今村 力三郎(いまむら りきさぶろう、1866年6月14日(… 今村 力三郎(いまむら りきさぶろう、1866年6月14日(慶応2年5月2日 ) - 1954年(昭和29年)6月12日)は、日本の弁護士であり、元裁判官。専修大学第5代総長。 信濃国(現長野県)下伊那郡上飯田村(現飯田市)に生まれる。旧姓は蜂谷であったが、今村家の養子となって今村姓を名のった。この養子縁組は兵役を逃れるためであった。1884年に上京し、伴正臣大審院(現最高裁判所)判事の玄関番をしながら、1886年に専修学校法律科(現専修大学法学部)に入学する。1888年、在学中に代言人試験(現司法試験)に合格して、専修学校を首席で卒業し、1889年から弁護士としての活動を開始した。1894年から1898年に裁判官として任官した後、1954年に没するまで在野法曹として、民事および刑事の多岐にわたる事件を扱い活躍した。
下田 菊太郎(しもだ きくたろう、1866年6月14日(慶応… 下田 菊太郎(しもだ きくたろう、1866年6月14日(慶応2年5月2日) - 1931年(昭和6年)12月26日)は、日本の建築家。秋田県出身。 アメリカ合衆国の建築設計事務所での勤務後、横浜に建築事務所を開設した。昭和初期の官庁建築等に広く用いられた帝冠様式を初めて提案したことでも知られる。当時の建築界では異色の存在で、自ら「建築界の黒羊」と称した。 1866年、佐竹藩士・下田藤右衛門(幼名、勇助。後に順忠)の次男として、秋田県角館町(現仙北市)に生まれた。1871年(明治4年)一家で秋田市に転居。明治13年(1880年)秋田師範学校中学予備科に入学したが、1882年(明治15年)6月に中途退学して上京、工部大学校入学を志した。
渡辺 昭(わたなべ あきら、慶応2年5月1日(1866年6月… 渡辺 昭(わたなべ あきら、慶応2年5月1日(1866年6月13日) - 1940年(昭和15年)5月5日)は、衆議院議員(立憲国民党→革新倶楽部)、弁護士。 陸奥国(福島県)田村郡三春町出身。1889年(明治22年)に英吉利法律学校(現在の中央大学)を卒業。1891年(明治24年)、弁護士試験に合格し、翌年に京都市で事務所を開いた。1914年(大正3年)には京都弁護士会長に選ばれている。 1903年(明治36年)、京都府会議員、参事会員に選ばれ、翌年には京都市会議員に当選した。市会では1909年(明治42年)に議長に選ばれており、教育や公共事業のために尽力した。 1915年(大正4年)、第12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
藻寄 鉄五郎(鐵五郎、もより てつごろう、1866年6月13… 藻寄 鉄五郎(鐵五郎、もより てつごろう、1866年6月13日(慶応2年5月1日)- 1935年(昭和10年)9月8日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。 能登国珠洲郡北方村(石川県珠洲郡上戸村字北方を経て現珠洲市)で、医師・藻寄行蔵の五男として生まれた。父から医師となるべく学業の指導を受け、1885年(明治18年)上京して東京大学医学部に入学。20歳頃から星亨に私淑して政界を目ざし、医学部を退学して星の指導を受けた。 1891年(明治24年)に帰郷し上戸村助役に就任。同年7月、珠洲郡会議員に当選し2期在任。同年10月、石川県会議員に選出され2期在任した。1896年(明治29年)北陸新聞社社長に就任し1897年(明治30年)まで在任した。
石谷 伝四郎(石谷 傳四郎、いしたに でんしろう、1866年… 石谷 伝四郎(石谷 傳四郎、いしたに でんしろう、1866年6月12日(慶応2年4月29日)- 1923年(大正12年)12月19日)は、明治から大正期の実業家、政治家。鳥取県平民。鳥取県多額納税者。 因幡国智頭郡、のちの鳥取県智頭郡智頭村(八頭郡智頭村を経て現智頭町)に生まれる。石谷伝九郎の長男。石谷家は智頭四軒衆と呼ばれた素封家のひとつで、山林経営によって江戸時代の大庄屋から智頭の筆頭地主となった豪家。 慶應義塾を卒業し、家業を継いだ。町会議員、県会議員となって活躍した。 1898年(明治31年)には衆議院議員に初当選し、その後も2回再選された。1903年(明治36年)春、日本美術院長の岡倉天心が智頭町にある豊乗寺の国宝調査に訪れた際、国米泰石の技量の高さを岡倉天心に示したところ、国米泰石は岡倉天心に招かれて日本美術院に入ることとなった。
中村 四郎兵衛(なかむら しろうべえ、1866年6月11日(… 中村 四郎兵衛(なかむら しろうべえ、1866年6月11日(慶応2年4月28日) - 1930年(昭和5年)5月15日)は、明治から昭和時代初期の政治家。衆議院議員(1期)。 遠江国豊田郡、のちの静岡県豊田郡井通村(磐田郡井通村、豊田村、豊田町を経て現磐田市)に生まれる。浜松町会議員、同評議員、浜松市会議員、同参事会員、静岡県会議員、同議長を歴任したほか、浜松商業会議所議員、浜松瓦斯常務取締役、静岡県消防組連合会常議員を務めた。 1924年(大正13年)5月の第15回衆議院議員総選挙では静岡県第2区から政友本党所属で出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
神頭 勝弥(神頭 勝彌、こうず かつや、1866年6月10日… 神頭 勝弥(神頭 勝彌、こうず かつや、1866年6月10日(慶応2年4月27日) - 1941年(昭和16年)8月28日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。位階勲等功級は従三位勲二等功三級。 信濃国水内郡檀田村(長野県長野市)に神頭三太夫の三男として生まれ、1910年(明治43年)分家する。1891年(明治24年)陸軍士官学校第2期卒業。1899年(明治32年)陸軍大学校第13期卒業。 1912年(大正元年)9月に陸軍歩兵大佐・高知連隊区司令官、1913年(大正2年)8月に歩兵第28連隊長、1916年(大正5年)3月に第3師団参謀長、1917年(大正6年)5月に中支那派遣隊司令官を経て、同年8月に陸軍少将に進級。
浅野 斧山(あさの ふざん、1866年6月7日<慶応2年4月… 浅野 斧山(あさの ふざん、1866年6月7日<慶応2年4月24日> - 1912年6月1日)は、日本の僧侶、仏教学者。名古屋市天年寺第16世、曹洞宗大学林教授などを歴任。号は打睡庵。 名古屋南鍛冶屋町の浅野束穂の三男に生まれる。1879年、洗月院三世の天珠について得度。それ以来、白鳥鼎三、鷹林冷生に12年間にわたり随侍。1885年、法持寺の天珠の下で立身。1889年、天珠の室に入って嗣法。1891年、永平寺で転衣出世。1893年、天年寺に首先住職した。 1899年、曹洞宗大学林(現: 駒澤大学)卒業。内地留学生となり、京都・浄土宗専門学院長の大鹿感成に倶舎論、唯識、因明などを学ぶ。その後、東大寺戒壇院長老の上田照遍に華厳、天台の講義を受ける。
古林 与六(與六、こばやし よろく、1866年5月31日(慶… 古林 与六(與六、こばやし よろく、1866年5月31日(慶応2年4月17日) - 1922年(大正11年)10月9日)は、日本の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。幼名・磯五郎。 筑前国上座郡古毛村(のち福岡県朝倉郡朝倉町、現:朝倉市)で、素封家・先代古林与六の長男として生まれる。中学校を卒業し農業を営む。 耕地整理に尽力し古毛耕地整理委員長を務めた。自由民権を唱え、朝倉村会議員、同村長、朝倉郡会議員、同参事会員、福岡県会議員などを歴任した。その他、福岡県醤油組合支部長、朝倉軌道取締役などを務めた。 1920年5月、第14回衆議院議員総選挙に福岡県第11区から立憲政友会所属で出馬して当選したが、在任中に死去した。
相沢 菊太郎(あいざわ きくたろう、1866年5月28日(慶… 相沢 菊太郎(あいざわ きくたろう、1866年5月28日(慶応2年4月14日) - 1962年(昭和37年)4月26日)は、明治から大正期の日本の政治家、神奈川県高座郡相原村村長。 神奈川県高座郡相原村(現:相模原市相原)に生まれる。1908年(明治41年)より地元相原村の村長となり、横浜鉄道(現:JR横浜線)の橋本駅開設や相模農蚕学校(現:神奈川県立相原高等学校)の誘致に尽力した。 菊太郎は1885年(明治18年)から死の直前までの78年間に渡り日々の生活を記録した日記を残した。昭和時代になり、子の相沢栄久の編集により、1965年4月に「相澤日記」として明治18年から明治25年の記述が刊行された。
宇都宮 仙太郎(うつのみや せんたろう、1866年5月28日… 宇都宮 仙太郎(うつのみや せんたろう、1866年5月28日(慶応2年4月14日) - 1940年(昭和15年)3月1日)は、日本の実業家、酪農家。北海道で初めて民間によるバターの製造を行ったほか、日本最初の酪農組合「札幌牛乳搾乳業組合」を組織し、雪印乳業(現:雪印メグミルク)の土台を築いた。これらの業績から「北海道酪農の父」と称されている。 豊後の下毛郡大幡村(現在の大分県中津市)の養蚕家であった武原文平、母ヤスの二男として生まれる。生家に伝わる家系図によれば、当初は仙二郎と命名されたが、戸籍簿に誤って「仙太郎」と記入されてしまい、これが本名となった。後に母方の親戚・宇都宮武平の養嗣子となる。
熊谷 喜一郎(くまがい きいちろう、1866年5月26日(慶… 熊谷 喜一郎(くまがい きいちろう、1866年5月26日(慶應2年4月12日) - 1949年(昭和24年)10月9日)は、日本の内務官僚。樺太庁民政長官、官選県知事。 熊谷禎蔵の長男として江戸で生まれる。1892年、帝国大学法科大学を卒業。同年7月、内務省試補となり社寺局に配属された。 1893年11月、北海道庁参事官に就任。以後、内務書記官、拓殖務省書記官、農商務省・陸軍省・内務省の各参事官、兼台湾総督府事務官などを歴任。1905年8月、樺太民政署が設置されると民政長官に就任。1907年4月、樺太民政署が樺太庁に改編され、引き続き民政長官を務めた。 樺太庁では長官の楠瀬幸彦と不仲になり、第1次西園寺内閣の内務大臣である原敬は1908年4月24日に両名を更迭し、熊谷は同年6月12日付けで山梨県知事に就任した。
小池 国三(こいけ くにぞう、1866年5月24日(慶応2年… 小池 国三(こいけ くにぞう、1866年5月24日(慶応2年4月10日)- 1925年(大正14年)3月1日)は、日本の実業家、投資家である。旧姓、浅川。幼名は国五郎。 甲斐の甲府生まれ。小学校卒業後の1878年(明治11年)に12歳で若尾逸平の門に入り、株式取引を師事する。1890年(明治23年)に若尾が貴族院議員に就任したと同時に秘書を務めた。1895年(明治28年)には、若尾と共に生まれ故郷の甲府で綿や絹の商人として活動した。 1896年(明治29年)、小池銀行創立(組織としては株式会社だが、株式のほとんど全てを小池一族が所有しており、実質的には小池の個人銀行。国三没後の1930年に小池証券に改組し、1943年に山一證券と合併)。
新井 洞巌(あらい どうがん、慶応2年4月10日〈1866年… 新井 洞巌(あらい どうがん、慶応2年4月10日〈1866年5月24日〉 - 1948年〈昭和23年〉5月2日)は、明治から昭和前期に活躍した南画家。本名は信吉。号は白雲、後に洞巌。養子は住友生命保険社長・会長を務めた新井正明。「洞厳」は誤記。 上野国吾妻郡原町須郷沢(現・群馬県吾妻郡東吾妻町)に、新井半重郎の次男として生まれた。6歳の時に母、13歳の時に兄、19歳の時に父を亡くし、継母は異母妹を連れて郷里へ帰ったため天涯孤独となる。 長井雲坪、四谷延陵、菅原白龍、高森砕巌に南画を、漢学を貫名海雲に学んだ。1896年(明治29年)から18年に渡って日本全国や中国の洞庭湖、台湾などを旅した。その絵は吉川英治や安岡正篤らに評価され、吉川からは「最後の南画人」と評された。
宮古 啓三郎(みやこ けいざぶろう、慶応2年4月8日(186… 宮古 啓三郎(みやこ けいざぶろう、慶応2年4月8日(1866年5月22日) - 昭和15年(1940年)4月9日)は、日本の衆議院議員(壬寅会→立憲政友会)、弁護士。 常陸国行方郡行方村(現在の茨城県行方市)出身。今泉源兵衛の二男で、縁戚の宮古氏の跡を継いだ。1884年(明治17年)に司法省法学校に入学するが、学制の改正により第一高等中学校に移り、1889年(明治22年)に卒業した。その後、東京帝国大学法科大学に入学し、1892年(明治25年)に卒業した。卒業後は弁護士を開業し、また日本法律学校(日本大学)の講師も務めた。 1902年の第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、9回の当選回数を数えた。
石田 仁太郎(いしだ じんたろう、慶応2年4月8日(1866… 石田 仁太郎(いしだ じんたろう、慶応2年4月8日(1866年5月22日) - 昭和15年(1940年)12月31日)は、日本の政治家、弁護士。栃木県宇都宮市長、衆議院議員などを歴任した。 肥後国託麻郡、のちの熊本県託麻郡大江村(飽託郡大江村を経て現熊本市)出身。明治法律学校を卒業し弁護士となる。1899年(明治32年)9月から1903年(明治36年)9月まで河内郡選出の栃木県会議員を務め、1899年11月からは県会副議長を務めた。1904年(明治37年)の第9回衆議院議員総選挙で栃木県郡部選挙区から立候補して当選。衆議院議員は連続3期務め当初は憲政本党に所属したが後に立憲国民党に参加している。
西村 正則(にしむら まさのり、1866年5月22日(慶応2… 西村 正則(にしむら まさのり、1866年5月22日(慶応2年4月8日)- 1924年(大正13年)4月30日)は、明治から大正期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、石川県石川郡出城村長。 加賀国石川郡竹松村(石川県石川郡出城村竹松、松任町、松任市を経て現白山市竹松町)で、西村庄右衛門、りせ の長男として生まれる。1896年(明治29年)4月、家督を相続した。農業を営む。 1900年(明治33年)10月、立憲政友会石川県支部が設立されると幹事に就任。1901年(明治34年)12月、出城村長に就任し1903年(明治36年)8月まで在任。同年9月、石川県会議員に当選し、1911年(明治44年)8月まで2期在任し、同参事会員も務めた。
赤田 瑳一(あかた さいち、1866年5月20日〈慶応2年4… 赤田 瑳一(あかた さいち、1866年5月20日〈慶応2年4月6日〉 - 1935年〈昭和10年〉8月31日)は、日本の政治家、地家主。衆議院議員(立憲政友会→政友本党)。大阪市会議員。族籍は大阪府平民。 摂津国東成郡天王寺村(現・大阪府大阪市)で代々農業を営む家に生まれる。赤田太兵衛の長男。2歳で父を亡くし、母の手で育てられた。 その後、河内国高安郡(現・大阪府八尾市)の叔父の元に移り17歳まで過ごした。八尾町の田中祐篤の塾生となり国史・漢籍を学ぶ。のち塾を脱し伊予の松山に赴き同地の豫章館に入り、国史・漢籍を修める。病気となり帰阪して療養の傍ら家政を整理する。 天王寺村の戸長・橋本善右衛門が赤田を迎え、役場用掛とする。
2代目川崎 八右衛門(かわさき はちえもん、慶応2年4月5日… 2代目川崎 八右衛門(かわさき はちえもん、慶応2年4月5日(1866年5月19日) - 昭和22年(1947年))は、日本の実業家。初代川崎八右衛門、世舞子夫妻の次男。金三郎とも名乗った。川崎守之助の父。妻、幸子(こうこ)は、郷純造の娘。東京川崎財閥第2代当主。男爵。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
佐川 玄彝(さがわ げんい、1866年5月18日(慶応2年4… 佐川 玄彝(さがわ げんい、1866年5月18日(慶応2年4月4日) - 1944年(昭和19年)5月13日)は、日本の僧侶。曹洞宗總持寺独住第15世貫首、永平寺第72世貫首。道号は訓山玄彝。 1866年(慶応2年)周防国大島郡(後の山口県大島郡蒲野村、現・周防大島町)生まれ。1882年3月3日屋代村の龍心寺大村玄英について得度。1891年曹洞宗大学林(現駒澤大学)卒業(卒業証書授与は1892年春)。同年、曹洞宗管長より山形県米沢市の曹洞宗中学林の教授に任命される。1892年師匠の病気のため辞職し看病に務める。1893年2月、龍心寺住職。1894年山口県曹洞宗中学林の教授。1913年曹洞宗第四中学林の第3代学林長に就任。
安東 敏之(あんどう としゆき、1866年5月15日(慶応2… 安東 敏之(あんどう としゆき、1866年5月15日(慶応2年4月1日)- 1932年(昭和7年)2月9日)は、明治から昭和前期の弁護士、政治家。衆議院議員。旧姓・芦田、幼名・利作。 美作国勝北郡広戸村(岡山県勝田郡広戸村、勝北町を経て現津山市)で芦田藤平の五男として生まれ、1884年(明治17年)4月、同郡、のちの新野村(勝北町を経て現:津山市)の安東友七の養嗣子となる。有功学舎、勝北中学校、大阪泰西学舘、関西法律学校を経て、1891年(明治24年) 東京法学院(現中央大学)法科を卒業した。同年、代言人試験(弁護士試験)に合格し東京で開業した。 1893年(明治26年)名古屋市に転居して、1901年(明治34年)名古屋弁護士会長に就任。
廣池 千九郎(広池 千九郎、ひろいけ ちくろう、1866年5… 廣池 千九郎(広池 千九郎、ひろいけ ちくろう、1866年5月13日〈慶応2年3月29日〉 - 1938年〈昭和13年〉6月4日)は、日本の法学者、歴史学者、教育者、宗教家。法学博士。モラロジーの提唱者。道徳科学研究所、学校法人廣池学園の創立者。早稲田大学講師、神宮皇學館教授、天理教教育顧問を歴任。号は鵬南、扇城、西海、蘇哲、幹堂など。 慶應義塾の関連校である中津藩の洋学校の中津市学校に学ぶ。歴史家として論文と書物を著したのちに法学を学び、早稲田大学講師を経て、神宮皇學館教授となる。当時の国家的事業である『古事類苑』(日本の古事に関する大百科事典)の編纂に携わるとともに、「東洋法制史序論」について研究し、独学で、1912年(大正元年)12月10日に東京帝国大学から法学博士号を取得する。
丸岡 九華(まるおか きゅうか、本名:久之助、慶應2年3月2… 丸岡 九華(まるおか きゅうか、本名:久之助、慶應2年3月25日(1866年5月9日) - 昭和2年(1927年)7月9日)は、日本の詩人、小説家、実業家。 江戸青山生まれ。共立学校(現開成高等学校)、東京大学予備門を経て、1887年高等商業学校(現一橋大学)卒業。 在学中、尾崎紅葉らと硯友社創設に参画し、新体詩などを発表し、卒業後は文学を離れ、矢野二郎校長の勧めで教員となり、1892年からは県立神戸商業学校校長事務取扱を務めた。 のち、実業家に転じ、高田商会横浜支店長等を経て、独立し、イギリスのサン保険会社(英語版)の東京支店開設にあたり同支店支配人となり、同社の契約高や保険料収入を日本国内3位以内にまで育てた。
山谷 徳治郎(やまや とくじろう、1866年5月5日(慶応2… 山谷 徳治郎(やまや とくじろう、1866年5月5日(慶応2年3月21日) - 1940年(昭和15年)5月27日)は、日本の医師、政治家、衆議院議員(1期)、医学博士。兄は衆議院議員の山谷虎三。長男は俳人・日新書院取締役の山谷太郎で、その次男が脚本家・演出家の倉本聰である。 東京都出身。岡山県医学校を経て、東京帝国大学医学部で内科及び病理学を専攻する。1907年、ドイツに留学し、ギーセン大学とゲッチンゲン大学で学び、ドクトル・メジーネ(医学博士)を授けられる。帰国後は津山町(現・津山市)で病院を開業する。その後、大阪の病院の副院長、三共(資)理事、(株)日新医学社を創立、取締役社長となる。その他、医学雑誌や図書の出版に従事した。
石川 伍一(いしかわ ごいち、慶応2年(1866年)5月 -… 石川 伍一(いしかわ ごいち、慶応2年(1866年)5月 - 明治27年(1894年)9月19日)は、日清戦争期の海軍関連の民間人諜報活動家、大陸浪人の先覚者。清軍により29歳で銃殺された。甥は小説家の石川達三。 陸奥国鹿角郡毛馬内に生まれる。南部藩祐筆で毛馬内戸長の父・石川儀平に伴い9歳で盛岡に出て仁王小学校に学び、明治12年(1879年)に東京に出て攻玉社中学校・高等学校に入るも、転じて島田篁村について漢学を修め、次いで興亜会支那語学校に入って中国語を学ぶ。 明治17年(1884年)に上海に渡り、海軍大尉・曽根俊虎に従い清の情勢を研究。次いで、荒尾精らと共に漢口楽善堂の立ち上げに参加。北京、天津、四川方面までを幅広く調査にあたる。
黒木 欽堂(くろき きんどう、1866年4月25日(慶応2年… 黒木 欽堂(くろき きんどう、1866年4月25日(慶応2年3月11日) - 1923年(大正12年)8月31日)は、明治・大正時代の書家・漢学者。名は安雄。字は武卿。別号に欣堂、蓍園。讃岐国(香川県)出身。金石文の権威であり、楚辞や文選等を得意とした。 慶応2年(1866年)讃岐国那珂郡良野村(現・まんのう町吉野)大宮神社祠官黒木茂矩(しげのり)の子として生まれる。黒木家は江戸時代から続く漢学者の家系で、父・茂矩は秋山厳山、日柳燕石らに学び、高松藩藩校・講道館学寮教授、教部省の神道教導職、金刀比羅宮の禰宜(ねぎ)等を務めた。 欽堂は父・茂矩と片山冲堂に学んだ後、漢学塾・二松學舍を経て、1885年(明治17年)東京大学文学部附属古典講習科漢書課後期入学、1888年(明治21年)7月卒業。
坂本 嘉治馬(さかもと かじま、慶応2年3月11日(1866… 坂本 嘉治馬(さかもと かじま、慶応2年3月11日(1866年4月25日) - 昭和13年(1938年)8月23日)は、日本の実業家。明治、大正期を代表する出版社、冨山房を神田神保町に設立した。土佐国(高知県)宿毛村出身。 1866年、土佐国(高知県)宿毛村坂ノ下で生まれる。1884年に酒井融をたよって上京、同郷の小野梓が経営する東洋館に勤務する。1886年、東洋館が終焉をむかえたため、小野の義兄小野義眞の援助を受け冨山房を設立。1900年、吉田東伍『大日本地名辞書』の刊行を開始。1915年、上田萬年、松井簡治『大日本国語辞典』の刊行を開始。1920年、内外印刷株式会社を設立。1929年、出身地に私立坂本図書館(現:宿毛市立坂本図書館)を設立。
石井 菊次郎(いしい きくじろう、慶応2年旧暦3月10日(1… 石井 菊次郎(いしい きくじろう、慶応2年旧暦3月10日(1866年4月24日)- 1945年(昭和20年)5月25日?)は、日本の外交官、政治家。第2次大隈内閣で外務大臣を務め、国際連盟設立期には日本代表を務めた。特使としてアメリカで締結した石井・ランシング協定にその名を残すことでも知られる。
高久 倉蔵(たかく くらぞう、1866年4月23日(慶応2年… 高久 倉蔵(たかく くらぞう、1866年4月23日(慶応2年3月9日) - 1917年(大正6年)6月17日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。 下野国都賀郡皆川村(現在の栃木県栃木市)出身。皆川村会議員、同村長、下都賀郡会議員、栃木県会議員を歴任した。1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他、野州日報社主を務めた。
岡井 藤之丞(おかい とうのじょう、1866年4月22日(慶… 岡井 藤之丞(おかい とうのじょう、1866年4月22日(慶應2年3月8日)- 1944年(昭和19年)12月19日)は日本の政治家、弁護士。衆議院議員(中央倶楽部)。 1866年(慶應2年3月)、美濃国郡上郡八幡町に生まれる。1886年(明治19年)に東京法学校(現・法政大学)を卒業し、代言人試験に合格する。 1899年(明治32年)に岐阜県会議員に当選し、第17代副議長をへて、1903年(明治36年)、第8回衆議院議員総選挙に出馬し、当選する。第9回衆議院議員総選挙、第10回衆議院議員総選挙に連続当選する。 また、1904年(明治37年)の日露戦争においての功労により勲四等旭日小綬章を受章する。
福井 菊三郎(ふくい きくさぶろう、1866年4月16日(慶… 福井 菊三郎(ふくい きくさぶろう、1866年4月16日(慶應2年3月2日)- 1946年(昭和21年)) は、日本の実業家。戦前三井財閥の幹部で、三井合名常務理事や、東神倉庫会長、パリ講和会議代表顧問等を務めた。陶磁器収集家としての著書もある。 江戸で中村萬吉の五男として生まれる。1881年福井家の先代むめの養子となる。1883年、商法講習所(現一橋大学)卒業後、18歳で三井物産に入る。同級生に小室三吉元三井同族会理事などがいた。 在学中の成績は良くなかったが、村長や地主に落ち着いた同級生たちを尻目に小室とともに出世頭となり、三井物産シンガポール支配人、三井物産香港支店長、三井物産営業部長、三井物産大阪支店長、三井物産ニューヨーク支店長、三井物産取締役兼東神倉庫取締役を経て、1910年三井物産常務取締役。
金沢 種次郎(金澤、かなざわ たねじろう、1866年4月16… 金沢 種次郎(金澤、かなざわ たねじろう、1866年4月16日(慶応2年3月2日)- 1925年(大正14年)10月18日)は、明治から大正期の実業家・政治家。衆議院議員。旧姓・伊沢。 阿波国板野郡中喜来浦(徳島県板野郡松茂村字中喜来を経て現松茂町中喜来)で、伊沢壮太郎の三男として生まれる。小学校卒業後、徳島中学校(現徳島県立城南高等学校)に進んだ。私塾で漢学も修めた。1886年(明治19年)大阪に出て先代・金沢仁兵衛と出会い、その勧めで同家の肥料商に従事。1887年(明治20年)徴兵され衛生部員として広島衛戍病院、野砲兵第5連隊(広島)で勤務し、1889年(明治22年)帰休兵となり除隊した。その後上京して、1892年(明治25年)7月、東京専門学校(現早稲田大学)で英法及経済財政学を修めて卒業し、さらに同年8月、明治法律学校(現明治大学)の三カ年全課程試験に合格し仏蘭西派法律及政治科を卒業した。
松本 恒之助(まつもと つねのすけ、慶応2年2月29日(18… 松本 恒之助(まつもと つねのすけ、慶応2年2月29日(1866年4月14日) - 大正15年(1926年)6月1日)は、日本の衆議院議員(猶興会→又新会→中正会→憲政会)。父は伊勢新聞創業者の松本宗一、曽祖父は津藩郷士の松本安親、弟は衆議院議員の松本宗吾、曾姪孫は歌手・女優のあべ静江。 伊勢国一志郡矢野村(現在の三重県津市)に松本宗一の長男として生まれる。1883年(明治16年)、同志社に入学するが、1885年(明治18年)に東京専門学校(現在の早稲田大学)に移り、1888年(明治21年)に卒業した。卒業後は郷里に帰り、伊勢新聞社の経営にあたった。また、津市会議員に選出された。 1904年(明治37年)、衆議院議員に補欠当選。
並木 和一(なみき かずいち/わいち、慶應2年2月28日〈1… 並木 和一(なみき かずいち/わいち、慶應2年2月28日〈1866年4月13日〉 - 1953年〈昭和28年〉12月7日)は、明治から大正時代の政治家、貴族院多額納税者議員、大地主。 並木衛七の長男として信濃国佐久郡野沢村(現・佐久市野沢)に生まれ、1883年(明治16年)12月、家督を相続する。上京し、鈴木松塘に漢籍を学び、帰郷して松本中学校(現・長野県松本深志高等学校)に学ぶ。村会議員を1期、町会議員を4期、郡会議員を経て、1903年(明治36年)長野県会議員となり、さらに翌1904年(明治37年)長野県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日に就任。議員を1911年(明治44年)9月28日まで7年1期務め、その間、請願委員、決算委員を歴任した。
寺崎 広業(てらさき こうぎょう、慶応2年2月25日(186… 寺崎 広業(てらさき こうぎょう、慶応2年2月25日(1866年4月10日) - 1919年2月21日)は、秋田県出身の日本画家。 放浪の画家といわれた寺崎広業は慶応2年(1866年)久保田古川堀反(秋田市千秋明徳町)の母の実家久保田藩疋田家老邸で生まれた。寺崎家も藩の重臣であった。父の職業上の失敗もあって横手市に移って祖母に育てられた。幼児から絵を好みすぐれていたというが貧しく、明治10年(1877年)には太平学校変則中学科(現秋田県立秋田高等学校)に入学するも一年足らずで退学。10代半ば独り秋田に帰り牛島で素麺業をやったりしたという。秋田医学校にも入ったが学費が続かなかった。結局好きな絵の道を選び、16歳で手形谷地町の秋田藩御用絵師だった狩野派の小室秀俊(怡々斎)に入門、19歳で阿仁鉱山に遊歴の画家第一歩を印したが、鹿角に至った時戸村郡長の配慮で登記所雇書記になった。
田尻 寅雄(たじり とらお、1866年4月6日 - 1947… 田尻 寅雄(たじり とらお、1866年4月6日 - 1947年)は、日本の医学者。 東京芝白金に北里柴三郎が設立した「土筆ケ岡養生園」で医師として勤務し、同時に「私立衛生会伝染病研究所」の助手として細菌学研究に従事した。 熊本初のハンセン病病院、回春病院初代院長として、ハンナ・リデルを助け病院の充実に努めた。 1866年(慶応2年)熊本県玉名市天水町立花に肥後国田尻氏の本流として生まれる。 代々医師の家系で父であり医師、田尻宗彦(そうげん1824ー1896)は村田家と同様熊本藩の産科医として有名であった。細川家の上級医師(御目見医師)で、田尻宗彦の元には、唐津藩の命により草場見節が産婦人科の修行に来ていた。
露無 文治(つゆむ ぶんじ、慶応2年2月18日(1866年4… 露無 文治(つゆむ ぶんじ、慶応2年2月18日(1866年4月3日) - 昭和16年(1941年)2月22日)は日本組合基督教会の牧師である。 1866年(慶応2年)備中国倉敷天城に久次郎、せん子の子として生まれる。1882年(明治15年)岡山市に出て原泉学舎で漢学を学び、オティス・ケーリや金森通倫によりキリスト教に接する。 新聞で新島襄の経歴を読んで渡米することを志すが、天城教会の亀山昇から同志社に行くように勧められ、同志社英学校に入学した。在学中に、京都第二公会(現・日本基督教団同志社教会)でアメリカンボードのJ・D・デイヴィスから洗礼を受ける。 在学中、同志社英学校で開催された第1回夏季学校の記録を編集して、『学生之大会』を刊行する。
尾高 次郎(おだか じろう、1866年4月2日〈慶応2年2月… 尾高 次郎(おだか じろう、1866年4月2日〈慶応2年2月17日〉 - 1920年〈大正9年〉2月4日)は、日本の実業家、銀行家。武州銀行(現埼玉りそな銀行)の初代頭取。岳父は渋沢栄一。族籍は埼玉県平民。 武蔵国榛沢郡下手計村(のちの八基村、現埼玉県深谷市下手計)出身。尾高惇忠の次男。数え3歳の頃、親族の尾高幸五郎の養子になる。1882年、幸五郎から家督を相続する。 1891年、高等商業学校(現一橋大学)を卒業し、第一銀行(現みずほフィナンシャルグループ)入行。名古屋支店長、四日市支店長、釜山支店長、仁川支店長、監査役を歴任し、釜山・仁川で日本人商業会議所会頭、居留民会議長も務めた。 1904年、韓国興業専務取締役。
原田 勘七郎(はらだ かんしちろう、旧姓:前原(まえばら)、… 原田 勘七郎(はらだ かんしちろう、旧姓:前原(まえばら)、慶応2年2月14日(1866年3月31日) - 大正7年(1918年)3月18日))は、日本の実業家、政治家。東陽倉庫、帝国製糸の創設に尽力し、名古屋市に日本車輌製造を設立して専務取締役を務め、名古屋市会議員なども務めた。 下野国安蘇郡作原(現在の栃木県佐野市作原町)に生まれる。小学校卒業後、栃木小学校で教鞭を執っていたが、田中正造の知遇を得て森鴎村の家塾に学び、宇都宮市の英学校を経て、明治27年(1894年)に高等商業学校(現在の一橋大学)に入学。経済的な苦労もあったが、島田三郎の玄関番や、佐久間貞一の知遇を得て学生生活を続けた。 しかし、成瀬隆蔵教授や、森島修太郎教授の更迭を求める同盟休校騒ぎ(矢野二郎排斥事件)の首謀者となり、矢野二郎校長の逆鱗に触れ、明治26年(1893年)に退学となった。
野間口 兼雄(のまぐち かねお、慶応2年2月14日(1866… 野間口 兼雄(のまぐち かねお、慶応2年2月14日(1866年3月30日) - 昭和18年(1943年)12月24日)は、日本の海軍軍人、海軍大将。
猪子 吉人(いのこ きちんど、1866年3月28日(慶応2年… 猪子 吉人(いのこ きちんど、1866年3月28日(慶応2年2月12日) - 1893年(明治26年)9月20日)は明治時代の薬理学者。医学博士。但馬豊岡藩(兵庫県)家老猪子清の次男。兄は京都帝国大学医科大学名誉教授の猪子止戈之助。 長兄の止戈之助は外科学者として京都府立医学校長、京都帝大医科大学教授を歴任した。姉のふて(ふで)は沖野忠雄の妻となる。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。 この項目は、薬学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:薬学/Portal:医学と医療/Portal:化学)。
稲茂登 三郎(いなもと さぶろう、1866年3月25日(慶応… 稲茂登 三郎(いなもと さぶろう、1866年3月25日(慶応2年2月9日)- 1936年(昭和11年)3月1日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(2期)。旧姓・木暮。 上野国群馬郡、のちの群馬県西群馬郡伊香保町(現渋川市伊香保町)で木暮武禄の三男として生まれ、1898年(明治31年)東京市神田区の稲茂登カネの入夫となり家督を相続した。 群馬県中学校(現・群馬県立前橋高等学校)卒。東京市会議員、同参事会員、東京商業会議所議員のほか、帝国火災保険株式会社取締役他数社の重役となった。 1908年(明治41年)第10回衆議院議員総選挙において東京市選挙区から無所属で立候補して当選した。1912年(明治45年)第11回衆議院議員総選挙でも再選した。
棟居 喜九馬(むねすえ きくま、1866年3月25日(慶応2… 棟居 喜九馬(むねすえ きくま、1866年3月25日(慶応2年2月9日) - 1932年(昭和7年)9月2日)は日本の逓信省参事官また、長老派の日本基督教会富士見町教会の長老である。 1866年に棟居義彦、房子の子として周防国徳山に生まれる。 上京して、第一高等中学校に入学する。入学後に、一番町教会(富士見町教会)に行き、同教会の牧師であった植村正久の説教を聞いて、キリスト教に入信する。1887年(明治20年)7月に植村より洗礼を受けクリスチャンになる。 第一高等中学卒業後、東京帝国大学に入学する。 1893年(明治26年)に東京帝国大学法科を卒業し、農商務省に務める。その後、熊本県参事官、大阪府参事官、逓信省の通信事務官、書記官などを歴任する。
西巻 開耶(にしまき さくや、慶応2年2月8日(1866年3… 西巻 開耶(にしまき さくや、慶応2年2月8日(1866年3月24日) - 1908年(明治41年)12月31日)は、日本の女性運動家。現在の新潟県柏崎市出身。 小学校教員となったのち自由民権運動に加わり、1881年に柏崎での集まりで男女同権を訴える演説を行った。1882年に教員でありながら政治集会に参加したことが集会条例違反等に問われ、翌年に罰金刑を受けた。このことで「日本初の女性政治犯」とされる一人である。その後は民権運動から離れたものの、女性の経済的自立や政治的自立を国権論の立場から支持していた社会活動家の北畠道龍と行動をともにし、婦人組織の結成や女子教育の実践にたずさわった。のちに北畠道龍の妻となる。
右田 寅彦(みぎた のぶひこ、慶応2年2月6日(1866年3… 右田 寅彦(みぎた のぶひこ、慶応2年2月6日(1866年3月22日) - 大正9年(1920年)1月11日)は大正時代の劇作家、歌舞伎狂言作者、小説家。 豊後国(現・大分県)臼杵に臼杵藩士の子に生まれる。右田年英の実弟。柳塢亭、矮亭主人と号す。明治10年代、11歳時には上京、三田英学校や漢学塾に学んだ後、高畠藍泉に師事する。めざまし新聞、都新聞において多くの戯曲の脚本、艶種(つやだね)や雑報などを執筆した。その後、東京朝日新聞に入社して主に小説を書いた。明治38年(1905年)には栗島狭衣らと文士劇の劇団、若葉会を結成する。明治42年(1909年)に帝国劇場が開場されるのに伴い、立作者となって多数の戯曲を執筆した。
若槻 禮次郞(わかつき れいじろう、慶応2年2月5日(186… 若槻 禮次郞(わかつき れいじろう、慶応2年2月5日(1866年3月21日) - 昭和24年(1949年)11月20日)は、日本の大蔵官僚、政治家。栄典は正二位勲一等男爵。旧姓は奥村。幼名は源之丞。号は克堂。新字体にて若槻 礼次郎(わかつき れいじろう)と表記されることもある[注釈 1]。
西郷 四郎(さいごう しろう、1866年3月20日(慶応2年… 西郷 四郎(さいごう しろう、1866年3月20日(慶応2年2月4日) - 1922年(大正11年)12月22日)は、明治時代の柔道家。講道館四天王の一人。富田常雄の小説『姿三四郎』のモデル。
森田 卓爾(もりた たくじ、慶応2年2月1日(1866年3月… 森田 卓爾(もりた たくじ、慶応2年2月1日(1866年3月17日) - 昭和3年(1928年)4月13日)は、日本の衆議院議員(憲政本党)。弁護士。森田俊佐久の弟。 安芸国高田郡根野村(現在の広島県安芸高田市)出身。最初慶應義塾に入学したが、東京専門学校(現在の早稲田大学)に移り、1886年(明治19年)に卒業した。翌年、代言人試験に合格し、東京にて開業。1889年(明治22年)に広島市に事務所を移し、広島弁護士会長にたびたび選ばれた。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第8回、第9回でも再選を果たした。
山本 玄峰(やまもと げんぽう、慶応2年1月28日〈1866… 山本 玄峰(やまもと げんぽう、慶応2年1月28日〈1866年3月14日〉 - 昭和36年〈1961年〉6月3日)は、日本の禅僧。道号は玄峰、法諱は宜詮、宜雄。室号は般若窟。俗姓は岡本、後に山本。和歌山県本宮町生まれ。龍澤僧堂師家(僧堂を開単)、瑞泉僧堂師家(僧堂を開単)、21代妙心寺派管長、圓福僧堂家を歴任する(年代順)。 生涯を通して、四国八十八箇所遍路を最晩年まで続け17回に達した。昭和において多くの著名人が参禅に訪れた静岡県三島市の龍沢寺の住職として有名。鈴木貫太郎に終戦を勧め、戦後も象徴天皇制を鋭く示唆する。遺言により葬儀はなかった。世寿96歳。 1866年(慶応2年)3月14日和歌山県東牟婁郡四村(現・田辺市本宮町)の湯の峰温泉の旅館・芳野屋(現・あづまや旅館)で生まれた。
中西 六三郎(なかにし ろくさぶろう、慶応2年1月27日(1… 中西 六三郎(なかにし ろくさぶろう、慶応2年1月27日(1866年3月13日) - 昭和5年(1930年)2月3日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲民政党→無所属)、弁護士。 京都に中西新左衛門の長男として生まれる。大阪府立中学校(現大阪府立北野高等学校)、ついで神戸法律学校を卒業。裁判所書記を経て、1887年(明治20年)に判検事登用試験に合格。判事試補として福井始審裁判所に配属された後、1889年(明治22年)に判事となって、敦賀治安裁判所、増毛治安裁判所、札幌地方裁判所で勤務した。1891年(明治24年)、官を辞して札幌で弁護士を開業し、1894年(明治27年)には札幌弁護士会長に選出された。