藤野 博(ふじの ひろし、1910年6月27日 - 2005… 藤野 博(ふじの ひろし、1910年6月27日 - 2005年11月24日)は、日本の口腔外科医。専門は口唇口蓋裂治療。九州大学名誉教授。 1910年、兵庫県にて生まれる。1932年に旧制山口高等学校を卒業し、九州帝国大学医学部に進学。1937年に卒業後、第一外科学教室(赤岩八郎教授)を経て歯科学口腔外科学教室(1922年設置)に入局。初代教授・問田亮次(在任1922年 - 1943年)、第2代教授・加来素六(在任1943年 - 1954年)の後を継いで1954年に第3代教授に就任した。同教室の歯学部昇格運動に尽力し、1967年に東京医科歯科大学・大阪大学・東北大学・新潟大学・広島大学に続く6校目の国立大学歯学部設置を果たした(北海道大学と同時)。
中野 次雄(なかの つぎお、明治43年(1910年)6月27… 中野 次雄(なかの つぎお、明治43年(1910年)6月27日 - 平成11年(1999年)10月13日)は、日本の裁判官。元大阪高等裁判所長官。位階は正三位。父は東京府会議長をつとめた中野勇治郎。 東京市本所区東両国出身。 1933年11月高等試験司法科及行政科合格。1934年3月東京帝国大学法学部卒業。同年6月司法官試補 東京地方裁判所詰。1935年判事に任官。 1957年~1964年司法研修所教官。1966年~1968年最高裁判所調査官(上席)。1968年前橋地方・家庭裁判所所長。1970年東京高等裁判所判事。1973年大阪高等裁判所長官、1975年定年退官。1976年~1981年早稲田大学客員教授。
長谷川 富三郎(はせがわ とみさぶろう、1910年6月27日… 長谷川 富三郎(はせがわ とみさぶろう、1910年6月27日 - 2004年8月19日)は日本の版画家。号は無弟。棟方志功とともに民藝運動を支えた板画家である。 1910年(明治43年)に兵庫県姫路市に生まれる。1929年(昭和4年)に鳥取県師範学校を卒業し、倉吉市の明倫小学校に勤務する傍、1934年(昭和9年)に倉吉の文化団体「砂丘社」同人になり油絵を描くようになる。 そのころに吉田璋也と出会い民藝運動に参加する。そして同運動に関わっていた柳宗悦、河井寛次郎らに師事するようになり、1940年(昭和15年)より棟方志功との交友が始まる。戦後、その棟方のすすめで板画を始める。1954年(昭和29年)には、柳宗悦、濱田庄司、バーナード・リーチを明倫小学校に招いて講演会を開催した。
若月 俊一(わかつき としかず、1910年6月26日 - 2… 若月 俊一(わかつき としかず、1910年6月26日 - 2006年8月22日)は、長野県佐久市にある佐久総合病院を育て、農村医療を確立した医師(外科医)。
中島 正(なかじま ただし、1910年〈明治43年〉6月25… 中島 正(なかじま ただし、1910年〈明治43年〉6月25日 - 1996年〈平成8年〉8月22日)は、日本の海軍軍人、航空自衛官。海兵58期。最終階級は海軍中佐、空将補。 1910年6月25日、熊本県に生まれる。福岡県三池中学校入学。何度も展覧会に絵を出展するなど、最初は画家志望だったが、従兄弟に勧められて海軍兵学校(第58期)を受験。1930年11月、卒業。その後の遠洋航海では船酔いして寝込み、船乗りがこれではと海軍をやめようかと思っていたところ、帰国後の術科講習で「航空最適、甲の上」という適性検査の結果を知らされ、それ以降航空畑を歩むことになる。1932年4月、少尉。 1933年11月、海軍中尉。
千葉 泰樹(ちば やすき、1910年(明治43年)6月24日… 千葉 泰樹(ちば やすき、1910年(明治43年)6月24日 - 1985年(昭和60年)9月18日)は、日本の映画監督。 清国時代の満洲・長春出身。1928年(昭和3年)に兵庫県立神戸商業学校を卒業後、阪妻立花ユニヴァーサル聨合映画に助監督として入社。翌1929年(昭和4年)に河合映画巣鴨撮影所に移籍して、1930年(昭和5年)に『蒼白き人々』で監督デビューする。 初期は時代劇映画を多く撮り、富国映画社、台湾プロダクションを経て、日活入社。この頃から現代劇も多く手掛けるようになり、更に南旺映画に移ってスラム街に住む日本人職工と在日朝鮮人との交流を描く問題作『煉瓦女工』を手掛ける。この作品は検閲で不許可となり、更に南旺映画解体の原因ともなる(映画は終戦後の1946年(昭和21年)に公開)。
大隈 武雄(おおくま たけお、1910年6月22日 - 20… 大隈 武雄(おおくま たけお、1910年6月22日 - 2000年2月8日)は、日本の経営者。大隈鐵工所(現在のオークマ)社長を務めた。岐阜県出身。 1936年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に大隈鐵工所に入社。 取締役、常務を経て、1948年8月に副社長に就任し、1978年2月には社長に昇格。1988年6月に相談役に就任。テレビ愛知取締役も務めた。 1969年10月に藍綬褒章を受章し、1981年4月に勲三等瑞宝章を受章。 2000年2月8日心不全のために死去。89歳没。
植松 雅俊(うえまつ まさとし、1910年(明治43年)6月… 植松 雅俊(うえまつ まさとし、1910年(明治43年)6月19日 - 1958年(昭和33年)11月14日)は、昭和期の宮内官、政治家。京都府華族(子爵)。貴族院議員。正五位。 1910年(明治43年)6月、式部官・植松雅道の長男として生まれる。 1935年(昭和10年)九州帝国大学法文学部を卒業。同年以降、宮内省諸陵寮雇、同嘱託、殿掌などを務めた。 父の死去に伴い、1941年(昭和16年)7月1日、子爵を襲爵した。 1946年(昭和21年)6月28日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選した。研究会に所属し、1947年(昭和22年)5月2日まで在任した。 1958年(昭和33年)11月、死去。
二条 弼基(にじょう たねもと、1910年〈明治43年〉6月… 二条 弼基(にじょう たねもと、1910年〈明治43年〉6月19日 - 1985年〈昭和60年〉8月28日)は、日本の工学者、政治家、華族。貴族院公爵議員、工学博士。 東京府出身。男爵・二条正麿の三男として生まれ、二条家第28代当主・二条厚基の死後、相続争いが起こる中で、弼基の聡明さが認められて養子となる。 1930年(昭和5年)9月1日、公爵を襲爵。1934年(昭和9年)、東北帝国大学理学部地質科を卒業し、さらに1937年(昭和12年)に同大学工学部電気科を卒業。同年、逓信省電気試験所に入所し研究員となり、1939年(昭和14年)、逓信技師に任官。 1940年(昭和15年)6月19日、満30歳に達し貴族院公爵議員に就任し、火曜会に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
志賀 暁子(しが あきこ、1910年(明治43年)6月17日… 志賀 暁子(しが あきこ、1910年(明治43年)6月17日 - 1990年(平成2年)9月17日)は、日本の女優である。絶頂期に堕胎事件で有罪になったことで知られる。 京都府生まれ。父は高級官僚、母は牧師であり第8代同志社総長の海老名弾正の縁戚にあたる。1924年、父親の台湾総督府への赴任にともない、台北の高等女学校へ進学。ピアニスト志望の文学少女であったという。実母とは女学校2年の時に死別。長崎の活水女学校へ転校、クリスチャンになる。まもなく父は再婚した。女学校卒業後、一家で世田谷区へ転居。音楽学校への進学を希望していたが、父は反対。これには家産が傾いていた事も影響していた。 音楽学校の学費を自ら捻出すべく、家出して日本橋のユニオン・ダンスホールでダンサーとなったが、ダンスホールに来た客で、のちに彼女の愛人になった人気俳優の中野英治の推薦で1929年帝国キネマと19歳の時に映画出演契約。
谷山 茂(たにやま しげる、1910年6月17日 - 199… 谷山 茂(たにやま しげる、1910年6月17日 - 1994年11月2日)は、日本の国文学者。大阪市立大学名誉教授、京都女子大学名誉教授。1984年角川源義賞受賞。 岡山県出身。1934年京都帝国大学文学部国文科卒業。大阪市立大学助教授、教授、1972年定年退官、名誉教授、京都女子大学教授、1977年同学長。1984年『新古今集とその歌人』で角川源義賞受賞。中世和歌文学、藤原俊成・定家の研究をした。「新編国歌大観」の代表編集委員、日本学術会議会員。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
金 元圭(キム・ウォンギュ、朝鮮語: 김원규、1910年6月… 金 元圭(キム・ウォンギュ、朝鮮語: 김원규、1910年6月17日 - 1988年3月10日)は、大韓民国の実業家、政治家。第3・4代韓国国会議員。 慶尚北道盈徳郡出身。早稲田大学専門部商科卒。南鮮貿易創業者・理事社長・代表理事会長、咸興商工専修学校設立者、徳永百貨店会長、東洋醸造会長、三光興業会長、第一企業会長、咸興商工ゴム社長、東亜ゴム工業社長、興南ゴム社長、東亜炭鉱社長、再生ゴム社長、合同通信社社長・代表理事、韓国畜産物輸出組合理事長、韓国海苔輸出組合理事長、大韓商工会議所常務委員、東海水産社長、大韓蚕糸会中央会理事、自由党中央委員、国会復興委員会委員、東林水産会長、水産経済新聞社長、元洋貿易会長を務めた。
山本 達郎(やまもと たつろう、1910年〈明治43年〉6月… 山本 達郎(やまもと たつろう、1910年〈明治43年〉6月16日 - 2001年〈平成13年〉1月24日)は、日本の東洋史学者。東京大学名誉教授を務め、文化勲章も受賞。元号『平成』の名付け親である。妻は原邦造の次女・澄子(壽美子)。 東京生まれ。父は貴族院議員を務めた松村真一郎。第5代日本銀行総裁をはじめ、大蔵大臣・農商務大臣・内務大臣などを歴任した祖父・山本達雄男爵の養子となり家を継いだ。幼少期は新しい幼児教育を謳ったベラ・アーウィンの玉成(ぎょくせい)幼稚園に通い、第2回卒園児となる。 1933年(昭和8年)に東京帝大文学部東洋文学科を卒業後、東方文化学院研究員を務め、1934年(昭和9年)発表の論文「鄭和の西征」で注目される。
岩崎 一太(いわさき かずた、1910年6月16日 - 19… 岩崎 一太(いわさき かずた、1910年6月16日 - 1980年3月5日)は、日本の経営者。中国放送社長を務めた。 岡山県岡山市出身。1940年に広島県瀬戸内高等学校を卒業。中国新聞社での勤務を経て、1952年5月に中国放送に転じ、1958年1月に理事に就任し、同年2月に常勤監査役、1969年5月に常務、1972年5月に専務を経て、1973年5月には社長に就任。 1980年3月5日、閉塞性黄疸のために在任中に死去。。69歳没。
今村 源兵(いまむら げんぺい、1910年6月15日 - 1… 今村 源兵(いまむら げんぺい、1910年6月15日 - 1978年6月28日)は、東京市浅草区雷門(現:東京都台東区雷門)出身の俳優。本名は小野寺 幸男。旧芸名は今村 原兵、今村 原平、今村 源平。 専修商科学校卒業。1929年に新東京歌劇団文芸部に入る。俳優に転向し、天勝一座を経て、1934年から俳優の草間実に師事。帝国キネマ、新興演芸を経て、1939年に吉本興業に入社。1944年に「今村原兵楽劇団」を創立。1946年にムーランルージュ新宿座に入り、1951年の解散まで在籍。その後は衣笠プロ、東京俳優生活協同組合などに所属していた。 1978年6月28日、脳出血の為、東京都世田谷区駒沢の国立第二病院で死去。
清水 兵治(しみず ひょうじ、1910年6月13日 - 19… 清水 兵治(しみず ひょうじ、1910年6月13日 - 1999年7月3日)は、日本の経営者。古河鉱業(現在の古河機械金属)社長、会長を務めた。富山県出身。位階は正四位。 1935年に立教大学経済学部商学科を卒業し、同年に古河鉱業に入社。1961年5月に取締役に就任し、1963年11月に常務、1965年5月に専務を経て、1971年2月には社長に就任。1980年6月に会長に就任し、1981年6月までに務めた。 1971年10月に藍綬褒章を受章し、1985年4月に勲二等旭日重光章を受章。 1999年7月3日心不全のために死去。89歳没。死没日付をもって正四位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
影山 正治(かげやま まさはる、1910年〈明治43年〉6月… 影山 正治(かげやま まさはる、1910年〈明治43年〉6月12日 - 1979年〈昭和54年〉5月25日)は、日本の右翼活動家、思想家、歌人。 愛知県豊橋市生まれ。家は神官。父は影山庄平。豊橋中(現在の愛知県立時習館高等学校)卒、國學院大學哲学科中退、在学時代から右翼運動に入り、1931年(昭和6年)全国大日本主義同盟、日本学生連合に参加、32年生産党常任中央委員、33年神兵隊事件で検挙。36年に維新寮を結成、39年これを大東塾と改め塾長となった。40年7月皇民有志決起事件で検挙、42年禁錮5年の判決を受けたが、43年には特赦となった。44年11月応召。1946年5月帰国。54年4月3日大東塾再建。
青木 幸造(あおき こうぞう、1910年6月10日 - 没年… 青木 幸造(あおき こうぞう、1910年6月10日 - 没年不明)は、神奈川県出身の元プロ野球選手(外野手)。
光石 介太郎(みついし かいたろう、1910年 6月9日 -… 光石 介太郎(みついし かいたろう、1910年 6月9日 - 1984年2月20日)は、日本の小説家、推理作家。福岡県生まれ。『新青年』や『ぷろふいる』などの雑誌に発表した怪奇幻想ものの探偵小説で知られる。 本名は光石太郎(みついし たろう)。探偵作家としてのペンネームは、「光石介太郎」以外に、鶏山文作(とりやま ぶんさく)、雞山稲平(とりやま いなへい)がある。純文学を志してからは、青砥一二郎(あおと いちじろう)というペンネームも使用したが、晩年には光石介太郎名義を再び使用している。 1910年6月9日、福岡に生まれる。二卵性双生児であり、もう一人は女の子だった。父は鐘淵紡績(後のカネボウ)の取締役や南米拓殖株式会社の社長などを歴任した福原八郎 だが、介太郎は生まれてすぐに岡山に住む遠縁の光石家へ養子に出され、看護婦だった独身の養母のもとで育った。
大沢 一郎(大澤 一郎、おおさわ いちろう、1910年(明治… 大沢 一郎(大澤 一郎、おおさわ いちろう、1910年(明治43年)6月9日 - 1986年(昭和61年)9月12日)は、日本の検察官、弁護士。検事総長。 大阪市出身。第四高等学校を経て、1932年京都帝国大学法学部を卒業。司法官試補となり、法務省矯正局長、大阪地方検察庁検事正、最高検察庁刑事部長、法務事務次官、最高検次長検事、東京高等検察庁検事長などを歴任。 1973年2月2日、検事総長に就任。在任中、日教組ゼネスト事件、協同飼料株価不正操作事件、石油ヤミカルテル事件などを指揮した。 1975年1月25日、検事総長を勇退し退官した。その後、ロッキード事件で偽証罪に問われた小佐野賢治の弁護団に加わった。
市川 文三(いちかわ ぶんぞう、1910年6月9日 - ?)… 市川 文三(いちかわ ぶんぞう、1910年6月9日 - ?)は、日本の経営学者。 東京生まれ。1935年東京帝国大学経済学部商業学科卒、1980年「体系会計学 利潤計算の論理・機構・実践の体系的研究」で法政大学経済学博士。1938年企画院調査官となり、敗戦後退官。1957年鹿児島商科短期大学教授、1959年松商学園短期大学教授、1965年東京学芸大学教授、1969年法政大学経営学部教授。1981年定年、名古屋経済大学教授を務めた。初期に文朗の筆名を用い、後年は政治に関する評論も上梓した。
高見 寛恭(たかみ かんきょう、1910年(明治43年)6月… 高見 寛恭(たかみ かんきょう、1910年(明治43年)6月8日 - 1996年(平成8年))は、日本の真言宗の僧侶・高野山大学教授。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
松尾 泰一郎(まつお たいいちろう、1910年6月7日 - … 松尾 泰一郎(まつお たいいちろう、1910年6月7日 - 2001年12月17日)は、日本の経営者。兵庫県出身。 1935年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に通商産業省に入省し、通商局長などを歴任した。 1960年に丸紅の顧問に就任し、常務、専務を経て、1971年に副社長に就任し、1975年6月に社長に昇格した。ロッキード事件で揺れていた会社の立て直しに尽力した。1981年6月に会長に就任し、1987年6月から相談役に就任した。 2001年12月17日心不全のために死去。91歳没。
荻原 利次(おぎはら としつぐ、1910年6月6日 - 19… 荻原 利次(おぎはら としつぐ、1910年6月6日 - 1992年6月14日)は、日本の作曲家である。 大阪府に生まれる。15歳よりヴァイオリンを辻吉之助に学び、1929年(昭和4年)兵庫県甲陽中学校卒業後、日本大学国文科に籍を置くも、1933年(昭和8年)12月には中途退学した。1931年(昭和6年)から1932年(昭和7年)の間松平頼則についてピアノおよび作曲法を学び、1932年(昭和7年)自作室内楽発表会を開催後、1934年(昭和9年)には石田一郎、落合朝彦と共に独立作曲科協会を設立し、2回の発表会を行う。 1936年(昭和11年)、日本現代作曲家連盟に入会し、同年11月に上海に渡航してアレクサンドル・チェレプニンに師事して約4ヶ月間作曲法を学び、1942年(昭和17年)まで教示を受けた。
島 恭彦(しま やすひこ、1910年6月5日 - 1995年… 島 恭彦(しま やすひこ、1910年6月5日 - 1995年9月28日)は、日本の経済学者。専門は財政学。学位は、経済学博士。京都大学名誉教授。福井県敦賀市生まれ。
大橋 和孝(おおはし かずたか、1910年(明治43年)6月… 大橋 和孝(おおはし かずたか、1910年(明治43年)6月4日 - 1986年(昭和61年)7月7日)は、昭和期の医師、政治家。参議院議員、京都大橋総合病院長、医学博士。 愛知県名古屋市で生まれる。1937年(昭和12年)京都府立医科大学を卒業した。同大副手、同助手を務め、その後に開業した。 京都府保険医協会理事、京都府医師会理事、同皮フ科医会理事、同結核医会理事、同労災医会理事、同公益法人医療機関協会理事、京都市会議員などを務めた。 1964年(昭和39年)6月、京都教育大学附属桃山小学校などに書架らを寄付により1966年(昭和41年)10月19日紺綬褒章受章。 1965年(昭和40年)7月の第7回参議院議員通常選挙に京都府地方区から日本社会党公認で立候補して当選し、1971年(昭和46年)6月の第9回通常選挙でも再選され、参議院議員を連続2期務めた。
落合 正義(おちあい まさよし、1910年6月3日 - 19… 落合 正義(おちあい まさよし、1910年6月3日 - 1939年12月30日)は、日本の陸上競技選手。 現在の島根県安来市広瀬町生まれ。浪華商業学校(現在の大阪体育大学浪商中学校・高等学校)卒業、明治大学に進む。 1932年の日本陸上競技選手権大会の男子ハンマー投で優勝。1932年ロサンゼルスオリンピックに出場し、男子ハンマー投げで12位。ロス五輪で同じくハンマー投げ代表選手の長尾雄治も明治大学の学生で、古山一郎とともに「明大のハンマートリオ」と呼ばれていたという 明治大学卒業後は、名古屋市で運動公園管理者として働く。1938年9月、松江の歩兵第63連隊に入隊。日中戦争が勃発すると第110師団衛生隊陸軍上等兵として北支へ出征。
田代 不二男(たしろ ふじお、1910年6月2日 - 199… 田代 不二男(たしろ ふじお、1910年6月2日 - 1992年8月29日)は、日本の社会学・社会福祉学者。 鹿児島県出身。1933年旧制第七高等学校造士館文科卒業。東京帝国大学卒。厚生省児童局企画課で、1949年アメリカに学び、1951年の児童憲章制定に関わる。1961年「公的扶助の現状と問題点」で東北大学文学博士。1960年東北大学文学部助教授、1964年教授、1974年定年退官、名誉教授、東北福祉大学教授、1975年立正大学教授を務め、81年退職。
加藤 治郎(かとう じろう、1910年6月1日 - 1996… 加藤 治郎(かとう じろう、1910年6月1日 - 1996年11月3日)は昭和期の将棋棋士。名誉九段。棋士番号14。東京府東京市(現在の東京都港区)出身。山本樟郎八段門下。早稲田大学を卒業した、初の大学出身プロ棋士。
永宮 健夫(ながみや たけお、1910年6月1日 - 200… 永宮 健夫(ながみや たけお、1910年6月1日 - 2006年6月3日)は、日本の物理学者。大阪大学名誉教授。専門は固体物理学で、特に反強磁性体の理論の仕事は名高い。
浅野 清(あさの きよし、1910年6月1日 - 1989年… 浅野 清(あさの きよし、1910年6月1日 - 1989年3月24日)は、日本の古生物学者。愛知県名古屋市出身。 名古屋市内において、11人兄弟の末っ子として生を受ける。第八高等学校(名古屋大学教養部の前身)を卒業後、東北帝国大学理学部、東北帝国大学大学院に進んだ。大学院において、小型有孔虫に関する研究に精力的に取り組む。 1938年(昭和13年)、南洋庁熱帯研究所嘱託となり、当時日本の委任統治下にあったパラオに赴いた。翌年技師となりサンゴ礁の研究を開始したものの、その年の秋には太平洋石油株式会社に移ることとなった。同社ではメキシコの石油資源調査に携わる。1941年(昭和16年)夏には仙台に戻り、東北帝大において副手の職を得た。
他阿 一雲(たあ いちうん、本名:河野 憲善〈こうの けんぜ… 他阿 一雲(たあ いちうん、本名:河野 憲善〈こうの けんぜん〉、1910年〈明治43年〉6月 - 2004年〈平成16年〉8月26日)は、兵庫県神戸市生まれの時宗の73世法主(遊行上人)、藤沢市清浄光寺56世住職(藤沢上人)。島根大学名誉教授(専門は日本思想史)。 時宗の遊行上人は終身制であるため途中で病にかかって長期入院してしまっても代務者を立てることができなかった。このような制度により遊行上人が遷化(死亡)した後、前任に代わり法主候補者が新たに遊行上人となるのが従来の事務処理上手続きであった。 ただし、この制度には不都合な面があり、それは病などにより任務が遂行できなくなるような状態であっても遊行上人は任務を継続しなければならず、周囲の僧侶が運営する行事に停滞が発生することが問題としてあった。
福島 武二(ふくしま たけじ、1910年5月31日 - 19… 福島 武二(ふくしま たけじ、1910年5月31日 - 1971年12月1日)は、日本の銀行家。阿波銀行頭取を務めた。徳島県出身。 神戸商業大学を卒業し、1934年に阿波商業銀行(のちの阿波銀行)に入行した。 1947年に取締役に就任し、1948年に常務、1965年5月に専務を経て、1967年11月には頭取に就任。 1971年12月1日腹膜炎により死去。61歳没。
阿部保(あべ たもつ、1910年5月30日 - 2007年1… 阿部保(あべ たもつ、1910年5月30日 - 2007年1月10日)は、日本の詩人、美学者、英文学者である。北海道大学の名誉教授を務めた。 阿部保は山形県に生まれた。成蹊高等学校を経て、1933年に東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業した。その後、聖橋高等工学校講師、日本大学講師、成蹊高等学校教授、大倉経済専門学校教授、東京経済大学教授を歴任し、1951年に北海道大学文学部教授に就任、1974年に定年退官した。退官後は東京経済大学非常勤講師を務めた。 専門は美学である。旧制高校在学中より自ら詩作を行い、第3次『椎の木』同人として百田宗治に師事した。また、エドガー・アラン・ポー、ウィリアム・ブレイクなど英語詩人の研究、翻訳も行った。
北島 義彦(きたじま よしひこ、1910年〈明治43年〉5月… 北島 義彦(きたじま よしひこ、1910年〈明治43年〉5月30日 - 1959年〈昭和34年〉1月7日)は、日本の政治家。元自由民主党都議会議員。1964年東京オリンピック大会招致実行委員長。位階は正六位。勲等は勲五等。 佐賀県小城郡小城町(現・小城市)生まれ。日本大学卒業。会社顧問、北区立赤羽小学校PTA会長などを歴任した。1943年(昭和18年)3月に東京府会議員となった。同年9月の東京都議会議員選挙に当時の王子区から立候補して初当選を果たした。柔道5段。 戦後の1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙に東京1区から立候補したが落選した。落選後は翌1947年(昭和22年)から北区選挙区から民主党公認で都議に当選した。
沖ツ海 福雄(おきつうみ ふくお、1910年5月28日 - … 沖ツ海 福雄(おきつうみ ふくお、1910年5月28日 - 1933年9月30日)は、福岡県宗像郡(現:福岡県宗像市)出身で若藤部屋に所属した大相撲力士。本名は北城戸 福松(きたじょうと ふくまつ)。最高位は東関脇。 1910年5月28日に福岡県宗像郡(現:福岡県宗像市)で生まれる。千田川部屋(大坂相撲)に入門するが龍神事件で師匠が廃業したため、1924年5月場所から東京市内の若藤部屋に移籍した。当初は上ヶ汐の四股名だったが、1926年5月場所より沖ツ海と改名した。1931年1月場所で新入幕を果たすと、この年は1月と5月の東京場所で5勝6敗と負け越したが、3月場所は8勝3敗、10月場所は7勝4敗と勝ち越して番付を上げた。
渡辺 慧(わたなべ さとし、1910年5月26日 - 199… 渡辺 慧(わたなべ さとし、1910年5月26日 - 1993年10月15日)は、日本の物理学者(理論物理学)・情報科学者。 1910年、東京府生まれ。学習院中等科、東京高等学校を経て、1933年、東京帝国大学理学部物理学科を卒業する。在学中に理化学研究所で寺田寅彦の指導を受ける。1933年、フランス政府留学生として渡仏、パリでド・ブロイに師事し、熱力学の第二法則と波動力学の研究を始める。1937年、ライプツィヒに移り、ハイゼンベルクに原子核理論を師事する。同年、後にドイツ文学者でハワイ大学教授となるドロテア・ダウアーと結婚する。 1939年、第二次世界大戦の勃発とともにドイツを離れ、コペンハーゲンのボーアの許にしばらく滞在した後、同年12月に家族とともに帰国する。
辻井 市太郎(つじい いちたろう、1910年(明治43年)5… 辻井 市太郎(つじい いちたろう、1910年(明治43年)5月25日 - 1986年(昭和61年)9月20日)は、クラリネット奏者、指揮者、作曲家、編曲家であり、日本吹奏楽指導者協会会長、日本マーチングバンド指導者協会(JMBDA)(現日本マーチングバンド協会)会長、大阪市音楽団(現Osaka Shion Wind Orchestra)団長を務めた。 作曲家・音楽評論家・相愛大学名誉教授の辻井英世は長男、大阪音楽大学名誉教授で尼崎市吹奏楽団や近畿大学吹奏楽部など関西の著名なアマチュア吹奏楽団で指揮者をつとめた辻井清幸は次男。 明治43年(1910年)、京都府京都市に生まれる。京都両洋中学校でクラリネットと吹奏楽を学び、昭和3年(1928年)に卒業後、同年、大阪市音楽隊(昭和21年(1946年)大阪市音楽団に改称、現Osaka Shion Wind Orchestra)に入隊。
岩本 政敏(いわもと まさとし、1910年5月25日 - 没… 岩本 政敏(いわもと まさとし、1910年5月25日 - 没年不明)は、日本の経営者。文化放送社長、会長を務めた。東京都出身。 1933年に早稲田大学商学部を卒業。 日本放送協会での勤務を経て、1957年11月に日本教育テレビ(現在のテレビ朝日)に転じ、1960年11月に取締役に就任し、1965年に常務、1972年11月に専務を経て、1979年6月には文化放送社長に就任。1987年7月に会長を経て、1990年6月には相談役に就任。 1984年11月に勲三等旭日中綬章を受章。
吉永 孝雄(よしなが たかお、1910年5月24日 - 19… 吉永 孝雄(よしなが たかお、1910年5月24日 - 1992年10月17日)は日本の文楽研究家、教育者。大阪府出身。 旧制大阪府立生野中学校、大阪高等学校から東京帝国大学に進み、国文学を専攻。浄瑠璃の研究で文学博士。 大阪府立大手前高等学校などで国語科教諭として教壇に立ち、大阪府立勝山高等学校教頭、大阪府立清水谷高等学校校長を務めた。 その傍ら、文楽の研究に取り組み、番付、ちらしなど興行関係資料、ビデオテープ、レコード、新聞・雑誌の記事切抜、写真など多数の資料を収集。その一部は、園田学園女子大学近松研究所に「吉永孝雄文庫」として寄贈されている。 後年は羽衣学園短期大学教授、学長となり、文楽の教育に従事。
島田 賢一(しまだ けんいち、1910年5月24日 - 19… 島田 賢一(しまだ けんいち、1910年5月24日 - 1978年2月20日)は、日本の実業家。チッソ代表取締役社長として、水俣病患者との交渉にあたった。 和歌山県田辺市出身。1934年、東京商科大学(現・一橋大学)卒業。同年、日本窒素肥料(現・チッソ)入社。1949年、日本窒素肥料水俣工場総務部長。同年、日本窒素肥料営業部長。1950年、新日本窒素肥料営業部長。1952年、第二営業部長。1955年、繊維部長。1956年、ミナロン営業部長。1959年、取締役。1963年、常務取締役。1967年11月、副社長。 1971年5月26日に開かれた株主総会は一株運動との対決で大きな騒動となり、チッソは世論の厳しい批判を浴びた。
鈴木 鴻一郎(すずき こういちろう、1910年(明治43年)… 鈴木 鴻一郎(すずき こういちろう、1910年(明治43年)5月23日 - 1983年(昭和58年)4月22日)は、日本の経済学者。東京大学名誉教授、元金沢経済大学・帝京大学教授。専攻はマルクス経済学の経済理論。 宇野弘蔵の後継者。彼が宇野から継承した宇野経済学は伊藤誠によって引き継がれることになる。山口県山口町出身。 この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 経済学、ウィキプロジェクト 経済)。
小岩井 光夫(こいわい みつお、1910年(明治43年)5月… 小岩井 光夫(こいわい みつお、1910年(明治43年)5月22日 - 1959年(昭和34年)2月17日)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍少佐。 長野県出身。農業・小岩井鈴弥の三男として生れる。松本中学校から陸軍士官学校予科を経て、1934年(昭和9年)6月、陸軍士官学校(46期)を卒業し、同年10月、歩兵少尉に任官し歩兵第5連隊付となる。 その後、支那駐屯歩兵第1連隊付から、同連隊中隊長、第27師団参謀部付などを経て、1942年(昭和17年)3月、シンガポール攻略後の歩兵第41連隊第2大隊の大隊長となり、同年8月陸軍少佐に昇進した。 歩兵第41連隊第2大隊の大隊長としてポートモレスビー作戦に参戦し、ニューギニア戦線から帰還後参謀本部付を経て、1945年(昭和20年)6月、第96師団参謀となり終戦を迎えた。
守屋 時郎(もりや ときろう、1910年5月21日 - 20… 守屋 時郎(もりや ときろう、1910年5月21日 - 2001年6月4日)は、日本の経営者。大東京火災海上保険社長、会長を務めた。東京都出身。 1930年に慶應義塾大学経済学部経済学科を卒業し、同年に大東京火災海上保険に入社。1956年6月に取締役に就任し、1957年6月に常務を経て、1960年6月に副社長に就任し、1962年6月には社長に昇格。1970年6月に会長に就任し、1975年6月から1979年7月までに常任監査役を務めた。 1971年10月に藍綬褒章を受章し、1978年4月に勲四等旭日小綬章を受章。 2001年6月4日胃癌のために死去。91歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
大隈 信幸(おおくま のぶゆき、1910年5月20日 - 2… 大隈 信幸(おおくま のぶゆき、1910年5月20日 - 2004年2月28日)は、日本の政治家、外交官、華族(侯爵)。 貴族院議員、参議院議員(1期)、コロンビア駐箚特命全権大使、ガーナ駐箚特命全権大使などを歴任した。 東京帝国大学の経済学部に入学し、1935年に卒業した。1947年、父である大隈信常の死去にともない、爵位を襲爵し侯爵となった。 1947年2月に貴族院議員に就任したが、日本国憲法施行により貴族院が廃止されたため、3か月弱で貴族院議員としての地位を失った。また、同年4月に行われた第1回参議院議員通常選挙に全国区から立候補し、当選を果たした。参議院では民主クラブに所属した。任期満了まで2か月あまりを残し、1953年4月に議員を辞職した。
岡田 豊日(おかだ とよひ、1910年(明治43年)5月20… 岡田 豊日(おかだ とよひ、1910年(明治43年)5月20日 - 2000年(平成12年)1月27日)は、日本の昆虫学者。東京都立大学名誉教授、日本昆虫学会名誉会員、日本動物分類学会名誉会員。 日本のショウジョウバエ科昆虫の分類学的研究を進めたことで知られる。父は英文学者の岡田哲蔵、息子は地質学者の岡田昭明。 1910年5月20日、東京府麻布区笄町(現:東京都港区麻布)に生まれた。 1933年、東京帝国大学(現:東京大学)理学部動物学科に進学。丘英通に師事し、双翅目昆虫の形態学を研究。卒業後東京市水道局、日本大学第三中学校教諭を経て、東京帝国大学農学部の副手に着任。 第二次世界大戦時に台北に移り、台北帝国大学医学部助手、台湾省立衛生試験所顧問を歴任しながら研究活動を行った。
国弘 員人(くにひろ かずひと、1910年5月20日 - 2… 国弘 員人(くにひろ かずひと、1910年5月20日 - 2002年以前)は、日本の経営学者。 山口県柳井市生まれ。1934年東京商科大学卒業。増地庸治郎の指導を受けた。1940年東京外国語学校教授、1952年旧・東京都立大学教授、1961年東北大学経済学部教授、1961年「収支分岐点」で東北大学経済学博士。1974年定年退官、名誉教授、専修大学教授。81年退職。
受田 新吉(うけだ しんきち、1910年5月18日 - 19… 受田 新吉(うけだ しんきち、1910年5月18日 - 1979年9月21日)は、昭和期の政治家。位階は正三位、勲等は勲一等。衆議院議員(12期)。 山口県大島郡大島町(現周防大島町)出身。日本大学法科卒業。青年学校長、中学校校長、山口県教職員組合副委員長を経て政界入り。無所属、日本社会党(左右分裂時は右派社会党)を経て民社党結成に参加し、党中央執行委員や国会議員団長を務めた。 1963年8月、大島町公民館建設資金として10万円寄付により1964年4月18日紺綬褒章受章。 1979年、体調を崩し、声が出なくなる病に倒れたため引退を表明し、後継者に受田の元秘書で山口県議会議員の部谷孝之を指名。同年9月21日、肺癌のため茨城県新治郡桜村の筑波大学附属病院で死去した。
東伏見 慈洽(ひがしふしみ じごう、1910年〈明治43年〉… 東伏見 慈洽(ひがしふしみ じごう、1910年〈明治43年〉5月16日 - 2014年〈平成26年〉1月1日)は、日本の僧侶。旧皇族。旧華族。久邇宮邦彦王の第3王子。旧名邦英王(くにひでおう)。香淳皇后の弟。第125代天皇・明仁(上皇)は甥、第126代天皇・徳仁(今上天皇)は大甥にあたる。妻は伯爵・亀井茲常の次女・東伏見保子。元衆議院議員・亀井久興は妻の甥。後述の経緯により1931年に皇族の身分ではなくなったが、皇族出身者としては記録に残る限りで一番長寿であった人物である(死去時点で103歳7か月16日、37851日)。 1910年(明治43年)、久邇宮邦彦王の第三男子として誕生。東伏見宮依仁親王・同妃周子より実子のように可愛がられており、子女がなかった同夫妻は、邦彦王と相談の上、当時9歳であった邦英王を東伏見宮に永く預かりの形で迎えることとなり、邦英王は、1919年(大正8年)10月26日の吉辰を卜して東伏見宮邸に移った。
近盛 晴嘉(ちかもり はるよし、1910年5月16日 - ?… 近盛 晴嘉(ちかもり はるよし、1910年5月16日 - ?)は、日本のジャーナリスト、歴史家。 兵庫県出身。早稲田大学政治経済学部卒。大阪毎日新聞記者をへて、大阪読売新聞社勤務。1965年定年退職、帝塚山学院短期大学教授を務め、78年定年退職。ジョセフ彦記念会会長を務めた。