矢澤 米三郎(やざわ よねさぶろう、1868年(慶応4年/明… 矢澤 米三郎(やざわ よねさぶろう、1868年(慶応4年/明治元年)5月2日 - 1942年(昭和17年)3月31日)は日本の博物学者、教育者である。日本におけるライチョウ研究の先駆者として知られる。 信濃国諏訪郡上金子村(現・長野県諏訪市)の寺子屋師匠矢沢正雄の長男として生まれる。長野県尋常師範学校を経て、明治26年(1893年)東京高等師範学校博物科卒業。同31年(1898年)から2年間、高師研究科に学び、長野師範教諭となる。河野齢蔵と乗鞍、白馬、八ヶ岳等の高山学術研究に着手し、矢沢が昆虫、河野が植物の生態観察を行い、幾多の新種を発見している。羽田貞義らと明治35年(1902年)信濃博物学会を設立し、幹事長となる。
長島 鷲太郎(ながしま わしたろう、慶応4年4月8日(186… 長島 鷲太郎(ながしま わしたろう、慶応4年4月8日(1868年4月30日) - 昭和9年(1934年)7月27日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。法学博士。キリスト教徒。 安房国安房郡勝山(現在の鋸南町)に安房勝山藩士長島永豊の長男として生まれ、1872年(明治5年)に一家は東京に移住した。1890年(明治23年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、司法省参事官試補となるが、1893年(明治26年)に辞して弁護士を開業し、後には東京弁護士会会長に就任した。また日本法律学校・明治法律学校・和仏法律学校・東京法学院・専修学校で講師を務め、日本法律学校では幹事となった。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
神野 勝之助(かみの かつのすけ、1868年4月29日(慶応… 神野 勝之助(かみの かつのすけ、1868年4月29日(慶応4年4月7日)– 1928年(昭和3年)10月5日)は、日本の大蔵官僚、政治家。大蔵次官、貴族院議員。
森島 庫太(もりしま くらた、1868年4月29日(明治元年… 森島 庫太(もりしま くらた、1868年4月29日(明治元年4月7日) - 1943年(昭和18年)3月18日)は、日本の医学者、京都帝国大学医学部教授。 医師・森島玄仙の長男として1868年に美濃国(現・岐阜県)で生まれる。1893年東京帝国大学医科大学を卒業。薬物学教室の高橋順太郎教授のもとで助手として採用される。1896年よりドイツ、ベルギーに留学しストラスブール大学(当時ドイツ領)でシュミーデベルク教授に師事した他、ライプチヒ大学、ゲント大学で研究に携わる。 1899年、京都帝国大学医科大学助教授に任じられ、1900年 帰国と同時に薬物学第一講座教授となる。1925年7月21日-1928年4月21日の間医学部長をつとめた後、1928年退官し、名誉教授となった。
玉虫 一郎一(たまむし いちろういち、慶應4年4月6日(18… 玉虫 一郎一(たまむし いちろういち、慶應4年4月6日(1868年4月28日) - 昭和17年(1942年))は、日本の教育者。 宮城県仙台市出身。1895年(明治28年)、東京帝国大学文科大学英文科を卒業し、東京高等師範学校附属中学校英語歴史科講師となる。1896年(明治29年)、愛媛県尋常中学校教諭となり、1898年(明治31年)に宮城県尋常中学校教諭に転じた。1901年(明治34年)、第二高等学校教授となり、1928年(昭和3年)に校長に就任した。1932年(昭和7年)に退官し、名誉教授の称号を受けた。
奈良 武次(なら たけじ、1868年4月28日〈慶応4年4月… 奈良 武次(なら たけじ、1868年4月28日〈慶応4年4月6日〉- 1962年〈昭和37年〉12月21日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。男爵。 農業を営み、村議会議員を務めた奈良彦一郎と母ふみ子(宇都宮藩士の娘)の次男として下野国都賀郡南摩村上南摩(現:栃木県鹿沼市)に生れる。兄は彦作。6歳で村の寺子屋で、元日光の士族入江裕次郎に四書五経を学ぶ。進文学舎、陸軍有斐学校を経て、1889年(明治22年)7月、陸軍士官学校(旧11期)を卒業、砲兵少尉任官、近衛野砲兵連隊付となる。1893年(明治26年)11月、陸軍砲工学校高等科を優等で卒業。日清戦争では、臨時徒歩砲兵第2大隊副官として出征した。
生島 五郎兵衛(いくしま ごろべえ、旧姓・上西、前名・百太郎… 生島 五郎兵衛(いくしま ごろべえ、旧姓・上西、前名・百太郎、1868年4月26日〈明治元年4月4日〉 - 没年不明)は、日本の地主、家主、資産家、名望家、兵庫県多額納税者。族籍は兵庫県平民。 兵庫県有馬郡大沢村(現・神戸市北区大沢町)生まれ。上西文右衛門の二男。先代五郎兵衛の養子となる。1894年、家督を相続し、百太郎を改め襲名する。貸金業、土地家屋貸付業を営む。 兵庫県の大地主である。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。宗教は真宗。趣味は書画、骨董、読書。兵庫県在籍で、住所は神戸栄町通2丁目、別宅は中山手通4丁目。 家系について『人事興信録』によると「生島家は古くより神戸に住し、醸造を業とし、同地草分けの旧家で資産家として名がある」という。
仁保 亀松(にほ かめまつ、1868年4月24日(慶応4年4… 仁保 亀松(にほ かめまつ、1868年4月24日(慶応4年4月2日)- 1943年(昭和18年)9月26日)は、日本の法学者。京都帝国大学名誉教授。財団法人立命館初代協議員。日本民法典の成立に寄与。 指導教官である穂積陳重の法律進化論の流れを汲み、法理学・法史学・比較法学を近接させた立場であった。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、法学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
日野 辰次(ひの たつじ、1868年4月23日(慶応3年4月… 日野 辰次(ひの たつじ、1868年4月23日(慶応3年4月1日) - 1926年(大正15年)6月9日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 鹿児島県出身。肥後国人吉藩、現在の熊本県人吉市の生まれ。15歳のときに鹿児島市の三州義塾に入学。成績優秀につき三州社の社費生に選ばれて東京専門学校(現早稲田大学)に入学。1889年、東京専門学校英語本科卒。卒業と同時に三州義塾の英語教師に任命される。1891年、鹿児島新聞社(現南日本新聞社)の誘いにより客員として入社。1891年10月7日、鹿児島県加治木村(後に加治木町、現姶良市)の日野家に養子として迎えられ鹿児島県人となる。明治末期には佐藤平右衛門と加治木電気会社を設立。
田川 平三郎(たがわ へいさぶろう、旧姓・高橋、1868年4… 田川 平三郎(たがわ へいさぶろう、旧姓・高橋、1868年4月22日(明治元年3月30日) - 1951年(昭和26年)2月17日)は、日本の商人(米並びに酒商)、神奈川多額納税者、政治家。衆議院議員(神奈川県第四区選出、当選1回)。 三重県飯南郡花岡村(現松阪市)出身。高橋萬蔵の六男。田川幸蔵の養子となり1901年、養弟國太郎の後を承け家督を相続する。米並びに酒商を営む。 田浦町議、三浦郡議、神奈川県議、所得税、営業税の各調査委員、鎌倉銀行取締役、田浦土地建物取締役社長となる。 1922年、神奈川4区の補欠選挙において憲政会公認で当選した。衆議院議員を1期務めた。 1951年2月17日に死去した。
田中 耕太郎(たなか こうたろう、1868年4月18日(慶応… 田中 耕太郎(たなか こうたろう、1868年4月18日(慶応4年3月26日) - 1939年(昭和14年)11月9日)は、日本の海軍軍人、最終階級は海軍中将。 丹波国多紀郡篠山(現在の兵庫県丹波篠山市)出身。1890年(明治23年)、海軍兵学校を卒業。日清戦争では『扶桑』に乗り組み従軍した。1900年(明治33年)にロシアに留学を命じられ、その後軍令部に勤務した。1909年(明治42年)に在ロシア大使館附武官に就任。1914年(大正3年)からは馬公要港部参謀長、海軍大学校教官、軍令部第三班課長を歴任した。1919年(大正8年)より浦塩派遣軍附となった。 海軍随一のロシア通であったが、帝政ロシアの没落とともに1923年(大正12年)に予備役に編入された。
楠美 恩三郎(くすみ おんざぶろう、1868年4月17日(慶… 楠美 恩三郎(くすみ おんざぶろう、1868年4月17日(慶応4年3月25日) - 1927年(昭和2年)10月8日)は、日本の作曲家、教育者。東京音楽学校(現在の東京芸術大学)教授。青森県弘前市出身。 弘前藩士、楠美晩翠の三男として生まれる。1889年(明治22年)、東京音楽学校師範部を卒業。1902年(明治35年)、東京音楽学校助教授、1910年(明治43年)〜1917年(大正6年)まで同教授として活躍し、日本の音楽教育に貢献した。 また、島崎赤太郎、岡野貞一、南能衛、上真行、小山作之助らとともに、文部省編『尋常小学唱歌』の作曲委員の一人として参加し、『尋常小学読本唱歌』の編纂にもたずさわった。
乾 正士(いぬい せいし、慶応4年3月25日(1868年4月… 乾 正士(いぬい せいし、慶応4年3月25日(1868年4月17日) - 昭和16年(1941年)6月18日)は、日本の軍人。旧土佐藩士族 乾市郎兵衛家・第8代当主。自由民権運動家・発陽社社員。 慶応4年3月25日(1868年4月17日)、板垣退助の次男として、高知城下に生まれる。母は萩原復斎の娘・薬子(やくし)。板垣退助の分家・乾市郎平正厚が、明治3年5月22日(1870年6月20日)無嗣のまま死去した為、正厚家の家格を維持するために、同家の養子となり家督相続。 高知城下より高知県土佐郡潮江村370番屋敷へ転住。 明治10年(1877年)に北川貞彦が「立志社」の下部組織として興した民権結社「発陽社」(跡地・高知県高知市天神町14)に実兄・板垣鉾太郎と共に参加。
神戸 次郎(かんべ じろう、旧暦 慶応4年4月13日(新暦 … 神戸 次郎(かんべ じろう、旧暦 慶応4年4月13日(新暦 1868年5月5日) - 1933年〈昭和8年〉9月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等功級は従四位勲三等功四級。陸士1期。現在の山形県鶴岡市出身。 旧暦 慶応4年4月13日、出羽国 庄内藩 近習頭取 神戸善十郎(諱:義方)の次男として、鶴岡城下(現・鶴岡市)に生れる。 1887年(明治20年)に陸軍士官学校に入校し、1890年(明治23年)7月26日に卒業した(陸士1期、歩兵科)、ちなみに 1890年(明治23年)7月29日の官報によると、陸軍士官学校第1期を歩兵科47番/103名で卒業している。 1891年(明治24年)3月26日、陸軍少尉。
秋山 真之(あきやま さねゆき、旧字体: 秋山 眞之、18… 秋山 真之(あきやま さねゆき、旧字体: 秋山 眞之、1868年4月12日〈慶応4年3月20日〉- 1918年〈大正7年〉2月4日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。位階勲等功級は従四位勲二等功三級。勲二等旭日重光章、功三級金鵄勲章を授与された。通称は淳五郎(じゅんごろう)。 三兄は「日本騎兵の父」と云われた陸軍大将の秋山好古、次兄は朝鮮京城電気重役の岡正矣。子は4男2女。元参議院議員・大石尚子は、真之の孫(二女・宜子の長女)。 日本海海戦出撃の際の報告電報の一節で、後に名文と評された「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」や、「聯合艦隊解散之辞」の起草者としても知られる。 伊予国松山城下中徒町(現:愛媛県松山市歩行町)に松山藩の下級武士・秋山久敬の5男として生まれる。
鷲尾 順敬(わしお じゅんきょう、慶応4年3月18日(186… 鷲尾 順敬(わしお じゅんきょう、慶応4年3月18日(1868年4月10日) - 昭和16年(1941年)1月13日)は、摂津国(大阪府)出身の仏教史学者。 東洋大学卒業後、曹洞宗大学林、その後身の駒澤大学、東洋大学にて教授。明治25年(1892年)、境野黄洋、村上専精と協力して溯源窟を興し『仏教史林』を刊行。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
松本 与右衛門(與右衞門、まつもと ようえもん、1868年4… 松本 与右衛門(與右衞門、まつもと ようえもん、1868年4月10日(明治元年3月18日)- 1920年(大正9年)8月10日)は、明治から大正期の酒造家、実業家、政治家。衆議院議員。 陸奥国胆沢郡塩竃村(岩手県胆沢郡水沢町、水沢市を経て現奥州市水沢中上野町)で、庄屋・松本元助、きさ の長男として生まれた。1888年(明治21年)明治法律学校(現明治大学)に入学した。 1889年(明治22年)帰郷して条約改正反対運動を進めた。その後、岩手自由青年会を組織して幹事に就任。1897年(明治30年)憲政党岩手支部幹事となる。また、胆沢郡会議員、水沢町会議員、岩手県会議員にも在任した。 1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙(岩手県郡部、立憲政友会)で当選し、1903年(明治36年)3月、第8回総選挙(岩手県郡部、立憲政友会)でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
小浜 松次郎(こはま まつじろう、1868年4月7日〈慶応4… 小浜 松次郎(こはま まつじろう、1868年4月7日〈慶応4年3月15日〉 - 1946年〈昭和21年〉9月24日)は、日本の内務・警察官僚。官選青森県知事、小倉市長、初代函館市長。 薩摩国姶良郡加治木(現鹿児島県姶良市)で小浜有照の二男として生まれる。 第二高等学校を首席で卒業。1897年7月、東京帝国大学法科大学を卒業。内務省に入省し内務属となり警保局に配属。1898年1月、警視庁警部兼警視属に発令。1900年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。 1901年7月、警視庁警視・小松川警察署長に就任。以後、検疫事務支署長、宮崎県警部長、宮崎県事務官・第四部長、石川県事務官・第四部長、警視庁警視・第二部長、同第一部長、同警務部長などを歴任。
野間 五造(のま ごぞう、慶応4年3月10日(1868年4月… 野間 五造(のま ごぞう、慶応4年3月10日(1868年4月2日) - 昭和21年(1946年)2月18日)は、日本の衆議院議員(憲政本党)。ジャーナリスト。 岡山藩士野間隼太の長男として生まれる。岡山中学校を卒業後、同志社英学校などを経て、1887年(明治20年)に東京専門学校に入学した。1888年(明治21年)に英語科を卒業し、翌年には邦語政治科を卒業した。1890年(明治23年)、『東京日日新聞』の記者となる。翌年、清に渡って広東同文館で中国語を学び、また『東京日日新聞』『東京新報』特派員として長江流域の哥老会反乱を報じた。1893年(明治26年)、沖縄県に渡って琉球新報社を興し、主筆となった。
川上 善兵衛(かわかみ ぜんべえ、1868年4月2日(慶応4… 川上 善兵衛(かわかみ ぜんべえ、1868年4月2日(慶応4年3月10日) - 1944年5月21日)は、新潟県上越市の岩の原葡萄園の創業者であり、「日本のワインの父」「日本のぶどうの父」「日本のワインぶどうの父」と呼ばれる。 岩の原ワインは、現在でも代表的な国産ワインとして人気が高い。
市邨 芳樹(いちむら よしき、慶応4年3月5日(1868年3… 市邨 芳樹(いちむら よしき、慶応4年3月5日(1868年3月28日) - 昭和16年(1941年)1月1日)は、備後国御調郡尾道(現・広島県尾道市)出身の教育者、学校の設置者。女子産業教育の先鞭者。広島県立尾道商業高等学校、名古屋経済大学市邨中学校・高等学校、名古屋経済大学高蔵高等学校・中学校創立者。 備後国御調郡尾道(現・広島県尾道市久保町)生まれ。16歳で上京し、1887年(明治20年)に東京商法講習所(現・一橋大学)を卒業。 尾道に帰郷後、20歳のとき私立尾道商法講習所(現・広島県立尾道商業高等学校)を開校し、1898年(明治31年)の広島県への移管後も引き続いて校長を務めた。 1893年(明治26年)、招かれて愛知県名古屋商業学校(現・名古屋市立名古屋商業高等学校)に赴任、教諭後校長としてその発展に尽力した。
松井 慶四郎(まつい けいしろう、1868年3月28日〈慶応… 松井 慶四郎(まつい けいしろう、1868年3月28日〈慶応4年3月5日〉- 1946年〈昭和21年〉6月4日)は、日本の外交官、政治家。男爵。大阪府出身。松井保蔵二男。 妻の照子は西日本の鉄道王と呼ばれた実業家の今村清之助の娘。長女に日本の洋裁教育と服飾デザインの礎を作った田中千代、二女・貞子は安川電機社長の安川寛(安川敬一郎孫)の妻。長男はフランス大使となった松井明。慶四郎の死後、長男の明は襲爵手続をしなかった。
犬塚 勝太郎(いぬづか かつたろう、1868年3月27日〈慶… 犬塚 勝太郎(いぬづか かつたろう、1868年3月27日〈慶応4年3月4日〉 - 1949年〈昭和24年〉7月2日)は、日本の内務・逓信官僚、政治家。府県知事、衆議院議員、貴族院議員、錦鶏間祗候。 庄内藩士・犬塚盛巍の長男として生まれる。大学予備門を経て、1889年7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を首席で卒業。内務省に入り同7月23日内務試補(年俸六百円下賜)として県治局に配属された。 1890年(明治23年)6月4日、内務大臣秘書官(西郷従道大臣)となる。以後、長崎県参事官、鉄道庁事務官、逓信省参事官兼鉄道局庶務課長、兼法制局参事官などを歴任。1896年6月から1898年1月まで、欧米の鉄道事業を視察するため出張。
浅野 陽吉(あさの ようきち、1868年3月26日(慶応4年… 浅野 陽吉(あさの ようきち、1868年3月26日(慶応4年3月3日 )- 1944年(昭和19年)2月12日)は、日本の教育者、実業家、政治家、郷土史研究家。衆議院議員、久留米商業学校長。号・是々。 筑後国三潴郡大隈村原古賀(福岡県久留米市原古賀町)で、浅野為三郎の長男として生まれる。福岡県立久留米中学校在学中に英語教師宮崎駿児の薫陶を受け、宮崎が退職して上京する際に中学を退学して同行した。1892年7月、東京高等商業学校を卒業。 『信濃日報』主筆、『九州日報』主筆を経て、福岡県嘉穂郡で幸袋工作所の設立に参画し、また、久留米で同志と久留米実業会を組織して、商工会議所の設立に尽力した。1899年11月、久留米市から強く要請され久留米商業学校校長に就任し、校風の刷新と、校勢の進展に尽力した。
北原 阿智之助(きたはら あちのすけ、1868年3月26日(… 北原 阿智之助(きたはら あちのすけ、1868年3月26日(明治元年3月3日) - 1947年(昭和22年)11月29日)は、衆議院議員。号は痴山。 信濃国伊那郡座光寺村(現長野県飯田市)に庄屋の北原稲雄の次男として生まれ、明治20年(1887年)同郡上郷村の同族北原家の養子となる。 明治14年(1881年)に上京し、渡辺重石丸の道生館に学び、一旦帰郷、同18年(1885年)に再び上京して成立学舎、築地の英学校に学ぶ。和歌を海上胤平、俳句を正岡子規に師事する。同23年(1890年)雑誌「正気」を発行、子規の「日本新聞」俳句欄に投稿し、同30年(1897年)飯田で「松声会」を結成した。同35年(1902年)には伊那史料刊行会を設立し「伊那名勝志」を発行、菱田春草が挿絵を担当した。
西野 久右衛門(久右衞門、にしの きゅうえもん、1868年3… 西野 久右衛門(久右衞門、にしの きゅうえもん、1868年3月26日(慶応4年3月3日)- 1900年(明治33年)2月1日)は、明治期の医師、政治家。衆議院議員。 越前国今立郡北村(福井県今立郡北村、北新庄村、武生市を経て現越前市)で生まれた。済生学舎で医学を修めた。 1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙(福井県第3区、山下倶楽部)で当選し、衆議院議員に1期在任。同年8月、第6回総選挙(福井県第3区、無所属)では次点で落選した。 その後、帝国党が結成されるとこれに参加し幹事を務めた。
赤間 嘉之吉(あかま かのきち、1868年3月21日(慶応4… 赤間 嘉之吉(あかま かのきち、1868年3月21日(慶応4年2月28日) - 1926年(大正15年)8月24日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員、伊藤商店総支配人、東亜煙草理事、九州興業社長。 1868年(慶応4年2月)に筑前国嘉穂郡鎮西村(現飯塚市)にて生まれる。和仏法律学校(現・法政大学)を卒業後、大蔵省煙草専売局事務官などを経て、伊藤商店の総支配人となる。 1917年(大正6年)に第13回衆議院議員総選挙に当選する(当選2回、政友会)。 また、九州興業社長、東亜煙草理事、東京電気雷管・大正鉱業の監査役などを歴任した。 1926年(大正15年)8月24日に死去、享年59。 大蔵省を経て、筑豊の炭鉱王・伊藤伝右衛門の右腕として、伊藤家の支配人となる。
村山 金平(むらやま きんぺい / きんへい、1868年3月… 村山 金平(むらやま きんぺい / きんへい、1868年3月21日(明治元年2月28日)- 1921年(大正10年)5月17日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、宇都宮市会議長。旧姓・高橋、旧名・直次郎。 下野国都賀郡、のちの栃木県上都賀郡今市町(今市市を経て現日光市)で高橋家に生まれ、1891(明治24年)8月、肥料商、先代・村山金平の養子となり、1893年(明治26年)4月、家督を相続し金平を襲名した。肥料商、塩商を営む。 宇都宮商業会議所副会頭、下野銀行取締役、下野倉庫取締役、下野電力取締役、豊島特産取締役、下野米券倉庫取締役、宇都宮銀行監査役、栃木県肥料商組合副組合長などを務めた。
萩原 守一(はぎわら もりいち/しゅいち、1868年3月20… 萩原 守一(はぎわら もりいち/しゅいち、1868年3月20日〈慶応4年2月27日〉 - 1911年〈明治44年〉5月25日または5月26日)は、明治時代の日本の外交官。位階および勲等は従四位・勲三等。旧姓は石川。 長門国豊浦郡宇賀村(現在の山口県下関市)に生まれる。兄は石川耐蔵。 1893年(明治26年)、萩原明輔の後を継ぎ、萩原に改姓。 1895年(明治28年)7月、帝国大学法科大学法律学科を卒業。同年9月、外交官及領事官試験に合格し外務省に入省して、外交官となった。 1897年からドイツ帝国公使館に勤務する。その後ベルギー、大韓帝国、清、アメリカ合衆国の公使館で書記官を務めた。1906年に奉天総領事館の総領事となる。
増田 次郎(ますだ じろう、慶応4年2月26日〈1868年3… 増田 次郎(ますだ じろう、慶応4年2月26日〈1868年3月19日〉 - 1951年〈昭和26年〉1月14日)は、明治末期から昭和初期にかけて活動した日本の実業家・政治家。 後藤新平秘書から衆議院議員となり、さらに実業界に転じて電気事業に参加。大同電力社長、日本発送電(日発)初代総裁、台湾電力(台電)社長などを務めた。駿河国(現・静岡県)出身。 増田次郎は慶応4年2月26日(明治元年、新暦:1868年3月19日)、駿河国志太郡稲川村(現・静岡県藤枝市)に増田儀右衛門の次男として生まれた。生家は120俵あまりの収穫がある比較的裕福な農家で、父儀右衛門は戸長に選ばれるような村の有力者であった。 小学校を出た後、世継ぎであり体の丈夫な兄・太郎に農業を継がせるので次郎は商人になるのがよい、という父の意向で、13歳のとき奉公に出され六合村にあった親類の商家に預けられた。
長島 律太郎(ながしま りつたろう、1868年3月18日(慶… 長島 律太郎(ながしま りつたろう、1868年3月18日(慶応4年2月25日)- 1925年(大正14年)1月31日)は、日本の農業経営者、政治家。衆議院議員、埼玉県北足立郡小谷村長。 武蔵国足立郡小谷村(のち埼玉県北足立郡小谷村、現:鴻巣市)で、小谷村長を務めた長島基吉の長男として生まれる。1890年、東京専門学校政治科を卒業し、農業を営む。 北足立郡会議員、同参事会員、埼玉県会議員、同参事会員、小谷村長などを務めた。 1917年4月、第13回衆議院議員総選挙で埼玉県選挙区から憲政会所属で出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。
河西 健次(かさい けんじ、明治元年2月24日〈1868年3… 河西 健次(かさい けんじ、明治元年2月24日〈1868年3月17日〉 - 昭和2年〈1927年〉5月14日)は日本の医師。陸軍軍医、満鉄大連医院院長、武蔵野病院創設者。 長野県小県郡和田村の医者の家系に長男として生まれる。1890年(明治23年)帝国大学医科大学在学中に陸軍医官候補生に採用され、日清戦争に出征した。1894年(明治27年)大学卒業後、京都帝国大学大学院を経て、伏見衛生病院、台北衛生病院付となり、日露戦争時には三等軍医正となる。1906年(明治39年)ドイツ駐在となり、1908年(明治41年)現役のまま南満洲鉄道衛生課長兼大連医院長に就任した。 1911年(明治44年)、奉天における国際ペスト会議に列席し、軍医正に進み、1912年(大正元年)南満医学堂の初代堂長を兼任した。
生原 忠右衛門(忠右衞門、はいばら ちゅうえもん / ちゅう… 生原 忠右衛門(忠右衞門、はいばら ちゅうえもん / ちゅううえもん、1868年3月15日(慶応4年2月22日)- 1932年(昭和7年)12月20日)は、明治後期から昭和前期の政治家、実業家。衆議院議員。 甲斐国山梨郡小松村(山梨県東山梨郡春日居村、春日居町を経て現笛吹市春日居町小松)で、豪農・生原広賢、かく の長男として生まれる。1892年(明治25年)6月、家督を相続した。 1889年(明治22年)町村制施行以来、春日居村会議員を務め、1894年(明治27年)東山梨郡会議員に当選。1899年(明治32年)山梨県会議員に選出され、所得税調査委員、春日居村助役なども務めた。 1917年(大正6年)4月、第13回衆議院議員総選挙に山梨県郡部から立憲政友会所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
飯村 稷山(いいむら しょくざん、慶応4年3月14日(西暦1… 飯村 稷山(いいむら しょくざん、慶応4年3月14日(西暦1868年4月6日) - 昭和17年(1942年)6月17日)は、日本の漢詩人。秋田県仙北郡六郷村(のち六郷町)出身。隣村畑屋村生まれの高橋午山、千屋村の坂本東嶽(理一郎)とともに「仙北の三山」と称された。 羽後国仙北郡六郷村飯村永助の次男として生まれた。幼名は堅治、のちに粋と改名した。 六郷の熊谷松陰および岡三慶に師事し、漢籍を学んだ。田尻稲次郎らによって創立された東京の専修学校(現在の専修大学)を卒業後、新聞社に入社し日清戦争に従軍した。上京して以来、臨済宗の傑僧中原南天棒に参禅し、玉川遠州流の茶道も学んだ。「稷山」は師より賜った居士号である。
斎藤 阿具(さいとう あぐ、1868年3月11日(慶応4年2… 斎藤 阿具(さいとう あぐ、1868年3月11日(慶応4年2月18日) - 1942年(昭和17年)3月1日)は、日本の歴史学者。夏目漱石の友人として知られる。 武蔵国足立郡尾間木村(現・埼玉県さいたま市)出身。1890年第一高等中学校卒業。1893年東京帝国大学史学科卒業、大学院に進む。1897年第二高等学校教授。1903年から3年間ドイツ、オランダに留学。留学中に本郷区駒込千駄木町の家を夏目漱石に貸した。漱石はここで『吾輩は猫である』を書いたため、「夏目漱石旧宅跡」として区指定史跡とされ旧居記念碑が建っており、旧居は明治村に移築された。 帰国後第一高等学校教授となり、芥川龍之介、久米正雄、山本有三らを教えた。
小川 芋銭(おがわ うせん、1868年3月11日〈慶応4年2… 小川 芋銭(おがわ うせん、1868年3月11日〈慶応4年2月18日〉 - 1938年〈昭和13年〉12月17日)は、19世紀から20世紀前半にかけて活躍した日本画家、俳人。幼名は不動太郎、本名は茂吉、号は牛里。 小川家は代々牛久藩士で、大坂の陣で討死した木村重成の末裔だという。父は常陸国牛久藩の大目付であったが、廃藩置県により新治県城中村(現:茨城県牛久市城中町)に移り農家となった。当初は洋画を学び、尾崎行雄の推挙を受け、朝野新聞社に一時雇われ画工として入社。そこでは挿絵や漫画を描いていたが、後に本格的な日本画を目指し、川端龍子らと「珊瑚会」を結成。横山大観に認められ、日本美術院同人となる。 生涯のほとんどを牛久沼の畔で農業を営みながら暮らした。
吉富 朝次郎(よしとみ あさじろう、1868年3月10日(慶… 吉富 朝次郎(よしとみ あさじろう、1868年3月10日(慶応4年2月17日) - 1941年(昭和16年)8月4日)は、日本の洋画家である。岡山県における美術教育に尽力した。 良吉・飛佐の次男として、備中国(現・岡山県総社市田町)で生まれた。吉富家は昔「小寺屋」と称し、酒造業や刻み煙草商を営んでいたが、農業にも従事していた。総社市西宮本町の堀和平が神戸に行って外人から油絵の技法を習得して帰り、自宅のアトリエでさかんに製作しているのを見よう見まねで自分も画くようになった。この頃、総社市門田の満谷国四郎は、堀和平と甥・叔父の間柄であったので、しばしば遊びに来て、6歳年上の朝次郎に兄事していた。その後、朝次郎が一時浅尾小学校(現総社市門田)で代用教員を務めた頃、国四郎は彼の教え子であった。
千坂 智次郎(ちさか ちじろう、1868年3月8日(慶応4年… 千坂 智次郎(ちさか ちじろう、1868年3月8日(慶応4年2月15日)- 1936年(昭和11年)2月23日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 米沢藩士・千坂高雅の二男として生まれる。米沢中学校、攻玉社を経て、明治20年(1887年)7月に海軍兵学校(14期)を卒業し、同22年(1889年)9月に海軍少尉任官。練習艦「館山」分隊長などを経て、日清戦争では「扶桑」分隊長として出征した。 練習艦「満珠」航海長、「高雄」航海長、「須磨」航海長、皇族(有栖川宮威仁親王)付武官、「松島」航海長、「八雲」回航委員、同航海長、「夕霧」艦長などを歴任。日露戦争には「初瀬」航海長として出征したが、明治37年(1904年)5月に乗艦が触雷により沈没した。
渡邊 龍夫(わたなべ たつお、1868年3月7日〈慶応4年2… 渡邊 龍夫(わたなべ たつお、1868年3月7日〈慶応4年2月14日〉 - 1927年〈昭和2年〉4月28日)は、明治後期から大正にかけて活動した愛知県名古屋市の政治家・実業家である。政界では名古屋市会議員や愛知県会議員、実業界では大手電力会社大同電力の取締役などを務めた。 慶応4年2月14日(明治元年、新暦:1868年3月7日)、愛知県士族・渡邊永豊の長男として生まれた。1893年(明治26年)に家を継ぐ。学業は中央大学を卒業した。 役員録や人名録によると、1900年(明治33年)時点では大阪生命保険株式会社名古屋出張所長、1908年(明治41年)時点ではガラス商、1913年(大正2年)時点では木材防腐剤商として働いていたとある。
祝 辰巳(いわい たつみ、1868年3月5日〈慶応4年2月3… 祝 辰巳(いわい たつみ、1868年3月5日〈慶応4年2月3日〉- 1908年〈明治41年〉5月25日)は、日本の台湾総督府・大蔵官僚。台湾総督府民政長官。位階および勲等は正四位・勲二等。 出羽国村山郡(現:山形県上山市)で上山藩士の子として生まれる。1892年(明治25年)、帝国大学法科大学を卒業。同年10月、大蔵省試補となり、大臣官房第二課に配属された。以後、主計局勤務、沖縄県収税部長・収税長を歴任。 1896年(明治29年)、台湾総督府に転じ、民政局財務部調査課長兼関税課長に就任。その後、財務局主計課長、財務局長事務取扱、民政部財務局長、兼専売局長、民政局殖産局長などを歴任。 1906年(明治39年)11月、民政長官に就任し、現職で死去した。
新海 竹太郎(しんかい たけたろう、慶応4年2月10日(18… 新海 竹太郎(しんかい たけたろう、慶応4年2月10日(1868年3月3日) - 昭和2年(1927年)3月12日)は、現在の山形県山形市生まれの彫刻家。息子に画家の新海覚雄がいる。 仏師の長男に生まれる。初めは軍人を志し、1888年近衛騎兵大隊に入営。士官候補生試験に失敗し失意の日々を送っていたが、手遊びで作った馬の木彫が隊内で評判を呼び、上官だった北白川宮能久の薦めもあり、彫刻家志望に転じた。1891年の除隊後、後藤貞行に師事。後藤は当時、高村光雲のもとで楠木正成像の原型の制作に当たっており、その助手を務めた。また浅井忠にデッサン、小倉惣次郎に塑造を学んだ。1896年に軍より北白川宮能久親王騎馬銅像の制作依頼を受け、1899年に原型を完成させた(翌年鋳造、1902年に設置)。
鶴田 賢次(つるた けんじ、1868年3月1日(慶応4年2月… 鶴田 賢次(つるた けんじ、1868年3月1日(慶応4年2月8日) - 1918年(大正7年)6月10日)は、日本の物理学者。東京帝国大学教授。勲五等。理学博士。 ニコンの前身である東京計器製作所の光学計器部の設立にもかかわった、明治-大正期におけるガラス・光学レンズの第一人者で、三角型体温計の発明者。
久木田 叶(くきた かのう、1868年2月29日(慶応4年2… 久木田 叶(くきた かのう、1868年2月29日(慶応4年2月7日)- 1963年(昭和38年)12月29日)は、明治から昭和前期の政治家。衆議院議員(1期)、枕崎市名誉市民。旧姓・鮫島。 薩摩国川辺郡鹿籠郷鹿籠村(南方郷鹿籠村、鹿児島県川辺郡南方郷鹿籠村、西鹿籠村、東南方村、枕崎町を経て現枕崎市西鹿籠)で、鮫島強右衛門の三男として生れ、久木田キヨの養子となり1884年(明治17年)家督を相続した。造士館を中退し、1892年(明治25年)東京法学院卒。農業を営む。 川辺郡会議員を務め、1903年(明治36年)鹿児島県会議員に選出され、1919年(大正8年)9月まで在任し、同参事会員も務めた。枕崎港の築港、枕崎高等女学校(現鹿児島県立枕崎高等学校)の開設などに尽力した。
佐藤 啓(さとう ひらく、1868年2月29日(慶応4年2月… 佐藤 啓(さとう ひらく、1868年2月29日(慶応4年2月7日) - 1941年(昭和16年)4月21日)は、戦前日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党→国民同盟)、山形県西山村長。 出羽国村山郡西山村(現在の山形県西村山郡西川町)に佐藤里治(衆議院議員)の子として生まれる。東京専門学校(現在の早稲田大学)政治科を卒業後、山形日報の経営にあたった。 西山村長、山形県会議員を経て、1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は6回を数えた。 その他、山形民報社長、羽陽銀行(山形銀行の前身の一つ)取締役、三山電気鉄道取締役を務めた。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
高橋 辰次(たかはし たつじ、1868年2月27日(慶応4年… 高橋 辰次(たかはし たつじ、1868年2月27日(慶応4年2月5日) - 1959年(昭和34年)1月14日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 山形県出身。西置賜郡時庭村(現長井市)にて井上代造の長男として生まれる。1884年、山形県師範学校卒。高橋家に養嗣子として入る。小学校訓導、大塚村(現・川西町)議会議員、同村長、山形県会議員、同参事会員、地方森林会議員を務める。また、第百二十五銀行、置賜製糸(株)各取締役、宮内製糸(株)社長、山形信用購買販売利用組合連合会長となる。 1917年の第13回衆議院議員総選挙において山形県郡部から立憲政友会公認で立候補してトップ当選する。1920年の第14回衆議院議員総選挙では山形4区から立候補して再選する。
村上 直次郎(むらかみ なおじろう、1868年2月26日(慶… 村上 直次郎(むらかみ なおじろう、1868年2月26日(慶応4年2月4日) - 1966年(昭和41年)9月17日)は、明治時代から昭和時代にかけての日本の歴史学者。文学博士。帝国学士院会員、勲一等瑞宝章受章。日欧通交史、日本・東南アジア関係史の権威。 豊後玖珠(大分県玖珠町)出身。1878年(明治11年)から1884年(明治17年)の6年間を同志社英学校に学び、同余科(神学科)卒業後は東京府に移る。第一高等学校を経て1895年(明治28年)帝国大学文科大学史学科を卒業。その後東京帝国大学講師、東京外国語学校(現:東京外国語大学)校長、東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)校長、台北帝国大学文政学部長、上智大学第4代学長などを歴任。
小泉 節子(こいずみ せつこ、慶応4年2月4日〈1868年2… 小泉 節子(こいずみ せつこ、慶応4年2月4日〈1868年2月26日〉- 昭和7年〈1932年〉2月18日)は、小泉八雲の妻。日本に関する八雲の著述を支えた。戸籍上の名前は小泉 セツだが、本人は節子の名を好んだ。 出雲松江藩の家臣小泉家の二女として生まれ、親戚の稲垣家の養女となる。子供の頃に稲垣家が没落して節子は11歳から生家の機織会社で織子として働いた。18歳の時に婿養子を迎えて結婚したが、夫は貧しさに耐えられず出奔し大阪に移る。22歳で正式に離婚し小泉家に復籍する。家計を支えるため松江の英語教師として赴任したラフカディオ・ハーン(後の小泉八雲)の家の住み込み女中となり、のちに結婚した。八雲の日本語の理解を助けるとともに、幼少時から物語が好きだったこともあって日本に関する八雲の著述を支えた。
松村 龍雄(まつむら たつお、1868年2月25日(慶応4年… 松村 龍雄(まつむら たつお、1868年2月25日(慶応4年2月3日) - 1932年7月18日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。
山田 安民(やまだ やすたみ、前名・卯之吉、1868年2月2… 山田 安民(やまだ やすたみ、前名・卯之吉、1868年2月23日(慶応4年2月1日) - 1943年(昭和18年)4月13日)は、日本の実業家、薬剤師。族籍は奈良県平民。ロート製薬の創業者。私立奈良盲唖学校開設者。奈良県における障害児教育の先駆者。 姓は山田姓ではなく津村姓と異なってはいるが、津村重舎(津村順天堂創業者)、津村岩吉(津村敬天堂経営)は実弟。長男は山田輝郎(ロート製薬初代社長)。孫は山田安邦(元会長、輝郎の長男)、山田安廣(現・取締役兼アンズコーポレーション社長、輝郎の五男)。曾孫は山田邦雄(現・会長、安邦の長男)。 大和国宇陀郡池上村(のち奈良県宇陀郡伊那佐村池上、現・奈良県宇陀市)で、農家の父・安二郎と母・ナカの長男・卯之吉として生まれる。
尾竹 越堂(おたけ えつどう、1868年2月21日(慶応4年… 尾竹 越堂(おたけ えつどう、1868年2月21日(慶応4年1月28日) - 1931年(昭和6年)12月3日)は、明治から昭和期にかけての浮世絵師・日本画家。 多くの文献が誤っているが、姓の読みは「ODAKE(おだけ)」ではなく、「OTAKE(おたけ)」と濁らないのが正しい。 画号を国一(富山時代)、国弌、観月(大阪時代)とも称す。紺屋を営む尾竹倉松の長男として慶応4年1月28日(1868年2月21日)、越後国白根町(現在の新潟県新潟市)に生まれる。本名熊太郎。幼少のとき東京に出て四代目歌川国政に浮世絵を学んだと伝わる。明治18年(1885年)ごろから国雪と号して『新潟新聞』に挿絵を描き、明治22年(1889年)に富山に移ると、売薬版画、新聞挿絵、絵馬、押絵の下絵などを描いた。