越田 覚造(こしだ かくぞう、1907年〈明治40年〉1月4… 越田 覚造(こしだ かくぞう、1907年〈明治40年〉1月4日 - 没年不明)は、日本の実業家。日本端子元社長。ラジオ関東(現・アール・エフ・ラジオ日本)元社長。富士観光元社長。農林大臣を務めた河野一郎や参議院議長を務めた河野謙三は義兄にあたる。 富山県出身。越田覚二の長男として生まれる。1930年(昭和5年)東京商科大学を卒業後、昭和肥料に入社。1945年(昭和20年)日本肥料四日市工場総務部長となり、1948年(昭和23年)東海硫安工業取締役四日市工場長に就任。 1951年(昭和26年)本社営業部長に転じ、1958年(昭和33年)7月監査員を兼任し、1962年(昭和37年)10月日本端子社長、1963年(昭和38年)6月ラジオ関東副社長に選任される。
椿 三四郎(つばき さんしろう、1907年1月3日 - 没年… 椿 三四郎(つばき さんしろう、1907年1月3日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名間瀬 松太郎(ませ まつたろう)、別芸名津島 慶一郎(つしま けいいちろう)。 1907年(明治40年)1月3日、東京府東京市日本橋区のうち、のちの江戸橋地域(現在の東京都中央区日本橋)に生まれる。 1924年(大正13年)3月、東京・神田錦町の旧制・錦城商業学校(現在の錦城学園高等学校)を卒業し、西巣鴨町の国際活映(国活)に入社する。しかしながら当時の国活は経営が悪く、減産体制となっており、翌1925年(大正14年)には同社は倒産、椿は同年12月、兵庫県西宮市甲陽園にある東亜キネマ甲陽撮影所に移籍する。
満岡 忠成(みつおか ただなり、1907年1月3日 - 19… 満岡 忠成(みつおか ただなり、1907年1月3日 - 1994年8月22日)は、日本の陶磁器研究者。 三重県生まれ。1930年東京帝国大学文学部美学美術史学科卒。大和文華館勤務、1968年京都市立芸術大学教授。1972年滴翠美術館館長。1974年大手前女子大学教授、1986年退任。1987年小山富士夫記念賞功績褒章受章。1994年8月22日、肺癌のため死去。 数代前の先祖に佐賀藩士で儒学者の満岡允成(俗称:一兵衛、白里)がいる。
佐治 誠吉(さじ せいきち、1907年(明治40年)1月2日… 佐治 誠吉(さじ せいきち、1907年(明治40年)1月2日 - 1995年(平成7年)9月17日)は、昭和期の官僚、政治家。衆議院議員、滋賀県大津市長。 滋賀県甲賀郡、のちの甲南町(現甲賀市甲南町)で生まれた。1932年(昭和7年)東京帝国大学法学部法律学科を卒業。大同元年(1932年)10月、満州国の大同学院を卒業した。 以後、満州国総務庁属官、同人事処弁事、泰康県参事官、北満特別区公署事務官、三江省事務官・警務庁司法科長、同国境警察科長、黒山県副県長兼地籍整理局事務官、三江省理事官、錦州省長官房地方科長、興安東省長官房総務科長兼人事科長、大同学院教官・第一錬成部長、綏化県副県長などを歴任した。
奈街 三郎(なまち さぶろう、1907年1月2日 - 197… 奈街 三郎(なまち さぶろう、1907年1月2日 - 1978年12月23日)は、日本の児童文学作家。宮城県仙台市出身。東京商業学校(現在の一橋大学)卒業。本名:山田三郎。 小川未明に師事する。 1952年、『まいごのドーナツ』で第1回小学館児童文化賞受賞。1959年、『とけいの3じくん』で文部大臣賞受賞。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
柳原 正之(やなぎはら まさゆき、1907年〈明治40年〉1… 柳原 正之(やなぎはら まさゆき、1907年〈明治40年〉1月2日 - 1989年〈平成元年〉10月28日)は、昭和期の農業技術者、政治家。長野県長野市長。位階は正五位。 長野県更級郡八幡村(現千曲市)で、柳原慶助、ゆみ の二男として生まれた。1924年(大正13年)3月、更級農業学校(現長野県更級農業高等学校)を卒業。 1928年(昭和3年)八幡村農会技手となり、1934年(昭和9年)長野県技手、1941年(昭和16年)農商務省技手、1944年(昭和19年)長野県農林技師、1951年(昭和26年)特産課長、1953年(昭和28年)農業改良課長、1955年(昭和30年)下伊那地方事務所長、1957年(昭和32年)地方課長、1959年(昭和34年)人事課長、1960年(昭和35年)人事委員会事務局長、1961年(昭和36年)企業局電気部長を歴任した。
岩上 順一(いわかみ じゅんいち、1907年(明治40年)1… 岩上 順一(いわかみ じゅんいち、1907年(明治40年)1月2日 - 1958年(昭和33年)8月14日)は、日本の文芸評論家。 山口県吉敷郡小郡町(現山口市)に生まれる。家が貧しいため、中学進学ができなかったので、小郡の変電所に勤務するが、学業への意志は強く、鴻城中学校の編入試験に合格した。卒業後は早稲田大学に進み、英文科に所属するも、そのころから社会運動にかかわり、何度か検挙され、結局大学は中退という形になった。 その後、会社勤めをしながら評論を書くことを志し、1938年に評論家としての最初の文章が『中央公論』に掲載される。この時期、活発に評論活動を行い、1941年5月3日の『朝日新聞』には「全国民を動かす政治的指導が絶対に必要である。
人見 絹枝(ひとみ きぬえ、1907年〈明治40年〉1月1日… 人見 絹枝(ひとみ きぬえ、1907年〈明治40年〉1月1日 - 1931年〈昭和6年〉8月2日)は、日本の陸上競技選手、ジャーナリスト。日本人女性初のオリンピックメダリスト。100m、200m、走幅跳の元世界記録保持者。(100m、200mについては非公認)岡山県御津郡福浜村(現:岡山市南区)出身。 1907年(明治40年)1月1日、岡山県御津郡福浜村福成(現・岡山市南区福成)で人見猪作および岸江の次女として誕生した。人見家はイネとイグサを栽培する裕福な自作農家で、父・母・祖母・姉と人見絹枝の5人家族であった。幼少期は魚とりや鬼ごっこをして遊び、友人は女の子よりも男の子の方が多かった。 1913年(大正2年)4月、福浜村立福浜尋常高等小学校尋常科(現・岡山市立福浜小学校)に入学。
岡林 次男(おかばやし つぐお、1907年1月1日 - 19… 岡林 次男(おかばやし つぐお、1907年1月1日 - 1982年10月23日)は、日本の経営者、工学博士。高知県出身。 1935年に大阪帝国大学工学部機械学科を卒業し、同年にクラレに入社。1959年11月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1971年5月に副社長に就任し、1975年5月に社長に昇格した。 1972年1月に学位を取得した。 1982年10月23日腎不全のために死去。75歳没。
清水 元(、1907年1月1日 - 1972年12月20日)… 清水 元(、1907年1月1日 - 1972年12月20日)は、日本の俳優。本名:清水 元義。父は清水新報社社長の清水平吉、長男はNHKディレクターの清水満、娘は『鉄腕アトム』のアトム役の声で知られる声優の清水マリ。 東京市神田区松永町出身。中央大学商学部卒業。 父の平吉が経営する広告代理店・清水新報社での勤務を経て、1937年に村瀬幸子・北村喜八夫妻が創立した芸術小劇場に入団し、新劇俳優として舞台を踏む。戦時中は移動演劇隊に入り、戦後は劇団炎座の舞台に立った。1953年以降は映画俳優に専念し、以降はテレビドラマにも出演した。 映画デビューは1940年に公開された『田園交響楽』。戦後も菅井一郎らの第一協団に参加する傍ら、各社の映画に出演。
小出 博(こいで ひろし/はく、1907年1月1日 - 19… 小出 博(こいで ひろし/はく、1907年1月1日 - 1990年7月6日)は、日本の地質学者。東京農業大学教授を務め、1980年定年。地すべりで一度崩れたところは当分は危険がない「地すべり免疫論」の論陣を張る。また、治水については水防林の効用を主張した。 兵庫県出身。実家はもとは出石藩の家老の家柄。第六高等学校から、1934年東京帝国大学農学部林学科卒業。同年から北海道帝国大学農学部に助手として勤務。その後東京帝国大学理学部地質学科に再入学する。 1943年地質調査所に勤務。その後林野庁勤務をへて東京農業大学、また経済安定本部資源調査会に勤めるかたわら、宇都宮大学や秋田大学で非常勤講師を務めた。
嘉納 愛子(かのう あいこ、1907年〈明治40年〉1月1日… 嘉納 愛子(かのう あいこ、1907年〈明治40年〉1月1日 - 2016年〈平成28年〉3月29日)は、日本の声楽家(メゾソプラノ)・音楽教育者。相愛大学名誉教授(2011年時点)。 大阪府大阪市出身。官吏の家に生まれた三人姉妹の末っ子。親和高等女学校卒。東京音楽学校(現在の東京藝術大学音楽学部声楽科)に入学。高木東六や四家文子と同級。卒業後、山田耕筰の数少ない弟子の一人となり、山田らが確立した「日本歌曲」の真髄を叩き込まれる。修業を終えて帰阪後も声楽家として活動し、大阪BK(NHK大阪放送局)のラジオ放送や公演に出演するが、1934年(昭和9年)に旧家として名高い(嘉納家は嘉納財閥として知られる)灘の酒造家の嘉納鉄夫と結婚して引退。
安福 春雄(やすふく はるお、1907年〈明治40年〉1月1… 安福 春雄(やすふく はるお、1907年〈明治40年〉1月1日 - 1983年〈昭和58年〉8月3日)は、日本の能楽師(大鼓方)である。位階は従五位。 群馬県前橋市に生まれる。叔母の太鼓の師であった清水正徳に跡継ぎがいなかったことから、11歳の時に上京してその弟子となり高安流の大鼓方を学ぶ。1919年(大正8年)に『猩々』にて初舞台を踏む。1927年(昭和2年)に東京音楽学校(現在の東京芸術大学)邦楽科を卒業。 1937年(昭和12年)から1977年(昭和52年)まで母校の東京芸術大学で講師として教鞭を執った。1927年(昭和2年)には兵隊検査により、第二次世界大戦が終戦するまで数回にわたり兵役となった。
有末 四郎(ありすえ しろう、1907年1月1日 - 199… 有末 四郎(ありすえ しろう、1907年1月1日 - 1991年7月6日)は、日本の厚生官僚。医師。医学者、軍人。医学博士。専門分野は内科学。 北海道出身。有末孫太郎(村長・京極農場支配人・屯田工兵大尉)の子として生まれる。1932年北海道帝國大學医学部卒業。1937年同大学院(旧制)修了。1937年同医学部助手。その後、兄たちが所属する日本陸軍の衛生局に入隊。軍医となる。1944年北海道帝國大學で「Allergenに関する研究」にて医学博士を受く。1945年終戦により日本陸軍を離任。最終階級は陸軍軍医大尉。 1946年厚生省に入省。その後、北海道旭川保健所長。国立北海道第二療養所(現国立病院機構北海道医療センター)所長。
座光寺 久男(ざこうじ ひさお、1907年〈明治40年〉1月… 座光寺 久男(ざこうじ ひさお、1907年〈明治40年〉1月1日 - 1978年〈昭和53年〉11月28日)は、昭和期の地方公務員、政治家。長野県駒ヶ根市長。 長野県下伊那郡上飯田村(現・飯田市)で、座光寺和作、ゆきの二男として生まれた。上飯田高等小学校卒業後、飯田の松濤義塾に学ぶ。1924年(大正13年)4月、上飯田町役場に入り、1933年(昭和8年)長野県庁に転じ長野県書記となり、学務部社会課勤務、飯田職業紹介所勤務、長野県職業課勤務、知事官房秘書課勤務、下伊那地方事務所兵事厚生課長、同総務課長を歴任した。1947年(昭和22年)6月、飯田市助役に就任し、1956年(昭和31年)6月、駒ヶ根市助役に転じた。
伊達ノ花 静(だてのはな しずか、1907年1月1日 - 1… 伊達ノ花 静(だてのはな しずか、1907年1月1日 - 1944年12月11日)は、宮城県遠田郡涌谷町出身で出羽海部屋に所属した力士。本名は深山 静。170cm、120kg。最高位は西前頭15枚目。 1923年1月初土俵、1932年2月十両昇進。1935年5月新入幕したが、わずか2場所の在位で1936年1月廃業し、茨城県日立市で割烹を経営、のちに北海道に渡ったが、戦時中に若くして亡くなった。 色白の肥満体で玉のようにきれいで(本名も女性っぽい静)、明治の横綱・小錦のようとも言われたが、小錦と違い出足に欠けて勝ち味が遅かった。
戸沢 一隆(とざわ かずたか、1907年1月 - 没年不明)… 戸沢 一隆(とざわ かずたか、1907年1月 - 没年不明)は、プロ野球球団阪神タイガースの元球団社長。兵庫県神戸市楠町(現・中央区)出身。 兵庫県立神戸第二中学校を経て、神戸高等商業学校を卒業し、1929年に阪神電気鉄道に入社した。 神戸二中時代からテニスに親しみ、神戸高商時代も続いた。入社は、甲子園付近にテニスコートを設置する事業を計画した阪神電気鉄道が、「庭球経験者を求む」という求人票を出してそれに応じた結果だったという。 入社後は主に会計分野の仕事を手がけた。その間、二度応召している。 1956年から球団代表を務め、オーナーの野田誠三の要請で藤村排斥事件の解決に当たる。野球には「門外漢」だった戸沢は野田からの球団代表指名を断ったが、説得に折れての就任だった。
牛山 初男(うしやま はつお、1907年 - 1983年)は… 牛山 初男(うしやま はつお、1907年 - 1983年)は、現在の長野県茅野市出身の日本語学者。教育者。専門は方言学。 長野県諏訪郡湖東村(現茅野市)生まれ。旧制諏訪中学(長野県諏訪清陵高等学校)から東洋大学に進み、橋本進吉、小林好日らに学ぶ。 1930年に卒業・帰郷し、西筑摩郡福島小学校(福島町)、諏訪郡永明小学校、永明高等家政女学校(現:長野県茅野高等学校)に勤務する。 教職の傍ら文法を中心に方言の分布調査を進め、1952年「語法上より見たる東西方言の境界線について」(『国語学』12輯)を発表。引き続き、『東洋大学文学論藻』などに論文を発表し、東西方言の解明に尽くした。
尾澤 修治(おざわ しゅうじ、1907年 - 1997年)は… 尾澤 修治(おざわ しゅうじ、1907年 - 1997年)は、日本の銀行家、公認会計士、税理士、不動産鑑定士。姓の「澤」は「沢」の旧字体のため、新字体で尾沢 修治(おざわ しゅうじ)と表記されることもある。 株式会社住友銀行東京支店次長、尾澤会計事務所所長(初代)、監査法人朝日会計社理事長(初代)、日本公認会計士協会会長などを歴任した。 三井住友銀行の前身である住友銀行に勤務していたが、病気により退職することになった。その後、公認会計士を目指し、やがて65歳にして監査法人朝日会計社を創設した。初代理事長として、同法人を大手会計事務所の一角に食い込むほどに育て上げ、のちの有限責任あずさ監査法人の礎を築いた。
上田 治(うえだ おさむ、1907年(明治40年) - 19… 上田 治(うえだ おさむ、1907年(明治40年) - 1978年(昭和53年))は、大阪府出身のゴルフ場設計者。元競泳日本代表選手。100m背泳ぎ元日本記録保持者。 上田治は、大阪府茨木市に、1907年(明治40年)生まれ、旧制茨木中学校(現・大阪府立茨木高等学校)、旧制松山高等学校(後身校・愛媛大学)を卒業、京都帝国大学農学部に学んだ。旧制茨木中学校時代水泳部で活躍した。100m背泳ぎで3度日本記録を更新し、極東選手権競技大会では1923年(大正12年)から1927年(昭和2年)にかけて100m背泳ぎ3連覇を達成した。 1930年(昭和5年)、「廣野ゴルフ倶楽部」(兵庫県)のコース設計で来日したチャールズ・ヒュー・アリソンは、コース設計図を作成した上で帰国した。
大谷 俊夫(おおたに としお、1907年 - 没年不詳)は、… 大谷 俊夫(おおたに としお、1907年 - 没年不詳)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサー、元俳優である。当初のキャリアは水谷 登志夫(みずたに としお)名義で、監督、俳優としてスタートした。 1907年(明治40年)、広島県呉市に生まれる。旧制・神戸第二中学校(現・兵庫県立兵庫高等学校)卒。1923年(大正12年)、子爵家の長男、23歳の小笠原明峰が京都に設立した小笠原プロダクションに参加、翌1924年(大正13年)、水谷 登志夫名義で『風船売りの小母さん』(短編)を自らのオリジナル脚本で監督し、デビューしている。同プロダクションでは、同作以降は俳優として、1926年(大正15年)の同社の解散まで4本に出演した。
柿坪 正義 (かきつぼ まさよし、1907年 - 1997年… 柿坪 正義 (かきつぼ まさよし、1907年 - 1997年)は、日本の外交官。外務省情報文化局長や、国連大使、駐アラブ連合共和国大使、駐スイス大使、国連アジア経済開発研修所長等を歴任した。正三位勲一等瑞宝章。 兵庫県加古川市出身。通産省官僚で日米繊維交渉時などで日東紡績会長を務めた柿坪精吾は弟。姫路市立姫路商業学校(現兵庫県立姫路商業高等学校)在学中、同級生の黒田俊夫(のちに日本大学人口問題研究所名誉所長)とともに東京商科大学(現一橋大学)進学を目指し、同大に進学。大学在学中文官高等試験に合格し、1932年に中退し外務省に入省した。 ケンブリッジ大学留学や、大東亜省南方事務局事務官、自由インド仮政府一等書記官等を経て、第二次世界大戦後は外務省情報文化局長、国連政府代表部大使、駐パキスタン特命全権大使、駐アラブ連合共和国特命全権大使、駐スイス特命全権大使、国連アジア極東経済委員会研修所長、国連アジア経済開発研修所長等を歴任した。
三橋 勲(みつはし いさお、1907年 - 1984年)は、… 三橋 勲(みつはし いさお、1907年 - 1984年)は、日本の実業家、学校経営者。元学校法人旭川大学理事長。北海道旭川市出身。 この他、公職として旭川経営者協会会長や、旭川ロータリークラブ会長、旭川信用金庫理事などを歴任。 髙木正雄『北海道建設人物事典』(北海道建設新聞、2008年) この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
高津 俊久(こうづ としひさ、1907年〈明治40年〉 - … 高津 俊久(こうづ としひさ、1907年〈明治40年〉 - 1981年〈昭和56年〉)は、日本の都市計画家。大阪市の都市計画事業をてがけた。 大阪市南区に生まれる。1931年(昭和6年)に京都帝国大学工学部土木工学科を卒業後、大阪市に就職する。以来、第2次および第3次の大阪都市計画事業をはじめとする都市計画分野の職務に従事した。1945年(昭和20年)から大阪市復興局計画部計画課長となり,太平洋戦争での被災により市域の27パーセントに当たる1600万坪に及ぶ広大な地域を焼失した後の戦災復興事業の推進にあたる。大阪市は全国の同事業の中で最大となる1069万坪の規模であった。その後は、同市建築局の整地部次長から整地部長、計画部長を経て大阪市計画局長を歴任した。
河井 洋一(かわい よういち、1907年[要出典] - 19… 河井 洋一(かわい よういち、1907年[要出典] - 1980年2月)は、日本の実業家。旭電化工業株式会社(現・株式会社ADEKA)元社長、会長。 1907年生まれ。慶應義塾大学卒業後、古河電工常務取締役を経て、古河化学工業社長、日本石油化学副社長を歴任し[要出典]、1971年5月旭電化工業株式会社社長就任。1977年6月会長就任。1979年6月相談役就任。1980年2月死去。 父は横浜護謨製造(現・横浜ゴム)初代社長の河井浩。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
中島 関爾(なかじま かんじ、1907年 - 1980年)は… 中島 関爾(なかじま かんじ、1907年 - 1980年)は、日本の英文学者、博士。駒澤大学教授、僧侶。 駒澤大学文学部人文学科(英文学)卒業。曹洞宗研究生を経て、国際仏教協会に就職。東亜研究所嘱託も務めた。戦後、駒澤大学教授となる(英文学)。 1961年、論文「シェイクスピアの批判的研究」で博士号(文学、駒澤大学)取得。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
前田 幸蔵(まえだ こうぞう、1907年(明治40年) - … 前田 幸蔵(まえだ こうぞう、1907年(明治40年) - 1986年(昭和61年))は、日本の公認会計士、税理士。元日本税理士会連合会会長。 鳥取県八頭町(旧船岡町)出身。1934年(昭和9年)拓殖大学商科を卒業し、同年計理士に登録。1950年(昭和25年)、公認会計士試験に合格する。日本計理士会常任理事、税理士試験委員、中小企業中央連絡懇談会委員等を歴任。 1965年の第7回参議院議員通常選挙では、全国区で立候補して当選した青木一男を支援。後に公職選挙法違反(違法文書配布)の容疑で警視庁に逮捕された。
西里 龍夫(にしさと たつお、1907年 - 1987年)は… 西里 龍夫(にしさと たつお、1907年 - 1987年)は、日本の社会主義運動家。戦後は日本共産党熊本県委員長を務めた。 熊本県出身。東亜同文書院大学に26期生として入学。在学中、「日支闘争同盟」を結成し、海軍陸戦隊に反戦ビラをまく事件を起こした。安斎庫治、中西功らとともに反戦運動を行う。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
宮崎 一老(みやざき いちろう、1907年(明治40年) -… 宮崎 一老(みやざき いちろう、1907年(明治40年) - 没年不明)は、日本の水産学者。兵庫県生まれ。旧制姫路高等学校を経て、1932年に東京帝国大学農学部水産学科を卒業、農林省水産講習所(現東京海洋大学)金沢演習場、農林省水産局(現農林水産省)、宮崎県経済部水産課、鯨類研究所勤務。1962年「二枚貝の発生、特に浮游幼貝の識別に関する研究」で東北大学農学博士。日本捕鯨協会勤務。
小沢 武夫(おざわ たけお、1907年 - 1996年)は、… 小沢 武夫(おざわ たけお、1907年 - 1996年)は、日本の外交官。シカゴ総領事、駐チェコスロヴァキア特命全権大使などを務めた。 神奈川県出身。1932年東京商科大学(現一橋大学)卒業。1936年高等試験外交科合格、外務書記生(アメリカ合衆国)。1937年外交官補(アメリカ合衆国)。1938年上海・漢口領事官補。1940年外務省東亜局第二課兼対満事務局事務官。1942年満州国勲三位桂国章受章。1943年満州国国勢調査紀念章受章。 日本の降伏後、一等書記官を経て、1945年終戦連絡地方事務局連絡官。1948年総理庁官房財閥役員審査課長。1951年外務省連絡局調整課長。1952年、サンフランシスコ平和条約の発効によりペルーとの国交が再開したことに伴い、駐ペルー臨時代理公使に赴任。
矢吹 勝二(やぶき かつじ、1907年 - 1986年)は、… 矢吹 勝二(やぶき かつじ、1907年 - 1986年)は、日本の英語学者。 広島県生まれ。1931年早稲田大学高等師範部英語英文学科卒業、ジャパン・ツーリスト・ビューロー入社。1967年定年退職、調布学園女子短期大学教授。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
石津 良介(いしづ りょうすけ、明治40年(1907年) -… 石津 良介(いしづ りょうすけ、明治40年(1907年) - 昭和61年(1986年))は、日本の写真家。ファッションデザイナー・石津謙介の兄。 岡山県岡山市片瀬町(現・岡山市北区天瀬)の老舗紙問屋「紙石津」の長男として生まれる。慶應義塾大学経済学部に入学。在学中に家業を継がないことを宣言し、これにより弟の謙介が家業を継ぐ羽目になった。昭和7年(1932年)大学を中退。帰郷し写真家を志す。 一時期、松竹キネマに入社。昭和9年(1934年)岡山在住の写真家・大森一夫、山崎治雄らと県下で初の写真家集団「光ト影の会」を結成(のちの岡山県知事・長野士郎が旧制第六高等学校時代、石津に憧れ同会に入会している)。
入江 好之(いりえ よしゆき、本名:入江 好行、1907年(… 入江 好之(いりえ よしゆき、本名:入江 好行、1907年(明治40年) - 1989年(平成元年))は、日本の詩人・児童文学作家・教育者・経営者。 北海道小樽市生まれ。1928年(昭和3年)旭川師範学校(現・北海道教育大学旭川校)卒業。 在学中に詩誌「北斗星」を創刊。旧制中学校教諭]しながら、作詩活動を続け、詩誌「青光」を創刊。1936年(昭和11年)に第一詩集「あしかび」を刊行。その後官憲の弾圧を受け、教職を辞職し、1943年(昭和18年)に満州国に渡る。満州国日本人中学校の教員をしていたが、終戦。シベリア抑留を経て、1949年(昭和24年)に帰国。 1956年(昭和31年)北海道詩人協会の設立に参画し、同協会事務局長に就任( - 1976年(昭和51年))。
本部 マサ(ほんぶ マサ、1907年 - 1991年)は、宮… 本部 マサ(ほんぶ マサ、1907年 - 1991年)は、宮崎県において埴輪の複製の制作に従事し、多数の作品を残した女性。「はにわ製作の先駆者」と評される。1955年には、宮崎市に本部はにわ製作所を開業して、以降、土産物などとして販売される埴輪を多数制作した。 1963年に開園した宮崎市の平和台公園にある「はにわ園」には、本部が制作した複製の埴輪およそ400基が配置された。 本部マサは、下穂北村(後の西都市の一部)に生まれた。父親の大次郎は、林業経営の傍ら商家でもあったが、古墳の遺跡や出土品への関心をもっており、西都原古墳群の発掘調査にも関わりがあったため、マサは幼い頃から出土品に触れる機会があった。
永田 寛(ながた ひろし、1907年(明治40年) - 不明… 永田 寛(ながた ひろし、1907年(明治40年) - 不明)は、日本のホッケー選手。第10回ロサンゼルスオリンピック銀メダリスト。
佐藤 昌胤(さとう しょういん、1907年(明治40年)- … 佐藤 昌胤(さとう しょういん、1907年(明治40年)- 1970年(昭和45年)9月4日)は画家。伊勢湾台風を題材にした絵画などで知られる。三重県桑名郡長島町(現在の三重県桑名市)出身、長島町町会議員も務めた。 晩年住んだ屋敷は改修され、桑名市の情報交流施設・又木茶屋として利用されている。 1921年(大正10年)、三重県立津中学校に入学する。1924年(大正13年)、三重県立富田中学校に編入学するも、翌年退学する。同校の先輩の丹羽文雄の影響を受け、文学を志し上京した。川端画学校で油絵の修業を始め、曽宮一念の指導を受けた。1928年(昭和3年)「晩秋の丘」が帝展に入選する。1930年から春陽会に出品し、1948年に準会員として推挙され、後に会員となる。
本庄 光郎(ほんじょう こうろう、1907年 - 1995年… 本庄 光郎(ほんじょう こうろう、1907年 - 1995年6月7日)は、大阪府出身の写真家。シュルレアリスムなど前衛芸術に強く影響され、あらゆる技法を駆使したヌード作品を多く制作したことで知られる。大阪大倉商業学校(現・関西大倉高等学校)出身。
小畠 元雄(おばたけ もとお、1907年〈明治40年〉 - … 小畠 元雄(おばたけ もとお、1907年〈明治40年〉 - 2004年〈平成16年〉8月17日)は、日本の演劇学者。 大阪生まれ。神戸第一中学校(現兵庫県立神戸高等学校)卒、第六高等学校卒、1929年東京帝国大学文学部美学美術史学科卒業、同大学院入学後、1931年演劇研究のため渡米、ミネソタ大学、コロンビア大学大学院で学び、その後ヨーロッパに滞在、1934年帰国。1935年国士舘大学教授、大阪学芸大学(のち大阪教育大学)教授。1969年『演劇学の基本問題』で日本演劇学会河竹賞受賞。1970年大阪教育大学名誉教授。1978年勲三等旭日中綬章受勲。
猪野 俊平(いの しゅんぺい、1907年(明治40年) - … 猪野 俊平(いの しゅんぺい、1907年(明治40年) - 1981年(昭和56年)7月4日)は、日本の植物形態学者。愛媛県生まれ。松山中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)、松山高等学校卒、東京帝国大学理学部生物学科卒。1946年「ネジモクの胚発生について」で東北帝国大学理学博士。北海道帝国大学理学部講師、岡山大学助教授、教授。1970年定年退官、名誉教授。
正田 満三郎(しょうだ まんさぶろう 1907年 - 没年不… 正田 満三郎(しょうだ まんさぶろう 1907年 - 没年不明)は、日本の裁判官、法学者。
保田 耕(やすだ こう、1907年 - 1943年9月7日)… 保田 耕(やすだ こう、1907年 - 1943年9月7日)は、日本の眼科医。外島保養院と邑久光明園というハンセン病療養所に勤務し、初代奄美和光園園長が発令されたが、応召し、中国で戦病死した。 1907年、和歌山県で出生。 1932年。大阪大学卒業。外島保養院医員。1934年。外島保養院水害後は邑久光明園に勤務。1938年。邑久光明園医務課長。1943年4月。奄美和光園園長発令。5月27日園長保田耕ほか職員7名と家族21名が奄美大島に到着。戦争が激しく奄美島民の出迎えはなかった。1943年8月31日。応召。1943年9月7日。中国で戦死。同日 松本当太郎が奄美和光園園長心得に発令。別の文献によると、43年9月に赤紙がきた。
中森 三彌(なかもり さんや、1907年(明治40年)- 2… 中森 三彌(なかもり さんや、1907年(明治40年)- 2002年(平成14年)7月16日)は、日本の写真家である。 大阪新橋の染物屋に生まれる。関西大学専門部中退。大阪光芸倶楽部、銀影探光倶楽部を経て、1940年(昭和15年)、浪華写真倶楽部に入会。小石清、本庄光郎、花和銀吾らから指導を受ける。長く同倶楽部の幹事長や代表を務めた。中藤敦らと堺公共職業補導所写真科にて指導、なんばデザイナー学院写真科教授。サンフォトクラブを主宰する傍ら、他写真クラブを指導しアマチュア写真家の育成に携わった。他にくらぶ草土会、オール関西写真集団に属した。日赤大阪府支部写真奉仕団団長、大阪写真材料商業組合理事、全日本写真連盟関西本部顧問を務め、日本写真協会功労賞、全日本写真連盟関西本部表彰、日本赤十字社厚生大臣特別表彰など各方面から受賞。
李 錫基(イ・ソッキ、朝鮮語: 이석기、1907年または19… 李 錫基(イ・ソッキ、朝鮮語: 이석기、1907年または1908年1月2日 - 1974年6月25日または1975年6月25日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の公務員、政治家、実業家。牙山郡守、公州郡守、第4・5代大田府尹、ソウル特別市副市長、第2・3・5代韓国国会議員を歴任した。 本貫は洪川李氏。仏教徒。元国会議員の方一弘は娘婿。 忠清南道扶余郡出身。1931年京城法学専門学校卒、1939年中央大学法学部卒。弁護士試験、高等文官試験行政科合格。京畿道内務部を経て、1941年に牙山郡守、1945年に公州郡守、忠清南道地方課長、1946年に第4・5代大田府尹、1948年にソウル特別市副市長、1950年に文教部秘書室長、国会議員、1953年に国会内務委員長、以後弾劾裁判所審判官、民主党院内副総務・総務、1967年に新韓党常務委員を歴任した。
井上 真六(いのうえ しんろく、1907年 - 没年不詳)は… 井上 真六(いのうえ しんろく、1907年 - 没年不詳)は第二次大戦中の資材不足を補うため、純国産木製飛行機の製造を提唱し、キ107を開発した航空機技術者。父は李氏朝鮮顧問であり、ハングル普及に尽力したことでも知られる井上角五郎。 東京の麹町区一番町で1907年(明治40年)4月9日に生まれる。衆議院議員を長く務め、いくつもの企業設立に関わる実業家でもあった父の邸宅で育ち、兄弟一人ずつに女中が付く生活であった。東京府立第五中学校から第一高等学校へ進学。1931年(昭和6年)3月に東京大学工学部航空学科を卒業し、中島飛行機製作所へ入社した。同社では太田工場設計部技師となり、試作設計業務に従事する。
佐藤 章蔵(さとう しょうぞう、1907年〈明治40年〉 -… 佐藤 章蔵(さとう しょうぞう、1907年〈明治40年〉 - 1981年〈昭和56年〉7月12日)は日本の工業デザイナー。東京都出身。若い頃から自動車の造形美に魅せられ、第二次世界大戦前から東京の街頭で多くの名車・珍車を撮影していた。 1937年(昭和12年)に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業し、日産自動車に入社。1954年(昭和29年)に同社初代造形課課長となり、ダットサン・110/210型系(1955年発表)及びその後継車である初代ブルーバード(310型系、1959年発表)をデザインした。1956年(昭和31年)には110型の改良型である112型のデザインで毎日デザイン賞を受賞する。両車のデザインは共に虚飾が無く、シンプルで機能的なことが特徴であった。
中村 常次郎(なかむら つねじろう、1907年 - 1980… 中村 常次郎(なかむら つねじろう、1907年 - 1980年7月16日)は、日本の経営学者。東京大学名誉教授。 秋田県秋田市出身。東京帝国大学経済学部卒、1954年「経営経済学の展開」で東京大学より経済学博士の学位を取得。福島高等商業学校教授を務め、1949-1951年福島大学の初代学長、東京大学経済学部教授となり、1968年定年退官、名誉教授、中央大学教授、創価大学教授を務めた。
浜田 義一郎(はまだ ぎいちろう、1907年 - 1986年… 浜田 義一郎(はまだ ぎいちろう、1907年 - 1986年6月11日)は、日本の国文学者。近世の狂歌、川柳を研究した。 東京神田神保町生まれ。1932年、東京帝国大学国文科卒。東洋大学助教授、教授を経て、1969年、大妻女子大学教授。
吉倉 範光(よしくら のりみつ、1907年 - 1988年3… 吉倉 範光(よしくら のりみつ、1907年 - 1988年3月23日)は、日本の精神医学者。 東京出身。1933年東京慈恵会医科大学卒業、千葉医科大学講師、フランス留学、1947年「青年期「独創的危機」の精神病理学的研究」で慶応義塾大学医学博士。戦後は日本大学医学部教授。
頭山 秀三(とうやま ひでぞう 1907年 - 1952年)… 頭山 秀三(とうやま ひでぞう 1907年 - 1952年)は、日本の右翼活動家。 頭山満の三男。東京農業大学卒業。1931年に天行会を創設して会長となる。1932年に古賀清志、中村義雄から計画を打ち明けられ、五・一五事件に後援していた。児玉誉士夫らと共に暗殺計画を企てていたことから検挙され、禁固3年となる。1940年には大森曹玄らと日本主義青年会議を結成。大政翼賛会参与にもなる。1952年より街頭で演説会を行っていたが、1か月で交通事故で死去。三島由紀夫の小説のモデルにもなる。 1945年8月20日に放送のNHKの放送原稿を執筆する。そこでは日本にたった1つ不足していたことは、負けた国というのはどれほど苦しくて恥ずかしいかということを少しも知らなかったことであるとする。
宇高 勲(うだか いさお、1907年 - 1979年12月2… 宇高 勲(うだか いさお、1907年 - 1979年12月26日)は日本の実業家、プロ野球球団経営者・スカウト。 1907年(明治40年)和歌山県生まれ。父親は鉄道省勤務。早稲田大学理工科卒業。大学卒業後単身中華民国青島市に渡り、貿易業に従事した。ここで得た利益をもとに帰国後、兵庫県神戸市で貿易商を営む傍ら、大阪市で旋盤工場を経営した。この時期に戦況の激化を考慮し、兵庫県尼崎市に電線工場を購入した。1944年(昭和19年)応召。応召期間中に大阪の旋盤工場は空襲で焼失したが、尼崎の電線工場は焼け残ったため、第二次世界大戦後、自動車クラクションの製造を開始した。この自動車部品製造会社、宇高産業は成功を収め、巨額の利益をあげた。