神代 種亮(こうじろ たねすけ、1883年(明治16年)6月… 神代 種亮(こうじろ たねすけ、1883年(明治16年)6月14日 - 1935年(昭和10年)3月30日)は、日本の校正家。「校正の神様」といわれた。号の帚葉は、誤字を除ける校正業を落葉掃きで譬喩したもの。七松庵とも号す。 石見津和野(現・島根県津和野町)出身。松江師範学校を卒業して教師となる。明治末年に教師を辞めて上京し、大正末年まで海軍大学校図書館に勤務する。そのかたわら、図書館の蔵書を利用して明治文学の研究に没頭する。後に明治文化研究会の一員となる。 1924年11月25日、東京朝日新聞の夕刊で「校正の神様」として紹介される。1930年、「日本校正協会」を設立・主宰し、雑誌「校正往来」を発行する。
中島 権吉(なかじま ごんきち、1882年(明治15年)12… 中島 権吉(なかじま ごんきち、1882年(明治15年)12月20日 - 1946年(昭和21年)12月22日)は、大日本帝国の軍人である。海軍入隊後、海軍少将まで出世し、その後、海軍大学校の教頭を務めた。岡山県高梁市出身。 1882年(明治15年)に岡山県上房郡高梁町(現:高梁市川端町)で中島岩松・嘉代の次男として生まれる。旧制高梁中学校(現:岡山県立高梁高校)を経て、1902年(明治35年)海軍兵学校を優等で卒業し、エリートコースを歩むことになる。日露戦争では、東郷艦隊付けとなり、佐世保海兵団附で津島海峡警備に当たった。 1908年(昭和41年)海軍砲術学校特修科を修了し、1917年(大正6年)に3ヶ月渡米出張した後、大正7年から10年まで(1918~21年)英国に駐在した。
溝部 洋六(みぞべ ようろく、1881年(明治14年)6月2… 溝部 洋六(みぞべ ようろく、1881年(明治14年)6月27日 - 1919年(大正8年)11月6日)は、大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍大佐。大分市出身。 溝部竹太郎(三男、四女)の長男として、府内城下中上市町(現大分市中央町)に生まれる。1894年(明治27年)大分県尋常中学校入学。四年の課程を終え、五年次の8月に海軍兵学校を受験し合格。入校時成績順位は137名中第5位。1898年(明治31年)12月海軍兵学校入校(第29期)。卒業時成績順位は125名中第1位(首席、望遠鏡を下賜さる)。1913年(大正2年)海軍大学校(甲種13期)に入校し首席卒業、恩賜の長剣を拝受する。 資性闊達にして明敏、帝国海軍きっての逸材であり将来は将官と期待されたが、戦艦伊勢にて大演習中に病に罹り、38歳の働き盛りで病没。
原 敢二郎(はら かんじろう、1880年(明治13年)11月… 原 敢二郎(はら かんじろう、1880年(明治13年)11月22日 - 1948年(昭和23年)4月23日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 岩手県出身。旧盛岡藩士・原勝多の三男として生れる。盛岡中学校中退を経て、1900年12月、海軍兵学校(28期)を卒業し、1902年1月、海軍少尉任官。日露戦争では「筑紫」分隊長心得として出征した。「千代田」航海長などを経て、海軍大学校乙種学生、専修学生として学ぶ。第1艦隊参謀、「壱岐」航海長、呉鎮守府参謀などを歴任し、1911年5月、海軍大学校(甲種9期)を卒業した。 「三笠」航海長、舞鶴鎮守府参謀、海軍省軍務局員、オランダ駐在、「千早」艦長、欧州出張、軍務局第1課付、「出雲」艦長、教育局第1課長、「陸奥」艦長、第1艦隊兼連合艦隊参謀長などを経て、1924年12月、海軍少将に進級。
荒城 二郎(あらき じろう、1880年(明治13年)11月6… 荒城 二郎(あらき じろう、1880年(明治13年)11月6日 - 1952年(昭和27年)6月3日)は、北海道出身(本籍は東京都)の海軍軍人(中将)。兄の卓爾は陸軍少将。妹は井上達三の妻で、井上成美とは縁戚関係にあった。 旧徳島藩洲本城城代稲田家家臣・陸軍屯田兵少佐・荒城重雄の二男として北海道札幌市に生まれる。小学校卒業後上京し、攻玉社を経て海軍兵学校29期。日露戦争に「香港丸」「朝霧」乗組として出征。「扶桑」水雷長・「村雨」駆逐艦長などを経て、1913年(大正2年)海軍大学校甲種11期卒。同年から1916年(大正5年)まで英領シンガポールに駐在武官として出張。1917年(大正6年)第7駆逐隊司令、1920年(大正9年)大佐、1921年(大正10年)~1923年(大正12年)在ドイツ駐在武官。
末次 信正(すえつぐ のぶまさ、1880年〈明治13年〉6月… 末次 信正(すえつぐ のぶまさ、1880年〈明治13年〉6月30日 - 1944年〈昭和19年〉12月29日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将、従二位・勲一等。第1次近衛内閣の内務大臣。実弟に古河鉱業取締役の末次猛。坊ノ岬沖海戦で戦死した末次信義海軍中佐は長男。 旧徳山藩士・末次操九郎の次男として山口県に生まれる。広島一中から海軍兵学校(27期)に進み、114名中50番で卒業した。卒業席次は平凡であったが、日露戦争に出征後、海軍最高学府である海軍大学校甲種学生(7期)を首席で卒業した。 1910年(明治43年)、海軍砲術学校教官となった末次は、艦の中心線上一列に主砲を装備し、一斉射撃の効率を高める独創案を無断で学生に伝授した。
濱野 英次郎(はまの えいじろう、1880年〈明治13年〉5… 濱野 英次郎(はまの えいじろう、1880年〈明治13年〉5月24日 - 1952年〈昭和27年〉3月2日)は、日本の海軍軍人。美保関事件後に連合艦隊参謀長を務めた海軍中将である。 岡山県出身。旧制岡山尋常中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、1902年(明治35年)12月海軍兵学校(30期)を席次15番で卒業。同期に百武源吾、今村信次郎、松山茂らがいる。海軍大学校乙種学生及び専修学生を修了し航海科専攻士官となり、「新高」、「利根」、「富士」の航海長を務めた。海軍大学校甲種学生(12期)を修了。 第一艦隊参謀を経て、第二南遣枝隊参謀として第一次世界大戦に出征し、南洋群島の占領作戦に従事した。
小倉 嘉明(おぐら よしあき、1878年(明治11年9月2日… 小倉 嘉明(おぐら よしあき、1878年(明治11年9月2日)[出典無効] - 1949年(昭和24年)11月23日)は、日露戦争から戦間期にかけて活躍した大日本帝国海軍軍人。海兵27期、海大甲種7期。 水雷畑を歩み、海軍大学校教官、海軍水雷学校教頭など教育に携わり、軍令部参謀、海軍艦政本部部長、横須賀海軍工廠長などを歴任した。最終階級は海軍中将。1905年(明治38年)の日本海海戦では第二艦隊浅間分隊長。 神奈川県出身。静岡県尋常中学校を経て、1896年(明治29年)、海軍兵学校(27期)入校[出典無効]、1899年(明治32年)12月16日卒業[出典無効]。同日、海軍少尉候補生、比叡乗組。1900年(明治33年)、千代田乗組[出典無効]。
小牧 自然(こまき じねん、1876年(明治9年)3月22日… 小牧 自然(こまき じねん、1876年(明治9年)3月22日 - 1939年(昭和14年)6月7日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍少将。 高知県安芸郡土居村(現・安芸市)に生まれる。海南中学校を経て、1897年(明治30年)12月、海軍兵学校(25期)を卒業し、1899年(明治32年)2月、海軍少尉任官。日露戦争には「常磐」分隊長として出征し、さらに「平壌丸」「厳島」の各航海長を歴任した。1909年(明治42年)5月、海軍大学校(甲種6期)を卒業し「吾妻」航海長に就任。 1909年10月、「香取」航海長心得となり、呉鎮守府参謀兼望楼監督官、海軍省軍務局局員兼教育本部員(二部)、「出雲」副長心得を歴任。
吉川 安平(よしかわ やすひら、1873年(明治6年)11月… 吉川 安平(よしかわ やすひら、1873年(明治6年)11月17日 - 1959年(昭和34年)1月1日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 山口県出身。吉川弥之助の長男として生れる。周陽学舎、鴻城義塾、山口高等学校を経て、1895年12月、海軍兵学校(22期)を卒業し、1897年1月、海軍少尉任官。日露戦争では、第14水雷艇隊艇長として出征し、日本海海戦には、駆逐艦「陽炎」艦長として参加した。海兵副官を経て、1909年5月、海軍大学校(甲種6期)を卒業した。 「豊橋」副長、第1潜水艇隊司令、イギリス駐在、海大教官、「伊吹」副長、第3艦隊参謀長、「利根」艦長、艦政本部造船造兵監督官、海軍省人事局第1課長、「比叡」艦長などを歴任し、1919年12月、海軍少将に進級。
野崎 小十郎(のざき こじゅうろう、1872年12月2日(明… 野崎 小十郎(のざき こじゅうろう、1872年12月2日(明治5年11月2日) - 1946年(昭和21年)4月21日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。日本海海戦における第5戦隊参謀である。 高知県安芸郡馬ノ上村(現・芸西村)に野崎百弥太の長男として生まれる。 その後海南中学校を経て海軍兵学校(21期)を卒業。大尉時代に北清事変に出動し、少佐時代には日露戦争に参戦した。戦後海軍大学校(甲種5期)を卒業。横須賀鎮守府参謀、横須賀海軍工廠検査役、「新高」、「生駒」、「金剛」の各艦長、臨時南洋群島防備隊司令官などを歴任し海軍少将に任官した。位階勲等は従四位勲二等。功五級金鵄勲章を受章。 退役後には、碑衾町長(現在の目黒区)や玉川計器製作所の監査役を務めている。
百武 三郎(ひゃくたけ さぶろう、1872年6月3日(明治5… 百武 三郎(ひゃくたけ さぶろう、1872年6月3日(明治5年4月28日)- 1963年(昭和38年)10月30日)は、日本の海軍軍人、海軍大将、侍従長。二人の弟、百武源吾は海軍大将、百武晴吉は陸軍中将。三郎・源吾は海軍史上唯一組の海軍大将兄弟である。 妻・マチ(旧姓:李家)の父は、陸軍少佐の李家頼蔵で、海軍造兵総監(後の海軍技術中将)の李家政太は叔父に当たる。 佐賀藩士、百武庭蔵の三男として生まれる。佐賀中学、攻玉社を経て、1892年、海軍兵学校(19期)を首席で卒業。少尉候補生として「松島」に乗り組み日清戦争に従軍。1894年に少尉任官。「八島」回航委員としてイギリス出張。1902年、海軍大学校(甲種3期)卒業。
中里 重次(なかざと しげじ、1871年10月12日(明治4… 中里 重次(なかざと しげじ、1871年10月12日(明治4年8月28日) - 1946年(昭和21年)1月20日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。 山形県出身。中里重威の二男として生れる。山形県中学校、攻玉社を経て、1893年12月、海軍兵学校(20期)を卒業し、少尉候補生として「葛城」に乗り組み日清戦争に従軍。1895年3月に海軍少尉任官。海軍大学校で乙種学生として学んだ。 その後、「明石」砲術長、海兵教官などを経て、日露戦争では「橋立」砲術長として出征した。「常磐」砲術長、軍令部参謀、海軍省軍務局員、イギリス駐在、「阿蘇」副長、軍務局員、軍令部参謀、「春日」艦長、「磐手」艦長、軍令部第2班長などを歴任し、1918年(大正7年)12月、海軍少将に進級。
殖田 謙吉(うえだ けんきち、1870年12月24日(明治3… 殖田 謙吉(うえだ けんきち、1870年12月24日(明治3年11月3日) - 1904年(明治37年)9月4日)は、大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍少佐。庄屋殖田覚十郎の二男として生まれる。母方姓是恒。大分県宇佐郡駅館村出身。第2次吉田内閣の法務総裁殖田俊吉は甥である。 旧海軍機関学校(横須賀)から海軍兵学校(18期)に編入。海軍大学校、鎮守府参謀を経て日露戦争開戦時は軍令部参謀。後に連合艦隊参謀に転出。黄海海戦において「三笠」最上艦橋で戦傷を受け、佐世保海軍病院にて死去。伊藤正徳は殖田について「有為の参謀であった」と評している。 1904年(明治37年)8月10日、最上艦橋で指揮をとっていた殖田は午後6時30頃に、前部艦橋左舷のセマホア信号機に敵弾が命中炸裂、その弾片、破片により負傷した。
吉岡 範策(よしおか はんさく、1869年5月8日(明治2年… 吉岡 範策(よしおか はんさく、1869年5月8日(明治2年3月27日) - 1930年(昭和5年)3月19日)は、日本の海軍軍人。海軍中将。 1869年(明治2年)5月、肥後国(現・熊本県宇城市小川地区)に、肥後藩士の長男として生まれる。済々黌卒業。1891年(明治24年)海軍兵学校18期を卒業し、海軍少尉となる。日清戦争では防護巡洋艦「浪速」の分隊士として東郷平八郎艦長の下に従軍。「富士」回航委員などを経て、1901年(明治34年)海軍大学校2期を卒業。1904年(明治37年)海軍少佐となり、日露戦争では、第2艦隊旗艦「出雲」の砲術長として日本海海戦に参戦した。1912年(大正元年)大喪儀海軍事務委員、海軍演習審判官となる。
田中 耕太郎(たなか こうたろう、1868年4月18日(慶応… 田中 耕太郎(たなか こうたろう、1868年4月18日(慶応4年3月26日) - 1939年(昭和14年)11月9日)は、日本の海軍軍人、最終階級は海軍中将。 丹波国多紀郡篠山(現在の兵庫県丹波篠山市)出身。1890年(明治23年)、海軍兵学校を卒業。日清戦争では『扶桑』に乗り組み従軍した。1900年(明治33年)にロシアに留学を命じられ、その後軍令部に勤務した。1909年(明治42年)に在ロシア大使館附武官に就任。1914年(大正3年)からは馬公要港部参謀長、海軍大学校教官、軍令部第三班課長を歴任した。1919年(大正8年)より浦塩派遣軍附となった。 海軍随一のロシア通であったが、帝政ロシアの没落とともに1923年(大正12年)に予備役に編入された。
伊藤 乙次郎(いとう おとじろう、1866年12月2日〈慶応… 伊藤 乙次郎(いとう おとじろう、1866年12月2日〈慶応2年10月26日〉 - 1941年〈昭和16年〉3月27日)は、日本の海軍軍人。海軍中将従三位勲一等功四級。海兵13期首席、海大将校科1期優等。 旧尾張藩士伊藤久敬の息子として生まれる。愛知一中、攻玉社を経て、1887年2月、海軍兵学校(13期生)を首席で卒業し、1888年4月に海軍少尉任官。日清戦争では「比叡」航海長として出征した。海軍大学校では、丙種で学び、1897年12月、将校科(1期)を優等で卒業し、さらに選科でも学んだ。 その後、海軍省軍事課課僚、軍務局第1課局員、常備艦隊副官兼参謀、「常磐」航海長、「須磨」副長、「笠置」副長、ドイツ駐在などを歴任。
蘆野 敬三郎(あしの けいざぶろう、1866年(慶応2年) … 蘆野 敬三郎(あしの けいざぶろう、1866年(慶応2年) - 1941年(昭和16年)2月17日)は、数学天文学者、海軍大学教授、理学士、気象関係従事者。従三位勲二等。 慶應義塾幼稚舎を経て東京帝国大学理学部卒業。学生のとき1887年(明治20年)8月の皆既日食を白河にて、アメリカの天文学者トッド博士の通訳兼協力者として菊池大麓と共に観測に参加。 1900年(明治33年)文部省が行ったローマ字表記調査委員となり、上田萬年、磯田良、大西祝、神田乃武、金子銓太郎、小西信八、藤岡勝二、高楠順次郎、湯川寛吉、渡部董之介の11名で報告。 日本数学物理学会会員。長く海軍大学教授を務め、退官後、理化学研究所の図書の係を務めた。
林 三子雄(はやし みねお、1864年12月13日(元治元年… 林 三子雄(はやし みねお、1864年12月13日(元治元年11月15日) - 1904年(明治37年)5月26日)は、日本の海軍軍人。日露戦争に「鳥海」艦長として出征し、第三回旅順港閉塞作戦総指揮官を務めた海軍大佐である。南山攻撃援護作戦で戦死。従五位勲三等功四級。 大坂南河内郡狭山村(現:大阪狭山市)出身。父は河内狭山藩士・林伊織。海軍兵学校12期。席次は入校時次席、卒業時3番。同期に有馬良橘、山屋他人、江頭安太郎などがいる。1894年(明治24年)大尉となり、「高雄」航海長を経て海軍大学校甲号学生(5期)を卒業。志摩清直、黒井悌次郎は同期生である。「秋津洲」航海長として日清戦争に出征。艦長・上村彦之丞のもと黄海海戦を戦った。
坂本 一(さかもと はじめ、1859年11月6日(安政6年1… 坂本 一(さかもと はじめ、1859年11月6日(安政6年10月12日) - 1948年(昭和23年)11月21日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 土佐国土佐郡潮江村(現高知県高知市)で、坂本速、熊の息子として生まれた。致道館、さらに上京して山内家邸内の東京海南私塾で学んだ。 1874年(明治7年)10月、海軍兵学寮(7期)に入学。1883年(明治16年)11月、海軍少尉に任官。1890年(明治23年)1月、「海門」分隊長となり、「比叡」「金剛」「赤城」の各分隊長、「浪速」航海長、海軍大学校副官。1894年 (明治27年) 6月、「厳島」航海長となり、日清戦争に出征した。その後「鎮遠」回航委員、「葛城」副長などを経て、1896年(明治29年)4月、海軍少佐に昇進し横須賀水雷団第2水雷艇隊司令に就任した。
北古賀 竹一郎(きたこが たけいちろう、1858年9月9日(… 北古賀 竹一郎(きたこが たけいちろう、1858年9月9日(安政5年8月3日)- 1926年(大正15年)8月14日)は、明治時代から大正時代の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 肥前国佐賀郡本庄村(現在の佐賀県佐賀市)において、佐賀藩士の北古賀兵蔵の長男として生まれる。海軍兵学校を卒業し海軍少尉となる。同期に海軍大将となった斎藤実がいる。後に海軍大学校に入学し、卒業後に日清戦争に従軍した。1899年、海軍大佐となり海軍省軍務局兵器課長に就任した。 1906年、呉工廠長となり、1908年に舞鶴工廠長、同年に海軍水雷学校校長兼横須賀水雷団長などとなった。また、駐英造船造兵監督官や艦政本部第1部長、東京造兵廠長なども務めた。
鹿野 勇之進(かの ゆうのしん、1851年10月8日(嘉永4… 鹿野 勇之進(かの ゆうのしん、1851年10月8日(嘉永4年9月14日) - 1914年(大正3年)4月7日)は、日本の海軍軍人、政治家、華族。海軍中将正四位勲二等功三級男爵。貴族院議員。 信濃国松代藩士鹿野外守泰敬の子。明治4年(1871年)9月、海軍兵学寮(5期)に入学。1879年(明治12年)9月、海軍少尉任官。1885年(明治18年)9月、「筑波」分隊長となり、海軍兵学校教授兼生徒分隊長、「扶桑」分隊長、海軍大学校副官、海軍参謀部第1課員などを経て、1890年(明治23年)10月、海軍少佐に昇進。 1891年(明治24年)4月、「松島」回航事務取扱委員、同副長、練習船「干珠」艦長、横須賀水雷隊攻撃部司令などを歴任し、日清戦争では「西京丸」艦長として出征した。
田中 三雄(たなか みつお)は大日本帝国海軍軍人、航空自衛隊… 田中 三雄(たなか みつお)は大日本帝国海軍軍人、航空自衛隊員。戦前の海軍時代の姓は田中だが、戦後の航空自衛隊時代の姓は大谷だった。 熊本県立旧制玉名中学校を経て海軍機関学校(第36期)に進む。海軍機関学校を卒業後、霞ヶ浦海軍航空隊教官などを経て、海軍機関大尉に昇進する。その後、海軍大学校機関学科を卒業した。 卒業後は軍令部部員(第3部第5課)兼大本営海軍参謀、南東方面艦隊参謀などを歴任した。 1945年2月には海軍省人事局局員となり、海軍中佐で終戦を迎え、退役した。 その後、1952年に航空自衛隊に入隊し、整備学校(現・航空自衛隊第1術科学校)初代校長や北部航空方面隊司令や補給本部長などを歴任した。