犬飼 源太郎(いぬかい げんたろう、1869年8月28日(明… 犬飼 源太郎(いぬかい げんたろう、1869年8月28日(明治2年7月21日)- 1923年(大正12年)9月11日)は、明治から大正期の政治家、実業家。衆議院議員、岡山県会議長。号・竹荘、柿園。 備中国都宇郡山地村(岡山県都宇郡庄村を経て現倉敷市山地)で、犬飼篤太郎の長男として生れ、1896年(明治29年)3月に家督を相続した。1886年(明治19年)7月、東京成学館に入学し1888年(明治21年)に退学。同年8月、明治法律学校(現明治大学)に入学し、政治学、法律学を修め、1891年(明治24年)7月に卒業した。 帰郷して1893年(明治26年)5月、庄村助役となる。1896年(明治29年)2月、岡山県会議員に選出され連続3期在任し、1903年(明治36年)、1911年(明治44年)には県会議長に就任。
岡 不崩(おか ふほう、明治2年7月13日(1869年8月2… 岡 不崩(おか ふほう、明治2年7月13日(1869年8月20日) - 昭和15年(1940年)7月29日)は、明治期から昭和期にかけて活動した日本画家。 明治2年(1869年)7月13日に福井県大野町に五人兄弟の四男として生まれる。本名は吉寿。幼名は又太郎といった。梅渓、不崩と号す。 明治13年(1880年)に上京し、麹町の番町小学校に入学する。明治17年(1884年)16歳の時に狩野友信に入門して洋画を学ぶ。当時は軍人志望であったが、鑑画会創立の頃から友信の紹介もあって狩野芳崖に師事し、本格的に日本画を習得している。有賀長雄宅での狩野永悳、芳崖、木村立嶽らの研究会に参加して学び、明治18年(1885年)の第1回鑑画会大会に岡梅渓の号で「山水」と「草花」を出品している。
石橋 禹三郎(いしばし うさぶろう、明治2年7月3日(186… 石橋 禹三郎(いしばし うさぶろう、明治2年7月3日(1869年8月19日) - 1898年(明治31年)3月22日または23日)は明治時代のシャム王国入植者。長崎県平戸島に生まれ、福岡、東京で英語を学んだ後、アメリカ合衆国オークランドに留学した。帰国後シャム王国への植民事業を企てたが、暹羅殖民会社、石橋商会の事業はいずれも失敗し、東京で病没した。 明治2年(1869年)7月3日、肥前国平戸町に呉服太物商石橋彦兵衛の第5子または第10子として生まれた。小学校では威圧的な振る舞いで他の児童から孤立し、また家では仕事を手伝わず、家族を困らせた。 15歳の時針浦退蔵に入門し、2年間余り儒教を学んだ。1883年(明治16年)9月留学を認めない養父長次郎の元を離れて福岡の取引先宅に身を寄せ、当初陸軍予備士官学校に入学しようとしたが、同郷南部重遠の誘いで人参畑高場乱に学んだ。
永田 勘六(ながた かんろく、1869年8月17日〈明治2年… 永田 勘六(ながた かんろく、1869年8月17日〈明治2年7月10日〉 - 1927年〈昭和2年〉3月9日)は、日本の資産家、農民、埼玉県多額納税者、埼玉県の大地主。前名は平次郎。族籍は埼玉県平民。 埼玉県南埼玉郡粕壁町(現・春日部市)の人で、先代・永田勘六の長男。1895年、家督相続と共に襲名して前名・平次郎を改めた。農業を営み、県下の大地主であった。多額納税者として知られた。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。住所は埼玉県南埼玉郡粕壁町(現・春日部市)。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
錦小路 在明(にしきのこうじ ありあき、1869年8月16日… 錦小路 在明(にしきのこうじ ありあき、1869年8月16日〈明治2年7月9日〉 - 1911年〈明治44年〉11月24日)は、明治期の華族。官位は従五位、爵位は子爵。 山城国京都で式部大輔・唐橋在光の四男として生まれる。唐橋在正の弟。東京美術学校(現:東京芸術大学)卒業。明治維新以降、子爵に叙せられた。 1897年、群馬県尋常中学校教諭に就任。1898年、叔父・錦小路賴言の次女益子の入夫、錦小路家の養子となる。同じ年、賴言の死去に伴い、家督を相続する。1899年、東宮職御用掛となる。1900年、東宮主事に就任。 1911年11月24日死去。43歳没。
相馬 半治(そうま はんじ、1869年8月15日(明治2年7… 相馬 半治(そうま はんじ、1869年8月15日(明治2年7月8日) - 1946年(昭和21年)1月7日)は、明治製糖、明治製菓の創立者の一人。1903年に東京高等工業学校(現・東京工業大学)の教授となり、1906年に教授を辞めて明治製糖の設立に加わり、1916年に明治製菓設立に加わり、1923年から1942年まで明治製菓会長。砂糖業界四巨頭の一人と言われた。 相馬半治の元の姓は田中であった。田中家は代々犬山藩の家臣であり、半治の父、庵は田中家7代目で家禄59俵。母は尾張藩士加藤平八郎の長女八重子だった。田中半治は3男として1869年(明治2年)、尾張国丹羽郡犬山町に生まれた。父は明治維新を機会に士族の商法を始めるが失敗、家は困窮を極めた。
水野 正巳(みずの まさみ、1869年8月15日(明治2年7… 水野 正巳(みずの まさみ、1869年8月15日(明治2年7月8日) - 1936年(昭和11年)9月29日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。 兵庫県美嚢郡口吉川村(現三木市)出身。1894年に有馬郡の水野家の婿養子となり上京。東京専門学校で学ぶ。大阪で株式仲買店、神戸で印刷業を始めるも失敗し神戸へ戻る。農業を営み、神戸市会議員、神戸商業会議所議員となる。 1908年の第10回衆議院議員総選挙において兵庫県郡部から憲政本党公認で立候補して初当選した。以来連続3回当選。1912年の第11回衆議院議員総選挙では立憲国民党から立候補したが落選。翌1913年に繰り上げ当選となった。1915年の第12回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。
羽田 彦四郎(はだ ひこしろう、明治2年7月4日(1869年… 羽田 彦四郎(はだ ひこしろう、明治2年7月4日(1869年8月11日) - 昭和21年(1946年)7月16日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)。弁護士。実業家。 臼杵藩士羽田角弥の二男として臼杵城下に生まれる。1892年(明治25年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業し、弁護士試験に合格した。弁護士として活動し、東京弁護士会副会長に選ばれた。また実業家としても中央鉄道(のち武州鉄道)社長、米田鉱業株式会社社長、日本紙工株式会社取締役、日英石鹸株式会社監査役などを務めた。 1926年(大正15年)、衆議院議員に補欠当選を果たした。
寺島 成信(てらしま しげのぶ、1869年8月10日(明治2… 寺島 成信(てらしま しげのぶ、1869年8月10日(明治2年7月3日) - 1939年(昭和14年)4月2日)は、日本の経済学者、経済学博士。日本で初めて経済学博士を取得した人物として知られる。 出羽国庄内(現・山形県鶴岡市)出身。佐藤雄能や三矢重松らと共に、同郷の学生寄宿舎「荘内館」の設立に尽力した。 日清戦争以前、戦時に仮装巡洋艦として用いる高速商船の建造・航路補助の制度整備を主張した。後に自分は「仮装巡洋艦主義」を唱えたと回顧する。 日本郵船では「同社創設の調査機関を主宰するに至つた」。近藤廉平社長とともに、パリ講和会議に民間船主代表として参加。 第一次大戦中より論壇に登場し、航空省設置や優秀船建造について発言。
山口 武彦(やまぐち たけひこ、1869年8月9日(明治2年… 山口 武彦(やまぐち たけひこ、1869年8月9日(明治2年7月2日) - 1962年(昭和37年)7月11日)は、日本の実業家。アズビルや、日本酸素ホールディングス、日本精工の創業者。 鹿児島県下西田町(現鹿児島市西田)生まれ。旧薩摩藩士の家だったが明治維新後に没落しており貧しく、農商務省に務める義兄・奥清輔(のち農商務省水産局長)を頼って東京に移り、東京職工学校(現東京科学大学)に進学。1891年に卒業すると、義兄の親友だった高橋是清(当時農商務省特許局長)の紹介で農商務省入省、特許局審査官補。その後、製釘事業を立ち上げようと考えていた安田善次郎からの依頼を受けていた高橋是清から推挙され、安田銀行に技師として入行して、1896年からオハイオ州クリーブランドで技術習得に従事。
三代目 古今亭 今輔(ここんてい いますけ、明治2年6月27… 三代目 古今亭 今輔(ここんてい いますけ、明治2年6月27日(1869年8月4日) - 大正13年(1924年)8月18日)は、落語家。本名:村田 政次郎。 浅草代地に住んでいたことから俗に「代地の今輔」やせっかちなエピソードが多いことから「せっかちの今輔」。 東京深川の生まれ、子供の時の1883年~1884年ころに二代目古今亭志ん生の門に入り志ん丸を名乗った。志ん丸は二代目今輔の前座名で待望されていたことが分かる。1889年3月に志ん猫と改名。 師匠志ん生死去に伴い4月に四代目三升亭小勝の門で三升亭小つね、さらに1896年1月に柳家小文吾となり1897年に柳派の出世名である三代目柳家小三治襲名。
石川 久兵衛(いしかわ きゅうべえ、1869年8月3日(明治… 石川 久兵衛(いしかわ きゅうべえ、1869年8月3日(明治2年6月26日)- 1935年(昭和10年)1月13日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 尾張国愛知郡、のちの愛知県愛知郡呼続村(呼続町を経て現名古屋市)出身。麩製造業を営む。名古屋市会議員、愛知県会議員、同市部会議長となる。 1930年(昭和5年)第17回衆議院議員総選挙において愛知1区から立憲民政党公認で立候補して当選し、衆議院議員を1期務めた。1932年(昭和7年)第18回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。1935年死去。
福井 三郎(ふくい さぶろう、1869年7月29日(明治2年… 福井 三郎(ふくい さぶろう、1869年7月29日(明治2年6月21日)- 1924年(大正13年)4月19日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、奈良県北葛城郡高田町長。 大和国葛下郡疋田村(奈良県葛下郡新庄村、北葛城郡新庄村、新庄町大字疋田を経て現葛城市疋田)で生まれた。1879年(明治12年)新庄村立小学校を卒業。田中右章から漢籍を学び、さらに五十川三武郎の塾に入った。1897年(明治30年)東京法学院(英吉利法律学校後身、現中央大学)で法政学を1年間学んだ。 1894年(明治27年)新庄村会議員となる。1907年(明治40年)5月、高田町会議員に選出され4期在任。同年9月、奈良県会議員に当選し、同参事会員も務めた。
安達 峰一郎(あだち みねいちろう、1869年7月27日〈明… 安達 峰一郎(あだち みねいちろう、1869年7月27日〈明治2年6月19日〉- 1934年〈昭和9年〉12月28日)は、日本の外務官僚、国際法学者。法学博士。メキシコ公使、ベルギー大使、フランス大使を経て、アジア人初の常設国際司法裁判所所長。山形県出身。 アジア系として初の常設国際司法裁判所の所長(判事としては国内2人目)となるが、所長就任早々、祖国の日本が満州事変を起こし、国際連盟を脱退することになる。所長3年の任期を終え、1934年(昭和9年)1月から平判事になったが、日本の国際連盟脱退問題の悩みから6月に体調を崩し、8月に重い心臓病を発症。同年12月28日、オランダのアムステルダムにある病院で死去した。
隈部 親信(くまべ ちかのぶ、明治2年6月17日(1869年… 隈部 親信(くまべ ちかのぶ、明治2年6月17日(1869年7月25日) - 昭和9年(1934年)8月6日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 長野県北佐久郡小諸町(現在の小諸市)で旧小諸藩士隈部忠良の三男として生まれる。1890年(明治23年)7月、陸軍士官学校(1期)を卒業、 1890年(明治23年)7月29日の官報によると、陸軍士官学校第1期を歩兵科37番/103名で卒業している。1891年(明治24年)3月に歩兵少尉に任官し、歩兵第3連隊附。歩兵第2連隊中隊長、陸軍省人事課員、参謀本部副官、第1師団軍法会議判士長などを務めた。日清戦争・北清事変に出征し、日露戦争では歩兵第2連隊大隊長として転戦し、第3回旅順総攻撃に第1師団副官として参加した。
東儀 鉄笛(とうぎ てってき、明治2年6月16日〈1869年… 東儀 鉄笛(とうぎ てってき、明治2年6月16日〈1869年7月24日〉 - 大正14年〈1925年〉2月4日)は、明治・大正期の雅楽家・作曲家・俳優。本名・東儀 季治(すえはる)。京都府出身。父・季芳(すえよし)は、安倍季誕(すえのぶ)の子として生まれ、のちに、祖父である東儀季郛(すえもり)の死後、東儀の姓を継いだ。孫・東儀季信は元宮内庁楽部楽師。 1869年7月24日(明治2年6月16日)に京都に生れ、1872年(明治5年)に東京へ移住する。1879年(明治12年)から宮内省に出仕し、1890年(明治23年)に雅楽部の伶人兼楽手に補せられる。1892年(明治25年)9月に早稲田専門学校文学科に入学したと本人自筆の履歴書に書いているが、学籍簿には記録されていない。
伊賀 駒吉郎(いが こまきちろう、1869年7月23日〈明治… 伊賀 駒吉郎(いが こまきちろう、1869年7月23日〈明治2年〉 - 1946年〈昭和21年〉3月3日)は、日本の思想家、教育者、心理学者、宗教学者。関西教育界の第一人者であり、特に、女子教育で定評があった。当時、菊池寛、三土忠造とともに、香川県出身の代表的な三人として並べられることもあった。甲陽学院中学校・高等学校創立者。
新山 平四郎(にいやま へいしろう、1869年7月17日 -… 新山 平四郎(にいやま へいしろう、1869年7月17日 - 不明)は、明治から昭和初期にかけて文部省技師として活躍した建築家。明治期の新設された学校建築を多く手がけた。
木村 清三郎(きむら せいさぶろう、明治2年6月7日(186… 木村 清三郎(きむら せいさぶろう、明治2年6月7日(1869年7月15日) – 昭和16年(1941年)2月16日)は、日本の政治家。衆議院議員(立憲政友会→政友本党)、新潟県長岡市長。 越後国長岡出身。太田仁平次の六男として生まれて、木村小太郎の養子となった。1900年(明治33年)、越佐新聞社を創設し、社長を務めた。長岡米穀取引所監査役、同理事、同理事長、長岡証券株式会社監査役、同相談役、長岡商業会議所特別議員、同顧問などを務めた。また長岡市会議員、同参事会員、新潟県会議員を歴任した。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その後、1929年(昭和4年)に長岡市長に選出され、二期務めた。
久原 房之助 (くはら ふさのすけ、1869年7月12日〈明… 久原 房之助 (くはら ふさのすけ、1869年7月12日〈明治2年6月4日〉- 1965年〈昭和40年〉1月29日)は、日本の実業家、政治家。 日立製作所、日産自動車、日立造船、日本鉱業創立の基盤となった久原鉱業所(日立銅山)や久原財閥の総帥として「鉱山王」の異名を取った。第一次世界大戦後の恐慌を機に政界へ進出。 衆議院議員当選5回(16、17、18、19、25回総選挙)。逓信大臣、内閣参議、大政翼賛会総務、立憲政友会(久原派)総裁を歴任。 「政界の黒幕・フィクサー」と呼ばれ、右翼に資金を提供して二・二六事件に深く関与した。戦後はA級戦犯容疑者(不起訴)となり、公職追放となった。 戦後は日中・日ソ国交回復会議議長などを務めた。
大橋 乙羽(おおはし おとわ、1869年7月12日〈明治2年… 大橋 乙羽(おおはし おとわ、1869年7月12日〈明治2年6月4日〉 - 1901年〈明治34年〉6月1日)は、日本の小説家、編集者。本名は又太郎、旧姓は渡部。羽前国米沢(現・山形県米沢市)生まれ。 硯友社に入り『こぼれ松葉』『露小袖』などを執筆。のち博文館主人大橋佐平の娘婿・養子となり、博文館に入社。樋口一葉を商業誌デビューさせたほか、尾崎紅葉、巖谷小波らを担当し、日本の近代文学における編集者の先駆けであった。著書に小説などをまとめた『花鳥集』『若菜籠』、紀行文集『千山万水』など。 明治2年(1869年)6月4日、羽前国米沢の立町二ツ橋畔に生れた。父は渡部治兵衛、母はかつといい、旅館「音羽屋」を営んでいた。
森山 松之助(もりやま まつのすけ、明治2年6月7日(186… 森山 松之助(もりやま まつのすけ、明治2年6月7日(1869年7月10日)- 昭和24年(1949年)4月2日)は、日本統治時代の台湾で活躍した建築家。大阪市出身。台湾総督府営繕課在任中、台湾の多くの官庁建築を手がけたことで知られる。 外交官・貴族院議員を務めた森山茂の子として明治2年(1869年)に大阪市東区平野町(現 大阪市中央区平野町)に生まれる(なお、叔父に五代友厚がいる)。学習院、攻玉社を経て、明治26年(1893年)第一高等学校を卒業後、帝国大学工科大学建築学科において辰野金吾のもとで学び、明治30年(1897年)に卒業。大学院、明治31年(1898年)第一銀行建築係嘱託、明治33年(1900年)東京高等工業学校の建築学講座担当を経て、明治39年(1906年)に台湾に渡り、大正10年(1921年)までの間、台湾総督府営繕課技師として多くの官庁建築を手がけた。
白勢 文三郎(しろせ ぶんざぶろう、1869年7月4日〈明治… 白勢 文三郎(しろせ ぶんざぶろう、1869年7月4日〈明治2年5月25日〉 - 没年不明)は、日本の実業家。新発田倉庫取締役、同監査役。新発田銀行専務取締役。族籍は新潟県平民。 新潟県北蒲原郡金塚村(現・新発田市金塚)出身。白勢友彌の兄。兄・長衛や弟・友彌は大地主で、農業を営み新潟県多額納税者であった。1911年、分かれて一家を創立した。銀行会社の重役であった。住所は新潟県北蒲原郡新発田町(現・新発田市)。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
野田別天楼(のだ べってんろう、1869年7月3日(明治2年… 野田別天楼(のだ べってんろう、1869年7月3日(明治2年5月24日) - 1944年(昭和19年)9月26日)は、俳人。 備前国邑久郡磯上村(現・岡山県瀬戸内市)出身。本名は要吉。1897年より正岡子規の指導を受け『ホトトギス』などに投句。教職にあり、報徳商業学校(現報徳学園中学校・高等学校)校長を務めた。京阪満月会では幹事を務める。松瀬青々の『倦鳥』の同人となり関西俳壇で活躍。京阪満月会から分離し大阪満月会を結集し中心的に活動した。1934年『足日木』を、1935年『雁来紅』(がんらいこう)を創刊、主宰した。俳諧史の研究で潁原退蔵と親交があった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
石崎 敏行(石嵜、いしざき としゆき、1869年7月2日(明… 石崎 敏行(石嵜、いしざき としゆき、1869年7月2日(明治2年5月23日)- 1948年(昭和23年)1月11日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 筑前国遠賀郡、のちの福岡県若松市(現北九州市)出身。税務属、大蔵属、若松市議、同副議長、遠賀郡議、同参事会員、福岡県議、同参事会員、所得調査委員、農会議員、小作争議調停委員、九州化学工業(株)社長、九州耐火煉瓦、九州石材工業各(株)取締役、若松信用組合理事となる。 1928年(昭和3年)第16回衆議院議員総選挙において福岡2区から立憲政友会公認で立候補したが落選。1930年(昭和5年)第17回衆議院議員総選挙で当選。1932年(昭和7年)第18回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。
鈴木 義隆(すずき よしたか、1869年7月2日(明治2年5… 鈴木 義隆(すずき よしたか、1869年7月2日(明治2年5月23日)- 1944年(昭和19年)12月31日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 越後国頸城郡、のちの新潟県中頸城郡代石村(大出口村、吉川村、吉川町代石を経て現上越市吉川区代石)で、政治家鈴木昌司の長男として生まれる。私塾で学ぶ。日清、日露の両戦役に参加。自由通信社取締役となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において新潟12区から立憲政友会公認で立候補して初当選。1924年の第15回衆議院議員総選挙では政友本党公認で立候補したが落選。1930年の第17回衆議院議員総選挙では新潟4区から立憲政友会公認で立候補したが落選。
鈴木 幾次郎(すずき いくじろう、1869年6月30日(明治… 鈴木 幾次郎(すずき いくじろう、1869年6月30日(明治2年5月21日)- 1938年(昭和13年)10月11日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。高松市長。旧姓・佐々木。 讃岐国香川郡高松城下西瓦町(現香川県高松市瓦町)で「大和屋」佐々木清三の二男として生まれ、1889年(明治22年)7月、高松古馬場町「伏石屋」鈴木伝五郎の養子となる。東京専門学校を卒業。1904年(明治37年)3月に家督を相続した。 香川銀行頭取、中国銀行重役などを務めた。 1908年(明治41年)5月25日、第3代高松市長に就任。教育施設の充実、水道敷設の推進、市歌の制定などを推進した。観光案内書「高松しるべ」の作成を行い観光の振興にも尽くした。
磯田 粂三郎(いそだ くめさぶろう、1869年6月28日(明… 磯田 粂三郎(いそだ くめさぶろう、1869年6月28日(明治2年5月19日) - 1934年(昭和9年)8月17日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。旧姓・米田。 大和国吉野郡六田村(現在の奈良県吉野郡吉野町)に米田六右衛門の二男として生まれ、弁護士・衆議院議員の磯田和蔵の養子となった。1890年(明治23年)、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業し、翌年に代言人試験に合格した。1892年(明治25年)に和蔵と共同で奈良市に事務所を開いた。商法が施行されて以降、破産管財人を務めた。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
山隈 康(やまくま やすし、1869年6月24日(明治2年5… 山隈 康(やまくま やすし、1869年6月24日(明治2年5月15日)- 1953年(昭和28年)5月10日)は、明治後期から昭和前期の弁護士、政治家。貴族院多額納税者議員、熊本市長。 肥後国菊池郡合志村(現在の熊本県合志市)出身。1898年(明治31年)3月、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業し、翌年に弁護士試験に合格した。熊本市に事務所を開業し、後には熊本弁護士会長に選出された。さらに市会議員に選ばれ、議長に就任した。 1932年(昭和7年)熊本県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日に就任し、研究会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任。さらに1934年(昭和9年)5月には熊本市長に選出され、1942年(昭和17年)5月まで在任した。
三宅川 百太郎(みやがわ ひゃくたろう、1869年6月23日… 三宅川 百太郎(みやがわ ひゃくたろう、1869年6月23日(明治2年5月14日) - 1952年(昭和27年)4月27日)は、日本の実業家。第2代三菱商事会長を務めた。 1869年6月23日、愛媛県越智郡富田村の旧今治藩藩士・三宅川清三郎の嫡男として生まれる。 三宅川家は南北朝時代、伊予河野氏第26代当主通有の孫である越智朝臣三宅川備後守通房(伊勢国宮川領主)を始祖とする家系。血統紋は三つ鱗、定紋は崩三鱗改三霞摺菱、替紋は轡十文字、寺紋は三霞摺菱、墓紋は尻合わせ三階菱。 1892年に東京高等商業学校(のちの一橋大学)を卒業。一年志願兵を経て、1893年三菱合資会社入社。神戸支店、大阪支店、高砂製紙所勤務を経て、漢口支店長、上海支店長、北京支店長、営業部副長を歴任し、1913年門司支店長兼若松支店長兼船舶課長。
平野 亀之助(ひらの かめのすけ、1869年6月22日(明治… 平野 亀之助(ひらの かめのすけ、1869年6月22日(明治2年5月13日) - 1950年(昭和25年)5月17日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 播磨国飾西郡、のちの兵庫県飾磨郡津田村(飾磨町、飾磨市を経て現姫路市)で生まれた。姫路中学校(現・兵庫県立姫路西高等学校)で学ぶ。酒造業を営み、飾磨郡会議員、同議長、兵庫県会議員、所得税調査委員となる。また、飾磨銀行を創立し、取締役を経て頭取となった。 1912年(明治45年)の第11回衆議院議員総選挙において兵庫県郡部から立憲国民党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1915年(大正4年)の第12回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。
宇佐美 勝夫(うさみ かつお、1869年6月21日〈明治2年… 宇佐美 勝夫(うさみ かつお、1869年6月21日〈明治2年5月12日〉 - 1942年〈昭和17年〉12月26日)は、日本の内務官僚、政治家。幼名は慎平。富山県知事、東京府知事、貴族院議員などを歴任した。 山形県士族宇佐美駿太郎の弟。 米沢藩士(馬廻組、100石。上杉斉憲〈戊辰戦争時の米沢藩主〉の御側役)で、戸長を務めていた宇佐美勝作の二男として生まれる。米沢中学、第一高等学校を経て、1896年7月、帝国大学法科大学政治学科を卒業。内務省に入り内務属として県治局に配属された。同年10月、文官高等試験に合格。 1897年4月26日、徳島県参事官に就任。以後、京都府参事官、内務書記官・宗教局、宗教局第一課長兼第二課長、大臣官房文書課長、兼内務省参事官などを歴任。
佐野 藤次郎(さの とうじろう、1869年(明治2年)6月1… 佐野 藤次郎(さの とうじろう、1869年(明治2年)6月19日 - 1929年(昭和4年)11月7日)は、明治から昭和初期にかけて活躍した日本の土木技術者。神戸市技師長を長年務め、布引五本松ダム(日本初の重力式コンクリートダム)・烏原立ヶ畑堰堤・千苅ダムという神戸市の水道事業を支える三つの主要な貯水施設を設計・施工した人物として知られる。神戸の近代水道の礎を、全員日本人の技術陣を率いて完成させた人物として評価されている。 1869年(明治2年)6月19日、尾張国名古屋(現・愛知県名古屋市)に生まれた。1891年(明治24年)、帝国大学工科大学土木工学科を卒業した。 帝国大学卒業の同年(明治24年)、大阪市技師に就任した。
深水 清(ふかみ きよし、明治2年5月10日(1869年6月… 深水 清(ふかみ きよし、明治2年5月10日(1869年6月19日) - 昭和17年(1942年)12月3日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党→国民同盟)。ジャーナリスト。 熊本市出身。1894年(明治27年)、日本法律学校(現在の日本大学)を卒業。朝鮮に渡り、『漢城新聞』主幹、日韓殖産株式会社取締役、『京城日報』主幹を務めた。さらに京城居留民団議員、京城学校組合議員、京城商業会議所副会頭などを歴任した。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第17回、第18回でも再選を果たした。 その他、熊本米穀取引所理事、九州日日新聞社社長を務めた。
今村 恭太郎(いまむら やすたろう、1869年6月19日(明… 今村 恭太郎(いまむら やすたろう、1869年6月19日(明治2年5月10日) - 1936年(昭和11年)12月7日)は、日本の裁判官。日比谷焼打事件の裁判長などを務め、借地借家法の功労者としても知られる。妻・菊子は伍堂卓爾の六女で、海軍軍人で実業家、政治家の伍堂卓雄の妹。 関東大震災発生時には東京地方裁判所所長であり、岡慶治(日比谷焼討事件の左陪審 )は浦和地方裁判所所長であった。
俵 孫一(たわら まごいち、1869年6月16日〈明治2年5… 俵 孫一(たわら まごいち、1869年6月16日〈明治2年5月7日〉- 1944年〈昭和19年〉6月17日)は、日本の官僚、政治家。衆議院議員。商工大臣、立憲民政党幹事長などを歴任した。従二位勲一等。 1869年(明治2年)5月7日、石見国浜田(現:島根県浜田市)に俵家の3代目・三九郎、ミナの五男として生まれる。幼少の頃から家業の醤油醸造、ろうそくの製造販売等を手伝う。 浜田中学(現・島根県立浜田高等学校)、泊園書院(現:関西大学)、共立学校(現:開成中学校)、第一高等学校を経て1895年(明治28年)帝国大学法科大学英法科(現:東京大学法学部)を卒業する。卒業後は内務官僚として官界に入り、1907年(明治40年)大韓帝国の学部次官、1910年(明治43年)同国の土地調査局副総裁(後の朝鮮総督府臨時土地調査局副総裁)に就任。
松本 文三郎(まつもと ぶんざぶろう、1869年6月16日(… 松本 文三郎(まつもと ぶんざぶろう、1869年6月16日(明治2年5月7日) - 1944年12月18日)は、仏教学者。インド哲学、インド文化・仏教美術史学者。号は亡洋。京都帝国大学名誉教授。インド哲学の泰斗として知られ、仏教芸術に関しても多くの論文を発表した。 1869年、加賀国金沢(現・石川県金沢市)で生まれた。帝国大学文科大学文学部で学び、1893年に卒業。 1894年9月、立教学校(現・立教大学)教授に就いた。1899年、ドイツに留学。同年、文学博士号を取得。 第一高等学校教授を務めたのち、1906年に京都帝国大学文科大学(現・京都大学文学部)の開設委員となり、同大学インド哲学史教授に就任。
星野 庄三郎(ほしの しょうざぶろう、1869年6月15日(… 星野 庄三郎(ほしの しょうざぶろう、1869年6月15日(明治2年5月6日) - 1931年(昭和6年)1月22日)は、日本の陸軍軍人。陸士2期、陸大14期。栄典は従三位勲一等功三級。最終階級は陸軍中将。 新潟県小千谷町(現小千谷市)出身。1891年(明治24年)7月、陸軍士官学校(2期)を卒業。翌年3月、工兵少尉任官。1900年(明治33年)12月、陸軍大学校(14期)を卒業。陸軍省軍務局軍事課勤務となる。 日露戦争に満州軍総司令部参謀として出征。1908年(明治41年)12月、工兵第18大隊長となり、1910年(明治43年)11月、工兵大佐に昇進。1912年(大正元年)9月、参謀本部要塞課長に就任。
名井 九介(みょうい きゅうすけ、1869年6月14日(明治… 名井 九介(みょうい きゅうすけ、1869年6月14日(明治2年5月5日) - 1944年1月23日)は、北海道庁初代勅任技師。工学博士。公益社団法人土木学会第20代会長、名誉会員、勲三等。雨竜電力株式会社顧問。土木学会初代主事。 北海道庁初代勅任技師として土木関係での北海道開発に功績が多い。主なものとして北海道庁旧本庁舎(北海道庁赤れんが)の正面にある道庁前携わる。
岩元 禎(いわもと てい、明治2年5月3日(1869年6月1… 岩元 禎(いわもと てい、明治2年5月3日(1869年6月12日) - 昭和16年(1941年)7月14日)は、日本の哲学者。 鹿児島県鹿児島市山下町生まれ。士族岩元基の長男。1889年に鹿児島高等中学造士館予科を第1期生として卒業後、第一高等中学校(第一高等学校の前身)本科に進学。1891年に卒業し、東京帝国大学文科大学(現・東京大学文学部)に進んだ。哲学科で学び、ラファエル・フォン・ケーベルに師事。1894年に卒業し、同大学大学院に進学。大学院に在籍して哲学研究を進める一方、浄土宗高等学院(現在の大正大学)でドイツ語と哲学を、高等師範学校で哲学を教えた。 1899年からは第一高等学校でドイツ語を教えた。
白洲 文平(しらす ふみひら、1869年6月7日(明治2年4… 白洲 文平(しらす ふみひら、1869年6月7日(明治2年4月27日) - 1935年(昭和10年)10月23日)は日本の実業家である。 現在の兵庫県三田市に生まれた。父は白洲退蔵、子に白洲次郎、孫に牧山桂子がいる。 幼少期よりアメリカ人の家庭教師にも学び、1882年(明治15年)にバラの築地大学校に入塾。築地大学校卒業後、ハーバード大学、ボン大学に留学。このときの留学仲間に、近衛篤麿や新渡戸稲造、樺山愛輔らがいた。帰国後は三井銀行や大阪紡績に勤めるが中途で退社。 その後、兵庫県神戸市中央区栄町に貿易会社白洲商店を創業し綿貿易により発展して巨万の富を築いた。豪放ながら傲慢な性格で、周囲からは『白洲将軍』と畏れられた。
藤田 包助(ふじた かねすけ、1869年6月6日(明治2年4… 藤田 包助(ふじた かねすけ、1869年6月6日(明治2年4月26日) - 1945年(昭和20年)1月22日)は、日本の政治家、実業家。 1869年(明治2年)、山口県阿武郡徳佐村(のち阿東町、現在の山口市)にて出生。 明治法律学校を卒業して、警視庁属兼警部となり、その後、実業界に入り、八溝金山、釧路炭砿、朝日銀行、北日本興業等の取締役、江戸見崎養魚監査役などを務める。ほか逓信大臣秘書官を務めた。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙において山口県五区から衆議院議員に当選。立憲政友会に所属した。 衆議院議員を1期務め、1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙は不出馬。1943年(昭和18年)に萩市長に就任。
曾我廼家 十郎(そがのや じゅうろう、1869年6月6日〈明… 曾我廼家 十郎(そがのや じゅうろう、1869年6月6日〈明治2年4月26日〉 - 1925年〈大正14年〉12月4日)は日本の俳優、劇作家。本名は大松福松。劇作家としては和老亭当郎と名乗った。 伊勢国松阪出身。家業は合羽、煙草の販売だった。 1900年(明治33年)、3代目中村歌六の弟子となり中村時代()を名乗る。歌舞伎の下積み役者として活動するなかで中村珊之助と出会い、2人で喜劇に舵をとる。曾我兄弟にあやかり、年上の時代が曾我廼家十郎、珊之助が曾我廼家五郎を名乗る。1904年(明治37年)2月、道頓堀「浪花座」にて狂言『無筆の号外』を上演して人気を得る。この際、時期が日露戦争の開戦と重なって十郎は尻込みしたが、五郎の牽引で興行した。
野口 孫市(のぐち まごいち、明治2年4月23日(1869年… 野口 孫市(のぐち まごいち、明治2年4月23日(1869年6月3日) - 大正4年(1915年)10月26日)は、明治、大正期に活躍した建築家、工学博士。創設間もない住友営繕の基礎を築いた人物。 明治2年(1869年)4月23日、播磨国姫路清水(現姫路市)に姫路藩士・野口野(いやし)の子として生まれる。姉は後に日本の幼児教育の先駆者的存在となる野口幽香。父に付き従い生野銀山で一年余り過ごす。父の転勤で神戸に移り、兵庫県立第一神戸中学を卒業。第三高等学校を経て、住友の奨学金を貸与され、明治24年(1891年)に東京帝国大学工科大学造家学科に進学し、同27年(1894年)7月卒業。大学院で耐震家屋について研究。
戸板 関子(といた せきこ、明治2年4月19日(1869年5… 戸板 関子(といた せきこ、明治2年4月19日(1869年5月30日) - 昭和4年(1929年)1月14日)は、日本の教育者。戸板学園の創立者。 1869年(明治2年)、仙台藩士で漢学者の戸板善内の一人娘として仙台北5番町で生まれた。生まれた年に父を亡くし、母の手で育てられた。 仙台の松操女学校で学び、18歳で小学校教員となった。自らの知識を磨くために上京し、横浜のフェリス女学校に入学する一方、フェリス女学校、東洋英和女学校、東京女学館で裁縫教師を務めた。1893年、鳥居坂教会の武田芳三郎牧師と結婚し家庭に入るが、教育への情熱から夫と離れて戸板姓に戻った。後に芳三郎と和解し、芳三郎が戸板家に入ることとなった。
東 武(あずま たけし、明治2年4月14日(1869年5月2… 東 武(あずま たけし、明治2年4月14日(1869年5月25日) - 昭和14年(1939年)9月3日)は日本の政治家、出版事業家。従四位勲二等。所属政党は立憲政友会。別名、東牧堂(あずま ぼくどう)。 大和国十津川(現・奈良県吉野郡十津川村)に東義次の長男として生まれる。東家は旧十津川郷士であった。郷校文武館(現・奈良県立十津川高等学校)を経て東京法学院(現・中央大学法学部)に在学中、1889年(明治22年)8月、故郷が大水害に遭ったため、十津川村の住民を指導して北海道新十津川村(現在の新十津川町)への移民事業に挺身。1891年(明治24年)、自らも北海道に移住して開拓事業を推進した。森源三、五十嵐久助とともに菊亭農場の管理人となり、農場解体後は土地の譲受者となった。
中川 泉三(なかがわ せんぞう、1869年5月25日(明治2… 中川 泉三(なかがわ せんぞう、1869年5月25日(明治2年4月14日) - 1939年(昭和14年)12月27日)は、日本の歴史家。 独学で地史研究・文筆力を養い滋賀県内各郡志の編纂に携わる。 中川泉三は、1869年(明治2年)4月14日に近江国坂田郡大野木村(現滋賀県米原市大野木)で宮川藩士中川洸平次の長男として生まれた。12歳の時に父が死去し、母の手一つで育てられ、母からは常に「友に劣るな、寡婦の子とそしりを受けるな。」と叱咤激励された。小学高等科卒業後、家業の農業に従事する傍ら、独学で学問を修め母校の代用教員まで務めた。 特に漢詩文に興味を持ち小野湖山・土屋鳳州らから添削指導を受けた。
桑原 八司(くわはら やつし、1869年5月24日(明治2年… 桑原 八司(くわはら やつし、1869年5月24日(明治2年4月13日) - 没年不明)は、明治時代後期から大正時代の朝鮮総督府官僚。文部官僚。咸鏡北道長官。忠清南道長官(知事)。 桑原苞の長男として岐阜県に生まれ、1875年(明治8年)7月に家督を相続する。1893年(明治26年)東京帝国大学法科大学を卒業する。群馬県属、文部省属、宮城、岩手両県への出張、香川県属を経て、秘書官として朝鮮総督府に出仕。咸鏡北道長官を務めたのち、忠清南道長官(のち知事)に転じた。1921年(大正10年)9月25日、退官した。
大山 正樹(おおやま まさき、1869年5月23日〈明治2年… 大山 正樹(おおやま まさき、1869年5月23日〈明治2年4月12日〉 - 没年不明)は、日本の醸造家、「大和花」醸造元、広島県酒造組合賀茂郡支部長、広島県多額納税者、政治家(広島県賀茂郡西志和村長)、名望家。 広島県賀茂郡西志和村(現東広島市)に生まれた。大山源之助の長男。1897年、家督を相続した。酒造業を営んだ。 1909年、村会議員に当選。1921年8月より1933年5月まで3期にわたり西志和村長在職。村長退職に際し村より影徳碑を建設された。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。 大山家は醤油醸造業を営んでいたが、正樹の父・源之助は明治初年に酒造業にあらため「大和花」と命名し斯業を経営した。
金子 元三郎(かねこ もとさぶろう、1869年5月19日(明… 金子 元三郎(かねこ もとさぶろう、1869年5月19日(明治2年4月8日)- 1952年(昭和27年)4月11日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(立憲同志会)、貴族院多額納税者議員、初代小樽区長。 越後国三島郡寺泊町(現・新潟県長岡市)で資産家の家に生まれる。幼少時に北海道松前の富豪、先代・金子元三郎の養嗣子となり、その後、養父と共に小樽に移る。 東京に遊学し、頭山満、井上角五郎らと交わる。1891年(明治24年)中江兆民を迎えて『北門新報』を創刊し、自由民権を唱道した。1900年(明治33年)1月、小樽区の初代区長に就任し、道路、水道、港湾、学校施設の整備を推進した。1902年(明治35年)8月、石川県出身で元代議士の遠藤秀景に誘われ第7回衆議院議員総選挙に金沢市選挙区から出馬したが落選。