北村 透谷(きたむら とうこく、1868年12月29日〈明治… 北村 透谷(きたむら とうこく、1868年12月29日〈明治元年11月16日〉- 1894年〈明治27年〉5月16日)は、日本の評論家・詩人。本名、北村 門太郎(きたむら もんたろう)。明治期に近代的な文芸評論をおこない、島崎藤村らに大きな影響を与えた。 相模国小田原(現:神奈川県小田原市浜町)に生まれた。幼少時代、両親から離れて厳格な祖父と愛情薄い継祖母に育てられ、のちに神経質な母親の束縛を受けたことが性情の形成に大きな影響を与えたといわれる。 1881年に東京数寄屋橋の近くに移住。東京専門学校(現:早稲田大学政治経済学部)政治科に入学し、東京の三多摩地方を放浪して壮士たちと交わるが、民権運動が過激になり離脱。
桂 湖村(かつら こそん、1868年11月29日(明治元年1… 桂 湖村(かつら こそん、1868年11月29日(明治元年10月16日) - 1938年4月3日)は、日本の中国文学者。現在の新潟県新潟市新津の出身。湖村は故郷近くの福島潟に由来する号で、本名は五十郎。雷庵など、他の号も使用した。 生家は国学や漢学を修めた学者の家系で、自身も幼少から漢籍等に触れて育った。東京専門学校専修英語科(現・早稲田大学)に進学し、1892年に卒業。日本新聞に客員社友として属したのち、中国に渡航して陶芸や書画について学ぶ。帰国後は東洋大学・國學院大學で教壇に立ち、その後母校の早稲田大学教授に就任した。 1905年(明治38年)、『漢籍解題』を明治書院から刊行した。近年刊は『湖村詩存』(村山吉廣編、明徳出版社、2017年)がある。
早速 整爾(はやみ せいじ、1868年11月15日〈明治元年… 早速 整爾(はやみ せいじ、1868年11月15日〈明治元年10月2日〉- 1926年〈大正15年〉9月13日)は、明治・大正期の日本の実業家、政治家。初代大蔵政務次官、農林大臣及び大蔵大臣。 安芸国沼田郡新庄村(現:広島市西区新庄町)出身。出生名は中山米吉。 中山源蔵の二男として生まれ苦学して、旧制広島中学を経て1887年(明治20年)に東京専門学校政治経済英学科(現:早稲田大学)を卒業。前年、秀才で通りながら遊び過ぎて卒業試験に失敗した事から「爾(なんじ)を整(ととの)へよ」と自省し整爾と改名し、中山整爾となった。卒業前に埼玉英和学校校長代理兼教頭を務めた。 1889年(明治22年)、芸備日日新聞社主の早速勝三の養子となり、早速整爾に名を改め、同年、社長兼主筆として新聞を経営、優秀な頭脳と速筆で活躍。
西村 陸奥夫(にしむら むつお、明治元年9月21日(1868… 西村 陸奥夫(にしむら むつお、明治元年9月21日(1868年11月5日) - 明治45年(1912年)1月8日)は、日本の内務官僚、佐賀県知事。 陸奥国津軽郡妙堂崎村(後青森県西津軽郡水元村、現在の北津軽郡鶴田町)出身。西村孫兵衛の長男として生まれる。東奥義塾を卒業し、1887年(明治20年)から1889年(明治22年)まで北津軽郡立高等小学校で雇教員として働いた。1890年(明治23年)、東京専門学校政学部(現早稲田大学政経学部)を卒業。1891年(明治24年)、青森県内務部雇となり、1893年(明治26年)には青森県会に異動となった。翌年、職を辞して上京し、法律学の勉強に励んだ。1895年(明治28年)11月、文官高等試験行政科試験に合格し、翌年に内務省属・県治局勤務となった。
野沢 卯市(野澤、のざわ ういち、1868年10月20日(明… 野沢 卯市(野澤、のざわ ういち、1868年10月20日(明治元年9月5日)- 1961年(昭和36年)7月26日)は、明治から昭和前期の政治家、実業家。衆議院議員。旧姓・石塚。 佐渡国羽茂郡徳和村(新潟県佐渡郡赤泊村大字徳和を経て現佐渡市徳和)で、素封家・石塚孫四郎の二男として生まれ、野沢長吉の養子となった。進学のため上京する際、寺泊から三国峠を徒歩で進む中で佐渡が本土よりも豊かであると気づき、北前船の恩恵であると判断して、航路整備を生涯の課題とすることに決した。1890年(明治23年)7月、東京専門学校(現早稲田大学)政治科を卒業。1895年(明治28年)家督を相続した。 1895年2月、新潟県会議員に選出され6期在任。
原 富太郎(はら とみたろう、慶応4年8月23日(1868年… 原 富太郎(はら とみたろう、慶応4年8月23日(1868年10月8日) - 昭和14年(1939年)8月16日)は、日本の実業家、美術品収集家、茶人。号は三溪。美濃国厚見郡佐波村(現・岐阜県岐阜市柳津町佐波)出身。 青木久衛の長男として生まれる。小学校卒業後、儒学者の野村藤陰や草場船山に学ぶ。その後上京し、東京専門学校(現・早稲田大学)で政治学・経済学を学び、跡見女学校の教師を務める。1892年、横浜の豪商・原善三郎の孫であり、跡見女学校での教え子であった原屋寿(はら やす)と結婚して原家に入り、家業を発展させた。神奈川県久良岐郡六浦荘村を本拠地とし、絹の貿易により富を築いた。 また富岡製糸場を中心とした製糸工場を各地に持ち、製糸家としても知られていた。
瀬川 光行(せがわ みつゆき、1868年9月24日(慶応4年… 瀬川 光行(せがわ みつゆき、1868年9月24日(慶応4年8月9日) - 1933年(昭和8年)10月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 東京都出身。1886年、東京専門学校政治経済科卒。読売新聞記者となる。著述業と出版業に従事し、元元堂書房を経営する。中等教科書協会幹事、陸海軍用達会社社長、磐城炭礦(株)取締役社長、明治製靴(株)取締役を務める。四谷区議、東京市会議員、同参事会員となる。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において東京1区から憲政会公認で立候補したが落選。1928年の第16回衆議院議員総選挙において東京1区から立憲民政党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務めた。
永井 一孝(ながい ひでのり、1868年9月23日(慶応4年… 永井 一孝(ながい ひでのり、1868年9月23日(慶応4年8月8日) - 1958年(昭和33年)12月16日)は、日本の国文学者。旧姓は池谷。号は空外。 信濃国筑摩郡福島(長野県木曽郡木曽町福島)出身。1893年東京専門学校文学科第1回卒業生。英文学・演劇学をめざすが、坪内逍遥の勧めで訓詁を関根正直に学ぶ。1895年東京専門学校講師、1907年早稲田大学教授、高等師範部、高等予科で国文学を担当。1943年定年退職して名誉教授。門下に山口剛、竹野長次、佐々木八郎らがいる。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
木檜 三四郎(こぐれ さんしろう、明治元年8月4日〈1868… 木檜 三四郎(こぐれ さんしろう、明治元年8月4日〈1868年9月19日〉 - 1959年〈昭和34年〉8月14日)は、明治時代から昭和時代にかけての日本の政治家。初代参議院仮議長、参議院議員(1期)、衆議院議員(7期)、群馬県会議員、吾妻郡会議員、原町長を歴任した。位階・勲等は正四位勲二等(旭日重光章)[要出典]。号に吾川。 明治元年(1868年)、群馬県吾妻郡岩島村(現・東吾妻町)の片貝家に生まれる。幼少期に原町の木檜家の養子となった。群馬県中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を経て、東京専門学校(現在の早稲田大学)に学ぶ。 1894年(明治27年)に群馬県会議員に当選し、6期務める。1896年(明治29年)から1907年(明治40年)まで吾妻郡会議員、1903年(明治36年)から1907年(明治40年)まで同議長。
匹田 鋭吉(ひきた えいきち、1868年5月18日〈慶応4年… 匹田 鋭吉(ひきた えいきち、1868年5月18日〈慶応4年4月26日〉 – 1944年〈昭和19年〉11月9日)は、日本のジャーナリスト・政治家。立憲政友会所属の衆議院議員。 1868年5月18日、美濃国郡上郡八幡(現在の岐阜県郡上市)に於いて郡上藩士匹田重秋の長男として生まれる。1888年(明治21年)、東京専門学校(現在の早稲田大学)政治経済科を卒業。読売新聞社の記者となった後、1902年(明治35年)に富山日報の主筆に招かれ、1910年(明治43年)からは九州日報の主筆となった。さらに北陸タイムス主筆に転じ、1913年(大正2年)からは岐阜日日新聞社の社長兼主筆を務めた。 1915年(大正4年)、第12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
日野 辰次(ひの たつじ、1868年4月23日(慶応3年4月… 日野 辰次(ひの たつじ、1868年4月23日(慶応3年4月1日) - 1926年(大正15年)6月9日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 鹿児島県出身。肥後国人吉藩、現在の熊本県人吉市の生まれ。15歳のときに鹿児島市の三州義塾に入学。成績優秀につき三州社の社費生に選ばれて東京専門学校(現早稲田大学)に入学。1889年、東京専門学校英語本科卒。卒業と同時に三州義塾の英語教師に任命される。1891年、鹿児島新聞社(現南日本新聞社)の誘いにより客員として入社。1891年10月7日、鹿児島県加治木村(後に加治木町、現姶良市)の日野家に養子として迎えられ鹿児島県人となる。明治末期には佐藤平右衛門と加治木電気会社を設立。
乾 正士(いぬい せいし、慶応4年3月25日(1868年4月… 乾 正士(いぬい せいし、慶応4年3月25日(1868年4月17日) - 昭和16年(1941年)6月18日)は、日本の軍人。旧土佐藩士族 乾市郎兵衛家・第8代当主。自由民権運動家・発陽社社員。 慶応4年3月25日(1868年4月17日)、板垣退助の次男として、高知城下に生まれる。母は萩原復斎の娘・薬子(やくし)。板垣退助の分家・乾市郎平正厚が、明治3年5月22日(1870年6月20日)無嗣のまま死去した為、正厚家の家格を維持するために、同家の養子となり家督相続。 高知城下より高知県土佐郡潮江村370番屋敷へ転住。 明治10年(1877年)に北川貞彦が「立志社」の下部組織として興した民権結社「発陽社」(跡地・高知県高知市天神町14)に実兄・板垣鉾太郎と共に参加。
長島 律太郎(ながしま りつたろう、1868年3月18日(慶… 長島 律太郎(ながしま りつたろう、1868年3月18日(慶応4年2月25日)- 1925年(大正14年)1月31日)は、日本の農業経営者、政治家。衆議院議員、埼玉県北足立郡小谷村長。 武蔵国足立郡小谷村(のち埼玉県北足立郡小谷村、現:鴻巣市)で、小谷村長を務めた長島基吉の長男として生まれる。1890年、東京専門学校政治科を卒業し、農業を営む。 北足立郡会議員、同参事会員、埼玉県会議員、同参事会員、小谷村長などを務めた。 1917年4月、第13回衆議院議員総選挙で埼玉県選挙区から憲政会所属で出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。
佐藤 啓(さとう ひらく、1868年2月29日(慶応4年2月… 佐藤 啓(さとう ひらく、1868年2月29日(慶応4年2月7日) - 1941年(昭和16年)4月21日)は、戦前日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党→国民同盟)、山形県西山村長。 出羽国村山郡西山村(現在の山形県西村山郡西川町)に佐藤里治(衆議院議員)の子として生まれる。東京専門学校(現在の早稲田大学)政治科を卒業後、山形日報の経営にあたった。 西山村長、山形県会議員を経て、1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は6回を数えた。 その他、山形民報社長、羽陽銀行(山形銀行の前身の一つ)取締役、三山電気鉄道取締役を務めた。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
千家尊弘(せんげ たかひろ/そんこう、明治元年(1868年)… 千家尊弘(せんげ たかひろ/そんこう、明治元年(1868年)1月8日 - 昭和15年(1940年)5月22日 。)は出雲大社東京分祠の神職・宗教家。幼名は房麿 。 明治元年1月8日、島根県簸川郡大社町(現出雲市)に生まれる。島根の武士の家の長男で、幼少期から聡明で学問を好み、平田町の漢学者・雨森精翁のもとで数年間学ぶ。その後上京して東京専門学校(後の早稲田大学)に入学し卒業。卒業後すぐに大社教東京分院長に任じられた 。 宗教者として数多くの国葬・葬儀を司り、伊藤博文・大山巌・松方正義などの国葬では斎主を務めた。また、乃木希典、大隈重信などの葬儀の斎主も務めている。さらに、明治天皇や各宮家、貴族の葬儀にも祭主または副祭主として参加し、幅広い信望を集めた 。
松本 文作(まつもと ぶんさく、旧姓・山口、1868年(明治… 松本 文作(まつもと ぶんさく、旧姓・山口、1868年(明治元年) - 没年不明)は、日本の政治家(埼玉県児玉郡本庄町長、埼玉県会議員)、実業家。族籍は埼玉県平民。 群馬県人・山口清平の二男。先代紋三郎の養子となり、1891年、家督を相続する。1890年、東京専門学校(現・早稲田大学)邦語政治科卒業。 本庄電気軌道取締役社長、松本商店代表取締役、上信電気鉄道専務取締役、本庄商業銀行、高崎水力電気各取締役、本庄運輸倉庫監査役などをつとめた。住所は埼玉県児玉郡本庄町。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
宮島 詠士(みやじま えいし、慶応3年10月20日(1867… 宮島 詠士(みやじま えいし、慶応3年10月20日(1867年11月15日) - 昭和18年(1943年)7月9日)は、明治から昭和前期にかけて活躍した能書家、教育家(中国語)。山形県米沢の出身。名は吉美、通称は大八(だいはち)、詠士は字で、号に詠而帰廬主人がある。 詠士は明治37年(1904年)に中国語の教科書『官話急就篇』を刊行し、中国語の私塾・善隣書院を創設して生涯その経営にあたるなど、戦前の中国語教育に大きな足跡を残した。また書家としても著名で、代表作『犬養公之碑』は日本書道史に異彩を放つ楷書碑として尊い。書の門弟に上條信山、藤本竹香がいる。 国立国会図書館 憲政資料室所蔵『宮島誠一郎関係文書』、早稲田大学図書館所蔵『宮島誠一郎文書』、神戸大学附属図書館所蔵『宮島家文書』には一部大八関係の資料が収められている。
阪本 三郎(さかもと さぶろう、1867年11月11日(慶応… 阪本 三郎(さかもと さぶろう、1867年11月11日(慶応3年10月16日) - 1931年(昭和6年)4月14日)は、日本の検察官、裁判官、内務官僚、教育者。憲政会系官選県知事、早稲田専門学校長。「坂本」と表記される場合がある。樋口一葉の婚約者(旧姓・渋谷)であったことで知られる。 武蔵国南多摩郡原町田村(後の町田村、現町田市)で旅籠武蔵屋を営む渋谷徳治郎の二男として生まれ、1892年8月、阪本タカの養子となる。祖父・真下専之丞(晩菘)の融貫塾、近在の小野路にある小島韶斎塾、藤沢の耕余塾で学ぶ。1888年7月、東京専門学校法学部を卒業。1890年12月、文官高等試験に合格。1891年1月22日、司法官試補に任じられ新潟地方裁判所詰となる。
三田村 甚三郎(みたむら じんざぶろう、1867年11月7日… 三田村 甚三郎(みたむら じんざぶろう、1867年11月7日(慶応3年10月12日) - 1934年(昭和9年)2月13日)は、福井県武生市(現越前市)出身の日本の実業家、政治家。 越前打刃物の名産地として知られる越前市越前府中(現越前市あおば町)でも有数の打物問屋に長男・欽二として出生。明治29年、家督を相続し、甚三郎を襲名。福井県立福井中学校(現福井県立藤島高等学校)を経て、東京専門学校(現早稲田大学)に入学し政治学を学ぶ。 福井新聞、有限責任信用組合武生金庫(現武生信用金庫)、武岡軽便鉄道株式会社(福井鉄道南越線)を設立。 福井県会議員を歴任後、衆議院議員に二期当選(1898-1902、1930-32)18年間無報酬で武生町長を務める。
矢口 長右衛門(やぐち ちょうえもん、前名・縫太郎、1867… 矢口 長右衛門(やぐち ちょうえもん、前名・縫太郎、1867年7月12日(慶應3年6月11日) - 1935年(昭和10年)11月4日)は、日本の実業家、政治家(貴族院議員)、栃木県多額納税者。族籍は栃木県平民。 先代矢口長右衛門の長男。高松長三の実兄。家は代々農業及び醤油・醸造業を営み、栃木県下の大地主である。 1887年、東京専門学校(早稲田大学の前身)英語本科を卒業。帝国大学法科大学選科に入り、理財学を専攻し、帰郷して祖業を継承する。1911年、家督を相続し、旧名・縫太郎を改めて先代の名を継ぐ。 早稲田大学評議員、塩谷郡醤油組合長、宝積寺銀行頭取、宝積寺銀行取締役監督、宇都宮電球取締役会長、矢板銀行、小川銀行、喜連川興業銀行、下野中央銀行、下野新聞、宝積寺米券倉庫、宇都宮米券倉庫、塩原軌道各取締役、東海生命保険監査役などをつとめた。
鵜沢 宇八(鵜澤、うざわ うはち、1867年6月27日(慶応… 鵜沢 宇八(鵜澤、うざわ うはち、1867年6月27日(慶応3年5月25日)- 1943年(昭和18年)10月13日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員、貴族院多額納税者議員。 下総国香取郡、のちの千葉県香取郡栗源村(栗源町を経て現香取市)で、鵜沢弥右衛門の長男として生まれる。東京専門学校を卒業し、慶應義塾でも学んだ。1892年(明治25年)家督を相続した。 実業界で活動し日露戦争景気で多大の利益を上げたが戦後の不況に直面し、樺太での事業展開に活路を見出し、水産業、海運業などで成功を収めた。東洋捕鯨取締役、越中島製材取締役、神中鉄道(現相模鉄道)監査役、満州製粉取締役、日清毛織取締役、日本水産取締役、共済商事社長、樺太敷香合同運送社長、房総三鱗社長などを務めた。
久保 彦太郎(くぼ ひこたろう、1867年3月9日(慶應3年… 久保 彦太郎(くぼ ひこたろう、1867年3月9日(慶應3年2月4日)- 1938年(昭和13年)7月10日)は、明治から大正期の農業経営者、政治家。衆議院議員、香川県会議長、香川県木田郡古高松村長。 讃岐国山田郡、のちの香川県山田郡古高松村(木田郡古高松村を経て現高松市古高松)で生まれる。1891年(明治24年)東京専門学校(現早稲田大学)を卒業した。農業を営む。 古高松村長を務めた。香川県会議員に選出され同参事会員も務めた。1903年(明治36年)10月、同議長に就任し1905年(明治38年)9月まで在任した。 井上甚太郎の死去に伴い1905年9月に実施された第9回衆議院議員総選挙香川県郡部補欠選挙で当選し、立憲政友会に所属して衆議院議員に1期在任した。
中村 十作(なかむら じゅうさく、慶応3年1月18日(186… 中村 十作(なかむら じゅうさく、慶応3年1月18日(1867年2月22日) - 昭和18年(1943年)1月22日)は、越後国頸城郡稲増村(現在の新潟県上越市板倉区稲増)出身の宮古島における人頭税廃止に尽力した人物。 生家は代々庄屋をつとめる家系であった。東京専門学校(現在の早稲田大学)中退後に海軍へと入隊し、1892年(明治25年)真珠養殖の事業を始めようと宮古島へと渡った。しかし、宮古島の島民たちは琉球王国の時代から続く重い人頭税に苦しみ、貧困を強いられていた。これを見かねた中村は精糖業技師として同じく宮古島を訪れていた城間正安とともに当時の沖縄県知事であった奈良原繁に人頭税の廃止を訴えた。
後藤 宙外(ごとう ちゅうがい、1867年1月27日(慶応2… 後藤 宙外(ごとう ちゅうがい、1867年1月27日(慶応2年12月22日) - 1938年(昭和13年)6月12日)は、明治後期から昭和初期に活躍した小説家、評論家。本名寅之助。 後藤三郎右衛門、斎藤サダ(花館村の斎藤勘左衛門の妹)の次男として生まれる。宙外の家家は後藤家の惣家とされる。なお、戸籍上の誕生日は慶応2年12月22日だが、宙外自身は12月23日、12月24日の二様に記述している。後藤家は元豪族の旧家であったが、父の代に没落していた。1879年(明治12年)、遊学のため兄と上京するが明治19年(1886年)に帰郷。1889年(明治22年)再上京し、東京専門学校(現早稲田大学)専修英語科に入学。
戸野 周二郎(との しゅうじろう、1867年1月15日(慶応… 戸野 周二郎(との しゅうじろう、1867年1月15日(慶応2年12月10日)– 1955年(昭和30年))は、日本の教育者。三重県四日市市長。 丹後田辺藩儒戸野周太郎の二男として舞鶴に生まれる。京都府師範学校を卒業後、東京専門学校(現在の早稲田大学)を経て、1891年(明治24年)に東京高等師範学校文科を卒業。青森県師範学校校長、長野県視学、東京高等師範学校を歴任した。1902年(明治35年)、湖北師範学堂に総教習・学務顧問として招かれ、清に渡った。1904年(明治37年)に帰国した後は東京市教育課長に任じられた。1914年(大正3年)からは下谷区長を務め、1919年(大正8年)には東京市助役に就任した。
西村 丹治郎(にしむら たんじろう、慶應2年10月22日(1… 西村 丹治郎(にしむら たんじろう、慶應2年10月22日(1866年11月28日) - 昭和12年(1937年)12月20日)は、日本の衆議院議員(憲政本党→立憲国民党→革新倶楽部→立憲民政党)。 備中国下道郡秦村(現在の岡山県総社市)の板野家に生まれ、高梁町の西村鶴太郎の養子となった。1890年(明治23年)、東京専門学校(現在の早稲田大学)政治経済科を卒業した。卒業後は2年にわたって欧米に留学して、政治学・経済学を学び、帰国後は新聞記者の職に従事した。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、14回の当選を重ねた。その間、第2次若槻内閣で農林政務次官を務めた。
小川 寅六(おがわ とらろく、慶応2年6月29日(1866年… 小川 寅六(おがわ とらろく、慶応2年6月29日(1866年8月9日) - 大正10年(1921年)10月8日)は、日本の衆議院議員、弁護士。旧姓・尾上。 肥前国(長崎県)長崎出身。尾上栄文の長男として生まれ、1884年(明治17年)5月、小川マスの養子となり家督を相続した。同年、東京に出て、1886年(明治19年)東京専門学校(現在の早稲田大学)を卒業した。卒業後は郷里で弁護士を開業し、長崎県会議員、長崎市会議員、長崎県教育会評議員に選出された。 1917年(大正6年)第13回衆議院議員総選挙に長崎市から出馬し当選を果たした。 その他、松尾鉄工所相談役、早稲田大学評議員を務めた。
廣池 千九郎(広池 千九郎、ひろいけ ちくろう、1866年5… 廣池 千九郎(広池 千九郎、ひろいけ ちくろう、1866年5月13日〈慶応2年3月29日〉 - 1938年〈昭和13年〉6月4日)は、日本の法学者、歴史学者、教育者、宗教家。法学博士。モラロジーの提唱者。道徳科学研究所、学校法人廣池学園の創立者。早稲田大学講師、神宮皇學館教授、天理教教育顧問を歴任。号は鵬南、扇城、西海、蘇哲、幹堂など。 慶應義塾の関連校である中津藩の洋学校の中津市学校に学ぶ。歴史家として論文と書物を著したのちに法学を学び、早稲田大学講師を経て、神宮皇學館教授となる。当時の国家的事業である『古事類苑』(日本の古事に関する大百科事典)の編纂に携わるとともに、「東洋法制史序論」について研究し、独学で、1912年(大正元年)12月10日に東京帝国大学から法学博士号を取得する。
松本 恒之助(まつもと つねのすけ、慶応2年2月29日(18… 松本 恒之助(まつもと つねのすけ、慶応2年2月29日(1866年4月14日) - 大正15年(1926年)6月1日)は、日本の衆議院議員(猶興会→又新会→中正会→憲政会)。父は伊勢新聞創業者の松本宗一、曽祖父は津藩郷士の松本安親、弟は衆議院議員の松本宗吾、曾姪孫は歌手・女優のあべ静江。 伊勢国一志郡矢野村(現在の三重県津市)に松本宗一の長男として生まれる。1883年(明治16年)、同志社に入学するが、1885年(明治18年)に東京専門学校(現在の早稲田大学)に移り、1888年(明治21年)に卒業した。卒業後は郷里に帰り、伊勢新聞社の経営にあたった。また、津市会議員に選出された。 1904年(明治37年)、衆議院議員に補欠当選。
森田 卓爾(もりた たくじ、慶応2年2月1日(1866年3月… 森田 卓爾(もりた たくじ、慶応2年2月1日(1866年3月17日) - 昭和3年(1928年)4月13日)は、日本の衆議院議員(憲政本党)。弁護士。森田俊佐久の弟。 安芸国高田郡根野村(現在の広島県安芸高田市)出身。最初慶應義塾に入学したが、東京専門学校(現在の早稲田大学)に移り、1886年(明治19年)に卒業した。翌年、代言人試験に合格し、東京にて開業。1889年(明治22年)に広島市に事務所を移し、広島弁護士会長にたびたび選ばれた。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第8回、第9回でも再選を果たした。
武藤 互三(むとう ごぞう、1866年3月9日(慶応2年1月… 武藤 互三(むとう ごぞう、1866年3月9日(慶応2年1月23日) - 1937年(昭和12年)1月20日)は、明治から昭和時代戦前の政治家。実業家。銀行家。衆議院議員。岐阜県郡上郡八幡町長。 美濃国郡上郡八幡町(岐阜県郡上郡八幡町を経て現郡上市)出身。関谷楠平の三男、関谷貫三の弟として生まれ先代の武藤喜一郞の養子となり、1903年(明治36年)3月、家督を相続する。1880年(明治13年)鈴木重遠に漢学を学び、1886年(明治19年)岐阜県師範学校、1890年(明治23年)東京専門学校法律科卒業。生糸製造業を営んだ。 八幡町長、蚕糸業諮問会、中央種繭審査会各委員となる。また第百二十八銀行頭取、八幡町仏教慈善会長、県製糸同業組合長、製糸講習所長、大日本蚕糸会、帝国蚕糸会社各評議員、濃飛農工銀行取締役となるほか、大谷派本山講頭格に列せられ、同派本願寺会計評議員を歴任した。
上原 鹿造(うえはら しかぞう、慶応元年12月13日(186… 上原 鹿造(うえはら しかぞう、慶応元年12月13日(1866年1月29日) - 昭和10年(1935年)10月4日)は、日本の衆議院議員(憲政本党)。弁護士。 府内藩士上原平馬の四男として大分に生まれる。1883年(明治16年)、大分師範学校に入学して4年間学び、小学校訓導・校長を務めた。1888年(明治21年)に上京し、国民英学会を経て、1892年(明治25年)に東京専門学校(現在の早稲田大学)行政科を卒業した。同年、弁護士試験に合格し、鳩山和夫事務所に勤務した。日本弁護士協会の結成に加わり、機関雑誌の編集主任を務め、理事となった。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
星野 甚右衛門(甚右衞門、ほしの じんうえもん、1866年(… 星野 甚右衛門(甚右衞門、ほしの じんうえもん、1866年(慶応元年12月) - 1919年(大正8年)2月12日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 出雲国神門郡鵜鷺村(のち島根県簸川郡大社町、現・出雲市)生まれ。漢学と数学を修め、上京し、1883年、東京英学校に入り、のち、東京専門学校に入り、1890年に政治学科を卒業する。農業を営む。鵜鷺村会議員、簸川郡会議員、島根県会議員、徴兵参事員となる。また、星野(合)業務担当人、松江米穀株式取引所理事長、簸川銀行、山陰生命保険、松江造船各取締役、出雲商業銀行頭取を務めた。 1898年8月の第6回衆議院議員総選挙において島根1区から無所属で立候補して当選する。
増子 喜一郎(ますこ きいちろう、1865年12月19日(慶… 増子 喜一郎(ますこ きいちろう、1865年12月19日(慶応元年11月2日)- 1924年(大正13年)2月11日)は、日本の教育家である。 越後に生まれ、帰郷して苦学を重ねた後に上京する。後に当時大日本帝国海軍少将だった世良田亮からの援助を受け、1887年(明治20年)に世良田が清朝へ派遣されたことによりその従者として彼と共に天津で同朝の研究に携わった。1890年(明治23年)に帰国し、その後は東京専門学校(現在の早稲田大学)政治科に入学する。 1893年(明治26年)に卒業後は同校の舎監を務め、後に早稲田尋常中学校(現在の早稲田中学校・高等学校)の創立時の際にその事務として活動する。その後は同校の幹事に就任し、その経営の傍らで1924年(大正13年)に死去するまで日中提携の信条に基づいて同校に通学する中国人留学生の庇護にもあたった。
渡辺 龍聖(わたなべ りょうせい・わたなべ りゅうせい、18… 渡辺 龍聖(わたなべ りょうせい・わたなべ りゅうせい、1865年10月17日〈慶応元年8月28日〉 - 1944年〈昭和19年〉7月2日)は明治時代から昭和初期にかけての日本の教育者、倫理学者。文学博士。号は乾甫。 越後国古志郡吉水村(現・新潟県長岡市)生まれ。 東京専門学校(現早稲田大学)を卒業、東京帝国大学文科大学(現東京大学文学部)で学び、アメリカのコーネル大学で哲学博士号取得(1892年・専攻は倫理学・哲学史・心理学)。 1898年6月高等師範学校附属音楽学校主事。1899年8月に東京音楽学校校長(現東京芸術大学)に就任。校長時代には瀧廉太郎を支えた。 1911年小樽高等商業学校初代校長(現小樽商科大学)に就任。
河波 荒次郎(かわなみ あらじろう、1865年10月7日(慶… 河波 荒次郎(かわなみ あらじろう、1865年10月7日(慶応元年8月18日)- 1932年(昭和7年)2月21日)は、日本の農業経営者、政治家。衆議院議員。「玄洋社式の豪傑」と呼ばれた。 筑前国御笠郡山田村、のちの福岡県筑紫郡大野村(現大野城市)で、地主・河波宗五郎の長男として生まれる。1885年(明治18年)家督を相続した。1888年(明治21年)東京専門学校邦語政治科を卒業した。農業を営み、玄洋社社員であった。 大野村会議員、筑紫郡会議員、同議長、雑餉隈郵便電信局長(現博多南郵便局)などを務め、1903年(明治36年)福岡県会議員に選出された。1905年(明治38年)九州日報社副社長に就任した。
有田 温三(ありた おんぞう、1865年10月2日〈慶応元年… 有田 温三(ありた おんぞう、1865年10月2日〈慶応元年8月13日〉 - 1927年〈昭和2年〉2月27日)は、日本のジャーナリスト、政治家。衆議院議員(当選2回)。族籍は広島県平民。 安芸国賀茂郡西高屋村(現在の広島県東広島市)出身。有田久の二男。生家は代々農業を営む。京都本願寺普通教校を経て、1888年に東京専門学校(現早稲田大学)邦語政治科を卒業。山陽新報記者となり、後に安芸津新報主筆に転じ、さらに大阪朝日新聞に入って広島支局長を務めた。 1903年(明治36年)、広島県会議員に当選し、県参事会員及び地方森林会議員も務めた。1907年(明治40年)に広島市会議員に当選、下水道創立に尽力した。
舟橋 遂賢(ふなばし / ふなはし なるかた、1865年7月… 舟橋 遂賢(ふなばし / ふなはし なるかた、1865年7月29日(慶応元年6月7日)- 1924年(大正13年)1月22日)は、明治から大正期の宮内官、政治家、華族。貴族院子爵議員。 山城国京都で少納言・舟橋康賢の二男として生まれる。父の死去に伴い1880年(明治13年)1月16日、家督を相続。1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した。 1882年(明治15年)以降、京都宮殿勤番、殿掌などを務めた。1889年(明治22年)東京専門学校邦語政治科卒業。1890年(明治23年)7月10月、貴族院子爵議員に選出され、死去するまで在任した。
井上 要(いのうえ かなめ、旧姓・有友 、1865年5月29… 井上 要(いのうえ かなめ、旧姓・有友 、1865年5月29日(慶応元年5月5日) - 1943年(昭和18年)3月18日)は、日本の弁護士、政治家・衆議院議員(憲政本党)、実業家。松山商工会議所会頭。早稲田大学評議員。松山高等商業学校理事。北予中学会理事。族籍は愛媛県士族。号は不去庵。伊予鉄道会社(現伊予鉄グループ)3代・5代社長。 伊予国喜多郡菅田村(現在の愛媛県大洲市)の庄屋の家に生まれた。有友平衛の長男。のちに井上家の養嗣子となる。地元の小・中学校を経て1882年(明治15年)に上京して丸山作楽塾、岡松甕谷塾で学び、翌年漢学者鈴村譲の海南書院(松山)で学ぶ。法学を独習して代言人(弁護士)試験に合格。
佐藤 雄能(さとう ゆうのう、慶応元年5月3日(1865年5… 佐藤 雄能(さとう ゆうのう、慶応元年5月3日(1865年5月27日) - 昭和14年(1939年)10月30日)は、山形県東田川郡(現・鶴岡市)出身の、日本の教育者。鉄道省事務官。幼名は雄之助。
森田 勇次郎(もりた ゆうじろう、1865年4月25日〈慶応… 森田 勇次郎(もりた ゆうじろう、1865年4月25日〈慶応元年4月1日〉 - 1920年〈大正9年〉11月10日)は、日本の新聞記者、政治家。衆議院議員(静岡県郡部選出、当選2回)。族籍は静岡県平民。 肥後国天草郡志岐村(現・熊本県天草郡苓北町)に生まれた。森田市郞次の三男。1885年、東京専門学校(現・早稲田大学)邦語政治科を卒業。 1889年、静岡大務新聞社に聘せられた。1891年、静岡民友新聞を創立し主筆となった。静岡商業会議所書記長、同特別議員となった。進歩党静岡支部幹事として党務に尽瘁した。 1903年の第8回衆議院議員総選挙と1908年の第10回衆議院議員総選挙で当選。進歩党、憲政本党、立憲国民党に所属した。
上島 長久(うわじま ながひさ、1865年1月23日〈元治元… 上島 長久(うわじま ながひさ、1865年1月23日〈元治元年12月26日〉- 1918年〈大正7年〉5月18日)は、日本の衆議院議員(憲政会)。ジャーナリスト。号は笠山。義兄に検事総長の春木義彰。 大和国平群郡法隆寺村(現在の奈良県生駒郡斑鳩町)に中宮寺門跡家司で勤王家の上島掃部の子として生まれる。 1885年(明治18年)、東京専門学校(現在の早稲田大学)を卒業。裁判所書記、釧路十勝共同汽船会社社員、函館商業学校嘱託教員を経て、『函館新聞』記者となった。1895年(明治28年)、報知新聞社に入り、主筆を務めた。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
井上 広居(いのうえ ひろやす、元治元年10月4日(1864… 井上 広居(いのうえ ひろやす、元治元年10月4日(1864年11月3日) – 昭和31年(1956年)6月5日)は、日本の政治家。衆議院議員(立憲国民党→立憲同志会→憲政会)や秋田市長(第6代)を務めた。 久保田藩士小貫久之進の二男で、井上福治の養子となった (秋田市手形新町上丁住)。漢学を学んだ後、上京して東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学した。1886年(明治19年)に卒業した後は、秋田魁新報社に入社し、やがて主筆、さらに社長に就任した。 1892年(明治25年)、秋田市会議員に当選した。市参事会員、市会議長を歴任し、また県会議員、県参事会員、県会議長にも就任した。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
有馬 頼萬(ありま よりつむ、1864年7月18日〈元治元年… 有馬 頼萬(ありま よりつむ、1864年7月18日〈元治元年6月15日〉- 1927年〈昭和2年〉3月21日)は、日本の華族(伯爵)。 旧筑後国久留米藩主・有馬家の第14代当主。昭和期の政治家で日本中央競馬会理事長を務めた有馬頼寧は子。 1864年(元治元年)、久留米藩最後の藩主・有馬頼咸の子として生まれる。母は側室・金田ミヨ。幼名は和之助といった。 1877年(明治10年)3月26日、病弱な兄の13代当主頼匡に代わり家督を継承し、4月に従五位に叙せられる。 1884年(明治17年)2月、宮内省式部職御用掛として出仕する。同年7月、華族令の公布にともない、伯爵の爵位が与えられた。1886年(明治19年)9月に宮内省を辞し、義兄にあたる小松宮彰仁親王とともに欧米諸国を歴訪した。
西川 太治郎(にしかわ たいじろう、元治元年5月17日(18… 西川 太治郎(にしかわ たいじろう、元治元年5月17日(1864年6月20日) - 昭和17年(1942年)6月15日)は、衆議院議員(立憲同志会→憲政会)、大津市長。 近江国浅井郡南浜村(現在の滋賀県長浜市)出身。同人社で学んだ後、1888年(明治21年)に東京専門学校(現在の早稲田大学)を卒業した。卒業後、山梨日日新聞の記者となり、3年後に近江新報に主筆として招かれ、1896年(明治29年)には社長に就任した。その一方で、前田正名の地方産業振興運動に加わって全国を奔走。さらに農商務省の嘱託として、1898年(明治31年)に清の商工業を視察、1903年(明治36年)には北清やシベリアでの日本製品販売の調査を行った。
降旗 元太郎(ふるはた もとたろう、元治元年5月7日(186… 降旗 元太郎(ふるはた もとたろう、元治元年5月7日(1864年6月10日) - 昭和6年(1931年)9月15日)は、日本の衆議院議員(憲政党→憲政本党→立憲同志会→憲政会→立憲民政党)。 信濃国筑摩郡本郷村(現在の長野県松本市)出身。郷里で漢学を学んだ後、慶應義塾に入学した。1882年、東京専門学校(現在の早稲田大学)に転入学し、1885年に同校邦語政治科を卒業した。卒業後は帰郷し、1886年に信陽日報(のち信濃日報)の社長となった。さらに本郷蚕種業組合組長・信濃蚕業伝習所長などの役職を歴任して、養蚕業の発展に貢献した。その他、出獄人保護院も設立している。 1888年、長野県会議員に選出され、1891年には信濃民党を組織した。
白鳥 鴻彰(しらとり こうしょう、1864年4月30日 - … 白鳥 鴻彰(しらとり こうしょう、1864年4月30日 - 1915年4月11日)は、日本の政治家 、教育者。 白鳥家は、代々庄屋を務め、弘前藩主津軽家から苗字帯刀を許された家柄であった。2代藩主津軽信枚の生母・栄源院(津軽為信の側室。白鳥長久の娘とも。堀越城代・白取伊右衛門の妹。弘前藩家老職・白取瀬兵衛信次は甥にあたる)の生家の分家で、白鳥長久の末裔 という。白鳥氏は津軽家に仕えた後、「白鳥」を「白取」と改め、明治維新後に再び「白鳥」と改めた。 白鳥鴻彰は元治元年3月25日に津軽郡荒川村(現:青森市荒川)に、 白鳥慶一・いそ夫妻の長男として生まれる。幼名は初太郎または八太郎。 父・慶一は明治11年(1878年)に府県会規則が公布され、明治12年(1879年)3月県会の開催が決まると第1回の青森県会議員選挙に立候補、当選。
栗山 賚四郎(くりやま らいしろう、文久3年8月23日(18… 栗山 賚四郎(くりやま らいしろう、文久3年8月23日(1863年10月5日) - 昭和19年(1944年)1月15日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。ジャーナリスト。 肥前国神埼郡蓮池村(現在の佐賀県佐賀市から神埼市にかけての地域)に堺時中の四男として生まれ、栗山延光の養子となった。1888年(明治21年)、東京専門学校(現在の早稲田大学)邦語法律科を卒業した。博文館に入社して、百科事典の編纂主任となった。その後、『信府日報』主筆や『西肥日報』主筆を務めた。さらに神埼郡会議員、佐賀県会議員、同議長に選出された。 1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
坪谷 善四郎(つぼや ぜんしろう、文久2年2月26日(186… 坪谷 善四郎(つぼや ぜんしろう、文久2年2月26日(1862年3月26日) - 昭和24年(1949年)3月24日)は日本の出版人、編集者、政治家。号は水哉(すいさい)。 1862年、越後国南蒲原郡加茂(現・新潟県加茂市)に生まれる。東京専門学校(現・早稲田大学)邦語政治科在学中、博文館に入社。編集局長を経て1918年取締役就任。1895年には雑誌『太陽』の創刊にあたり初代主筆、編集主幹としてこれに従事した。政治家としては1901年以来7期にわたって東京市会議員を務め、1907年開館の東京市立図書館(現・日比谷図書文化館)建設につくした。1917年、大橋図書館(現・三康図書館)館長。1918年、日本図書館協会会長。
岡崎 賢次(おかざき けんじ、1862年2月18日(文久2年… 岡崎 賢次(おかざき けんじ、1862年2月18日(文久2年1月20日)- 1922年(大正11年)2月14日)は、明治から大正期の弁護士、公証人、実業家、政治家、自由民権運動家。衆議院議員、高知市会議長。 土佐国土佐郡、のちの高知県土佐郡初月村(現高知市)で、土佐藩士・岡崎賢七の長男として生まれる。1883年(明治16年)12月、家督を相続した。1885年(明治18年)東京専門学校(現早稲田大学)法律科を卒業した。 1887年(明治20年)3月、公証人となる。同年9月、代言人試験に合格し、同年11月、高知市で代言人(弁護士)を開業した。講法館、法学館の講師を務めた。自由民権運動に加わり、三大事件建白運動にも参加。