江口 夜詩(えぐち よし、1903年7月1日 - 1978年… 江口 夜詩(えぐち よし、1903年7月1日 - 1978年12月8日)は、日本の作曲家、海軍軍人。海軍軍楽隊員。本名江口 源吾(えぐち げんご)。 岐阜県養老郡時村大字上(現・岐阜県大垣市上石津町上)出身。16歳の時、海軍軍楽隊に応募し、第一期軍楽補習生として横須賀海兵団に入団。海軍軍楽隊専属の作曲家としての将来を嘱望され、海軍省委託生として東京音楽学校(現在の東京芸術大学)に6年間通学し、信時潔の許などでチェロ等の音楽を学び、1925年(大正14年)、処女作『千代田城を仰ぎて』を完成させる。また1928年(昭和3年)には昭和天皇即位大典演奏会で吹奏楽大序曲『挙国の歓喜』を発表した。 1931年(昭和6年)に海軍を退役し、翌年、亡妻をしのんで作曲した『忘られぬ花』が松平晃(レコードでは池上利夫)の歌唱により大ヒット。
神谷 新一(かみや しんいち、1903年7月 - 1986年… 神谷 新一(かみや しんいち、1903年7月 - 1986年11月8日)は、日本の実業家。竹中工務店副社長などを務めた。 長野県木曽郡大桑村生まれ。松本中学(長野県松本深志高等学校の前身)から、早稲田大学へ進み、建築科に学ぶ。1928年、竹中工務店大阪本社に入り、もっぱら現場管理関係に従事する。満洲竹中工務店常務取締役、竹中工務店専務取締役、大阪支店長、副社長などを歴任し、竹中工務店顧問となった。 現場監督として関わった建物には、1937年竣工の平安中学校(龍谷大学付属平安中学校・高等学校の前身)講堂・教室や、1936年から 1937年にかけて現地に住み込んで担当した、ヴォーリズ建築事務所の設計による豊郷尋常高等小学校(豊郷町立豊郷小学校の前身)などがある。
森 暢(もり とおる、1903年7月 - 1985年11月4… 森 暢(もり とおる、1903年7月 - 1985年11月4日)は、日本の美術史家。大阪工業大学名誉教授。中世日本の絵画を研究。 和歌山県生まれ。京都帝国大学文学撰修科修了。大阪工業大学教授、外務省嘱託。1971年「歌仙絵の研究」で東洋大学文学博士。川端康成と親しかった。妻は女優の毛利菊枝。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
石田 英一郎(いしだ えいいちろう、1903年6月30日 -… 石田 英一郎(いしだ えいいちろう、1903年6月30日 - 1968年11月9日)は、日本の文化人類学者・民族学者。元男爵。 1903年、男爵石田八弥の長男として大阪府で誕生。父の死去に伴い、1925年6月1日に男爵を襲爵。天王寺中学から東京府立四中に転校し、卒業。第一高等学校文科に進学したが、肋膜炎を患い休学。1年遅れて復学した後、菊川忠雄の勧誘を受けて一高内の社会思想研究会に入会した。 1924年、第一高等学校文科を卒業業して、京都帝国大学経済学部に進学するも京都学連事件により中退。 京都学連事件に連座したことに伴い、1926年3月24日に爵位を返上。不敬罪と出版法違反の容疑で逮捕され入獄したが、不敬罪については1927年の大喪の礼に伴う恩赦で赦免された。
久米田 七之助(くめだ しちのすけ、1903年6月30日 -… 久米田 七之助(くめだ しちのすけ、1903年6月30日 - 1980年3月2日)は、日本の経営者、銀行家。羽後銀行(現在の北都銀行)頭取を務めた。秋田県出身。 1925年に中央大学商学部を卒業し、同年4月に三和銀行に入行。1944年10月に羽後銀行に転じ、1956年4月に専務に就任し、1961年7月には頭取に昇格。1973年3月には会長に就任。 1968年10月に藍綬褒章を受章。 1980年3月2日に急性心不全のために死去。76歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
田辺 繁子(たなべ しげこ、1903年6月30日 - 198… 田辺 繁子(たなべ しげこ、1903年6月30日 - 1986年6月8日)は、日本の法学者、専修大学名誉教授。京都府出身。1925年、同志社女学校専門学部英文科卒業、1928年、同志社大学法学部法律学科卒業。旧姓・星野。田辺平学の妻。穂積重遠に師事して家族法を研究、専修大学助教授、1956年教授。74年定年退任。古代インドのマヌ法典を翻訳、ハンムラビ法典における女性の地位を研究、家族制度の復活に反対した。
松田 修(まつだ おさむ、1903年6月28日 - 1990… 松田 修(まつだ おさむ、1903年6月28日 - 1990年2月26日)は、日本の文学者、植物学者。 山形県出身。1928年、東京帝国大学農学部卒。日本赤十字子供の家園長、東京大学講師などを務め、日本植物友の会の設立に参加。日本の古典文芸に現われる上代の植物の研究を行ない、植物文学を提唱した。研究対象は、『古事記』、『日本書紀』、『風土記』、『万葉集』、『古今和歌集』、『枕草子』、『源氏物語』などにわたる。 古典文学と植物との関連について、以下のように論じた。 『古事記』には77種類、『日本書紀』には85種類の植物が登場。現われている植物の大半は日本全土の山野に自生しているもので、『日本書紀』では渡来の植物が増えている。
岸本 英夫(きしもと ひでお、1903年6月27日 - 19… 岸本 英夫(きしもと ひでお、1903年6月27日 - 1964年1月25日)は、日本の宗教学者。東京大学教授、東京大学附属図書館の館長などを歴任。文学博士(東京帝国大学)。ユニテリアン主義である日本自由宗教連盟の理事長。 兵庫県明石市出身。宗教学者の岸本能武太の次男として生まれる。1916年、東京高等師範学校附属中学校に入学、同級生に美濃部亮吉、正田英三郎、芳賀檀、諸井三郎などがいた。1920年同校4年次修了(四修)で第六高等学校に進学を果たす。1923年春に六高理科甲類を卒業し、東京帝国大学へ進学する。1926年に東京帝大文学部宗教学科を卒業、同大学院進学を経て1930年からハーバード大学大学院に留学、1934年同大M.A.取得。
阿部 知二(あべ ともじ、1903年〈明治36年〉6月26日… 阿部 知二(あべ ともじ、1903年〈明治36年〉6月26日 - 1973年〈昭和48年〉4月23日)は、日本の小説家・英文学者・翻訳家。 1903年(明治36年)6月26日、岡山県勝田郡湯郷村大字中山(現・美作市中山)にて阿部良平、もりよ夫婦の次男として生まれる。中学教師であった父の赴任により、生後2ヶ月で島根県大社町に移り、さらに9歳のとき姫路市坊主町(ぼうずまち)に移る。父が教鞭を執っていた旧制姫路中学(現・姫路西高校)を5年制のところを4年で修了し、旧制第八高等学校(現・名古屋大学)文科甲類(英文学科)、東京帝国大学(現・東京大学)英文学科を卒業。兄・公平の影響で文学に近づき、短歌を学んで島木赤彦に接し、またトルストイやチェーホフを愛読する。
若菜 三良(わかな さぶろう、1903年(明治36年)6月2… 若菜 三良(わかな さぶろう、1903年(明治36年)6月26日 - 1963年(昭和38年)11月9日)は、日本の経営者。そごう社長を務めた。 千葉県出身。1927年(昭和2年)京都帝国大学経済学部を卒業後に、野村銀行(大和銀行を経て、現在のりそな銀行)に入行した。1949年に取締役、1954年11月に常務を経て、1958年4月にそごう副社長に就任し、1960年12月から1961年10月まで社長を務めた。 1963年(昭和38年)11月9日に冠動脈不全のため死去した。60歳没。
増田 福太郎(ますだ ふくたろう、1903年6月25日 - … 増田 福太郎(ますだ ふくたろう、1903年6月25日 - 1982年11月15日)は日本の法学者。第二次世界大戦前に台北帝国大学の助教授をつとめた頃に得た知見をもとにした台湾研究で知られる。法学のみならず、台湾における宗教関連の著作もある。 1903年6月25日に新潟県中頸城郡高田町に生まれた。第一高等学校文科甲類を経て、1927年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業。1929年3月に同大学院を満期退学(法理学)。 大学院を卒業後、台湾総督府嘱託として台湾へ渡った。どういうわけか法学ではなく、現地の宗教調査を任務とした。ただし、この調査は早々に中断され、1930年5月からは台北帝国大学講師となった。
森 三樹二(もり みきじ、1903年6月24日 - 1958… 森 三樹二(もり みきじ、1903年6月24日 - 1958年12月1日)は、日本社会党衆議院議員(6期)。弁護士。中央大学評議員。中央大学講師。父は徳島県議会副議長を務めた。
喜田 新六(きた しんろく、1903年6月24日 - 196… 喜田 新六(きた しんろく、1903年6月24日 - 1964年7月4日)は、日本の歴史学者。中央大学文学部教授。専門は日本古代史。 1903年(明治36年)6月、歴史学者である喜田貞吉の長男として、東京にて生まれる。なお「新六」の名は、彼の生誕地である「新宿六丁目」に由来する。東京高等師範学校附属中学校(現筑波大学附属中学校・高等学校)、第一高等学校文科乙類を経て、1926年(大正15年)、東京帝国大学文学部国史学科に入学。1929年(昭和4年)、東京帝国大学卒業ののち、同大学大学院に入学し、併せて同大学副手になった。1934年(昭和9年)、京城帝国大学法文学部教授に就任し、1942年(昭和17年)、神宮皇學館大學学部教授に就任した。
竹内 鐡二(たけうち てつじ、1903年6月24日 – … 竹内 鐡二(たけうち てつじ、1903年6月24日 – ?)は、日本の教育者。金蘭千里高等学校校長。 鳥取県生まれ。1925年九州帝国大学農学部農芸化学科卒業。 旧制福井県小浜中学校、京都府第一中学校教諭、京都府福知山女子高等学校・京都府立鴨沂高等学校・大阪府立貝塚高等学校・大阪府立三国丘高等学校校長を経て大阪府立北野高等学校校長に就任。 1964年3月31日、府立高等学校を退職。私立金蘭千里高等学校長となる。
春日 佳一(かすが かいち、1903年(明治36年)6月24… 春日 佳一(かすが かいち、1903年(明治36年)6月24日 - 1981年(昭和56年)11月13日)は、昭和期戦後の政治家。長野県飯山市長。位階は従五位。勲四等旭日小綬章。 長野県下水内郡外様村(現飯山市)で、春日寿平、とも の四男として生まれた。1921年(大正10年)3月、旧制飯山中学(現長野県飯山高等学校)卒業。同年、外様村小学校教諭を勤め、1931年(昭和6年)に退職。 1947年(昭和22年)4月、外様村長に就任し1期在任。1954年(昭和29年)12月には合併後の飯山市議会議員となり、1956年(昭和31年)に議長となる。1961年(昭和36)飯山市教育委員に就任し翌年まで在任した。
林 逸馬(はやし いつま、1903年6月23日 - 1972… 林 逸馬(はやし いつま、1903年6月23日 - 1972年9月2日)は、日本の作家。 福岡県出身。東京帝国大学卒。1929年「福岡日日新聞」の懸賞小説に当選する。1944年「筑後川」で九州文学賞受賞。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。
原 弘(はら ひろむ、1903年6月22日 - 1986年3… 原 弘(はら ひろむ、1903年6月22日 - 1986年3月26日)は、昭和期の日本を代表するグラフィックデザイナーの一人。 ヨーロッパで開花した近代タイポグラフィー運動『ノイエ・ティポグラフィー』の理念を支持しながら、日本の活字文化で独自の表現の確立を志し、原はこれを『僕達の新活版術』と呼んだ。原のデザインスタイルは理論的に組立てるもので、作家性のあるものではなく、依頼者側に立ち、装幀、ポスター、パッケージなどを数多く手がけた。生涯に手がけた出版物の総数は、雑誌の表紙デザインなども含めれば、おおよそ3000点近くにもおよぶ。 特に装幀において高く評価されており、1940年代末から1970年代半ばまで装幀者として第一線で活躍。
山本 周五郎(やまもと しゅうごろう、1903年(明治36年… 山本 周五郎(やまもと しゅうごろう、1903年(明治36年)6月22日 - 1967年(昭和42年)2月14日)は、日本の小説家。本名:清水 三十六(しみず さとむ)。質店の徒弟、雑誌記者などを経て文壇に登場。庶民の立場から武士の苦衷や市井人の哀感を描いた時代小説、歴史小説を書いた。 1903年(明治36年)6月22日、山梨県北都留郡初狩村(現:大月市初狩町下初狩)に生まれる。父は清水逸太郎、母は「とく」(旧姓・坂本)。周五郎は長男(弟の潔、義妹の末子がある)。本籍地は北巨摩郡大草村(現:韮崎市大草町)で、周五郎は後に自らの出生地を同地と語っている。実家は武田の遺臣で、北巨摩の大草村若尾(現:韮崎市大草町若尾)に帰農した御蔵奉行・清水大隅守政秀の後裔であろうとの言い伝えもある。
堀越 二郎(ほりこし じろう、1903年〈明治36年〉6月2… 堀越 二郎(ほりこし じろう、1903年〈明治36年〉6月22日 - 1982年〈昭和57年〉1月11日)は、日本の航空技術者。位階は従四位。勲等は勲三等。学位は工学博士(東京大学・1965年)。零式艦上戦闘機の設計者として知られる。 新三菱重工業株式会社参与、東京大学宇宙航空研究所講師、防衛大学校教授、日本大学生産工学部教授などを歴任した。 1903年6月22日、群馬県多野郡美土里村(現・藤岡市)に生まれる。 旧制藤岡中学校(現・群馬県立藤岡中央高等学校)、第一高等学校を経て1927年東京帝国大学工学部(東京大学工学部)航空学科を首席で[要出典]卒業。同期に木村秀政、土井武夫らがいる。 三菱内燃機製造(現在の三菱重工業)に入社。
雨森 常夫(あめもり / あまもり つねお、1903年〈明治… 雨森 常夫(あめもり / あまもり つねお、1903年〈明治36年〉6月22日 - 1970年〈昭和45年〉12月12日)は、昭和期の農林技官、政治家。参議院議員。 福井県で雨森元成の三男として生まれる。1926年(大正15年)東京帝国大学農学部農業土木科を卒業した。 1926年、農林省嘱託となる。その後、農林技師、京都府農林技師、静岡県農林技師、高知県耕地課長、栃木県耕地課長、農地開発営団企画部調査課長、同東京事務所長、経済安定本部建設局次長、農林省農地局建設部長、京都農地事務局長などを歴任した。 1953年(昭和28年)4月、第3回参議院議員通常選挙に全国区から自由党公認で立候補して当選、その後、自由民主党に所属し参議院議員に1期在任した。
土川 元夫(つちかわ もとお、1903年〈明治36年〉6月2… 土川 元夫(つちかわ もとお、1903年〈明治36年〉6月20日 - 1974年〈昭和49年〉1月27日)は日本の実業家。名古屋鉄道社長など歴任。勲一等瑞宝章受章。 1903年6月、愛知県中島郡一宮町(現在の一宮市)に生まれる。旧制愛知県第一中学校(現在の愛知県立旭丘高等学校)・第四高等学校(現在の金沢大学)を経て、1928年京都帝国大学を卒業し、(旧)名古屋鉄道(後に名岐鉄道、愛知電気鉄道との合併を経て(現)名古屋鉄道となる)へ入社。1945年11月には運輸部長、同年12月に運輸部長の職責のまま名鉄労組の初代執行委員長に就任。 1946年5月同社取締役、1949年6月常務取締役、1953年2月専務取締役、1955年1月取締役副社長を経て、1961年12月2日取締役社長に就任。
木村 恵吾(きむら けいご、1903年6月19日 - 198… 木村 恵吾(きむら けいご、1903年6月19日 - 1986年1月20日)は、日本の映画監督、脚本家である。サイレント映画の時代に脚本家、ついで監督としてデビューした。1940年(昭和15年)にオペレッタ映画『狸御殿』を創出、『オペレッタ狸御殿』(2005年)につながる源流をつくった。 1903年(明治36年)6月19日、静岡県三島市に生まれる。 早稲田大学附属早稲田高等学院(現在の早稲田大学高等学院)の2年次終了で日活大将軍撮影所に入社、1926年(大正15年)、オリジナル脚本が採用され、伊奈精一監督、根岸東一郎主演のサイレント映画『神田の下宿』で脚本家としてデビューした。同年、オリジナル脚本第2作『都の西北』が映画化され、伊奈監督、中野英治主演で製作されたが、これには俳優時代ののちの映画監督渡辺邦男が出演している。
田中 彰治(たなか しょうじ、1903年6月18日 - 19… 田中 彰治(たなか しょうじ、1903年6月18日 - 1975年11月28日)は日本の政治家。衆議院議員(自由民主党・7期)。政界の爆弾男として鳴らし、時の政権でさえ無視できないほどの影響力を誇ったが、黒い霧事件で失脚した。 新潟県新井市(現妙高市)出身。電報配達員から上京して岩倉鉄道学校で学び、鉄道省に入り機関士となるが辞して樺太で農業を営む。1929年5月に傷害罪による罰金刑を受け、1930年12月には横領、恐喝、有価証券偽造・同行使、詐欺罪で懲役2年の実刑判決を受けて服役した。1943年には別の詐欺罪で懲役2年6ヶ月の刑が確定したものの逃走し、1948年5月に刑の時効を迎えて刑を執行免除されている。
浜田 正信(濱田 正信、はまだ まさのぶ、1903年(明治3… 浜田 正信(濱田 正信、はまだ まさのぶ、1903年(明治36年)6月18日 - 1969年(昭和44年)5月22日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 高知県吾川郡伊野町(現いの町)で浜田惣次、春尾の二男として生まれる。高知県立第一中学校(現高知県立高知追手前高等学校)、高知高等学校を経て、1931年(昭和6年)京都帝国大学法学部を卒業した。 京都市役所で勤務した後、淀川製鋼所に転じた。東京支社長、取締役支配人、専務取締役などを歴任。1957年(昭和32年)宇田耕一の死去に伴い取締役社長に就任した。その他、白洋産業取締役社長、白洋汽船取締役、南海興業取締役、高知県造船取締役会長、日本鉄鋼連盟理事、日本経営者団体連盟理事、国連協会関西本部理事などを務めた。
白澤 富一郎(しらさわ とみいちろう、1903年(明治36年… 白澤 富一郎(しらさわ とみいちろう、1903年(明治36年)6月16日 - 1990年(平成2年)11月6日)は、日本の電気技術者、実業家。東京電力副社長や、日本原子力発電社長、同社会長、日本原子力産業会議副会長等を務めた。 1926年東京高等工業学校(現東京工業大学)電気科卒業。東京電力副社長を経て、1970年から日本原子力発電取締役社長を務め、もんじゅへの技術協力などを進めた。1977年日本原子力発電取締役会長。1978年蔵前工業会理事長。1982年日本動力協会会長。日本原子力産業会議副会長、原子力委員会新型転換炉実証炉評価検討専門部会長等も歴任した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
肥田 広司(ひだ ひろし、1903年(明治36年)6月16日… 肥田 広司(ひだ ひろし、1903年(明治36年)6月16日 - 1987年(昭和62年)6月4日)は、日本の政治家。広島県議会議員、広島県海田市町長。日米民間外交の第一人者で、広島から始まった親善運動は全国へ広まり、アメリカ本国でも報道された。父・肥田辰之助は広島県議会議長、兄・肥田琢司は衆議院運輸委員長。豊臣四天王として知られる木村重成一族の末裔。 1929年(昭和4年)、明治大学法学部卒業。1931年(昭和6年)から衆議院議長秘書を務め、1933年(昭和8年)に広島県議会議員として初当選後、1935年(昭和10年)と1939年(昭和14年)に連続当選。辰之助及び琢司らと共に父子兄弟連携して政治活動を行い、広島県政で望月派と肥田派の二大派閥として台頭していた。
溝淵 春次(みぞぶち はるじ、1903年(明治36年)6月1… 溝淵 春次(みぞぶち はるじ、1903年(明治36年)6月16日 - 1978年(昭和53年)11月7日)は、大正末から昭和期の弁護士、政治家。参議院議員(1期)。 香川県で溝淵岩吉の五男として生まれる。1919年(大正8年)立命館大学法科を卒業した。その後、日本大学研究室で研究した。 1924年(大正13年)高等試験司法科試験に合格し弁護士を開業した。1930年(昭和5年)大阪府会議員に選出され、立憲政友会大阪支部幹事長を務めた。その他、日本アンチモニイ鉱業社長も務めた。 戦後、日本自由党大阪府連幹事長、同選挙対策委員長などを務めた。1951年(昭和26年)5月の第1回参議院議員通常選挙・大阪府地方区補欠選挙に日本自由党公認で出馬して当選し、参議院議員に1期在任した。
芝田 新(しばた あらた、1903年6月16日 - 没年不明… 芝田 新(しばた あらた、1903年6月16日 - 没年不明)は、日本の俳優である。本名川上 勇之進(かわかみ ゆうのしん)。 1903年(明治36年)6月16日、北海道函館市に生まれる。 上京して早稲田大学文科卒業後、大阪市に移る。大阪松竹劇団を経て新声劇の幹部俳優となり、大阪の角座、浪花座などに出演。1933年(昭和8年)には日活太秦撮影所に入社して映画俳優もこなした。映画界入りの最初の年には主演作『峠三里』と『月光人斬橋』を残しているが、以後は脇役に専念。1934年(昭和9年)に第一映画、1936年(昭和10年)には新興キネマへの移籍を経て、のちにフリーとなる。第二次世界大戦中から終戦後にかけてはフリーとして、東宝劇団、東宝撮影所、榎本健一一座、古川緑波一座などで活躍した。
森 嘉兵衛(もり かへえ、1903年6月15日 - 1981… 森 嘉兵衛(もり かへえ、1903年6月15日 - 1981年4月8日)は、日本の歴史学者、岩手大学名誉教授、経済学博士。主な研究テーマは南部藩を中心とする近世史だが、中尊寺金色堂の調査にも参加するなど、活動分野は多岐にわたった。 岩手県盛岡市の豪商の家に生まれる。盛岡中学から法政大学経済学部に進み、小野武夫の下で近世日本経済史を研究した。1929年卒業。岩手県教育会書記を務め、岩手師範学校教授。 1947年、昭和天皇が岩手県に戦後巡幸された際に拝謁し、岩手県の開拓史について奏上する。その後、1949年に岩手大学教授、1969年定年退官。学内では学芸学部長、教育学部長を歴任した。退官後は、盛岡短期大学講師や富士大学教授を務めた。
岡田 桑三(おかだ そうぞう、1903年6月15日 - 19… 岡田 桑三(おかだ そうぞう、1903年6月15日 - 1983年9月1日)は、日本の映画俳優、映画プロデューサー。俳優としての芸名は「山内光(やまのうち ひかる)」。 横浜の商家の娘・よねと番頭の美平の間に生まれる。ドイツ、ソ連で舞台美術、映画、写真の技術を学んだ。日活、松竹で俳優として映画に出演する一方、日本プロレタリア映画同盟、写真・映画団体「国際光画協会」、写真集団「日本工房」、「中央工房」などに関わり、プロパガンダグラフ雑誌「FRONT」を発行する「東方社」の創設に参加。多くの映画人、写真家、美術家らに影響を与えた。戦後は、南方熊楠遺稿の出版に関わった後、東京シネマを興し、科学映画を中心とする短編映画が、内外で高く評価されたことで、そのプロデューサーとして知られた。
朝倉 和夫(あさくら かずお、1903年6月15日 - 19… 朝倉 和夫(あさくら かずお、1903年6月15日 - 1986年)は、日本の会計学者・公認会計士・高校教員。札幌商科大学名誉教授。北海道札幌啓北商業高等学校元校長。 『朝倉和夫教授略歴・著作目録(朝倉和夫教授喜寿記念論文集)』(札幌商科大学学会論集、商経編 1981年) この項目は、会計に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト 会計)。 この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 経済学、ウィキプロジェクト 経済)。
奈良岡 正夫(ならおか まさお、本名:奈良岡政雄、1903年… 奈良岡 正夫(ならおか まさお、本名:奈良岡政雄、1903年(明治36年)6月15日 - 2004年(平成16年)5月5日)は、日本の洋画家。女優・奈良岡朋子(東京都文京区出身)の父である。 青森県中津軽郡豊田村(現弘前市)出身。社団法人日展参与、社団法人示現会会長を務めた。 初入選が40歳前と遅咲きの作家。戦時中は従軍して戦争記録画を制作したが、戦前の作品は、ほとんどが所在不明となっている。戦後は、放牧されている牛や山羊、青森のねぶた、奥入瀬などを題材に描いた。感銘、影響を受けた本として、倉田百三の『出家とその弟子』を挙げている。 1903年(明治36年) 青森県弘前市生まれ。一度画家を志して上京するが家族に連れ戻され、1925年(大正14年)再び上京する。
奥田 良三(おくだ りょうぞう、1903年6月12日 - 1… 奥田 良三(おくだ りょうぞう、1903年6月12日 - 1993年1月27日)は、日本のテノール歌手。 1903年(明治36年)6月12日に北海道札幌区(現・札幌市)で生まれる。後に陸上選手となる南部忠平は幼稚園からの幼なじみ。北海道庁立札幌第一中学校3年修了時に上京。同郷の先輩である梁田貞の世話により、成城中学校と東京音楽学校分教場夜間部に入り、また村井満寿から個人レッスンを受ける。1922年(大正11年)に東京音楽学校に入学するが、翌1923年の関東大震災により国内での勉学を断念し、同校を中退。その後渡欧して、ローマのサンタ・チェチーリア国立アカデミア、ベルリン音楽大学で声楽を学ぶ。帰国後、1934年(昭和9年)ポリドールレコードから映画『狂乱のモンテカルロ(ドイツ語版)』主題歌「モンテ・カルロの一夜」「これぞマドロスの恋」や、映画『会議は踊る』主題歌「命かけて只一度」を吹き込む。
山本 猛夫(やまもと たけお、1903年6月12日 - 19… 山本 猛夫(やまもと たけお、1903年6月12日 - 1989年7月26日)は、日本の政治家。衆議院議員(5期)。 東京都生まれ、もしくは岩手県盛岡市出身。1923年、日本大学政治科卒業。時事新報社、毎日新聞社政治部記者を務めたのち、東洋鋼材工業社長、東京製糖社長となる。1943年の東京都発足直後の東京都会議員選挙に立候補したが、落選した。1947年、第23回衆議院議員総選挙岩手1区に民主党から出て、初当選。以後5期務めた。1950年、衆議院懲罰委員長。同年7月、第3次吉田第1次改造内閣郵政政務次官。1951年、第3次吉田第2次改造内閣郵政政務次官。1952年、衆議院議事進行係。1956年、松浦董子(旧華族・元久邇邦久の妻)と結婚。
佐中 壮(さなか そう、1903年(明治36年)6月11日 … 佐中 壮(さなか そう、1903年(明治36年)6月11日 - 1992年(平成4年)4月13日)は、日本の東洋史学者。大阪府立大学名誉教授。 鳥取県西伯郡余子村大字福定(現・境港市福定町)に生まれる。父の佐中廉は、弓浜高等小学校長、余子小学校長、境小学校長、余子村長などを務めた教育者で、壮はその次男であった。 米子中学校、松江高等学校を経て、東京帝国大学文学部東洋史学科において藤田豊八や池内宏らに学ぶ。1928年(昭和3年)に卒業し、山口高等学校講師、ついで同教授となり、1931年(昭和6年)より広島高等学校教授に転じる。1944年(昭和19年)、松山高等学校教授となるが、終戦によりただちに辞表を提出、同校の再開整備にあたった後に退官し、帰農。
大山 茂樹(おおやま しげき、1903年(明治36年)6月1… 大山 茂樹(おおやま しげき、1903年(明治36年)6月10日 - 1995年(平成7年)4月5日)は、日本の政治家。岡山県倉敷市長。位階は従四位。 岡山県出身。大山俊吉の長男。1921年、倉敷商業学校(現・岡山県立倉敷商業高等学校)卒業。翌年、田村商会に就職、同社東京支店長代理などを経て、1948年に日本野草莚加工(株)を創立、1950年に岡山県輸出花莚野草莚協同組合を創立し、理事長となる。同年、岡山県議会議員に初当選。以後、5期連続務める。1964年、倉敷市長に初当選。1967年に倉敷市は児島市、玉島市と合併、新倉敷市の市長選挙に立候補し、当選した。市長は1979年まで務め、この間、全国市長会副会長などを務めた。
忽那 吉之助(くつな きちのすけ、1903年(明治36年)6… 忽那 吉之助(くつな きちのすけ、1903年(明治36年)6月8日 - 1982年(昭和57年)10月21日)は、日本の小説家、教員。梶井基次郎らと同人誌『青空』を創刊した。大学卒業後の後半生は主に中等教育の教職に就いた。就職以後の氏名は野村 吉之助。 愛媛県温泉郡浅海村(現在の松山市)に造り酒屋の6人きょうだいの末弟として生まれる。父を小学生の時に失い、母・きょうだいとともに兵庫県神戸市に転居した。忽那がのちに記したところ(『青空』掲載の「記憶」)では、家計は22歳の長兄の収入だけが頼りだったという。 兵庫県立第一神戸中学校(現在の兵庫県立神戸高等学校)卒業後、京都の第三高等学校(現在の京都大学)文科乙類に入学した。
山地 壽(やまぢ ひさし、1903年〈明治36年〉6月6日 … 山地 壽(やまぢ ひさし、1903年〈明治36年〉6月6日 - 1993年〈平成5年〉9月5日)は日本の新聞記者、1級首相秘書官、政治家。通称名は山地 一壽(やまぢ かずとし)。東京日日新聞記者、岸信介総理大臣1級秘書、財団法人家族計画国際協力財団(現JOICFP)理事長。
木下 彰(きのした あきら、1903年6月6日 - 1982… 木下 彰(きのした あきら、1903年6月6日 - 1982年3月28日)は、日本の経済学者。 和歌山県出身。1929年東北帝国大学法文学部経済科卒。1951年「商業的農業論 典型的商業的農業としての柑橘業の分析的研究」で東北大学経済学博士。1930年東北帝大助手、1933年講師、1935年助教授、1942年教授、東北大学経済学部教授、1956年経済学部長、1967年定年退官、名誉教授、長野経済短期大学学長、長野中央学園理事長、東北福祉大学教授。1973年勲二等瑞宝章受勲。1981年「名子遺制の構造とその崩壊」で日本学士院賞受賞。経済政策,農業経済学を専攻。
清水 文雄(しみず ふみお、1903年(明治36年)6月6日… 清水 文雄(しみず ふみお、1903年(明治36年)6月6日 - 1998年(平成10年)2月4日)は、熊本県出身の国文学者。和泉式部など中古文学・中世文学の研究で有名。作家・三島由紀夫の才能を見出したことで知られる。 1932年(昭和7年)、広島文理科大学卒業。1933年(昭和8年)、蓮田善明や栗山理一、池田勉と共に「国文学試論」を発行。1938年(昭和13年)、蓮田たちと共に「文藝文化」創刊。 1938年(昭和13年)、国語教師として旧制成城高校から学習院に赴任。1939年(昭和14年)、当時中等科3年生だった平岡公威(三島由紀夫)に、国文法と作文を教える。1940年(昭和15年)、寄宿舎の星雲寮舎監。
高桑 純夫(たかくわ すみお、1903年6月4日 - 197… 高桑 純夫(たかくわ すみお、1903年6月4日 - 1979年5月21日)は、日本の哲学者、思想評論家。 東京女子医科大学教授、愛知大学教授を歴任。 奈良県出身。上智大学文学部哲学科卒。1940年陸軍士官学校教授。中世スコラ哲学を研究するが、戦後唯物論哲学に転じ主体性論争で活躍。 1965年原水爆禁止国民会議事務局長。
牧 嗣人(まき つぐんど、1903年6月2日 - 1987年… 牧 嗣人(まき つぐんど、1903年6月2日 - 1987年1月13日)は、日本のバス歌手、俳優である。 1903年(明治36年)6月2日、大分県にうまれる。 大阪に出て、関西学院大学神学部に入学するが中退し、外山国彦に師事した。東京高等音楽学院(現在の国立音楽大学)に入学、卒業後、山田耕筰に師事した。 1930年代(昭和初年)、フランスに渡り、俳優に転向、マルセル・レルビエやクリスチャン=ジャック、フランス時代のロバート・シオドマクの作品に出演した。フランス映画『Macao, l'enfer du jeu』やドイツ映画に出演[要出典]している。 1940年(昭和15年)には帰国し、東宝映画に2作出演、いずれも歌う役である。
磯野 勇三(いその ゆうぞう、1903年〈明治36年〉6月2… 磯野 勇三(いその ゆうぞう、1903年〈明治36年〉6月2日 - 1986年〈昭和61年〉11月19日)は、日本の外交官。 東京府(現・東京都)出身。1928年東京帝国大学法学部卒業。外務省入省後、1938年上海領事等をへて太平洋戦争開戦時はラングーン総領事。戦時中、第3部対外報道課長兼同調査課長等を歴任。敗戦時には文書課長。戦後、管理局在外邦人部長兼同経済部長、終戦連絡中央事務局管理部長兼管理局経済部長をへて、1948年特殊財産局長、1949年京都連絡調整事務局長等となる。 一旦退官後、1955年にサンパウロ総領事、57年ポルトガル公使、59年同大使、61年レバノン大使兼ヨルダン公使等に就任し、64年退官。
丸山 邦雄 (まるやま くにお、1903年〈明治36年〉6月… 丸山 邦雄 (まるやま くにお、1903年〈明治36年〉6月2日 - 1981年〈昭和56年〉10月17日)は、日本の経済学者、社会運動家、明治大学教授。 終戦直後、安全の確保や飢餓、流行病に苦しむ旧満洲在留邦人救済のため新甫八朗、武蔵正道らとともに日本国政府や連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)などとの交渉や働きかけに奔走。旧満洲に取り残された旧満洲在留邦人の祖国引揚げ(葫芦島在留日本人大送還)に貢献する。(170万人のうち実際に引き揚げできた者は約105万人とされる )。 長野県下水内郡柳原村(現 飯山市)に生まれる。旧制高校卒業と同時に明治大学法科に入学、法律を学ぶ。 1930年(昭和5年) 明治大学卒業。
大貫 大八(おおぬき だいはち、1903年(明治36年)6月… 大貫 大八(おおぬき だいはち、1903年(明治36年)6月1日 – 1971年(昭和46年)7月22日)は、昭和期の弁護士、農民運動家、政治家。衆議院議員(1期)。 栃木県那須郡境村(烏山町境を経て現那須烏山市)で生まれる。弁護士の書生のかたわら下野中学校(現作新学院高等学校)を卒業。中央大学専門部法科に進学し、三輪寿壮弁護士事務所の書生をしながら1927年(昭和2年)に大学を卒業。高等試験司法科試験に合格し、1928年(昭和3年)宇都宮市で弁護士を開業した。 三輪の薫陶を受け日本労農党に入党し、1930年(昭和5年)宇都宮市会議員選挙(初回の普通選挙)で黒沢幸一と共に当選。労農大衆党栃木県連執行委員、栃木農民組合執行委員を務め、小作争議、労働争議を指導した。
林 房雄(はやし ふさお、1903年(明治36年)5月30日… 林 房雄(はやし ふさお、1903年(明治36年)5月30日 - 1975年(昭和50年)10月9日)は、日本の小説家、文芸評論家。大分県大分市出身。本名は後藤 寿夫(ごとう ひさお)。戦後の一時期の筆名は白井 明。戦後は中間小説の分野で活動し、『息子の青春』、『妻の青春』などを出版し舞台上演され流行作家となった。 父が酒に溺れたため、家業の雑貨商が破産。このため母が紡績工場の女工として家計を支えた。1916年(大正5年)、旧制大分中学校(現・県立大分上野丘高校)入学後は、銀行家の小野家の住み込み家庭教師として働きながら苦学し、1919年(大正8年)、第五高等学校に入学してからも小野家の援助を受ける。
黒井 明(くろい あきら、1903年(明治36年)5月27日… 黒井 明(くろい あきら、1903年(明治36年)5月27日 - 1933年(昭和8年)3月10日)は、日本の海軍軍人(海兵51期卒)。水上機機長としての不時着水時の行動で責任感の鑑と称えられた。のちに殉職し最終階級は海軍少佐。
春日部 たすく(かすかべ たすく、本名:春日部 弼、1903… 春日部 たすく(かすかべ たすく、本名:春日部 弼、1903年5月26日 - 1985年9月16日)は、日本の水彩画家。水彩連盟の創始者のひとりである。 福島県北会津郡高野村(現 会津若松市)生まれ。実父の春日部春二(春日部雪後)は裁判所長で俳人。 会津中学校(現・福島県立会津高等学校)を卒業。1924年に上京し、川端画学校洋画部で学ぶ。1928年、水彩画会展に入選。1929年、第10回帝展に水彩画「山湖」が初入選、日本水彩画会会員となる。1940年、小堀進、荒井直之助ら同志7人で「水彩連盟」を設立。これ以降、官展や日本水彩画会への出品を止め、戦後も水彩連盟および個展での発表を行った。 作風は風景画を得意とし、あざやかな色彩と情趣ある画情が特徴だった。
佐藤 美子(さとう よしこ、1903年5月25日 - 198… 佐藤 美子(さとう よしこ、1903年5月25日 - 1982年7月4日)は、日本の声楽家・オペラ歌手である。日本国内で初めて『カルメン』を演じ、「カルメンお美」と呼ばれる。 1903年5月25日、神戸税関の職員の佐藤友太郎とフランス人の母・ルイズのもと、5人兄弟の末っ子として生まれた。兄に英夫、勇次、明来がいる。後に妹のミチが生まれた。姉の綾子は鹿児島県出身の弁護士で薬品貿易業を営む大嶺俊介の妻となる。 父の友太郎は長崎県出身の佐藤元狩の長男として文久2年8月に生まれた。元狩は維新後京都府に出仕しフィラデルフィア万国博覧会委員として渡米したが、1876年4月30日にサンフランシスコにおいて病死した。
飯田 信夫(いいだのぶお、1903年(明治36年)5月25日… 飯田 信夫(いいだのぶお、1903年(明治36年)5月25日‐1991年(平成3年)8月19日)は昭和期の作曲家、指揮者。妻は女優の夏川静江。娘に女優の夏川かほる。