宮 英子(みや ひでこ、1917年2月23日-2015年6月… 宮 英子(みや ひでこ、1917年2月23日-2015年6月26日)は、日本の歌人。夫は宮柊二。別名・滝口英子(1953年 - 1986年)。 富山県富山市出身。旧姓・瀧口。実家は代々医家であった。美術評論家・詩人の瀧口修造の従妹にあたる。 東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)卒。尾上柴舟に学ぶ。1937年(昭和12年)、歌誌「多磨」に入会し、北原白秋に師事。同門の宮柊二と結婚し、1953年に「コスモス」創刊に参加。1970年、第一歌集『婦負野』で第16回日本歌人クラブ推薦歌集(現・日本歌人クラブ賞)受賞。1986年の柊二没後、後を継いで「コスモス」発行人となった。2005年『西域更紗』で第20回詩歌文学館賞受賞。
黄 聖秀(ファン・ソンス、朝鮮語: 황성수/黃聖秀、1917… 黄 聖秀(ファン・ソンス、朝鮮語: 황성수/黃聖秀、1917年2月22日 - 1997年3月4日または3月5日)は、アメリカ合衆国のジャーナリスト、大韓民国の外交官、弁護士、学者、政治家。第3代韓国国会民議院副議長、第2・3・4・5代国会議員(第5代は参議員)、全羅南道知事を歴任した。 本貫は昌原黄氏。父は牧師の黄保翼で、制憲国会議員の黄斗淵は父方の叔父、呉錫柱は母方の叔父である。篤実なキリスト教徒である。 日本統治時代の全羅南道宝城郡宝城邑宝城里出身、本籍は平安北道である。平壌崇実中学校、崇実専門学校、明治学園を経て、1940年、東北帝国大学(現・東北大学)法文学部を卒業。東京帝国大学(現・東京大学)文学部で研究を行った後、渡米しウェストミンスター神学校を卒業した。
久慈 義巳(くじ よしみ、1917年(大正6年)2月21日 … 久慈 義巳(くじ よしみ、1917年(大正6年)2月21日 - 1979年(昭和54年)2月16日)は、日本の政治家。岩手県久慈市長、岩手県議会議員(自由民主党所属)。 岩手県久慈市生まれ。1937年麻布獣医専門学校(現在の麻布大学)卒業。同4月農林省獣疫調査所(現在の動物衛生研究所)技手、1948年侍浜町農協組合長および侍浜町漁協組合長、1949年久慈市農業委員を歴任。1951年侍浜村議となり、1954年久慈市議会議員となる。1967年岩手県議会議員に当選する。 岩手県議3期を務めた後、1978年(昭和53年)に久慈市長選に自民党、社会党、公明党、民社党の推薦を得て立候補し、市制施行以来6期連続で市長を務めていた保守系無所属の現職、山内堯文を破り初当選した。
重枝 琢巳(しげえだ たくみ、1917年2月21日 - 20… 重枝 琢巳(しげえだ たくみ、1917年2月21日 - 2009年2月18日)は、昭和から平成時代の労働運動家。全日本労働総同盟(同盟)書記長。 山口県生まれ。1943年九州帝国大学法文学部経済学科卒業。九大では波多野鼎に師事。1946年三井化学工業に入社。同年日本労働組合総同盟(総同盟)九州連合会執行委員。1948年日本炭鉱労働組合連合会(炭労)事務局長。1951年9月加藤閲男、星加要、古賀専らと民主労働運動研究会(民労研)を結成、同会幹事。同年12月民主社会主義連盟(民社連)評議員。1953年2月全国民主主義労働運動連絡協議会(民労連)幹事。1954年全国石炭鉱業労働組合(全炭鉱)書記長兼総同盟副会長。
加藤 哲太郎(かとう てつたろう、1917年(大正6年)2月… 加藤 哲太郎(かとう てつたろう、1917年(大正6年)2月21日 - 1976年(昭和51年)7月29日)は、日本の元陸軍中尉・新潟の東京捕虜収容所第五分所長。英語塾経営者。東京に生まれる。父は作家・評論家の加藤一夫、母は加藤小雪。 父の一夫は神田豊穂らと春秋社を興し、日本初の『トルストイ全集』を刊行して成功を収めた。また、アナキズムに傾倒していた。 1923年9月1日、関東大震災が起こると、9月5日に一夫は巣鴨警察に留置され、9月7日、東京退去を条件にようやく釈放された。このため加藤一家は兵庫県武庫郡精道村(現・芦屋市)への転居を余儀なくされた。 1928年、神奈川県横浜市に転居。 1940年、哲太郎は慶應義塾大学を卒業。
嘉悦 康人(かえつ やすと、1917年(大正6年)2月21日… 嘉悦 康人(かえつ やすと、1917年(大正6年)2月21日 - 2009年(平成21年)3月27日)は日本の教育者。元学校法人嘉悦学園学園長・理事長。 1917年(大正6年)2月、東京に生まれる。1943年(昭和18年)に嘉悦学園秘書課長、1946年(昭和21年)に同学園総務部長、1950年(昭和25年)に財団法人嘉悦学園理事長、1951年(昭和26年)に学校法人嘉悦学園理事長に就任する。1953年(昭和28年)に法政大学経済学部経済学科を卒業する。1966年(昭和41年)に日本女子経済短期大学(のち嘉悦大学短期大学部)学長、1972年(昭和47年)に嘉悦女子高校校長及び嘉悦女子中学校校長に就任する。
西脇 安(にしわき やすし、1917年2月20日 - 201… 西脇 安(にしわき やすし、1917年2月20日 - 2011年3月27日)は、日本の生物学者(放射線生物学)。勲等は勲三等。学位は医学博士(京都大学・1954年)、理学博士(京都大学・1962年)。東京工業大学名誉教授、ウィーン大学名誉教授。 大阪帝国大学理学部助手、大阪理工科大学助教授、大阪市立医科大学助教授、東京工業大学理工学部付属原子炉研究施設教授などを歴任した。 初期のキャリアにおいては原子核物理学実験を専門とし、第二次世界大戦中は核兵器開発研究にも関与したが、戦後連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ)によって原子核の研究が禁止されたことを受けて、放射線生物学に転向した。 アメリカ合衆国が1954年にビキニ環礁で行った水爆実験「ブラボー実験」による被害の調査を行い、日本国外にも事件の情報を伝達した。
青木 一雄(あおき かずお、1917年〈大正6年〉2月20日… 青木 一雄(あおき かずお、1917年〈大正6年〉2月20日 - 2001年〈平成13年〉7月13日)は、元NHKアナウンサー。 青木一雄1968 / 野村泰治1968-1973 / 中江陽三1973-1976.3 / 加治章1976.4-1978.3 / 川野一宇1978.4-1981.3 / 松平定知1981.4-1984.3 / 吉川精一1984.4-1987.3 / 佐藤充宏1987.4-1988.3 / 徳田章1988.4-1989.3 / 佐藤充宏(再)1989.4-1990.3 / 徳田章(再)1990.4-1991.3
山本 茂実(やまもと しげみ、1917年〈大正6年〉2月20… 山本 茂実(やまもと しげみ、1917年〈大正6年〉2月20日 - 1998年〈平成10年〉3月27日)は、日本の小説家。非常に寡作な人物であり、代表作「あゝ野麦峠」で日本文学史にその名を刻んだ。 長野県東筑摩郡松本村(現・松本市)に農家の長男として生まれる。松本青年学校に通うが、1937年(昭和12年)に召集され近衛歩兵第3連隊に入る。終戦後は農業に従事し、31歳になってから上京し、早稲田大学文学部哲学科の聴講生となる。青年海外協力隊の専任講師も務めた。 松本市歴史の里に「山本茂実展示コーナー」がある。夫人山本和加子の回想記『「あゝ野麦峠」と山本茂実』(角川学芸出版、2010年)がある。 1998年3月27日死去。
貴島 清彦(きじま きよひこ、1917年〈大正6年〉2月19… 貴島 清彦(きじま きよひこ、1917年〈大正6年〉2月19日 - 1998年〈平成10年〉7月14日)は日本の作曲家。 東京小石川茗荷谷で生まれる。父親は薩摩琵琶、姉は生田流の箏をよくした家庭であった。東京府立第六中学校(現・東京都立新宿高等学校)在学中、16歳の時に作曲したいという熱望から草川信に和声を学び始め、1934年、日本大学芸術科に入り、理論、作曲を小松耕輔、池内友次郎に、ピアノをジェームス・ダンに学び、1938年卒業。1938年11月、《交響曲の第1楽章》が第7回日本音楽コンクールに第2位入賞。翌年大学より芸術賞を受賞した。卒業後はしばらく療養生活を送り、創作を断ち、この間読書、音楽鑑賞などをしながら音楽観や作曲態度について思考する時間を持った。
峠 三吉(とうげ さんきち、1917年(大正6年)2月19日… 峠 三吉(とうげ さんきち、1917年(大正6年)2月19日 - 1953年(昭和28年)3月10日)は、日本の詩人。本名は、三吉(みつよし)。1951年(昭和26年)に自費出版した『原爆詩集』で知られる。 父・嘉一はタイル製造などを手がける実業家で、三吉は父の勤務地大阪府豊能郡(現・豊中市)に生まれ、生後まもなく家族とともに父の故郷広島市に転居した。幼い頃から気管支の病気に苦しめられしばしば喀血、広島商業学校(現在の広島県立広島商業高校)在学時から詩作にいそしんだが、卒業後は長期の療養生活を余儀なくされ、この病気は三吉を生涯苦しめることとなった。 さらに1945年(昭和20年)8月6日、爆心地より3kmの広島市翠町(現在の南区翠)で被爆。
岡野 喜一郎(おかの きいちろう、1917年2月19日 - … 岡野 喜一郎(おかの きいちろう、1917年2月19日 - 1995年8月13日)は、日本の経営者、銀行家。駿河銀行頭取、会長を務めた。静岡県沼津市出身。 1941年に慶應義塾大学法学部を卒業。三井銀行での勤務を経て、1949年に駿河銀行に転じ、1954年11月に取締役に就任し、1958年に常務、1963年に専務を経て、1964年8月には頭取に就任した。1981年3月に会長に就任。 1995年8月13日心不全のために死去。78歳没。
海邉 忠治(かいべ ちゅうじ、1917年〈大正6年〉2月19… 海邉 忠治(かいべ ちゅうじ、1917年〈大正6年〉2月19日 - 2010年)は、日本の教育者、哲学者、宗教学者。甲子園短期大学元学長。相愛大学名誉教授。兵庫県出身。大阪府池田市に在住していた。 海邉藤八・てい夫妻の長男に生まれる。1941年(昭和16年)龍谷大学文学部を卒業。1947年(昭和22年)京都帝国大学文学部哲学科を卒業し、龍谷大学講師を務める。 1948年(昭和23年)相愛女子専門学校教授となり、1950年(昭和25年)相愛女子短期大学助教授(哲学担当)・同教務部長に就任。1958年(昭和33年)相愛女子大学教授(哲学担当)・同教務部長に就任。1984年(昭和59年)同大学人文学部長に就任。
朴 永鍾(パク・ヨンジョン、朝鮮語: 박영종、1917年2月… 朴 永鍾(パク・ヨンジョン、朝鮮語: 박영종、1917年2月19日 - 1959年4月28日)は、大韓民国のジャーナリスト、政治家。第3代韓国国会議員。 本貫は咸陽朴氏(朝鮮語版)。キリスト教徒。 日本統治時代の全羅南道光州郡出身。早稲田大学政治学部政治科卒。民族陣営の運動を行った後、光州青年団を組織した。解放後は独立促成中央協議会全南支部組織者、外務部書記官、ソウル新聞記者、湖南新聞編集局長、大韓青年団全羅南道団副団長を歴任した。1954年の第3代総選挙では自由党の候補として潭陽郡選挙区から当選し、国会内務委員・予決委員を務めたが、与党内のよくない所を糾弾したため、自由党から除名され民主党に入党した。
柳 宗玄(やなぎ むねもと、1917年2月18日 - 201… 柳 宗玄(やなぎ むねもと、1917年2月18日 - 2019年1月16日)は、日本の美術史家。お茶の水女子大学名誉教授。民藝運動で著名な柳宗悦の次男。母は声楽家の柳兼子、妻は志賀直哉の四女・万亀子。フランスの画家ジョルジュ・ルオー研究の第一人者として知られた。 東京府生まれ。白樺派運動の中心にいた父の下で幼少期より芸術活動に触れていた。東京帝国大学法学部および文学部卒、1952年より3年間、フランス、ベルギーに留学、美術史を学ぶと共に自ら絵筆もとり、帰国後、東京芸術大学助教授を経て、お茶の水女子大学教授、定年後は武蔵野美術大学教授を務めた。『學士會会報』の表紙図案・カットを、南原繁(元東大総長で理事長)の要請で、1965年より2009年5月刊まで描いた(後任は西野嘉章が務める)。
宮崎 茂一(みやざき もいち、1917年2月15日 - 20… 宮崎 茂一(みやざき もいち、1917年2月15日 - 2004年2月16日)は、日本の政治家、技術士(建設部門)。位階は従三位。 自由民主党衆議院議員(8期)。第42代科学技術庁長官。 鹿児島県鹿児島郡谷山村大字上福元上松崎(現在の鹿児島市谷山中央)出身。鹿児島県立第二中学校(現甲南高校)から第七高等学校造士館(現鹿児島大学)を経て1939年東京帝国大学工学部を卒業。 大学卒業後、内務省に入省。その後は経済企画庁を経て運輸省に移り、港湾局長などを歴任。退官後、政界入りを目指し1969年の衆議院議員総選挙に旧鹿児島1区から無所属で出馬したが落選。3年後の1972年の総選挙に再び旧鹿児島1区から無所属で出馬、初当選を飾った(当選同期に小泉純一郎・加藤紘一・山崎拓・石原慎太郎・三塚博・村岡兼造・保岡興治・瓦力・越智通雄・野田毅・深谷隆司など)。
青木 雄造(あおき ゆうぞう、1917年2月15日 - 19… 青木 雄造(あおき ゆうぞう、1917年2月15日 - 1982年7月4日)は、日本の英国小説研究者、東京大学名誉教授。 官吏であった父の赴任先の沖縄県で生まれる。旧姓は堀口。1939年に東京帝国大学英文科卒、翌年から四年間、軍隊生活を送る。その間、結婚し青木姓となった。43年、東亜研究所研究員を経て、1946年、東京産業大学予科講師、翌47年、一橋大学助教授、1953年に東大文学部英文科助教授、1965年に教授。1977年定年退官し名誉教授。明治学院大学教授になるも病気のため二年で退職。この間、文部省大学設置審議会専門委員、日本英文学会会長。 グレアム・グリーンやイヴリン・ウォーを中心とする現代イギリス小説に造詣が深い。
堀田 政孝(ほった まさたか、1917年(大正6年)2月15… 堀田 政孝(ほった まさたか、1917年(大正6年)2月15日 - 1971年(昭和46年)12月20日)は、昭和期の官僚、政治家。衆議院議員。 岡山県出身。府立高等学校を卒業。1939年(昭和14年)10月、高等試験行政科試験に合格した。1940年(昭和15年)東京帝国大学法学部を卒業。同年、内務省に入省し警保局属に任じられた。 太平洋戦争に出征し陸軍主計少尉となるが、病のため1944年(昭和19年)ラバウルから帰還し除隊となる。1945年(昭和20年)山形県警察部特別高等警察課長に赴任。石原莞爾の監視を命ぜられていたが、その弟子となる。 戦後に公職追放となる。そのため各種の事業を経営したがいずれも失敗。
中井 幸一(なかい こういち、本名:中井 幸房(なかい ゆき… 中井 幸一(なかい こういち、本名:中井 幸房(なかい ゆきふさ)、1917年(大正6年)2月15日 - 2020年(令和2年)12月28日)は、日本の写真評論家、広告評論家。 京都府出身。日本大学芸術学部卒業。1951年、電通に入社。1973年、電通を退社。 電通に勤務し、アートディレクター制(アート・ディレクター・システム。クライアントとデザイナーの間にアートディレクターを置き、アートディレクターが両者の単なる橋渡し(連絡係的役割)だけではなく、積極的にデザインをまとめ上げる中核的な役割をになうシステム)の導入を積極的に行った。 日本大学芸術学部教授も務めた。1992年に日本大学を定年退職。
曲 壽郎(まがり としろう、1917年〈大正6年〉2月15日… 曲 壽郎(まがり としろう、1917年〈大正6年〉2月15日 - 2012年〈平成24年〉12月12日)は、日本の陸軍軍人、陸上自衛官、簡易裁判所判事、弁護士。 最終階級は、帝国陸軍では陸軍少佐、陸自では陸上幕僚長(第11代)たる陸将(陸軍大将に相当)。 陸士50期首席、陸軍科学学校高等科(45期)優等、陸大58期。 長崎県大村市出身。小学校教員・曲義彦の三男として生まれる。 佐世保中学、東京陸軍幼年学校・陸士予科を経て、1937年(昭和12年)12月に陸軍士官学校(50期)を首席で卒業して恩賜の銀時計を拝受した。翌年1月、陸軍砲兵少尉に任官した。 1939年(昭和14年)、ノモンハン事件に野戦重砲兵第1連隊中隊長として出征した。
小佐野 賢治(おさの けんじ、1917年(大正6年)2月15… 小佐野 賢治(おさの けんじ、1917年(大正6年)2月15日 - 1986年(昭和61年)10月27日)は、日本の実業家。国際興業グループ創業者。 戦時体制下では軍需省に取り入って蓄財し、日本の敗戦後には駐留外国人相手の事業で成功した。また、運輸・観光事業も手広く行い、日本国内の有名ホテルを複数買収したほか、ハワイの観光資源にいち早く注目してワイキキの名門ホテルを多数手中にするなどして、「ホテル王」と呼ばれたこともある。 また、後の内閣総理大臣・田中角栄との関係が「刎頸の友」と言われるなど有力な政商として知られ、政財界と暴力団の橋渡しを行っているなどとの噂から、「裏世界の首領」、「黒幕」などと揶揄されることもあった。
橋本 正己(はしもと まさみ、1917年2月14日 - 20… 橋本 正己(はしもと まさみ、1917年2月14日 - 2003年1月26日)は、日本の公衆衛生学者。国立公衆衛生院名誉教授。1989年勲三等旭日中綬章受章。 大阪府豊中市生まれ。1940年大阪帝国大学医学部卒。短期現役士官海軍軍医、1948年「昭和二十一年春季阪神地方流行時に於ける発疹チフス患者百七十名の疫学的並に臨床的観察」で大阪帝国大学より医学博士の学位を取得。豊中保健所勤務、厚生省公衆衛生局、国立公衆衛生院部長、名誉教授。1982年埼玉県立衛生短期大学学長。1989年勲三等旭日中綬章受勲。
早川 良雄(はやかわ よしお、1917年2月13日 - 20… 早川 良雄(はやかわ よしお、1917年2月13日 - 2009年3月28日)は、昭和期の日本を代表するグラフィックデザイナー。それぞれに違う色彩と描かれ方の違うパーツからなる『女の顔』シリーズ(1985年 - )や、独特の形態、配置から構成されるポスター作品などが特徴とされる。 1917年大阪府に生まれる。大阪市立工芸学校(現・大阪市立工芸高校)図案科(現在はビジュアルデザイン科・プロダクトデザイン科・インテリアデザイン科に分科)卒(1936年卒)。敗戦後、百貨店の三越などの広告部のデザイナーを経てグラフィックデザイナーとして独立、以後海外の国際的なデザインプロジェクトなどに精力的に関わる。 デザイナーとして、今日では伝説的ともいえる斬新なポスター・広告を多数製作、戦後日本のモダニズムを表現し、一躍注目を集めた。
三浦 巖(みうら いわお 1917年2月13日 - 1982… 三浦 巖(みうら いわお 1917年2月13日 - 1982年1月30日)は日本の画家。水彩画家。東京帝国大学文学部卒業という異色の経歴を持ち、短い期間ではあるがフランスでも活動した。 1917年(大正6年)大阪府大阪市に生まれる。1941年(昭和16年)東京帝国大学文学部東洋史学科を卒業。同年同大学院へ進学した。1942年(昭和17年)頃から本郷絵画研究所に学び、1949年(昭和24年)第37回日本水彩展においてみずゑ賞を受賞、日本水彩画会会員となった。 1964年(昭和39年)から一年間パリに滞在。1970年(昭和45年)「薬師寺の塔」がル・サロン(フランス芸術家協会サロン展)で銀賞を受け、翌1971年(昭和46年)「パリ風景」が金賞を受賞、以後ル・サロンにおいて無鑑査となる。
吉阪 隆正(よしざか たかまさ、1917年2月13日 - 1… 吉阪 隆正(よしざか たかまさ、1917年2月13日 - 1980年12月17日)は、日本の建築家。 吉阪俊蔵・花子夫妻の長男として東京都文京区(当時は東京市小石川区)に生まれた。父・俊蔵は内務官僚で、母・花子は動物学者として有名な箕作佳吉の次女。従って隆正は箕作阮甫の玄孫にあたる。 1923年、父の勤務先のスイスから一家で帰国して東京百人町に住み、暁星小学校に入学。小学校6年生の終わりに父の転勤でジュネーヴに移住。中学生の頃から父と登山をはじめる。[要出典]中学3年のとき2度目のスイス滞在から単身帰国し、早稲田高等学院に進み、1941年早稲田大学理工学部建築学科を卒業。大学生時代は山岳部で活動し、一年の半分は山で過ごしていた。
福武 直(ふくたけ ただし、1917年2月12日 - 198… 福武 直(ふくたけ ただし、1917年2月12日 - 1989年7月2日)は、日本の社会学者。文学博士(東京大学)。東京大学名誉教授。岡山県岡山市出身。 1917年(大正6年)岡山県岡山市に出生する。旧制岡山第一中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、1937年(昭和12年)第六高等学校を卒業する。その後、1940年(昭和15年)東京帝国大学文学部社会学科卒業した。 卒業論文は「社會學と社會的現實−社會學方法論における諸問題−」。1948年に東京大学文学部助教授、1960年に教授。1962年に「日本村落の社会構造」で東京大学より文学博士の学位を取得。1977年(昭和52年)に定年退官、名誉教授。
松野 頼三(まつの らいぞう、1917年(大正6年)2月12… 松野 頼三(まつの らいぞう、1917年(大正6年)2月12日 - 2006年(平成18年)5月10日)は、日本の政治家。軍人時代の最終階級は海軍主計少佐。位階は正三位。勲等は旭日大綬章。総理府総務長官、労働大臣、防衛庁長官、農林大臣を歴任した。長男に松野頼久(政治家)、孫娘に松野未佳(2016年ミス日本グランプリ)がいる。
恩地 三保子(おんち みおこ、1917年〈大正6年〉2月12… 恩地 三保子(おんち みおこ、1917年〈大正6年〉2月12日 - 1984年〈昭和59年〉12月27日)は、日本の児童文学翻訳家。 画家・恩地孝四郎の長女として東京市麹町区中六番町(現・東京都千代田区四番町)に生まれる。1938年東京女子大学英文科卒業、同年7月師範学校中学校高等女学校教員免許状(英語)取得。 戦後、東京のアメリカ第8軍教育本部勤務や国際基督教大学美術史教授ヒューゴ・ムンスターバーグ(wikidata)の著作執筆の助手等を経て、明星学園高等学校講師を務めるなどして、1951年頃から英米文学の翻訳を始めた。はじめ推理ものや少女ものを訳し、ローラ・インガルス・ワイルダーの作品の訳者として知られる。
生方 明(うぶかた あきら、1917年2月12日 - 没年不… 生方 明(うぶかた あきら、1917年2月12日 - 没年不詳)は、日本の俳優、元子役である。本名同じ。 1917年(大正6年)2月12日、東京府東京市神田区神田(現在の東京都千代田区神田)に生まれる。 1923年(大正12年)12月、渋谷幡代尋常小学校(現在の渋谷区立幡代小学校)1年生の時、築地小劇場で小山内薫演出『そら豆が煮えるまで』で初舞台を踏む。1934年(昭和9年)、青山学院中等部を卒業するまでに、父親である生方賢一郎(1882年 - 1961年)が関係する新劇協会や築地座の公演に子役として出演した。 映画では中学校1年から教育映画や1932年(昭和7年)に公開された、鈴木重吉監督映画『熊の出る開墾地』などに出演していたが、1934年(昭和9年)、父・賢一郎が在籍するP.C.L.映画製作所が製作した木村荘十二監督映画『只野凡児 人生勉強』に出演したのがきっかけで中学卒業直後の同年4月に入社。
小野 登(おの のぼる、1917年2月11日 - 2008年… 小野 登(おの のぼる、1917年2月11日 - 2008年7月20日[要出典])は、日本の映画監督、テレビディレクター。岡山県川上郡吹屋町(後の高梁市成羽町吹屋)出身。 1935年に香川県立高松商業学校を卒業し、日本大学芸術学部映画学科に進学。在学中、自作の脚本が映画監督の白井戦太郎に認められ、彼に師事するために1938年に大学を中退。大都映画に助監督として入社する。 1940年に東宝映画へ移籍して編集技師になるも、1947年に[要検証 – ノート]再び助監督となり、山本薩夫に師事する。 1955年からは東映京都撮影所で活動。1958年にテレビディレクターに、そして1960年に映画監督になる。
三枝 康高(さいぐさ やすたか、1917年2月11日 - 1… 三枝 康高(さいぐさ やすたか、1917年2月11日 - 1978年3月27日)は、日本近代文学研究者、文芸評論家、元静岡大学教授。 神奈川県出身。静岡県立静岡中学校卒業。旧制姫路高等学校文科甲類卒業。東京帝国大学文学部卒業。在学中に亀井勝一郎、太宰治と相知り、『日本浪漫派』に参加。創作・評論活動をおこない、戦後静岡大学教育学部助教授、のち教授。 1959年「日本浪曼派の運動」のほか、太宰、川端康成、三島由紀夫など昭和期作家、および国学の研究・評論に幅広く活躍した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
西垣 勇蔵(にしがき ゆうぞう、1917年2月9日 - 19… 西垣 勇蔵(にしがき ゆうぞう、1917年2月9日 - 1988年1月2日)は、長唄唄方。教育者。 1917年(大正6年)大阪府に生まれる。1936年(昭和11年)東京音楽学校邦楽科に入学。この年、邦楽科は選科から本科へ昇格しており第一期生となった。1939年(昭和14年)同校を卒業。1957年(昭和32年)東音会創立に参加し、1970年(昭和45年)からは会長も務めた。 その後、東京芸術大学教授、同大学名誉教授。
丘 灯至夫(おか としお、1917年〈大正6年〉2月8日 -… 丘 灯至夫(おか としお、1917年〈大正6年〉2月8日 - 2009年〈平成21年〉11月24日)は日本の作詞家。本名は西山安吉。丘灯至夫以外にも丘十四夫、河野一郎など数々のペンネームを持つ。 好々爺として知られ、その明るい人柄から作品も明るい青春歌やホームソング的なものが多い。代表作は『高原列車は行く』、『高校三年生』、『あこがれの郵便馬車』など。アニメの主題歌なども手がけており、『ハクション大魔王』、『みなしごハッチ』、『ガッチャマンファイター』などが知られている。 ペンネームの由来は、新聞記者としての経験から「押しと顔」を逆から読んだものといわれている。新聞記者は押しが強くて面の皮が厚い、と言われることから。
佐川 博男(さがわ はくお、1917年〈大正6年〉2月8日 … 佐川 博男(さがわ はくお、1917年〈大正6年〉2月8日 - 2004年〈平成16年〉12月)は、日本の居合道家、剣道家。段位は居合道範士九段、剣道教士七段。居合の流派は夢想神伝流。 福島県東白川郡塙町で生まれる。1928年(昭和3年)、福島県立白河中学校(現福島県立白河高等学校)に入学し、剣道部に入部。3年生のころ郡山で開かれた剣道大会で大島治喜太の居合演武を見て、居合を志す。 1936年(昭和11年)11月16日、仙台陸軍教導学校を卒業し、軍人として第二次世界大戦では中国戦線に出征した。この戦争での白兵戦の経験から、「日本刀は3人斬ると脂が付いて斬れなくなる」という俗説には否定的であった。
石川 貫之(いしかわ かんし、1917年(大正6年)2月7日… 石川 貫之(いしかわ かんし、1917年(大正6年)2月7日 - 1994年(平成6年)7月11日)は、日本の陸軍軍人、航空自衛官。最終階級は日本陸軍では陸軍少佐、航空自衛隊では航空幕僚長たる空将。 果樹園経営・石川琢次の二男として生まれる。大分中学を卒業し、陸軍航空士官学校(50期)に入校。旧陸軍時代は当初、軽爆撃機操縦者であり、飛行第16戦隊に所属していた1939年(昭和14年)、ノモンハン事件で初陣を迎える。同年8月には九七式軽爆撃機で出撃し、ソ連軍のI-16に撃墜され草原に不時着したが、間一髪のところで友軍機に救助されたという。 1941年(昭和16年)3月、大尉に進級すると同隊の中隊長となるが、1943年(昭和18年)夏、飛行分科を戦闘に転科。
上杉 隆憲(うえすぎ たかのり、1917年〈大正6年〉2月5… 上杉 隆憲(うえすぎ たかのり、1917年〈大正6年〉2月5日 - 1995年〈平成7年〉10月30日)は、米沢上杉家15代当主。 上杉憲章の三男として東京で生まれる。長兄・定憲と次兄・資憲が早世したため、父の跡を継ぎ米沢上杉家の当主となる。 学習院で初等科から高等科まで学び、中等科時代には海軍大将男爵山下源太郎宅に寄宿し、教育を受けた。 1941年(昭和16年)東京帝国大学文学部教育学科を卒業。文部省に入省。戦時中には山形師範学校助教授となり、一時県教育庁社会教育課に籍をおいたこともあった。 戦後、東京に戻り、児童福祉司、東京都中央児童相談所長、石神井学園長、東京都児童会館長、東京文化会館長など子供の教育施設一筋に歩んだ。
前田 利貴(まえだ としたか、1917年(大正6年)2月4日… 前田 利貴(まえだ としたか、1917年(大正6年)2月4日 - 1948年(昭和23年)9月9日)は、日本の軍人。最終階級は陸軍大尉。 加賀前田家の分家、前田男爵家の嫡子として生まれる。利貴の出た家は、加賀藩主・前田斉泰の十二男・前田利武が男爵になったことにはじまる。利貴の父である前田利功(としこと)は、元富山藩主・前田利聲の三男で、利武の養子となって男爵家を継いだ。学習院を経て、1940年(昭和15年)に法政大学法学部を卒業し、三井物産に入社する。 その後、太平洋戦争で出兵し、インドネシアで終戦を迎える。オランダ軍によりティモール島クーパンの収容所に収容され、戦犯として、1948年(昭和23年)4月29日に行われた裁判で死刑を宣告される。
横田 みさを(よこた みさお、1917年2月3日 - 200… 横田 みさを(よこた みさお、1917年2月3日 - 2003年6月13日)は、日本の水泳選手、女優。同志社高等女学校在学中に女子100m背泳ぎの日本記録を更新し、1932年ロサンゼルスオリンピックに15歳で出場した。その後は芸能界に転身し、松竹歌劇団と宝塚歌劇団に入団、さらに映画女優となった。夫は作曲家の竹岡信幸。 京都市出身。同志社高等女学校(現在の同志社女子中学校・高等学校)に学ぶ。横田在学中の同志社高女は、団体優勝を重ねる水泳の強豪校であった。もっとも学校にはプールがなかったため、スイミングクラブである大日本武徳会遊泳部(のちの京都踏水会)に属し、夷川ダム(琵琶湖疏水)で練習を重ねていたという。
海原 治(かいはら おさむ、1917年2月3日 - 2006… 海原 治(かいはら おさむ、1917年2月3日 - 2006年10月21日)は、日本の内務・警察・防衛官僚、軍事評論家。大阪府出身。本籍は徳島県。 第一東京市立中学校・第一高等学校を経て、1939年に東京帝国大学法学部を卒業し、内務省入省。入省同期に後藤田正晴がいた。内務省大臣官房文書課勤務を経て、1940年1月に高知県事務官を発令。太平洋戦争勃発と前後して、1940年2月、陸軍第11師団歩兵第43連隊(徳島)に入営、経理部幹部候補生になり、第11師団経理勤務班隊長の陸軍主計大尉として終戦を迎える。 終戦によって第11師団は兵器を県に引渡し、県が占領軍へと引き渡すことになっていたが、目録を作成して引き渡す第11師団の経理勤務班の隊長でありながら、それを受け取る高知県事務官でもあったので同師団でもっとも早い召集解除となった。
松山 吉三郎(まつやま きちさぶろう、1917年2月2日 -… 松山 吉三郎(まつやま きちさぶろう、1917年2月2日 - 2006年12月20日)は、元騎手(東京競馬倶楽部、日本競馬会、国営競馬)、元調教師(国営競馬、日本中央競馬会(JRA))。JRA調教師顕彰者。 妹はバレエダンサーの松山樹子(松山バレエ団)。父の松山徳蔵は戦前の日本競馬会の元調教師。二男の松山康久はJRAの調教師(ミスターシービーやジェニュインを管理、調教師顕彰者)。 鹿児島県姶良郡隼人町(現・霧島市)出身。実家はもとは庄屋であったが、父・徳蔵が上京し目黒競馬場・尾形藤吉厩舎の厩務員となったため、東京へ移り住んだ。 1929年、東京都目黒区立油面尋常小学校卒業とともに尾形藤吉厩舎の見習騎手となる。
津野田 知重(つのだ ともしげ、1917年〈大正6年〉2月1… 津野田 知重(つのだ ともしげ、1917年〈大正6年〉2月1日 - 1987年〈昭和62年〉7月26日)は、日本の陸軍軍人。東條英機暗殺計画(津野田事件)の首謀者。戦後、日本科学技術振興財団専務理事としてテレビ東京設立に貢献した。最終階級は陸軍少佐。熊本県出身。 日露戦争で第三軍指揮官乃木希典の参謀を務めた津野田是重(陸軍少将、陸士第6期歩兵科首席)の三男として誕生。父親の後を継いで陸軍に入ることを決めた際に母親から反対されたが、父の部下であった山下奉文の後押しもあり、軍人となる。旧制東京府立第六中学校卒業を経て、1937年(昭和12年)12月、陸軍士官学校卒業(第50期、11番/426名)。 1938年(昭和13年)1月、陸軍歩兵少尉。
末岡 圀孝(すえおか くにたか、1917年2月1日 - 19… 末岡 圀孝(すえおか くにたか、1917年2月1日 - 1998年11月)は、広島県出身のサッカー選手。 広島一中時代は、センターフォワード(CF)だった。早稲田大学理工学部に進学してア式蹴球部に所属、高橋英辰らが同期であり、1938年の全日本蹴球選手権大會(第18回天皇杯全日本サッカー選手権大会)で優勝メンバーに名を連ねている。また、1940年4月の全日本蹴球選手権大會(第20回天皇杯全日本サッカー選手権大会)では早大WMWのメンバーとして大会準優勝に貢献した。 また、大学在学中の1939年8月27日には関東州代表戦でサッカー日本代表として初出場。また、同年9月の日満華交歓競技大会および1940年6月の紀元二千六百年奉祝東亜競技大会に出場し、国際Aマッチ1試合を含む合計4試合に出場した。
沢村 栄治(さわむら えいじ、旧字体:澤村 榮治、1917年… 沢村 栄治(さわむら えいじ、旧字体:澤村 榮治、1917年2月1日 - 1944年12月2日)は、三重県出身のプロ野球選手(投手)。
目加田 さくを(めかだ さくお、女性、1917年(大正6年)… 目加田 さくを(めかだ さくお、女性、1917年(大正6年)2月1日 - 2010年(平成22年)12月20日)は、国文学者。平安時代文学が専門。学位は、文学博士(大阪大学・論文博士・1962年)(学位論文「物語作家圏の位相及び教養よりみたる物語の形成」)。福岡女子大学名誉教授。勲三等宝冠章受章。 1917年、福岡県大野城市生まれ。旧姓・瀬利。本名・サクヲ。1941年九州帝国大学法文学部国文科を卒業する。 卒業後は九州帝国大学副手、1945年山口女子専門学校教授、福岡県女子専門学校教授、1950年福岡女子大学助教授、教授を務める。1962年「物語作家圏の位相及び教養よりみたる物語の形成」で大阪大学より文学博士の学位を取得。
三治 重信(さんじ しげのぶ、1917年(大正6年)2月1日… 三治 重信(さんじ しげのぶ、1917年(大正6年)2月1日 - 1994年(平成6年)5月13日)は、日本の労働官僚、政治家。労働事務次官。参議院議員(民社党)。 横浜銀行取締役会長小川是は女婿。 愛知県西尾市出身。信太郎の五男。1939年(昭和14年)高等試験行政科合格。1940年(昭和15年)京都帝国大学農学部農林経済学科卒、内務省に入省。茨城県警部。 戦後労働省に移り、職業安定局長、労政局長、事務次官を歴任して退官。1972年(昭和47年)衆院選に立候補するが落選、1974年(昭和49年)の参院選で当選を果たす。(平成元年)党副委員長に就任。1992年(平成4年)引退。 趣味はゴルフ、テニス、読書。
塩川 忠巳(しおかわ ただみ、1917年〈大正6年〉2月1日… 塩川 忠巳(しおかわ ただみ、1917年〈大正6年〉2月1日 - 2017年〈平成29年〉4月6日)は、昭和から平成初期の政治家。長野県小諸市長。位階は従四位。 長野県北佐久郡南大井村(現小諸市)で、塩川敬次郎、かめじ の長男として生まれた。長野県北佐久農学校(現長野県北佐久農業高等学校)卒業。1940年(昭和15年)北佐久郡農会技手、1946年(昭和21年)南大井村役場書記となり、1948年(昭和23年)同収入役に就任。小諸市発足後、農林課長、会計課長、総務課長、水道部長経て、1969年(昭和44年)市消防長、1972年(昭和47年)市助役、1973年(昭和48年)土地開発公社常務理事併任などを歴任した。
酒井 忠明(さかい ただあきら、1917年〈大正6年〉1月3… 酒井 忠明(さかい ただあきら、1917年〈大正6年〉1月30日 - 2004年〈平成16年〉2月28日)は、酒井左衛門尉家21代当主、写真家、書家、歌人、財団法人致道博物館名誉館長。1998年勲五等双光旭日章。1999年鶴岡市名誉市民。 1917年(大正6年)、旧庄内藩主 酒井家20代当主・酒井忠良の長男として山形県鶴岡市家中新町に生まれる。母は大給近道長女・萬千子。 1935年(昭和10年)に旧制鶴岡中学(現・山形県立鶴岡南高等学校)を卒業後、酒井家図書研究所文会堂で旧庄内藩校致道館伝統に基づく「庄内学」とも称される儒学や東洋古典などを学びながら短歌を始め、歌人で万葉集研究家の国文学者、佐佐木信綱に師事する。
藤野 英一(ふじの えいいち、1917年1月30日 - 19… 藤野 英一(ふじの えいいち、1917年1月30日 - 1994年11月10日)は、日本の裁判官。最高裁判所調査官や福岡家庭裁判所長、東京高等裁判所部総括判事などを歴任した。福岡県出身。 この項目は、法曹に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
堀川 潭(ほりかわ たん、1917年1月29日 - 1979… 堀川 潭(ほりかわ たん、1917年1月29日 - 1979年2月4日)は、日本の小説家。島根県益田市出身。本名・高橋義樹。 日本大学芸術科卒。1944年海軍報道班員としてサイパン島従軍、グアム島で捕虜となり、ハワイ収容所に送られて1946年帰国。伊藤整の弟子となり、「新文化」「文学生活」などに小説を執筆。短編集「運命の卵」ほか。 「高橋潭」とすることもある。文藝春秋の編集者・高橋一清は甥。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
北澤利男(きたざわ としお、1917年1月29日 - 199… 北澤利男(きたざわ としお、1917年1月29日 - 1997年3月3日)は、日本の実業家。キッツ(旧北沢バルブ)の創業者。勲三等珠宝章。長野県諏訪市出身。 東洋バルヴ創業者北澤國男の長男として生まれる。旧制長野工業専門学校卒業。 1951年北澤製作所設立。(1962年北澤バルブ、1975年北沢バルブと社名変更。1992年現社名キッツに変更。) 1974年に私費を投じて、奨学のための育英事業を行う財団公益財団法人、北澤育英会を設立。 1983年北澤美術館、開館。利男が長年にわたって収集した美術コレクションを一般に公開し、地域文化の向上に寄与する為に設立した公益財団法人によって運営されている。 1987年産業界での功績に対し 勲三等瑞宝章を叙勲。