長、横浜倉庫取締役、神奈川県農工銀行取締役などを務めた。
松井 郡治(まつい ぐんじ、明治4年1月20日(1871年3… 松井 郡治(まつい ぐんじ、明治4年1月20日(1871年3月10日) - 昭和18年(1943年)10月21日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、弁護士。 新潟県中頸城郡津有村(現在の上越市)出身。東京専門学校(現在の早稲田大学)法律科卒業後、司法官試補、検事代理を経て、新潟・旭川・長岡の各区裁判所、新潟地方裁判所判事を歴任した。1902年(明治35年)に判事を退職し、弁護士を開業。新潟市弁護士会会長、新潟新聞監査役も務めた。 新潟市会議員・新潟県会議員を経て、1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙に新潟1区(小選挙区)から憲政会で出馬し、当選。以後、4回の当選回数を重ねた。
島村 抱月(しまむら ほうげつ、1871年2月28日〈明治4… 島村 抱月(しまむら ほうげつ、1871年2月28日〈明治4年1月10日〉- 1918年〈大正7年〉11月5日)は、日本の文芸評論家、演出家、劇作家、小説家、詩人。新劇運動の先駆けの一人として知られる。旧姓は佐々山、本名は瀧太郎。 島根県那賀郡小国村(現・浜田市)に佐々山一平の長男として生まれる。実家は貧しく、小学校卒業後、苦学して浜田町裁判所書記となる。同裁判所検事・島村文耕から学資の援助を受け、上京。1891年(明治24年)に文耕の養子となる(後に文耕の姪と結婚)。 増田藤之助が塾主を務める日本英学院を経て、東京専門学校(現・早稲田大学)文学科で坪内逍遙、大西祝から文学、美学を学び、1894年(明治27年)に卒業。
塩澤 昌貞(しおざわ まささだ、1870年11月14日(明治… 塩澤 昌貞(しおざわ まささだ、1870年11月14日(明治3年10月20日) - 1945年(昭和20年)7月7日)は、茨城県水戸出身の経済学者、法学博士、早稲田大学第4代学長、第2代総長。 早稲田大学時代にボート競技に取り組んだことが縁で、晩年、日本漕艇協会会長に就任した。1940年(昭和15年)戸田漕艇場オープン時のデモンストレーションでは、会長として70歳台艇に乗り込み舵手を務めた。
相馬 愛蔵(そうま・あいぞう、明治3年10月15日(1870… 相馬 愛蔵(そうま・あいぞう、明治3年10月15日(1870年11月8日) - 昭和29年(1954年)2月14日)は、長野県出身の社会事業家、実業家。妻の相馬黒光とともに東京新宿中村屋を創業した。
円城寺 清(えんじょうじ きよし、1870年(明治3年)11… 円城寺 清(えんじょうじ きよし、1870年(明治3年)11月 - 1908年(明治41年)10月21日)は、日本のジャーナリスト。号は天山。 1870年11月、佐賀県小城郡晴田村(現小城市)に生まれる。1889年12月11日、東京専門学校邦語政治科に入学する。 1892年7月15日に卒業した後に、郵便報知新聞に入社する。1893年9月1日号の第109回から1894年10月13日号の第296回までの「大隈伯昔日譚」の筆録者に抜擢される。1894年、郵便報知新聞を辞める。 1898年5月、憲政党の組織に伴い、『憲政党党報』の編集を主宰する。憲政党の分裂後、『憲政本党党報』の主任記者及び発行兼編輯人となる。
花岡 次郎(はなおか じろう、1870年10月10日〈明治3… 花岡 次郎(はなおか じろう、1870年10月10日〈明治3年9月16日〉 - 1923年〈大正12年〉9月23日)は、明治から大正時代にかけての日本の実業家・政治家。実業界では小坂善之助の女婿として小坂家の事業に関係し、長野電灯・信濃毎日新聞社長などに就任。政界では長野県会議員や衆議院議員(当選1回)を歴任。 花岡次郎は、明治3年9月16日(新暦:1870年10月10日)、花岡吉左衛門の長男として、信濃国水内郡東条村(後の長野県上水内郡若槻村、現・長野市)に生まれた。花岡家は村の地主で、次郎が12代目にあたる。 1890年(明治23年)に東京専門学校を卒業し、1898年(明治31年)5月に家を継いだ。
渡辺 黙禅(わたなべ もくぜん、1870年7月10日(明治3… 渡辺 黙禅(わたなべ もくぜん、1870年7月10日(明治3年6月12日) - 1945年(昭和20年)11月18日)とは明治時代から昭和時代にかけての小説家。 羽前国(現・山形県)生まれ。本名は渡辺末蔵。東京専門学校を卒業の後、1890年に山形県に戻り『奥羽日報』を創刊したが、1894年に『やまと新聞』に入社している。その後は方々の新聞社において記者生活をした後、小説を執筆し始めた。その作風は従来の草双紙、講談本に似た古い形式のものであった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
若名 英治(わかな えいじ、1870年4月4日(明治3年3月… 若名 英治(わかな えいじ、1870年4月4日(明治3年3月4日) - 1907年(明治40年)3月18日)は、日本の園芸家、アサガオ研究家。 上総国武射郡椎崎村(現在の千葉県山武市)の農家出身。東京専門学校(現・早稲田大学)卒業。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
野村 勘左衛門(のむら かんざえもん、1870年3月13日(… 野村 勘左衛門(のむら かんざえもん、1870年3月13日(明治3年2月12日) - 1951年(昭和31年)8月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 福井県出身。1890年、東京専門学校政治科卒。日清、日露の両戦争に従軍し、陸軍歩兵大尉となる。農業を営み、坂井郡会議員、福井県会議員、所得税調査委員、地方森林会議員、坂井郡教育会長、福井県教育会副会長、同県救済改良協会副会長となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において福井3区から立憲政友会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1924年の第15回衆議院議員総選挙では政友本党公認で立候補して落選した。1951年に死去した。
野村 洋三(のむら ようぞう、1870年2月20日〈明治3年… 野村 洋三(のむら ようぞう、1870年2月20日〈明治3年1月20日 〉 - 1965年〈昭和40年〉3月24日 )は、日本の実業家。元横浜商工会議所会頭。幼名は梅太郎。妻は社会活動家の野村ミチ。 1870年(明治3年)に岐阜県揖斐郡公郷村(現在の大野町)で、父平作、母きくの長男として生まれた。野村家は関ヶ原の合戦の落武者だったといわれ、農家だったが名字帯刀を許されていた。 1881年(明治14年)に岐阜中学校へ入学。外国への興味が高まり、中学をやめて外国へ留学するため東京で勉強したいと両親に願い出たが父親はそれを認めず、1884年(明治17年)に14歳で大阪へ出奔した。様々な職に就いて機会を窺っていたが、外国人と接する機会が多い古美術商に目をつけて京都に移り、池田清助が経営する池田商店に入った。
金子 筑水(かねこ ちくすい、明治3年1月10日〈1870年… 金子 筑水(かねこ ちくすい、明治3年1月10日〈1870年2月10日〉 - 1937年〈昭和12年〉6月1日)は、日本の哲学者・思想・文芸評論家。 本名は金子 馬治(うまじ)。 1870年、長野県小県郡赤坂村(現上田市)生まれ。旧制上田中学(現・長野県上田高等学校)を経て、1893年東京専門学校(現早稲田大学)卒業後、]母校講師となる。 『早稲田文学』1898年2月に評論「所謂社会小説」を発表した。1903年ドイツに留学し、ライプツィヒ大学、ベルリン大学、ハイデルベルク大学で学んだ。帰国後の1907年より早稲田大学教授となり、哲学、心理学、美学を講義した。同大学文学部長、早稲田大学坪内博士記念演劇博物館長、常務理事を務めた。
松岡 勝太郎(まつおか かつたろう、1869年12月22日(… 松岡 勝太郎(まつおか かつたろう、1869年12月22日(明治2年11月20日) - 1932年(昭和7年)9月10日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 岐阜県、後の揖斐郡八幡村(現池田町)出身。1887年、同人社、1890年、東京専門学校行政科卒。農業を営む。岐阜県会議員、同議長、所得税調査委員、宅地価修正委員となり、会社重役を務めた。 1917年(大正6年)の第13回衆議院議員総選挙において岐阜県の郡部選挙区から憲政会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1920年の第14回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1932年に死去した。
山田 三良(やまだ さぶろう、1869年12月20日(明治2… 山田 三良(やまだ さぶろう、1869年12月20日(明治2年11月18日) - 1965年(昭和40年)12月17日)は、日本の法学者。専門は国際私法。学位は法学博士。法華会創立者。 1869年、奈良県高市郡越智村(現・高取町)に村長山田平三郎の三男として生まれる。東京専門学校(現早稲田大学)を経て、1896年帝国大学法科大学(現東京大学大学院法学政治学研究科・法学部)卒業。同大学院修了。その後東京帝国大学法科大学助教授に就き、文部省外国留学生としてドイツのハイデルベルク大学、フランスのソルボンヌ大学に3年間留学し国際法を学ぶ。1901年7月19日帰国。 帰国後、東京帝国大学法科大学教授、京城帝国大学総長、東京帝国大学法学部長などをつとめた。
城 重雄(じょう しげお、1869年12月3日(明治2年11… 城 重雄(じょう しげお、1869年12月3日(明治2年11月1日) - 1908年(明治41年)6月19日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 日向国児湯郡、のちの宮崎県児湯郡高鍋町で生まれた。同志社で学び、1893年(明治26年)東京専門学校(現・早稲田大学)英語政治科卒。宮崎県高鍋学校(現・宮崎県立高鍋高等学校)校長、宮崎県会議員、同参事会員となる。 1902年の第7回衆議院議員総選挙において宮崎県から立候補したが10票差で落選した。1903年の第8回衆議院議員総選挙では政友倶楽部公認で立候補してトップで初当選した。1904年の第9回衆議院議員総選挙で再選した。衆議院議員を2期務め、1908年の第10回衆議院議員総選挙には不出馬。
増田 義一(ますだ ぎいち、1869年11月24日〈明治2年… 増田 義一(ますだ ぎいち、1869年11月24日〈明治2年10月21日〉 - 1949年〈昭和24年〉4月27日)は、日本の出版人、政治家。 新潟県中頸城郡板倉村戸狩(現上越市板倉区)に、父清四郎、母タケの次男として生まれる。12歳で豊原小学校高等科を卒業後、すぐさま代用教員となり、その後、独学で教員中等免状を取得。17歳で父を亡くし、母を亡くした1889年春、教員を辞し、改進党系の髙田新聞社に入社。翌1990年、東京専門学校(現早稲田大学)邦語政治科に入学、1893年9月に卒業し、同校研究科に進む。1894年、読売新聞社に入社し経済部記者となるかたわら、1889年、改進党系の髙田新聞社に入社。
江原 節(えはら せつ、1869年11月9日〈明治2年10月… 江原 節(えはら せつ、1869年11月9日〈明治2年10月6日〉 - 1921年〈大正10年〉1月19日)は、日本の政治家・衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。族籍は栃木県平民。 下野国河内郡、のちの栃木県河内郡平石村(現宇都宮市)に生まれる。栃木県平民・吉沢直次郎の弟。1889年(明治22年)、江原常蔵の死跡を相続する。はじめ栃木県師範学校に入学したが、東京専門学校(現在の早稲田大学)に移り、法律学を研究し、1890年(明治23年)に邦語法律科を卒業した。 代言人試験に合格した。1893年(明治26年)、弁護士事務所を宇都宮に設け、訴訟事務に従事する。宇都宮市会議員、同参事会員に選出された。 1906年(明治39年)、衆議院議員に補欠当選を果たした。
土肥 春曙(どい しゅんしょ、1869年11月9日(明治2年… 土肥 春曙(どい しゅんしょ、1869年11月9日(明治2年10月6日)- 1915年(大正4年)3月2日)は、日本の新派俳優、劇作家である。春曙は芸名で、本名は庸元。 書家であった土肥直康(樵石) とその妻のカジュの長男として、肥後に生まれる。東京専門学校(現在の早稲田大学)文科一期生として入学後、坪内逍遥に師事した。卒業後は読売新聞に勤務し、ジャーナリストとしての活動を経て、1901年(明治34年)には川上音二郎が座長を務める一座の座員となり、ヨーロッパ巡業に参加し、通訳等を務め俳優への道を志した。 帰国後は、大学時代の師匠である逍遥に再度師事し朗読会である「易風会」を創設に携わり、1906年(明治40年)には逍遥らが創設した文芸協会の設立時の俳優として、多くの作品に出演し主役を務め、端正な容貌や近代的な演技として名を馳せた。
鈴木 幾次郎(すずき いくじろう、1869年6月30日(明治… 鈴木 幾次郎(すずき いくじろう、1869年6月30日(明治2年5月21日)- 1938年(昭和13年)10月11日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。高松市長。旧姓・佐々木。 讃岐国香川郡高松城下西瓦町(現香川県高松市瓦町)で「大和屋」佐々木清三の二男として生まれ、1889年(明治22年)7月、高松古馬場町「伏石屋」鈴木伝五郎の養子となる。東京専門学校を卒業。1904年(明治37年)3月に家督を相続した。 香川銀行頭取、中国銀行重役などを務めた。 1908年(明治41年)5月25日、第3代高松市長に就任。教育施設の充実、水道敷設の推進、市歌の制定などを推進した。観光案内書「高松しるべ」の作成を行い観光の振興にも尽くした。
矢島 栄助(やじま えいすけ、1869年3月30日(明治2年… 矢島 栄助(やじま えいすけ、1869年3月30日(明治2年2月18日) - 1947年(昭和22年)9月16日)は、明治から昭和時代前期の政治家・実業家。貴族院多額納税者議員。幼名は富吉。 先代矢島栄助(1836-1905)の長男としてのちの山梨県甲府市緑町に生まれ、1899年(明治32年)7月に家督を相続する。1905年(明治38年)襲名する。東京共立学校を経て、東京専門学校を卒業する。1905年(明治38年)10月、甲府市会議員に当選したのを皮切りに、同市参事会員、同市会議長を歴任する。1911年(明治44年)山梨県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1915年(大正4年)1月14日まで在任した。
柏原 文太郎(かしわばら ぶんたろう、明治2年1月18日(1… 柏原 文太郎(かしわばら ぶんたろう、明治2年1月18日(1869年2月28日) - 昭和11年(1936年)8月10日)は、日本の教育家、社会事業家。千葉県出身。 日中問題の権威で東亜同文会設立の功労者であるとともに、目白中学の創設からその実質的な校長職務を歴任した。さらに衆議院議員(1912年 - 1920年)として日中関係と私学教育の改善に功績を残した。 1869年1月、柏原七兵衛の子として千葉県成田市寺台の農家に生まれる。1893年、東京専門学校(現在の早稲田大学)英語政治科卒業。 1895年、朝鮮国政府農商務省の招聘により渡韓し駐日朝鮮政府公使館顧問となり帰国。 1896年、東京専門学校の講師となり、支那研究会を組織。
中村 尚武(なかむら なおたけ、1869年1月22日(明治元… 中村 尚武(なかむら なおたけ、1869年1月22日(明治元年12月10日)- 1937年(昭和12年)5月11日)は、明治から昭和前期の酒造家、実業家、政治家。衆議院議員、千葉県山武郡鳴浜村長。 上総国山辺郡白幡村(千葉県山武郡鳴浜村、成東町を経て現山武市白幡)で、酒造業・石田藤蔵の長男として生まれた。1890年(明治23年)東京専門学校(現早稲田大学)法律科を卒業した。 1893年(明治26年)まで岡山地方裁判所書記を務めた。帰郷して酒造業、農業を営む。九十九里鉄道社長なども務めた。 1907年(明治40年)9月、千葉県会議員に選出され1911年(明治44年)9月まで1期在任し、同副議長も務めた。
津田 毅一(つだ きいち、明治元年12月6日(1869年1月… 津田 毅一(つだ きいち、明治元年12月6日(1869年1月18日) - 昭和12年(1937年)10月5日)は、衆議院議員(新政会)、弁護士。 上総国山辺郡片貝村(現在の千葉県山武郡九十九里町)出身。東京専門学校(現在の早稲田大学)法律科を卒業し、1893年(明治26年)に判事検事登用試験に合格した。司法官試補を経て、1896年(明治29年)より、鹿児島区裁判所、姫路区裁判所、神戸区裁判所の判事を歴任した。 1899年(明治32年)、台湾総督府法院検察官に就任。1905年(明治38年)、台湾総督府で検察官制度廃止の議論が起きると、反対の議論を展開した。これが児玉源太郎台湾総督や後藤新平民政長官に認められ、桃園庁長に登用された。